鶴の丸跡
左の建物は平成29年(2017年)に新設された鶴の丸休憩館。以前にも簡易な休憩所があったのですが老朽化で建て直されました。
東側が入口になりますが西側は全面ガラス張りで、橋爪門・続櫓から五十間長屋・菱櫓を一望できます。館内には金沢城の発掘調査結果の展示、カフェレスト「豆皿茶屋」で九谷焼や山中塗りの器や皿で食事やお茶が楽しめます。館外には石垣や土塀の構造展示などが見られます。
鶴の丸広場(鶴の丸休憩館からの眺望) 復元された橋爪門・続櫓・五十間長屋・菱櫓が一望できる絶好スポット。鶴丸御殿はこの広場になるのではないかと考察されます。以前は近代に造られた泉水の庭園になっていましたが、休憩館が出来てイベント広場に替わっています。
延宝年間(1673~1681年)の金沢城図(下が北・上が南)
濃紺の丸点は井戸で鶴の丸には五カ所もあり、これは他の丸や郭よりも非常に多いものです。三の丸は新丸から河北門を抜けて来る大手道、石川門からの搦手道が合流する処で、三の丸から内堀の橋を渡って橋爪門から入城するのが正式な経路でした。
東の丸・本丸から下りて来た広場が鶴の丸になります。金沢城初期には三の丸の一部もしくは丘陵の一部だったと思われます。内堀が整備されてからは隔絶した広場として、庭園の要素が強く歴代藩主が植えたと伝わる各種の木々が植樹されています。
鶴の丸から東の丸
於松の方は築城当時から江戸に行くまで東の丸に在住でした
鶴の丸の名の由来は、芳春院(利家正室・於松)が東の丸在住中に、東の丸直下の郭に鶴が舞い降りるのを見て「前田家が長く栄えていく瑞祥である」として、この郭を鶴の丸と名付けたと云われています。
但し、前田利家には出典は忘れましたが鶴にまつわる有名な話があって、、安土城で織田信長主宰の宴会の席、そのメインディッシュが鶴の吸い物。当時でも祝いの席の珍重なものとされていたようで、後年の徳川家康が好物とし、徳川家光が家臣に振舞った際の大久保彦左衛門の逸話も有名ですね。。
いつになく上機嫌の信長は宴席上で「稲生の合戦の時(弘治2年(1556年))、お犬は16.7のガキだったが勇将・宮井(大原?)勘兵衛を討ち取った。宮井の首をわしが馬上で掲げて「犬千代が宮井(大原?)勘兵衛を討ち取る殊勲を挙げた!!皆も負けずに励め!!」と叫んだら、少数の味方で倍以上の敵勢を打ち破った。わしが今あるのもこやつのおかげよ^^」と、利家を褒め上げました。信長が家臣を褒め上げるなど滅多にない出来事で、諸将が「又左殿、さすがですなあ。信長さまがあんなに褒めるなど、驚天動地ですよ。」「わしもあやかりたいなア。」などとみんなが次々に利家の前に来て「又左殿、目出度い引き出物は貴公のものだ。わしの分も食ってくれ」と続けざまに差し出されました。断ることもできずに差し出された椀を全て食してしまった利家君。食べなれない物を大量に食してしまい、お腹がビックラコで壊し、晩には七転八倒。。
それにはさすがに参ったようで、利家は以降、鶴の吸い物を見ただけで腹が痛くなったそうで、後年、宴席で美味しそうに食べる徳川家康と苦虫を噛み潰したような顔の利家は並べて比べられ、太閤・秀吉に笑われ揶揄われたと云われています。
これは有名な話で、於松さんが知らないわけはなく、前田家にとっては奇瑞・瑞祥どころか、不吉の前兆かも。。どうも、どちらかが後年の作り話かも。。
右の平屋が鶴の丸休憩館。鶴の丸が石川門や河北門から入ってくる人には矢倉土塀で隔絶されているのが解ります。ちなみに矢倉土塀に小門が付属していますが、江戸初中期は同位置に物見櫓が建てられていました。宝暦の大火後の再建では櫓を造営せず、装飾として飾り門を設置しています。開けて通ったら石垣下にドスンか、内堀にドボンです。まさに飾り門^^;
鶴の丸が整備されたのは前田利長の藩主末期から前田利常への政権交代期だと推測されています。金沢城が本丸中心の利家時代には金沢城への経路は、甚右衛門坂や黒門坂からの道と石川門の土橋から河北門を経由して極楽橋で前述の道と合流するもので、鶴の丸は本丸山頂の斜面だったのではないかと想像されます。鶴の丸が史上に現れたのは前田利長時代。本丸が政庁時代、別邸(便殿(休息所))として御殿を造営したと云われています。
百間堀と面して同高度にあることから、水の手門が示すように水汲み場もあり、水の気も豊富で金沢城内でも井戸跡が一番多くあったようです。
金沢城鶴の丸 井戸外枠 鶴の丸には水の手門外を含めて5個以上の井戸があったようです。
慶長10年(1605年)前田利長(43歳)は異母弟で養嗣子・前田利常(11歳)に藩主を譲って隠居しています。利長は越中新川郡22万石を隠居領、富山城を隠居城として移り、慶長14年(1609年)富山城が焼失し魚津城に移り、更に高岡城を築城して隠居城として移っています。利長は高岡に移って慶長19年(1614年)5月に亡くなっています。
藩主交代が行われたとはいえ、新藩主が幼く、家督譲渡にも芳春院・義兄弟の反対派が存在し、家臣団の中でも尾張以来の家臣団、旧越前以降の家臣団、能登・越中領有以降の家臣団、更には高山右近、宇喜多(浮田)休閑・本多政重などの旧宇喜多家家臣団など、対幕府への方針も相まって斬り合いにまで発展した多種の派閥抗争が起こっており、前田利長が大御所として利常を後見していました。当然ながら、利長は隠居城があるとはいえ、初期には金沢城を頻繁に訪れ滞在することになります。
当時の政庁は本丸でしたが藩主御殿も本丸(東の丸も)にありました。本丸御殿は藩主の居場所ですから、隠居の利長の居場所はなくこの為に鶴の丸別邸に利長専用の御殿として増築が施されて鶴の丸御殿と呼ばれることになります。ちなみに派閥抗争の一方の雄だった太田良知(大聖寺城主、於松の姉の子、利長の従兄弟)が、利長の命令で斬られた暗殺事件の事件現場も鶴の丸御殿だったと云われています。
晩年、病が重篤となった前田利長は慶長16年(1611年)には高岡で危篤状態に陥り、隠居領10万石を本藩に返納、遺言状を残すほどでした。本復したものの高岡城から動けず慶長19年(1614年)に死去。長らく主無き御殿と庭園になっていました。利長死去後、正室・玉泉院(永姫)は金沢城に戻ったものの、玉泉院丸に別邸を設けて隠棲していました。晩年、金沢城内でも閑静で水手に優れていたこともあって、病気時にはこの別邸で療養生活を過ごし、元和9年(1623年)夫・利長の建てた鶴の丸御殿で亡くなったと伝わります。
寛永8年(1631年)寛永の大火によって利長が造営した鶴の丸御殿は焼失していますが、寛永11年(1634年)に樹正院(豪姫・前田利家四女)が鶴丸御殿で病気療養後亡くなった記録があり、大火後すぐに再建されていたことが窺われます。しかし延宝年間(1673~1681年)の絵図にはそれらしき御殿は記されていません。
ちなみに鶴の丸の命名者と伝承される芳春院(利家正室・於松)は、江戸に行く(慶長5年(1600年))前は前述の様に東の丸に在住でしたが、慶長19年(1614年)帰国した後は二の丸西奥に過ごし、元和3年(1617年)71歳で当地で亡くなったと云われています。芳春院が住んだ地は長らく芳春院丸と呼ばれていましたが、寛永の大火後に、二の丸御殿造営で二の丸の一部となり奥向、数寄屋敷南の場所がその跡地となります。。
内堀(菱櫓)からの風景 中央の続櫓横の門が橋爪門への入口御門。横に伸びるのが内堀に面した鶴の丸の外壁土塀になります。小門がありますが江戸初中期は物見櫓が同位置にあり、宝暦の大火後には櫓は再建されず飾り門が置かれました。
休憩館があるものの、鶴の丸の魅力は外殻の矢倉土塀にあります。金沢城の櫓・矢倉や長屋はもちろん、堀や通路には独特の海鼠(なまこ)壁の意匠が施された土塀が連なっていました。この独特の海鼠壁は美しく、訪れた人に城の威容と美しさを見せつけています。
鶴の丸東面 水の手門付近
矢倉土塀
金沢城初期には水の手門は金沢城東南面・南面への馬出し口となっていました。初中期以降は百閒堀側に井戸があり、水汲みの門になっていたようです。
鶴の丸は東面は百閒堀の高石垣上の土塀、北面には内堀沿い土塀、西面には橋爪門までの通路として土塀が配されていました。その全てが外側が表として海鼠塀が配されていたわけです。逆に言えば、鶴の丸側はすべて土塀の裏側に面していたことになります。裏側を見ると様相は全く変わります。遠めに規則正しい幅で施された支えの柱が目立ちますが、その間には鉄砲狭間があることが解ります。
東面矢倉土塀の門 石川門と丑寅櫓にかけては長大な矢倉土塀になっていますが、初期には中間点に隅櫓が存在しました。いつからか廃されてしまい、代わりに置かれたのが向背を持つ立派な門でした。しかし、一種の飾り門で、使用されることは、ほとんどなく、開かずの門となっていたようです。
実は海鼠塀の四角の枠には幾つかは空洞で同色の瓦を張り付けていたのです。いざ、戦闘時になるとこの瓦を突き破って鉄砲狭間の銃眼になるという仕掛けでした。ほとんどが遠距離射撃で狙撃用。単なる意匠だと油断するととんでもないというわけです。
鶴の丸広場 矢倉土塀の構造展示 下部の四角枡の穴が鉄砲狭間、木組の土塀内には石が入れられ、土壁・漆喰・海鼠塗と多重構造の頑強な造りです。
三十間長屋 中央の入母屋造出窓 左右の海鼠壁に鉄砲狭間の銃眼が開いています。
鶴の丸には石垣の造形展示もありますが、是非見ておいて欲しいのが、地味ですが、土塀の構造展示になります。金沢城に訪れた方は独特の海鼠壁に見とれる人が多いのですが、裏側や中味がこんなことになっているとは思わないでしょうね。ちなみに城内の長屋・櫓でも海鼠壁には同じような仕掛けが施されていました。三十間長屋も近寄って見ると、表側からでも、蓋がされた鉄砲狭間があるのが解ります。
この実践的な裏側も離れてみると、支え柱が規則正しく並んでいて表側の海鼠塀の造形美とはまた違う、裏側の美が堪能できます。
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三十間長屋から玉泉院丸庭園 冬枯れと雨に濡れる庭園も風情がありますね。
前に安政5年(1858年)に建造された本丸付け段にある三十間長屋を紹介しましたが、その時には表側や石垣のアップをお見せできなかったので、2月初旬に再訪した際に立ち寄ってきました。今回は久しぶりに申酉櫓下から薪の丸経由で登りました。前回紹介した時は天気が良かったのですが、この時は冷たい雨ふりで、全く天候と季節に違いがありますがご容赦ください。
中央の切り株辺りから薪の丸にかけての石垣は寛永期(1624年~)に文禄・慶長期の高石垣に継ぎ足して増築された石垣群になります。
中:薪の丸南東面
奥の階段は三十間長屋への通用口、往時は石段だったと云われます。
右:薪の丸東面石垣
江戸初中期には石垣の更に上部に独立した大型の櫓がありました。
上:薪の丸跡中心部
中:薪の丸北部 通路を上に行くと、いもり坂に出ます。
右:三十間長屋・本丸の通用路
薪の丸は慶長6年(1601年)前田利常の正室・珠姫が徳川家から輿入れした際に、珠姫の御付による本丸御殿の人員増加に対処するために新設された郭になります。名前の通り、薪などの燃料を中心にした燃料庫でもありました。本丸から二の丸に政庁・御殿が移っても薪の丸は長く存続していたようです。二の丸の勝手口が極楽橋に面して造られたのは、本丸や薪の丸の蔵機能に依るものと思われます。
また、薪の丸への通用路は三十間長屋の南奥側に隠されたようにあります。金沢城落城の際には本丸・二の丸からの脱出路だったとも考えられます。
三十間長屋 南面
両端になる切り妻の壁面デザインが違うのが解ります。三十間長屋には付属の続き櫓が時代によって接続されていました。北側の土台石垣は切られていますし、初期は北側に、中期から宝暦までは南側に接続していたと云われています。安政の再建では続き櫓を再建しなかったために、両端でデザインが変わっています。
三十間長屋西面
この西面が表面になります。本来、多聞櫓は防御施設ですから、隠し窓はあっても出窓は必要ありませんでした。と、いうよりも邪魔になるし弱点にもつながります。玉泉院丸庭園からの借景となる建物としての見た目を優先していて、中央に入母屋造屋根のせり出し部と窓を設け、左右に唐破風出窓を設けています。下段石垣には金場取残積+鶴目積という装飾優先の石垣積みを使用しています。正面から全体画像を撮りたかったんですが魚眼やパノラマがないんで、、これ以上下がると柵を越えて崖をスッテンコロリン^^;
三十間長屋 土台石垣
鶴目積+色短冊+金場取残積。色々な石材を組み合わせているのが解ります。加賀藩に観られる色を幾何学に並べる伝統技法(色短冊)。
石材の接合面を鑿(のみ)で削って隙間なく積む鶴目積(俵口積)。本来は表面は鑿などで削って磨き、滑らかな光沢を持たせますが、わざと加工せずに荒い石材本来の表面を残しています。かわりに石の接合面に沿って鑿一本分ずつを削り彫っています。離れてみると下記画像の様に色が自然のままで際立って見える効果を狙っています(金場取残積)。上画像が乾いている時、下画像は雨で濡れた時。
三十間長屋は13代藩主・前田斉泰(なりやす)が築造させたものですが、築造の安政5年(1858年)は次期藩主・前田義寧(よしやす)が正四位上に昇官し藩主資格を持った年でした。藩主交代の時期を考えていたと見られます。
斉泰は自身の隠居御殿となる金谷御殿を大増築、隣接する玉泉院丸庭園に傘亭や段落ちの滝を造り、庭園の借景となる三十間長屋を再建しています。三十間長屋は金谷御殿からも眺められる建物で、造形には前代を踏襲していますが所々に意匠を凝らしています。
旅行日2020.11.18 / 2021.02.07
この記事へのコメント
がにちゃん
綺麗ですね こんなおしゃれな石垣始めてみました
鶴食べてお腹壊した利家さん
人柄が判るような話ですね
鶴が吉か凶か・・・本当はどちらなのでしょうね
金沢城へ行く折になつとつとさんのブログを冊子にして持っていかねば
ボチボチ緊急・・・も解除の方向
無くならないコロナでしょうが、気を付けながら早く旅したいものですね
つとつと
庭園の借景だけのために、これだけ細かい装飾をしたんですから、前田斎泰の個人趣味はやはり父親の血のなせる業としか言いようがありませんが、後世に残って僕たちの眼に触れるとやはり素晴らしい文化財ですね^^本丸の辺りは観光客も少ないけれど、見どころ満点でお薦めです。ちょっと勾配ののぼりおりがありますが、意外にお薦めのスポットです。
利家さんのお話有名ですから、やはり凶でしょうね^^;そうそう今年、石川に久しぶりにタンチョウが飛来して話題になってました。
各地区で減ってきているのに、石川だけは増えていて困惑しています。先日もお客さんの所で発生><確実に身近に近づいているみたい>< 消毒に体温。。昨年は消毒のし過ぎで指紋が消えたし、平熱が高いお子様体質なんで体温測るたびにドキドキ>< また悪夢の季節になってきました。
ゆらり人
どれも綺麗に撮れて隅々まで楽しみました。
鉄砲狭間や多分矢を射る穴なんでしょうね、三十間長屋も、にこんなに奇麗で規則正しいい造りに見入りましたよ。
でも、これだけの石の色がよく集めましたね、どれだけの資材に金が掛かっているのでしょうね。
流石、加賀藩と言うべきか・・。
tor
私は兼六園側から石川門?見ただけなので
これは見どころ満載で楽しみです。
見せる工夫もあり
海鼠壁や石垣も美しいですね。
つとつと
基本的には全て標的が遠距離になる配置なので、鉄砲狭間の銃眼になるようで狙撃が中心だったようです。
三十間長屋は場所も観光スポットから外れた場所なんですが、玉泉丸庭園の借景になる建物で、凝りに凝った造りになったようです。色違いの石を組み合わせるのは三代・利常以来の伝統になっているようです。
石川県内には加賀藩の構築された建物に使われた石は赤戸室石・上司のみの使用の青戸室石・殿様にしか許されなかった黒の坪野石・小松で産出した緑の鵜川石・灰黒の越中御影石・乳白の越前足羽の笏谷石が多用されています。笏谷石を除けば自国の石材ですがそれでも運送や河口に相当の予算を使っていたようです。
つとつと
まだ金沢城が金沢大学時代は一般客や観光客は石川門までしか入れませんでした。たぶん金沢や石川県人もほとんどがここ10数年になってから内部を見ていると思いますよ。
ぼくも、大学にこそこそと入って巡ったのが数えるほどでした。今は心置きなく歩けますから、金沢に来られたら是非金沢城内を歩いてみてください。ただ、あまりのだだっ広さに呆れると思いますが。。ですから整備はまだまだ続くことになると思います。
yasuhiko
素敵なカフェレストランがあるんですね。
ここの事は頭の隅にメモしておこうと思いました。
三十間長屋、堂々とした見事な建物だと
感心します。土台石垣の洗練された色遣いの
美意識には、目を見張らされました。
鉄砲狭間を隠す実践的な仕掛けも面白いですね。
つとつと
景観はお薦めのレストハウスです。広い金沢城内の中で唯一の飲食店ですから貴重な存在です。九谷焼や山中塗りの器で食べる食事もなかなか良いと思いますよ^^
兼六園もはじっこに飲食店があるくらいで、景観を楽しみながらお茶や食事というのは、金沢観光のの課題の一つかもしれません。
鉄砲狭間を間近で裏側から観られるのは数少なく、貴重な体験になると思いますよ^^
ミクミティ
その名前がユニークで素敵ですが、その名前の由来は芳春院なのか。
いずれにしても女性が絡んでいたような気がします。
更に、多くの井戸や飾り門や矢倉土塀の存在も独特と思います。
優雅な装飾美と実践的な防御を兼ね備えた工夫も感じられます。
また、三十間長屋の石垣に見られる色短冊も実に粋でお洒落なものだと思います。
さすが、大大名前田家の本城ですね。
つとつと
鶴の丸の眺望、県外にも知られていたんですねえ。地元にいると意外な盲点かもしれませんね。於松さんが鶴を観たのは多く伝わっているので、命名の由来はそうだと思います。やはり女性的な感じを受けますから。。久しぶりに鶴の丸に来たんですが、泉水の庭園が消えていて驚きました^^;
金沢城の建物は宝暦の大火ですべて燃え落ちたので、そこから四代をかけて再建されているんですが、文化や趣味に固執した斉広・斉泰親子の見栄と固執の賜物です。財政のひっ迫に輪を掛けましたが、文化や芸術として残した功績があったのは確かです。
アルクノ
鶴の丸広場にある丸いものは郷土品の陶器ですか?
遊具ではなく設置物ですね。
昔話は、ちょっと腹壊したが、七転八倒の話になるので、
腹八分目
私も注目を得るのに、誇張したお話をしてます
井戸跡が多いという事は、近くの山からの伏流水が多く流れている訳ですね。
城内に畑と水があれば生き延びていけるので、これば大事な事です。
これを海鼠(なまこ)壁っていうんですね。
独特の雰囲気で美的感覚も備わっています。
三十間長屋も芸術品と思えるスタイルで、見応えあります。
土台石垣のカラフルさは現代建築にも応用できそうです。
いいものを見せて頂きました。
つとつと
広場にあるのは和紙を使った雪洞です。夜にライトアップに使われています。金沢城公園と兼六園は期間でライトアップを行われているんですが、11月は雪洞を使ってライトアップしていました。冬場も玉泉院丸や兼六園が雪つりのライトアップを行っています。夜のライトアップは幻想的ですよ^^
もちろん湧水もあるんですが、百閒堀に面しているのと兼六園から辰巳用水の水道が三の丸や鶴の丸に流されていました。それらが水源になっていたようです。
海鼠壁は白漆喰と黒隅柱と共に金沢城の構築物の基本色になっています。独特の配色です。三十間長屋や玉泉院丸に使われた短冊積は、創始は前田利常が小松城の天守石垣西よしたのが創始とされています。独特の加賀前田家の配色でなかなか面白いセンスだと思います。
家ニスタ
石垣の防御力にまったく関係のないところに、これだけ手間をかけて美観をたもつことに、執念を感じますね。
やはり加賀の「美」にたいするこだわりには、相当なものがあったのでしょうか?
つとつと
色短冊は3代利常以来の伝統ですし、金場取残積は12.13代斉広・斉泰が好んで用いています。石川門の一部にもみられます。金沢城は石垣は堅固な造りですが、ところどころに防御を度外視した美観を重視した城だと解ります。建物の方も隅柱は木材で可燃物の為に、通常は壁に塗り込んだり内側に隠すんですが、金沢城では黒く塗って表に出してアクセントにしています。云われるように美や趣きに対する執念は金沢や加賀の伝統美への執念ですね。