10代前田重教(七男)~11代前田治脩(十男)

石川門 表門・続櫓 宝暦9年(1759年)宝暦の大火によって石川門も焼失していました。再建は案内では天明8年(1788年)となっています。しかし、正確には明和2年(1765年)の石垣の修復が手掛けられ、櫓などの構築物が天明8年に完成しています。金沢の城下町の9割を焼いた大火からの復興は限られた予算によって30年近い歳月が掛かっています。これには二人の兄弟藩主の地と涙の努力が表されています。 宝暦9年(1759年)宝暦の大火で金沢城が全焼した際に石川門も焼失し、明和2年(1765年)に10代藩主・前田重教(しげみち)によって石垣が補修されています。予算の調達や城下町や産業の復興が優先されたこともあり、櫓などの建物は天明8年(1788年)11代藩主・前田治脩(はるなが)によって再建されています。ちなみに加賀藩主の7代から11代は兄弟が藩主を繋いできましたが、治脩はその最後の兄弟藩主になります。ここからは、本来ならば家臣の婿養子になったり、仏門で人生を過ごすはずだったのに、運命の変転で、苦労に苦労を重ねて石川門を再建した二人の兄弟藩主について。。六代藩主・前田吉徳の野田山墓所 加賀騒動の主役・大槻伝蔵を抜擢して藩主独裁による急進改革・経済改革に着手しました。それなりの成果を挙げつつあった中で逝去。彼の死と共に守旧派の巻き返しによって政策は頓挫しています。死後に、藩主独裁が頓挫するかもとは予測できても、自分の後継が長男から十男まで続くなどとは想像もつかなかったでしょう。大槻伝蔵朝元の墓所(妙成寺)200…

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金沢城 石川門・石川櫓

金沢城 石川門 表門(高麗門)・太鼓塀 石川門は金沢城の搦手門として江戸期は金沢城の第二の門でした。明治以降、そして金沢大学時代、そして現在は兼六園側からの入口として、誰にも金沢城の正門として認識されてきました。この日もここだけは観光客が多く、密になるので早々に退却。。画像が少なくて申し訳ありません。石川門は表門・多聞櫓・渡り櫓・続櫓・菱櫓・太鼓塀から構成された枡形門の総称になります。画像の門は表門で高麗門の形式で、左右(南北)に太鼓塀を有しています。 金沢城石川門 表門・表門北方太鼓塀・表門南方太鼓塀・櫓門・続櫓・櫓・附属左方太鼓塀・附属右方太鼓塀(8棟)天明8年(1788年)再建 重要文化財 昭和25年(1950年)8月29日指定 金沢城公園の入口となっている石川門は、金沢城の時代は搦手の門で、石川郡の方を向いていたので「石川門」と称した。型式的には桝型門で、表門・多聞櫓・渡り櫓・菱櫓・太鼓塀から構成され、その全体を石川門といっている。石垣の上の、腰に海鼠壁を付けた白壁に、鉛瓦のにぶく光るその姿は、周辺の樹木と相映じて四季を通じて美しい。前田利家の入城以来整えられた金沢城は、宝暦9年(1759)の大火で全焼し、その後、天明8年(1788)に至って、ようやく再建された。寛政11年(1799)の大地震で損傷を受けており、文化11年(1814)に櫓を解体修理している。その後も修理を重ねながら、昭和28年(1953)から同34年(1959)にかけて大修理が行われ、現在の姿となった。 (石川県HPよ…

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