歌占の滝

能楽というのは明治以降の言葉で、能・狂言・式三番を合わせたものになります。能楽で声楽(台詞・言葉)を指すのが謡曲で能楽の台本ともいえます。江戸期以前は謡(うたい)と呼ばれていました。

は声楽と呼ばれるように台詞と地の文(語り手、語り部)で構成されますが、そのほとんどが古文・古歌・古詩から引用され、修辞法を繰り返す和文体で表現され、抑揚をつけた独特の謡になっています。。
現在受け継がれているは、発祥は飛鳥の伎楽とも奈良の散楽とも云われますが、そのほとんどが江戸期以前のものになります。その数は廃版・不明を合わせて2千以上になるとも云われ、作者まで解っているのはその2.3割に満たないと云われています。
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当初のは自作自演が本筋とされていましたが、芸術にまで引き上げたのが、その2.3割に当たる観阿弥(清次)・世阿弥(元清)・観世元雅の三代と、世阿弥を看取ったと云われる娘婿の金春禅竹(竹田氏信、金春大夫)。
観世大夫(三代目)を継いだ音阿弥(観世元重、世阿弥の甥、養子)が金春禅竹・金春流と共に幕府と結びついて芸術として観世流を大成したと云えます。これらの作品群が安土桃山時代から江戸期にかけて多くの謡を修めた謡本が発表されて受け継がれてきました。
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歌占(うたうら)」は、観世元雅の作と云われています。観世元雅は世阿弥の長男で20代で二代目・観世大夫を譲られています。世阿弥をして「子ながらも類なき達人」「祖父(観阿弥)にも越えたる堪能」と絶賛されています。彼が長生きしていれば、能は違った発展を遂げただろうと云われています。しかし、6代将軍・足利義教の迫害を受けて流浪の末、30代で伊勢安濃津で客死・急死しています。一説では南朝への加担者として暗殺されたとも云われています。
世阿弥も後継者を失って失意のどん底に追い打ちをかけられるように、翌年、足利義教によって佐渡に流刑となっています。義教の死後に大徳寺・一休宗純の尽力で赦免、帰洛し数年後に亡くなり大徳寺に葬られているそうですが、帰洛後の消息は不明です。元雅・世阿弥亡き後は、音阿弥観世大夫を継承し観世流を大成していきます。
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ちなみに、足利義教の寵愛を受けて世阿弥親子の地位を奪ったとして陰口を言われる音阿弥ですが、世阿弥流罪後に彼も義教の逆鱗に触れて、幕府出入りを禁じられ進退窮まったことがあります。それをとりなして10日余りで、義教の赦免を取り付けてくれたのが赤松満祐でした。
音阿弥にとって足利義教は我儘なスポンサー、赤松満祐は大恩人だったわけです。嘉吉の乱で、スポンサー・足利義教を大恩人・赤松満祐が暗殺した瞬間、まさにその時、現場の舞台上では音阿弥が「鵜羽(うのは)」を舞っている真最中でした。スポンサーと恩人を同時に失った音阿弥は、幕府出入りを廃され、市井で勧進能を行う生活になっています。その後、足利義政に見いだされるまで下積みの苦労をしています。

音阿弥の観世流が繁栄する中、成人した元雅の子・十郎が観世流から半独立の越智観世家(観世十郎大夫家)を起こしますが、観世元雅を祖と称し、観世家以上に世阿弥や元雅の伝書や謡本を継承していましたが、十郎の子の代で断絶。観世家(6代)から養子が入って、三代・十郎大夫を継ぎ、駿河で今川氏の人質だった徳川家康の能の師となっています。意外に知られていないのですが、徳川家康は越智観世家の継承者でもあったわけです。十郎太夫は彼の代でまたしても断絶しますが、十郎大夫から徳川家康に越智観世家の認可状と伝書が渡り、家康から観世宗家に世阿弥や元雅の伝書の多くが形見分けとして渡されていて、観世流が桃山期から江戸幕府・将軍家の謡初め・式楽となって後世へと繋がるきっかけとなっています。後に江戸幕府の式楽の両翼になる宝生流が加わるのは5代将軍・綱吉からになります。
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謡曲「歌占」と「歌占滝」 (案内板より)
謡曲「歌占」は、加賀の国白山の麓の話である。
この滝の上に住吉宮があった。そこに歌で占う神官がいて、里人の間では”よく当たる”と評判だった。ある時この地へ一人の男の小児がやって来た。親に別れたというので、里人が小児を連れて宮に参り、占って貰う。
神官は小弓に付けた短冊を小児に引かせたところ、その神官が大変驚く。小児の素性を聞いて、その小児が自分の子どもであることを知る。
里人はこの親子の再会を祝し、曲舞を所望する。
「歌占」の物語は、伊勢の国二見が浦の神職渡会(わたらい)の某が、神に御暇を告げず廻国に出かけた神罪により、一度地獄に落ちる。
人の世の罪業、責苦、修羅模様を曲舞につくって謡うもの。謡は終わり神気は去り、親子共々懐かしい伊勢の故郷に向け帰途につくのである。  
謡曲史跡保存会
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歌占碑由来
能楽歌占は流離の父子が再会する目出度い曲である。即ち男巫(おとこかんなぎ)の小弓に付けた短冊を、尋ねる父とは知らず子が引いて「うぐひすの かひごの中の ほととぎす 云々」と、図らずも父子の名告りをあげる。
次いでこの邂逅を祝って、男巫が地獄めぐりの曲舞を深刻痛烈に舞い納めて結ぶ。
時はこれ、懶き(ものうき)晩春初夏の候、處は(ところは)神徳灼かな(あらたかな)霊峰白山の麓
まことに夢と現の(うつつの)相交錯する神秘の世界である。
会々(たまたま)、白山比咩神社二千五十年祭に當って(あたって)畠山一清翁が上演奉納せられるに及び、年久しく埋もれし因りの瀧を江湖に顕揚せられしを記念して、ここに鶴来町が建碑されたものである。 芥唯雄 稿  昭和三十七年十月
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補足:歌占は能楽では四番物として、五番能では四番目に(演目によって二番目)上演されるもので、場数は一場面を通しますが上演時間は1時間以上かける意外と物語としては長いもので、シテ(男巫・渡会何某家次)には、自身の語りと地(心の声)、さらに静かな曲舞から神がかりとなって、地獄の曲舞(作中では狂い舞に変化)と、静動激を使いこなす技量と体力を要する演目です。舞台の時期は旧暦四月で夏としていますが、新暦に直すと四月末から六月上旬で、ちょうど白山麓が春を迎え新緑に染まる時期になります。
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あらすじ(「the能.com」より)
伊勢国・二見の浦から来た、若くして白髪の男巫・渡会家次が、小弓につけた短冊を選ばせて和歌の内容によって吉凶を占う「歌占」を行いながら諸国を回っています。加賀国、白山の麓にて、占がよく当たるという噂を聞きつけた里人が、親を探しているという子どもの幸菊丸を連れてその男巫のもとを訪ねます。まず里人を占うと、里人の親の病気が治ることが判じられます。続いて幸菊丸を占うと、探している父とは既に会っていることが判じられます。不思議に思った男巫が幸菊丸と話していると、男巫と幸菊丸の二人が実の親子であることが明らかとなり、再会を喜びます。
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以前、男巫は諸国を回っていた時に急死して、三日後に蘇生し、白髪の原因ともなったのですが、そのとき見た地獄の様子を謡う曲舞を里人たちに見せます。神がかりになったように舞う男巫の様子は、うつつなき様子の凄まじいものでしたが、やがて狂気から覚めると、親子仲睦まじく故郷の伊勢へと帰っていきました。
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歌占いの起源説は大きく二つあって、平安期の宮中で優れた和歌を札に書き記し、札を引いて、その歌によって運勢を判じるというのが始めと言われています。後には百人一首を札にするようになったと云われています。長承2年(1133年)の長秋記(源師時実記)が百人歌で男女七人が歌占を行ったというのが初出。
もうひとつが、歌占の滝に観られるような、神職男巫・巫女が今回の様に水上(水面や滝上)に張った縄や小弓(梓弓)の弦に付けた古歌・古詩・名言を書いた紙・付箋を引かせて、意味を判じるというもの。

男巫(おとこかんなぎ)は、巫女の男版。現代は巫女さんが主流ですが、中世は斎宮・齋院や神明社を除けば女性禁止で男巫が多かったのです。は古語では「かむなき」と呼んで、神の依り代・憑依・交信を主の役割としていました。後に女性が主流になって巫女が主になりますが、神社に仕える巫女の読みは「かんなぎ」(一部加茂神社のあれおとめなど、違うものあり)、市井に出て居宅訪問や旅をしたのが歩き巫女「みこ」と呼ばれます。江戸期も大きく減少していますが、明治以降に歩き巫女が廃され、神社の巫女(みこ)さんという読み方に統一された感があります。

主人公で伊勢の二見が浦(夫婦岩で有名)の渡会(わたらい)何某家次。名前から現代にも地名に名を残す、伊勢神宮外宮(伊勢豊受大神宮)の禰宜家を代々務めた度会(わたらい)一族の人と思われます。二見を含む南伊勢に勢力を誇った一族です。
ちなみに現在の伊勢神宮は内宮と外宮合わせて一つとして観られますが、古代から中世に渡って、実は対立・対抗しています。度会氏は元々は丹波の国造の石部氏(いそべ、磯部)から伊勢に移って、伊勢豊受大神宮の禰宜家となって神主家(氏)と名乗っています。長保3年(1001年)に度会(わたらい)の姓を与えられてから(神宮か朝廷は不明)、度会氏を名乗っています。
ここからの画像は昨昨年(2019年)2月27日の画像になります。ちょうど、参道の再整備工事の真最中で前面は鉄板などで荒れています。冬枯れで荒れて見えますが、滝がある場所が河岸段丘の崖面にあることが解ります。白山町から南の田圃はこの段丘上になります。わずか2カ月で、全く違った風景になるのが解ると思います。
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度会氏は鎌倉時代後期に祭祀(宮司)家の大中臣氏を排し、権禰宜家も手中にして外宮の全権を握り、禰宜家の継承権を持つ重代六家(檜垣・松木・久志本・佐久目・河崎・宮後)の他に30以上の分家を庶出して南伊勢に勢力を伸ばし、強い保持勢力として幕末まで続いてきました。

興味深い所では外宮を掌握した後に、弘安8年(1285年)頃、伊勢神道(度会神道)を度会家忠が表しています。当時、神仏習合の主流だった本地仏垂迹説に対抗して本地神垂迹説といえるものを掲げたところにあります。本地仏垂迹は、仏が当地の神の姿(日本では八百万の神)を借りて衆生を救うのだとしたものですが、本地神垂迹はその逆で八百万の神が仏の姿を借りて衆生を教え救う護るとしたものです。どっちもどっちと言えるんですが、伊勢(度会)神道では八百万の神を仏の上位としただけでなく、天地開闢の天之御中主神・国常立神に豊受大神を当てて、最初に現れた始原神(絶対神)として重要視しています。伊勢の地には先に豊受大神が先住(外宮)していて、そこに朝廷から出された天照神が放浪の末に辿り着いた(内宮)もので、内宮より外宮が上位だとしたわけです。この伊勢神道は元寇の神風・神国思想に載って鎌倉後期から室町初期に流行り、江戸期にも大いに主張されてきました。公的には天照の奉仕神としていますが、豊受は謎の多い神様なのは確かです。卑弥呼の死の後に立った台与にもつながるとも考えられるなど、また越や出雲系など日本海の匂いが漂うなど、たしかに謎や不明の多い存在です。
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2月末の歌占の滝のある場所ですが、滝の水もなく、ただの空き地に見えてしまいます。歌占の滝は一年の内の5月前後の僅かな期間だけ水落の滝が見られます。
男巫二見の神官・渡会を名乗っていることから、前述の長保3年(1001年)から南北朝初期ですが、加賀の総社が度会氏に所縁のある石部(磯部)神社ということを考えれば、長保3年(1001年)から石部神社を祀る加賀国府が消える治承年間(1175年~)前後の平安後期という時代設定が推測されます。

由来碑では省略されていますが、渡会(度会何某)家次は諸国を巡って、白山麓の住吉宮において一度頓死、三日間仮死状態でその間に地獄を見て来たと云います。年齢は記されていませんが30代、40歳には届いていなかったと思われますが、その為に髪は白くなり、息子の幸菊丸も、8年ほどの別離で判別できなったようです。クライマックスの曲舞(地獄の曲舞)は家次が見てきたこの地獄めぐりを表すものでした。
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謡の特徴ともいえるものですが、故事・古歌・古詩・故事が言葉の端々に散りばめられています。この歌占も例外ではなく、台詞や地の文に多く配されています。歌占には莬玖波(つくば)集・紫式部・万葉集・今鏡・古今和歌集・孔子家語・和漢朗詠集、その他にも須弥山・北邙(北山・金華山)の煙(火葬)・阿弥陀信仰からの引用・説明が見られ、謡の作者には幅広い知識が要求されることが窺われます。

観阿弥・世阿弥は能の大成者とされていますが、大和猿楽田楽の要素をまじえたもので、当時は申楽師(猿楽師)と呼ばれていました。大成者とはいえ田楽師や猿楽師などの芸能者は河原者と同等として観られていました。観阿弥の出自もはっきりしておらず、父が伊賀服部氏から宇陀中氏に養子となり京都の宮中女性との間に誕生したとか、伊賀服部氏から山田猿楽の一座(結城座?)に養子に入り外山(とび)座の女性と結婚した間の子とも云われています。観阿弥の長兄もしくは長子が宝生大夫(宝生流)を継いだと云われます。

ちなみに、大和山田猿楽四座は現在の能楽四座の母体になります。元々は興福寺・春日大社などの神事を奉仕していたもので、円満井座(えまい、後の金春流)・外山座(とび、後の宝生流)・坂戸座(後の金剛流)・結城座(後の観世流)になります。

また有力異説では、観世流をまとめ上げた観世信光(音阿弥七男)の画像讃や、昭和に発見された上嶋家文書によるもので、は伊賀服部分家・上嶋元成(服部姓、平内・柘植の記載も)、は河内の楠木正成妹観阿弥は三男で、神のお告げで結城座に養子として出されたとしています。観阿弥・世阿弥・元雅が南朝所縁の地に多く訪れている証左としています。

また吉川英治もこの説話を重視して、「新太平記」の最後で足利尊氏の初七日法要後に、検校屋敷において明石検校覚一(足利尊氏従兄弟)と盲人達の琵琶、小右京(覚一妻、先日野俊基室)の鼓、法師となった一色馬之助(尊氏の元近習、楠木正成の墓守)の地歌、父母(結城(服部)元成、卯木(うつぎ、楠木正成妹)の太鼓・笛の合奏に乗せて、観世丸(結城清次、観阿弥)に正成の翁面をつけさせて舞わせるというフィクションのクライマックスを持ってきています。
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平常時の歌占の滝 昭和期中期までは、滝の流れが常時見られたようですが、いつしかこのように水の流れない滝になっています。
伊賀上中忍家の出自としても、大和猿楽所属の奉仕人・芸能者は河原者に近い存在でした。そのような者が知識・教養を得られるかという疑問があると思いますが、、観阿弥にもそれなりの素養があったようですが、足利義満が新熊野神社の奉納神事で世阿弥(12歳、幼名・鬼夜叉、元清)を見初めています。観阿弥がわざとお膳立てしたという話はともかく、義満はこの後、観阿弥・世阿弥親子を保護・奨励しますが、特に世阿弥には才気煥発と容姿端麗に入れこんでいます。それは当時としては考えられないもので、河原者・世阿弥に対して文化面に明るい公家たちを家庭教師として英才教育を施しています。公家にとって、河原者は穢れ以外の何物でもなく、近づくことさえ避けていました。公家たちの抵抗はあったものの、そこは最高権力者で有無を言わせずの強行でした。

公家の中でも最大の教育者で育ての親となったのが二条良基でした。二条良基は北朝において26歳で関白就任以来、逝去までに北朝で計5度に渡って関白・摂政に就任しています。准三后(太皇太后・皇太后・皇后の三后に准じた処遇で皇族待遇)の待遇を受けています。関白を一時離れた際も太閤を公式号して政治に参画しています。文化面では連歌・和歌・蹴鞠の当代一の大家とされ、特に連歌では菟玖波集を始めとして多くの連歌論書を執筆し、和歌では新後拾遺和歌集の勅撰。仮名文にも秀でていて多くの著作を残し、増鏡の作者第一候補とも云われています。そしてここが重要ですが、朝廷参内の義満の行儀作法の先生でもあったのです。

まさに当時の公家トップ中のトップの人でした。最初は嫌がった良基世阿弥の才能と吸収力にはファンになってしまったようで、古今東西の文献・学問を世阿弥に叩き込んでいます。良基世阿弥がよほど気に入ったようで、愛弟子・直弟子と認め「藤若」の名を与えています。関白・摂政を努める高級貴族の筆頭が河原者ともいえる芸能者を認め、名まで与える行為は驚愕事で、これによって他の貴族たちも追随して世阿弥を保護し、教育を担っています。当時、世阿弥は当代一の文化者として、花伝書などを書き残し、幽玄能を創始する土壌を得たのは、足利義満・公家衆の保護と教育が地盤となっていました。その世阿弥が自ら教育指導したのが長子の観世元雅。後に「子ながらも類なき達人」と自分以上と言わしめたのですから、元雅の才能と楽才は群を抜いていたと思われます。
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歌占の滝 上部の湧き口
ちなみに、二条良基世阿弥に与えた「藤若」という名がなぜ、公家全体に驚愕を与えたかというのは、まさにの字にあります。

奈良時代以降幕末まで、朝廷を牛耳ったのが藤原氏ですが、奈良時代は藤原氏の立場を確立した藤原不比等(この時点で、鎌足直系のみが藤原氏)の息子たちから分かれた藤原四家(南・北・式・京)が並び立っていました。途中には藤原仲麻呂の乱で大きく衰退はしたものの、三家(南・北・式)が復活し朝廷を仕切っていました。各家の争いの中、平安中期に藤原良房が人臣初の摂政となり天皇の外戚となると、それ以降は北家のみが上位を占める独り勝ちとなっていました。とはいえ、宮廷内に藤原姓が溢れ返ったために、鎌倉期以降には「藤原朝臣」「藤原姓」は公式時以外には使わなくなり、各家の名称(家格)を名乗りとしていました。中でも藤原北家近衛家・鷹司家・九条家・二条家・一条家という五摂家として続くことになります。また他の藤原家も清華家・大臣家・羽林家・名家・半家を名乗っていたわけです。ちなみに幕末期の公家の家数は137家、その内藤原系は96家で、まさに藤原さんだらけだったわけです。明治の氏姓制度では、公家の多くがそのまま名乗りの方を姓にしたので、藤原の名は迂遠なものになっているわけです。明治の華族に藤原さんがいないのはこの為です。

公家の7割以上を占める本来の藤原姓は南北朝から室町期には公的な時にしか使わない特別なものだったわけです。当時の公家トップ・藤原トップ二条良基が、河原者の息子と思っていた世阿弥(当時は鬼夜叉)に、正式・公式に藤の字を与えたのは公家たちには驚天動地の出来事だったのです。後世に朝廷の事務方に多額の献金で頼んで使わせて貰った、藤原朝臣・秀吉、勝手に藤原姓を名乗っていた松平元康なんて可愛いものです。

二条良基藤若の名を贈った際に、扇に書いた和歌・・・
松が枝の 藤の若葉に 千歳まで かかれとてこそ 名づけそめしか

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由来碑の由縁は畠山一清が昭和33年(1958年)白山比咩神社に当地由来「歌占」を奉納上演を行ったものになります。
畠山一清翁は金沢市出身、能登畠山一族の後裔で、松波畠山家の生き残りの血筋になります。

荏原(エバラ)製作所の創業者として知られています。また渦巻ポンプ、送風機、水中モーターなど数々の発明で知られており、恩賜発明賞(畠山一清賞)の別名でも知られています。
畠山一清は「即翁」という号を持った茶人で、能楽にも造詣が深く、茶道具・能道具・和漢の古美術の蒐集家・数寄人としても知られていました。昭和39年(1964年)東京白金台の旧薩摩藩別邸・旧寺島宗則邸跡に、自身の収集品を公開する畠山記念館を設立・公開しています。収蔵品には国宝6点・重文40点が含まれています。由来碑の文稿者・芥唯雄は後に畠山記念館の館長を長く務めています。
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歌占の滝上部 上部には河川が無く、河岸段丘の岩壁を溢れる地下水が流れているようです。上部は田園地帯なので、農閑期しか入れないので要注意。。崖下の左右に伸びるのが国道157号線。右が金沢で左が白山麓。手取川は住宅の向こう側を流れています。
題名のとおり占いには使われる歌が出てきます。里人の占いには、紫式部の記述に須弥山の判事話で、親の病治癒を判じます。
「北は黄に 南は青く 東白 西紅の 染色の山(蘇命路の山)」
息子の幸菊丸が、父の行方を尋ねて、引いた和歌は
「鶯(うぐいす)の かひこの中の ほととぎす しやが父に 似てしやが 父に似ず」
度会家次(男巫)はこの歌から、幸菊丸がすでに「父にすでに出逢っている」と判じ、不審を覚えて幸菊丸に詳しく質して、自分と幸菊丸が親子であることが解り驚き喜び合います。
原文は万葉集の高橋虫麻呂の長歌を引用してまとめたもの、「かひこ」は通常は籠や巣を指しますが、ここでは卵の殻。

高橋虫麻呂の長歌
うぐひすの卵(かひご)の中にほととぎす ひとり生まれて
汝(な)が父に似ては鳴かず  汝が母に似ては鳴かず
卯の花の 咲きたる野辺ゆ 飛び翔(かけ)り 来鳴き響(とよ)もし
橘の花を居散らし ひねもすに鳴けど聞きよし
賄(まひ)はせむ 遠くな行きそ 
我がやどの花橘に 棲みわたれ鳥  巻9-1755 高橋虫麻呂
かき霧(き)らし 雨の降る夜をほととぎす
鳴きて行くなり あはれその鳥   巻9-1756 同
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歌占の滝上部の風景 ちょうど道のカーブが滝の上部になります。獅子吼の山並み、中央やや左が奥獅子吼山(後高山)で、その隣の山がスカイ獅子吼の後高山。標高600m程。僕やgoさんが山を越えて奥獅子吼山やその先の犀川上流に行くときには、もっと右の方から山並みの頂上付近を縫うように縦走する犀鶴林道を縦走しています。こうやって見ると、我ながら、凄い所を走っていますねえ^^;
勢いよく流れ落ちる歌占の滝ですが、見知った滝ながら豪快な落水は僕は初めて見ました。毎月の様に前を通るgoさんによると、この滝水の落水は5月前後に限られているようです。それ以外の季節の常日頃は流れどころか、崖に水がしみる程度しかないのです。おかげで、これまで何度訪れても、水の流れもわずかしか見たことが有りませんでした。僅かな期間しか水が流れないために、滝には年の殆どは苔が生じていて、草叢の中の崖にしか見えません。
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左中央に小さく見える建物は鶴来浄水場の出入りゲート。ガードレールの消えた林に見えるのが浄水場表展示スペース。その後ろ辺りが犀鶴林道の登り口になります。
滝の水は獅子吼山系から地下を通ってきているのですが、その多くは、途中に造られた鶴来浄水場の施設に遮られ、整地された田園の土壌に吸い取られているようです。唯一、雪解け水の地下水が多くなり、田園に水が張られ吸収されないこの時期だけ、岩崖を溢れて滝水が流れ落ちるようです。旧鶴来町は獅子吼高原と手取川の間の河岸段丘の町ですが、歌占の滝河岸段丘の産物というのが、苔が洗い落とされた岩肌を見ると、改めてそう確認できました。

旅行日 2021.04.22  2019.02.27


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この記事へのコメント

  • がにちゃん

    何気に鑑賞していた能舞台
    なるほど こんなこともあったんだと思いながら読んでいました
    どの時代も権力を持ち物 権力に庇護されるもの ・・・
    友達の友達が河村流の家元さんで チケット頂いて能鑑賞
    庶民の私には狂言の方が楽しいかもぉ~(>_<)

    2021年05月06日 14:46
  • tor

    「歌占の滝」から能の世界へ。
    観阿弥、世阿弥は知っていましたが
    能について勉強になりました。
    こちらにも加藤清正が連れてこられた
    金春流肥後中村家が現在も活動されていますよ。
    面白いのは和菓子屋さんもやっておられて・・・
    「もなか」を販売されています。

    その意外性で思い出したのが
    荏原製作所さん
    仕事の打ち合わせをしていたら
    入ったばかりの女性が
    「え~っ、エバラさんて焼肉のたれだけじゃないのですか?」
    そしたら荏原の方が
    「羊羹もありますよ!」と
    後日「荏原羊羹」を手土産に来られました。
    創業者=茶人⇒羊羹でしたか~
    2021年05月06日 19:20
  • つとつと

    がにちゃんさん
    観阿弥の時代までは屋外の舞台や舞殿。世阿弥が幽玄能を取り入れて、音阿弥が大成したのが現在につながる能舞台。
    でも真剣になれば惹きこまれるんでしょうが、だいぶ前に観た時には本当に幽玄のというより、夢の世界に行ってしまいましたzzZZZ
    河村流と言ったら、聞き覚えがと思ったら観世流のシテ方、たしか学校関係などの体験能を教えていたような、、TVで見たような気がします。いいなあ。。でも、僕も狂言の方が確かに好きカモ^^狂言と言えば先日、野村萬斎さんが金沢音楽堂の邦楽監督に就任しました。
    2021年05月07日 21:38
  • つとつと

    torさん
    吉川英治の新太平記から南北朝に興味を持った僕にとっては、重要登場人物の服部元成(雨露次)と卯木の夫婦は印象的でした。おかげで、観阿弥に行き当たって、その後の三代には詳しくなりました。でも、能舞台の演技は狂言を含めても数えるほどでした。でも、謡を聞いてると本当に夢の中で寝てました。。金春流は名前を知れど、まだ見たことが無くて、、でもここで書いたように初期には観世流と金春流が時代を切り開いたと云えますね。
    (笑)知らない人にはエバラと言えば、焼き肉のたれかポンプ機械ですからねえ。。でも、別会社ですけど、、共通なのは最初の本社と工場が荏原(品川)にあったことくらいだそうです。へ~~~荏原羊羹なんてあるんですか@@調べてみたら会社の購買部でしか売っていないようです。一度食べてみたいですねえ^^
    2021年05月07日 22:00
  • ミクミティ

    能楽は、歴史ある日本の芸能文化のひとつではありながら、私のとってはやや遠い存在。実際にじっくりと鑑賞する機会はあまりありませんでした。私もちょっと退屈で寝てしまうという感じでした。
    一方で、室町時代以降は権力と結びついた政治的な側面もあった芸能ですよね。
    更に、単に演舞者として表現力が素晴らしかっただけでなく、和歌や故事や歴史といった学識と謡を作る文学的な才能も合わもつ、総合芸術として確立され継承されてきたことをあらためて感じました。
    歌占では、旅情も感じられそう。
    とっても勉強になる記事でした。もう少し積極的に触れてみたいなと、あらためて思いました。
    2021年05月08日 17:43
  • つとつと

    ミクミティさん
    たしかに日本の伝統芸能なんですが、難解な表現と謡は、口語の現代ではなかなか入りづらいものがあります。
    金沢は江戸期は最大の謡文化地ということで、触れる機会はあるんですが、そして、わざわざ大和から井筒の井戸囲いを持ってきたり、謡跡地が多くあります。それでもなかなか入り込むのが躊躇してしまいます。。
    新しい音楽堂や能楽堂など、能や狂言に触れる場所や機会もあるので、本当に触れないともったいないとは思っているのですが。。
    2021年05月08日 23:07
  • yasuhiko

    能楽のいい勉強になりました。
    そちらの方面というと、高校の古典の授業で、
    『風姿花伝』をちょこっと読んだ事があるのと、
    大学生の時に、水道橋の能楽堂で一度舞台を観た事が
    あるのと、そのくらいしか覚えがありません。
    世阿弥がなぜ佐渡に流されたかも、よく分かって無くて…。
    今回の記事で、能楽の流れを大づかみで把握できたのは、
    とても有り難かったと思います。『歌占』は、天才・元雅の
    作品でしたか。歌で占う神官の神秘的な物語が、
    現実の滝の名前になってるというのも面白いですね。
    2021年05月14日 22:04
  • つとつと

    yasuhikoさん
    中学高校の頃は授業などでは本の題名くらいしか教えられませんでした。。乱読で、ちょこっと齧った程度ですが。。
    世阿弥の功績は確立しただけでなく能楽各派に受け継がれたところにありますねえ^^
    観阿弥・世阿弥・元雅がなぜあれほど、足利義教に嫌われたのか、理由は判然としていません。なにせ、義教の好き嫌いや執念深さは異常なくらいですから。。
    上部に広がる田園地帯に、往時は住吉宮があったと云われ、滝も昭和初期までは強く落ちていたようです。はじめて、こんなに強く流れる滝を見ましたが、小さいながら良い滝です。
    2021年05月15日 18:39

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