本多の森 本多家上屋敷跡

前回ご紹介した県立美術館の地は江戸期には、八家家老で最大所領(5万石)を誇った本多家の上屋敷があった地になります。
石川県立美術館最西部 左の建物は文化財修復センター
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町名となっている出羽町の由来ですが、金沢城・河北門石垣・外総構濠を整備した篠原出羽守一孝の屋敷があったことに由来しています。

篠原一孝は、前田利家の遺言にも「出羽は子供の時から召し仕え、心はよく解っている。片口なる(口が堅い)律儀者だから城を預けても心配はいらない。その上、末森の合戦では若年ながらよく働いてくれたので、弟・良之(佐脇良之)の娘を養女として嫁がせ、姪婿とした。関東陣では八王子でよく働いた。しかし、姪が早死にしたので青山佐渡(守)吉次を聟にしたら良いと女どもも言っているから後で取り計らったらよかろう。」と、家臣団でも第一番に名を上げられています。利長時代には横山長知・奥村栄明(永福長子)と共に執政となっていました。また、ライバルとも云われ、関係がイマイチと云われた高山右近の金沢退去時には、「もし幕府に糾明されたら、自分が勝手にやったんだから責任を取って腹を切る」と、右近への感謝と共にこまごまとした計らいを見せ、金沢随一の武士・武家の鏡と尊敬を集めています。元和2年(1616年)死去、享年65歳。その後、相続した次男・孫が早世したために篠原出羽家は断絶しています。芳春院の実家筋となる篠原本家は次弟・長次が継承しています。

前田利家の遺言や篠原一孝・佐脇良之などの略歴はこちらをどうぞ ⇒ 高山右近記念公園①

その後、篠原出羽守の屋敷地に上屋敷を置いたのが加賀本多家で、明治まで八家中最大所領の家として重きを置いていました。正確に言えば県立美術館・広坂別館及び建設中の工芸館までの台地縁辺までが本多家上屋敷で、歴史博物館のあたりは篠原一孝の三男に繋がる篠原監物家(4000石)の屋敷地になっていました。明治2年(1869年)加賀藩から金沢藩と改める藩政改革によって藩主が金沢城を退去した際には、前田本家が本多家の上屋敷を本宅としたために、本多家は中・下屋敷に移っています。廃藩置県で前田家が東京に移った後には上屋敷地は消滅しています。

ちなみに現在の本多町が中屋敷・下屋敷の地にあたります。現在は立ち入れないのですが、中村記念美術館(中屋敷地)と鈴木大拙館(下屋敷地)の中間地に崖を登る直線の石段道があったそうで、それが本多家の家臣団500人が毎日、上屋敷に通勤した道だそうです。30度以上の急坂で、現在の美術の小径に近い急傾斜で幅は絵図を観ると幅広だったようです。。毎朝500人が登るのは想像しても壮観かも。。(初代政重時代は約付け家臣が900名だったと云われています。)
ちなみに北陸放送の庭園地になる松風閣庭園は本多家初期の中屋敷庭園で、兼六園のモデルになったと云われています。上屋敷地の建物は画図面が加賀本多博物館にありますが、松風閣庭園に主君対面所(松風閣)が建物が移設されています。 ⇒ 松風閣庭園

現在目に出来る本多家上屋敷跡の遺構は西面の塀垣跡、復元塀くらいで、一部遺構のある家臣団が下屋敷から通勤退勤に登った南面塀や崩壊した石段は、工芸館の工事中で見られません。。しかし、金沢八家老筆頭の上屋敷地の名残を伝えています。

金沢市指定史跡 本多家上屋敷西面門跡及び塀跡 附道(つけたり)跡
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本多家上屋敷とは・・・県立美術館か市立歴史博物館にかけての小立野台地上には藩政期、加賀八家「本多家」の上屋敷があり、敷地は一万坪を越えるものでした。上屋敷は当主の住まいであると共に家臣が家政を行う場でもあり、裏手となる台地縁辺部には門跡や塀跡、門跡から台地下に下る遺跡が残されています。

本多家上屋敷の門跡と塀跡・・・この門跡では、石積みの塀跡が食い違う形で切れ、その端部に金沢城の石垣と同じ戸室石が用いられています。当主の住まいに近いことから意匠を凝らしたものと考えられます。発掘調査では赤戸室石を用いた敷居石とほぞ穴が刻まれた基礎石が見つかっており、門と塀の間に袖壁を立ち上げていたと考えられます。「歴史の小径」整備にあたっては、門跡と県立美術館側の塀跡の遺構を地中に埋め戻して保存し、新しい石材を用いて復元しています。
塀跡は、断面が三味線のバチのような形をした高さ約1.2~2mの石積みで、延長約200mにわたり台地を縁取るように築かれています。石積みの大部分は川原石で横目地をそろえるように積んでおり、牌角部では戸室石の切石を長・短交互に入れ替える「算木積み」をしています。
門跡からは、つづら折りの道が続き、道跡の法面(のりめん)には上下2段の石垣を築かれています。いずれも当時の本多家上屋敷を知ることができる貴重な遺構で、金沢城下町における武家屋敷の外構え遺構を代表するものです。 平成29年3月 金沢文化財保護課
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古段階の道跡・・・宝暦の大火(1759年)以前の屋敷図と考えられる「本多家上屋敷図」では、現在の「美術の小径」付近に上屋敷に至る道跡が確認できますが、この「歴史の小径」付近においても、つづら折りの道跡を確認することができます。この道跡が向かう門跡は当主一族の居住空間に入るもので、絵図によると道沿いには「不寝番所」を含め2棟の番所が描かれていることから、上屋敷の中でも位置づけをされた道だったと考えられます。
発掘調査では、この付近で未加工の川原石を並べた石段が見つかっています。19世紀代の絵図になると、道跡は切り替わっていることから、見つかった石段は廃道になった古段階の道跡と考えられます。
上屋敷に向かう道跡の法面には上下2段の石垣が築かれ、台地を縁取るように作られた塀跡には複数の門跡がみつかっています。いずれも当時の本多家上屋敷を知ることができる貴重な遺構で、金沢城下町における武家屋敷の外構え遺構を代表するものです。

西面門は当主居宅への門として使われていたと云われます。埋め戻しが施され見た目にはほとんど分かりません。
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歴史の小径整備時の二重の復元塀を石段したから観た時の重厚感はまるで城壁のように感じられます。
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家政を行う家臣団の通路は工芸館建築中の面にあり、県立美術館東面に出るようになっています。現在は美術館の裏面から西面に向けて附道が復元(美術の小径)が配されています。附道に沿うように辰巳用水の分水流が配されていますが、これは昭和58年(1983年)に整備されたものになります。
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辰巳用水の分流については、往時の存在は不明ですが、台地の縁辺という地形的にも他の本多の森に集中した武家屋敷を考えると、他に水利が考えられず、十分予想されるものだと思います。分水路は西面門跡近くから降りる歴史の小径横に流れ落ちるようになっていますが、冬場などに行くと素晴らしい流れ落ちが見られます。今回は渇水時で水の流れが見られず、ちょっと残念。。。
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台地縁辺部の塀跡は保存のための埋め戻しがされていて、表面は低く見えますが往時は1m以上の石垣積で、西面から南面にかけて延々とつながっており現在は200m程が2カ所が目に見えますが、往時は800~1000m程の石垣塀が連なっていたように想像されます。
歴史の小径から中村記念美術館DSC_4711.JPG
金沢を仙台と並ぶ杜の都と称する物販を見かけることが有りますが、地元の人間にして見ると、どこが?という人が、僕を含めて多くいます。実際問題、中央公園の木を間引きするという暴挙のおかげで、市街地で日陰を探すのが大変なことになってしまっています。夏場に訪れる観光客は、時間に迫られて名所から名所の移動で、本多の森の存在さえ知らず、日陰なしの道路をまぶしそうに汗たらたらで歩く姿を多く見ます。かといって、地元民も本多の森は知っていても、イベントでもない限り広坂や兼六園下から目的なしにワザワザ台地上に登ろうという人も少ないので、とにかく人に会う確率が少ないのです。僕が観光客が集まる場所を避けるのは、写真を撮ろうとすると人が写り込む、歩いただけで他人の写真の邪魔したりが憂鬱なのが一因。。ここでは土日でも擦れ違う人の少ない所。。
本多の森公園に足を踏み入れるとあまりに閑静で緑の濃さや木陰の多さに反して、人の少なさに驚くと思います。広葉樹林が多く緑が多く木陰の中を歩ける金沢の穴場になるのです。また、僕がよく参考にする環境省巨樹・巨木林データベースでは幹周3m以上の巨樹が約20本存在します。その本多の森公園の中でも屈指の巨樹が揃うのが、県立美術館の西面。。ここからは、初代本田政重について書きますが、配する画像は上屋敷跡にある巨樹の画像になります。タブ・スダジイ・ケヤキなど屋敷庭園に使用されていたであろう異形の樹形が多いのも特徴です。
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本多家の初代・本多政重は、徳川家康側近で陰の業師と呼ばれた本多正信の次男になります。10代で倉橋家に養子に出され17歳で徳川秀忠の乳母で権勢を誇った大姥局の子・岡部荘八を斬殺して徳川家を出奔。

大谷吉継に続いて宇喜多秀家に2万石で仕えて関ケ原に参戦、宇喜多軍右翼として奮戦しています。ただしこの時は正木左兵衛と名乗っています。敗戦後は本多正信の子として罪は免れたようですが、近江堅田で謹慎後に福島正則に仕え、すぐ後に宇喜多旧臣を受け入れていた前田利長に請われて3万石で仕えています。しかし3年後に旧主・宇喜多秀家が捕縛され、前田家への類を恐れて去り、武蔵岩槻に居を構えて隠棲していたと云われます。徳川本拠と云える岩槻に戻ったことや本多正信からのその後の庇護や助力から、政重には古くからスパイ説が流布されていますが、冷徹な謀略型の父兄とは違って、豪放磊落で武功派タイプの政重にはスパイ行為は不向きと思われ、実際に勇猛さと精励ぶりには戦国大名家からの勧誘は引く手あまただったと云われます。実際、関ケ原で西軍で最初から最後まで奮戦した宇喜多軍、その中でも重要視される右翼前線を努めた実績は大きかったと云えます。
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父・本多正信とはタイプが違うとしたものの、人生経験や後半生を見比べると、実によく似た親子になります。ついでに正信の弟・正重がいます。読みは同じですが政重の叔父になるわけです。実はこの三人、前半生の経歴は非常に似ており、更に後半生には所領を求めず、主家に殉じるように精励に努めています。また行く先々で重用されたのも共通します。

永禄6年(1563年)正信25歳、正重18歳。三河一向一揆が発生し徳川家(当時は松平家)を二分する内乱に発展します。本多兄弟も一向宗に参加、主君と闘うことになります。鎮圧後には多くの家臣が赦免・復帰を果たす中、正信は三河を出奔、20年近い放浪生活を続けます。

正信は松永久秀に仕えて後は、本願寺に参加、長島・越前・加賀・伊賀と織田信長と闘い続けています。戦うと云っても、足が悪かったこともあり、その当時から兵站や団結体制に危惧のある一向宗勢力のまとめに腐心していた軍師的存在と云われています。徳川家への復帰は明確ではありませんが本能寺の変の前後が有力とされています。本能寺の変後の伊賀越えでの甲賀・伊賀の協力は正信の影の力と云われています。正信の徳川復帰は44歳を越えていたことになり、表舞台に出たのは旧武田領併呑時からになりますが、その後の徳川家の内外政策を主導したのは御存じのとおりです。それにしても、徳川家康が20年も離反した家臣を側近として迎え入れ、意見が合わなければ飛び出しかねない頑固者の正信の方針を素直に承認しつづけたことには驚嘆を感じます。

弟・正重は三河一向一揆鎮圧後は徳川家に帰参。掛川・姉川・三方ヶ原・長篠と徳川軍の主要戦線で武功を挙げながら、長篠直後に徳川家を出奔、滝川一益・前田利家・蒲生氏郷に仕えてそれぞれで武功を挙げて重用されています。蒲生氏郷の死後のお家騒動が元で徳川家に復帰しています。その後も徳川家でも武功を挙げて舟戸藩1万石で大名格となっています。正重の次代にもおまけがあって、嫡子・正氏も後に上司ともめて徳川家を出奔、豊臣秀次に仕えています。秀次切腹時に殉死しています。本多正重家は養子を迎えて存続しますが、正重の遺言で2000石を返上して、旗本格に降格となっています。

こうやってみると本多政重と父・叔父はよく似た経歴と実績を踏んでいます。父は参謀・軍師、政重は叔父と同じく若い頃は武功で名を挙げて、それぞれの主家で実績を積み上げています。又主人への忠誠を尽くす分、頑固一徹で諫言・進言は出奔もいとわず、又共通するのが、所領への欲を押さえ込んでいるところもそっくりで、後半生では官僚の道を進みながら権力欲を持たない人生だったことにあります。その反対の例が実兄・本多正純で若くから徳川家康につかえ、純粋培養の官僚というより権力志向の独裁官僚といえます。家康の権力を背景に内外に振るい、家康というバックボーンを失ったときの父親の忠告も無視して20万石を所領して、自己権力増大を図り、周りの妬みや疎外を受けて失脚しています。父や弟のように若い頃に主家を渡り歩いて、人間関係、自分を観る周りの眼への対処が出来なかったと思われます。
本多家の血とも云えるのでしょうか、自分の節を通すことには頑固一徹、この筋を通すために精励と清貧の鎧をまとったのが、父・叔父・政重に共通しているものです。政重32歳で加賀藩に復帰した翌年父・正信、翌翌年には叔父・正重が亡くなっています。その後の政重の加賀藩での精励ぶり、出処進退は二人の業績をなぞるように感じられます。
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西軍の石田三成の盟友として会津討伐を引き起こし最上と戦い取り潰し必至と云われながら、大幅な減俸を受けながらも米沢30万石として生き残った上杉家。執政の直江兼続の助命嘆願の奔走と、筋を通した上杉家への各大名家から同情によると云われますが、幕府内で上杉存続を主張、主導したのが本多正信でした。慶長9年(1604年)直江兼続は更なる幕府接近を図るために、同情的な本多正信への接近を図り次男・政重を実娘・於松婿養子として迎えています。ここで名も直江大和守(山城守)勝吉としています。ところが新婚翌年、於松が死去。それでも、兼続は政重を気に入っていたようで養子関係を継続しています。

慶長14年(1609年)兼続の実弟・大国(おぐに)実頼の娘・阿虎を養女として政重と娶せて養子縁組を強化しています。
しかし養子縁組を嫌った大国実頼が兼続の家臣を斬殺して、上杉家を出奔するという事件が起こります。ここから上杉家中でも問題がこじれ、政重自身も本多安房守政重と名乗りを改めています。慶長16年、直江兼続との養子関係を解消して武蔵岩槻に戻っています。武蔵岩槻に逼塞した翌年(慶長17年)、本多政重は藤堂高虎の仲介で加賀前田家に帰参が決まり3万石で加賀藩に復帰しています。

巷間有名な話ですが、政重が去った後は、兼続の嫡男・景明は元々病質(失明状態だったと云われます)だったこともあり18歳で早世、主君からの養子による直江家存続を拒否しつづけ、元和5年(1619年)に兼続が死去、寛永14年(1637年)3000石の化粧料と兼続の意志を受けていた正室・船が亡くなると直江家を無嗣断絶させています。
ちなみに実頼が出奔した大国家は一時断絶しましたが、兼続の指名によって樋口三兄弟(兼続・実頼・秀兼)の末弟・樋口秀兼の嫡子・光頼が入って再興されています。樋口家は秀兼の次男が継ぎ、大国家・樋口家共に幕末まで存続しています。実頼は高野山に入っていましたが、密かに米沢に戻り亡くなったと云われています。

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武蔵岩槻に逼塞した翌年(慶長17年)、本多政重は藤堂高虎の仲介で加賀前田家に帰参が決まり3万石で加賀藩に復帰しています。
実父(大国実頼)が出奔し、養父(直江兼続)と夫(本多政重)の養子縁組が解消されたものの、正室・阿虎は夫と共に武蔵岩槻に赴き、金沢にもついて行き、亡くなるまで政重に添い遂げています。金沢復帰と共に政重は先に金沢に赴き、後を追うように阿虎が金沢に赴いています。この際に阿虎に従うように旧上杉・直江家の家臣団が移り住んでいます。このことは加賀藩・本多家、上杉米沢藩・直江家の円満了解だったと云われています。これにより、加賀本多家は家臣の半数以上が上杉家出身者で占められる特殊な家になっています。
上杉家は取り潰しは免れたものの、120万石から30万石と大幅な減俸処分を受けましたが、直参家臣団をリストラせずに引き継いだために、喫緊の財政難に悩んでいました。この移住は上杉家・直江家には渡りに船だったわけで、本多家と上杉家・直江家の親交はその後も厚いものがありました。

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寛永4年(1627年)4月本多政重阿虎の嫡子・政次が18歳で死去。後を追うように2か月後に阿虎も亡くなっています。次男・政遂(まさもろ)は、政重の弟・忠純(榎本藩主・本多大隅守家)に養子として入っており、後に忠純が暗殺されたために榎本藩主となっていますが、その子の時代に無嗣断絶で廃藩、本多大隅守家は旗本として存続して三男・政朝(母は西洞院時直の娘)が継いでいます。これにより、兄・正純が宇都宮事件で失脚し、横手藩預かりのまま断絶していたために、本多正信以来の本多宗家としての本多大隅守家が存続することになります。後に本多正純の孫・正之の代に本多佐渡守家は再興され3000石寄合旗本となっています。
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本多政重は阿虎死後の同年に、参議・西洞院時直の娘と再婚して三男・政朝、五男・政長、前田対馬守家4代・利貞室をもうけています。他に側室に四男(戸田姓)がいます。正保4年(1647年)に政重の死去と共に五男・政長が加賀本多宗家を継いでいます。

本多政重阿虎の嫡子・政次は18歳と若くして亡くなっていますが、子供が残されており母親の姓を継いで樋口朝政と名乗って2代・政長に仕えています。実際には朝政の方が年長だったのですが、やはり相続には母親の出自と健在が物を行ったと思われます。その後、朝政の子・定政は馬廻役・青地家(1000石)に養子として入っています。前述の様に大国実頼の大国家は樋口家からの養子で再興されていますが、大国実頼の直系は加賀藩の青地家に受け継がれているわけです。

ちなみに青地家からは定政の子に青地兼山・礼幹(のりもと)という当代一流の儒学者を輩出しています。二人の師は、赤穂事件で赤穂浪士を擁護し、後に徳川吉宗の享保の改革のブレーンとなった室鳩巣で、鳩巣とその師とも云える新井白石の書簡をまとめた兼山秘策を共著しています。また青地礼幹の書いた歴史の裏事情を描いた可観小説 も有名です。可観小説は加賀前田家、上杉家を中心に江戸期の事件の裏事情を書いています。花の慶次こと前田慶次郎利益の名が全国的に知られる発端となり、鬱陵島が朝鮮領となった顛末を綱吉の失政としています。
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本多の森公園は非常に広い範囲が指定されていますが、先に紹介した県立美術館・赤レンガミュージアム・県営野球場だった本多の森コンサートホール・能楽堂・伝統産業工芸館・護国神社・成巽閣など県営の文化施設が多く含まれています。本多の森公園の最大の魅力は名前の通り、これらの施設を包むように広がる常緑の広葉樹林の森にあります。
特に前回紹介した県立美術館・広坂別館の周辺、公園にはなっていないようですが高台を降りた石浦神社から鈴木大拙館にかけての本多町にかけての森は金沢市街地での最大級の森林地帯になっています。特に、県立美術館周囲(美術の小径)、県立美術館から中村記念美術館の歴史の小径。中村記念美術館から鈴木大拙館への緑の小径。鈴木大拙館から松風閣庭園の小径は夏場の避暑にはうってつけ。。夏にはヒグラシ(カナカナ蝉)の生息地にもなっています。夏は蒸し暑く日陰が少ない印象の金沢ですが、森の樹々に囲まれた日陰の遊歩道をヒグラシの声を聞きながら、ゆったり歩ける数少ない楽園になっています。近頃はだいぶ知る人が増えて来たようですが、それでも人通りは少なく静かな道になります。画像は早春の物で緑が少なく申し訳ありません。

旅行日 2019.03.30







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