獅子ワールド館

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全国には春祭り・夏祭り・秋祭り、更には越後獅子、角館ささら舞、長崎袴獅子のご当地舞や正月舞、宴会獅子、演舞劇など様々な獅子舞が四季を通して演じられています。一人立ち・二人立ち・ムカデ獅子・大幌(胴・胴幕・伽耶・萱胴他)、神楽・伎楽、更には獅子頭も様々なものがあります。悪魔・厄払い、豊年祈願・御礼、祝祭、奉納祈願、宴会芸、劇芸など目的も千差万別。各都道府県、各地域でみても一つとして同じものが無いと云われるほどで、国内の民俗芸能では最多と云われるのが獅子舞だと云われる由縁です。能の鏡獅子、伎楽の獅子もありますから、その幅広さは計り知れません。。
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DSC_5383.JPG獅子ワールド館   DSC_5382.JPG
これだけ全国に民俗芸能として広がる獅子舞ですが、個別の獅子舞を紹介展示はあるもの、他県や海外を一堂に獅子頭や獅子舞を紹介する資料館はほとんどありません。。僕の知る限りでも獅子博物館(埼玉県白岡市)・ひみ獅子舞ミュージアム(富山県氷見市)くらいです。地元獅子をメインにしますから、規模としては、どちらもそう多くないのですが。。この辺りが全国でも同じものは一つもないと云われる獅子舞・獅子頭の課題にもなります。
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白山市でも加賀獅子頭の里として獅子の展示館「獅子ワールド館」があります。やはり大規模なものではありませんが海外の獅子、江戸期の獅子、県外各地の獅子、鶴来町の現役獅子頭などいろいろな獅子が見られます。入場料無料。

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そもそも獅子の起源・源流はといえば、獅子=ライオンになるわけですが、日本では獣全般を指す場合もあり異論が多く感じられます。
とはいえライオンの要素が強く反映されているので、ライオン説は第一候補になります。エジプト・メソポタミアの絵画や彫像が思い浮かびます。現在の所、最古のライオンの姿を模した信仰遺物としてはトルコ・アナトリアの紀元前6000年頃の地母神の両脇に描かれたものだそうです。

古代のライオンの生息地は、伝承や記述、発掘により生息地はアフリカ・西ヨーロッパ(コーカサス、古代ギリシャではギリシャとブルガリアの間に生息の記述)・西南アジアから西インド。後期旧石器時代(1万5千年前)のヨーロッパ各地の洞窟壁画(ラスコー・ショーヴェなど)に絵が描かれておりヨーロッパ全域も考えられます。アメリカ大陸(カナダからペルー)にも生息していたと云われ、シベリア及びベーリング陸橋付近もといわれますが虎やヒョウに近い感じ。ちなみに現代ではライオン=アフリカと思われていますが、現在でもインドにも300頭ほどの生息地があります。

ライオンの実物を間近で見たであろう先進文明地のエジプト・ペルシャなどではライオン狩りをモチーフにするなど、王の強さの象徴にしています。メソポタミア神話では断トツの人気を誇る女神イシュタル(性愛・豊穣・戦闘の女神)の従獣がライオンになります。ちなみにメソポタミアの王は神から王権を授けられ支配者となれたのですが、その王権を授ける神は安定期は実質の最高神・エンリル、戦乱期はイシュタルが司っていました。エンリルの従獣は頭がライオンで体が鷲のアンズー(ズー)になります。ライオンがやはり王の象徴だったわけです。
ヨーロッパでもベネチア・ノルマンディー・イングランドなどが紋章や旗印に使用しているように、百獣の王ライオンとして雄ライオンをモチーフにしています。
逆に雌ライオンをモチーフにしているのは、神様の頭部を動物にする古代エジプトで、強さの象徴としては太陽神・ラーの眼から生まれた破壊、復讐神・天国と地獄の守護神・セクメト、ファラオの守護神・病気災厄からの守護神だった初期のバステト(後期は猫)、草原の水辺にいることから湿気の女神・テフヌトなどが代表的な存在です。また古代エジプトでは人面・体はライオン・背に鷲の羽を持つスフィンクスも有名ですね。
エジプトやメソポタミアの神や獣がすんなり出る素養は、いかにドラクエやFFに嵌っていたかが窺えるというものです^^;ゲーム物には神話の世界や名が結構使われているものなんですよ^^何が役に立つやら。。
ネパール・ムスタング村狻猊面DSC_5376.JPG
その後、エジプト・メソポタミアから、ライオンの居ない東インド・ネパール・中国では邪気・悪魔払いの霊獣・狻猊・獅子となって伝わり、その姿が経由して東南アジア、北ではモンゴル・渤海・朝鮮・日本へと獅子・狛犬となって伝播されてきました。前述の獅子舞も同じ時期に、様々な形態の獅子頭獅子姿となって広まり、現在もインド・スリランカ・ネパール・中国・東南アジア(バリ島、華僑系)・朝鮮・日本などが獅子舞として伝承されています。ただしこの獅子舞も独自の進化を遂げていますが。。ちなみに中国や華僑系の獅子舞は近頃はライオンダンスと呼ばれているそうですが。。

ライオンの居なかった中国では、まずは画や噂話から入ったと云われています。中国の風習として墓所や祭礼では邪気払い・悪魔祓いとして強い霊獣が墓の入口に配されていました。そこに周朝戦国時代(BC403~)に舞い込んだライオンは狻猊(さんげい、スワンニー)という想像上の霊獣として伝わったと云われます。ヒョウやトラを食べる猛獣の中の猛獣とされていました。
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中国に実物のライオンが持ち込まれたのは前漢時代(BC206~)といわれ、それまでの怪物的なモノからライオンに近い霊獣として獅子が誕生したと云われています。狻猊・獅子が霊廟・墓所などの守護神として石像が造られ、徐々に一般に認知されて意匠がさまざまに変化して厄払いの石獅子・装飾・祭礼の獅子舞と変化します。
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上:中国石獅子
中:大分県 黄金獅子 木製金箔押
右:高村光雲作 金獅子
狻猊・獅子が交わりながら石獅子としては東南アジアマーライオン琉球シーサー朝鮮高麗犬日本狛犬として伝播したと思われます。

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中国 北派獅子 画像奥の犬のぬいぐるみみたいな二頭が北派獅子、この着ぐるみのような獅子で玉乗りやアクロバットも。
左の獅子は韓国の峰山獅子 面白い動きの獅子なので動画も
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中国 南派獅子 別名、けんか獅子で獅子同士の乱闘もあり 北派と南派の境界は揚子江になります。
獅子舞もインド・ネパールのシンハを経由して中国や東南アジア華僑系更には琉球(沖縄)では舞台劇・祭礼での動物的存在の舞獅(ライオンダンス)。舞獅に武術が融合した仏山獅子(北派・南派)が発達しています。
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韓国 北青獅子 前述の峰山獅子と共に韓国北部に伝わる仮面劇の一種で無形文化財指定。発祥は北朝鮮の北朝鮮の咸鏡南道(ハムギョンナムド)・北青地方になり、朝鮮戦争後に演者が南下して韓国に広まったと云われています。
中国北派の影響の強い朝鮮では仮面的な厄除けの霊獣技芸に、前述の峰山獅子もですが、獅子使いと獅子のペアでコミカルな動きとおしゃべりが多いようです。
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インドネシア・バリ島 左:バロン 右:ランダDSC_5344.JPG
バロンは聖獣・森の王。バリ・ヒンドゥーの善の象徴。対して女神・ランダは破壊神・シヴァの妻として悪の象徴。共に相容れぬ仲として、倒されても復活して未来永劫戦い続けるライバル。。バロンはアニメ映画「もののけ姫」のシシ神(ダイダラボッチ)のような森の再生の神であり、疫病平癒・疫病祓いの神としても信仰の対象になっています。ランダは寡婦が変化したものとされ、人に災いをもたらす存在とされていますが、一面では人の温かい心に触れると、時として人を治癒するとも云われています。中国・日本の鬼子母神の変化形とも云われています。
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左:素彫り製作段階のバロンの頭部 上:バロン頭部完成品
バリ島は土着信仰とインド仏教、ヒンドゥー教が習合した独自のバリ・ヒンドゥーという独特の信仰体系が成立した地
逆に中国南派の影響を受けながら、想像の狂獣の狻猊(さんげい)を色濃く残して独自の進化を取り入れたのが、バリ島バロンだと云われています。

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左:沖縄 名護大獅子
右:沖縄 組踊「万歳敵討」獅子頭
中国との朝貢関係の深かった琉球には前述のように中国の舞獅が色濃く伝承されています。
また1719年に琉球王国の踊奉行・玉城朝薫(たまぐすくちょうくん)によって中国柵封使の歓迎の宴に創始され、1756年には踊奉行・田里朝直(たさとちょうちょく)が考案の組踊「万歳敵討」に獅子頭が用いられました。組踊には中国の舞踏・京劇、日本の能・狂言など様々な技法が取り入れられ琉球舞踏として昇華していました。後に地方・市井に広がり、新年の玄関先での祝芸・萬歳芸として獅子頭を持って踊る文化が明治・大正まで受け継がれ、戦中後に途絶えたものの復興を果たしています。
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伊勢桑名の伊勢大神楽・猿田彦
伊勢神楽には多くの獅子舞が演じられますが、一番奥獅子と絡むのが猿田彦になります。ピンボケ写真で申し訳ありません。
日本国内には狛犬と共に伝わってきたと云われますが、現在の所、最古の資料は天平19年(747年)法隆寺の資材帳に伎楽道具として、五色毛の獅子頭胴幕を持つ二人立獅子の記述があるそうです。はっきりした獅子舞は舞楽・伎楽として伝わり、鏡獅子を代表する能楽の紅白の髪や派手物に、神楽へと枝分かれの変貌しを遂げ、地方に拡散、特に江戸期前から伊勢神楽の興行によって全国に広まったと云われています。北陸でも富山東部に獅子と天狗(猿田彦)が一緒に舞う桑名の伊勢神楽の影響を受けたと思われる獅子舞が多く見られます。

全国を渡り歩いた桑名の伊勢神楽は最盛期には12社家あったそうですが、現在は5社家(山本源太夫家(伊勢神楽宗家)・森本忠太夫家・山本勘太夫家・加藤菊太夫家・石川源太夫社中(加藤源太夫・伊藤森蔵家))が関西を中心に地方への演舞活動をしています。毎年12/24に桑名増田神社伊勢大神楽総舞(総まわし)が5社家によって奉納されています。
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DSC_5362.JPG室町末期の獅子頭
石川県内で現存する獅子頭で一番古いものは、頭に載せて手で支える伎楽系の獅子頭(応永5年(1372年)珠洲市春日野・白山神社)が最古で、現在主流の手持ち獅子室町末期の物が最古と云われています。加賀や越中も他国と同じく伎楽から祭礼の神楽に移って行ったことが窺われます。
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前述したように国内各地で獅子舞の形態は独自の進化や発展を遂げています。石川の加賀獅子富山の越中獅子も独自の進化を遂げています。越中獅子は室町期から獅子舞が盛んで種類も様々ですが、富山西部に多く伝わる百足(むかで)獅子は加賀獅子と共通点の多いものがあります。加賀獅子のルーツは富山西部とも考えられるほどです。加賀・越中西部の獅子舞も文献上の登場は、前田利家の金沢入城時に住民が獅子舞を演じて祝った事例、利家の末弟・秀継が石動入城時に、同じく住民が獅子舞を演じて迎えたというものがあります。ということは、一向一揆時代には加賀・越中に根付いていたことが窺われます。

加賀獅子全般に基本的に共通するのは、悪霊・怪獣として扱われ巨大化しています。そして様々な武器(基本は棒・薙刀)を持った舞人・武人や天狗(猿田彦)による退治劇を演じる「殺し獅子」とも呼ばれています。この為に、獅子頭は基本一人持ち(介添えあり)で両眼を見開く「八方睨み」、一角・巨大な牙・大耳を有した獰猛な顔つき、白木から漆塗りによる様々な色があり、獣毛や革張りなど様々です。また幌は蚊帳(萱、伽耶)と呼ばれ麻布の加賀染め(牡丹柄)で半円の胴竹でかまぼこ胴で胴持ち、蚊帳持ち、尻尾は孟宗竹に房付きと10数人から時には数十人が中に入ります。囃子形(笛・太鼓)も胴内に納めるものもありますが、多くは後方での囃子になります。金沢・松任などは伝統・儀典的なモノが多いですが、地方に行くほどに激しさ・勇ましさが目立ちます。激しさ・戦闘的舞踏なら加賀では津幡町・鶴来町が双璧と云われています。

獅子を持つ村落・町会は一村、一町、一部落には必ず存在していました。春・夏・秋祭りには獅子舞が練り出され、各町村の神社には獅子頭神宝として保存されてきました。それだけに、石川県・富山県の各部落では自分の獅子舞には思い入れが強く、獅子頭・獅子舞にケチをつけるととんでもない目にあうこともあるので要注意。。


石川・富山西部の獅子舞が今の形態になった大きな要因はやはり加賀藩の統治によるものでした。それ以前にも獅子舞は存在していましたが、他藩と同じように神楽としての物が多く、一人もしくはニ、三人で舞うものが主流だったと云われています。

江戸期となり太平の世になると、兵装や軍備に対する幕府の統制が厳しくなり、各藩での軍事・軍備は縮小され、増強や教練が禁じられてしまいます。個人レベルの鍛錬や道場修行はともかく、集団による軍事演習などはもってのほか、、江戸期には殿様が鷹狩や巻狩りをいつもやっていたように思われていますが、実際には幕府によって規模ややり方まで定めがされ、日数も定められ、届け出が必須で大きな制限が成されていました。それ以外の軍事教練は一切禁止になっていました。武士の特権とも云える帯刀ですが、抜けば大問題の事件になるほどでした。そもそもそんなですから、加賀藩の武士層で一番流行った趣味は川やお堀での魚釣り(特に鮎釣り)だったといわれ、おかげで加賀毛針・加賀竿など独自の進化を遂げています。例えば・・・加賀毛針 目細八郎兵衛商店HP

現代から見れば笑い話にも見えますが、加賀藩では武士としての足腰の鍛錬と精神の修練として、猟魚と呼んでこの魚釣りを奨励していました。軍事教練が出来ないのですから、集団での武芸を行えない、考え出されたのが祭事などでの武芸修練でした。
目をつけたのが獅子舞獅子を敵と認めた武芸披露や伝播を狙ったものでした。ここから獅子退治・殺し獅子と呼ばれる加賀・越中特有の獅子舞が誕生発達していったわけです。この為、使用される武器も槍を模した棒、薙刀・刀、十手、刺股、鎖鎌など様々なものが使用されてきました。また仮想敵となる獅子も獅子頭の持ち手(頭持ち)の獅子頭での攻め、舞・武人からの躱す技量などが求められていました。


加賀藩の振興により、時代が経るにつれて武技武芸も伝統武芸となり流派も40以上を数えたと云われています。前述の様に一部落に一頭の獅子が存在していたと云われ、最盛期には加賀には1000頭以上、越中では現在でも1200頭近い獅子・獅子舞が存在していると云われています。富山県日本一の獅子舞県と云われる由縁です。

現代では伝統行事と云われる中で、戦闘的な名残りを残すのが加賀では前述の津幡町鶴来町になります。機会があったら是非御覧頂きたい獅子舞です。共に秋祭りに出ますが津幡町は毎年9月中旬、夜に行われる交差点での津幡四町獅子舞頭合せが必見です。鶴来町は10月初旬「ほうらい祭り」で各町持ち回りで練り歩きます。

激しい攻めぎ合いにより、獅子頭の破損も激しく修理や新調が頻繁に行われるようになります。その度に獅子頭・蚊帳も迫力と華やかさを増すためにそれぞれに専門職が発達していきました。蚊帳などは丈夫な麻織りに加賀染めの先端技術が使用されたために、金沢城細工所に専門職が置かれたほどです。
近年は青年団の数の減少で持ち手が減って、獅子頭が小型軽量化、蚊帳が小さくなったり、軽トラにかぶせて動くというものまで出てきていますが。。獅子頭の一本彫では10~20キロほどの重量になります。軽量化が出来たのは減量につながる寄木細工の向上が大きく寄与しています。

横道に逸れますが、中には頭合せや勝負の為に軽量小型になったものもあります。前述の様に津幡町は加賀でも屈指の獅子舞が盛んな町で、現在でも30頭近くの獅子舞が行われています。その中には四町頭合せのように、棒振りを間に2.3頭が頭合せを行う能瀬、川尻など勇壮さを持つものや河合谷のように棒振り・獅子の踊りをメインにするものもあります。⇒ 津幡町の獅子頭HP

僕が生まれ、小学校まで住んだのは津幡町の加賀爪でした。前述の津幡四町獅子舞頭合せを行う加賀爪白鳥会の赤獅子には懐かしさと親しみを持っています。うろ覚えの記憶で書きますので、もし間違いがあればご容赦を、、頭合わせを行う「加賀爪白鳥会・赤獅子、清水八幡会・熊獅子、庄住吉会・雄獅子、津幡太白会・虎獅子」は津幡町の中心街を構成する四地区になります。ちなみに白鳥・八幡・住吉・太白は獅子が奉納されている各町の神社名になります。

元々は加賀爪・清水・庄が七月の夏祭り、津幡が10月の秋祭りに各町内を練り歩いていました。昭和44年(1969年)の夏祭りに津幡が参加して津幡交差点で四頭の頭合せというのが最初ですが、その後数年は中断され、夏祭りには津幡は獅子頭展示、秋祭りにはその逆になっていました。昭和50年頃から9月に祭日を改めて四頭頭合せをするようになりました。
頭合せの原型となったのは加賀爪・清水・庄の三頭時代(昭和20~40初頭)で、町会の境界付近で獅子が出会ったときには、代表棒振りを間において獅子合せを行っていました。双方から何名かの代表棒振りが登場し、中央に一人立って表裏二頭の獅子と闘うというものですが、数多く額を打たれた獅子(寸止め)が負けとされていました。ところが、旧獅子頭時代の清水・庄の獅子頭は加賀爪より一回り以上小振りで全木製・毛皮張の10キロ前後、加賀爪は一部金属製で20キロ近くの重さがあり、頭持ちにとっては大きな負担とハンデがありました。おかげで、頭持ちの交代が出来ない長時間勝負では加賀爪は連戦連敗。更に40年初頭には顔合わせに奉納金を掛けるということもあり、加賀爪は他町の獅子が見えると勝負を避けて方向転換。子供たちにも大きな赤獅子は人気がありながら、頭でっかちの弱獅子と冷やかされたり笑われる始末。。昭和50年に新調した赤獅子は先代の2/3以下の大きさで重さは半分以下になって、持ち手の舞と動きの激しさを優先したそうな。。おかげで四町ではその時の鬱憤か、加賀爪が一番やんちゃになったという噂が^^;
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現在は伝統的な武闘舞や舞形をメインにする金沢なども激しいものだったと云われています。戦闘的とはいえ退治時のとどめは寸止めが決まりなんですが、そこは勢い余って獅子頭を叩き斬ったり、津幡町のように獅子頭をぶつけ合うために獅子頭の破損・消耗が堪えませんでした。更に木製品ですから腐食や乾燥での劣化も免れません。加賀・越中の獅子頭の製作は基本的に桐材の一本木から彫りこむのが主流です。一本木から本体(上顎から頭部)、下顎・耳・角などの寄木部材を掘り起こす手間、更に色・漆塗りや金箔・獣皮を張ったりで製作期間も掛かり高額なものになります。もちろん100年近くの獅子頭の使用も見られますが、各町村部落での新調のサイクルは50年程と云われます。これに繰り返される修繕が発生しますから獅子頭製造・修理の専門職もおのずと生産地と技量の発達進化を遂げています。
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上:加賀菊獅子 武田友月作 複製
右:加賀菊獅子三代目 鶴来町の本町2~4丁目、大黒町、古町、水戸町所有の獅子頭で昭和26年に初代を写して作製されたものです。額に16花弁の菊紋があることから菊獅子と呼ばれています。今年、色がそう塗り返されました。 ⇒ 知田工房HP
最盛期の獅子頭の製造は加賀藩内に点在していましたが、江戸期には金沢・井波が主軸になっており、越中との関係が深い河北郡は井波の獅子頭が目立ちますが、旧石川郡には地元金沢産の獅子が受け継がれています。その中から名人と云われた職人が出ています。金沢では江戸期の獅子頭三名工と呼ばれた武田友月・沢阜忠平・杉井乗運、からくり師の名が高い大野弁吉を加えると四名工とも、弁吉作の獅子頭は20数基残されています。武田友月(武田秀平)は彫刻師としての名で、前回にも触れた巽御殿謁見の間の欄間彫刻などで知られていますし、陶芸の武田民山としては金沢での再興九谷の創始者、慶雲堂の名で盆石の第一人者。沢阜(さわふ、さわおか)忠平は酒癖喧嘩癖ながら名彫刻師と云われ、加賀藩学校の前身の「明倫堂」「経武館」の扁額で知られています。全国の藩校の扁額の中で最大で豪華な作りです。杉井乗運申し訳ない不勉強。。伝統工芸館や獅子ワールド館でも三名工としてこの名が挙がっていますが、、知らない人物。。松井乗運なら東本願寺の柱彫刻、兼六園の日本武尊の像の原案者で僕でも知ってるんですが。。
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富山県 井波獅子
古くから越中の射水郡・礪波郡と結びつきの強い河北郡北部の津幡町は井波・城端の獅子頭が多く、特に井波彫刻の獅子頭名人・今井幸太郎氏の獅子頭が多く使用されています。     ⇒ 井波彫刻協同組合 今井幸太郎
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日本遺産にも認定される井波彫刻は、東本願寺・東照宮本地堂など全国各地の寺社仏閣の装飾・木工彫刻で知られますが、欄間・衝立といった一般装飾、そして富山県内向けでは端午の節句に飾られる天神像や獅子頭の置物でも知られています。日本一の獅子舞県と呼ばれる富山の獅子頭製作にも大きく貢献しています。戦国期の一向宗、戦国末期の前田秀継・利秀、江戸初期の前田利長による小矢部・高岡の発展により、越中礪波郡・射水郡と繋がりが深い加賀河北郡津幡などの獅子頭も製造、越中獅子頭どころか加賀獅子頭の一翼も担っています。

人口変動や町村合併で数を減らした昭和期にも三階千嶺などが活躍していますが、金沢工芸の地位の一翼を担った加賀獅子頭の伝統を引き継いでいるのが、現代では鶴来町知田(ちだ)工房になります。初代の知田清雲氏は金沢で修業後、桐の生産地である鶴来町で工房を開き加賀獅子頭の第一人者の地位を築き上げ、現在は弟二人・息子・弟子の5人で全国の獅子頭修理・製作を引き受けています。

鶴来や白山麓には恵まれた山林を抱え木工芸の盛んな地ですが、石川県人が桐箪笥と云えば最初に名を挙げる町八家具があり、獅子頭の主要な原木の桐の主要産地だったことや、更に古代から武芸・軍事の神とされた金剣宮の存在も大きかったと云えます。一説には加賀藩が武術奨励の加賀獅子舞の型を最初に創始した地が金剣宮だとも云われていますから。。現在では加賀獅子頭と云えば鶴来町の知田工房という絶対的な存在です。

知田清雲氏が獅子頭を製作を始めたころから県内では知られた存在でした。平成2年(1990年)、関東の方はご存知だと思いますが、東京築地波除神社「つきじ獅子祭」のメイン巡行となる獅子殿の厄除天井大獅子の再興になります。この大獅子は樹齢3千年のネズ(黒檜)使用、高さ2.4m・幅3.3m・重さ1tというとんでもない代物で、祭礼巡行に使用される獅子頭としては日本一の大きさです。この製作により、知田工房加賀獅子の名が一気に全国区となりました。

ちなみに、波除神社には天井大獅子と対になる弁財天社のお歯黒獅子(高さ2.2m・幅2.5m・重さ700㎏)は平成14年、本殿の青龍・白虎の頭は平成24年に奉納されたものです。
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獅子ワールド館の二階展示場の中心に赤と黄金の夫婦獅子があります。この夫婦獅子も知田工房の作品になります。
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赤(雄)の巍魁獅子高さ2.4m・幅3.8m・奥行1.8m・重さ1.5t・樹齢千年アラスカ杉使用黄金(雌)獅子高さ2.2m・幅3.8m・奥行2.0m・重さ1.5t・樹齢千年台湾杉使用になります。眼の前で見られますが、とにかくデカ~~い@@;

一本彫の獅子頭としては日本一の大きさを誇るものになります。
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これだけの獅子頭一本彫りで作るには巨樹が必要となります。これだけの巨樹を手配・入手するには一介の技術者には難しいのですが、同じ白山市(当時は松任市)には巨樹を扱う強い味方が存在しました。それが和太鼓作りでは創業400年、全国でもトップメーカーの浅野太鼓。和太鼓作りでは全国シェアトップですが特に大太鼓(口径3尺以上)のシェアは70%以上になります。木材の伐採からなめしの皮加工に始まり完成まで一貫生産の老舗です。和太鼓には長胴・大太鼓・平太鼓・桶胴・かつぎ・締太鼓・鼓(つづみ)など思いつくだけでもたくさんの種類がありますが、団扇太鼓や月太鼓・楽太鼓・銅鑼といった特殊なものを除いては、玉切りの幹をくり抜いて作る一木作りで、木の種類で音の種類・用途に使い分けています。やはり一本の幹から作る獅子頭作りと同じく木材の専門家でもあります。浅野太鼓も以前紹介しています。⇒ 浅野太鼓楽器店 資料館・新響館
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黄金獅子の裏側 内側の紐を引くと耳が上下に動く仕掛けです。加賀獅子に多く見られる仕掛けです。
ちなみにこの夫婦獅子は、巍魁獅子が昭和59年(1984年)に作られたものですが、前述の波除神社の厄除天井大獅子の製作に先駆けて試作・試行を兼ねて作製されたものになります。同じく黄金獅子波除神社のお歯黒獅子の作製に先駆けて平成7年に作製したものになります。つまり夫婦獅子は波除神社の獅子とは相互に兄弟・姉妹になるわけです。
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鶴来町の獅子頭 左:日向町 右:月橋町
ちなみに画像のように家庭での魔除けの置物、駅や空港での展示や祭礼展示されている加賀獅子は、口に刀や木刀を加えているものが多く見られます。これにも意味がありまして、刃を上に向けて咥えるのが祭礼・お祝い用で、刃を外向きに水平にして咥えるのは戦勝祈願や勝負事の祈願になります。刃を下向きや内向きにするのはご法度です。月橋町の獅子は戦勝祈願ですね。

夫婦獅子と云われても、どちらが雄雌か解り難いと思います。実際問題、ほとんどの造りは同じになるのです。地方によっても雌雄の違いは微妙に違うときもあるのですが。。加賀獅子の雌雄は頭にあります。角が生えているものは雄宝冠を被っているのが雌になります。ところがこれも意外に解り難くて角か宝冠か解らないものがいるので。。角や宝冠の中に仏像や神像を納めたものは基本的に雌と云われています。まあ、角があるのは普通は雄なんですけどね。。
また北陸以外になると、一人立、二人立の角のない獅子頭が多いのですが、顔の色のままが雄鼻を黒く塗ったものが雌とされています。

獅子舞獅子頭に頭をガブリとされると邪気払いになる、子供には学力向上・無病息災の効果があると云われています。特に慈母的な雌獅子のガブリは子供には効果てきめんだともいわれています。この頃、物忘れが激しく、風邪が長引く僕も一度がぶりをされた方がいいのかも。。
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加賀唐津獅子 どこかで観たんだけど忘れました。。。地元は間違いないんだけど
獅子ワールド館パーク獅子吼の開園と整備に合わせて造られたもので、知田工房の名の高まりに合わせて加賀獅子の原点として建てられたテーマ館になります。この施設の開館に合わせて、鶴来各町の獅子頭も一堂に集められて展示しており、祭礼の際にはここから搬出されています。ほうらい祭りや町祭りに訪れると、出場中で空きスペースになっていることが有ります。
前述の様に加賀獅子の古風を伝えるのが津幡町と鶴来町ですが、津幡町の獅子舞は加賀の古風を伝えますが獅子頭は、一向宗や前田秀継・利秀の津幡城・今石動城との関連から井波の獅子頭が主流です。鶴来の獅子頭が江戸期からの金沢・鶴来の古来からの加賀獅子頭を伝えているので、加賀獅子頭に興味のある方は必見と云えると思います。

室町末期の獅子頭、全国の代表的な獅子頭、海外の獅子頭や仮面も展示されており、獅子頭のルーツを見るにもなかなかのテーマ館になります。それと入館無料というのが素晴らしい所。。あまり宣伝されていないので地元の人も知らない人が多いようですが。。獅子ワールド館を見てから下にある知田工房の別館作業所や比咩神社近くの本工房や物産館で作製を見られますから、事前勉強に獅子頭を見ていくのがお薦めです。

ここからは、国内各地の獅子頭です。ピンボケやちょっと失念もあるのであしからず。。。
茨城県石岡市 幌獅子
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左上:熊本県 八代妙見宮獅子 左下:岐阜県 飛騨獅子 右:青森県 熊獅子
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東京? 江戸獅子 右:千葉県我孫子市の獅子
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鳥取? 角獅子?
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 鳥取県 麒麟獅子

旅行日 2019.09.01

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