医王権現社

DSC_5499.JPG
国見ヒュッテから少し南に向かうと小さなお社があります。医王権現社。        医王権現堂標柱

養老3年(719年)泰澄(法澄)が開山した医王仙ですが、その名を高めたのは養老6年の元明天皇の大病快癒に貢献した泰澄の薬剤と祈祷でした。この業績によって元明天皇から泰澄は神融禅師の称号、薬剤の産地となった医王仙の山名も医王山と授けられています。

薬剤の元となった薬草ですがその効用から薬師如来薬草と呼ばれ薬師如来(大医王仏)を祀ることになったとされます。医王山中でも白兀山(しろはげやま)周辺が薬草が多く山頂に奥宮を置いたと思われます。加賀では医王山と云えば白兀山を指すのはこのことからではないかと云われています。
泰澄が開いた加賀・能登を代表する白山・石動山と並んで医王山は加賀三権現として山岳修験道の一大霊場となり長く栄えたと云われます。

加賀側では白兀山を奥宮としてキゴ山・戸室山または二俣を登山口として、登山口周辺に寺院群が創建されたようですが、越中側では白兀山奥医王山を頂点に国見から祖谷の斜面、前医王山を胎蔵界の中心にした香城寺にかけての斜面に天台系の四八寺三千坊が立ち並び栄えたと云われています。
大池平に四八寺を取り纏めた大寺院・惣海寺が建てられたとも云われますが、今のところ所在地も詳細も真偽不明
DSC_5497.JPG
中世以降の神仏混交、明治の神仏分離によって、祭神や本尊仏がややこしく感じると思います。
神仏混交時代、神道仏教の神仏を同神として、神道側では仏の姿で神が降臨する、仏教では仏が神の姿でという一種の融合説で、これに古代神道の流れを汲む山岳信仰修験道が結びついて行きます。山名(一部人名)と結びつく権現・大権現、仏教色の強まった菩薩・大菩薩更に古代朝廷が有力神に準えた明神・大明神といった神号と三つ巴の呼び方がこれに当たります。

※仏教伝来、鑑真の戒壇伝授、大仏開眼、空海・最澄の密教伝来と仏教の国教化が進んだとはいえ、一方で古代神道及び国家神道は八百万神の信仰も根強く民衆・朝廷内に行き届いていました。この神道を消し去ることは無理な話で、逆にここまで進化した仏教を排除することもならず、仏教伝播を遂げるために神道との共存が諮られたのがこのような神仏混交・垂迹(すいじゃく)思想でした。現在でも一家庭に神棚と仏壇が共存する元になったものです。おかげでクリスマスやハロウィン、バレンタインと云ったキリスト教由来行事、アラジンなどの千一夜物語、オリンポスのギリシャ神話など異なる宗教物にも抵抗感のない下地にもなっています。

前述の神仏混交の内容も鎌倉期を過ぎると、「日本の八百万の神々は、実は様々な仏(菩薩・如来・天部・観音)が化身として日本の地に現れた権現姿」という本地垂迹思想が主流になっています。つまり医王権現を例にすれば。。薬師如来(仏)が少彦名神(神)になって日本の医王山に現れて、医王権現という姿で祀られたとわけです。
ついでに別事例を挙げると久能山・日光東照宮に祀られる徳川家康。戒名は東照大権現安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士 。戒名は様々な宗派を取り込んでいますが、肝心な神号は東照大権現。というわけで、家康の本地仏薬師如来の生れ変り説があり、垂迹神徳川家康というわけです。要約すると徳川家康は薬師如来の生まれ変わりで、家康という神姿で活躍し、東証大権現として祀られ見守っているというもの。。

※ところが明治の神仏分離で修験道が廃されると(正式には真言宗・天台宗に組み込まれた)、医王権現そのものが消えてしまい、神社では少彦名神となり、寺院では薬師如来というふうに、別々の神仏になったというわけです。
明治政府は神仏分離・合祀の奨励及び修験道の廃止によって全ての権現号・明神号を廃止したのですが、替わる祭神を日本神話(古事記・日本書紀)に求めた為に神社では主祭神に首を傾げるものが出現してしまったのです。更に政教分離で戦後に地元神をつけたす神社が続出。混乱に輪を掛けています。主祭神は天照・素戔嗚・伊弉冉・伊弉諾・大国主などがベスト5といえますが、じっくり見れば第三祭神が本来の主祭神ではないかという神社が多く見られます。
一方で戦後の信教自由のおかげで独自の信仰を造り上げた権現名・明神号が信仰として根強く残ったものが多くあります。愛宕・白山・立山・蔵王・飯縄・高尾などが好例です。
DSC_5498.JPG
医王山の山岳信仰と修験道が結びついた医王権現は、全国に勧請され医王権現社として広まり、明治の神仏分離令で修験道が廃されると少彦名神を祀る医王神社・医王山神社となっています。
特殊なのは寺院の方で、医王山〇〇寺という寺院が多く存在し、薬師如来を本尊とするものが多いのですが意外に医王山との関係が希薄で、似たような独自の由来を掲げるところが多くなっています。
これには本山となるべき医王山に大寺院が存在しないことにあります。また医王山信仰の消滅期間が長きに渡ったことにあります。

一向宗(浄土真宗本願寺)が北陸に教生を伸ばしたのは5代法主・綽如が開いた井波瑞泉寺からになります。当時の綽如や瑞泉寺次代の如乗の時代には、それほど教生が強いわけでなく南砺波山間地を中心にしており、加賀への足掛かりとなる二俣房を開基したとはいえ、地元勢力の医王山勢力とは協調体制を取って共存していました。当時の医王山を牛耳っていたのが、蓮如を排斥して、北陸を新天地として目指させた原因ともいえる比叡山系・惣海寺を中心にした天台宗寺院で、真宗教団から見れば、まさに触らぬ神に祟りなし状態と云えました。

様相が変わったのは文明3年(1471年)に8代法主・蓮如が越前の吉崎御坊を造り上げ、越中教生の梃入れを行ったあたりから勢力を
一気に広げ、まず加賀は富樫政親・幸千代の争いに介入することで富樫政親勝利に貢献、加賀一帯の教生保護の確約を取り付け加賀教生拡張にかかっています。合わせるように越中では如乗亡き後の井波瑞泉寺に婿入りした次男・蓮乗二俣房を正式に二俣本泉寺として土山御坊(後の安養寺御坊)と共に砺波平野への進出を図ります。しかし文明5年には一向宗徒の急激な拡大に恐怖した加賀守護・富樫政親が約定を反故にして一向宗弾圧に転じ、更に越中では政親から要請を受けた砺波福光城主の石黒光義が一向宗弾圧に乗り出し砺波平野を制圧しています。この弾圧によって蓮如は吉崎御坊に退避、蓮乗も瑞泉寺に引いています。記録は定かではありませんが、富樫政親と石黒光義の仲介を医王山・惣海寺が取っていたともみられています。しかし、一旦広がった一向宗もそう簡単には引き下がらず加賀・越中共に先鋭化していったと云われます。

とはいえ、加賀での富樫政親の弾圧は熾烈を極め、河北郡の一向勢力は武装先鋭化して対抗する専光寺・光徳寺、井波瑞泉寺に避難僧が集団化して先鋭化していきます。守護からの庇護のもとに真宗王国を企図していた蓮如は、一旦は下間蓮崇・専光寺・光徳寺に名指しの書状で一揆停止を指令しますが、蓮崇は無視して逆に闘えと加賀・越中に触れを出します。蓮如は下間蓮崇を破門にしたものの、失敗を悟ったように吉崎を退去して京都に戻っています。井波瑞泉寺では二俣房からの退避時の落馬で蓮乗は病がちとなり、養子として迎えた蓮悟はまだ幼く、過激派の如乗の甥・蓮欽が実権を握っており河北勢力の集団避難による宗徒の肥大化は猫にマタタビ状態。すでに一触発状態でした。

河北勢力の越中移入に危惧を覚えた加賀守護・富樫政親は再三に渡って、砺波を領した福光城主・石黒光義瑞泉寺攻略を要請していました。
当時、医王山は天台宗が主流になっており惣海寺がトップとなって四八寺三千坊を誇ったと云われていました。しかし周辺の加賀・越中の住民の転宗が相次ぎ危惧を深めていました。また、加賀と南砺波を繋ぐ医王山の見上道や二俣道の通行許可を求める一向勢力との軋轢も加わり、これ以上の一向宗の拡大は望んでいませんでした。。これらの事情から医王山勢力も石黒光義に加担を決定します。

そして運命の文明13年(1481年)、医王山の助力を獲た石黒光義は瑞泉寺襲撃の軍を起こします。医王山勢力300余を加えた1600余の軍勢を瑞泉寺に向かいます。対する瑞泉寺は百姓門徒5000を進発させて対抗します。両軍が対峙・合戦を行ったのは県道27号線(二俣道)を福光城から東に5キロほど、瑞泉寺からは7キロほど進んだ山田川の田屋橋周辺だと云われています。石黒軍の動きは完全に瑞泉寺に読まれていたことになります。しかし豪族の石黒軍と百姓主体の瑞泉寺軍では装備に大きな差があり、数の差を考えても五分もしくは勝算ありと石黒軍は果敢に合戦に及んでいます。

ところが瑞泉寺は別動隊を用意していました。加賀奥地(医王山南麓)の湯涌谷の一向宗門徒2000(現・金沢湯涌温泉周辺)が留守の医王山を裏側から急襲、軍勢を石黒軍に合流させた惣海寺を含む四八寺三千坊は抵抗の力なく全てを焼亡されたと云われています。この三千坊の焼亡により遺構や資料もすべて焼けてしまい医王山信仰の実態が解らなくなってしまいました。
余勢を駆った湯涌谷勢福光城に殺到します。この急報に動揺した石黒軍は「田屋河原合戦」に大敗北。福光城を失った石黒光義34名は真言宗安居寺(あんごじ)に逃げ込みますが、安養寺からの一向宗門徒に囲まれ自刃しています。
越中一向一揆の勝利は越中における真宗集団の安養寺(後の勝興寺)・瑞泉寺による統治が確定しています。ちなみにこの合戦で山田川の西が安養寺、東が瑞泉寺領と分割されたと云われています。石黒光義の死により名門・石黒宗家は衰退しますが、木舟城の支族がこの後も敵対して戦い続けています。支族だった石黒成綱は安養寺御坊を焼き払って宗家の仇を討っており、しかし織田・上杉の間で翻弄された人生を送っています。
DSC_5495.JPG

前述のように医王山はこの合戦によって、四八寺三千坊を失い、その後の越中・加賀双方からの一向宗により壊滅、資料・遺物全てが失われています。
真宗集団の統治時代に医王山周辺の寺社の多くが廃絶となった上に、、前田家の統治・加賀藩時代となると、金沢城石垣や武家屋敷、藩御用達の整備に使用された戸室石の産地として、医王山は一般人の立入禁止となって未入の地となっており、400年に渡って人跡未踏の地となってしまっていたのです。逆に自然が手つかずのまま残されるという恩恵が残されたのですが。。
400年に渡る空白期間は医王信仰の発祥地ながら、現在に至って聖地ともならず寺院関係の由来にもなれなかった主因といえます。

前述の四八寺三千坊の痕跡は今後の発掘次第でしょうが、県境が入り組み県立公園ということもあり、なかなか手を入れることもできないと思われます。白兀山展望台の整備に合わせて発掘が行われた際には9世紀頃の須恵器の欠片が多数発見されており、発見された玉髄製のソロバン玉石(南砺市文化財)が一部加工の手が入った形跡が確認されています。

故事や略歴から云っても、全国に広がる医王山寺院・医王神社・医王山神社の発祥地ともいえる場所でありながら、加賀・越中双方の霊山・観光の地となっていた医王山。。とはいえ戦国期以前の歴史を感じさせるものは皆無と云えます。

とはいえ古い歴史を感じさせる地蔵尊や石仏が点在しますが。。
地蔵峠の地蔵尊は室生犀星の「医王山」にも載っています。犀星は明治39年(1906年、17歳)、昭和15年(1940年、51歳)と二度、二俣町からタルマの水経由で地蔵峠から登山を行っています。地蔵峠の地蔵尊は明治の頃から医王山登山の目印になっていたようですが、詳しい来歴は知らないのでまたの機会に。。
加賀からの登山道の西尾峠から白兀山頂にかけて10体の石仏が点在しますが、こちらは寛政11年(1799年)紙屋嘉兵衛が作ったと云われています。実は哀しい物語が伝わっています。今は登山者たちを見守ってくれていますが。。
金沢に住む嘉兵衛の娘が、ある日、突然に行方不明になります。その日は激しい雷雨。雷雨は医王山の方向から鳴り響いていました。
嘉兵衛は医王山に娘が連れて行かれたのだと確信、娘の弔いと帰り道の道標に、道筋に10体の石仏を置いたとのことです。
現在もこれらの石仏たちは嘉兵衛の娘への思いと登山者たちを見守ってくれています。
DSC_5494.JPG
国見ヒュッテ近くにある堂舎の医王権現堂は建築年は不明ですが、医王山登山の安全祈願として旧福光町と山岳会が建立したようです。
鳥居の建立年は昭和46年(1971年)になっていました。御堂は50年近くの年月のわりに綺麗だと思ったら、3年前に補修修理が加えられていたようです。
毎年、医王山の山開きはこの権現堂の前で開催されています。例年、4/29に開催されているそうです。GWとはいえ、年によっては残雪が残っていますからご注意を。。10年ほど前に登った時、見上峠から田島城址の途中で残雪に足をとられて顔を埋めた経験者は語る^^;

医王山の医王権現信仰を伝える物はこの堂舎だけともいえますが、中世の医王信仰と安全登山祈願を見守り続けています。

旅行日 2019.09.26

"医王権現社" へのコメントを書く

お名前:
メールアドレス:
ホームページアドレス:
コメント:

最近のコメント

「延喜式神名帳」- by つとつと (05/28)

「延喜式神名帳」- by 藍上雄 (05/28)

「延喜式神名帳」- by つとつと (05/27)

「延喜式神名帳」- by ミクミティ (05/26)

「延喜式神名帳」- by つとつと (05/26)