尾山神社①

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金沢観光でシンボル的存在と云えば尾山神社・西神門が挙げられます。
尾山神社の地は、金沢城の金谷出丸と呼ばれた堀に囲まれた出丸でした。金沢城が攻められた際には最激戦の地となる場所のはずでした。しかし250年に渡る江戸の太平期ではそういった戦闘もなく、藩主の別邸と馬場が置かれていました。
明治4年(1871年)廃藩置県により藩主が東京に去った後、とはいえ全国的に長い藩政を懐かしむ風潮から、士族会を中心に全国的に藩祖を祀る神社の造営が行われていました。尾山神社もその一つと云えるものでした。明治政府も慰撫政策から容認していたようです。
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幕藩体制の時代には公に藩祖を神として祀ることは幕府への遠慮から大名家では忌避されていました。
ところが加賀藩では、慶長4年(1599年)藩祖・前田利家が没した際、浅野川から引き揚げられた卯辰の鏡を神体に、式内社・物部神社(現・富山県高岡市東海老坂)の八幡神、榊葉神明宮(現・榊葉乎布(さかきばおふ)神社、富山県氷見市阿尾)を勧請して卯辰八幡宮(現・宇多須神社、金沢市東山)を創建して利家の神像を祀っていました。物部神社・榊葉神明宮ともに2代前田利長の守山城時代所縁の神社です。

このことは幕府に隠れての公然の秘密とされ、加賀藩と東山の武家屋敷の住人の位別の拠出金で運営されていました。しかし幕末期の藩財政の逼迫と混乱により荒廃が目立ち、神像卯辰山三社卯辰山天神社(現・卯辰神社)に仮遷座していました。

ちなみにこの卯辰山天神社は江戸後期に造営された竹沢御殿の部材で建てられた表向きは撫育所の守り神、実際には前田利常を祀っていたものです。当時建て替えられて間もない社殿で卯辰山の山上になり、左右に豊国神社(旧山王社、遷座前には豊臣秀吉、前田利長・利常の神像が置かれていました。)、愛宕神社(旧愛宕白山社、加賀藩士が誓約の際に「愛宕権現、白山権現も照覧あれ」という元因)があります。江戸後期の混乱期とはいえ藩主三代の神像を置き、さらに豊臣秀吉の木像まで一所に祀ったんですから、社名を変えていてもばれたら大事になったはずで、加賀藩の微妙な側面が垣間見られます。加賀藩には玉泉院天満宮瑞龍寺の織田信長廟、豪姫菩提寺の大蓮寺の天井画の宇喜多家紋や八丈島への援助など、利家や利長・利常の思いへの信奉が代々伝えられていた一面があります。

明治4年(1871年)加賀前田家が廃藩置県により金沢から東京に去ると、翌年には社殿計画が出され、前田土佐守家・前田直信を代表に士族会(旧藩士会)からの献金などで社殿が造営されています。ちなみに、前田土佐守家は家祖が前田利政で、前田利家・正室於松の男系唯一の直系になります。
国に返上された金沢城出丸に造営できたのは、藩主の別邸(金谷御殿)が置かれ、13代・斉泰が隠居屋敷として生活していたことと、陸軍の駐留地となった本城とは堀によって隔絶された地ということもあったようです。
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つい数年前までは金谷御殿を説明する場合、藩主の隠居屋敷とされて来たのはこの前田斉泰が過ごしていたためと思われます。元々の金谷御殿の造営は6代吉徳の頃と云われていますが、吉徳死後には藩主の若死・急死により兄弟相続(7~11代)が続き、隠居所として過ごした藩主は10代重教・11代治脩・13代斉泰だけでした。元々、金谷御殿の規模は現在の金渓閣から本殿にかかる範囲で、残りは馬場になっていました。しかし、13代斉泰は天保9年(1838年)江戸から真龍院(先代正室)、その後の14代となった慶寧が金沢に戻る際と二度に渡り大増築を行っています。この時の建築費用は合わせて1万両にも上り、藩財政を苦しめています。加賀藩主独裁と支藩の統括を狙った斉泰ですが、竹沢御殿を造営して藩財政を傾けた父の血が流れていたようです。

これによって金谷御殿は現在の金渓閣・尾山神社・金谷神社の建物群の規模になっていました。ですが、真龍院は巽御殿を新築して過ごし、慶寧は二の丸御殿で過ごし謹慎期間は金谷御殿を使用したようですが、ほとんどは斉泰自身の御殿だったようですが。。とはいえ、斉泰がぎりぎりまで過ごしたおかげで、金谷出丸の地尾山神社の造営が出来た要因の一つになったのだと思われます。
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金谷神社前の展示部材
明治5年(1872年)の計画から1年満たずの大きな拝殿や本殿建立を見ると驚かされます。尾山神社の本殿、拝殿の部材には金谷御殿の部材が多数使用されたと伝わっていますが、それにしてもスピード建築で加賀藩の土木・建築技術の高さがいかんなく発揮されたようです。
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明治6年3月の創建と共に前述の卯辰山天神社前田利家の神像本殿に安置し、11月には県官吏出席の元に卯辰八幡宮から利家の神霊遷座が行われています。その後、境内整備や施設の増設が図られ、明治8年には尾山神社の顔となる神門、明治12年に利長・利常相殿に安置しています。これに続いて2代利長からの歴代藩主と正室を祀った摂社・金谷神社が創建しています。神苑も以前までは江戸初期の作と伝わっていましたが、この期間に手を加えて整備し直され現在の姿になったようです。
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ちなみに金沢市では尾山神社利家と松の夫婦を祀る縁結び・子作り・子育ての神社としていますが、創建から平成までは前田利家単独の祭祀でした。
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於松の方を合祀したのは平成10年(1998年)になってからになります。それも観光客誘致と大河ドラマ招致の為というのが目的。。めでたく平成14年大河の利家とまつがヒットして万々歳。。境内のまつのレリーフは大河ドラマ決定にに造られたものです。
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本来は前田利家個人を祀る神社というのが本当の所で、卯辰八幡宮から伝わる利家所用の黒鉄鎧・鯰尾兜、利家所用の備前光忠・秀景の雲流の金蒔絵鞘(重文)、豊臣秀吉が催した吉野の花見で利家直筆の桜詠歌の短冊などが神宝として保管されています。 ⇒ 尾山神社神宝 尾山神社HP

ちなみに、鉄鎧には戦闘に使用されたようで四つの弾痕が残されています。備前の大小は利家が利常との最初で最後の対面時に贈ったものだと云われています。

桜の詠歌・・・ちらさじと おもふ桜の 花の枝 よしのの里は かぜもふかじな 利家

来年の夏完成を目指して、玉泉院丸尾山神社(金谷出丸・金谷御殿)を繋ぐ、鼠多門鼠多橋の復元工事が進められています。本通りから直接、金沢城に入城でき、更に石川門経由で兼六園と繋がることになります。
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尾山神社南面と合同庁舎から 玉泉院丸城壁
個人的に金沢城の城壁で一番好きな城壁です。金沢城初中期にはこの道路は水堀になっていました。

次回は写真中心で尾山神社境内と金谷出丸の痕跡をご紹介しますねえ。歴史遺構的にはこの金谷出丸が金沢城防御の基準点になっていたのが解ります。

旅行日2019.11.12


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