松任 若宮八幡宮①

遅れましたが、明けましておめでとうございます。
小難しいブログに毎度ご訪問頂いて恐縮ですが、本年もよろしくお願いいたします。
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松任 若宮八幡宮 表参道
日頃、神社仏閣をちょこちょこ見て歩いているというのに、ここ2.3年初詣に出かけていなかった僕なのです。
昨年は大晦日寸前に眼鏡を壊して、修理に2週間、、新品を購入しようとしたら、カラーや乱視を入れるとやっぱり2週間かかると云われ、度の合わない眼鏡とサングラスしかなかった僕は遠出が出来ずに、年末年始は家に籠っていました。昨昨年、昨昨昨年は年末年始に風邪ひいて完全な寝正月で、嫁さんも仕事というわけで一人布団の中から駅伝を見ながら寝ておりました。
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若宮八幡宮 表参道 一の鳥居
(明治33年建立)
そして今年こそはどこかへ行こうと思っていたのですが、今冬は雪も降らずに肌寒いけど天気の良い日が続いています。年中花粉症の嫁さんにとっては唯一の元気な時期のはずなのに、こう穏やかな日が続くと早くも何かが飛んでいるとグズグズ言っています。当然、出掛けたがらないのですが、休みのあった1/4、近くに初詣に行こうというわけで、近くの神社で済ますことに。。。
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表参道 門柱
20数年前、滋賀に引っ越す前に3年程、旧松任の布市町にいたんですが、娘も幼い頃で近くにあった若宮八幡宮に初詣に行っていました。滋賀から戻った場所は東一番町で少し離れましたが、祭礼などでは役をやらされて何度か行っていました。。
ところが、氏子地区ではない現在地に引っ越してからは、近くて遠い神社になってしまい、すっかりご無沙汰してしまっていました。振り返ると10年振りじゃないかなあ。。初詣だと20年振りなどと嫁さんと話しておりました。
画像には1/4の初詣と4日後に立ち寄った際のものですが、1/8は雨降りでしかも夕方なので暗くて申し訳ありません。
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表参道 常夜灯(門柱前)
木造桟瓦葺 基礎:花崗岩五段石組(東西4.12m、南北4.11m) 高さ8.15m 板壁:下見板張 屋根:方形造瓦葺 外壁上部四面ギヤマン(白・赤・青色ガラス)
中に灯油ランプを下げて灯りを放つようになっています。
白山市文化財指定
白山市は平成17年(2005年)に1市2町5村(松任市、美川町、鶴来町、河内村、鳥越村、吉野谷村、尾口村、白峰村)が平成の大合併で誕生した市です。その中で面積・人口共に6割を占めるのが旧松任市なります。
旧松任市の中心市街地(旧松任城下町)の旧松任町(北:八ツ矢、東:布市・石堂、南:倉光、西:茶屋の範囲)の総鎮守が若宮八幡宮になります。往古には一里四方の神森があったと云われ、時代の変遷で開発や台風などの被害で社地は縮小されたと伝わりますが、現在も社地八千坪で、隣の若宮公園の森を含めると1万坪以上になり、旧松任市では最大規模の神社になります。
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上:表参道 二の鳥居(平成12年建立) 実は二の鳥居は三番目の画像の門柱の場所に明和2年(1756年建立)の鳥居が建っていました。ところが、昭和42年(1977年)清掃作業車が衝突して破損、修理再建を目指しましたが、結局修理不能となり、以前の鳥居を模して現在位置に建立されたものです。明神鳥居の変形ですが、最上部の笠木と島木が両端の双方に反増を加え、土台の亀腹も襷状に削ぎ込んだ珍しい形態。。事故とはもったいない話、元の鳥居はまた後程登場します。
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右:県社若宮八幡神社時代の社標 若宮八幡宮説明より…明治20年(1887年)、新田の増田三郎平氏が奉納したものです。新田町の増田三老氏の三代前の方にあたります。明治5年、太政官布告によって社格が定められ、全国の神社が十一の段階に格付けされました。その時より若宮八幡宮の社名が若宮八幡神社と改められました。戦後社格が廃止されたので、再び現在の若宮八幡宮と称するようになりました。幣殿の社名額も明治9年のものですので、若宮八幡神社となっております。なお当時の当宮の社格は明治5年11月郷社に加列。明治13年8月6日懸社に加列。明治39年12月29日神饌幣帛料供進神社に指定。
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若宮八幡宮由来記
本宮の創始は平安期の末期で、石同・白丸・三丁街の三聚楽が併合し松任になった康平五年(1063)以前からの鎮座の古社である。御祭神は応神天皇一柱で、康平六年鎮守府将軍・源頼義が安倍貞任父子を討って奥州を平定後、先ず石清水八幡宮を相州鎌倉に勧請し、次いで当国では国府富樫守に本宮の造営を命じたので、其族・山上新保介宗久は命を畏み致誠(ちせい)以て社殿建立の事に当った。其時新たに貴船神社等境内社六社を勧請して、翌七年二月鎌倉から従四位・岡本右京、西尾金太夫・国府守人・社家三人社僧・長福院が下向し祭祀を厳修した。
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弘治三年(1558)七月時の神主従五位藤原大炊介が神祇官へ提出した書上帳によると、康平七年(1065)に源頼義が社料を寄進し、康永三年(1345)十一月足利将軍が社領百石を納めた。
嘉慶二年(1388)二月後小松天皇の勅使左中将・藤原元隆下向して圭田六十二束・三毛田を納め、延徳三年(1491)八月足利義稙は石鳥居一基と刀一口を寄進した。    表参道 手水舎 
参道奥に見えるのが二の鳥居になります。 
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康正年中(1455~1457)には松任の城主・松任修理亮が、文正元年(1466)には鏑木貞宗が社殿を造営修補し、慶長十六年(1612)十二月前田利光(後に加賀三代藩主・前田利常)が年中日供米十石八斗をした等、古来武門・武将の尊信篤く庶民の崇敬亦敦厚であった。
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社地は由比加新保の森とたたえ一夜で出来たと云い伝えられ、津田風郷の石川訪古遊記や加越能金砂子社蔵の御先祖物語等にも皆一夜業成と記されている。
往時は頗る広大な森林であったことは、社家神人の邸址や経堂又は流鏑馬馬場址等に徴しても知ることが出来る。

併し現今の境内地は約八千坪である因に明治以降の官社時代社格は県社であった。

石碑は昭和三十二年(1957)七月建立 碑文は当時の宮司・平岡栄雄 
由来記が読みにくくなり(西暦)等を加えて説明板を設置した。  令和元年九月

文中の補足・・・石同・白丸・三丁街の三聚楽:聚楽と聞くと豊臣秀吉の聚楽第(じゅらくだい)を連想しますが、聚楽にはこの世の歓楽が集まる所という意味があります。要は大都市(首都)や賑やかな場所や歓楽街を指します。秀吉の聚楽第はここが日本の中心(首都)だと宣言したわけですが、ここではあくまで松任の賑やかな中心街通りを指しています。石同は松任小学校の前から北に向かう通り、白丸は(元は四郎丸、加賀藩主・前田利常が城丸と名付け変化したもの)現在の商店街通りの千代尼通りの一本南の通りで歓楽街、昭和には飲食・料亭が立ち並んでいたと云われています。三丁街は不明ですが東一番町から東三番町の通りと思われます。
社家:有力神社などで神職を世襲して来た神職家を言います。有名なものでは出雲大社の出雲国造家(くにのみやつこけ、千家家・北島家)など、、当時の加賀の有力社家となれば白山比咩神社、笠間神社、石部神社あたりでしょうか。。
長福院:能登一宮・気多大社の四神宮(別当)寺(正覚院、薬師院、地蔵院、長福院)の一つ。明治の神仏分離で正覚院のみ分離独立で残りの三院は廃絶されています。
若宮八幡宮 拝殿
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若宮八幡宮 狛犬(大正3年(1914年)寄進)
鎌倉の鶴岡八幡宮の由来は、前九年の役を勝利した源頼義(河内源氏2代、義家の父)が、戦勝祈願した石清水八幡宮を勧請して鎌倉(由比郷鶴岡)に鶴岡若宮(現・元鶴岡八幡宮)を創建したことに由来します。石清水八幡宮勧請としていますが、異説としては当時の河内源氏の本拠地の氏神は壷井八幡宮(大阪府羽曳野市)で、近くの通法寺址に初代・頼信、二代・頼義、三代・義家の墓所があります。河内源氏の本願地ということを考えれば、壷井八幡宮の創始はもっと古くなると思われることから、壷井から勧請したという説が正解だと思っています。
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前九年の役から凱旋した源頼義は朝廷から恩賞として正四位下・伊予守に選任されています。平永衡の誅殺、これによる藤原経清(奥州藤原初代・清衡の実父)の離反による混迷で軍事行動を誤り、実質12年に及ぶ長い戦闘に対して批判も多かったと云われますが、昇位と共に受領としては伊予守となっています。伊予守は当時播磨守と並ぶ筆頭格でした。朝廷からの評価は高かったと云えます。
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拝殿脇 酒樽 銘柄は高砂(金谷酒造)・天狗舞(車多酒造)・手取川(吉田酒造)
白山市には白山菊酒のブランド名で、全国的に知られた酒処。上記の三酒造は旧松任市に点在し、旧鶴来町の菊姫(菊姫合資)・萬歳楽(小堀酒造)を合わせた五酒造によって白山菊姫ブランドが構成されています。
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若宮八幡宮 社務所  
しかし、部下に対しての恩賞獲得が遅れ2年間在京のまま奔走、赴任できないために官税も自腹で払っています。各地の八幡宮建立はこの部下達への恩賞遅滞と源氏勢力の慰撫浸透の一環だったと思われます。鎌倉の鶴岡を最初にしたのは、相模国が頼義の初受領地であり陸奥守の前任地で10年以上を掛けて基盤を固めた地でした。相州鎌倉はそういう意味で河内源氏の最大基盤地で、後世の源頼朝の鎌倉幕府、足利基氏の鎌倉公方家と、鎌倉が源氏の本拠となったのは源頼義の功績と云えます。
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神泉苑
全国には若宮八幡宮・八幡神社が多く存在しますが、大別すると二種類あります。主に石清水八幡宮、宇佐八幡宮、鶴岡八幡宮の新宮・別宮・若宮として八幡神(誉田別命・応神天皇)を勧請したものと、名の通り三社の若宮(子供)として勧請したものになります。若宮(子供)として勧請した場合は主祭神は八幡神の子として仁徳天皇(大鷦鷯(おおささぎ))になるわけです。主祭神が若宮の由来を見分ける方法になります。
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頼義の子・義家が石清水八幡宮で元服したことから異名が八幡太郎義家として有名で、八幡神はイコール源氏の印象が強いですが、実際には清和源氏だけでなく桓武平氏も弓矢八幡として厚く信仰しており、武門全体から信仰を受けていました。ちなみに、頼義と正室(平直方娘)の子供には義家・義綱・義光の三兄弟がいます。前述のように義家は石清水八幡宮で元服したので八幡太郎義家、次男・義綱は賀茂神社で元服したので賀茂次郎義綱、三男・義光は近江新羅明神(三井寺新羅善神堂)で元服したため新羅三郎義光と呼ばれて有名です。
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また民衆には八幡三神(八幡神・比売神、神功皇后)は故事から安産の神様として崇敬されています。この場合は古事・風土記の関係で二・三神が仲哀天皇・竹内宿祢・玉依姫が入れ替わる場合があります。民衆・武家双方から信仰を受け、おかげで八幡社は稲荷社に次ぐ数と云われ、本社としての神社・神宮としてなら全国最多の数になると云われています。
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前述したように松任の若宮八幡宮は源頼義が前九年の役後の都で恩賞運動の真っ只中で、自分の部下として動いてくれた部下達への慰撫工作と源氏勢力の地盤強化の一環だったと思われます。凱旋から恩賞運動の目途がついた伊予守赴任までの2年間に勧請された有名神社は、鶴岡若宮の他にも京都の左女牛若宮(現・若宮八幡宮社)、東京の大宮八幡宮が知られた存在です。大阪の壷井八幡宮も由緒では同年創建ですが、近くに別宮という地区も見られていますから頼義の父の頼信時代にはすでに勧請されていた可能性が高いと云えます。但し、壷井の名は前九年の役・加美川合戦での故事から霊水を持ち帰ったのが名の由来ですから微妙な所です。

松任の若宮八幡宮もこの2年間の間に勧請されたもので由緒では国府富樫守に命じたとされています。西暦表記がずれて居ますが、康平5年(1062年)では、まだ富樫家は成立していません。富樫家が成立したのは翌年で、国府の藤原加賀介宗助から林家(兄・貞宗)・富樫家(弟・家国)とそれぞれに分家(林家が宗家)して、富樫家国が野々市に富樫館を構えています。
由緒書の康平5年が正しいとすれば、加賀国府には頼義の次兄・頼親(大和源氏)の次男・頼房が、頼義の前九年の功績で加賀守に復帰しています。源頼房は荒加賀と呼ばれた武者として知られています。国府富樫守は加賀守・源頼房だと思われます。由緒中の国府守人は加賀守・源頼房もしくはその配下になると思われます。
DSC_5831.JPG山上新保之宗久顕彰碑 
石碑が摩耗し、案内板も消えていて建立年などは不明
由緒書中の其族・山上新保介宗久には鎌倉出身という話もあります。
若宮八幡宮寄進の切っ掛けの伝承では、将軍(源頼義)に日輪(太陽)に化けた白鳥を加賀の武士・山上新保介が将軍の命令で射落とし、褒美として若宮八幡宮の建立を許された、とされる故事と云われています。頼義が加賀まで来た記録は無く、故事は鎌倉となり、山上新保介が相模から派遣されたのではないかともみられます。
若宮八幡宮ではこの故事から毎年5/25に蟇目神事として、白衣・白袴の斎服姿の宮司が祝詞と共に一年の招福を願って、鏑矢を表裏の鬼門の方向に一本ずつ天空に矢を放つ神事が行われています。
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山上新保介の名は加賀国府と接する旧能美郡の別称・山上郷に由来すると思われます。鎌倉から派遣され加賀国府に仕え、源頼房が失脚で肥前に去った後に、能美郡に土着したと思われます。後年の久安6年(1150年)同名の山上新保介宗久が富樫家に仕え松任駅に来住、徳丸の地に住み寄進したと徳丸白山神社に伝わっています。この神社は若宮八幡宮の兼務社ですから、このあたりが混同の原因かもしれません。

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上:舟越社・白峰神社 中:大御社 右:春日社
造営責任者となった山上新保介宗久若宮八幡宮造営に合わせて、七つの神社(由緒書は境内社を六としていますが、以前の由緒書には七なので誤植?)として表参道沿いに勧請しています。これらの神社は本社から勧請したのか近在の祠堂を合祀したのかは不明です。
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また後に合祀したものもあり、若宮八幡宮の境内社は貴船神社、菅原社、大御社、諏訪社、高良社、舟越社・白峰神社、春日社、子安社などになります。各氏子町会が分担して管理奉仕しており、境内社とは思えないほど、いずれも大きな社殿を有しています。三箇日や春季例祭には拝殿が開かれています。娘が幼かった頃は僕も布市が氏子の大御社に参拝していました。
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左上:貴船神社境内 右上:貴船神社社号標 
右:貴船神社御神木のケヤキ
貴船神社は表参道を出て南に行った浦上呉服店の横にあります。若宮八幡宮の境内地から現在は独立した場所に建立されていますが、当時はこの辺りも若宮八幡宮の境内地だったと云われています。
貴船神社にはケヤキの巨樹があり、境内地が狭いために剪定や枯れ枝の処理が施されていますが、巨大で異様な樹形姿を見せています。樹高19m・幹周5.3m・樹齢不明。


旅行日 2020.01.04 01.08



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