若宮八幡宮②

DSC_5811.JPG
文中の補足・・・森林研究家が縄文期の面影を残すと比較に上げている森林
        気多(けた)大社「入(い)らずの森)」・・・能登一宮・気多大社の奥宮がある1万坪に及ぶ原生林。住民の立入りが禁じられていて、通常12月の例祭で神主一人だけが奥宮に赴く人跡未踏の森でした。昨年12月、天皇の即位記念として、歴代天皇(昭和、平成)が入った場所までの参拝が公開されて話題になりました。国指定天然記念物。
志雄路(しおじ)から 直(ただ)越え来れば 羽咋の海 朝なぎしたり 船楫(ふなかじ)もがも 大伴家持・赴参氣太神宮行海邊之時作歌一首
        吉崎御坊「鹿島の森」・・・石川と福井の県境の福井側にある浄土真宗8代法主・蓮如が開創した北陸の拠点・吉崎御坊(越前御坊)の近くに、大聖寺川と北潟湖に囲まれた陸続きの小島の名です。ちなみに鹿島の森は石川県になります。加賀唯一の暖地性の原生林。滋賀近江八幡から金沢までに分布する絶滅危惧種の大型のカタツムリのツルガマイマイが生息し、アカテガニの産卵地となっています。国指定天然記念物。
よもすがら たたく船ばた 吉崎の 鹿島つづきの 山ぞ恋しき 蓮如上人 吉崎退去時の作

横浜国立大学名誉教授・宮脇昭(1928年生)氏は、地球環境戦略研究機関国際生態学センター長。土地本来の植生の自然林が自然災害に耐える。土地の植生は鎮守の森にあると主張しています。植生の確認から「混植・密植型植樹」を提唱・実施しています。横浜国立大学キャンパスの森の設計実施、マレーシアの熱帯雨林再生の成功、万里の長城のモウコナラ植樹プロジェクト、神奈川のドングリドリーム大作戦を推進しています。

若宮八幡宮の若宮の森視察ではヤブツバキ・タブ・アオキ・ヒメアオキの密生林を評価しています。しかし、市ではケヤキやナラなどの高木や松の植林を重視していて、宮脇先生の趣旨には反しています。是非整備には一考して欲しいものです。平野部でこれだけの緑の森はなかなか見られない貴重な存在です。
DSC_5848.JPG
若宮八幡宮社豪裏 若宮公園池泉
DSC_5847.JPG
DSC_5846.JPG
若宮公園南面松林
神社の「若宮の森案内板」によれば、天平13年(741年)には一里四方に及ぶ社豪を誇ったと云われています。古来は一夜に出来た神森として由比加新保の森と呼ばれた広大な森だった とも伝承されていました。時代と共に開発が進み、台風被害にも見舞われ、大きく縮小されていますが、それでも公園の森を含め一万坪以上に及ぶ社豪を抱えた自然豊富な森になっています。由比加新保の森の名称由来ははっきりしませんが、鎌倉の由比ガ浜に由来する由比と思います。新保は姓名や地名が北陸特に石川と新潟に多いのですが「新しく開墾した土地」という意味があります。森林を切り開いた由比が浜のような開拓地(境内地)という意味でしょうか。。
DSC_5878.JPG
若宮神社裏社豪と中村用水
左の田圃が神撰田になります
また地図や地形で見ると、若宮八幡宮の境内地の倍以上の敷地を誇る隣接地の若宮公園が一目で同じ森だったことが解ります。証明するように神社と反対側の側面も松林になっています。近世までも巨大な森だったことが窺われます。ちなみに若宮八幡宮・若宮公園の池水は七ヶ用水の一つ・中村用水が使われています。

案内板では荒れ果てたように書かれていますが、間伐や植栽の努力によって大きな森が復活してきています。ただ外周に松を多用しているので、手入れが必須になるので大きな課題ともいえます。
若宮公園や公園南駐車場からは用水路沿いから、深い森の道を抜けて拝殿横に裏参道があります。冬場や雨降り時はは肌寒いですが、夏場は木陰になって散策にもいいし、駐車場で避暑のおサボりもできるし^^;僕も恩恵をよく受けていますから大事にしたいものです。
DSC_5876.JPG
裏参道脇の一角にあるのが神撰田になります。
大正3年(1914年)大正天皇御大札記念として神撰田(御供田)40坪が寄進されました。最初は布市2丁目(若宮神社入口前)でしたがその後に現在地に移され、昭和8年(1933年)から御田植神事が行われています。現在は毎年5/26に早乙女20名を含む40名の行列が行われ、20名の古式の早乙女姿が一列に並んで田植えを行います。神事後には神社で餅まきが行われます。早乙女姿は必見です。⇒ 北陸・信越観光ナビHP
DSC_5829.JPG
千代女像堂 句碑
若宮八幡宮の江戸期の二の鳥居があった門柱を入ると、すぐ右手に若宮八幡神社時代の社標や歌碑が建てられています。
画像左側の建物の左右に建つ円柱が、前回ご紹介した先代の二の鳥居の残骸です。明和二年(1756年)建立と江戸期の古い鳥居でした。ところが昭和42年(1977年)に清掃作業車が衝突、破損させてしまいました。補修を試みたものの結局補修を断念して撤去することになりました。
DSC_5821.JPG
DSC_5842.JPG
上:江戸期の二の鳥居のあった場所
右:平成12年(2000年)に、場所を変えて、先代を模して建立された二の鳥居
奥に東屋のような建物に腰かけた女性の像があります。藪に囲まれてうす暗く、彫像も摩耗しており、不気味に見えますが@@;
松任もとい白山市でも古今を通じると一番有名な人、加賀の千代女の像になります。加賀の千代女(元禄16年(1703年)~安永4年(1775年)

加賀の千代女について(千代女の里俳句館より)

千代女は元禄16年(1703)、加賀国松任町(現在白山市)の表具師、福増屋六兵衛の娘として生まれました。
北越一帯は、元禄2年(1689)の松尾芭蕉の奥の細道の旅をきっかけに、蕉風俳諧が非常な隆盛を見せ、各務支考の北上によって、各地の在郷町でも、俳人達の組織化が始まっていました。千代女は、こうした環境の中で生まれ、 幼いころから俳諧に親しみ、湊町本吉などの開明な俳人達に学んでいたと伝えられています。そして享保4年(1719)各務支考は、松任で17歳の千代女に会い、あたまからふしぎの名人と絶賛しています。

翌年、千代女は結婚して金沢に嫁ぎ、金沢の句会にも参加していますが、夫の病没によりわずか1年余りで帰家したと見られます。彼女は生まれつき身体が弱く、その後結婚することはありませんでしたが、街道沿いの千代女の家には、次々と各地の俳人が立ち寄って句を交わし、また、頻繁な書簡の交換によって多くの俳書に入集して行きます。

年を経るに従い、父母や兄など家族に不幸が続いたことから、家業に従事せねばならず、俳諧を続けることが困難になります。しかし、この期間に千代女の内面の充実があったと考えられます。

40代後半から、加賀の俳人達の書画軸制作が流行し始め、それと共に千代女の俳諧活動は再開されます。
宝暦4年(1754)52歳で剃髪した後の10年余りはめざましい活躍を見せ、宝暦13年(1763)には、藩命によって朝鮮慶賀使献上の句軸・扇を書上げ、翌年には既白編『千代尼句集』を上梓しています。
こうした活動は地方俳壇に大きな刺激を与えており、加賀では蕉風復帰が叫ばれ、やがて全国的な俳諧中興の機運を醸成するのに寄与していったと考えられます。

安永4年(1775)9月8日、千代女は長くつづいた病のあと73歳で長逝します。

千代女はほぼその全生涯を北国の小さな在郷町で過ごし、非常にストイックな生活を送っていますが、その名と代表句「朝顔に釣瓶とられてもらひ水」は広く知られ、やがて、さまざまな伝説が作られて、民衆のヒーローとなって行きます。一茶が引用した「とんぼつり今日はどこまでいったやら」の句も、生涯1,700余りの句の中になく、伝説と見られます。
しかし、その心は通じて、今も多くの人々に親しまれ続けています。
DSC_5825.JPG
千代女像の堂 氷室跡

千代女の代表句:
朝顔に 釣瓶とられて もらい水(代表句 月も見て 我はこの世を かしく哉(辞世句)
DSC_5862.JPG

加賀の千代女は国語の授業でこの俳句は何度か目にしたと思います。
千代女は代表句を始めとして朝顔の句を多く残していることから、朝顔は旧松任市、白山市の市花になっています。白山市では現在に至っても、生涯の詳細はともかく一番の知名度を誇る人物と云えます。僕もいつかアップしようと思いながら、様々な伝承や不明が多く果たせずにいる人物です。
この千代女の像や歌碑などは昭和42年(1977年)に設置されたものです。つまり、鳥居が破損された同年です。

千代女像の作者は、元日展審査員・彫刻家・都賀田(つがた)勇馬。県内に多くの作品があり、このブログでも数多く登場しています。アトリエとしたハニべ岩窟院も小松の隠れた名所になっています。 ⇒ 安宅関・弁慶富樫像 赤瀬那殿観音・神馬像
千代女の句碑の右に建つのは、若宮八幡宮の氏子で郷土史研究家、千代女研究家、俳人・中本怒堂の句碑(筆塚)になります・・・ 春光の 梢はるかなる 山をさす

千代女像堂前の道標は、北陸街道東町と大町の角(現・四日市交差点)に建てられていたものです。「右・京都道、左・金沢道」となっています。現在は新しいものが同地に建っています。東一番町にいた頃、僕は自宅への曲がり角として目印にしていました。
この道標には脇に千代女の句が刻まれています・・・道(どう)もその 道に叶ふて もの涼し  送別の句で、旧木曽街道横の笠間の杜(現・笠間神社)で詠まれたそうです。同地には摩耗した石しか残っていませんでしたが、前述の千代女の辞世の句碑が建てられていたそうです。
道標と辞世句碑は寛政12年(1800年)頃、晩年の千代女を世話した夫婦の酒造業・相河屋の後裔・園田家によって建立されたそうです。

千代女像の堂の横にあるのが千代女の歌碑・・・     こどもらに 山拝ませて 氷室餅
DSC_5861.JPG
案内板から・・・本宮にも鳥居をくぐり参道右側に氷室がありました。この氷室は深さ5.5米で、この中に雪を詰め込み全体をわら屋根で覆って夏まで貯蔵したのです。わが国では長い歳月の間、氷室の氷が人々に夏の涼を与えて来たのです。その為、各地でいろいろの行事が行われていました。旧暦六月一日今の七月一日を、この近辺では、「氷室のついたち」と呼び、詰まり氷室の節句が行われました。
加賀藩ではこの日江戸幕府まで天然氷を運んで献上したのです。松任ではこの日を中心に氷を切り出し、白山氷といって売り出され、町々を「氷やこーり」と売り歩いたといいます。
この朝は特に氷室饅頭が売られ、食べると腹に虫がたたぬと家々で食べたのです。今でも七月一日の月次際には明星クラブの人達により、神前に「氷室饅頭」をお供えしていただいています。
この千代尼の句は、子供達に氷室の由来話をし、白山を拝ませて氷室のついたちを祝ったという天然自然に融和した郷土の生活を詠んだものであります。
千代女像建立。創業八十五年記念に東新町・田中亮氏(田中屋先代)が昭和四十二年十月奉納したものです。

僕が東一番町にいた頃、横向かいには千代女の実家・福増屋の血筋を引く表具店(町内会長)があり、通りには氷室の氷を取り扱っていたという氷屋さんがありました。今はどうなんだろう?和菓子の田中屋さんは健在です。たまにお世話になってます。 ⇒ 田中屋(明治38年創業)HP
DSC_0069.JPG
DSC_0072.JPGDSC_0071.JPG
手取新 千代尼道標(白山市(旧美川町)井関町、蝶屋小学前交差点) 交差点左右の道が木曽街道
千代女は12歳から行儀と俳句の見習い修行として、各務支考門下の本吉の北潟屋半睡(後に大睡)の元に通っていました。この道標は木曽街道と福留道の分岐点にあたります。千代女は松任から木曽街道を南下してこの交差点をさらに南に進み平加を経由して本吉の師匠宅に向かった思われます。千代女の死後百年ほど後、文久4年(1864年)に建てられたものを昭和6年に発見され平成13年(2001年)に建立。道路拡張で平成20年(2008年)に再建したものです。道標の脇に千代女の句が刻まれています ⇒ 
うら道の よ起(き)ことふたつ 清水かな 
(意味は、この近道には良いことが二つある、近道と美味しい湧水があること) 千代女がこの道を通っていた頃に詠んだ最初期の作と云われています。(2015.08.24撮影)
千代女は生来病弱で籠りがちの少女で、俳句を嗜んだ表具師の父(福増屋六兵衛)に手ほどきを授け、12歳で本吉(現・白山市美川)の支考門下の岸大睡の元で修行。17歳の時、芭蕉を看取り遺書を代筆した芭蕉十哲の一人・各務支考(かがみしこう)の題答を認められ「あたまから不思議な名人」と激賞され、天才少女として全国に名を広めていました。18歳で金沢大衆免(現在金沢市森山1丁目)の大組足軽・福岡弥八に嫁いだのですが、1年余りで夫と死別実家に戻ったと云われています(未婚説・生涯独身説もあります。)。30歳半ばで父母・兄を相次いで失い福増屋を一人で切り盛りし40前半までの期間は寡作となっています。養子を迎えた60歳まで福増屋を切り盛りしたため、文中のストイックな生活というのはこの時代を主に指します。40歳代後半の頃に泉の念西寺(現金沢市泉町)に3.4年住んだようですが、出家して素園と名乗って実家(庵室を艸(草)風庵で生涯を過ごしたと云われています。

千代女が生まれ過ごした地は現在の千代尼通りの広小路近く(八日市町・ギャラリー千代堂周辺、小さな生誕石碑あり)になり、若宮八幡宮は生涯に渡る氏神様になります。当然ながら何度も参拝したと見られてます。先代の二の鳥居の建立は明和2年(1756年)で、千代女54歳で一番俳諧にも精力を注いだ時期で周辺地にも出歩いた時期です。
二の鳥居の修繕を諦めた際に、後世に残すことを考え、何度も鳥居を潜ったであろう千代女像の前に門柱として建てたそうです。

追加:前回、書き漏らしてしまいましたが、、松任駅前にある松任城址公園若宮八幡宮所縁の地になります。城址公園の以前の名前はおかりや公園と云いました。
おかりや御仮屋から由来しています。文政2年(1819年)に若宮八幡宮の改修によると思われますが、御仮屋が松任城址に置かれたことに由来しています。

旅行日 2020.01.04  01.08








"若宮八幡宮②" へのコメントを書く

お名前:
メールアドレス:
ホームページアドレス:
コメント:

最近のコメント