霊寶山 善性寺

山側環状道路を能登方向から加賀方向に向かって、四十万町東の交差点を左折してすぐの場所にある寺院が善性寺になります。浄土真宗の真宗大谷派(東本願寺)の寺院になります。善性寺のある場所は金沢市四十万町にあります。

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四十万(しじま)の町名の由来は解らないのですが、中世には富樫の庄・額(ぬか)七か村(大額・額谷・額乙丸・額新保・額三十苅(現・三十苅町)・額助九(現・四十万?)・額栗林(現・馬替?)、明治22年(1889年)に合併・額村、昭和29年(1954年)に金沢市編入村の一つだったと云われています。善性寺のある場所は加賀一向一揆に滅ぼされた富樫政親が最後の牙城とした高尾城から同じ峰筋の南2キロほどになります。

平安期から戦国末期まで、加賀に古く根付いていた富樫氏ですが、その基盤となっていたのが富樫の庄と呼ばれる地盤でした。本拠の富樫館のあった野々市を中心に、白山市の一部(郷村など)、明治以降昭和にかけて編入された金沢の前述の額村・富樫村・押野村・三馬村辺りが中心的な主要基盤の地だったと云われています。富樫の名を引き継ぐ富樫村、12代・泰家(加賀守護初代)の弟・家忠・景家からの額田・額氏を引き継ぐ額村などは、以前にご紹介した芋堀等五郎伝承などが残るように発祥地的な存在と見られ、高尾城が示すように最終防衛地でもあった富樫家の重要地だったと思われます。
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善性寺 本堂大屋根
善性寺は明応8年(1499年)に前述の富樫政親を滅ぼした富樫泰高によって寺地と寺院寄進により法慶(ほうきょう)によって開基されたものですが、それ以前は寶鏡坊・法慶道場と呼ばれていました。

ちなみに法慶(法敬、旧名・順誓)についてですが、照円寺(旧御影堂(法敬坊、白山市御影堂町(旧島田村))(現・金沢市笠市町、西本願寺派)を開基したと云われ、東西本願寺に文献が残る知られた存在のようです。

法慶こと順誓は応永11年もしくは28年(1421年)に山島郷島田村(現白山市御影堂町)で俗名・源灌之頭という国人領主として生まれ、宝徳元年(1449年)に出家、僧侶となり真宗本願寺8代・蓮如門下、側近として仕え5年後には島田村に親鸞と蓮如の姿絵を安置した御堂を造っています。現在の本願寺の本堂でよく見られる開祖・親鸞、八世・蓮如の御影が左右に安置されていますが、その最初期の御影堂から現在の白山市御影堂の由来になっています。この時に蓮如によって順誓から法慶に改名を奨められたと云われています。蓮如の晩年まで側近として仕え、蓮如をして「順誓と我は兄弟である」とまで言わしめています。蓮如は吉崎御坊から加賀・越中の途次に法慶道場にも他の加賀の大寺院を差し置いて3カ月ほど逗留していたと伝わります。
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本蓮寺 2015.05.09撮影
また寺宝として「紙本墨書正信偈註」があり、蓮如の弟・蓮照応玄の真筆で、応玄61歳の筆とされ、延徳3年(1491年)法慶に授与されたものと言われます。ちなみに応玄は、7世・存如の実子で次期8代法主の第一候補でした。ところが存如逝去の長禄元年(1457年)、井波瑞泉寺の叔父・如乗のクーデター的な後押しで庶子兄・蓮如が8代法主に就任。怒った母親(存如正室)・如円尼と共に加賀の津波倉・本蓮寺(江戸期に移転、現小松市細工町)の頓円鸞芸(5代綽如の子)を頼って本願寺伝来品・財物をもって出奔、大杉谷に圓光院(現・圓光寺小松市千木野)を開基しています。後に北陸に下った蓮如は吉崎滞在中に大杉谷を訪れ和解したと云われます。鶴来街道を善性寺から3キロほど北上した旧富樫村に円光寺・円光寺本町という地名がありますが、不確定ながら応玄の所縁を感じさせる名前です。ともかく、このような複雑な関係の蓮如・蓮照兄弟双方から信任を受けた法慶は北陸真宗にとっては興味深い人物の一人です。
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上:善性寺門前 蓮如上人御墓道入口 以前は真っ直ぐ行けたんですが、現在は水道施設を廻り込まねばなりません。
中:蓮如上人御墓道登山口
右:蓮如上人御墓道登山道 延々と急な登りが続く悪路、春は筍栽培地で警戒されます。
開創時の法慶道場が四十万のどこにあったかは不明ですが、近辺に蓮如の四十万善性寺(当時はまだ法慶道場)で藤蔓を石で潰して筆として名号を書いたという伝承が古くから伝わっています。この親交と重用された経歴により、蓮如が荼毘に付され分骨された際には限られた大寺院に与えられる頭骨を受けたと云われ、善性寺門前から進む山頂に、四十万の住民と共に石垣造りの立派な蓮如の墓を築いています。法慶こと順誓は永正3年もしくは7年(1510年)に波佐谷(旧松岡寺?、現小松市波佐谷)で逝去、90歳とも103歳とも伝わる長寿でした。
久しぶりに蓮如・法慶の墓所まで行こうと思ったんですが、相変わらずの急坂で雨でぬかるみ、山歩き用の靴でないと足が滑ってしまうので途中断念、興味のある人はこちらをどうぞ ⇒ きまっし金沢HP 
濡れてない時期でも厳しい勾配の山道ですから服装や靴にはご注意を。。以前は山道をそのまま抜けて戦中の石切り場を経由して御廟谷に抜けられたんですが、現在は不通になっているそうです。御廟谷には額谷ふれあい公園の北側から散策路を進むのが正解のようです。
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鶴来街道沿い 善性寺遠景
富樫氏は平安末期に12代泰家が加賀守護に任命されたものの、源義経の奥州落ちを見逃したとして短期間で解任され、鎌倉期には承久の変で上皇方に加担して不遇を囲っていました。南北朝に至って、足利尊氏に終始従った17代高家が建武2年(1335年)加賀守護に復帰し、以降には19代昌家死後に、斯波氏が20年程加賀守護に就くという空白はありますが、戦国末期まで続く加賀の名家として加賀守護家を確立していたわけです。

その富樫氏が内部分裂を起こした始まりの予兆は、応永21年(1414年)斯波氏追放から加賀守護を南北に分割就任した北加賀・富樫満成(久安富樫家)と南加賀・富樫満春20代当主、昌家の甥)という前例が出来たあたりから始まったと云えます。この時には満成が足利4代将軍・義持の側近として活躍しながら、畠山・細川などの大名家により失脚させられ、僅か4年で満春が北を相続する形で加賀守護となっています。
ちなみに満成は将軍側近として第一線に立ち、3代足利義満が溺愛した義嗣を死に追い込んだ当事者と云われていますが、更に鎌倉公方家反乱に関与したとして畠山家当主の畠山満慶を失脚させ、逼塞していた兄・畠山満家との当主交代に追い込んでいます。当主交代後、兄・満家から所領分けを受けた畠山満慶は能登守護となっています。つまり能登畠山家の祖になります。
満成は失脚後は逃れるように高野山に入ったものの、翌年に畠山満家によって将軍・義持の命で誅されています。その後、満成の北加賀を吸収して加賀守護となった満春は4代将軍・足利義持に重用されていきます。

20代・富樫満春の死後、加賀守護を継いだ長子・持春(21代)は永享5年(1433年)21歳で早世。その後を継いだのが次男・教家(22代)でした。生年が不明ですが20歳前の就任と思われます。ちなみに三男・泰高は持春の5歳下と云われますからこの時15、6歳?。
延暦寺座主を経て籤引きで選ばれた6代将軍・義教の急激な改革の余波を受けて、嘉吉元年(1441年)勘気を受けた教家は加賀守護を解任されます。解任された教家はそのまま幕府を出奔、行方不明となります。義教が跡を継がせたのが今回の主人公ともいえる三男・泰高になります。

23代・富樫泰高は、この時まで醍醐寺で喝食(稚児)となっていましたが、還俗させていきなり加賀守護職(第一次)にされたわけです。ちなみに喝食(かつじき)は禅寺などでの食事係、室町期には稚児扱いで禅僧の男色の対象を呼ぶ場合もありました。まあ、陰の存在から一躍、檜舞台に立ったわけです。泰高にとって天にも昇る心地になっていたと思われます。

ところが好事魔多しの典型ともいえるのですが、加賀守護就任の6日後、嘉吉の乱が起こり、将軍・義教が赤松屋敷で暗殺されてしまうのです。義教の死を知ると、出奔して逃走していた富樫教家が畠山本家の畠山持国をバックに泰高に守護返還を要求します。当然ながら泰高は管領・細川持之をバックに完全拒否します。このために富樫家内は泰高派教家派に二分され6年に及ぶ内乱へと発展してしまいます。
この間、翌年には管領が細川から畠山に変わり、加賀守護が教家の子・成春(24代)に変更されていましたが、泰高は加賀退去を拒否して戦い続けますが圧倒的不利な状況に追い込まれていました。ところが、文安2年(1445年)管領に細川勝元が台頭すると状況は一変します。管領家の後押しを受けた泰高は反攻に出て教家を国外追放、再び加賀守護(第二次)に復帰しています。その後、成春との和睦と関係修復が成り、前例に倣って加賀北を教家・成春親子、加賀南を泰高と分け合っています。和睦・関係修復に関しては臨済僧として東福寺(南泉庵)に入っていた教家(法名・甫柏)と、父・満春の33回忌法要を共同で施行して和解したと伝わります。しかし、教家のその後は消息不明のままですが、僧籍のまま隠居として加賀に戻ったのではないかと云われています。
ところが長禄2年(1458年)、長禄の変(三種の神器強奪・南朝斬殺事件)の功で管領・細川勝元によって赤松家が復活、加賀北の守護となり富樫教家・成春が追放となります。泰高と教家との和解はこの後とも云われていますが、ともかく成春は失意のまま亡くなり、四十万大仙寺に葬られています。ちなみに詳細は解っていませんが、大仙寺成春の法名大仙寺知定院から由来し父・教家の晩年の僧歴から臨済宗の寺院ではなかったかと推定されます。
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善性寺 梵鐘 昭和23年7月寄進
富樫泰高は成春の死によって幕命で2年程加賀一国守護(第三次)になりますが、寛正5年(1464年)に46歳で隠居、長子が病弱だったために成春の子・政親(25代)に当主と南加賀守護職(幸千代だったという説も?幸千代が本城とした今江城は泰高が築城し、一時期本拠とした城でした。)を譲っています。政親は応仁の乱の混乱の中で東軍として赤松家から北加賀を奪還して加賀統一、応仁の東西戦線で真宗高田派の応援を獲た西軍・幸千代(26代)に敗れ、一年程、加賀追放を受けますが、文明6年(1474年)守護の保護による加賀布教許可を条件に真宗本願寺派・蓮如の応援を獲て再起、幸千代を逆に追放し、改めて加賀統一、加賀守護復帰を果たしています。しかし、支援を得た本願寺の急進的な布教進捗、特に地侍の帰依に恐れをなした政親は、本願寺との同盟を破棄、弾圧に方針を切り替えます。

文明7年(1476年)には加賀国内・西越中で大規模な一揆が起き、本願寺門徒(一向宗徒)は大敗して加賀及び越中との国境付近から井波瑞泉寺に大きく撤退しています。二股にまで進出していた蓮如の次男・蓮乗が後の死に繋がった落馬事故もこの時の退却中でした。この時点では蓮如は吉崎に避難していましたが、一旦休戦として富樫政親との協調、守護公認の布教保護は諦めていませんでした。ところがこの停戦期間に大きな事件が起こります。幸千代との戦いで最前線に立って活躍、更に対一向宗弾圧でも活躍した松任城主の鏑木繁常が長子を京から呼び戻し家督を譲り、突然隠居して吉崎御坊に走り真宗に帰依、後には一族ごと本願寺勢力に寝返ってしまったのです。繁常は元々真宗信者という話も伝わりますが、本願寺と対立していた高田専修寺派だったとも云われていますが確証はありません。正室は妙善尼(正名は不明)といいますが、富樫成春の長女で政親の実姉妹であり、政親にとっては最側近であり義兄弟でもあったのです。この青天の霹靂と言える出来事に恐懼した政親はますます硬化してしまいます。

この停戦期間中には、越中井波に退避した加賀一向宗徒は一旦は蓮如に対して、帰郷の為にも加賀守護との和平・和睦を打診しています。しかし、蓮如側近の下間蓮宗(しもつまれんしゅう)は独断で蓮如の命令として、富樫政親への徹底抗戦を命じています。これによって加賀一向宗門徒は武力討伐に大きく舵を切ってしまったのです。蓮如は蓮宗を破門し、度重なる制止、更には過激派となった専光寺・木越光徳寺を名指しで諌止していますが、一旦動き出した勢いは止められず、難を避けるように吉崎退去となってしまいます。元々、政親との同盟を策しながら、軍団編成を行い、武器購入を進めていたのは蓮如本人ですから、門徒からは自分が焚き付けて何を今更という状態になってしまったようです。
吉崎退去の際に蓮如を護衛したのが前述の鏑木繁常(徳善)になり妙善尼も同行しています。後には次男が京に入り三人で布教に励んだと云われ、繁常は蓮如の死に殉死したとされています。ちなみに加賀一向一揆の元凶となった下間蓮宗は破門後、管領・細川政元の仲介でも許されず、加賀三箇寺などに仲介依頼しても断られ流浪していました。蓮如危篤の報に山科に駆け付け、枕辺で直接に許されたのは蓮如臨終の五日前で、蓮如の死の2日後に急死(病死)しています。

富樫政親はあっけなく加賀一向一揆に潰されたように思われていますが、そこは地域に根差した守護大名で、政親と加賀一向一揆の抗争は10年以上に及ぶもので、右腕と頼んだ鏑木一族が一向宗に寝返ったとはいえ抗争は優勢に進めていました。

長享元年(1,487年)9代将軍・足利義尚は六角氏討伐の為に近江遠征を行っています。父・義政と政治実権禅譲で対立していた義尚は各地の大名に召集を掛けます。応仁の乱での東軍を主力に西軍主将も参加しており、新将軍への期待や人気は高いものがあり、軍勢は2万2千以上を数えたと云われています。この大遠征に六角氏は敗北、主城の観音寺城を放棄して甲賀の山間地に逃げ込みます。新将軍としては幸先よく勝利を掴んだわけです。ここで後事を部下に任せて、都に凱旋していれば父を廃して、義尚の将軍権力は基盤を確定して明るい未来が待っていたでしょうが。。義尚は自身での六角征伐に固執して近江鈎(まがり、現滋賀県栗東市鈎)に2年余りも長対陣し、幕府機能を分裂させ、挙句には陣没してしまいます。世上の混乱に見向きもせず。趣味に走り東山に籠ったまま、湯水のように嵩む費用を必要として権威だけは手放そうとしない父・義政、銭ゲバで教育ママゴンだった母・日野富子、歴史の上に悪名を轟かす両親の元には帰りたくなかったというのが本音だったかも。。

加賀一向一揆との抗争も優位に進めていた富樫政親は、更なる地盤強化のための権威付けとバックボーンとなる新将軍家のために六角征伐に参軍します。短期間で終わると思われた戦役は前述のように、足利義尚が遠征出陣し政親が参軍した近江平定では当月には主目的の六角氏の観音寺城を落としています。ところが前述のように近江鈎御所に長逗留したことは、義尚の将来の禍根になっただけでなく、政親を奈落の底に落としてしまいました。冬を越し、春が過ぎる長逗留は戦費を消耗するばかりで、拠出する配下の国人衆だけでなく、地元・加賀の国人たちにも大きな不満となって、加賀一向宗徒と結びついて大規模な加賀一向一揆を呼び起こしてしまいます。

不満分子の国人衆と武力蜂起した加賀一向一揆が旗頭として神輿に持ち上げたのが、隠居していた富樫泰高でした。
泰高は70歳ながらも色気十分だったようで、大軍を率いることで北加賀を席巻し占領地を広げていきました。慌てて帰国した政親でしたが、孤立無援状態となり高尾城(別説で倉ヶ岳城大池とも)で自刃・戦死してしまいます。遺骸に関しては近くの父・成春の墓所・大仙寺とも、富樫館近くの大乗寺墓地に葬られたとも云われています(倉ヶ岳説では大池に沈み行方不明、江戸期に亡霊伝説が残っています。)。大仙寺説は御廟谷の墓石のいずれかが政親だとされる伝承の元になっています。一応、文書では遺骸が富樫館に運び込まれたと伝えますから、大乗寺説が最有力です。
戦後、足利義尚は政親の滅亡を聞き、近江から外征・一向宗討伐を主張しますが、本願寺との繋がりを持つ管領・細川政元の諫言を受けて断念しています。

富樫泰高は富樫館に入り野々市大乗寺で政親の葬儀を行い、翌年に富樫家当主を襲名し加賀守護(第四次)を宣言します。正式な守護宣下を受けたかは不明ですが、都合四度に渡って加賀全域の守護職に就いたことになります。しかし、進捗した加賀一向勢力(加州三箇寺)の勢力を無視することはできず、一向宗との協調体制を取らざる負えない立場となりましたが、荘園の横領を進めて守護権限維持に努めて、一向宗勢力からも尊宗を受けたと伝わっています。大小一揆後(享禄4年(1531年))に敗れた種泰・泰俊が越前亡命後に、本願寺が晴貞の加賀守護就任のために幕府・朝廷に働きかけ進物も贈呈していることから、真宗勢力が守護家をそれなりに頭に頂いていたことが窺われます。
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上:善性寺 山門
小振りながら緻密な造りの山門、潜ると眼の前には掘り下げたような広い敷地に大きな伽藍が広がっています。特に本堂の軒位置が目線になり、大屋根が自分に迫ってくるように、本堂が大きく見える視覚効果になります。
下:善性寺 本堂 入母屋造・本瓦葺・一間向背付の真宗独特の寺院造り
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富樫泰高以降の植泰(26代)、晴貞(27代)が一向宗との協調体制をとっていた証左が善性寺に残されています。 ⇒ 野々市デジタル資料館 古文書
特筆すべきは明応8年(1499年) 「富樫泰高屋敷等寄進状」・・・本荘四十万村 の内、大仙寺の屋敷・山林を、本荘同村に寄進する。この件をもって知行を全うすること。 ※本荘は石川郡富樫の庄で富樫家の本拠地を示します。大仙寺は富樫成春の墓所地で富樫家所縁の寺院を寄進したことになります。
文頭、右端に袖判があります。通常は文末の年月日の下に書かれますが、差出人と受取人の身分さの大きい時にはこの形になります。つまり加賀守護10年後の時点にも泰高が別格の存在だったことを示しています。

永正元年(1504年)加賀守護を継いだ泰高の孫・植泰(26代)が同じ内容で安堵状「加賀守護富樫稙泰書下」を書いていますが、書下としながらも通常の年月日の下に花押が書かれています。この書下のおかげで、泰高が永正元年までに亡くなったことが窺われ、波乱万丈の享年86歳の生涯と推定されています。弘治3年(1557年)松蓮寺(20代満春の菩提寺)の土地の支配権を善性寺に与えた判持「富樫晴泰(晴貞)判物」も同じくです。晴貞(27代・植泰次男)の時代には善性寺住職・教勝の子に端午の節句の兜を贈呈する気の使いようです。年と共に守護の凋落と本願寺の権力移行が解ります。ちなみに同じ善性寺古文書に花押を文頭に持って来た「富樫泰俊判物」がありますが、年代的に天文2年(1533年)で泰俊(植泰長男、晴貞敗亡後に加賀守護・富樫家当主28代を宣言)が越前在住のまま、四十万の散田百姓宛に出した命令書になります。

加能郷土辞彙(昭和31年(1956年)日置謙編)より

大仙寺・・・石川郡富樫庄四十萬、善性寺蔵、明応八年(1499年)九月晦日、富樫泰高袖判の文書に「本庄四十萬村之内 大仙寺分之屋敷並山林之事 云々 同村法慶道場へ所寄附也 云々」とある。法慶道場は後の善性寺で、大仙寺の遺地をそれに寄進したものと見え、その地は今、北四十萬の山麓、寺屋敷といふ所であらうといわれる。大仙寺は富樫成春の法号であるから、成春の創建したものか、又はその菩提の為に起こしたものかであらう。
善性寺境内 蓮如上人像
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善性寺・・・石川郡四十萬に在って、真宗東派に属する。同寺蔵、明応八年九月晦日、富樫氏の判書に、本庄四十萬村の内、大仙寺の屋敷並びに山林を法慶道場に寄附したことがある。寺記によればこの道場は応永三十四年(1427年)教授の草創で、法慶はその三代である。又弘治三年(1557年)十月二十三日付の晴泰の消息に敬勝の事を善姓(性)寺と書いてあるから、この頃すでに寺号があったわけである。大仙寺の遺址は北四十萬の山際であったが、前田氏になって同村の百姓地即ち今の所に移った。

補足:大仙寺があったという地はこの書では、以前富樫家の墓所として紹介した御廟谷の南から西面にかけての高まり部・斜面を推定しています。御廟谷の墓に関しては江戸期に草叢から数基の墓標が発見されたものですが、加能郷土書では額丹後家の後系の金屋家文書から額丹後屋敷説をとっていますが、御廟谷の墓所を富樫成春の大仙寺跡・善性寺旧跡として、富樫成春・政親の墓所というのも捨てきれずにいます。
ただ難点としては、あまりに山深い場所で、加賀北守護を放逐され零落した富樫成春とはいえ、子の政親は泰高の後見によって南加賀守護職、更に北加賀を取り戻して加賀守護になっており、もっと平野部もしくは山裾に父の菩提寺を置くと思うんですが。。
とはいえ、大仙寺の跡地に善性寺が開基されたのですが、江戸期になって現在地に移転してきたわけで、旧跡地が不明になっているわけです。
しかし、蓮如や法慶の墓所位置を見れば、旧寺社位置は登山道の登り口となる麓、つまり水道局の浄水場の位置ではないかとも思われます。
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蓮如所縁の寺院であり、富樫家とも浅からぬ因縁を持つ善性寺がある四十万は、白山詣での鶴来街道の中継点としても栄えた場所になります。
門前に江戸期の白山双六の絵図を刷り込んだ案内板がありました。東山(卯辰山)の西養寺を起点に白山本宮をあがりにしたもので、起点から各中継の名所地24カ所を描いています。県立博物館に寄贈された大鋸(おが)彦太郎の2万点に及ぶコレクションの一つで「新版手擲清水参並白山詣双六(しんばんてたたきしみずまいりならびにはくさんもうですごろく)」という長い名前の双六です。

白山詣双六・・・西養寺(東山(卯辰山))⇒乗龍寺(金沢25天神社の一つ、現在は西養寺に合併)⇒浅野川大橋⇒堤町紙屋⇒玉泉寺天満宮⇒地黄煎村(上泉村)⇒泉野一本松⇒寺地の天王(寺地八坂神社)⇒山科⇒窪の橋⇒高尾山(高尾城址)⇒額谷茶屋⇒四十万(善性寺)⇒曽谷(そだに)⇒坂尻⇒小柳茶屋⇒日御子の森⇒手擲き(たたき)清水⇒月橋⇒鶴来⇒金剣宮神主町⇒白山(本宮)

補足:現在でも隠れた名所がある地点を拾い集めています。僕のブログでもいくつか紹介しています。金沢の城下町から白山比咩神社の白山本宮までの24カ所の双六になります。もう一つの題名の手擲清水というのは、白山開山の泰澄が錫杖を突いた際に湧き出た清水をいいます。北陸鉄道石川線日御子駅傍に御堂があります。江戸期に霊験伝承が持て囃され大流行、起点の西養寺の井戸はこの清水まで繋がっていると信じられ霊験あらたかな水と東山茶屋街で珍重されてきました。
堤町紙屋は、堤町という旧町名は現在の武蔵が辻からの横堤町、高岡町や尾山町の下堤町、現在でも金沢のメイン通りですが、当時は内惣構が築かれ金沢御堂時代には防衛上の堤が築かれていたと云われ、その堤の土手上に北国街道が敷かれて店舗が並んでいましたが、紙関係の店屋が立ち並んでいたそうです。
地黄煎(じおうせん)村は現在の金沢市泉ヶ丘近辺、地黄の根を使った地黄飴を製造販売していました。国内では膠飴(こうい)、関東では下り飴。
寺地の天王は寺地八坂神社の本殿横にある祠、元明天皇を祀るとされていますが牛頭天王・寺地天皇を祀るともされていました。

東山の西養寺から玉泉寺の寺町が金沢城下町、上泉村から四十万までが泉野と呼ばれた金沢郊外地区、四十万からが鶴来の地内となります。東山から浅野川大橋を渡り右折して武蔵が辻で左折、堤町を南に北国街道を進み、犀川大橋を渡って広小路で分岐して左折、蛤坂から鶴来街道を進むコースでした。
ちなみに鶴来街道は加賀藩主3代・前田利常の命で始まり明暦から寛文年間(1655~1675年)に人持組の堀左衛門秀道・山本瀬兵衛長重によって、綱紀の時代、鶴来側から着工整備されたことが解っています。

白山詣は古くから盛んでしたが、江戸中後期以降は全国的に国内旅行の一大ブームが起こっていました。お伊勢参り・善光寺詣でもその表れですし、松尾芭蕉の「奥の細道」十返舎一九の「東海道中膝栗毛」、安藤広重の「東海道五十三次」、葛飾北斎の「富嶽三十六景」などは現代の旅行ガイドブックのような役目を果たしていますし、各地域を見れば博多八景・近江八景といった八景や十景などの名所旧跡が多く出ており、有名温泉地なども江戸期の発展が見逃せません。イメージ的に関所や封建制などで暗いイメージを感じますが、戦国風が薄れ泰平の時代になると藩という異国はあっても概して旅行感覚は現代のEU連合のようなイメージに近いものでした。気軽に行けない民衆や子供の間では前述の双六など、気軽な旅行ゲームが流行していました。
善性寺境内 鐘楼堂
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当然ながら、前田家や家族内にもこのブームはあって、自国内の視察や民生慰撫をかねて、藩内の名所への小旅行を行っています。
加賀藩主13代・前田斉泰などは精力的に藩内の各所を訪れていますが、白山本宮や鶴来まで遠乗りしています。
正室・溶姫も白山宮へ参拝していますが、1泊2日ながら提灯入り、宝物拝観では本殿と拝殿に仮廊下・幕張設営など大掛かり準備・設営が行われています。さすが将軍家のお姫様。。そうそう東大の赤門も溶姫輿入れに加賀藩が江戸上屋敷の溶姫御殿の正門として建てたもので、加賀藩は相当の気遣いを行っています。また、母の専行院(美代の方)が将軍継嗣問題で失脚し江戸屋敷に引取ったり、側近の専横など、更に幕末での江戸帰国など、加賀藩が財政的に苦しみ、政策的にも明治への影響力を残せなかった一因として非常に加賀藩では評判の悪い女性でした。加賀藩にこれだけ気を使わせた溶姫の白山詣ですが、四十万の休憩地では善性寺が選ばれています。当時、善性寺が加賀藩内でも重要地の扱いだったことが窺われます。
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上:善性寺 本堂 右:僧坊&庫裏
北陸真宗中興期の法慶道場と富樫家時代の大仙寺(富樫成春墓所・菩提寺)という激動の時代の歴史を引き継ぐ寺院になります。
太平の江戸期には鶴来街道上の鶴来への入口として、金沢・鶴来双方に親しまれた寺院になります。

明治8年(1874年)には学制発布により額村初の旧四十万小学校が発足しましたが、約6年間仮校舎が置かれたのがこの善性寺でした。
その後、額地区各地の小学校が統合され、現在は額乙丸町に額小学校としてあります。開校146年を迎えた額小学校の第一ページはこの地からスタートしています。

ちなみに善性寺から500m程に四十万小学校がありますが、こちらは昭和57年(1982年)に新設された第三四十万小学校から校名変更されたものです。

旅行日 2020.02.13

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