金名橋(旧手取川橋梁・御影大橋) 手取自転車道橋

現在、キャニオンロードと呼ばれるサイクリングロードはそのほとんどが金名鉄道と呼ばれた白山麓を走る鉄道路線跡になります。
金名鉄道(旧北陸鉄道金名線)については始終着駅だった加賀一の宮駅でご紹介しています。 ⇒ 2019.09.01 加賀一の宮駅舎

以前のブログから抜粋・・・金名鉄道は、鶴来の運送業者・小堀定信(こぼりていしん)が出資して、大正14年(1925年)に設立された鉄道会社でした。白山麓に鉄道をの情熱で白山下駅(旧鳥越村・河原山)を起点に創業したものの、白山下駅着工前には資金切れだったものの協力者・出資者を求めながら見切り発車で着工したといういわくつきの鉄道でした。

協力者・出資者募集にぶち上げた構想は、金沢から名古屋までを鉄道で繋ごうという壮大なものでした。もちろん単独路線ではなく、岐阜の越美南線・白鳥駅への鉄道接続、北陸線の金沢までの敷設という構想でした。とはいえ、計画は現在の中宮・白川郷のホワイトロードといった2000m越えの難関が待ち受け、前述の様に着工段階で資金ショートする個人レベルでは難しい路線構想で机上の構想、あくまで出資者・協力者集めだったとも云われています。とはいえ、その構想から金名鉄道と名付けられたわけです。

とはいえ、破産寸前まで追い込まれながら小堀定信の情熱によって、昭和2年(1927年)には神社前駅(加賀一の宮駅)・中鶴来駅に延伸、石川電気軌道の鶴来駅に到達しています。しかし、累積赤字に苦しんだ金名鉄道は、わずか2年で神社前駅・鶴来駅間(約2キロ)を石川電気軌道に譲渡しています。その後は神社前駅は金名鉄道・石川電気軌道石川線の発着駅となっていたわけです。昭和12年には駅名も加賀一の宮駅に改称、昭和18年には合同合併により北陸鉄道が誕生して北陸鉄道石川線・金名線として白山麓の貴重な脚として運行されていました。

白山麓を繋ぐ金名線は住民の貴重な脚と共に白山麓の山裾を走り、手取川と大日川を渡る二大眺望などで、白山登山客に人気を博しましたが、昭和40年代になると国道157号線が整備され、随伴道路の鳥越街道も整備されると共に、白山麓住民の交通手段が自動車に移行すると客数が半減、時間帯運航の調整などで対処していましたが、昭和58年(1983年)の豪雨災害で大日橋梁の岩盤が崩壊、翌年復旧したものの最終運行前点検で手取川橋梁の岩盤も風化で崩壊寸前が発見され再び全面休止に追い込まれてしまいました。そのまま、再開することなく昭和62年に廃線となっています。当時僕は県外に出ていて全く知らず、サヨナラ運行もなく消えたことに愕然としたものです。
DSC_6093.JPG
手取川橋梁から手取渓谷(奥白山麓方向)
奥に観える薄緑の鉄鋼トラス橋は広瀬大橋。最初期の広瀬大橋は大正15年(1926年)金明鉄道広瀬駅の保線道路として木製トラス橋として造られたと云われています。しかし翌年及び昭和9年の洪水で2度に渡って流失しています。現在の広瀬大橋は昭和40年(1965年)に建造されたものです。その姿形から別名・蝙蝠(こうもり)橋と呼ばれています。
金名鉄道(金名線)には旅客搬送の他に、戦前から服部鉱山・河合鉱山で採掘された服部(河合)陶石の搬送という大きな役割も持っていました。ちなみに服部陶石というのは大正5年(1916年)から服部工業(現ハットリ)が服部鉱山で採掘が始め、昭和30年代に開業した河合鉱山と共に、陶石がニッコー(旧日本硬質陶器)に搬入され、当時・食器やタイルなど、後にはファンデーションの原材料として使用されてきました。戦時中にはロケット燃料容器としても利用され、戦後には和式トイレの便器・小用器(衛生陶器)として飛躍的に需要が伸びていました。昭和期の和式便器の7割が服部陶石から作られたと云われています。更に白のセリサイトを高品位で含んでいるそうで、需要の高まりと共に当時は服部駅への引き込み線が使用され、後には河合鉱山では大日川駅傍の砕石・搬入場(現在も県道から見られます)から大日川駅からも搬送されていたそうです。廃線により運搬手段を失った後は服部鉱山は辰口側の加賀産業道路からトラック運搬されていました。河合鉱山の現状は知らないのですが、服部鉱山は閉山・閉鎖されていますが、数年前に河合鉱山は露天掘りの威容を映像で見たことはあるんですが、一般公開されていないので一度は眼の前で観たいと思っている眺望です。⇒河合鉱山HP
DSC_6111a.JPG
往時の手取川橋梁 金名橋案内板から
当時、白山登山の中継点とされた終点の白山下駅(現サイクリングターミナル)までの金名線の見どころには手取川と大日川の渓谷を渡る2カ所の橋梁でした。しかし金名線の存続にとどめを刺したのもこの2カ所の橋梁でした。

文中にあるように、昭和58年(1983年)の豪雨災害で大日川橋梁の橋脚岩盤が崩落して不通となり、翌年には復旧したものの、試験運転で今度は手取川橋脚の岩盤が風化によるひびが発見されて再び不通となり、その後は走ることなく昭和62年に廃線となってしまいました。
DSC_6094.JPG
手取川橋梁からの遠景 鶴来・下流方向
両岸壁の岩の崩落でわかるように、硬い岩盤ですが逆に脆く崩れやすい地層だと解ります。
金名線の廃線は白山麓の貴重な地元の足が消えることを意味していました。廃線後は道路(国道157号、県道44号)の改修や整備がなされ、白峰や一里野といった奥白山麓への自動車のアクセスまで非常に良くなったのですが、バスの運行便数が少なく観光の障碍になっています。
観光の起爆剤として、金名線の経路にはキャニオンロードというサイクリングロードが整備され、自然の景観を眺めながら自転車で走れる道が整備されてきました。
今後の課題は、観光客やファミリー層へのアピールとレンタサイクルの拡充と、中継点・休憩所の整備と増設が必須になってくると思います。
DSC_6114.JPG
キャニオンロード(旧金名線路線跡)
鶴来中島町地内、左のブリキ屋根の小屋は鶴来中島駅の駅舎跡。橋の直前に駅がありました。
金名鉄道廃線の元凶となった二つの橋梁のその後ですが、大日川橋梁は鳥越街道の貴重な橋として現在も貴重な自動車道路(てどり桜街道)となっています。
松任から鳥越小学校に向かう際、前述の河合鉱山の採石搬入場と登山道入口を過ぎた三叉路を左に曲がった200m程の区間が大日川橋梁になります。以前は鉄橋として鉄板ガードなどがあり余韻を残していましたが、現在は整備改修されて橋とは感じない道路になっています。石川県人でも橋だと気づかない人が多いかも。
DSC_6097.JPG
DSC_6096.JPG
DSC_6109.JPG
金名橋上部装飾モチーフ
橋の中央部、補強天桁に施されている装飾です。上は金名線を表すSLと車輪、中・右はキャニオンロードの自転車をモチーフにしています。


手取川橋梁金名線手取中島駅・広瀬駅間の手取川を渡る鉄橋でした。
DSC_6104.JPG
広瀬側畑地
金名線では1年掛けて大日川橋梁が復旧して、最終確認の試運転時に手取川橋梁の橋脚土台の風化ひび割れが発見されて、またまた不通となって、3年の月日の不通のまま昭和62年(1987年)廃線となってしまいました。手取川橋梁もこの時に撤去され長らくこの周辺も寂しいものになっていました。
DSC_6118.JPG
また廃線路の処理後の道路も鉄橋がないためにここで分断されていました。地元住民としては対岸に渡る貴重な橋としても、伝統の名残としても復活の要望が出されていました。しかし鉄橋の復活には多額の費用が見込まれ、合併前の鳥越・鶴来の両町村では計画段階で諦められていました。それでも諦めきれない地元から何度も要望が出されており、鶴来町・鳥越村のキャニオンロードの構想から、それは平成14年(2002年)降って湧いたように長年の夢が叶います。
DSC_6099.JPG
******************************************
金沢浅野川犀川に挟まれた小立野台地から続く土地に中心街があります。江戸期まではこの二本の大河が自然の外堀として城下町を構成していました。寛永年間までは藩主が金沢城本丸、主要家臣団が二の丸以下の城内に住居していました。寛永の大火後の金沢城内の再編・城下町の再編で、二の丸御殿という藩主の住まいと政庁が置かれると、藩士が城外に出ることになり、金沢城周辺だけでなく東山や寺町など浅野川・犀川の対岸にも藩士の住まい屋敷地が置かれるようになりました。この対岸に住まう家臣団の連絡・通勤路として数々の橋が架けられていきました。

戦災や大きな災害に見舞われていない金沢では、藩政期の区画や道路がそのまま残ったために、用水路の暗渠化などが進められて道路の拡幅を行って道路整備に努めており、河北・石川郡からの道路網整備のために主要道の大橋が整備されてきました。

その中でも主要道になる道路の橋は何度も整備・修復や架け替えが行われてきました。重要視されていた大橋は浅野川では、東から北国街道の浅野川大橋、香林坊・武蔵が辻を経由し山の上町で北国街道と合流する彦三(ひこそ)大橋、金沢駅前から東大通りを経由して鳴和で北国街道に合流する中島大橋。犀川では泉野・野田から笠舞に至る下菊橋、寺町・野町から幸町・本多町に至る桜橋、北国街道から金沢南の玄関口の犀川大橋がメインでした。人口増加の激しかった金沢南や石川郡を二橋では市内が混雑するために、増泉・米泉から金沢駅前に向かう御影(みかげ)大橋、その下流にある駅西に向かう大豆田(まめだ)大橋若宮大橋も幹線道路のバイパスの橋として整備されて行きました。
DSC_6090.JPG
金名橋 鶴来中島側から 豪雪地の為に、積雪2m以上を想定して、通常の自転車・歩道橋の倍の荷重に耐えられるように補強されています。
戦後以降、経済成長期には、自動車が運輸や移動の足になったために、幹線道路に架かる橋は重要な交通連絡橋として補修が施されたり、あっさりと架け替えられてきました。新設の鋼鉄の橋の寿命は建設時の強度から50~80年程と想定されてきました。それがちょうど現代に差し掛かるわけで全国的な問題になっています。また当時は鉄鋼産出が豊富だったこともあり、鋼鉄・鉄の橋の転用は考えておらず、ほとんどが使い捨てという建設思想になっていました。
DSC_6100.JPG
戦前は鉄・鋼鉄橋は再利用という考え方が高く意識されていたと云われ、国内の一部には文化財的な橋として移設によって再利用されている橋が幾つかあります。知られたものでは、、、

※東京江東区富岡の遊歩道の八幡橋(旧弾正橋)・・・国内最古の純正建造(昭和4年(1929年))の鉄製橋と云われています。
※東京中央区亀島川の南高橋(旧両国橋中央部)・・・明治建造の鉄橋を再利用して補強した鋼鉄トラス橋で都内最古の道路橋。
※東京八王子の長池見附橋(旧四谷見附橋)・・・大正2年(1913年)竣工の都内最古の陸橋を移築復元したもの。
※横浜汽車道の港三号橋梁・・・明治39年(1906年)北海道夕張川、昭和3年(1928年)横浜大岡川の橋梁として使用されて現在地に移設。
※長崎市中島川の出島橋(旧新川橋)・・・明治23年(1890年)河口の橋として建造、明治43年に移設。国内最古の現役鉄製道路橋。
※北海道千歳支笏湖の山線鉄橋(旧空知第一橋梁)・・・明治32年(1899年)上川線(函館本線)の鉄道橋として架橋。大正12年(1923年)支笏湖の軽便鉄道橋として移設。平成9年(1995年)から歩道橋に改造。
DSC_6105.JPG
DSC_6106.JPG
平成になると、かつて世界一だった鉄鋼生産も中国・インドに圧され減少方向となり、後塵を拝することになり輸出から輸入へと進みつつあります。更に京都議定書に観られるような、地球温暖化が問題視されるようになり、俗にいうECO活動が重視されるようになってきます。鋼鉄橋も使い捨てから補修修理による延命、昔に立ち返った再生・再利用が見直されてきているわけです。老朽化による荷重能力の低下で、鉄道橋⇒陸橋・車道橋⇒自転車・歩道橋といった使用荷重の業態変更もその一つになります。
今回の金名橋も京都議定書後の温暖ガス削減やECO活動の一環がもたらした先駆けの例となったものです。
DSC_6098.JPG
金名橋 広瀬方向から 中央部の天版補強が綺麗
金沢市の犀川に架かる御影(みかげ)大橋は、昭和26年(1951年)に金沢市街の交通緩和としてバイパス路線の大橋として架橋されたものです。架橋当時の大きさは橋長106.2m・有効幅員13m(車道幅9m・歩道幅2mX2)・ポニー型下路式(スルー)ワーレントラス橋でした。ちなみにワーレントラス橋というのは両端から細長い鉄鋼材を三角形で繋いで架橋する橋で、左右の主構で橋を支える形式がポニー型、下路は主構の内部を通行する形。現在の犀川大橋と同じ形で兄弟のような存在でした。

ところが、経済活動の伸長により、車の大型化・保有数が増えて、金沢市街では本線の犀川大橋を上回る交通量になってしまい、15,6年で荷重重量を超える交通量となっていました。それをごまかすように補修が加えられ、昭和60年(1985年)にはRC床版を鋼床版に変更して強度を持たせ基準をクリア、それでもその後も補修を繰り返していました。よく覚えていますが、信号待ちなどで車で橋上に停まると対向車が通るたびにバウンドしたのを覚えています。

昭和期には金沢駅表通りとして増泉・米泉を経由して、野々市・松任に向かう県道146号は金沢市街でも屈指の交通量となっていました。この為、交通緩和を図るために道路の四車線化が図られ昭和60年には四車線化しました。これによって県道の車幅が12mと広がったのです。ところが前述したように御影大橋の車幅は9mで、精一杯頑張って3車線が限界でした。川を渡る橋によって渋滞が発生する悪循環。更に古い道路区画のままなぞるように利用する石川特有の事情ですが、信号交差点でも右折ラインが取れない場所が多いという事情が拍車をかけて渋滞路線となっていました。

平成8年(1996年)この為に県では、山側・海側バイパスの整備計画で車の分散化を図り、御影大橋の幅員拡大のために架け替えを計画し実行を始めます。平成14年には仮橋が完成、残りは本橋の解体撤去という段階で浮上したのが、同時期に進行していた前述の手取川自転車道計画の最大課題の手取川橋梁復活でした。旧御影大橋の架橋から架け替えまでの年数はちょうど50年でまだ鉄鋼部材の耐久性が充分あり、前述のECO事業の高まりもあって、単なる撤去廃棄はもったいない、また金沢市民からも馴染み深い名橋の姿を残したいという意見が強く出されていました。この為、一転して御影大橋の部材の転用が決定したわけです。
DSC_6107.JPG
ちなみに御影大橋は平成18年(2006年)、それまでとは全く違う形態の単弦ローゼ橋として現在使用されています。下流側に片翼のアーチ状パイプの近代的なモノで初めて見た時は異様に広く感じました。片翼になったのは上流側の犀川と山並みの景観に配慮したそうです。
旧御影大橋の画像を探したんですが見つからなかったので、ちょっと短いですが同タイプの犀川大橋の画像と、現在の御影大橋の下流側のアーチの画像はこちら ⇒2010.01.14 犀川大橋
DSC_6113.JPG
金名橋 添接の高力ボルト仕様
当初の計画では完全移設を狙ったようですが耐久年度は十分とはいえ、金沢市街と違ってこの辺りは豪雪地帯になります。積雪2mを想定して、当初の荷重能力の歩道橋レベルの倍の能力を持たせる必要が生じて、単純移設を諦めて改造を加えています。御影大橋は土木遺産に指定されていたものの、前述のような文化財レベルの移設ではないという気楽さもあったようです。
DSC_6095.JPG
旧御影大橋の114部材の内、94部材が再利用、20部材が新部材を製作してトラス(三角)の中央部の上辺や支柱に使用されて補強されています。更に極力溶接は避ける。添接合のリベットはやめて高力ボルト仕様にしています。床面は鋼床版をサイズに合わせて切断使用、床桁は新素材を導入。その他にも検査強化を加えて架橋が完成しています。
DSC_6102.JPGDSC_6101.JPG
金名橋 底裏部分 手取川の川色が反射して緑に見えますが、実際にはメタルシルバーです。
前述文やこの辺りの事は架橋前の学術講演資料を参考にさせて頂きました。これには往時の旧御影大橋の全景写真があるので興味のある方はこちらをどうぞ ⇒ 鋼トラス橋の解体部材を移設再利用する自転車専用歩道橋について
DSC_6119.JPG
金名橋遠景 広瀬から 橋の右に見える白い柵から続くのはキャニオンロード(サイクリングロード)で旧金名線の路線になります。現在の県道44号線(小松鳥越鶴来線)に出て50m程進んだ先の広瀬駅に繋がっていました。県道沿いに駅跡があります。
DSC_6115.JPG
御影大橋の部材を8割ほどを使用して、平成16年(2004年)かつての手取川橋梁を復活させた金名橋。床版を切断加工して車幅を狭めるなどデザインはかつての手取川橋梁の姿に近づけています。完成翌年には全日本建設技術協会の全建賞道路部門賞・いしかわ景観賞を受賞しています。県道自転車道整備に廃線敷地を利用し、土木遺産指定の御影大橋の部材を再使用するという環境配慮型の架橋が高く評価されています。

構造型式:上部工・下路式単純ワーレントラス橋・自転車道、下部工:逆T式橋台(直接基礎)
橋長:70m、幅員4m 鋼材の再利用による削減二酸化炭素量は直径20㎝の樹木6000本の年間二酸化炭素吸収量に相当する環境効果が特筆されています。橋長が36m、幅が5mと御影大橋時代より小さくなりましたが、色はそのままで御影大橋の往時を彷彿とされるものにもなっています。

白山麓の人にとっては手取川橋梁、石川県人には犀川大橋と並ぶ馴染み深い御影大橋。双方の姿がまた見られる金名橋になっています。

旅行日 2020.03.02





"金名橋(旧手取川橋梁・御影大橋) 手取自転車道橋" へのコメントを書く

お名前:
メールアドレス:
ホームページアドレス:
コメント:

最近のコメント