加茂遺跡 国内最古のお触書高札

加賀平野の北部に河北潟と呼ばれる大きな湖がありました。この湖は昭和の大干拓以前は白山麓や医王山山系からの河川からの水と、海岸の砂丘帯に阻まれて海が堰き止められて造られた湖といわれています。 
古代には北金沢から河北郡の津幡・宇ノ気地区まで、現在の国道8号線・国道159号線・県道59号近辺まで湖だったと云われ、幾本もの大河によって運ばれた土砂により長い歳月で体積され扇状地の平野を広げて河北潟を自然に狭めたと云われています。

このために河北潟に近い場所は扇状地の構成がまだ新しく、泥濘地や水分の多い軟弱地帯が多くなっています。このような土壌によって宅地・商業施設・工場更には大規模道路が進出・転用ができず、湿地を利用する水田・蓮根畑が多く、広い湿原となっていました。
縄文中期までは湖が山際に迫り山上から山裾にかけて遺跡があり、縄文末期・弥生期・古代期さらに中世へとなって扇状地による平野部が構成されるごとに山裾から平野部へと人や村が進出して行ったことが窺われます。しかし縄文末期、それ以降も湿地帯ということで前述の国道・県道の西側には古代の重要遺跡がないと思われていました。

大規模な道路の敷設も、平野部土壌の安定化と建設技術の向上で近年になってからになります。当然ながら大規模道路の整備に対しては事前の発掘調査が行われます。それまでにも工場や商業地となった遺跡調査によって金沢南の犀川下流部のチカモリ・御経塚といった縄文遺跡が現れ、更に北側の上安原や中屋サワのような場所から運河を利用していた遺跡が発見されて行きます。特に中屋サワ遺跡からは運河跡が発見され大量の出土品と集落跡が発見され、漆塗り装飾の弓や土器と色がはっきり残るものが出てきています。縄文末期にはすでに海水運が行われていたことになります。注目されるのはこれらの運河を持った遺跡が縄文末期だけでなく弥生期には環濠遺跡となり、古代にも集積地や人口集中地で、平安期には荘園管理地、中世以降も栄えた場所という水運を持った複合遺跡になることです。
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国道8号線北バイパス 加茂IC 右が富山方向、左は金沢方向 高架下が加茂遺跡広場、撮影地(駐車場)が加茂遺跡の東南端部に当たります。右手の道路が県道59号で能登への旧官道をなぞって走る道路です。手前の茶色部道路に当時の倉庫・建物が立ち並んでおり、駐車場左手からは和同開珎の銀銭が出土しています。
今回の加茂遺跡のある英田(あがた)地区は河北潟の北で、山並みが迫る山裾の地で安定土壌の居住地が狭い平地ながら越中・能登・加賀の分岐点の要地で、縄文後期から室町期の複合遺跡で、平成期からの6度の発掘調査には大きな期待が寄せられていました。
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加茂遺跡広場
前述のように加賀の扇状地では、天然の泥土壌によって木材が泥の中に包まれ水中保存のようになり、奇跡のような埋蔵物が発見されるようになってきています。
本来ならば腐食する木製品が泥パック・水中保存の状態で発掘されてきます。以前、ブログでも紹介した金沢市北部の千田町で発見された金箔付笠塔婆という本来なら発見絶望のようなものが出てくるわけです。笠塔婆は平安末期から鎌倉初期と推定されていますが、今回の加茂遺跡ではそれを上回る平安初期、まだ加賀国が誕生(弘仁14年(823年))して30年に満たない嘉祥年間(848~851年)の木製品が出土しています。
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加茂遺跡広場 案内板前の黒っぽい直線は官道跡になります。
加茂遺跡で発見された画期的な発見は「加賀郡牓示札(ぼうじふだ)」「過所様木簡」「付札木簡」他になります。
牓示札と名称が難しい名前になっていますが、ようは高札であり御触書のことです。この発見は現在のところ国内最古の高札・触書になります。そしてこの高札の発見の重要な所は文字がはっきりと読み取れるところにあります。炭文字は当然ながら水によって洗い流されていたのですが、炭文字が防腐の役目を果して、炭文字下が表面より浮き、木材の色が違っていて白抜き文字として読み取れるというものでした。発掘されたのが平成12年(2000年)ですが、当時、防腐処理や保存処理、乾燥作業で公開が遅れたものの全国的な注目を集めました。文面の内容から律令時代の国・地方の伝達、地方行政、賦役の実態などこれまで万葉集の貧窮問答歌などから読み取る想像の域だったものが、公式なものとして覗えることになったところにあります。
過所様木簡は文面から関所通行証付札木簡は年貢米の玄米に付けられた明細札で集積倉庫があったことを示しています。関所としての防衛機能、倉庫群から租税などの集積・発送基地を兼ね備えた基地だったことが窺われます。
公開から数年の異例の速さで平成22年には重要文化財指定、27年には国史跡指定を受けています。
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加茂遺跡広場 左9本柱は高倉跡 奥10本柱2棟は役所跡と推定されています。
奥の案内板のある南大溝に沿って、河北潟方向に多くの建物が確認されています。
文化遺産オンラインHPより

石川県・平安時代・木簡 縦23.7㎝ 横61.3㎝ 厚1.7㎝ 1枚
所蔵先:石川県埋蔵文化財センター 石川県金沢市中戸町18-1
重文指定年月日:2010.06.29 国宝・重要文化財(美術品)
加賀郡牓示札は、石川県津幡町にある加茂遺跡から出土した嘉祥年間(848~851)の文書木簡である。加茂遺跡は古代北陸道の要衝で、交通史を考える上で重要な遺跡でもある。本牓示札の唯一の遺例で、その内容からは国司の勧農政策を遂行するための命令および伝達の方法、文書行政の姿、律令制の変容など、当時の状況を具体的に知ることができ、その記録性が高い。

石川県 奈良時代~平安時代
現地:石川県河北郡津幡町
史跡名勝天然記念物(国史跡)管理団体名:津幡町(平28.2.3)
国史跡指定年月日:20150310 史跡名勝天然記念物
河北潟(かほくがた)と宝達(ほうだつ)山脈とに挟まれた平野部に位置し,加賀国・越中国・能登国の境界付近にあたり,遺跡の東端付近を北陸道(ほくりくどう)駅路(えきろ)が通過している。平成12年の調査では,駅路側溝(そっこう)に連結する大溝から百姓の心得を記した加賀郡牓示札(ぼうじふだ)をはじめとする複数の木簡が出土し注目を集めた。河北潟につながる東西方向の南北2本の大溝に沿って,倉庫をはじめとする複数の掘立柱(ほったてばしら)建物や仏堂跡が検出されている。
駅路の敷設と廃絶時期が南北二つの大溝周辺の掘立柱建物群の成立時期と廃絶時期に合致すること,二つの大溝は遺跡と河北潟を結ぶ運河としての機能が考えられ,大溝の岸に沿って倉庫群が造られていることなどから,この遺跡は日本海の海上交通と北陸道駅路を用いた物資の運搬に関わる公的な性格が考えられる。また加賀郡牓示札等の出土木簡からは,百姓の管理のための施設や剗(せき)としての機能も有していたことが推測される。
水陸双方の交通に関連する施設であるとともに,百姓の管理などさまざまな機能を持った加賀郡家(かがぐうけ)(郡衙(ぐんが))の出先機関である可能性が考えられ,奈良時代から平安時代の交通政策のみならず,地方支配の実態を知る上で重要である。
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加茂遺跡広場 上部は現在の国道8号線
国道8号線は新潟市本町交差点からから京都市烏丸五条交差点までの幹線道路になりますが、福井から新潟までの古代の越路・北国路・北陸道、中世の北国街道(北陸街道)を継承するような道筋であり、滋賀県湖東の道筋は古代の東山道、中世の中山道を継承しています。
現在の国道8号線は各県の諸事情によってバイパス化で以前の経路を郊外への変更が多く見られます。
石川県でも以前は金沢の北部公園近くの今町からJR北陸本線に沿うように倶利伽羅峠に向かっていましたが、現在は津幡町北の舟橋ジャンクションまで北伸して、山間部を縫うように倶利伽羅峠に遠回りするようになっています。
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DSC_6182.JPG加茂遺跡案内板から 上:詳細図 右:詳細図内①~⑥
舟橋ジャンクションで能登に向かう159号線と枝分かれして300m程8号線を進んだ加茂ICの近辺が加茂遺跡になります。
国史跡として遺跡広場が8号線の高架下に造成されています。
加茂遺跡は縄文期から室町期に至る複合遺跡になります。古代・中世までは河北潟が現在の国道8・159号辺りまで迫っており、舟橋川の南北に大溝(人工運河)が造成され、遺跡広場を東南の端点にして推定200~300m程の区画に遺跡・遺物が点在発掘されています。また、広場東側面から能登路(古代官道)が遺跡内を縦断していました。発掘調査では奈良時代は道幅9m、平安期に6mに縮小されて両脇に水路が形成されていたのが解っています。地名の舟橋の名の通り西に300m先の河北潟に湊が置かれ、大溝で連絡されて水陸の要衝だったと思われます。
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過所様木簡 出土場所説明板
関所の通行証だったと推測されています。羽咋郡(能登国)からの羽咋郷長率いる官道の工人の通過許可を願った内容になっています。
古代北陸道において能登路と越中路の分岐点になっていた深見駅家と能登路の正式な起点となる横山駅家のちょうど中間点になるのが、現在の英田(あがた)地区である加茂遺跡となり、古くから河北潟の水運・能登路の官道と重要な水陸の中継点だったことが窺われます。
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ちなみに官道駅家は当時の30里(約16キロ)ごとに置かれていました。深見駅跡は所在不明ですがJR津幡駅から金沢市今町の間と推測されて来ましたが、加茂近辺も牓示の発見で有力視されて来ました。しかし前述のように横山駅家からここまで約8~10キロで深見村に属しても、駅家ではないと思われます。
しかし、後述する牓示札の傍から出土した過所様木簡の内容から、ここには関所的な存在も予想されています。
県道59号線津幡方向 この交差点から旧官道(後能登路)を完全になぞるように進み、JR本津幡駅を経由して津幡市街の四つ角で北国街道と合流しています。ちなみに国鉄・JR時代、現在と、津幡町には北陸本線に津幡・倶梨伽羅駅、七尾線に前述の津幡・中津幡・本津幡・能瀬(のせ)駅と五駅があります。平成後は知りませんが、昭和期は都市を除く地方一町村で全国最多の国鉄駅数の町でした。
持統天皇3~6年(689~692年)越の国が越前・越中・越後に分立しましたが、その領国は何度も境界の変遷を遂げていました。養老2年(718年)には能登国が越前国から分離独立、天平13年(741年)に越中国に編入されていますが一時的措置だったようで、天平宝字元年(757年)に再び独立しています。この16年の能登が越中国時代の内5年間、万葉歌人・大伴家持が天平17年から5年間越中国守として赴任、能登も巡検しています。但し能登巡検は北陸道ではなく直接山越えの志雄路を通っていますが。。越前が現在の嶺北と石川県だったり、越中が新潟の上越・中越までだったりと領国の境界線も変遷を繰り返していますが、その後、確定したのは越前国から江沼郡と加賀郡を割譲して中国として加賀国を独立させた弘仁14年(823年)。同年に江沼郡北部を能美郡、加賀郡を犀川で北を河北郡(加賀郡)・南を石川郡として藩政期まで続く四郡制が成立します。天長2年(825年)には田畑、課丁(かてい)つまり労働人口も多いことから加賀国は中国から上国に格上げされています。

ちなみに古代の律令制度での税徴収の他に重要政策として賦役・防人制度がありましたが、その基本となるのが課丁制度でした。租・庸・調のに当たる部分です。律令制では租庸調の徴収把握の為に戸籍制度を策定したのですが、重要視したのが租庸調の対象となる課口、特に男子を指していました。少丁(中男)・・・17~20歳正丁・・・21~60歳次丁(老丁)・・・61~65歳残疾・・・16歳以下・66歳以上・軽度身体障碍者の四種類に分類され、以上が課口(労働人口)つまり課税対象人口をこう呼んでいました。徴税率・賦役率は正丁を10として、次丁・残疾が5、少丁は調・雑役を2.5としていました。
また、これ以外の重度障碍者、女子全員。更に三位以上の個人の兄弟・直系子孫、五位以上の父子、勲八等以上の個人、舎人・史生(史人、下級書記官)の職位。これらが不課口として徴税免除としていました。
畿内・畿外での格差や過酷さ(14~18時間労働)から、後には正丁の年齢幅縮小などの軽減が行われていますが、この戸籍調査と報告は国司の最重要職務となって、律令の根幹を生していました。しかし、平安期9世紀頃になると政治の腐敗と共に、荘園制度が増えると国司でも私欲に走り課口・不課口の数字の改竄が行われ、なし崩しとなって行きますが。。

律令制度の根幹には律(刑法)令(行政法)をもって中央集権国家、今でいう大きな政府という組織を目指したものです。その後の荘園・武家政治で影を潜めていますが、建前として幕府は律令朝廷の一機関であって、日本という国は江戸期まで律令政治を正式に標榜した朝廷国家でした。    加賀郡牓示札(文化財オンラインより) 石川県利歴史博物館常設展示
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加賀郡牓示札(ぼうじふだ)全文

郡苻 深見村?(?)郷驛長并諸刀祢等
 應奉行壹拾條之事

 一田夫朝以寅時下田夕以戌時還私状
 一禁制田夫任意喫魚酒状
 一禁断不勞作溝堰百姓状
 一以五月卅日前可申田殖竟状       2016.6.4撮影 複製・加賀郡牓示札
 一可捜捉村邑内竄宕為諸人被疑人状         石川県埋蔵文化財センター
 一可禁制无桑原養蚕百姓状                            
 一可禁制里邑内故喫酔酒及戯逸百姓状
 一可填勤農業状  件村里長人申百姓名                  
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檢案内被國去🔲月廿八日苻再勸催農業
有法條而百姓等恣事逸遊不耕作喫
酒魚歐乱為宗播殖過時還稱不熟只非
疲弊耳復致飢饉之若此郡司等不治
🔲之期而豈可 然哉郡且様知並口示
符事早令勤作若不遵苻旨稱倦懈
之由加勘決者謹依苻旨仰下田領等且
各毎村届廻愉有懈怠者移身進郡苻     
旨國道之裔眉羈進之牓示路頭嚴加禁    2016.6.4撮影 復元・加賀郡牓示札         
田領刀祢有怨憎隠容以其人為罪背不         石川県埋蔵文化財センター
寛有苻到奉行
                    加茂遺跡 加賀郡牓示札発掘現場
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大領錦村主      主政八戸史
擬大領錦部連 真手麿 擬主帳甲臣
少領道公   夏🔲 副擬主帳宇治
擬少領 勘 了

       嘉祥🔲年🔲月七日
  
   🔲月十五日 請 田領丈部浪麿
左手前の白パネルが加賀郡牓示札が出た場所、右が過所様木簡、右奥手前から付札木簡、杭外から下級役人の帯金具が出土しています。地面を色分けしていますが、茶色部が陸地、黒っぽい部分が南大溝と呼ぶ河北潟への水路になっていました。案内板の建つ明るい部分は中州になっていたようです。

加賀郡牓示札 訳文

加賀郡に符す 深見村〇〇郷 駅長並びに諸々の有力者たちに、ただちに奉行すべき事柄を施行せよ
一、田夫は、朝は寅の刻(午前3~5時)に田に下り、夜は戌の刻(午後7~9時)を持って家に帰ること
一、田夫は、好き勝手に魚食や飲酒をすることを禁じる
一、堰や溝の造成に労働せぬ百姓は処罰せよ
一、五月三十日までに田植えを終了して報告すること
一、村内に隠れている逃亡者を探し出し捉える事
一、桑畑を所有せずに養蚕をすることを禁じる
一、村内で飲酒で酔っ払い、秩序を乱す百姓は禁止、処罰せよ
一、農業に精勤せよ。村里の長は禁制を犯す者がいたら、その者の名を申告せよ。
🔲月18日国からの符にある農業勧精と法令が来ている。内容を検証すると、、百姓たちは耕作仕事をせずに遊興に耽り、酒・魚を勝手気ままに食し、乱れ果ててきている。種まきや苗植えにばかり時を過ごした上に、あげくには収穫が遅れ不作だとする。これでは疲弊するだけでなく、再び飢饉を迎えてしまう。このまま郡司の命令が行き届いていないと、このような事態に陥ってしまう。
郡はこのような事柄をよく理解して、田夫・百姓に奉行すべき事柄を口示(読み聞かせて)して、早々に作業を進めさせるように。もし、この符の主旨に従わない・怠る者がおれば、厳しく取り締まれ。符の趣旨・命令を田領に伝え、各村々に広く届け伝え、諭して理解させよ。怠る者があれば郡庁に身柄を移送せよ。
符の趣旨を官道の傍らに立てて掲示し、路頭に牓示、厳しく禁制を伝えよ。田領や刀祢に私情を挟み、罪人のでっち上げや罪人を取り締まらない場合は、田領・刀根本人を持って罰せよ。背くことは許さない。この符が届き次第、奉行の実行をせよ。
大領(職位、郡司、郡長官)・錦織(にしごり、氏族名)・村主(すぐり、渡来氏族の姓(かばね)) 副(擬)大領・錦織・連(むらじ)・真手麿(名) 少領(郡二等官)・道・公(君)・夏🔲 副(擬)少領・(省略) 主政(郡三等官)・八戸(やべ、氏族名?)・史(ふひと、姓、書記官) 副(疑)主張(事務職員)・宇治(?)
嘉祥🔲年🔲月七日 🔲月十五日請ける 田領(たつかい、租税管理者又は屯倉の責任者?)・丈部(はせつかべ、氏族名)・波麿(名)
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加茂遺跡 役所跡
補足:この発見のおかげで、加茂地区が平安初期に深見村の内だったことが解りました。残念ながら、次の文字が解らず郷名が不明のままです。しかし、近くに鴨寺と名が判明している大きな寺院跡が発掘されており、加茂が現代に続いていることからも鴨郷もしくは加茂郷と呼ばれていたのではないかと思われます。また加茂を含めこの辺りは英田(あがた)地区と呼ばれています。あがたの古名や上り田が変じたものと思われます。古代には上り田は大和朝廷の直轄地や勢力地だったと云われています。大宝令で県が郡郷として名を変えて組み込まれ、郡や郷に取って代わられたと云われています。
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加茂遺跡 加茂遺跡から見える住宅地の北西部は当時は湿地帯で、居住集落地は北部の能瀬川までの能瀬地区、東部の舟橋川北岸の加茂地区と居住地としては狭すぎる地域だったと思われます。横山駅からの距離以外に深見駅説にはちょっと苦しいと推測されます。それでも役所や倉庫数は大規模なもので公的施設地は間違いありません
の構成などは後述しますが、前述の補足として・・・
郡郷里制、その後の郡郷村制、現代の県郡市町村制という地区割は、古代から続く地区割はその後の各地方の政策や特色にも大きく影響してきました。この地区割の創始のベースになったのが戸籍でした。つまり、人口はもちろんですが、地区割は一戸(一家)という単位から構成されてきたのです。古代から各地方豪族や朝廷の直轄地では個々や一部では戸籍把握が行われてきました。大化の改新による朝廷の支配権や権限が大きくアップしたことで、初の戸籍をまとめたのは天智天皇9年(670年)の庚午年籍(こうごねんじゃく)だと云われています。この時に郡の前身となる評(こおり)が出来たとも云われています。天智期の戸籍の目的は、天智天皇2年の白村江の戦いの敗戦による唐からの侵攻に備える兵力増強とはいえ、日本が正式な国家の体裁を整えたのはこの時からともいえます。

大宝元年(701年)の正式な律令制の誕生と言える大宝律令が施行され、正式に国郡里制が成立します。霊亀3年(717年)にはという括りが新設され国郡郷里制となり、天平11年(739年)人口移動の激化でが廃され国郡郷制となっています。律令規定の三大格式で唯一残る延喜式巻22によれば全国で591のがあったそうです。
大宝令ではカッチリと数を規定していて、50戸を一里としていました。しかしその後の人口変遷でこれが崩れ、2.3の里をまとめたが新設されたのですが、里の50戸が維持できずに里が廃止になって里を郷に変更して残されました。その後の人口変遷で大小の郷が現出することになり、現在でも地名に残っていますが、大規模な郷では上中下(下之郷・中之郷・上之郷など)・東西南北などに分割されたものがあります。現在の市町村はこの郷の地区割が引き継がれているものが多く、特に九州には郷を区割りに使い続けている地域が見受けられます。
大宝令では、郷の集合体として、その規模によって大・上・中・下・小郡として五等級の段階分けにして、防人数や賦役数を管理していました。
加茂遺跡 下級役人出土品・帯金具表示
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加賀国の国府は現在の小松市国府近辺(所在不明)に置かれ加賀国全体を統括していました。加賀国誕生後は前述のように江沼・能美・石川・河北の四郡に分けられており、政庁として郡司(郡家、郡庁)が置かれて、各郡内の郷・里(村)を監視・統括していました。
全国的に名称が決まっていて郡司を運営するために大領(郡司)・少領(副郡司)・主政(郡三等官)・主張(書記官)が任命されていました。基本的にはこの四職は地元有力者から任命され、大宝令発足時、郡領と呼ばれた大領・少領は古墳期からの国造一族や首長が選ばれていました。9世紀初頭と遅い時期に誕生した加賀国では大領には錦織(にしごり)氏が台頭しており、北加賀の国造(くにのみやつこ)だった道君(みちのきみ)一族、同じく国造だった大彦命の子孫の丈部(はせつかべ)一族の上に立っています。後に派生する堂上家の錦織(にしこり)家との関係性は不明ですが。。錦織渡来系氏族の最高位の名として村主という姓(かばね)と共に朝廷から与えられたものです。近年までは読める人が少なかったですが、テニスの錦織圭選手、フィギュアの村主章枝さんで読める人が増えましたね。
   
加茂遺跡で発掘された「加賀郡牓示札(ぼうじふだ)」の元号・嘉祥西暦848~851年。加賀国成立の弘仁14年(823年)から25~28年ほどで加賀国発足の過渡期と言える時期になります。時期的には飢饉や疫病が頻発したころで、全国的に政情が不安定な時期でした。時代は天武朝から旧天智系の仁明・桓武が復活して間もなく、度重なる土地政策の変更で律令制も疲弊して来ており、中央国家が躍起になっていたのが窺われるように文面も高圧的なものですが、、、
檜板縦の罫線が引かれ、文字楷書で、漢文ながら克明な文体で27行360字に渡る触書としては長文で、役人に当てたものをそのまま忠実に板書きしています。国家・加賀国府郡・郷・村の関係性がよくあらわされていると思います。
原稿用紙一枚分の内容ですが、国から村までの命令伝達法、民衆の実情、郡内の勢力図、様々な情報が解ります。
まだまだ識字率の高くなかった時代。文中にあるように高札と共に民衆を集め、読み聞かせを行ったと思われています。

河北潟近辺の扇状地は湿地帯だったこともあり、金箔付笠塔婆加賀郡牓示札のような希少木製資料がまた発見されるかもしれませんねえ。。

旅行日 2020.03.28


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