六郎塚(六郎杉) 伝・林六郎光明墓所

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日御子神社から西に500mほど行くと、六郎杉と呼ばれる大きな杉の木の繁茂するところがあります。谷崎潤一郎賞を受賞した高樹のぶ子の小説「透光の樹」、秋吉久美子主演で映画化もされていますが、この六郎杉が透光の樹のモデルで、鶴来の町が舞台になっています。まあ谷崎賞ですから、四十路男女の恋愛を官能的に描いていますが、高樹のぶ子特有の流れるような旅情感が冒頭に書かれています。映画の方は一部映像賞や音楽賞を獲得していますが、萩原健一の途中降板や裁判沙汰でスキャンダルが表立って残念な結果でしたが。。

そしてこの六郎杉のある場所は、古くから六郎塚とも呼ばれ、林六郎光明という平安末期から鎌倉初期にかけての武士の墓所跡と伝承され、地元の保護や崇敬を受けて来た土地になります。
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義経記 巻第七 五 平泉寺御見物の事から引用
判官其日篠原に泊り給ひけり。明けければ齋藤別当実盛が手塚太郎光盛に討たれける、あいの池を見て、安宅の渡を越えて、根上の松に著き給ふ。是は白山〔の〕権現に、法施を手向くる所なり。いざや白山を拝まんとて、岩本の十一面観音に御通夜あり。明くれば白山に参りて、女体后の宮を拝み奉らせて、其日は劔の権現の御前に参り給ひて、御通夜ありて、終夜御神楽参らせて、明くれば林六郎光明が背戸を通り給ひて、加賀國富樫と云ふ所も近くなり、富樫介と申すは当國の大名なり。鎌倉殿より仰せは蒙らねども、内々用心して、判官殿を待ち奉るとぞ聞えける。
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2008.03.02撮影 金剣宮境内 義経腰掛石
短いくだりですが、この中に出てくる場所は僕のブログにも多く掲載しています。義経記は後年の作品ということもあり、各地の名所巡り的に義経が立ち寄っています。参考までに・・・
篠原・・・篠原古戦場:源義仲進撃時に平家軍が加賀での最後の撤退戦とした戦場地・・・ 2012.04.07 実盛塚・篠原古戦場
あいの池・・・首洗池:源義仲主従による斎藤実盛の首実験が行われた地・・・ 2012.04.07 首洗池
安宅の渡・・・梯(かけはし)川・前川の合流(安宅川)から日本海に注ぐ河口・・・ 2011.01.01 H23 Uターンの初詣
根上の松・・・平家進撃・義仲進撃時双方での撤退戦の古戦場、当時山頂に白山遥拝所があったようです。兼六園の根上りの松のモデルの松・・・ 2016.09.12 根上の松
岩本の十一面観音・・・白山七社・岩本宮、七社で唯一の手取川南岸の神社・・・ 2017.05.15 白山七社② 岩本神社
女体后の宮・・・白山本宮(現・白山比咩神社)、当時は現在の古宮公園にありました。・・・ 2017.04.14 白山七社① 古宮公園(白山本宮跡)周辺
劒の御前・・・金剣宮、白山第一御子として武神を祀ると云われています。・・・ 2014.07.11 金剣宮参道 不動滝
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源義経一行が金剣宮で夜通しのお神楽奉納で過ごした翌朝、裏口から訪れた人物が、密告というか忠告として、これから向かう富樫郷に待ち受ける富樫介(富樫泰家)への注意を促しています。その人物の名が林六郎光明になります。

この文だけを読むと、林六郎光明が一介の地元郷士という印象を受けます。僕にしても、まんが日本の歴史だったと思いますが、小学生の頃初めて読んだこの逸話でも林六郎光明はただの地元武士になっていました。ところが実際には大きな錯覚になるんです。どうも早朝の背戸に単独で現れるという絵に騙されてしまったようです。

加賀でも北加賀の河北出身の僕には、高校までは石川郡や能美郡、江沼といった南加賀のことはちょっと縁遠い間隔がありました。そのまま、学生時代に石川を離れ、卒業後は前職に入社して、初期に野々市や小松に半年ほどいましたが、そのまま県外に出たままで、10数年後、戻ってきたのが旧石川郡の松任でして、その時になって改めて林六郎光明の名に行き当たったわけです。

昭和期までの河北、特に津幡東部の人間にとっては、加賀に含められるものの、どうも能登・越中・金沢からもどっちつかずの位置感覚がありました。当然、金沢との交流はあるものの、金沢と富山県の小矢部・高岡は同じような圏内という感覚があります。このために、真宗的な宗教観を除くと金沢市民に比べると東京に去った加賀前田家に対する好感が薄く、戦国期の富樫家などは歴史好きが知る程度、いわんやその向こうの旧石川郡の野々市・松任・白山麓、さらに南方の能美・小松、江沼・の歴史など白山信仰にしてもピンとこないのです。
ところが、松任に居住して地理歴史に触れてみると、加賀地区の古くからの道路事情がよく、周辺地が近く感じ、白山信仰・真宗勢力の宗教観、加賀前田家・富樫家の統治の影響力がよく感じられるのです。
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そして富樫氏の歴史を見ていくと同族に林一族の存在が現れてきます。林家発足以降は、その後、氏族が枝分かれして勢力を伸長して加賀武士団になっています。平安末期には加賀武士団の棟梁的存在となっていました。承久の乱で没落して歴史の中に埋もれ、引き継いだ同族の富樫氏が台頭して戦国末期まで続き、陰に隠れた存在でした。

しかし、後裔を名乗る家も多く、真偽は不明ながら、特に美濃・尾張に多く点在しています。有名所では戦国末期、越前から流れた堀秀政・秀治を輩出した美濃厚見の堀氏。先祖が系図から確認できないものの、美濃林氏(林)稲葉正成(妻が春日局)。更に今年の大河ドラマで異彩を放つ斎藤道三は、美濃守護代家となるために長井姓から斎藤氏を継いだ形を取っています。この斎藤氏も藤原利仁の流れを汲んでいたと云われています。
江戸時代、儒学者として名を馳せ儒家としての林家(りんけ、大学頭家)・第二林家を興した林羅山(林又三郎信勝)加賀林家の末裔と云われています。ちなみに林羅山の祖父・正勝は加賀拝師郷(林郷の旧名)の浪人として紀州に流れ、祖父病没後、父・正時が京都四条新町に移住、信勝(羅山)は生まれてから後、伯父・吉勝(米穀商)の養子に入っています。

林六郎光明は背戸(裏口)から訪れ、密かに一介の武士の顔をして「富樫郷」には注意して行けと忠告しています。しかし実はとんでもない話で、それ以前に富樫郷までの小松・能美・野々市南部・松任どころか、後の石川郡・能美郡・小松市の北部・東部と広大な拝師郷、金剣宮の属する鶴来は自分の支配地・勢力圏だったんですから、、たしかに加賀の守護にはこの時点では安宅での富樫介こと富樫泰家ですが、林光明も越前藤島(現・福井市藤島)の林城を拠点に守護・地頭に任命されていたと云われています。義経記には安宅の関所は実在せず、越中氷見の如意の渡しが舞台だとしています。当時、安宅地区は林氏の勢力範囲で、源平盛衰記より現実的だと思われます。林光明は義経一行をすんなりと越前・加賀を通過させ、同族の富樫氏に係わらせず累を及ぼさないように早々に通過させようと図ったとも思われます。
義経記では林光明の忠告を受けて、弁慶一人が富樫館に通過許可を貰いに向かい、義経一行は分かれて大野湊神社(当時は宮腰(金石海岸)の真砂山)に向かい、弁慶を待ちます。弁慶は富樫館で歓待を受け、更には馬まで提供されて送り出され大野湊神社に行っています。義経一行は富樫氏を警戒して先行していますが、富樫泰家は終始友好的に弁慶に再度酒宴を開き送り出しています。
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林氏の発祥は、富樫氏と重なるものがあります。両家が始祖とする藤原利仁の次男・斎藤叙用(のぶもち)の孫・忠頼が加賀に土着して加賀介(国府三等官)として根を張り出したのが始まりといえます。忠頼の孫・宗助の長子・貞宗が総領家となる加賀林家、康平6年(1063年)次子・家国加賀富樫家を興して同族として加賀に勢力を広げていくことになります。
戦国末期まで続いた富樫氏は野々市の富樫館を本拠に富樫郷を中心に加賀国を席巻していたことが解りますが、鎌倉初期に姿を消した林氏の本拠はどこだったのかは判然としません。林の名を残し、林館があったという場所はいくつか残っていますが、確定する場所は判明していません。

という姓にしても、現在の林郷の古名は拝師郷と呼ばれており、林もそもそも拝師から変じたという説があります。日本の拝師の始まりは京都福知山の拝師邑が発祥と云われますが、全国の林姓の創始になっています。拝師(はいし、はやす)=林とされています。意味としては「はやす」の通り、成長や繁盛を表すとされています。

ちなみに、中国の拝師(パイシー)は同じ文字ですが日本とは意味は全く違います。武侠小説・映画やドラマでよく出てきますが、武侠に入門した際の師弟関係を血縁に準える名で表すコミュニティ(幣(パイ))を言います。「師父(師匠)・師母(師匠の妻)・師娘(しじょう、師匠の娘または妻)・師伯(師匠の兄弟子)・師叔(ししゅく、師匠の弟弟子)・大師父(師匠の先々代)・師爺(しや、師匠の師匠)・師兄(しけい、兄弟子)・師弟(弟弟子)・師妹(妹弟子)・弟子(免許皆伝後の自分の弟子)・徒弟(皆伝前の自分の弟子)等」。親子以上の情愛と服従、師弟間の恋愛が御法度など、この関係性と決まりを覚えておくと、中国武侠物の人間関係が解り易く、ほとんどがこの関係性をテーマにしているのが解ります。
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白山市知気寺町 林一族館跡
林館の有力候補地は小松ドーム近くの林町の林館跡。同じ地区の津波倉神社も、林氏からの奉納品や土塁跡があり城館址と見られています。六郎塚から1.5キロほど北に行った知気寺町の林館跡。野々市の上林・中林・下林という西部地区の林郷(拝師郷)八幡神社付近という四カ所が有力地と云われています。いずれの地も多少の違いはあるものの光明の城館の伝承を伝えているのが共通しています。
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国府の加賀介として総領を相続した家祖・林貞宗は斎藤時代の従五位下の官位を獲ていました。富樫家国は富樫介とは言え無官ですから林家が総領家だったことが窺われます。2代・貞光は加賀介であり長子の3代・光家は国府の徴税使となっていました。このことから少なくとも初代・2代の頃には小松に本拠を置いていたことが窺われます。3代・光家の頃には北小松(板津)・松任中心部(松任・倉光・宮永)・金沢東部(大桑)に息子たちの支家が広がり林家の武士団が構成されつつありました。三代の間には朝廷(院庁)の北面の武士団の中心勢力となっていました。加賀・西越中の武士団が朝廷勢力と深く結びついていたのは、中心となった林・富樫・石黒氏が藤原北家の出であり、この時期の結びつきが大きかったと思われます。

しかし林家の拡大はすんなりと行ったわけではありません。当時、延暦寺をバックにしていた白山本宮の勢力が大きく加賀平野にも伸長していました。特に林氏が勢力圏として拡大した能美郡・石川郡は白山宮勢力の強い地域でした。以前、国府との争いが原因となった安元事件(安元2年(1176年))を取り上げたことが有ります。この事件の影響で加賀国府が衰亡したのですが、その前哨戦となる事件が3代・光家の時代に起こっています。

仁平4年(1154年)武士団を整備し、鳥羽法皇、左大臣・藤原頼長の後盾を得て支家を拡大した3代・林光家は、白山本宮の神領を横領するとともに支配下に置こうと対立を深めます。怒った白山本宮は延暦寺を通じて林光家排斥を訴えます。この当時、悪左府と呼ばれた藤原頼長は寺社勢力の綱紀粛正を狙って延暦寺との対立を深めていました。それ以外にも興福寺・仁和寺、石清水八幡宮・上賀茂神社との騒擾など寺社勢力を完全に敵に廻した形でした。そんな中で起こった白山領地事件により、光家排斥と逮捕引渡しを求めて延暦寺の強訴が勃発します。
後に後白河法皇全盛時に、ままならぬものとして「加茂の流れ・賽子の目・山法師」と云わせた山法師(比叡山延暦寺)の神輿強訴が頻発したのが仁平年間でした。驚愕した鳥羽上皇は保身のために光家を加賀から呼び戻し、拘禁し獄舎に繋ぎます。一時は頼長によって解放・復帰されますが、収まらない延暦寺は頼長に対する全山呪詛を行い再び強訴に出ます。鳥羽上皇は光家を再逮捕して獄舎に入れ、混乱を収束させています。光家は加賀に戻れぬまま獄死しています。
この事件により上皇の信頼を失った藤原頼長は孤立し、翌年の近衛天皇崩御による後継問題に破れ(後白河が即位)、更に呪詛疑惑で兄・忠通、信西(高階通憲)の策謀によって失脚、頼長は後白河の即位で跡を絶たれた崇徳上皇に近づいて行きます。翌、保元元年(1556年)保元の乱の勃発では源為朝の夜討の進言を退け、逃亡中に流れ矢で敗死したのは御存じの通り。。

保元の乱の結果、後白河天皇が勝利し、崇徳・藤原頼長の荘園地が後白河領になって行き、続く平治の乱(平治元年(1160年))には平清盛を筆頭とした平氏が台頭していきます。加賀や西越中も例外ではなく、多くが後白河領になり、平治の後には小松に後白河に近い存在だった平重盛(清盛の長子)の荘園が置かれるなどしていきます。前述の事件を引きずるように中央での後白河院と延暦寺の対立は、加賀での後白河の代理となった国府、林・富樫を中心とした武士団VS延暦寺を後盾とした白山宮勢力が対立していました。
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林氏では4代・光明、5代・光平富樫氏では5代・家直、6代・泰家の代になっていました。両家は国府・朝廷に協力する形で領地を広げていきます。南加賀や小松中心地が国府の勢力圏でもあり、両家の領地は小松・能美の東部、現在の犀川北部の河北へと伸びて行っています。
林六郎光明時代の林氏の支家を見ると、先代・光家時代小松・松任中心部に加えて、光平の兄弟に安田(松任中心部から西部)・山上(能美市北部)・横江(松任北部)・近岡(金沢北西部)と現在の能美郡・石川郡を席巻しています。この地区割から林光明の代には、前述の拝師郷(林郷)・鶴来知気寺町に本拠を移していたと思われます。また、越中の石黒氏とも同族といえる間柄ですが、後に源義仲の上洛戦で活躍した石黒光弘に娘を嫁がせ、二重の姻戚関係を結んでいます。富樫氏が拡大を開始したのも同時期で富樫郷を固めた時期になります。

加賀国府に対しては林・富樫家共に協力的で、安元2年(1176年)湧泉寺事件の報復となる国府の湧泉寺焼打ちにも参戦しています。しかし白山七社の総勢が国府を囲むに至って守護・藤原師高、目代・藤原師経兄弟は都に逃亡。収まらない白山勢力は兄弟の引き渡しを求めて、翌年には白山本宮・金剣宮・佐羅宮の神輿を押し立てて延暦寺を経由して都まで強訴に及びます(安元事件)。
師高・師経兄弟の父親は西光(藤原師光)といって、後白河法皇の最側近で反平家の急先鋒でした。この為、後白河法皇はこの神輿強訴に対しては無視と先延ばしで拒否を示しましたが、神輿が都に乱入するに至って、平重盛が神輿に矢を射込み死者まで出す禁忌を犯して撃退しています。収まらない延暦寺・白山宮に単独で乗り込んで交渉を行ったのが平時忠で、師高・師経兄弟の流罪、西光・平重盛謹慎で決着をつけています。その3か月後には鹿ヶ谷の陰謀が発覚、西光は主犯として、清盛によって残酷な拷問の末、斬罪となっています。
安元2.3年は後白河にとっては災厄の年といえました。安元2年には最愛の健春門院(平滋子)を亡くし、翌年には側近の西光を亡くし、重盛を謹慎で遠ざけられ、平清盛の暴走を止められなくなってしまったんですから。。

北陸においては、先の藤原頼長に続いて、加賀守護を失って拠り所とした国府を失い、平家の抑圧を受けて鬱憤がたまる斎藤・林・富樫・石黒といった越前・加賀・西越中武士団だけでなく、井口・宮崎といった東越中の武士団。また、平家にしてやられ衰退した白山本宮と両者痛み分けの状態に陥っていました。更に法皇と清盛の中を保っていた越前・加賀を基盤にしていた清盛の長子・重盛が亡くなると完全に歯止めを失ったことで、朝廷での専横により反清盛・反平家・打倒平氏の機運が一気に広がっていました。以仁王の令旨を受けた信濃の源義仲が挙兵すると、北陸武士団がいち早く同調した一因になっています。これに白山勢力の白山本宮・平泉寺も同調します。
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林六郎光明は源義仲挙兵に呼応するように加賀武士団を統率して挙兵。越前燧城(火打城、現南越前町今庄)に出陣、平維盛・斎藤実盛(真盛)軍を迎え撃ちます。
源平盛衰記第28巻(国民文庫版)より抜粋
片路を給て、権門勢家の正税、年貢、神社仏寺の供料供米奪取ければ、路次の狼藉斜めならず、在々所々を追捕しければ、家々門々安堵の者なし。近江の湖を隔て東西より下る。粟津原、勢多の橋、野路の宿、野州の河原、鏡山に打向、駒を早むる人もあり。山田矢走の渡して、志那今浜を浦伝ひ、船に竿さす者もあり。西路には大津、三井寺、片田浦、比良、高島、木津の宿、今津、海津を打過て、荒乳の中山に懸つて、天熊国境、匹壇、三口行越て、敦賀津に著にけり。其より井河坂原、木辺山を打登、新道に懸て還山まで連ねたり。東路には、片山、春の浦、塩津宿を打過て、能美越、中河、虎杖崩より、還山へぞ打合たる。軍兵十万余騎、北国に下向と聞えければ、木曾、我身は越後国府に在ながら、信濃国住人に、仁科太郎守弘、加賀国住人、林六郎光明、倉光三郎成澄、匹田二郎俊平、子息小太郎俊弘、近江国住人、甲賀入道成覚等を大将として、燧城へ指遣。其の勢、追継々々追継に、越前国府、大塩、脇本、鯖波の宿、柚尾坂、今城までぞ連たる。陣をば柚尾の峠にとり、城をば燧に構たり。平泉寺の長史斉明は、木曾が下知に随て、門徒の大衆駈催し、一千余騎にて大野郡を打過て、池田越に燧城に楯籠。抑此城と云は、南は荒乳の中山を境て、虎杖崩能美山、近江の湖の北の端也。塩津朝妻の浜に連たり。北は柚尾坂、藤勝寺、淵谷、木辺峠と一也。東は還山の麓より、長山遥かに重て越の白峯に連たり。西は海路新道水津浦、三国の湊を境たる所也。海山遠打廻、越路遥かに見え渡る、磐石高聳挙て、四方の峯を連たれば、北陸道第一の城郭也。還山の麓、西は経尾と名づけ東は鼓岡と云、其間二町には不過。南より北へ流たる山河あり、日野河と名く。能美新道の二の谷河の落合也。左右の山近所なれば大木を倒しがらみをかき、大石を重て水を堰留たれば、彼方此方の岡を浸、今城柚尾の大道を、平押にこそ湛たれ。水南山の陰を浸して青くして滉瀁たり。波西日の光を沈て紅にして■淪(いんりん)たり。彼無熱池の渚には、金の砂を敷て八功徳水を湛へ、昆明池の間には、徳政の船を浮て八重の波に遊けり。燧城のしつらひは、大石を重て水をよどみ、大木を横て流を築籠たれば、遥かに見渡して湖の如し。船なくしては難渡かりければ、平家の軍兵は、能美新道の境なる岩神山に陣をとる。源氏は柚尾坂、鼓岡、燧山に陣をとる。両陣海を阻て支へたり。相去事三町には過ざりけれ共、輙く落し難ければ、徒に日数を遂て評定様々也。
補足:養和元年(1181年)北陸では反平家の機運と共に北陸武士団は旗色を鮮明にしていました。これに対して平家は平通盛・経盛(共に清盛の甥)を派遣しますが敗退して都に戻っています。これには大きな原因があって養和の大飢饉という近畿以西が食糧不足に陥っていたためと云われます。この為に翌年も討伐軍を派遣できていませんでした。養和3年に至って平家は軍を組織でき追討軍を組織できたのです。強大と云われた平氏があっさりと源氏に敗れ去った原因はこの飢饉が最大の要因で、逆に東国はこの期間大豊作と正反対の状況であったと云われています。平氏の追討軍の最大目的は食糧不足を補うための、食料庫とも云える北陸という地盤の奪回にあると云えました。源義仲追討は二の次だったのです。

北陸武士団の連合軍で燧城に参戦した加賀軍団大将の林六郎光明林家4代当主(当時、家督は5代を光平に譲っていたとも云われます。)。倉光三郎成澄は光明の従弟。平家物語では富樫仏誓(泰家)も参戦しています。匹田(疋田)俊平・俊弘親子は越前斎藤氏の流れで越前武士団ですが林・富樫家とは同族と云われます。北陸武士団は平泉寺宗徒を含めて推定兵数5000。
平家軍は大将は平維盛、副将は斎藤実盛(真盛)。実はこのコンビは脆くも敗れ去った富士川の戦いと同じコンビでした。前回の雪辱に燃え、同じ失敗は繰り返さないぞという意気込みでした。しかし2年以上に及ぶ飢饉により兵糧不足で、湖西・湖東の二軍路で、道々略奪を繰り返しながら合流した軍とはいえ総勢10万。圧倒的な兵力差がありました。

北陸連合軍が拠り所とした燧城(火打城)は四方を峰に囲まれ北陸最大の要衝と云われた山城ですが、兵力差はいかんともしがたく、北陸軍は日野川の二本の支流・能美川・新道川の合流点を柵で堰き止め海のような人造湖を造り上げ、街道を封鎖したのです。これには平家も困り果て評定を重ねるだけでした。
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ところが、この圧倒的な兵力差に味方に見切りをつけた人物がいました。それが平泉寺の長史・斉明でした。平泉寺は越前禅定道の本宮で、それまで北陸武士団とは抗争を続けていた事情もあったようですが、この斉明は海千山千で、この後もこの北陸での平家VS北陸武士団・義仲の合戦のキーポイントになっています。燧城合戦では斉明は平家軍に人造湖の堰の場所を通報し、寝返りと共に、水を抜いて城に侵入する平家軍を導きいれたのです。こうなれば兵力差歴然で北陸軍は大混乱で敗退・撤退します。

燧城に乱入を受けた北陸軍は河上城(現福井市美山)まで引いて撤退戦を演じています。その中で活躍したのが林六郎光明の嫡子・光平(5代)でした。源平盛衰記では脚色で犬死としていますが、奮戦討死しています。ちなみに当時の犬死は「意味があるようで、役に立たず、名誉にもならない死に方」。
源平盛衰記第28巻 源氏落燧城事 国民文庫抜粋
去る程に、二十七日に、平家十万余騎、時を造て推寄たり。源氏時を合て戦ふ処に、斉明急に心替りして、一千余騎を引分て平家に付き、忠を尽して後箭を射る。源氏、堪え切れず、引退き、越前国河上城に立籠る。平家は斉明を先として河上城へ推よす。源氏暫し支て戦けれ共、兵糧なかりければ、爰を引て三条野に陣をとる。平家勝に乗て推よす。両陣時の音を合せず、源氏は寄手の時の音を待兼ねて、加賀国住人・林六郎光明が嫡子に、今城寺太郎光平と云う者あり。褐の直垂に、袖をば紺地の錦を付たりけり。紫糸威の鎧に、大中黒の矢、頭高に負い、重藤の弓真中に取り、八寸に余りたる大栗毛と云う馬に、白覆輪の鞍置てぞ乗たりける。此馬きはめて口強して、国中には乗随る者なし。林六郎光明が郎等に、六動太郎光景と云う者が計りぞ乗従へける。今度も光景をのすべかりけるを、打出んとての時、光平父に逢て、今度は大栗毛に乗りて軍に出んと云う。父・光明は此の言を聞きて、弓取は口の強き馬に乗りては必ず犬死する事あり、不可で有る事也、光景を乗せよと云けれ共、光平は、弓矢取る身は軍場こそ晴にて候へ、此日比、労り飼い置きて、此の大事にのらではいつか乗るべきとて、父が誡にも随はず、押して乗りて打出つゝ、皆紅の扇に月出したるを披きつかひて、坂上の利仁公より六代の孫、加州住人・林六郎光明が嫡子、今城寺太郎光平と名乗て、我と思はん平家の侍共、押並て組めや/\と云う。平家是を聞て時をつくる。源氏時の音を合たり。源平の馬共、時の音に驚て馳廻らんとする事夥し。中にも光平が大栗毛、国中第一の口つよき馬なれば、引け共々々留らず、今は叶はじとて手綱をくれてぞ馳入たる。平家馬にあたらじとて、左右へさとぞ引たりける。馬も究竟の逸物、主もいみじく乗たれば、敵も御方も軍の事をば閣て、此の馬をこそ誉たりけれ。獅子奮迅の振舞、竜馬酔象の有様、穆王八匹の天馬の駒、角やとぞ見えける。爰に平家の侍、武蔵国住人・長井の斎藤別当真盛、進み出て思けるは、加賀国には誠に此者共こそあるらめ、彼も斎藤我も斉藤、共に利仁公の末葉也、恥ある者は名ある者に逢てこそ死ぬるとも死なめ、況一門也、押並て組ばやと思、手縄かいくりて進より、同流の斎藤に、別当真盛と名乗て、弓を捨て、太刀の鞘をはづして打組処に、馬の間無下に近て打物ちがふべき様なければ、押並てひ組で、馬の間へどうど落、上になり下になり、二ころび三ころびしたりけれ共、光平は若く真盛は老たり、既別当危見えけるに、郎等二人落合て光平が頸を切る。光平が郎等は押隔られて、一人もつゞかざりければ、犬死して失にけり。馬は敵の中より走帰けれ共、留る者はなし。親が云ける言少も違はざりけり。父の命に相随ひたりせば、角はよも犬死にはせじと、人皆是を惜みけり。
補足:光平は弓の名手でしたが、父・光明の諫めも聞かず悍馬を選んだために抑えるのに手が離せないために弓を使えず、組打ちで斎藤実盛を追い詰めながら、実盛の郎党に打ち取られ討ち死にしたとされています。光平の名乗りの今城寺(今来寺)は、林氏の本拠である拝師郷の中林の西部にあった寺院名・地区名と云われています。同地区の国内2例目の国史跡公園の末松廃寺跡の寺院名の候補だと云われている名称になります。

一騎打ちをした平家の副将・斎藤実盛は埼玉県熊谷市(旧長井の庄)の国宝・菱沼聖天宮を造営・総鎮守としたことでも知られ、武蔵では人気のある人物です。幼い源義仲を匿い信濃に逃がした恩人でもありました。実盛は越前南井郷の生まれで、武蔵斎藤家に養子で入り武蔵に移った人物で実家の河合家も越前斎藤氏の流れと云われています。林光平とは文中にあるように藤原利仁の流れを汲む斎藤氏の同族と云えました。この遠征を最後と覚悟しており、故郷に錦を飾るとして総帥・平宗盛の許可を得て、大将の印の錦を着衣していました。倶梨伽羅合戦後の篠原の戦いで討ち死にしています。北陸でも人気が高く石川の小松から福井の鯖江にかけて、多くの所縁の地が残されています。

河上城で北陸軍を破った平家軍は加賀に乱入し、林館・富樫館を焼いています。ここで更に進撃して砺波平野もしくは親不知の出口を押さえれば、平家軍の勝利が見えていました。実際、斉明が進言していますが維盛はこれを取り上げす。平盛俊を先遣として派遣しただけで、加賀平定に費やしています。これは初期の目的の食糧補給と平氏の休憩に費やしたと思われます。しかし、義仲が急派した今井兼平軍が平盛俊を般若野で撃破。砺波平野を抑えてしまい義仲軍の進撃を許すことになります。これで平家軍は大軍不利の山岳戦に持ち込まれ、倶利伽羅峠で大敗を喫することになります。平泉寺の斉明は先の進言後は名前が出て来なくなります。しかし、義仲の上洛戦の途上では白山本宮・平泉寺に義仲は寄進を行っていますから、ここでまたまた寝返ったか、戦場離脱したかだと思われます。これまた平家には大きな痛手でした。

白山本宮寄進に際しては義仲の依頼により、林六郎光明が戦勝祈願を行い螺鈿細工の鞍を奉納しています。この鞍は白山比咩神社宝物殿で見られます。⇒ 石川県HP 黒漆螺鈿鞍
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義仲は勢いのままに追撃戦に勝利して上洛を果たし、多くの兵を失った平家は西国落ちとなってしまいます。
ところがここで義仲軍は平家と同じ苦痛を味わいます。平家物語・源平盛衰記・義経記でも描かれるように、義仲軍は当初は旭将軍と持て囃されながら、都に置いて乱暴・狼藉・強奪の限りを尽くしたとされます。
実は前述のように養和年間の大飢饉は史上に残る規模の大飢饉でした。方丈記によれば餓死者数は都だけで42300人に上ったとされています。この数字は誇大なものでなく、僧侶が十念を授けるために用意した木札の総数が記録された正確なもので、都近辺はとんでもない状態だったのです。都だけでもこの状態で、西国も同様で、干ばつによって、ほとんど収穫が無かったと云われ、都の数倍の犠牲者が発生していたと云われます。そんな食糧難の都に入った軍隊は兵糧を必要として徴収を掛けましたが、ないとなれば暴発するのは今も昔も変わりません。
この食糧難と兵の疲弊の為に義仲は西国遠征が出来ず、都での人気を失い、最後には法住寺攻めで法皇拘禁という非常手段の暴挙に出ています。義仲軍に従軍した北陸特に越前・加賀・越中の武士団は元々朝廷に組み込まれた北面の武士団としての自負があり、兵糧不足の不満がたまっている上にこの暴挙で離反や国に帰還するものが続出します。
又この情勢を見た鎌倉の源頼朝は逆に大豊作の食糧供給を盾に、東国の支配権と義仲追討の院宣を手中にしています。義仲追討の先陣の源義経に加賀武士団の多くが合流したのは必然でした。

更に北陸武士団は義仲が旗頭としていた北陸宮を保護していたことで知られます。北陸宮の還俗及び元服をした宮崎氏の笹川渓谷が知られますが、義仲上洛戦では、義仲が都を掌握するまで北陸宮は加賀に滞在していたと云われます。当然ながら加賀で北陸宮が滞在できるような場所は林館もしくは富樫館になります。残念ながら特定はされていませんが。。前述の義仲の法住寺攻めの前日、北陸宮は法住寺を脱出、行方不明になっています。源頼朝が上洛する列に姿を現すまで約2年間行方が解らずでした。これはあくまで推測ですが、北陸の加賀もしくは東越中で保護されていたと思われます。平家滅亡後、義仲に味方した北陸勢が厚遇されているのは、北陸宮の保護と頼朝への送還にあったと思われます。
以仁王の令旨で挙兵した頼朝にとって、後白河からの皇太子・天皇就任は否定されても、以仁王の遺児を同伴するのは上洛における大きな箔付けになりました。
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源平戦後は林氏・富樫氏・石黒氏共に勢力を大きく伸ばしており、林氏は越前藤島の守護富樫氏は加賀の守護に任じられたと伝わります。
つまり六郎塚の主・林六郎光明の時代が林氏の所領が最大で全盛時代と云えます。
この守護地また地頭地の範囲が判然としません。両家の支家から推測すると、富樫家が河北郡・石川郡東半分、林家が北越前・江沼・能美・石川郡西部・白山麓が勢力範囲と見られます。そうなると義経北国落ちの伝承では安宅関は林氏の勢力圏になり、義経記が安宅関を無視して如意の渡し(氷見)とするのは納得できるものになります。ともかくこの北国落ちから鎌倉初期に関してはあまりに不明すぎて解らないというのが正直なところ。。ただ、言えることは鎌倉初期までは、富樫氏を上回る本家・林家が存在したことは確かなのですが、、義経通過を許した罰として富樫泰家が守護剥奪としたものの、在地領主として勢力は維持しており、大きく加賀・北越前・西越中、さらに斎藤氏として観るなら越前の堀氏も含まれ、藤原秀郷の後裔とする東越中の井口氏・宮崎氏と、朝廷よりの勢力が北陸三県を染め上げていました。実際にはどのような形態だったのかは不明。。今度真剣に勉強してみます。。

承久3年(1221年)平家が滅亡してから36年、林家の総領も8代・則光の時代となっていました。
承久の変は後鳥羽上皇が北条義時追討の院宣を発行したことにより勃発したのですが、、はっきりいって、当初はこの時点で変は終了したはずでした。実際には後鳥羽は追討令(院宣)を全国の守護・地頭に出しながら、西面北面の武士団を集めただけ、鎌倉御家人への懐柔策も関東の要人・三浦義村などに書状を出しただけ、まともに軍を招請していないのですから準備不足というより過信があったようです。とはいえ、追討令は上皇権限の専売特許で絶対的な力がありました。御家人内も恭順論が優勢であり、それまで幕府・朝廷の反目を知らなかった武士団は混乱し降伏論が主論だったのは確かです。

ところが追い詰められた鎌倉では有名な北条政子の演説によって逆転が起こります。演説内容を伝える吾妻鏡・承久記では内容が随分違うんですが、尼将軍の面目約如の演説です。読下文で少し変えていますが。。
吾妻鏡・・・皆心一にして奉るべし。是れ最期の詞なり。故右大将(源頼朝)、朝敵を征罰し、関東を草創してより以降、官位と云ひ俸禄と云ひ、其恩、既に山岳より高く、溟渤(めいぼつ)よりも深し。報謝の志浅からんや。而るに今逆臣の讒に依りて、非義の綸旨を下さる。名を惜むの族は、早く秀康(藤原秀康・上皇軍大将軍)・胤義(三浦胤義(たねよし)・三浦義村末子)等を討ち取り、三代将軍の遺跡を全うすべし。但し院中に参らんと欲する者は、只今申し切る可し者り。

承久記・・・殿原聞きたまえ。尼、加様に若きより物思ふ者候じ。一番には姫御前(大姫)に後れまいらせ、二番には大将殿(源頼朝)に後れ奉り、其後、又打続き左衛門督殿(源頼家)に後れ申し、又程無く右大臣殿(源実朝)に後れ奉る。四度の思いは已に過ぎたり。今度、権太夫(北条義時)打たれなば、五の思いに成ぬべし。女人五障とは、是を申すべきやあらん。殿原、都に召上げられて、内裏大番を努め、降にも照にも大庭に鋪皮布、三年が間、住所を思遣り、妻子を恋しと思ひて有しをば、我子の大臣殿こそ、一々、次第に申止てまし。去ば、殿原は京方に付、鎌倉を責給う、大将殿、大臣殿二所の御墓所を馬の蹄にけさせ玉ふ者ならば、御恩蒙りてまします殿原、弓矢の冥加とはましましなんや。かく申す尼などが深山に遁世して、流さん涙をば、不便と思食(おぼしめ)すまじきか。

武士団の多くは土地名を姓に冠することでも解るように、土地問題が大きく、鎌倉幕府は武家の土地処理を仲介する権限が重視されていたのです。そもそも武士団の発生も幕府が創設されたのもこの土地問題に起因していました。荘園の撤廃と自分の土地を守るという目標が武士の起源と言え、土地獲得と保護のための守護地頭の設置、土地紛争の決断を図る侍所・問注所という裁判機能をつくった頼朝の恩が武士団にはありました。そこを政子の言葉がついたと云え、前述の三浦義村も院からの文を提出して幕府に駆け付けています。
北条義時・北条時子・安達泰盛の叱咤により幕府軍がまとまり、迎撃・籠城論を覆す大江広元の進言で東海道・北条泰時、中山道・武田信光、北陸道・北条朝時が三路から大挙して進軍します。戦備の整わない朝廷軍は、わずか1カ月であっさり敗北します。
後鳥羽・順徳・土御門上皇配流、同調公家・武家の処刑、仲恭天皇廃位(順徳系の皇位抹消)、六波羅探題の設置、後鳥羽上皇領の幕府直轄。この裁定は当時の民衆を驚愕させたと云われます。武家が史上初めて皇族を配流し、公家を戦犯として処刑したんですから、そして六波羅探題による朝廷監視、天皇の選定と、このあと600年に渡る武家主導が始まったのです。特に上皇方に加担した武士団・上皇領の接収は大きく、全国で3000カ所に及んだと云われその地に守護・地頭を設置したわけです。特に新規の地頭はこの時から権限が強められ「泣く子と地頭には勝てない」の諺の語源になっています。

幕府として発足していたとはいえ、陪臣の北条家が運営する東日本・関東の単なる地方組織が、この兵乱で一気に全国組織へと飛躍したのです。
日本では万世一系とされた絶対的な組織が覆された瞬間でした。保元の乱後、四国で悶死した崇徳上皇の「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」という呪いが実現したわけです。これ以降、崇徳上皇の怨霊が日本最大最強の怨霊神として恐れられたわけです。

北陸の武士団は前述のように北面の武士として朝廷に奉仕していたものが多く、ほとんどが上皇方として参戦していました。
幕府方の北条朝時は北陸道を進軍。北陸武士団の内、東越中の宮崎氏・井口氏は親不知、林家・富樫家・石黒家などの北陸武士団は砺波山で防衛線を行い敗れています。宮崎氏は信濃、井口氏は近江に逃亡、富樫氏・石黒氏は降伏恭順、林氏の8代・則光、家朝親子(甥・叔父?)は首謀者一族として捕縛され鎌倉に送還後、処刑されています。この処分により林家は滅亡したとされ、あっけなく歴史の闇に消えています。
貼付した林家系図の9代以降は尾張兼松氏が自身の出自を伝えるものです。但し、兼松文書では6代以降の名が加賀や石黒家に伝わる林家系図と違っており、判然とせず明確とはなっていません。。

ちなみに北条朝時(ともとき)は2代執権・北条義時の次男になります。義兄が鎌倉執権政治の基礎を造り上げた3代執権・泰時になります。実を言うと兄・泰時は側室の子で俗にいう庶長子ながら朝時よりも16歳年上、朝時・重時(義時三男)が正室・姫の前の実子になります。義時の男子は四男以下に5人いますが全て側室の庶子になります。
ところが朝時6歳の時に姫の前の実家・比企氏が謀反(比企能員(ひきよしかず)の変)の嫌疑で滅亡、姫の前は離縁されています。父方が引き取ったか母方で育ったかは不明ながら、北条家に戻ってから13歳で元服後に父・義時の勘気を受けて謹慎。その間に泰時が家督を受けて3代になっています。年長の泰時との仲は悪くなく、弟・重時と共に泰時を支えています。泰時の死の際には出家引退、3年後に53歳で亡くなっています。ただ、北条家主流という意識があったようで、後世の名越家の代には宮騒動や霜月騒動で執権家に謀反を企てています。

承久の乱後は越後・越中・能登・加賀の守護に就任して、鎌倉幕末まで続く北陸守護家の北陸・名越家の家祖となっています。
北条(名越)朝時配下では、在地領主となった石黒氏は後に地頭として砺波地区で復活、富樫氏は林氏の加賀を引き継いで在地領主として台頭しています。しかし、鎌倉時代には富樫家は役職には就けず、外来的には不遇で没落した同族・林氏の事蹟は百年の歴史に沈んでいます。対外的に富樫家が復活したのは、建武の親政時で足利尊氏に従って、富樫高家が加賀守護になるまで待つことになります。鎌倉期の一世紀、南北朝・室町・戦国期と長い歴史が流れてしまい、富樫家の本家・林家の歴史が埋もれてしまい、事蹟が不明になってしまいました。
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林館があったとされる知気寺には林館顕彰碑があります。参考までに碑文を。。

加賀武士団総統 林一族顕彰の碑
この地方を、古くは林郷と言い、林組、林村と言った。
それは、平安時代から鎌倉時代にかけ、この地一円の国司・郷士だった、林一族の名に由来したものである。
林一族は、鎮守府将軍・藤原利仁の後裔で、林介貞宗を始祖とする二代貞光が、この地開発に尽くし、ここに館を置く。
三代林大夫光家は、上林・中林・下林に居を配し、次第に武士団としての、素地を形成していった。
四代林六郎光明の代にいたり、その権勢は北辰の偉名にも似て、河北郡南部より加賀平野一帯を治め、越前藤島の守護職・地頭職をも兼ねたと言われる。
光明は、常に居館を知気寺とし、舟岡城・倉ヶ岳城主にも任じ、加賀武士団総統としてその名を馳せる。
源平盛衰記によれば、光明は寿永二年(一一八三)木曽義仲の平家追討に際し、これを助け、義仲に代わって、白山本宮へ戦勝を祈願している。この時奉納した、黒漆螺鈿鞍は、日本三名鞍の一として、今も白山比咩神社が社蔵しており、国の重要文化財に指定されている。
光明の後、五代林二郎光茂、六代林小二郎家綱、七代林六郎則光、八代林弥二郎家朝と代々ここに起居している。
則光・家朝父子等は、承久の変に加わり、関東で果てる。しかし後裔・林正成は、稲葉お福と結婚し、稲葉家を継ぐ。
お福は後に徳川三代将軍家光の乳母・春日局となる。   平成四年四月吉日建立
この史跡保存に当り、崇祖の念あつい北海道帯広市・林克己氏・林正巳氏および松任市・林外茂男氏の篤志を得、題字は桑原翠邦翁、顕彰書は林紅鶴師の揮毫による。 林一族顕彰保存会

補足:舟岡城は鶴来の市街を見下ろす孤峰上の白山比咩神社の発祥地に築かれた城、倉ヶ岳城は現在の金沢と鶴来の山中の境界上にあった城で、高尾城で敗れた富樫政親が落ち延びて最期の戦いを行って、傍の大池に沈んだという伝承が残っています。
しかし、どちらも当時は白山勢力の真っ只中で、ちょっと信憑性はありません。

美濃に多く点在する斎藤氏・稲葉氏・林氏などは越前斎藤氏や加賀林氏の後裔を自称している一族が多いのですが、どこからの流れかの詳細が不明なものが多く自作の系図には載せられませんでした。林正成は稲葉一鉄の庶長子・重通の娘婿となり稲葉姓に、後に明智光秀の家老だった斎藤利三の遺児・お福(後の春日局)を重通の養女として後妻に迎えていました。関ケ原で小早川隆秋を東軍に寝返らせた元凶の付家老として知られています。

建立者の林克己・正巳は帯広に本社のある十勝毎日新聞の二代目・三代目の社長になります。初代の林豊洲(茂)は大分県臼杵からの北海道移民として移住し、新聞・メディア・観光業を発展させたことで知られます。ちなみに、臼杵藩は稲葉一鉄の嫡子・貞通が美濃郡上藩から加増転封されて起藩したもので、美濃からの稲葉氏に随った美濃林氏の流れを継いでいたようです。
題字揮毫は同じく北海道帯広で、旅の書家と呼ばれた桑原翠邦の晩年の揮毫。

旅行日 2020.04.08

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