内灘海岸 着弾地観測棟遺跡

内灘砂丘は鳥取砂丘に次ぐ距離・面積を誇る砂丘地帯です。
そんな砂丘地の町(当時は内灘村)で起こった「内灘闘争」をご存知でしょうか?
画像

昭和25年に起こった朝鮮戦争により参戦した米軍は軍需物資・砲弾の補充に迫られ、日本国内で製造した特需砲弾使用の実験試射場が必要になり、当時の吉田内閣に対して日米安保条約を盾に演習場の接収を要求しました。候補は静岡の御前崎・石川の内灘でした。
昭和27年9月、政府は内灘に決定発表しました。地元村民が猛反発で県庁に押し掛ける騒動となりました。
12月に政府は4か月の期間限定を条件に接収を開始、28年3月に試射が開始されました。ところが例のバカヤロウ解散後、県選挙では反対派が勝利しましたが、政府は漁業補償を条件に永久使用を閣議決定・使用強行を発表しました。
画像

これを機に反対住民が試射場での座込み・学生デモ・北鉄労組の軍需物資輸送拒否ストと反対運動は過激化しました。全国からも応援が駆け付けたそうです。 しかし地元利益を主張する条件闘争の支持グループも多く出て、闘争は住民を2分した形になって複雑化していきました。
当時は朝鮮特需の成長期で、政府の説得(試射場が景気を支えている。)や条件闘争派(愛村同志会)の地元利益優先活動により、最終的には内灘村は3年間の使用認可で妥結し反対闘争は終結しました。
ちなみに条件となった町村事業の保証金・見舞金総額は22億4千万円。当時の内灘村の予算が2千万円ですからその代償は大きい物でした。
この数字をどう見るかは見解が分かれると思いますが、住民・県民を2分した闘争は長い間しこりを残しました。違う町とはいえ同郡内出身の僕も子供の頃は祖父や親にさんざんその話を聞かされたものです。

昭和28年9月、米軍は試射を開始。3年余りの使用後、米軍は撤退。
昭和32年1月、政府は試射場の土地を内灘町に全面返還しました。
画像
画像
画像
50年程経った現在、内灘海岸はのどかな雰囲気で、このような闘争や試射が行われたことは全く感じられません。
しかし、内灘海水浴場の浜茶屋近く防風林の中の監視所施設、そして写真の着弾地観測棟のコンクリートの遺跡と化した建造物が当時を微かに語っています。

着弾地観測棟はトーチカのようになっていて、通称はO・P(オペレーション・ポスト)と呼ばれています。表から見ると細い横長の窓がポストに見えるためだそうです。風化が激しく危険なため中への侵入は禁止になっていますが。。草むらに隠れていますが、ここから海岸に着弾する砲弾の正確さや爆発・不発を確認したそうです。この観測棟の向こうに見える海岸が座込みを行った権現森の着弾点です。

昔の遺物と云えばそれまでですが、現代の沖縄の基地問題を始め、歴史は何度も繰り返しています。基地闘争の原点を振り返り、良い方向を考えなければならないですね。

「内灘闘争」はその後、五木寛之の「内灘夫人」・日活映画「非行少女」など題材の文学や映画が数多くあります。
また内灘町民俗資料館「風と砂の館」には詳しい説明や資料が観られます。

風と砂の館  http://kazetosuna.exblog.jp/i0/
内灘町     http://www.town.uchinada.lg.jp/webapps/www/section/detail.jsp?id=1438

旅行日 2011.5.26




【中古】内灘夫人/五木寛之
写楽堂
発売 1969年発行 新潮社版数 重版状態 帯付 角スレ 焼け



"内灘海岸 着弾地観測棟遺跡" へのコメントを書く

お名前:
メールアドレス:
ホームページアドレス:
コメント:

最近のコメント