富樫館 堀跡

以前、高尾城址の記事で紹介したように、多くの教科書などには1488年に守護の富樫政親が倒され、加賀は一向一揆の「百姓の持ちたる国」などと書かれていますが、実際には加賀守護の富樫家は存続していて、実権は本願寺にありましたが、守護としての富樫家はそれなりの尊重を受け、一種の協調体制をとっていたようです。 http://72469241.at.webry.info/201210/article_5.html

1531年に守護追放がありましたが、実際には守護の二男・富樫晴貞が継ぎ富樫家は守護職待遇として存続していて1570年まで続いています。

その加賀守護家が本拠を構え政務を執っていたのが「富樫館」と呼ばれたこの場所です。以前から江戸時代の文献や古図からこの辺りではないかと推定されていたのですが、平成6年(1994年)の発掘調査によってⅤ字形の幅6メートル・深さ2.5メートルの大規模な堀跡や白磁器・鏡が発見され特定されました。特に鏡は奈良の法隆寺に奉納された物と同じものだそうです。古図や測量図から館の規模は1.5町四方(164メートル四方)在ったとされています。
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写真で解るように空き地奥の窪みが堀跡で、その向こうの家からが館跡とされています。なぜに今まで特定できなかったかといえば、富樫家亡きあとは中心地が野々市から金沢御坊(金沢城)に移り荒廃したことと、江戸末期から明治初期にかけて野々市全域に大火を浴び、その後の急激な住宅化が進んでしまったことがあります。現在も館跡と推定される部分は住宅地のど真ん中で今後の課題になっています。

北陸鉄道の野々市工大前駅の横に「冨樫館址石碑」がありますが、これは昭和42年(1967年)に富樫卿奉賛会と金沢工業大学によって設置されたものです。題字は富樫家の子孫で福島の富樫六郎夫妻の物だそうです。
当時はこの辺りと推定していたのですが、実際にはこの石碑から南に400メートルほど離れていました。
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旅行日 2012.01.11

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