松風閣庭園

金沢城と兼六園の間を通るお堀通りを南下して広坂の交差点から先は「本多通り」と呼ばれています。左右に広がる本多町・下本多町・出羽町があり、21世紀美術館・県立美術館・歌劇座・北陸放送・社教センターなど金沢の文教地区になっています。この3町は名前が示す通り、加賀藩の一番家老・本多家の所領・屋敷地があった場所です。本多家は所領5万石、本多政重の最盛期には7万石で下手な大名より大きな石高を誇っていました。

加賀・本多家の創業者は「本多政重」。戦国末期の武将で波乱万丈の過去を持っています。父親は徳川家康の軍師・謀将と呼ばれた本多正信でその次男です。もちろん、最初は父と共に徳川家に仕えていたのですが、徳川秀忠の乳母・大姥局の息子・岡部荘八を惨殺して出奔し、大谷吉継・宇喜多秀家・福島正則・前田利長・上杉景勝と主に徳川の敵対勢力に仕えています。関が原では西軍の宇喜多軍の右翼として戦っていますし、上杉家では直江兼続の婿養子として親子関係になっています。
加賀藩に移っても上杉・直江家とは親交が続いており、加賀前田家に復帰後、本多家の家臣の半数以上は両家の出身者が占めています。
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その本多家の中屋敷側にあったのが「松風閣庭園」です。
この辺りは本多の森と呼ばれるように原生林もある緑に恵まれた場所ですが、元々あった池を中心に2200平方メートルの規模の回遊式庭園です。国の有形記念物にも指定されています。
池の名前は霞が池、その中に蓬莱島、といったように兼六園に似た形式名称です。5代藩主・前田綱紀が創始した兼六園の原型になったものと思われます。

松風閣庭園の松風閣は上屋敷にあった主君対面所を移築したもので、ここからこの名前で呼ばれるようになったようです。
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本多家の私有地であり北陸放送の裏敷地のため、長い期間、非公開の庭園でした。僕も高校時代に北陸放送のイベントに参加した際に特別公開で一部を見たくらいです。地元の人でも見たことがない人が多いと思われる貴重な存在です。
昨年10月に前に紹介した「鈴木大拙館」の開設によって、一部分が一般公開されるようになりました。中村美術館や鈴木大拙館を訪れた際には是非寄ってみることをお勧めします。両館の間の遊歩道の大拙館側に出入り口があります。
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一部分のみの公開ですが、苔むした庭園、霞が池・蓬莱島、武家屋敷の庭園として長らく手つかずで残ってきたもので貴重な存在です。
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旅行日 2012.03.25


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