実盛塚 篠原古戦場

加賀市篠原町は海に近く松林が続く風光明媚な場所です。平安末期の頃は葦の原野が広がっていたと云われています。この地は倶利伽羅合戦で敗走した平維盛軍を追尾した源義仲軍が追い付いて合戦になった地です。結果として平家軍はここでも完敗、京へと落ちていきます。この戦いで最後尾の殿(しんがり)を引き受け討ち死にした武将が今回の「実盛塚」の主・斉藤実盛です。
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越前南井郷(現在の鯖江市南井町)に河合助房として生まれ、斉藤氏の養子となって斉藤実盛となり、長井の庄(現在の埼玉県熊谷市)を本拠として活躍した人物です。
武蔵の国では源義朝・義賢兄弟に仕えています。主に義賢に仕えていましたが、大蔵合戦で義朝の子・義平によって義賢が敗死後は義朝に仕え保元・平治の乱でも活躍しています。
義理人情にも厚く、源義朝・義平親子から義堅の遺児で2歳の駒王丸(後の義仲)を匿い、信濃木曽の仲原兼遠の庇護下に送っています。

平治の乱後は長井の庄は平宗盛の所領となりましたが、それまでの功績と実績を認められ宗盛の家人となり、別当として長井の庄を引き続き任されています。
長井の庄においては庄内の開拓・治水・土地改良に努め、農作物の出来具合の面倒を見る事などから農民から大きな信頼を得ており、総鎮守として聖天宮を建立して、現在も「妻沼聖天」として受け継がれています。熊谷では現在も人気の人物だそうです。

妻沼聖天山 歓喜院 http://www.ksky.ne.jp/~shouden/

篠原の戦いの時には実盛は72歳の高齢でした。
実盛にとって篠原は一族同門の地であったこともあり、ここを生涯最期の地と定めていたようです。
敵に老武者と侮られぬように白髪を黒に染め、宗盛から許された大将の赤地錦の直垂を着用したことなど覚悟が伺われます。
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平家軍が総崩れする中、殿を努めた実盛は単騎で奮戦しましたが討ち取られてしまいます。
最期は一騎打ちでしたが、老武者であることを知られぬため、名を名乗らなかったと伝わっています。
源義仲は命の恩人であった実盛の遺骸を、戦場となったこの地に葬り塚を設けたと伝わっています。
それがこの「実盛塚」です。
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義仲はその他にも小松市街にある多太神社に実盛の遺品を預け、法要や諸事を頼んでいます。また小松の那谷寺の近くに実盛の首塚が昭和21年までありました。現在は那谷寺の共同墓地に首塚の五輪塔が移設されているそうです。

この実盛塚には老松が大きく枝を広げていてなかなか立派なものです。細い入口から通りを入って墓所の広場に入ると、この大きな松が広がって見えます。まるで能舞台に描かれる松の絵のようです。

後年のことですが応永21年(1414年)時宗の第14世遊行上人太空がこの地で巡錫中、実盛の亡霊が現れ救いを求めたので上人が回向したらすぐに成仏したという話があります。
この話は世阿弥に伝えられ、謡曲「実盛」として今日に伝わっています。それがあるせいかもしれないですが、松が覆う塚は天気の良い日に訪れると一幅の絵のような舞台に見えます。

実盛塚への入り口は住宅に挟まれています。自動車で訪れる際には200メートルほど北に行った先にあるポケットパークの駐車場が便利です。
ポケットパークに近くの名所・旧跡の略図表示がありますが、「実盛塚」と「首洗池」が約1.5キロで歩いて行けるようになっています。それに釣られて実盛塚の後ろの松林の道に入る観光客が多いのですが、松林の道は茸用の用材の作業道で迷路のようになっています。迷子になるので入らないようにしましょう。。

旅行日 2012.04.07




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