梅洞山 岩松院

小布施町の東部にある岩松院は曹洞宗の寺院です。
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文明4年(1472年)に苅田城主・荻野常倫によって創建されたと云われています。
苅田城は岩松院の脇を登った所に小城・大城と呼ばれる2つの城に連郭式の石垣を用いた堀切など堅固な造りの城だそうです。今回は家族連れで雨でぬかるんでいたので、城は断念しましたがこの辺りでは珍しい造りだそうです。この地は川中島4郡の一つに当たり激戦地の一つで、苅田氏の後も高梨・武田・上杉・森(織田家)と領主が変わっており、現在の城址はだれが改修したかははっきりしないそうです。

岩松院にも似た石垣が多く使われており、領主の館跡、苅田城の詰所跡と説があり、それを利用して寺院を整備したようです。岩松院を整備したのは戦国武将・福島正則で、福島正則の菩提寺となっています。
本来の福島家の菩提寺は京都の妙心寺塔頭海福院ですが、この当時の大名は自分の領地に菩提寺を置くのが慣例になっているためのようです。
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福島正則は豊臣家において加藤清正と並んで豪将として有名です。
賤ヶ岳の戦いでは七本槍の中でも武功一番として七人の中で最高の5000石を恩賞として受けています。
福島正則は豊臣秀吉の母方の縁者に当たるようで、豊臣家では一門衆の扱いを受けていたようです。
その他多くの戦いに活躍して尾張清洲24万石の大名に抜擢されています。これは豊臣方における東海方面の抑えの役目でしたが、関が原では東軍の先鋒となり、岐阜城奪取・関が原先陣と活躍しています。その戦功により安芸広島49万石に移封しています。

正則は情に弱い面があるようで、関が原戦の際、自分が攻め落とした岐阜城主・織田秀信(幼名・三法師)の命乞いをしており、大坂の陣では大坂方の加勢は断ったものの蔵屋敷の兵糧米の接収を黙認したため、江戸留守居を命じられています。大坂の陣後は羽柴姓を捨て幕府への恭順を余儀なくされています。
台風による広島城修築を法度違反として追及され、魚沼・川中島高井野4万5千石に減俸移封になってしまいます。

正則は大酒呑みで粗暴な行為が目立つやんちゃなキャラクターが知られていますが、広島時代には実地税による減税と新田開発により2万5千石を増やすという実績があり、厳島神社を修復したことでも知られ、統治能力もあったようです。また移封時には家臣団の忠誠心や能力を買われ、多くの藩にスカウトされており、この面からも巷説とは違い只者ではなかったようです。(太閤記などは清正を関羽、正則を張飛に準えているようで、これが影響しているのかも)

信濃移封後、正則は家督を息子に譲り出家隠居しています。僧名は高齋。
岩松院の山越えの南、小布施の隣りの高山村に屋敷を置いていました。
しかし跡取りの息子・忠勝が病死したため、南魚沼を返上して2万石となり鬱々とした人生を過ごしていたようです。正則の死も表面上は病死とされていますが、無常を嘆いて自殺というのが真相のようで、本来、葬儀埋葬は巡察士(老中)の来藩を待たねばならないのですが、その前に火葬荼毘に付しています。このため、法度違反として高井野藩は取り潰しとなり、福島家の功績に免じて息子・正利は3000石の旗本として存続しましたが、正利に嗣子がなく福島家は歴史から一旦消えています。その後、正則の曾孫・正勝の代に小姓組2000石で復活しています。
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福島正則の遺骨は岩松院本堂東北の山手に埋葬され、後になって五輪塔が埋葬標識として造られ、さらに後年になって上屋を作って現在に至っています。戦国期に大活躍しながら、後半生は不遇の日々と最期を迎えたためか、その墓所は寂しげに見えてしまいます。

岩松院本堂には葛飾北斎の晩年の大作「八方睨み鳳凰図」があります。
葛飾北斎は83歳から4度、小布施の高井鴻山邸を訪れており、高井鴻山は自らも絵筆(晩年の妖怪絵は有名です。)をとりますが、晩年の北斎のスポンサー的存在でした。鴻山は自分の屋敷内に碧漪軒(へきいけん)を建てて、北斎のアトリエとして提供しています。
最後の訪問は天保15年(1844年)から4年間滞在しており、この間に多くの作品を残しています。
八方睨み鳳凰図」もその一つで、最期の1年間で描き上げたものと云われています。
畳21畳分に描かれた天井画は迫力十分です。160年以上経っているそうですが、現在も修復なしで色彩豊かな画を保っています。白土と金箔下地に中国から輸入した鉱物性顔料(現在価格で2億円)に朱や藍の顔料で描かれています。使われた金箔も4400枚。

以前までは寝転がって天井画を観られたそうですが(以前見たことがある嫁さんや義母が云ってました。)、今は椅子に腰かけて行儀良く見るようになっています。(う~ん、寝て観たかった)

この作品の存在は以前から知っていましたが、確か中学3年か高1の頃でしたからS49かS50だと思うんですが、新聞記事か何かで北斎作と確認されたと云うのを覚えています。寺院の入口に記念碑がありましたが、歴史学者で浮世絵蒐集家の由良哲次が鑑定したそうです。それまでは下絵が葛飾北斎で製作は高井鴻山の弟子たちと云われていたそうです。今は北斎で決定化していますが、まだ結論までいっていなかったと思います。
それでも、北斎の感覚は伝わるし、天井画として価値は変わらないと思います。

本堂内は撮影禁止なので、買った色紙ですが、鳳凰はこんな画です。
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この岩松院にはもう一つ名所があります。
本堂の脇から福島正則の墓所の階段の手前を右に行くと、本堂裏の山水庭園と小さな池があります。
小林一茶の俳句、「痩せかえる 負けるな一茶 これにあり」 のモデルになった池です。
産卵のために頑張るカエルを詠んだ句だとは聞いていましたが、この場所だったんですねえ
岩松院の説明書きによれば、毎年晩春の五日間だけアズマヒキガエルがこの池に集まって来るそうです。雌の争奪戦で争う雄の姿が合戦なんだそうです。その鳴き声とうごめく姿は壮観なんだそうです。そして山に帰って行くそうです。産卵後の卵も一か月半ほどで子カエルに成長して山に帰って行くそうです。
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ちなみにアズマヒキガエルですが。要はガマガエルのこと。西日本(近畿以西)にいるのがニホンヒキガエルで東日本に棲むのがアズマヒキガエルなんだそうです。
そのうごめく姿を想像しただけで、カエル嫌いの我が家の二人は顔が恐怖でおののいておりました。恐々、池を覗き込んで何もいないのを確認してホッとしておりました。う~ん、カエルたちは山に帰った後だったみたいですね。残念^^;おたまじゃくしで良いから見たかったなあ^^;

見所の多い寺院でした^^V
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