北斎館から鴻山亭

岩松院から小布施市街の北斎館に向かいました。
うまい具合に駐車場も見つけて歩いていくと、北斎館の廻りはお土産屋さんやレスト喫茶が多く集まっています。
そんなお店を観てランランと輝く眼が光る女性陣
北斎館の前に3館(北斎館・高井鴻山記念館・おぶせミュージアム)共通券売り場があったんですが、僕だけ買って北斎館に。二人は北斎館だけ見て、ウィンドウショッピング&お買い物に
というわけで、北斎館は三人でしたが。。。何せこういう所に来ると、じっくりゆっくり観る僕と眼につく物しか見ない女性陣。。。まあ、北斎館からは別行動になっちゃいました。
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葛飾北斎はあまりに有名なので説明の必要はないと思います。
長寿であったこともあるし、奇人変人扱いされますが生活のすべてが絵画に繋がっており、浮世絵はもちろん肉筆画・挿絵など作品は多岐にわたり生涯作品が3万点を超すと云われています。

奇人と云われる代表例は改号と引っ越し、改号30回、引っ越しは何と93回
引っ越しに関しては、僕も人に自慢できるくらいやりましたが、とてもとても北斎の2割くらい(独身・結婚後含め21回)で敵いません
僕の場合は転勤でしたが、北斎の場合も理由がはっきりしています。
北斎という人は絵を描くこと以外は一切ダメで、掃除・洗濯・料理は一切手を付けませんでした。途中からは出戻りで画才豊かな娘・葛飾応為(かつしかおうい・三女お栄)と同居でしたが、応為も父親と同じ性格と性惰で、画業一筋で家事はせず、当然家は汚れ・ちらかっていくわけです。食事も店屋物しか食べていなかったようです。
汚れてきたら家を変えるの繰り返しだったそうです。ただ、75歳で昔住んだ家に戻ったら汚いまま。。それで反省したのか??引っ越しはそれでしなくなったそうです。

ちなみに葛飾応為ですが、北斎が亡くなるまで同居をしていたそうで、妙にうまがあった親娘だったようです。応為の名は、北斎が娘を呼ぶとき「お~い」と呼んでたからだそうです。
父親の画才を血濃く受け継いだいたようで、美人画に関しては北斎も彼女には敵わないと認めてる程の逸材でした。北斎との合作や北斎の代筆も多いようです。彼女自身の残る作品は多くないですが、秀作で価値が高いものです。
出戻った理由ですが、彼女が嫁いだのは北斎の友人の町絵師・堤等琳の門下の絵師だったのですが、夫の絵を批評して、拙い所を痛烈に指摘したせいと云われています。絵に関しては妥協しないのは父親譲り
北斎の死後、「長野に絵の仕事がある。」と云って消息を絶っているので、岩松院の鳳凰図の彩色は彼女だという説が有力な説として残っています。僕もこの説には同感している一人。
その後、彼女は加賀藩の世話で画業を金沢で続け67歳で亡くなったという話が伝わっていますが、北斎死後の応為の消息ははっきりしていません。

北斎館では「富嶽三十六景展」「夏の肉筆展」が開催されていました。
本やその他で眼にしたことのある、図画が目前でこれだけまとめて観られるのは貴重な体験でした。
肉筆画も精緻を極めていて、直に目で見ると色使いや構図、題材の視点は素晴らしいの一語です。
特に興味深く観たのが「富士越龍図」 これは北斎死去の三か月前に描かれたもので、絶筆とも言われています。まさか実物を観られるとは思いませんでした。感激
本とかでは見ていましたが、実物は思ったより小さいのですが、凄いですねえ。北斎の竜の顔はあまり好きじゃないんですが、これは年老いて疲れた顔が印象的です。近づいて見て良し、離れてみて良しの逸品です。

北斎館はリニューアル工事で11/28~3/31まで臨時休館になるそうです。ご注意を

北斎館の前で二人と別れて、小布施堂のイタリアンレストラン・傘風楼(さんぷうろう)の脇道・栗の小径を歩いていくと蔵が並んだ間に高井鴻山記念館の東門(裏門)があります。
北斎館の廻りを構成する老舗の「小布施堂」「桝一市村酒造」の祖先にあたる高井家(市村家)の12代目の当主が高井鴻山になります。
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高井家は元々は高井郡の市村と云う所から小布施に移ってきたそうです。ですから、本姓は市村として現在に至っています。
7代目から酒造業・豪農として資財を作って来たのですが、8代目の時に天明の飢饉があり蔵屋敷を開放して困窮者の救済に当たったことにより、幕府から「高井」姓の名字・帯刀を許されました。更に功労から全国へと商圏を広げることが許されていました。また京都の九条家の代参にもなって収納の管理に当たっていました。
このことから幕府・御所双方から認可され商圏は全国に広がっていました。
ちなみに困窮者への倉解放は家訓になっていたようで、鴻山の時代に起こった天保の大飢饉でも蔵や井戸の開放が行われています。
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鴻山は若い頃から高井家の後継者として期待され、幼い頃から当主としての教育を受けていました。
15歳で京都に遊学して20代を漢詩・書・絵画・和歌・国学・儒学など多くの師に学んでいます。
その後、30代からは江戸に出て、昌平黌(しょうへいこう)の佐藤一斎の門下に入り朱子学を学んでいます。ここで、佐久間象山や大塩平八郎と交流を持ち攘夷論・公武合体論を持ったと云われています。また葛飾北斎に弟子入りしたのもこの頃と思われます。
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先に書いた天保の大飢饉の放出は江戸遊学期ですが、その際は地元に戻って倉解放などを行っています。
京都・江戸遊学は高井家の商圏拡大の目的もありましたが、鴻山自身は商人よりも儒学者・芸術家を目指したようで、これが出来たのは小布施の高井家の父親や兄弟などの商才と援助があったればこそです。
小布施の町で鴻山の悪口は言いにくいですが、鴻山自身はその行動を観るとボンボンの放蕩息子・当主だけど商才はないし、単なる芸術家肌の学者気取りと思われます。ただ儒学・朱子学を勉強したおかげで、地元愛や報恩の情は厚かったと思われます。
その一例をあげれば、江戸遊学中に作った30歳も下の愛人に実家に押し掛けられ、高井本家の本妻・親戚筋が殺伐としたことに。。また徳川家に1万両の献金(7年間の約束)を約しましたが、翌年大政奉還でパアとなり、膨大な借財が残り、高井本家を破産に追い込んだ一因を作っています。

国学者としては全国的に著名で幕末期には船会社の設立案を幕府に建白したりしています。この建白案は当時の幕府で軍艦奉行・外国奉行・勘定奉行他の要職をを歴任した小栗忠順(おぐり ただまさ)による兵庫商社として設立されています。(日本初の商社は坂本竜馬の海援隊と云われますが、実はこの兵庫商社が日本初の商社になります。)
ちなみに小栗忠順は混乱期の幕末の幕臣として、日米修好条約を批准した人物としてドラマなどでは悪役や気弱い人として描かれることが多いのですが、批准の際には米国まで使者として赴き、地球を一周して帰っています。つまり、世界一周を初めて行った日本人です。その他にも日本にはなかった製鉄所や造船所も設立しており、幕軍艦隊は国内最強でした。維新後は御用金隠匿(伝説の赤城山埋蔵金)の首謀者として逮捕・斬首されましたが、維新後の急速な改革や海軍の整備は彼の残した兵庫商社・横須賀製鉄所・築地ホテル・造船所という基礎があったおかげと云われています。大隈重信や東郷平八郎などは彼のことを「明治の父」と尊称しています。

高井本家の本宅は、破産の主原因となった明治の大火で焼失したのですが、この記念館には類焼を免れた書斎として使われた「ゆう然楼(ゆうぜんろう)」や葛飾北斎の滞在の際にアトリエとして建てられた「碧い軒(へきいけん)」。現在は鴻山や北斎などの絵画を展示している土蔵などが修築・移設されています。
鴻山は書も有名ですが、なんといっても「妖怪画」が有名です、そういった作品も多く観られます。

「ゆう然楼(ゆうぜんろう)」は鴻山の書斎として使われていましたが、幕末の混乱期には佐久間象山・久坂玄瑞など著名な人物や志士が訪れています。2階の書斎には象山と鴻山が激論を交わしたという火鉢のある座敷や鴻山が好んだ一弦琴も展示されています。また2階からの眺めも趣があります。
幕末の混乱期、指名手配の志士なども訪れたため、建物には逃走用のからくり仕立ての逃走路が造られたりしています。特に2階から床下に直接降りられる逃走路は興味深いものです。訪れた際は是非覗いて見て下さい。
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葛飾北斎が滞在しアトリエとして使った「碧い軒(へきいけん)」
碧いは青いさざなみという意味です。六畳一間でそれ程大きいものではありませんが、床の間や壁には貝殻が付着した船板が使用されており、つり天井や雨戸をすぐに開けられるように工夫された折り戸など凝ったつくりです。通常は開けられた雨戸の所から室内を観られるようになっています。
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小布施の名家と北斎のつながりを最も感じられる場所です。

※ゆう然楼の「ゆう」と碧い軒の「い」に関しては、このサイトでは認識されず文字化けするので、ひらがなにしましたが、やはり原字でないと雰囲気が掴めませんねえ
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高井鴻山の事績の顕彰碑は岩松院の横から雁田城に行く登山道の脇に立派な物があります。
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旅行日 2013.07.05

北斎館


高井鴻山記念館







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