田中郷菅原神社

携帯電話を買い替えたのは良いのですが、機種変更のデータ移行はいつもとは違って、画像データは移せなかったので徐々に整理中(連絡先の通常連絡先も解らなくなって、古いののデータを観ながら直してます。やっぱりガラケーにすべきだったと少し後悔中。。以前のデータが解りづらい)
そのついでにUPしてないものをこの機会にUPしようなどと考えています。時期は一気に古くなったりしますがご容赦ください。

外回りの仕事ついでにその近辺をウロウロしてみると、意外な発見があったりします。
今回の田中郷菅原神社(たなかごうすがわらじんじゃ)もそんな神社の一つです。この神社は実をいうと、我が家から車で5分程度の場所なんですが、長年近くに住んでおきながら全く知らなかったとは不覚の一言でした。
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手取川扇状地の上にある白山・野々市には多くの用水路がありますが、この神社の横にも郷用水と呼ばれる用水路が流れています。おかげで、用水路を回り込み狭い住宅路を入り込まねばなりません。散歩や散策路には最適ですが車にはとてもつらい場所です。でも、用水路には桜が植えられ並木になっていますから、やっぱり散策路としては素晴らしい景観です。この神社の横には大きな広場(菅原公園)があって、子供たちの遊び場にもなっています。
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社域に入ると真新しい社歴板があります。それによると田中郷菅原神社の創建は天正12年(1584年)となっています。田中村の有力者・藤右衛門が菅原大神(菅原道真・天神様)を勧請して天満宮としたものです。
寛永15年(1638年)失火で焼亡した際に、八幡神と合祀して別の地に移されていましたが、明治の神仏分離で、菅原神がこの地に戻され田中郷菅原神社として現在に至っています。
ちなみに八幡神は野々市の郷町にある田中八幡神社だと思われます。ここで目敏い方には解ると思いますが、田中郷は通常の地域表現の白川郷のような○○郷ではなく、田中村(町)と郷村(町)の合体になります。
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この辺りは野々市市と白山市(旧松任市)の境界が入り組んだ場所で、地元の人でも境がよく解らないという場所です。
野々市は中世以降は加賀守護家・富樫家の本拠があった場所です。松任は室町前後期頃から松任城を本拠とした鏑木氏の本拠でした。この両家の関係に関しては良好なものでした。特に富樫政親鏑木繁常は婚姻関係を結び(繁常が政親の姉婿になっています。)親密な関係であり、富樫政親が弟・幸千代と守護職を争った際も政親に味方しています。幸千代方は手取川以南が本拠でしたから、鏑木繁常富樫政親の盾となって最前線に立っていたことになります。最終的に政親は真宗勢力の助力で正式に加賀守護になったのですが、蓮如を中心に肥大・先鋭化して行く真宗勢力を恐れて弾圧します。この際にも繁常は終始一貫して政親に味方して弾圧に加わっています。

この両者の関係が微妙になったのは、文明7年(1475年)富樫政親が真宗門徒と和議停戦を結んだ時です。
この停戦後に、全く突然に鏑木繁常吉崎御坊に蓮如・下間蓮崇を訪ね、本願寺に帰依、「徳善」の法名を受けています。更に松任城主の座も長男に譲り隠居してしまいます。数か月後、吉崎御坊を蓮如が退去した際には、護衛役を買って出て丹波まで護衛をしています。その後も京都で、妻・妙善尼、二男・繁行(徳圓)と共に布教活動に邁進し、最終的に石山本願寺に入っています。
富樫政親にとっては、信頼していた右腕ともいえる鏑木繁常の変身と鏑木一族の転身は大きな痛手となりましたが、俄かには信じられない出来事だったかもしれません
その後、松任の鏑木一族は真宗門徒ととして転身。ついには一向一揆の主戦力として、長享2年(1488年)、高尾城富樫政親を敗死させます。
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その後、鏑木氏は本願寺派の真宗門徒内での地位を高め中心的存在だったと云われています。
天正5年(1577年)に織田・上杉軍が手取川合戦で衝突した際、松任城(城主・鏑木頼信)は上杉謙信の攻略を受け落城したとも守り切ったとも言われています。その辺は資料が少なく詳細は不明ですが、、その後も鏑木氏が城主となっていますし、頼信が上杉謙信に加賀出兵を請うた連署状が残ったり成町の松任城の出城跡に上杉本陣跡の伝承地もあるんで存在は確かのようです。しかし、上杉軍・織田軍の侵攻は真宗門徒の内紛を呼び、鏑木頼信は同じ加賀衆の七里頼周に討たれたと云われます。天正8年に内紛につけ込んだ柴田勝家の加賀侵攻で松任城は落城しています。
ちなみにこの神社を管理する宮司の名も鏑木姓ですが、本社は北安田町の安田春日神社です。この神社は前出の鏑木頼信によって再建されたもので、頼信の支族が代々宮司を伝えています。
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話が横道に逸れましたが、天満宮(田中郷菅原神社)が創建された天正12年の前年に前田利長が松任城に入城しています。
これは賤ヶ岳の戦いの恩賞という名目で、利長は5年間城主を努めています。
創建時は前田利長の勢力圏ということもあり、天満宮創建も菅原道真を祖とすると自称する前田家の意向も反映されたと思われます、
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その後、松任は豊臣秀吉の直轄地となり、丹羽長重が転封されます。更に数年で長重自身は小松を加増されて本拠を小松城に移しますが、松任もそのまま長重の勢力下となっていました。
金沢城に入った前田家と丹羽家の境界線が先に書いたように、この辺りになっていたわけです。

以前、UPしましたが、関ヶ原の戦い時にはこの両家は東西に分かれてしまったのですが、関ヶ原に向かった前田利長は小松城にてこずり、撤退時に丹羽長重の急襲により大きな痛手をこうむり金沢城に撤退します(浅井畷の戦)。
しかし、丹羽長重の損害も大きく、再度徳川家康の要請を受けて出陣した前田利長軍に再度抗戦するほどの力は残っておらず、小松城開城と人質交換を条件に和睦しています。
この人質交換の契約が行われたのが、両者の境界線に当たる天満宮(田中郷菅原神社)と伝わっているそうです。このことは僕も全く知らず、ここに訪れて初めて知ったことです。
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人質交換の内容ですが、前田家から小松城に送られたのが利長の弟・利常(8歳)、丹羽家からは長重の弟・長紹(12歳?)でした。戦時とはいえ、ともに元服前の幼さでした。
この両者は後年各家では重要な人物となります。前田利常はこの5年後に隠居した利長の後を継いで、前田家当主・加賀藩主を継ぎ、徳川幕府との駆け引きを乗り越え、加賀100万石の礎を築いた人物です。
また丹羽長紹 個人は生没年や業績は不詳ですが、二本松藩丹羽家の5代藩主・当主は長紹の血統から輩出され幕末までその血筋を残しています。

後年、藩主の座を長男・光高に譲った利常は、かつて人質として入った小松城を改修して隠居城として入城しています。本来、自分が人質とされて送られた城は忌避するものですが、利常にとっては逆に楽しい思い出の地だったようです。
もちろん、敗将として相手に遠慮したという面もあるでしょうが、長重は手ずから梨を剥いて利常に与えたり、側において諸々の話を親しく語り、自分の弟・息子のように扱ったと云います。
当時、前田家における利常は、前田利家の実子とはいえ母親は身分の低い女中(下級武士の娘、名護屋城在陣の臨時派遣)のため、利家は正室・まつに遠慮して(恐れ?)、隠し児とされて越中守山城に置かれ、生まれて以降、父の顔を一度も見ずに育てられていました。利長の斡旋で利家と改めて親子の対面を果たしたのは、この年の前々年のことで利家死去の前年でした。
対面を果たしたとはいえ、隠し子で日陰者である利常の立場は微妙なものであり、周りの目は冷めたもので扱いも軽い物でした。利長の養子となって後継者に指名されたのは、この人質後の話です。
利常にとって人間扱いされ、前田家の人間として正式に扱われたは、この小松城の人質生活が初めての体験で、逆に楽しい思い出になったことが、隠居後の生活の場として小松を選んだ大きな要因だと思われます。

またまた話が大きく逸れてしまいましたが、現在の社殿は昭和37年(1962年)に木造の本殿を建立し、昭和46年(1971年)にコンクリート造りの拝殿・幣殿が建立されています。神社の形が横T字型なのは同時建立でなく敷地の関係で向きを変えた為と思われます。
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旅行日 2014.3.25








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