金剣宮参道 不動滝

以前と云うよりも、だいぶ前にご紹介したことのある金剣宮。たまに車休憩に立ち寄るんですが、毎回駐車場に車を停めるんで直接に宮に入ってしまいます。今回は久しぶりに表・裏参道を往復してきました。
金剣宮 表参道

事前に前のブログを読んでみたら、大きな間違いを発見 何を勘違いしてたのやら
金剣宮の主祭神を大国主と書いていましたが大国主は脇祭神。。主祭神は天津彦彦穂瓊々杵尊(あまつひこ ひこほ ににぎ のみこと)でした。ホノニニギは天孫降臨で葦原中国に降り立った神です。天照大神の息子と高皇産霊尊(たかむすび・高木神)の娘の間に出来た子で、天孫ニニギとも呼ばれています。海幸彦・山幸彦の父になります。山幸彦は神武天皇の祖父になりますから、神武の曾祖父になります。
金剣宮では明治の神仏分離の際にホノニニギを主祭神・白山第一御子彦神に比定したそうです。明治の神仏分離では記紀の神を、現地神に比することが多いのですが、何故ホノニニギかは不明です。

元々、白山七社の一社の金剣宮では、当然ながら白山神(白山比咩大神・妙理大権現・菊理媛神、呼び名はいろいろあります。)を信奉していました。七社の入り口に当たることから、主祭神は白山第一御子彦神(妙理権現第一王子)となっていました。明治以降はホノニニギを同一としていますが、江戸期以前は単独神でした。
神仏習合には本地垂迹(ほんじすいじゃく)という考えがあります。これは仏・菩薩・天部が日本の民衆の前に現れる際には八百万の神の姿で現れるというものです。白山信仰でも白山の中心となる御前峰は主神の垂迹は菊理媛神(本地は十一面観音)、大汝峰が大己貴命(阿弥陀如来)、別山が大山祇命(聖観音)として、この三神を5人の王子神が護るという形態でした。(※僕が勘違いした原因はこれ、、大己貴は大国主の別名なんです。。)

南北朝中期に編纂された神道集には、
「およそ白山権現は、大御前(御前峰)は十一面観音なり。小男地(大汝峰)は本地は阿弥陀なり。 因蔓陀羅の図なり。別山大行事は本地は請観音なり。
五人の王子御在す。 太郎は剣の御前(金剣宮)、御本地は大聖不動明王なり。次郎の王子は本地虚空蔵菩薩なり。三郎の王子は本地地蔵菩薩なり。四郎の王子は毘沙門天王なり。 毘沙門の本地は文殊なり。五郎の王子は本地は弥勒菩薩これなり。」
「金剣宮、白山の第一の王子なり、 本地は倶利伽羅明王なり。 垂迹は男神なり。 御冠に上衣を着す。 銀弓と金箭を帯し、金作の御太刀はかせ給ふ。」と載っています。

まとめると白山第一御子彦神は5皇子の長男として、本地は大日大聖不動明王(不動明王の一尊、大日如来の化身、倶利伽羅不動明王にも擬えています。)。垂迹は男性の煌びやかな武人姿。
このことから、武の守り神として源義仲・義経、前田歴代藩主に信奉されてきました。
明治にホノニニギを第一王子に比定したのは、単なる天孫降臨からと思いますが、、、、菊理姫神を天照大神に比定することはありますが、それならば大汝峰の大己貴が高木神にならないといけないんですが、そんなことは聴いたことがありませんし。。
以前紹介した能生白山神社で、少し書きましたが菊理媛=奴奈川姫という説があります。奴奈川姫と大国主の長男と云えば、建御名方(たけみなかた)。出雲神話の建御名方は大国主の国譲りにも反対して、高天原に最後まで抵抗して諏訪にまで逃れた神です。高天原軍の建御雷(たけみかづち)に比肩する武神です。そして諏訪大社の主祭神(諏訪神)となった神様です。
ですから、白山の御前峰の母と大汝峰の父を白山麓の入り口で守る金剣宮の第一王子は、本来は諏訪神(建御名方)を祀るものだったのではないかと、現在の僕は考えています。まあ、異論は山ほどあると思いますけど。。
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金剣宮は鶴来本町の交差点から東に200メートルほどの場所に、表参道の大きな鳥居と勾配のきつい石段があります。下から見上げるとなかなかの威容があります。登ると確かにしんどい。。。しかも、登り切ると鶴来レインボーラインと呼ばれる県道103号線を横断するか側道を女段に向かわなければなりません。この道を走る車はけっこうスピードに乗っているし、軽いカーブ地点ですから横断には気をつけましょう。鶴来レインボウラインの名はついこの間知ったんですが、いつの間に命名されたんでしょうね。地元なのに知らなかったあ。。
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表参道男段と呼ばれていますが、裏参道女段と呼ばれています。
裏参道の入り口は表参道とは老舗の澤田旅館を挟んだ南側にあります。こちらの方が登りもなだらかですし、県道の手前に地下道があるので、安全に金剣宮に到着できます。
裏参道の途中には二つの記念碑と滝があります。
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裏参道の鳥居をくぐって石段を登り始めると右手にあるのが、民謡・鶴来節の記念碑
裏参道の入り口に当たる日詰町界隈は鶴来廓という芸妓の花町でした。その名残りは先述の澤田旅館・花月荘の建物や隣り格子などに残されています。
鶴来節は昭和2年に発表されたもの、最初はこの鶴来芸妓のお座敷歌となっていたものですが、その後は白山登山詣での人が登山中に歌うようになり広まったものです。昭和10年代には山中節と並んで石川県を代表する民謡になっていました。白山市無形文化財指定
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左折すると不動滝の向かいの広場には、小川幸三の故宅跡の碑
江戸期末期の混乱時、加賀藩は守旧派が実権を握っていたことが禍して、優秀な人材の登用が遅れ、勤皇・尊皇攘夷に出遅れ、明治維新に乗り遅れ大藩の割には重要な役割を演じられませんでした。しかし、その加賀藩にも先見の銘に優れた人材もいました。その一人が小川幸三でした。
小川幸三は町医者の息子として生まれ、14歳で江戸に留学して典医について医術修学すると共に、京都の二条家で儒学を学んでいます。更に19歳で京都経由で江戸に再留学し、昌平坂学問所の幕儒に弟子入りして4年間を過ごしています。この2度の留学で勤皇・開国の意を強くします。しかし身分制度の厳しい加賀藩では一介の町医者にはまだ出番はなく、子供たちに勉学を教えるだけでしたが、その間に他藩の勤皇志士との交流を図ったとも言われています。桜田門外の変(1860年)を聞いて上京して視察後、藩主・前田斉泰に建白書を提出します。2年後、登城命令で前田斉泰に説明答申を行っています。内容的には「加賀藩としてこの時代状況に対して、座して観ていれば薩長の天下となり、加賀藩のなすすべがなくなる」というもので、この時期としては時代への読みが鋭いと云えました。
文久3年(1863)年、德川家茂の上洛の先鞭役を命ぜられた加賀藩は世子・慶寧(後の14代藩主)を派遣、ここでやっと小川幸三を士分として取り立て京都探索方下士にして先行させています。この時は慶寧、小川幸三ともに金沢に戻っています。
ところが翌年の元治元年(1864年)、再び加賀藩は京都探索方として上京します。この際には小川幸三は金沢に残っています。金沢の勤皇派の引締めと拡充を図っていたと云われます。ところがここで禁門の変(蛤御門の変)が勃発。この変に際して加賀藩軍はどちらにも味方せず金沢にむかって撤退します。ハッキリ言って長州軍に味方するのは無謀で意味なしですが、薩摩・会津・京都所司代に援軍をしないのは単なる優柔不断の日和見にしかなりません。これを伝え聞いた小川幸三は近江海津に出向き、再上洛を進言促しています。しかし、この時には加賀藩は守旧派が盛り返し、勤皇派排除の機運で一致しており、小川幸三は国外無断外出で捕縛され、その後、勤皇派による騒擾計画の主犯として刎首刑にされています。享年29歳。明治2年(1869年)、金沢藩から罪科取消がなされています。明治24年(1893年)、靖国神社に合祀、正五位に叙任。
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ちなみに小川幸三の妻・昌子(後に直子に改名)は才女で知られ、夫の死には墓前で後追い自殺を留められ実家に3年間幽閉謹慎させられています。その後、教育界に転身、金沢女子師範・京都師範学校教諭など多くの教員を経て、明治36年に明治天皇の内親王二人の御用係兼教育係を11年務めています。小川夫妻の墓は昆虫館の近くの船岡山墓地にあります。
この二人は鶴来・松任では事績・教育界の鏡として、旧鶴来小学校には銅像が存在しましたし、朝日小学校では授業で教えられているそうです。

裏参道にある滝が不動滝
水量はそれ程でもありませんが、町中にある滝としては落差15メートルと落差の大きな滝です。
特に夏場の水量は少ないので滝つぼも静かな水面で、整備された水面には鯉が静かに泳いでいます。
しかし断崖とウラジロなどの木が繁茂して、日差しを遮ってくれますから避暑としての休憩や散策には最適な場所です。
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この不動滝は冬になると水面に積もった雪や氷に落ちる滝水は勇壮なもので、夏とはまた違った趣があります。
僕はまだ見たことがありませんが、特に厳冬期の凍えるような日に滝が凍りついて氷滝になるそうです。
不動滝氷柱として江戸期から冬場の名所とされていたようで、安政年間には鶴来十二勝景として知られていたそうです。ただ、滝にある案内板に安政年間に国学者・福田美楯が考案したと書かれていますが、美楯は寛永年間に亡くなっていますから真偽は不明です。
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昭和初期に制定された鶴来八景にも「不動寺氷柱」として選定されています。
鶴来八景に関しては石川県内の人でも知らない人が多いと思いますので、、、、、ここに
※ 白山路桜花        白山比咩神社表参道
※ 後高山朝霞     
※ 月惜山時鳥        林業試験場裏山 
※ 天狗橋納涼        
※ 臥龍堤月見        十八講河原堤防
※ 金剱祠紅葉        金剱宮表参道及び深山
※ 一閑院暮雪        一閑寺境内
※ 不動滝氷柱        


全国には○○八景と呼ばれる景勝地が多く存在します。その数は400以上と云われています。日本の自然・旅愁の風光明媚さを表すものともいえます。

元々、八景の始まりは中国の北宋時代(960~1127年)の官僚で山水画家・宋進の「瀟湘八景(しょうしょう はっけい)」とも、南宋時代(1127~1279年)に始まる西湖八景(十景?)とも云われています。
その後、八景の思想は東アジアに広まり、有名なものでは朝鮮八景・台湾八景(台湾八景は時代で場所が変わります)が今も伝わっています。
日本には安土桃山時代に伝わったと云われ漢詩集に詠われた「博多八景」が始まりと云われています。同時期に作られた物として有名なものでは「近江八景」が現代に伝わっています。

江戸時代に入ると、大名が別荘地に八景を模して自慢したことで一気に広まったそうです。江戸時代は意外に知られていないかもしれませんが、国内旅行文化が花開いた時代で、浮世絵や風景画集として旅行のガイドブックとして庶民に広まりました。代表的な物には安藤広重(歌川広重)の「金沢八景」が代表になります。あまりの八景だらけに毒舌家で有名な新井白石が知人に「諸国の名勝地だけでなく大名や旗本の別荘・山荘に至るまで八景のないところは一ケ所もない。方々から八景の詩を詠んでくれという依頼が来ている」と手紙を送っているそうです。

明治以降になると、観光誘致の観点から更にその数を増していましたが、昭和の成長期には地域振興や地域観光の観点からますます数が増えることになります。鶴来八景もこの部類になります。

初期の八景は、瀟湘八景が創始したように、自然・季節・時節・景観・風俗・場所をなぞらえた八種でしたが、時代と共に景観や場所そのものだけを示すものも現れています。作家や識者が選定した「新日本八景」などは最たるものです。
本来の八景は環境変化や開発によって、時節の景観は損なわれたり、景観そのものが変貌してしまい八景自体が消えてしまったものも多くあります。それを考えると、初期の八景で現在も残る「近江八景」は貴重な存在ともいえます。

旅行日 2014.07.11







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