上柏野 楢本神社の欅(けやき)

白山市は旧の松任市と手取川河口の美川町、白山のある白山麓の鶴来町・河内村・吉野谷村・鳥越村・尾口村・白峰村が合併してできたのですが、後述の白山麓には山麓ということで、大木や銘木が多く存在します。
しかし、松任や美川は手取川の扇状地にある平野の為もあり、大きな森が少なく大木もそれほどありません。
あるといえば、多くは神社の杜になります。

そんな松任地区で樹高が一番高いのが上柏野町にある「楢本神社のケヤキ」と云われています。樹高約33メートル目通り7.7メートル。(ちなみに、樹木のサイズ表示はいろいろありますが主要なものでは、地面から頂点の高さの樹高。枝葉の広がりの左右の幅の葉張り。幹回りの太さの目通り。この三種があります。目通りは名の通り人間の目の高さ(1.2メートル)で測るものです。もしその高さで株分れしている際は、各株の太さを合計して平均したものです。)樹齢は千年近くと云われています。
画像
画像
画像

国道側のこじんまりした集落内にあるため、近くを通る割には通り過ぎてしまうので、意外に知られていませんが、静かな雰囲気の神社の中にあるので神厳な雰囲気があります。
参道から観ると、下太りの土台のような幹から急に細長く(実際は太いんだけど)幹が頭上高く伸びて行きます。
実は本来3本に枝分かれしていたそうですが、2本は枯れ落ちてしまったそうです。裏側に回ってみると解るんですが根元の太い部分が大きな空洞があり大人が中に入れる程になっています。空洞の真ん中に逆根と呼ばれる幹がありこれがこの木を保っているようです。枝分かれして枯れ落ちた2本の後も解ります。
枯渇や空洞は観られますが、樹勢は強くこの時期には緑の葉を多くつけています。
画像
画像
画像

古くからこの木は高いことで知られていたようで、地元では別名として「産みの木」「海の木」と呼ばれていたそうです。「産みの木」の呼称については説明はありませんでしたが、根元の空洞と逆根から来ているのだと思います。「海の木」ですが、古来この木に紅白の竿旗をつけて航海の船や漁船の目印にしていたそうで、地元や漁民からは神の木として尊称されていたそうです。
画像

現在、旧松任市で一番高い木はこの「楢本神社の欅」ですが、明治までにはこの木より更に高い欅が存在したそうです。上柏野から北西に2キロ程行った所にある宮保町の「宮保八幡神社の欅」。明治初期の記録に樹高約138尺(41.9メートル)とあります。今は枯死してしまい樹皮だけが残されていますが、目通りは6メートルですが真直ぐな姿は往時を偲ばせます。しかし空洞の中に新たな芽吹きがあり育ってきていて、早くも立派な木になっています。裏側の前の皮が剥がれ、新しい木が大きく育って前の木に張り付いたように見えます。欅の強さを感じますね。
画像
画像
画像

この他にも吉田町の神田神社にも枯死した欅の大木がありますが記録が古く詳細は分かっていません。
宮保八幡神社も狭い集落にあるため、外来の人が訪れないので木の根に悪影響を与えないのが良いのか、広い境内内にある木はどれも立派なものが多いんですね。繁茂する葉によって境内は日陰になっていますし、風通しも良くてお昼休憩や避暑にはばっちりです。
画像
画像
画像











松任市を含めた旧石川郡には古代から明治初期にかけて十社の式内社がありました。その後、明治に泉・西泉・三馬・野々市新、大正・昭和になって金石・大野・額・高尾などが金沢に編入されるなどで市郡域の変更で四社(額東・額西・御馬(三馬)・佐寄)が金沢市になっており、一社(味知(みちの))は所在地不明で、現在の白山市式内社は五社(白山比咩・本村井・楢本・笠間・神田)となっています。

上柏野 楢本神社
画像
画像

画像
画像

式内社というのは、醍醐天皇の時代の延喜5年(905年)に国の台帳(延喜式)に記載された全国の2861社(3132座)の神社のことです。祈年祭などの重要行事に神祇官または国司より幣帛を奉納した神社のことです。
つまり、少なくとも紀元905年以前から存在した由緒ある神社として国が証明した神社ということです。

ところが、先述の味知神社のように歴史の中で不明不詳になったものや、衰退し廃社となったもの、火災や天災によって消失したものが多くあります。そういう神社では他の場所に移転したり分祀したりを繰り返し、長い歴史の中で同じ神社がいくつも存在することになります。そういう風に2社以上になって、本来の式内社が解らない場合に呼ばれるのが論社と云います。同じく先述の神田神社には論社として白山市吉田町と金沢市神田に二つの論社が存在します。もちろん、どちらも式内社を主張していますが論社として並立しています。

楢本神社も論社が三社(上柏野・下柏野・宮丸)存在します。しかし神田神社と違うのは、この三社が各自が式内社として県を巻き込んで争ったことにあります。
元々、楢本神社はこの三社とは違う場所にあったのですが、手取川の流域地帯にあったため、幾度も起こる手取川の氾濫洪水により幾度も流され村落の離散廃滅があり、神社も移転・遷座・分祀を繰り返した経緯があります。

宮丸・楢本神社(H25.9.12撮影)
画像
画像

画像
画像

明治になった頃には、実際にはどれが式内社かは、はっきり断定できる状態ではありませんでした。地元政治家の暗躍が噂されたり、地元他社を合祀して格を上げようとしたり、大きな混乱をきたしています。合祀に関しての混乱の代表としては、宮丸楢本神社の祭神は梅の枝に眼を刺されたという伝承があり、地元では境内に梅の木を植えてはならないとされていました。ところが米永町の菅原神社を合祀神社としています。当然、菅原神社の祭神・菅原道真は梅がシンボルは周知の事実です。無節操以外なにものでもないですね。
時の県令が各論社に古文書の提出を求めるなどしましたが結論が出ず、最終的に神饌(くじ引き)で決めるように指示を出しています。しかし、三社が納得するわけもなく、結局三社は式内論社となっています。この三社は一キロ内の距離にあり、この争いは地元としても汚点として尾を引くものだったようです。


下柏野 楢本神社も撮影したはずなんですが、画像が見つかりませんでした。機会が在ったら、またご紹介します。

上柏野の神社由緒・・・
村社にして創立年代明らかでない。初め乙剣社と呼ぶが 明治十四年に楢本神社を再建する。明治三十九年十二月二 十九日神饌幣帛供進神社に指定された。
社記に祭神は御膳氏の祖比古伊邪許志別命と云う説があ るが確証は見当らない。
社伝によると往古は御饌社と名付け、大社にして社地広 大、御供物準備する建物と接続し、老楢・古柏密林をなして社域を守る。当社は延喜式神名帳記載の旧社(式内社) としても、近郷の住民に大変尊敬されていた。寿永二年、後鳥羽天皇時代に、手取川大洪水となり、社殿ことごとく流出し、現在地に移された。
口伝えでは往古御膳氏の遠祖屋主思命の孫、市入命国造 としてこの地に居住し、当社に奉仕、後に訳があって僧となり宝山院と名乗る。代々当社の社僧を務める。そして御 膳の榊葉を諸国に神社に納めたといわれる。現在御膳の館(館跡) という地はその居館のあった所ではいかと思われる。

上柏野の神社解説・・・
一、 御膳氏とは
日本書紀によると紀元一二三年頃、奈良県生駒郡斑鳩地 方に本拠を置き、天皇家の台所関係をつかさどった古代 豪族で、聖徳太子や弟久米王の妃を出した家柄である。 その一族が当時の政府より北陸へ派遣され、北朝鮮(高句麗)から来る使者の接待をして、当地に居所を定めた と思われる。
一、 式内社とは
醍醐天皇の命により紀元九百五年(一千有余年前)国の台帳に載せられた古い神社のことである。
明治七年松任市にある三つの楢本神社が「当神社こそ本 物の式内社」と、互いに競り合い、時の県令(県知事) が地元に対し、あるゆる古文書を提出させ、証拠書類を 取り上げて、最後に「おみくじ」で決めたという汚点が あるが故に、敢えて式内社と記す。  謹書  昭和六十一年三月二十日 上柏野町楢本神社氏子総代


他の楢本神社にしても、社伝は微妙に違いはありますが、同じような内容で決め手になる部分は少ないのが実情です。だから、いずれも論社であって式内論社に留まるのは致し方ないと云えます。

ここからは更に横道に逸れたお話です。。。。
興味深いのは御膳氏(みのかしわでし)の部分。楢本神社がある柏野地区の名はこのカシワデから来ていると云われています。膳氏は歴史上でも、大きな事績や名を遺した人物がおらず謎の氏族とも言われています。
第八代天皇・孝元天皇の子・大彦(意富比垝(おほひこ)?)を祖とするとされています。同じ大彦を祖として同時期に活躍した阿倍氏(阿倍→安倍→土御門)と同族ではないかと云われています。

ちなみに孝元天皇は実在を疑われている欠史八代(2~9代天皇)のなかで、実在の可能性が高い人物とされています。埼玉の行田山古墳から発掘された鉄剣の銘に「意富比垝」があり、大彦と意富比垝が同じならその父親も存在すると考えられるからです。
楢本神社の由緒の中に遠祖・屋主思命の孫とありますが、屋主思は大彦の末弟ですが、この人の子が著名な竹内宿祢ですから。。。ちょっとした神社には竹内宿祢はよく登場しますから、、、また竹内宿祢は蘇我氏の始祖になり、膳氏とは話がややこしくなってしまいます。

膳氏が有名なのは、なんといっても聖徳太子の妃として迎えられ太子の死の前日に亡くなり、同じ墓に葬られた膳部菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ、膳大郎女 )を輩出したことにあります。小説や歴史本の多くには膳大郎女 は身分が低く、影の薄い人物として登場することが多いのです。
しかし太子にいくら愛されたとはいえ、また遺言だったとしても、巷間云われるような弱小豪族の娘で側室身分ならば皇族であり天皇・皇太子と同じ墓に絶対に葬ることはあり得ません。となれば膳大郎女 は正室扱であり、その実家・膳氏はそれなりの実力を持っていたと考えられます。
また聖徳太子の実弟・来米(久米)王子の妃に膳大郎女 の妹・比里古郎女(ひろこのいらつめ)が入っており、有力皇族の兄弟双方に入内させるには、それなりの地位と実力があったことが伺われます。

ヤマトタケルの父の第十二代天皇・景行天皇の時代の侍臣・磐鹿六雁命(いわかむつかりのみこと)がいます。
景行天皇に料理を献上して激賞されて後の世に料理の祖神として崇められていますが、この際に天皇から膳大伴部の姓を受けて宮中の大膳職を子孫が受け継いでいます。また楢本神社の由緒にあるように市入命国造 ・伊勢国造 として派遣もされていたようです。その後、飛鳥以降にはこの地の国造・国守は高橋氏が継続しており、大膳職も高橋氏が子孫継続しているので、膳氏が高橋氏に改姓したのではないかと云われています。
ちなみに市入命国造 の政庁は若狭に置かれていますが、支配地は越前・加賀・能登に及んでいたとされます。当然、渤海・高句麗といった北陸経由の交渉に係ったことは十分推測されます。またご存知のように小浜から京に繋がる鯖街道が示すように、宮廷の海産物の多くは若狭と伊勢から多くが運ばれたと云われます。

膳氏が史上から消えるのは太子の死以降、蘇我氏の没落に時を同じくしています。北陸は蘇我氏の勢力圏でしたから蘇我系の氏族もしくは組下だったのではないかと思われます。高橋姓が登場するのも同じ時期であり、それ以前に膳大郎女 が別名で高椅姫と呼ばれ、来米王子と比里古郎女の間に出来た王子は高椅王と呼ばれています。膳氏=高椅氏→高橋氏は濃厚と云われています。
ただ矛盾するのは正式な膳一族の始まりが磐鹿六雁命とすると、蘇我氏の始祖・竹内宿祢が登場するのは第十三代天皇・成務天皇の時代で順序が逆になってしまうんですよね。

ちなみに、高椅王は上宮王家(聖徳太子一族)滅亡の際に、山背大兄王と共に自害したとされています。
余談ですが山背大兄王の正妃は春米女王と云いますが、聖徳太子と膳大郎女 の娘になります。つまり異母兄妹の婚姻で、近親結婚が多い当時でも忌避されたものです。確かに当時の他事例は多いのですが、元々、山背大兄王不在説や聖徳太子との親子関係不在論が昔から語られていますが、その根拠の一つとなっています。

旅行日 2014.08.20

楢本神社


宮保八幡神社



【1000円以上送料無料】九条家本延喜式 1 影印/東京国立博物館古典籍叢刊編集委員会
オンライン書店 BOOKFAN
著者東京国立博物館古典籍叢刊編集委員会(編)出版社思文閣出版発行年月2011年03月ISBN9784


楽天市場 by 【1000円以上送料無料】九条家本延喜式 1 影印/東京国立博物館古典籍叢刊編集委員会 の詳しい情報を見る / ウェブリブログ商品ポータル





【漫画】日出処の天子 [完全版] (1-7巻 全巻) / 漫画全巻ドットコム
漫画全巻ドットコム 楽天市場店
作者:山岸凉子出版社:メディアファクトリー版型:A5版最新刊発売日 : 2012年4月23日あらすじ


楽天市場 by 【漫画】日出処の天子 [完全版] (1-7巻 全巻) / 漫画全巻ドットコム の詳しい情報を見る / ウェブリブログ商品ポータル



"上柏野 楢本神社の欅(けやき)" へのコメントを書く

お名前:
メールアドレス:
ホームページアドレス:
コメント:

最近のコメント

「延喜式神名帳」- by つとつと (06/02)

「延喜式神名帳」- by y&m (06/01)

「延喜式神名帳」- by つとつと (05/28)

「延喜式神名帳」- by 藍上雄 (05/28)

「延喜式神名帳」- by つとつと (05/27)