末松廃寺跡史跡公園

夏場に外回りの営業をしていると、日差しに負けて休憩場所が欲しくなります。お昼ご飯を食べるにしても炎天下よりも日陰が恋しくなります。営業や配送業務、工事資材の運送など車で動く人間にとって、夏の日陰は貴重な存在です。でも、住宅路や通園・通学路では駐車していると不審者扱いにされたり、駐車違反の注意を受けたりします。外回りの人にとって、だれにも邪険にされず、逆に迷惑を掛けない日陰の場所は貴重な存在です。
道路が拡充され住宅地が増えれば留める場所はますます減りますし、商業地が増えれば確かに駐車場は多くなるけど炎天下の日差しの下がほとんどです。緑の木陰に車を停めてのんびりできる場所はなかなか見つかりません。それでも、必要に迫られれば見つけるのが人間です。
木が多い神社なんかは最高の憩いの場になりますが、小さな神社では1.2台がせいぜいで、先客がいるとがっかりすることが多いものです。
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そんななかで、商業地や住宅街近くでも、少し外れれば外回りの車が集まる場所があります。今回の末松廃寺跡もそんな隠れた穴場です。この史跡公園の駐車場は周りの木がせり出していて木陰が出来ているし、駐車場が砂利敷きで、アスファルトみたいに照り返しや熱が篭らない。。おかげでエアコンの為にエンジンをかける必要もありません。。車人間にとっては最高の場所です。気持ち良すぎて、ついつい眠り込んで、ハッとしたことも数知れず。。
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場所的に歩いて訪れるところとしては距離があるし、意外に公園を訪れる人が少ないんですが、県内でも大規模な飛鳥時代の寺院跡で、なかなか貴重な存在です。小学生の遠足地として歴史学習に活用されていますし、桜の名所としても隠れた穴場になっています。
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公園部の総面積は2.3ヘクタール、西の金堂規模は東西19.8m、南北18.4mと東に塔を配置した法起寺式と呼ばれる伽藍配置だったようです。このことから官営要素の強い寺院だったと予想されています。
金堂の大きさは当時の標準サイズなのですが、塔の心礎となった唐戸石の大きさや基礎底辺10.8メートル、発掘の瓦欠から七重だったのではないかと推測されていました。この規模・時期の寺院建築は加賀には類例がなく、北陸最古の寺院跡と云われています。このことから昭和14年(1939年)に国史跡指定を受けていました。

昭和36年(1961年)に金堂横の水路跡から和同開珎の銀銭が発見されました。当時、和同開珎は日本最古の製造貨幣となっており、そう記憶している人が多いと思います。現在でも日本初の流通貨幣と考えられています。その中で、銀銭は和銅元年(708年)5月~翌年8月までしか製造されていないため、希少な発見として正式調査がなされ史跡公園としての保存が決定されました。昭和46年(1971年)に全国では3番目、県内初の史跡公園として整備されました。
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日本最古の貨幣についてですが、現在の教科書では富本銭が最古となっています。一部には無文銀銭となっているものもあるようです。富本銭は古書(天武12年(683年)製造の記述)には記載されていましたが、昭和44年(1969年)平城京跡を皮切りに平成3年(1991年)に藤原京跡から発見され、平成11年(1999年)に飛鳥京跡や工房跡からも相次いで発見されました。特に飛鳥京からは年代を示すもの(水晶や瓦)と同時に出て最古の貨幣と認定されています。また工房からは製造途中の枝付が出て大量生産にかかっていたことがうかがわれます。ただ流通貨幣としては確認できず限定的な褒賞などに使用されたのではとされています。
また無文銀銭というものもあります。こちらは銀の塊に穴をあけたものですが、江戸時代にも西日本では流通していましたが、こちらは銀の重さで交換されたもので貨幣というより物品扱いですが、日本書紀には顕宗天皇2年(486年)に貨幣として使用した記述があります。

末松廃寺は最初の大規模寺院建立から約50~80年ほどで廃絶したようです。その後一世紀は空白ですが、その跡地に掘立型建物の寺院が再建されたようですが、規模は小さなものだったようです。平安末期以降には何も残されない状態の荒野もしくは手取川の扇状地になっていたようです。古代・飛鳥から平安時代にかけてはこの辺りは多くの遺跡や住居跡が発見されており、人口密集地だったようです。時代の変遷で閑村化した地帯ですが、当時の発展地帯でそれを代表したのがこの末松廃寺だったようです。
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江戸時代になるとこの辺りは野原になっていたようですが、塔の心礎となっていた石だけがこの地に残されていました。地元では唐戸石と呼んでいたようです。
しかし地元では大きな寺院の伝承が残っていたようです。加賀藩士が天保年間にこの石の計測を行った記録が残っています。その際に唐戸石の名も出てきます。しかし明治に入ると農地改革で田園となりますが、水田の中にこの石があったそうですが近くの大兄八幡神社に移され手水石になっていたそうです。公園化と同時に戻され、現在のように市民の憩いの場になっています。

近年の発掘や研究や検証によって、少しずつですが判明してきたこともあります。
金堂側から発見された多くの土器や須恵器の年代測定から660年頃となり、創建もその頃と推測されています。660年は斉明天皇の時代で大化の改新後、中大兄皇子(天智天皇)が実権を握り、百済救援に出兵した白村江の戦いで新羅・唐の連合軍に大敗した頃です。
更にこの須恵器に墨書書きされたものがあり、その文字が「朱仏寺」となっていました。当時の寺院名は本名の他に通称や愛称もありましたから、末松廃寺の正式な名はまだ不明ですが朱仏寺と呼ばれたのは確かです。また平安末期に建てられた再建寺については、いくつかの文書や伝承に「法福寺」の名が見られます。これも寺の名称の候補になっています。
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唐戸石に関しても長い間、金沢城の石垣と同じ戸室石と思われていたのですが、手取川流域に流れ着いている安山岩と判明しています。また心礎としては巨石であり、類例から60メートル七層と推測がありましたが、考古学の進歩と宮建築の研究から心礎の穴の大きさから髙さが推測できるようになり(塔の高さ=心礎穴直径X40)、24メートルと判明しています。金堂の大きさ、伽藍配置が同じ法起寺の国宝・三重の塔とまったく同じ大きさとなります。地元歴史学者は法起寺を手本に建てたと推測しています。しかし、法起寺の塔の完成年度は慶雲3年(706年)で、末松廃寺の方が古くなってしまいます。もしかしたら、末松廃寺の方が法起寺の見本だったかもしれません。当時の北陸は朝鮮・渤海・中国の玄関になり実力・財力共に都を凌ぐものがありました。決して空論ではないと思われます。
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創建した人物に関しては当時のこの辺りの豪族・道君(みちのきみ)一族が有力視されていますが、末松廃寺の瓦を焼いたかまど跡が能美市の湯屋で発見されています。ところが、ここは同時期の能美の豪族・財部(たからべ)一族の勢力圏でした。以前、ご紹介した河田山古墳群の被葬者の有力候補です。この件に関しては謎が深まるばかりです。情勢を考えれば、やはり国が立案者となって、道君・財部が協同で造ったというのが妥当かもしれません。

ちなみに道君一族は手取川以北を地盤にした豪族ですが、天智天皇にも娘を輿入れさせています(越道君娘(こしのみちのきみのいらつめ))、万葉歌人としても知られる第七皇子・志貴皇子はこの二人の息子になります。
称徳天皇の死で断絶した天武系の天皇に替わって即位した天智系の光仁天皇はこの志貴皇子の子供になります。

また、同族として見られている人物として道君首名(みちのきみのおびな)がいます。この人物も北陸から出た人物ですが、能吏として重用されており律令の選定にも任命され大宝律令の制定者の一人になっています。その後は筑後初の国司となり肥後の国守を兼任しています。その善政は地元民にも尊称されて、久留米の印鑰(
いんにゃく)神社 (夜明神社)の首名塚、熊本市・天社宮(高橋東神社)には祭神として祭られているそうです。
道君首名は都でも良吏の模範とされて、4位以上の高官(首名の最終官位は正五位上)しか載せない決まりの続日本紀にも例外で載せられています。死後150年後には前世の良吏として従四位に追贈されています。

とにかく不明点が多い史跡ですが、整備された史跡公園としては価値のあるものです。なお、この末松廃寺跡の発掘物や詳細は、御経塚遺跡の横にある野々市市ふるさと歴史館にありますから、両方を観るとばっちりです。
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旅行日 2014.06.11


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