黒門前緑地

金沢城の北西の出入口となる黒門。江戸期以前は西丁口と呼ばれていました。
金沢城の正門は尾坂口の大手門ですが、金沢御堂時代や佐久間盛政の居城時代はこの西丁口が正門となっていました。加賀藩時代には改修と共に尾坂口に正門が移っています。

この黒門の下通りにあるのが「黒門前緑地」
黒門前緑地は平成7年(1995年)までは、地方検察庁検事正官舎の敷地となっていました。
平成13年に官舎の一部と屋敷を囲んでいた漆喰土塀を保全するために公園化したものです。その際に、高峰譲吉の旧宅の一部を移築しています。
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この黒門前緑地には江戸初期には、豪姫の住居があった場所になります。
豪姫は前田利家と芳春院(於松)の間の四女として誕生していますが、幼少期に子のなかった羽柴(豊臣)秀吉・寧々夫妻の養女となっています。秀吉夫妻に溺愛され15歳で宇喜多秀家に嫁ぎ二男二女をもうけています。ちなみに最後の女の子は豪姫が金沢に戻ってから生まれた子で、関ヶ原戦後に逃亡中の秀家と密会した時の子と云われています。
金沢に戻ってからは化粧料として1500石を受けており、前田家内ではそれなりの尊重と敬意を払われていたようです。また、敬虔なキリシタン信徒としても知られており、当然ながら再嫁の話は幾つか出たようですが、すべて拒否したと伝わっています。
キリシタン関係では、加賀藩には高山右近の影響でキリシタン武士が多くいました。これらの武士達からは洗礼名マリアということもあり、シンボル的存在になっていたようです。
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宇喜多家との係わりが深い人物としては、本多政重(徳川家康の某臣・本多正信の次男、八家老最大の所領3万石後に5万石)、中村刑部家正(豪姫の加賀からの付け人、元宇喜多家家老)が前田・宇喜多両家に仕えた経歴で、豪姫とは二重の主従関係にありました。

以前記述したことがありますが、高山右近はキリシタン大名として有名でしたが、豊臣秀吉の禁教令に所領・地位を返上したことで知られていますが、数年後に加賀藩に仕えています。戦術家として知られますが、築城技術にも優れており、金沢城改修・高岡城の縄張りは彼の事業とされています。所領も1万5千石と八家老並みに重用されていました。
本多政重はキリシタンではありませんが、関ヶ原戦では宇喜多家の家臣として参戦しており、戦後は前田家に戻っていましたが、宇喜多秀家が捕縛された際には前田家への累を怖れ脱藩、直江兼続の養子となっていましたが、その後前田家に復帰しています。この関係から本多家は上杉・直江系の越後・会津出身者が多いことで知られています。前田家では幕府からの越中返還を撤回させた功績で5万石の筆頭家老として2代利長から5代綱紀に仕えた功臣として前田家全盛期を支えた人物です。
中村刑部家正は前田家から宇喜多家に輿入れした豪姫付家臣として入り、宇喜多家では大阪屋敷付家老となっていました。関ヶ原前の宇喜多騒動によって標的とされ、前田家に退避して戻っていました。豪姫が金沢に戻ってからの世話に関しては彼が係り、豪姫の葬儀も彼が中心になって動いています。ちなみに後に改宗はしましたがキリシタン信徒でした。

これらの加賀藩内の人間関係や地位からそれなりの発言力を有していましたが、幕府との関係から公に表に出ることはなく、この地で約30年の半生を過ごしていました。その間、夫と息子のために援助米や援助金を送り続けていました
西軍の副将格であり、関ヶ原戦では西軍の主力となって奮戦した宇喜多秀家は、当然ながら捕縛された時点で斬首、死罪は免れない存在でしたが、薩摩に匿った島津忠恒や豪姫の兄・前田利長の懸命な嘆願で八丈島への流罪となったものです。その際には豪姫との間に生まれた秀高・秀継も八丈島に送られています。
豪姫の死後も江戸期を通じて前田家からの援助は続き、毎年白米と金子が送り続けられていました。明治2年(1869年)、明治政府からの恩赦令によって浦安に土地が与えられ、秀高子孫の2家と秀継子孫の5家が移り住んだ際には前田家から金千両が贈られています。
ちなみにその後のことですが、秀高子孫の2家が本家となり浦安に残り、秀継子孫の5家は八丈島に戻り宇喜多家墓所を守っています。
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豪姫は寛永11年(1634年)に61歳で亡くなっていますが、幕府を憚ったのか加賀藩としての葬儀ではなく、中村刑部などが中心となって有縁の者で野町の大蓮寺で葬儀が行われました。野田山前田家墓所の利家・芳春院の墓所の影に隠されたように葬られています。
大蓮寺は豪姫の位牌所・菩提寺として野田山の豪姫の墓の管理も行っていました。近年になりますが平成6年(1994年)、豪姫秀家の分骨を受けて二人の供養塔が建てられています。
お隣の神明宮はあぶり餅神事で知られ、金沢左義長の発祥地とされています。室生犀星や中原中也所縁の神社であり、堺雅人主演の「武士の家計簿」の猪山家が出頭人となっていた神社ということで、併せて何度か訪れています。またの機会にご紹介しますねえ。

猪山家といえば、この黒門前緑地と尾崎神社の間にあったのが、猪山直之が勤めた御算用場です。今は会計事務所の建物がある場所です。藩の財政・会計を支えた場所に今は会計事務所があるというのも面白いですねえ。江戸期当時は黒門前緑地・尾崎神社の地も御算用場の敷地でした。
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現在、黒門前緑地に建つ旧検事正官舎は、明治43年(1910年)に兼六園下に建てられていたものです。路面電車敷設の道路拡幅工事によって大正7年(1918年)にこの地に移設されたものです。
内外が白塗りの板作りの建物で瀟洒な造りです。現在は応接間が公園事務所となっていますが、公開されています。事務所員がいてちょっと落ち着きませんが、室内も白で統一されていて古風な窓から覗く緑の内庭園は絶品です。
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隣に建つのはジアスターゼ研究で知られる高峰譲吉の父・高峰元ぼく(精一)によって、明治5年(1872年)に近くの大手町に建てた自宅の一部です。高峰譲吉は高岡市で生まれましたが、翌年金沢に移り住んでいます。
父親の精一は(げんぼくは旧文字でここでは表記されないので本名の精一にします。)、高岡の漢方医でしたが才能才覚に優れ、御典医として金沢に招聘され、漢方医でしたが西洋技術にも明があり、後には加賀藩の西洋の軍事研究と訓練を目的とした学識研究機関「壮猶館」の教授格に就任しています。部下には臨時教諭ですが、「北陸のダヴィンチ」の異名を持つ大野弁吉もいました。息子・譲吉に対しても西洋科学の勉学を奨めています。
高峰譲吉の業績は父親の影響が大きかったようです。
年代的にはこの家が建った頃には学業修行や大学在学で、この家にはあまり住んでいないようですが、それでも実家であったわけです。
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この屋敷は昭和39年に解体され湯涌の旧江戸村に移されて公開されていました。江戸村閉鎖後、平成13年にこの黒門前緑地に移設され再公開されたものです。自宅の一部と書斎・茶室のみですが、明治初期の江戸風の書院造りが興味深いものです。
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高峰譲吉に関しては、以前にも書いているので興味のある人はこちらをどうぞ → 国泰寺
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建物の裏側が公園部分ですが、ここには数本の桜の木があり樹勢も強く鮮やかな花を魅せてくれます。
この桜はアメリカ・ワシントンのポトマック河畔の桜の枝を育成したものです。
明治45年(1912年)東京市長・尾崎行雄と共にワシントンD・Cのポトマック河畔の桜並木の寄贈を行ったものです。つまり里帰りした桜です。
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樹勢も強く土塀からせり出す姿も美しいものがあります。この桜は早なり桜としても知られていて、通常よりも1.2週間ほど早く咲く桜で、金沢に春が来たことを知らせる桜でもあります。春の桜の咲く頃、金沢城や近江町のついでに立ち寄ってみるには良い場所です。
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黒門前緑地を囲む長土塀は古風な雰囲気を醸し出してくれる存在なんですが、今年(H26.1)にこの土塀に車が突っ込んで大きく破損しました。側に立つ桜の木には損傷はありませんでしたが、しばらく無残な状態が続きました。大手掘通は長い直線でスピードを出し過ぎ、2連の直角カーブを曲がりきれなかったようです。
せっかくの歴史的遺構と景観地です。車の人は市街は安全運転でゆっくり走りましょう

季節外れのブログですが、春の参考になれば幸いです

旅行日 2012.04.13




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