浅野川大橋詰めの火の見櫓

前回の記事内で火の見櫓に触れた際に、この浅野川大橋詰めの火の見櫓の画像が無かったので、市街に仕事があったついでに写真を撮って来たのが今回の「浅野川大橋詰めの火の見櫓」です。ただし、陽が暮れかかった時間帯で、大通ということでフラッシュは焚かなかったんで暗い画像になってしまいました。
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浅野川大橋は文禄3年(1594年)、前田利家が河北・越中と金沢を結ぶ重要道路と云える北国街道を分断する浅野川に架けた橋が始まりとされています。
大正11年(1922年)にコンクリート造り、三連アーチの美しいフォルムに架け替えられたのが、現在の浅野川大橋になります。昭和63年(1988年)、車線拡幅、照明・高覧などの大改修が加えられて現在の姿になっています。この改修工事で架橋当時の姿に戻り、浅野川沿いの東山茶屋街や主計町(かずえまち)の茶屋街など金沢観光のメッカを繋ぐ橋になっています。平成12年(2000年)に犀川大橋と共に、国有形文化財に指定されています。
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僕が小学生の頃、津幡から金沢に来るときは、大概は汽車を利用することが多かったんですが。。
3年生の時にダンプと格闘して負けて頭部強打で約1か月入院したことがあったんですが、退院後に病院の指示で精密検査のために週に1.2度でしたが、1.2か月ほど母親に連れられて大学病院に通わされました。
当時は家の近くに金沢直通のバス停があったのでバスで通っていました。すぐに車酔いする僕にとってはバスは苦痛の何物でもなかったんですが、おかげで夏休みを含む約3か月の休学は子供としては逆にうれしかったような。。。。
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バスが苦手だったし、脳波検査では今みたいに優しくなく頭に針を刺されるんですから、僕にとっては一種苦行の行為だったんですが、母親と一緒に金沢の町に行けるんですからウキウキワクワクだったんです。でも、長い車中のバス通院の行程はとっても嫌で長く感じていました。
「早く着かないかなあ~~~」と、ひたすら思っている僕の眼に映ったのが、この浅野川大橋とでっかい塔に見えた火の見櫓でした。初めて見た時から覚えて2回目以降はこの橋と火の見櫓が見えると、もうすぐ嫌なバスから解放されると喜んだものです。とにかく、車窓から見える火の見櫓は子供心に、でっかくて見上げるような火の見櫓は、早く見えないかなあという対象物になっていました。
母親が心配した後遺症も現れず(趣味嗜好や性格はこの時から一気に変わったみたいですが)、2か月近くの検査通院は無事終了して火の見櫓浅野川大橋は見る機会は一気になくなりました。幼い頃の記憶なんで所々抜け落ちていますが、古い浅野川大橋火の見櫓の姿や兼六園下から大学病院への兼六坂や道路は現在も頭に焼き付いています。
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浅野川大橋詰めの火の見櫓は、それからしばらくした昭和46年(1971年)に老朽化した上部を半分以上切り取られて土台から10m程になってしまいましたが、現存しています。火の見櫓は大正13年ですから、現在の浅野川大橋の完成から翌々年に建てられたものです。
現在我々が火の見櫓と認識する鉄骨造りの火の見櫓は大正後期になって建てられるようになった物で、この火の見櫓は鉄骨造火の見櫓の草創期の物になります。
僕が小学生の時に見ていた高さは23mあったと云われています。三角形(三本脚)平面の鉄骨造り。山形産鋼材が使用されており施工は金沢市の高田商会。国有形文化財に指定されている国内5基の貴重な一つです。
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昨年ニュースが流れたんですが、この火の見櫓の鉄片が剥がれて落下する事故がありました。
ところが文化財指定が禍して、大幅補修や修理補強が遅れているそうです。地元観光業者から観光地の景観を損なうと撤去の声が出る始末。このニュースのインタビューに「伝統ある茶屋街に合わない撤去した方が良い」と話すおっさん、「こんにゃろ~~」と思ったのは僕だけではないはず。。
観光誘致優先で勝手なことを言うな。。歴史的な遺物は無くしたら、それまでになってしまうのが解っていないのか。地元に根付く人間から出る言葉ではないと思う。たぶん、地元の歴史も知らない他からやって来た商売優先の人なんだろう。。
景観保存と云いながら、整備しすぎて訳の解らない商品や店舗を並べてるどこそこ○○街・××通り、歴史景観に横文字や中国語やハングル文字をデカデカ表示するより大事だよう。。誘客と遺物保存は相容れない部分も多いことは理解できるけど、歴史や伝統を歪めるのはやめてほしい。。
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この浅野川大橋がある場所は、東山茶屋街や泉鏡花の主計町茶屋街などが脚光を浴びていますが、江戸期には金沢城や城下町へのアクセスが便利で、卯辰山寺院群とは別に加賀藩家臣団の屋敷も多かった地区です。また浅野川の水が消防にも利用できることから防火組織もここに置かれていましたし、現在の金沢市の消防の基礎となった江戸の加賀鳶を呼び戻して置いたのもこの地です。そして金沢消防義勇団・金沢消防団の発祥の地と云っても過言じゃないわけで、この火の見櫓はそのシンボルになるんです。

江戸期以前の火の見櫓は櫓(やぐら)の名が示すように、古代からの砦や城郭の物見台や矢倉・櫓から発達したものと思われます。寺社に見られるような太鼓楼も火の見櫓の元になったと思われます。
この為、付近でも高層の建物に付属したものが多かったようです。明治に入り、町並みが多くなってくると独立した火の見櫓(望楼)が登場します。
しかし現代になると高層建物が増え、望楼は埋もれて役目が減退してしまいます。発生通報システムなどの通信・通報連絡の整備に注がれて視認は大幅に減りましたが、一部消防施設には建物の上に展望台を置くものが観られ江戸期以前の形態に戻っているものも見受けられます。


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この浅野川大橋詰めの火の見櫓の対岸になりますが、橋のたもとに、こじんまりとした緑地があります。
橋場町緑地と呼ばれているんですが、この緑地部分に屋根付の燈台のような望楼が建てられています。
明治2年(1869年)明治維新により加賀藩から金沢藩となると、江戸の加賀藩屋敷に雇われていた加賀鳶も金沢に呼ばれ、金沢の消防組織は再編成されていきます。その際に建てられたのが「金沢の三櫓」と呼ばれる独立型の望楼でした。この橋場町の他に、犀川大橋詰め、下堤町(しもつつみちょう、近江町市場の南隣町)に明治中期まで建てられていました。
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橋場町に建てられた火の見櫓を復元建築したものです。明治6年にアメリカ人が撮影した写真画像が残っており、それを元に復元したそうです。大きさは当時の1/3スケールだそうですが、重厚でお洒落な作りで木造町並みにマッチする雰囲気です。

浅野川大橋の界隈も、夕暮れから夜間になると幻想的な雰囲気が流れ、観光客と思しき人がそぞろ歩きをしています。
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ついでと云ってはご本人には失礼ですが、浅野川大橋の橋詰(主計町)には「今越清三朗翁 出生の地」の顕彰碑があります。観光客も地元の方も立ち止まりはすれど、名前は聞いたようなと思いつつ通り過ぎる人がほとんどです。
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日露戦争で陸軍を指揮し勝利しましたが、作戦失敗の責任から引退を申し込んだ際に明治天皇から慰留され、親王(昭和天皇)の教育のために学習院院長に就任、明治天皇の大喪の礼の夜に夫婦で殉死した乃木希典(のぎまれすけ)。死後も乃木大将・乃木将軍の愛称で親しまれ、乃木神社として神様として祀られた人物です。
東京港区に旧乃木邸がありますが、そこに「乃木将軍と辻占売りの少年」という銅像があります。(元々は六本木の毛利庭園・ニッカ池の池端にありましたが移設)この将軍と少年の舞台が金沢になります。

明治24年(1891年)乃木希典が陸軍少将時代に軍所用で金沢に訪れた際に、道端で辻占を売る幼い8歳の少年と出会います。元々、少年の祖父は御殿料理人で維新後は主計町で料亭を開業、最盛期には4軒の店を持つほど繁盛していました。しかし、祖父の跡を継いだ父が死去すると、母親が男の誘惑に乗って店の権利を売り払って行方知れずになってしまいます。6歳の少年を頭に4歳の弟、2歳の妹の三人は祖母に引き取られます。
少年の一家は貧しく、少年の売る辻占によって2年間、生計を立てていました。
乃木はその事情を聴き、健気に働く少年を優しく慰めて金弐円を与えて激励しています。この話は乃木将軍の逸話・美談として同行の車夫が即日新聞社に伝え、地元新聞に掲載、乃木大将の死後には浪曲、講談、レコード、映画などのマスコミ媒体、果ては教科書にまで載せられています。

当時8歳の少年が今越清三朗(本名・清次郎)でした。
今越少年は金沢・京都で金箔の修行に打ち込み、昭和初期に滋賀県の甲賀郡甲西町(現・湖南市)に移ると金箔作業のほとんどを手作業で行う「下田金箔」を創生しています。この技術や作品は秀逸で、宮内省関連や伊勢神宮・金閣寺など国宝修理・補修に使用されたそうです。昭和41年(1966年)に滋賀県指定無形文化財となり昭和49年に91歳の天寿をまっとうしています。

今越少年の正体は戦後まで公表されておらず、昭和37年にNHKの「私の秘密」によって、少年が今越清三朗であったと本人出演で公表されたのが初めてです。その後、今越氏乃木将軍の恩は忘れられないと、高齢を押して金箔の普及拡大と併せて全国公演を行い続けていました。
戦後から昭和40年代は金箔需要の低迷期で、金箔の見直しや需要が高まったのは40年代末期になります。今越氏の功績は金箔業界にとって大きいものがあります。

余談になりますが、こうした美談になった今越清三朗氏ですが、実際には乃木将軍との出会いと報道は自分の転換点とはなりましたが悲しいものでもありました。
報道により今越少年は地元ではちょっとした有名人となり、同年齢の少年たちの嫉妬とやっかみに遭い辻占の行商が出来なくなり、同情した知人の金箔屋に奉公人として入ります。
ここで生母が現れ妹を連れ去り、またしても行方不明。更に心労と疲労で祖母が急死。弟は孤児院に入ります。これらの出来事は乃木との出会いから僅か3週間ほどの出来事で悲惨としか言いようがありません。

この後の今越清三朗は前述のとおり、奉公に入って11年で金箔職人として独立します。更に7年後、京都に移り3年間の京金箔修業を受け再独立、この時点で金箔業界での名前と実績は大きくなっていたようです。軍役後、滋賀県甲西町に移り下田金箔を創始、天皇王座の金屏風、大阪城再建、伊勢神宮、金閣寺など国宝の修復・補修に多くの金箔を提供しています。金箔職人として戦前戦後を通して活躍しています。

旅行日 2015.02.03



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