大聖寺城址

加賀藩には幕末まで三つの支藩と近江の飛び領がありました。
元和2年(1616年)立藩した前田利家の五男・利孝の上野七日市藩1万石。
寛永16年(1639年)、三代藩主・前田利常が隠居した際に加賀藩の家督を長男・光高に譲り、富山10万石を次男・利次、加賀大聖寺7万石を三男・利治に分与・分藩しています。
意外に知られていませんが、この三藩以外に前田利家の時代から近江の今津(現・高島市今津町今津)に、今津村・弘川村・梅津村の二千五百石の飛び領が幕末まであり在地の任命代官が居ました。
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大聖寺藩は現在の加賀市と小松の一部で構成されていました..開藩時は江沼郡133村と飛び地の越中新川郡9村で構成され、万治3年(1660年)に加賀藩との間で新川郡と能美6村(馬場・島・串・日末・松崎・佐美)を交換、矢田野の開墾で3村増えて幕末まで続きます。
その間に三代藩主・前田利直が弟・利昌に新田1万石を分与していますが、利昌が徳川綱吉の法会で乱心して奈良柳本藩主・織田秀親を刺殺するという事件を起こして新田藩が取り潰されていますが、新田1万石は大聖寺藩に返還されるという紆余曲折はありました。また9代利之(としゆき)の時代、高直しを行って10万石となり、幕末までを迎えています。
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大聖寺には江戸期初期まで大聖寺城(錦城)がありましたが、一国一城令で廃城となっており、その後に立藩した大聖寺藩ではその麓を開削して、陣屋と藩邸を熊坂川と大聖寺川(旧大聖寺川)に囲まれた要害地に置いていました。現在の加賀聖城高校・錦城小学校敷地と江沼神社がこれに当たります。10万石未満の大名家では基本的に城を持たず、藩庁といえる陣屋を置いていましたが、大聖寺藩は陣屋持ち大名としては全国でも最高石高になっていました。
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大聖寺城の在った錦城山の登山道は錦城小学校のグラウンドと道を挟んであり、大きな戦没者慰霊碑と公園が入口にありますが、江戸時代は不入の地・お止め山とされ人跡未踏で、打ち捨てられた状態で、木が生い茂り、鹿や兎の楽園になっていたと云われます。何度か前を通りながら、まだ大聖寺城址を登ったことがなく、今回初めて登城して観ました。いや~~、なかなか良かったです。なぜ、今まで登らなかったと後悔してしまいました。
今回は、通常の登山道から登りましたが、本来の大手道は慰霊塔の裏横からになるようです。
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大聖寺城は鎌倉時代に国人・狩野一族が築城し、津葉氏、朝倉氏、朝倉氏家臣・堀江景忠、一向一揆衆と城主が何度も変遷しています。狩野・津葉氏の時代は同じ丘陵の谷を挟んだ西に城があったとも云われており、津葉城と呼ばれていたとも云います。朝倉氏と一向宗の争乱和議で城は廃城となりましたが、加賀に侵攻した織田信長が柴田勝家に命じて修復して、戸次(簗田)広正、前述の朝倉氏・一向宗・織田氏と渡り歩いた堀江景忠を配置、その後改めて佐久間盛政を城主にしています。佐久間盛政が金沢に移ると拝郷家嘉が城主になっています。
ちなみに拝郷家嘉の名は聞きなれない名と思いますが、賤ヶ岳では佐久間盛政と共に突出攻撃に加わっており、子孫は尾張徳川家に仕えていて、小説・劇画の「子連れ狼」の拝一刀(おがみいっとう)は、この人の曾孫となっています。
ここまでの城主の変遷は南北朝以降の戦乱において、大聖寺城が何度も最前線基地や防衛拠点に成っていたことを表しています。
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戦没者慰霊碑前の公園に小さな石碑(記念植樹碑)がありますが、これは新潟県新発田市の公民館が設置した「新発田藩主の地をたずねて」というものです。
現在の大聖寺の町割りと城の完成は新発田藩祖・溝口秀勝の入部から始まったと云っても過言ではありません。

賤ヶ岳の合戦の後、北の荘に丹羽長秀が入部して越前・加賀(能美・江沼)を領地とします。丹羽長秀の与力・溝口秀勝が江沼郡4万4千石の領主として大聖寺城主となります。丹羽長秀の死後も溝口秀勝は堀秀政の与力として大聖寺に留任し、その期間は15年に及びます。その後、溝口秀勝は組親の堀秀治が春日山に移るとともに新潟・新発田に移り、新発田藩祖になっています。後任には小早川秀秋の付家老から独立した山口宗永が入部しています。小早川秀秋は一旦、越前・能美・加賀の領主として筑前から移封が決まっていましたが取り消され、不仲の山口宗永だけが小早川家から独立して加賀に来たという経緯があります。小早川秀秋の伝わる行跡・行状を観れば、来なくて良かったというのが正直思っちゃいますけどね。

大聖寺の町は碁盤の目のような路地と古風な町並みが多く残りますが、現在の魚町・京町・本町といった城下町の中心地の町割りは溝口秀勝の時代に完成したと云われています。同じく大聖寺城の城割は柴田勝家時代からの物を大きく改造して完成させたのも溝口秀勝だとされています。また、石高も7万石と倍増していますから溝口秀勝の治世能力は相当高かったと思われます。
ただし、溝口秀勝が新発田に移封となった際に、重臣から中間・小者にいたる全家臣、本百姓や多くの農民を伴っています。新発田藩の資料には、この本百姓・農民によって新村が多く作られ新発田藩の基盤になったと云われています。
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城下町の開発や整備の主力になった技術者集団、新田開発の労働力の農民集団の多くを引き抜かれて、後に入った山口宗永は困惑・苦労したと思われますが、治世わずか2年ですが大きな混乱や騒動は伝わっておらず、逆に首塚・胴塚墓石・供養塔など加賀藩に逆らった人物としては異例なほど加賀市に散在しています。領民にとってはそれなりに良い領主に思われていたようです。
加賀藩としても後ろめたさがあったと思います。実際、加賀藩が山口親子の供養に建てたと云われる荻生地蔵が錦城山西麓に伝わっています。前田利長・山口宗永は利休門下で仲が良く、能楽にも通じあった文化人として知られていました。
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山口宗永は純粋な親豊臣派で、陪臣ながら豊臣姓を受け、秀吉死後には遺品分けで名刀を受けています。これは後日談ですが、次男・弘定は豊臣秀頼に仕え、木村重成の妹婿として木村軍に従軍して、大坂夏の陣の若江の戦いで討ち死にしています。親、子二人ともに豊臣に殉じたわけで、秀吉、利家との関係から加賀藩の後ろめたさは大きかったと思われます。
戦後、山口宗永の子孫と称する2名が加賀から松江藩に仕え、その家系から明治以降には日銀理事・山口宗義、明治建築を代表する山口半六を輩出しています。また宗義の子にはミッドウェイ海戦で、最後に残った空母・飛龍でヨークタウンを大破させて戦死した第二航空隊司令官・山口多聞(少将、戦死で中将昇進)がいます。本丸入口に昭和51年(1976年)に建てられた山口玄蕃頭宗永顕彰碑がありますが、碑文にこのことが記されています。

前田利長は東軍に属しましたが、寄り親の大谷義継の関係から南加賀・越前は西軍に属していました。利長は金沢を発進して南下を開始します。この南化策は徳川家康からの要請とも云われていますが、この時点では家康は上杉への奥州討伐の途上で、北陸の領土拡大が目的とも云われています。
ともかく最初に丹羽長重の小松城を攻めますが、北陸一の難攻不落と云われる小松城を落とせず、抑えの兵を置いて先に進みます。ここで軍を二つに分け主力は能美の三道山に置き、別働隊として前田利政・山﨑長徳・長連竜などが御幸塚城(今江城)を拠点に江沼に侵攻して大聖寺城攻略に向かいます。別働隊とはいえ、その総数は公称2万5千になっていました。実数は1万5千~1万8千とされています。(史実上では前田利政は小松城攻撃を主導していますが、大聖寺攻めの主将とも、小松城の抑えに残ったとも、利長と三道山に在陣したとも云われ所在ははっきりしません。)

圧倒的な兵力差に山口宗永は防衛前線地の動橋(いぶりばし)の松山城から大聖寺城に撤退。小松城や北の庄城に救援要請を出しますが間に合わず、単独で防衛戦に臨むことになります。大聖寺城の兵力は1200余。
松山城に入った前田軍から降伏勧告が行われますが、山口宗永はこれを拒否。
大聖寺城では守将・山口宗永は籠城戦を主張しましたが、長男・修弘(のぶひろ)は城外での奇襲戦を主張して城外戦を挑みました。一時は前田軍を混乱させますが打ち破られて城に撤退。城に籠った兵数は500余りに減っていました。

大聖寺城は堅固に整備し直された城でしたが兵力差はどうにもならず、降伏を申し出ていますが利政・山崎・長共に降伏を許さずに攻城に徹しています。本来の目的を達成するならば降伏を受け入れるのが通常ですが、攻城軍の前田利政・山崎・長共にそれまでの戦歴を観ると、直情型で徹底した強硬派でした。しかも緒戦で受けた被害が大きく意地になった様子が覗えます。前田利長が軍にいればまた違っていたかもしれません。とにかく、この攻撃で大聖寺城は落城し山口親子は自刃しています。
落城後、大谷義継の謀略が功を奏したのか前田軍は撤退を開始、浅井畷の戦いを経て金沢に戻っています。
その後、徳川家康の再要請で再出陣。小松城開城・丹羽長重と和議、北の庄の青木一矩を降伏させています。
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関ヶ原戦後は加賀全域が加賀前田家の領土となり、大聖寺城には城代(後の郡奉行)が置かれ江沼郡の統治の中心地となっています。城代には太田良知が配置されました。関ヶ原戦後も加賀藩内には反徳川派と恭順派に藩論が大きく分かれていました。この太田良知は反徳川の急先鋒で、この2年後に苦慮した前田利長は横山長知(よこやまながちか、加賀八家老横山家2代目)に命じて、太田良知を金沢城内で斬殺させ、藩論を徳川恭順に統一しています。その後の大聖寺城代には小塚秀正が入っています。ちなみに小塚秀正は利家に従った荒子七人衆の一人で、以前紹介した豪姫の菩提寺・大蓮寺を建立したことで知られています。
加賀藩が郡奉行所として使用した大聖寺城東丸を中心とした東南部と思われます。下馬屋敷跡・貯蔵庫跡・番所屋敷跡は位置的に加賀藩郡奉行所時代の物と思われます。

一国一城令で廃城となったまま、大聖寺藩は城を使用せず、陣屋や藩邸の背後の山としてお止め山として侵入を厳禁とし、江戸期を通じて木が生い茂り、動植物の楽園となっていました。
大聖寺城址は近年は錦城山公園として整備されて、登山道や遊歩道があり比較的見学し易くなっていますが、夏草や薮が多いのでそれなりの準備をして登ることをお勧めします。

大聖寺城の在った錦城山は標高60mほどで平山城の部類になりますが、曲輪は土を削って急斜面で登山道も急角度、本丸・西の丸・二の丸に囲まれた馬洗池を中心に放射状に取り巻くように大小の曲輪で囲んで、通路も迷路のように配し、さらに細かい曲輪が侵入者を妨げる連郭式城郭になっています。
本来は、織田家の城特有の石垣もあったようですが、廃城時に石垣は破壊されて、石も運び出されたようで一部に石垣の跡のような形跡が観られます。
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注目すべきは登山道が三叉する地点の手前で、特に本丸の前には多段式の曲輪が施されており、防御面は相当強そうです。観た眼には三段ですが六つの曲輪で構成されています。
山口親子が篭った際には500と兵数が少なすぎましたが、緒戦から籠城戦を行うか、人員が2.3千以上で適時の人員配置が出来れば、長期間の抵抗が可能だったと思われます。
実戦では籠城兵は少なくすぐに鐘ヶ丸などの外郭での戦闘が主になっていますが、城兵の抵抗や他の曲輪からの奇襲戦で前田軍も大きな被害を出しています。

登山道の三叉路から直接、本丸に行けるように遊歩道があり、観光コースは左回りですが。。。
本来の旧城道は、東丸、鐘ヶ丸の起伏を経由して外郭を西の丸、三の丸、二の丸、本丸と右回りに進まねばならないように設計されています。当然ながら右回りは勾配がきつく、右手には山壁がひたすら続く感じで圧迫感を侵入者に与えます。今回は楽に進めるように左回りの観光コースで歩いてきました。
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本丸錦城山の最高点にありますが、思ったよりも狭く感じます。本丸を囲む曲輪を含めばそれなりの規模ですが、主郭は小さな小屋建物一軒を建てれば、それで終わりそうな程の大きさです。櫓台の敷地の方が大きく、司令部より偵察・監視施設の要素が強そうです。櫓台奥の土塁が高く残っており、その先は深く削られており、鐘ヶ丸方面の防御を重視しています。
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城内の貴重な水の手としては馬洗池があります。大聖寺城の郭構成はこの池が中心点になっているようです。
なお、大聖寺には、ここと同じような丘陵地帯が多いのですが、山中には天然のため池が散在しています。大聖寺城のある丘陵内には大小のため池が存在します。この馬洗池は湧水もあるようですが、ほとんどは雨水の溜りを利用していたようです。
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大聖寺城の郭で最大の大きさがあるのは二の丸と、外郭の鐘ヶ丸になります。
本丸の規模を考えると、城の居住スペースは二の丸だと思われます。二の丸には台所屋敷跡が確認されています。ただ整備中で、伐採された木材などやロープで進入禁止も多くて、またの機会に。。。
画像の通り、広いために公園として東屋や子供用の木製アスレチックがど真ん中にあります。
ただ、ちょっと思ってしまうのは、いくら低い山とはいえ、後で紹介する鐘ヶ丸にしても、この二の丸にしても、けっこうきつい斜面を登って起伏の遊歩道を歩かねばなりません。しかも大きな木々に囲まれた山の中、遊びに来る子供なんているんでしょうか。。まあ、登山口の前は小学校だから来るかもとは思いますが。。でも、僕の子供の頃は子供達だけで山の中に踏み込んでましたねえ^^; やっぱり居るかも、秘密基地遊びにはばっちりだけど^^
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二の丸の入り口には出丸に当たる戸次丸に向かう道もありますが、今回は寄らずに来ました。こちらも次回のお楽しみにしておきます。
三の丸前の二の丸斜面に石垣のような石の並びがあります。観た眼には人工的な物に観え、石垣遺構ではないかと思いますが、未調査部分で遺構の確認は行われていないそうです。三の丸・西の丸には大きな障害物は見られませんが、二の丸・本丸の斜面は深く削られており、旧城道を進むしかないようです。
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城攻めの場合、外郭に侵入して内郭に向かうのが常道です。逆に城兵は郭に固まった攻城兵に逆襲を加えることになります。前田軍VS山口軍の城内での最激戦地がこの鐘ヶ丸になります。鐘ヶ丸は外郭の中で最大の規模になり土塁が配され、廻りに四つの曲輪が配されて西の丸への城道も一気に狭くなり解り難く、多勢での侵入が難しくなっています。鐘ヶ丸に侵入した前田軍はここで態勢を整えようとしますが、西の丸方向から山口軍が奇襲攻撃を加えたと云われています。城内の中でもここは土塁の残存が多く残っており、曲輪との段差もよく残っています。また、弓矢補給に使用したと思われる矢竹が外周に今も生えています。

先に画像を紹介しましたが、鐘ヶ丸下曲輪から東丸にかけては、江戸期初期から廃城になるまで郡奉行所が置かれたと云われています。
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東丸の東南部端は眺望が良い場所で、大聖寺の街並みの向こうに白山連峰が望まれる好眺望地になります。
大聖寺の名所に行くと必ずと云って良いほどあるのが、作家で登山家の深田久弥の歌碑や顕彰碑。大聖寺で一番有名な人物と云えば「深田久弥」が一番に挙げられます。深田久弥は大聖寺中町で生まれ、昭和34年(1959年)から連載を開始し、昭和38年に出版した「日本百名山」が知られています。前半生と後半生では全く評価が違った人物ですが、登山家には知らない人がないといわれる人物です。
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ちなみに大聖寺城の東で旧大聖寺川の新橋の側に深田久弥の展示資料館・山の文化館があり、南の山の下寺院群本光寺に墓所があります。本光寺は墓所には寄っていませんが帰りに寄っています。またの機会にご紹介します。
登山に詳しいブロ友のgoさんが、山の文化館を詳しく紹介しています ⇒ 深田久弥・山の文化館
東丸の記念碑は「日本百名山」の発刊五十周年の記念碑として平成16年(2009年)に建てられたものです。白山が観られる好眺望地としてここが選ばれたようです。天気が良ければ、もっと綺麗に白山が観られるんですが。。。。

日本人はたいていふるさとの山を持っている。山の大小遠近はあっても、ふるさとの守護神のような山を持っている。 そしてその山を眺めながら育ち、成人してふるさとを離れても、その山の姿は心に残っている。どんなに世相が変っても その山だけは昔のままで、あたたかく帰郷の人を迎えてくれる。私のふるさとの山は白山であった。                  深田久弥 「日本百名山」より

旅行日 2015.10.06



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