旧大聖寺川河畔 

相変わらずといっては何ですが、2月末から4月にかけては仕事の一番忙しい時で、一番の掻きいれ時、更には歳とともに処理能力のうちの肝心なスピードと耐久力を失って来て、なかなか仕事を消費できず。自分で繁忙期間を延ばしてしまい、ブログの休止期間が毎年長引いてきています。しかし、この期間がないと僕の収入が大激減。一家も路頭に迷っちゃうんで頑張らないといけない時期なんですよ。。
ブログをサボってしまい、皆さんの所にも行けずじまい 大変申し訳なく思っております。どうか、お見捨てなく。。
(4月初頭に書いていたんでその続きです。その後、バタバタしてもう5月になって今更桜かと云われそうですが。。。)
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今年は桜の開花が遅れると云われ、遅い花見を内心期待してたんですが、気温の上昇と共に早い時期に一気に開花。ところが満開時になった途端に雪まじりの豪雨と風で、花が散ってしまい期間的には短いものになってしまいました。

近年は開花時期が早くて、営業で車を走らせながら横目で桜並木を観るだけで、桜の下を歩くというのがなかなか出来ていませんでした。たまの休日も部屋に籠って資料や見積・請求書などの書類製作に忙殺され。。。そもそも、嫁さんと娘は年々ひどくなる花粉症で外へ行くのを嫌がり、閉め切った家に篭りっきり。。
おかげで、ここ何年かは桜の花見どころか桜の下を歩くということもなかったような。。

ところが、この日(4/9)、午前中にお客さんが来るというので、嫁さんと娘は前日から大慌て。。長く閉め切った家は籠った空気とズボラをこいたゴミ屋敷の道を辿っていましたから。。。さすがにこのような家は見せられないということで、久しぶりに大掃除。澱んだ空気の入れ替えに窓という窓を開けて空気の総入れ替え。。いや~~、家に居ながら久しぶりに外の空気を感じたなあ^^
布団も干せたし^^(そうそう、普段から布団はちゃんと干してましたよ。そのかわり、娘が布団が破けるんじゃないかというぐらい、バシバシと叩きまくってました。)

午前に一件仕事を終えて帰宅してみると、すでにお客さんは帰った後、でも二人はぐったり状態。
そりゃそうだ、窓を全開で外の空気が入り放題、長時間開けていたから閉めたって一緒^^;なら、新鮮な空気が入った方がいいもんね(二人にとっては新鮮じゃないみたいだけどね。)
家がこんな状態なんで、久しぶりにお花見に行こうと相成ったわけです。もう外も内も一緒ですからね。

午前中に金沢市内を走って来てたんですが、けっこう葉桜が目立っていたんで、行き先は加賀市にしました。
例年は加賀市が葉桜になった頃に金沢が満開なんですが、今年は逆になった感じ。
旧大聖寺川の河畔には先週(4/1)に仕事途中に立ち寄った際には5分咲きだったんで期待して行ったんですが、満開の盛りを過ぎた感じでした。わずか一週間ほどの違いでしたが、花の命は短いとはいうものの、今春は桜の開花も急で散り始めも早いものでした。

大聖寺川は大日山を源にして奥九谷から山中を経由して、大聖寺市内の東を北に流れて西に折れ、前回紹介した菅生石部神社の手前で本流と支流に分岐して市内と市の北側を別れて流れています。以前までは市内を流れていたのが本流でしたが、昭和40年(1965年)に我谷(わがたに)ダムと河川の直線化で北側が本流となって、以前までとは逆に本流は旧大聖寺川として支流になっています。

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江戸時代、大聖寺藩は錦城山の大聖寺城址は使用せず、錦城山の東北麓で城下町の中を流れる熊坂川と旧大聖寺川の合流地点の直角地(現・錦城小学校、江沼神社)に大聖寺陣屋(藩邸・政庁)を置いていました。つまり大聖寺陣屋は熊坂川・大聖寺川を天然の堀として大聖寺城を防御地としていました。藩邸は明治以降は失われ、その遺構はその場に立っても解りませんが、旧大聖寺川の桜並木のある対岸から観ると河岸に僅かな土塁と石垣の遺構が観られます。画像の江沼神社の船着き場や熊坂川の合流点は、大聖寺藩邸・の数少ない石垣や土塁の形跡が残る場所です。

旧大聖寺川に架かる、江沼神社の東端の松島橋から深田久弥の山の文化館のある新橋までの約500mの北岸の土手道が、桜のトンネルもある桜の並木道になっています。地元の人たちが管理・保全している桜並木です。松島橋の南岸に錦城山公園の駐車場があるので利用すると便利です。
ちなみに、松島橋の南岸には明治10年(1877年)日本最初の国産鉛筆工場の跡地があります。また、後で紹介しますがアオサギの営巣地が錦城山に観られます。
新橋には登山家のバイブル「百名山」の著者・深田久弥の記念館「山の記念館」や屋形船の乗り場があります。
山の記念館に関しては、ブロ友のgoさんが以前に詳しく紹介しています。 ⇒ 山の記念館(goさん)

松島橋近辺 旧大聖寺川は流れが非常に遅く、藻やプランクトンが沈殿して濁った川ですが、野鳥や小魚、カメさんがのんびり泳いでる姿が観られます。
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上 松島橋 下流方向(西方向)           下 旧大聖寺川 上流方向(東方向)
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日本最初の国産鉛筆工場(加州松島社)の跡地 
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旧大聖寺川の河岸にある江沼神社の長流亭
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長流亭は宝永6年(1709年)は大聖寺三代藩主・前田利直が休息所として建築したものです。大聖寺川に迫り出すように造られ釣りを楽しむためと云われています。正方形に柿葺き屋根、川の水面になるため土台を石垣造り。江戸時代はこの川が大聖寺川の本流で、水深が深く、石垣部分の多くが水に浸かっていたと思われます。
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内部は正方形の外周を一畳幅の廊下を配して、四面全てが腰部から鴨居まで障子になっており開口できるようになっています。中央に六畳半の一の間(正座敷)、次の間(控座敷)があります。殿様が過ごす一の間には付書院が置かれていますが、一の間と次の間では床の間が対象に配されており、内部は全体に回転するように配されています。建築当初は川端御亭と呼ばれていましたが、利直の死後に雅号から長流亭と名づけられたそうです。昭和25年(1950年)国重文指定を受けています。内部見学は要予約ですが、当日でも事務所に申し込めば大丈夫なようです。機会があれば、また後日にご紹介します。
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前田利直は有能な人物だったと伝わり、五代将軍・徳川綱吉に気に入られ、外様大名としては異例の奥詰、譜代待遇の側近衆として政治他に参閣していました。このため、ほとんど江戸屋敷に詰めていて、大聖寺にはほとんどおらず藩政は家臣にまかせっきりになっていました。このため、藩内は派閥二つに分かれて内紛が勃発、大聖寺藩は大きく揺らぎます。この事変は加賀藩の奔走と幕府の寛容な処置で何とか治まりましたが、これに続く江戸屋敷の焼失再建など藩財政を逼迫させ、大聖寺藩衰退の原因になったと云われています。
綱吉の死去により奥詰を解任され、不遇のまま大聖寺に戻り長流亭を建てて静かな余生を過ごすつもりだったようです。ところが、利直が大聖寺藩を継いだ際に分藩した大聖寺新田藩(一万石)の弟・利昌が、綱吉の葬儀法要が行われた寛永寺で同じ馳走役・大和柳本藩主・織田秀親を刺殺して切腹・改易となる事件が起こり奔走を余儀なくされるなど晩年に不幸が続き、傷心の内に長流亭建築の翌年に亡くなっています。

ちなみに話が横道にそれてしまいますが、、前田利昌が起こした刺殺事件は、赤穂事件(松の廊下事件)と重なるものがあります。吉良上野介と浅野内匠頭の場合とは場所は違えど、朝廷から幕府への使者の饗応役という共通項がありました。前田利昌(25歳)と織田秀親(47歳)の場合も、葬儀参列の朝廷の中宮使者と準后使者の饗応役でした。前者は同じ饗応役の上司と部下の関係でしたが、後者は中宮と準后それぞれの饗応役として同格の違いがありました。元々、仲が悪かったとも云われていますが、事件の起因となったのは将軍(6代家宣)参詣の前日、将軍参詣行事が書かれた奉書の回覧を秀親が利昌に見せないという嫌がらせを行ったためと云われています。この時、柄頭に手を掛けるほどに激高した利昌でしたが、周囲に秀親や自分の家臣が居り、秀親は武芸に秀でるという世評もあり、赤穂事件の浅野内匠頭の殺害失敗が浮かび思い留まったそうです。
ところが、沸々とした思いを抱えた利昌は自邸に戻ってからも、頭が冷えることはなかったようで。。夜になって、剣豪としての名もある家老・木村九左衛門に下問したようで、「松の廊下で若い内匠頭が、なんで老人の吉良上野介を殺すことが出来なかったんだろう?」若い殿さまの暴挙を諌止せねばならなかった家老職ですが、この時点で秀親との一件を聞いていなかった九左衛門は、「それは周囲に押さえる人が居たこともありますが、内匠頭は武士として未熟で、斬ったのがいけなかった。一、二太刀で人を斬るのは達人でも難しい。一息に刺していれば殺せていたでしょう。」この会話は逸話として残っているものですが。。。
そして運命の翌日、法会の行われている寛永寺の宿坊で厠の前後は不明ですが、秀親に対して利昌が抜刀したのです。この姿を観て、同行していた九左衛門は前日の夜と併せて、将軍法会で抜刀した時点で利昌と新田藩の運命は定まったとして、秀親を羽交い絞めにし利昌に本懐を遂げさせたと後述しています。
柳本藩は秀親の養子となっていた弟・成純(なりとし)が継ぎ、その後は秀親の子・秀行を養子として後継として存続、明治まで藩は残っていました。前田利昌は発狂として淀藩預けの後切腹、木村九左衛門も切腹、新田藩は廃絶となり幕府に没収されましたが、すぐに大聖寺藩に返還されています。
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旧大聖寺川の土手を歩きながら桜並木を眺めていると、川の上を手漕ぎの屋形舟が通って行きます。
この並木の終点、新橋に舟着き場があります。この時季に乗ると川面に落ちた花びらを掻き分けるように、屋形舟が進んで行きます。舟から両岸に咲く桜を観ながら、水面の花見いいねえ。。でも、我が家は船酔いする嫁さんにより完全拒否><
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桜並木を満喫して、新橋にある山の記念館を久しぶりに観て、大聖寺藩邸の跡とも云える江沼神社を通り抜けて、車を停めた錦城山公園の駐車場に戻りました。
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この駐車場の隣の空き地は錦城山の北端に当りますが、見上げると大きな木々に鳥が群れを成して営巣しています。木枝の股に多くの巣が作られ鳥の姿が見られます。
この鳥はアオサギで、ちょうどこの時季が産卵・抱卵期で、抱卵から子育てを雄雌が交代で行っているようです。アオサギは優雅な姿に似ず肉食で水辺の魚・両生・爬虫類などを餌にしています。性格も餌を捕食するときは、相手が猛禽類でも向って行って横取りするほど攻撃的なので、あまり刺激しないように注意しましょう。大聖寺川の近辺は静かな川辺はもちろん、田園も多く、営巣地となる大木も多くあります。間近から観られる好適地。お花見の際には広場から見上げてみて下さい。

旅行日 2016.04.01/04.09

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