白峰の歴史

予定では中宮三社の別宮を書いて、こちらは番外編にしようと思っていたんですが、文を途中まで書いて昨年訪れた別宮の写真を見たら、撮ったはずの摂社の観音堂の画像がありませんで、もう一度行ってこようと思っています。現在の別宮で昔を語るならこの観音堂は外せないんです。ついでにご無沙汰している鳥越城や資料館も観たいと思っていますんで。。。しばらくお待ちを
画像
画像
と、いうわけで、先日、白峰に嫁さんとドライブ&お食事に行って来たんで、重伝保存地区を二人でぶらぶら&おそばをズルズルその帰りに岩根神社と百万貫岩を観てきました。ついでに久しぶりに手取川ダムを観ようとPAにも寄りましたが、ダムには立ち入り禁止で手取湖しか見られませんでした




白峰(旧石川郡白峰村・現、白山市)は白山開山の泰澄の下山地として古くから知られ、現在も観光新道・砂防新道に繋がる市ノ瀬や別当出合に向かう白山公園線や、別山に真っ直ぐ向かう別山市ノ街道の登山口として知られていました。この白峰地区は石川県内でも特殊な場所で、古くは冬期間は下界から途絶する地区で、白山と手取川本流に抱かれた自然と共に生きてきた歴史があります。加賀であって加賀でない、福井勝山との関係が深いとはいえ、また福井とも違う雰囲気、白峰は白峰という山の民の里だと理解して欲しい場所です。

福井県勝山市が巨大な恐竜館を造って恐竜の里と呼ばれていますが、白峰の桑島化石壁は勝山市の北谷と同じ手取層群になり、共に中生代の植物やワニの化石などが出ることで知られていましたが、昭和61年(1986年)に桑島で女子学生の拾った石から肉食恐竜の牙の化石が発見されて、その後は、桑島から4種類の恐竜が発見確定されています。これによって発掘がしやすい勝山市北谷が注目されて、現在に至っています。ちなみに白峰にも恐竜館があって広場で化石発掘が楽しめますが、施設が目立たない分、勝山と違って順番待ちなしに楽しめます。小さな子供さんにはこちらの方がお薦めかも。。。

豪雪地帯としても知られていて、毎年2月には住民人口の倍の雪だるまが2000体以上、ユニークな姿態と夜のライトアップで人気を集めています。(白峰雪だるま祭り
画像
画像
画像
明治初頭までは牛首村と呼ばれていました。この名前は白山開山途上の泰澄上人が牛頭大王・十二神将を登山の守護神として祀ったことから、同時に村名「牛首」として命名したと云われています。白山から流れる手取川本流も古くは牛首川と呼ばれていました。

画像は泰澄が薬師如来を祀って開基したという八坂神社。古くは牛首社と呼ばれており、明治の神仏分離で改称されたものです。神宝として、神鏡を中央に脇侍として薬師如来像と千支の像が安置されています。
画像
また前述の化石壁の桑島地区は嶋村と呼ばれ、この二村と下田原村、更に白峰でも数少ない稲作を行っていた風嵐(かざらし)村、市ノ瀬など小集落で白峰は構成されていました。ただ、明治に入っての牛首川の度重なる氾濫で壊滅した市ノ瀬集落の北海道移住、昭和には手取川ダムによって下田原・桑島村落の大部分が湖底に沈み旧鶴来町北部に代替地が桑島町として造成され、住宅地になっています。桑島の他にも幾つかの牛首川周辺の風嵐などの集落が本村に移っています。
画像
⇐ 白峰のゆるキャラ「ハクさん」89歳 観光案内所でお出迎えしてくれます。
画像

アップして貰うと解りますが、大きな人形も窓辺の小さなまゆ人形も牛首紬の白山工房の作品です。玉繭という蚕が二匹入った繭を云いますが、この繭から直接手挽きで紡いだ玉糸を横糸として、縦糸に通常の絹糸を使用して織り込む地元伝統の紬織物です。牛首紬は柔らかさと光沢を持ちながら、別名に釘抜き紬の名を持つ強靭さを併せ持った紬織物です。


画像
嫁さんが独身の頃からこの牛首紬のファンでして、憧れの対象物。何せお高いので行ったら欲しくなって哀しいからと。。誘っても工房には行きたがらない。。貧乏人の哀しさです。。いつか贈り物と思っても、僕の小遣いじゃ小物がせいぜい。。嫁さんの欲する反物とか着物なんて絶対無理。。
石川県牛首紬生産振興協同組合HP       白山工房HP




元々、加賀からも越前からも険しい隘路の道のりで、隔絶された山間の豪雪地帯。歴史を大まかに振り返っただけでも。。。。越前国から分離独立する形で加賀国が成立(弘仁14年(823年))した際に加賀に属した牛首村ですが、村としての正式な成立は平安後期と云われており、初期は位置的には加賀よりも越前領・平泉寺や北谷との交流が強かったようです。
画像
⇐ 白峰温泉総湯 白山麓の温泉特有の無色透明ですが、絹肌の湯とも呼ばれていて、入るとお肌がつるつる




牛首村が史上に出てくるのは長徳元年(995年)加賀の富樫氏の配下になったという記述あたりから。富樫氏の支配は15世紀末まで続きますが、白山寺領の影響があったようで、支配力は強くなく現在の河内町までだったようです。応仁の乱では西軍から東軍に変わった朝倉軍に対して、富樫幸千代(西軍、富樫政親(東軍)の弟)が牽制に牛首から先の谷峠に布陣したくらい。。

16世紀初頭、一向宗の侵攻は牛首にもおよび一向宗支配に、16世紀後期には朝倉氏滅亡後には平泉寺を攻め滅ぼしています。天正8年(1580年)には織田信長の侵攻で織田領に、この時に柴田勝家の裁定で白峰・尾口(現白山市)・大日川上流(現小松市)の16か村が加賀から越前領とされます。この半世紀前に白山争論(平泉寺と白山本宮)から伐採権が白峰(平泉寺が後援)と尾添(白山本宮)で争われていたのが原因でした。この裁定で白峰に軍配が上がりしこりを残します。
画像
⇐ 白峰は黄色の漆喰に板張りで、豪雪に負けない太い柱が特徴で、斜面にある家屋は石積みで平地を造って家屋を建てています。各家は屋号を持っていて、集落では屋号で呼び合います。大概は先祖名や世帯主の名が屋号になっていることが多いようです。特徴的な街並みや石積みは、国の重要伝統的建造物群保存地区として指定されています。






この白山争論のしこりは江戸時代にも持ち越され、加賀藩と松平越前藩の間の係争地なりました。
そもそも白山争論は天文12年(1543年)に牛首・風嵐村が平泉寺の名と後押しで白山山上に権現堂建立と白山諸堂の修繕を行おうとしたことに始まります。これを白山山上の管理権および管轄権を争う白山本宮(現白山比咩神社)が待ったを掛けたわけです。これに木材使用の白山・白山麓の木材の杣取(そまどり、伐採権・加工権)を木地師を生業とする白峰と尾添(加賀禅定道登山口)の係争にも波及してしまったわけです。
画像
江戸期に入ってもこの係争は続き、明暦元年(1655年)今度は加賀藩が白山山上堂宇建立で尾添村に杣取を命じると、再び、牛首・風嵐が反発、武力抗争に発展します。更に加賀・越前の紛争だけでなく、延暦寺・金剛峯寺(加賀白山寺は途中から真言宗に転宗復活)の代理争議など複雑化します。このため加賀藩は越前藩を訴える形で幕府へ提訴することになります。寛文8年(1668年)尾添・荒谷を含めた白山麓18か村は幕府直轄・天領として越前藩預かりとなります。しかし紛争は収まらず、寛保3年(1734年)幕府の再裁定で白山山頂の管理権は平泉寺に与えられ、越前藩預かり(管轄は飛騨高山郡代)となり幕末まで続きます。

この裁定は長く尾を引くことになりますが、一番大きな功罪は山の民そのものの白山麓が管理されることで、出作り・樵・炭焼き・猟師といった自由な民が大きな制限を受けて激減することになってしまい、独自の文化圏だった白山麓に封建的な制約が加わってしまったことです。
画像

明治になって、廃藩置県によって本保県となります。ちなみに本保県は福井県内の幕府の天領地や小領主の地をまとめたもので、飛び地だらけで本保陣屋は武生(現・越前市本保町)に置かれて管轄されていました。
1年余りで福井県に編入される予定でしたが、石川県の申し入れで白山麓18か村は石川県能美郡に編入されます。この編入はその後に続く白山の管理権が石川県に移る大きな要因になっていきます。
明治22年(1889年)牛首村と桑島村が合併して白峰村が正式に発足。

長い冬になると福井からも石川からも閉ざされる村落でしたが、大正13年(1924年)金沢往来(白峰=金沢間)が車道化、昭和24年(1949年)大道谷往来(白峰=勝山間)が車道化、現在の157号線が完成して大幅に交通がよくなりました。この国道157号線は多くのカーブがありますが、手取湖や県境の山並みなど眺望の良い道です。
画像
牛首川(手取川本流)に沿って白山に向かう白山公園線は、冬期間はゲートが閉じられて通行止になるのですが。。ゲートの手前の左手にある平地の一角に岩根神社はあります。

今回は岩根神社の前置きとして、白峰をご紹介しました。次回は岩根宮とされる岩根神社を。。。

旅行日 2017.06.11





"白峰の歴史" へのコメントを書く

お名前:
メールアドレス:
ホームページアドレス:
コメント:

最近のコメント

「延喜式神名帳」- by つとつと (06/02)

「延喜式神名帳」- by y&m (06/01)

「延喜式神名帳」- by つとつと (05/28)

「延喜式神名帳」- by 藍上雄 (05/28)

「延喜式神名帳」- by つとつと (05/27)