白山七社④ 白山別宮(しらやまべっくう)神社

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前回から、すっかり間が空いてしまいましたが、白山七社で最後に登場するのが白山別宮(べっくう)神社です。別宮の読み方は諸説あってはっきりしませんが「べっくう、べつぐう」と読む資料が多いようですが、地名では「べつく」になります。
画像は春先と夏が混在します。申し訳ありません。
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小松に加賀国府があった時代、加賀国の中心地は小松でした。加賀国府の推定地は小松市東部の国府町近辺と云われていますが、現在も不明のままです。加賀国府は前のブログでも書いたように、安元事件以降は自然消滅的に消滅して、その後の源平の争乱、寺井・林氏、野々市の富樫氏と中心地が北上して、国府の地も荒涼とした荒れ地や耕作地になったこともあります。
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加賀国府が健在だった頃、小松市街や加賀国府から白山参拝の道は、辰口の虚空蔵山などの山間の道を通って、宮竹の平地に出て岩本宮を経由して岩本の渡しから渡し船に乗って本宮、加賀禅定道を進む道。
もう一本が現在の国道360号線をまっすぐ進んで、仏御前の原町を越えて中ノ峠・三坂峠越えで白山麓の鳥越から吉野で加賀禅定道の途中から入るルートでした。


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小松から中ノ峠・三坂峠を越えて白山麓の鳥越に入ったところで待つのが白山七社中宮三社の一つの別宮でした。前回の佐羅宮が加賀禅定道から白山の登山道の関門とするなら、三坂峠越えの関門に当たるのが別宮でした。

前回も紹介しましたが、白山記の記述には…本地は十一面・阿弥陀・正観音の三所権現なり。 十一面は垂迹なり。 御姿本宮の如し。 阿弥陀は奇眼老翁なり。 神彩甚た閑正なり。 観音は咲を含む。 宰の官人なり。 銀弓金箭を帯す。

別宮は三社権現(白山三峰)を祀り、最盛期の中宮三社内では中宮の勢力が一番強かったのですが、社格としては加賀国内神明帳では、本宮と別宮だけが記載されており、従五位上・別宮明神として重要性の高い神社となっています。
その頃には、他の五社も成立していたはずなのですが、なぜか本宮と別宮のみが記載されているのは、合点がいかないのですが、国司が参拝・奉幣していた神社ということかも。。とにかく朝廷から正式に認められていたというのは、白山七社では別格の扱いだったと云えます。

社歴・・・社伝によれば

村上天皇応和三年(963)四月十二日、嶺上之神奉斎に始まり、一条天皇永延二年(988)、殿宇全て整ったという。

加賀国神階帳に「従五位上 別宮明神」とある古社。

白山七社の中宮三社の一社にして、白山記には、本地十一面観音、阿弥陀、正観音とある。

明治五年村社に列し、明治八年郷社に昇格。昭和十六年、神饌幣帛料供進社に指定された。

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上:鳥越往還 右が白山別宮神社 奥が鳥越村中心街 手前を進むと鳥越城の麓から金沢に向かう本道に出られます。
下:拝殿横の礎石群
往時には社地は現在よりも広大で、宝社三間一面・神殿五間二面・渡殿三間・小社二宇、講堂五間二面などの建物があったといわれています。神人(じにん)・衆徒も多く存在し、参拝者も多く門前町が構成されていたようです。参道前の南側に現在も鳥越の中心街が広がり、その余韻を感じさせます。

しかし戦国時代になると一向宗の侵攻により宮領や年貢徴収の権を失い荒廃し、僅かな祠堂と名前を残すのみとなっていました。しかし、名跡のみとはいえ近在の尊宗は受けていたようで、興味深い話が残っています。
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神社の横を流れる大日(だいにち)川ですが、大日山(1319m)を源にして鳥越を縫うように流れ河内の江津で手取川に合流しています。現在は上流の大日ダムのおかげで水量が調整されて静かな川ですが、当時は激しい急流で知られていました。

別宮大橋を渡った先には鈴木出羽守が本拠としていた二曲(ふとげ)城がありました。織田信長の侵攻に対して新城を築いたのが1キロ余り北の対岸の鳥越城でした。大日川の急流は両城にとっては天然の堀になっていたのです。鳥越城は防御戦闘として優れた城ですが、監視の城としての役割も持っており、鳥越街道・三坂峠越え、鶴来街道からの侵攻の監視所の役目になっていました。昼は狼煙、夜は太鼓による伝達としていました。この両城の連携によって柴田勝家軍は力攻めでの陥落に失敗して、松任城での謀略で鈴木出羽守を始めとした幹部連を暗殺して、指導者を失った両城を落城させています。
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柴田勝家を苦しめた両城の連携守備の一端となる太鼓での伝達ですが、これに別宮の民話が絡んでいます。鳥越城が完成して伝達の太鼓を試し打ちさせてみた鈴木出羽守。ところが、大日川の急流の瀬音に邪魔されて、太鼓の音が本拠の二曲に聞こえなかったんですね。さすがに南無阿弥陀仏では水の音には効果はなく、、一計を案じた鈴木出羽守は仏ではなく、白山別宮の神様に祈願奉納したのです。ここでご利益があったのか、大日川の瀬音がやんだと云われます。別宮の神様もやりすぎの機来がありまして、ついでに川に住む生き物たちも口をつぐませていて、加賀名物の鮴(ごり、かじか)の串焼きを作る際、大日川の鮴に串を挿そうとすると口を閉じると云われています。おまけつきの民話。このため民話伝承では別宮大橋から三坂峠にかけての大日川は別名・音無川とも呼ばれると伝えています。
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荒廃したとは云え、この出来事から別宮は特別な神社として、一向宗最後の拠点・鳥越にありながら別宮が名跡を地元民に残せた理由づけとなっているようです。元々、一向宗は信仰上は極楽浄土思想の阿弥陀信仰として白山神と結びついて、北陸に教生を拡大した部分もありましたから、支配権の面で白山寺をつぶしても白山神自体を消滅させる気はなかったと云えます。

しかし柴田勝家に続く佐久間盛政の討伐によって激減した鳥越勢力の衰退は別宮を完全に衰退させるには十分な出来事でした。

慶長から江戸期にかけて支配権を持った前田家は宗教の融和策をとっています。もちろん、浄土真宗の残党勢力への監視体制は維持されていますが、白山麓の民心安定化のために加賀禅定道白山七社の復興を推し進めています。特に真宗勢力の最後の牙城となった鳥越地区にあった白山別宮は重視しており、別宮神社の復興と共に別宮奉行を補任して社格を高めていました。それもあって、明治に総鎮守となった白山比咩神社は別格として、別宮神社は本宮の摂社として中宮三社・白山郷では唯一郷社に列格されています。

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現在の別宮神社の参道は南に入り口を置いた細長い敷地になります。
白山を信奉する神社としては白山七社の中では、白山の方向に向いた一番オーソドックスな方角と場所になります。拝殿・神殿は昭和40年(1965年)に1000年祭に合わせて改修されたそうです。ガラスの風防があるために解り難いですが、堂宇も屋根も全て真っ直ぐな直線になるように造られています。伝統的な造りながら西洋的な印象も受けます。いろいろな神社を観てきましたが拝殿・幣殿・神殿の壁面が真っ直ぐ一直線の平面になるのを見るのはこの神社だけです。特に横から見ると美しい建物です。
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ただ難点を云えば、拝殿正面・側面にガラス張りの風防室を作り付けているのですが、北陸では風雪から拝殿や参拝者を守るためによく見られるモノです。ところが、正面の風防の上に千木(ちぎ)が施されています。Ⅹ状に見える飾りですね。元々は棟木の重なりの名残で、鯱や鬼瓦の起源とも云われています。通常、千木は鰹木(かつおぎ、神殿屋根上部の横棒)と共に神殿上の両棟に配します。たまに拝殿上にも配したものもあります。でも風防の、しかも正面に向けて置くのはおかしいでしょう。側面のものを正面に持ってくるのは。。別宮神社では拝殿上にも千木・鰹木が配されていますが、どうみても後づけの印象を受けます。千木が5個もあるのは、ちょっとやりすぎかも。。
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前述の様に明治10年(1877年)白山比咩神社の摂社として村社から郷社に昇格したのですが、この為に3年後には仏体を排除して鏡をご神体にすることに定められてしまいました。
元々、別宮神社三所権現を信奉していましたから。。ちなみに三所権現は白山開山時に泰澄の前に現れた三柱の神様のことになります。内訳は白山妙理権現(九頭竜王・伊弉冉・白山明神):本地・十一面観音、大行事権現(菊理姫神):本地・聖観音、大汝権現(大己貴命):本地・阿弥陀如来のことになります。。このため江戸期までは十一面観音・聖観音・阿弥陀如来の三仏像がご神体(本尊)となっていました。
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国や本宮の指示で鏡をご神体にして仏像を廃棄しろと云われて、はい、そうですかというほどすんなり受け入れる鳥越住民ではありません。信仰には硬骨漢が揃う鳥越住民。。最後まで一向宗門徒として戦った伝統は廃れていません。。拝殿に向かう中間点の左手に流造の祠堂(観音堂)を建て、ここに三体の仏像を安置して信奉しています。この神社では大きな拝殿に手を合わせるよりもこの祠堂に手を合わせるのが本筋でご利益があると云われています。

三体の仏像は20㎝に満たない大きさです。4/12の例大祭に開帳されていますが、なかなか見られない逸品です。特に聖観音像は室町期の作で微笑みを浮かべた柔和なお顔をしています。前にUPした白山市立博物館の特別展「白山下山仏と加賀禅定道」で展示されていて、間近で見ることが出来ました。画像はパンフから転写したものです。他の二体も江戸期のものと云われる良品です。
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拝殿内には入ったことがなかったので知らなかったのですが、拝殿内には江戸後期に奉納された額面に法華経二巻(聖観音・十一面観音の普門品)を括り付けたもの、南無阿弥陀仏を連記した日課念仏の二冊子を括り付けた奉納額という珍しい物も特別展で観ることが出来ました。この二つの奉納額は口留番所役関係の親族から奉納されているそうです。江戸期には別宮奉行直属の口留番所が置かれ、大きな権限を持っていたことが窺われます。奉納額に仏教本をつけるというのは珍しいですねえ@@
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社務所横の祠堂(石神堂)は地元の鎮火の神様を祭ったもの。地元では石神さんと呼ばれて古くから大事にされているそうです。堂内には神仏を彫ったと思われる石が祀られています。遠目にしか見たことがないので詳細は不明。。市杵島姫(いちきしまひめ)を祀ると伝えられているそうですが、そうすると鎮火ではなく商売繁盛、市場や門前町の守護神になると思います。。。市杵島姫はスサノオとアマテラスが髪飾りと剣を交換して、真名井の水を使った宇気比(うけい、誓約の儀式)によって三つに折られた剣から生まれた宗像三神の三女になります。能登の朝市通りの守護神・市姫社、金沢の台所と云われる近江町の守護神・市姫神社が示すように能登・加賀の各地では市杵島姫神は港町の神であり、市場の神として広い地域に分布しています。

旅行日 2016.03.24  2017.08.12

間を置き過ぎましたが、白山七社シリーズはやっと完了 これまでのブログに興味のある方はこちらをどうぞ
また白山関連は書き続けるつもりですが、一番興味のある泰澄の出身・没地。小松の中宮八院・加賀江沼の白山五院が有力候補。両者ともに中世に廃絶されているためにほとんどが推定地ですが、また機会があれば。。。

①白山本宮跡 白山比咩神社(三宮跡)
②岩本神社(岩本宮)
③佐羅早松神社 (佐羅宮)
(番外編)岩根神社(岩根宮)
金剣宮(剣宮)  金剣宮参道
笥笠中宮神社(中宮)

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