狹野(さの)神社・能美九谷陶祖(とうそ)神社

画像狭野神社 表参道・一の鳥居

九谷焼陶芸村から500mほど西に行った所に、産業九谷の草分けとなった佐野窯が開かれた佐野町(旧佐野村)があります。旧佐野村は辰口丘陵の姓南端に当たり、広大な加賀平野の東端からなだらかな丘陵帯に広がる村落でした。この地で崇敬されていたのが狭野(さの)神社になります。佐野の名の由来はこの神社の名からのようです。
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狹野神社由緒
御祭神 素盞嗚尊命 すさのおのみこと 天照大神 あまてらすおうみかみ 豊受比咩命 とようけひめのみこと 仰、当社は往昔、佐野集落の発祥の地である。東部丘陵団地の東端、峠路の山中に、鎮守の神として創建されたもので、郷民の崇敬厚く、嘉祥三年(八五〇)に皇室から正六位上を賜 った。狹い谷間の野原の奥にあったから狹野の社と称えられ、これが佐野の地名の起こりと言う。やがて祖先が農耕に便利な八丁川沿岸と鍋谷川沿岸に移住した。延喜七年(九〇七)に式内社となって、全国でも著名な古社として知られたが、嘉元元年(一三〇三)に南禅寺領となって、その管轄の政所が置かれた。その後南北両佐野が合体し、現在地へ氏神が遷座された。
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前田藩政のとき、利常公が格別に崇敬され正保元年(一六四四)の春にご参拝、翌年の春の祭儀に自ら祭主となられた。明治三十五年県社に昇格し、同年神饌幣帛供進神社に指定さ れ、明治四十年に末社神田神社を合祀し大正十三年拝殿を改築し、昭和五十年に本殿、幣殿、社務所を造営した。
境内は二千坪余(神苑神楽山を含む)神田山、お守り 山、雉の山の神域三山あって、樹齢未詳の椎の大樹のほか古松、老杉、喬木等繁茂した社そうが、昭和五十二年に寺井町指定天然記念物となった。境内に当地産業九谷焼の元祖を祭る陶祖神社があって本社の春季大祭の五月一日に続き、三、四、五日が茶碗祭りとして賑う。
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われ等の祖先が幾千代かけて、えいえいと奉賛してきた尊とい当社は、世相が時代と共に推移しても、ふるさと
の心のよりどころとして永久に敬神の誠をささげていかねばならな い。
神社覈録に 狹野神社、狹野は假字也、祭神狹野尊歟、在所詳ならず
日本紀(神代・下)一書曰 狹野尊亦日本磐余彦尊云々

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神社覈録(かくろく)は江戸末期に吉田神社の神官で国学者・蔵書家・鈴鹿連胤(つらたね)が半世紀を掛け完成は明治3年で全75巻に及んでいます。既存の神社を国内神名帳(式内社)・六国史(式内社・国史見在社)を基に説明・記述したものです。ちなみに、歴史家としてもすぐれた人物で河内・大和の皇陵踏査、節分祭で有名な吉田神社の社殿再興、春日祭・神嘗祭といった官・勅祭を再興しています。日本外史の作者・頼山陽は日本外史の作製に当たって、鈴鹿連胤の蔵書を参考借用しています。
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狹野神社由来書の最後部分は要約すると・・・狹野神社の狹野の名は仮名文字(さの)である(だから意味不明)。祭神は狹野(さぬ、さの)尊かもしれないが、由来・出どころは不明。日本書記の神代下の中では狭野は、狹野尊。つまり日本磐余彦尊のことだが。。
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日本記神代は日本書記の1.2巻の日本神話の部分で、神代下は高天原で生まれた神々の登場から神武天皇の生誕までのこと。狹野尊は幼名、日本磐余彦尊は御名の一つ、漢風諡号・神武天皇のことです。
国内の同名の神社としては、宮崎県の宮崎神宮の別宮・狹野神社が代表になります。国内最長と云われる約1キロ超の参道があり、神社ファンには知られた存在です。元々は高千穂峰の神日本磐余彦(かむやまといわれひこ)つまり神武天皇の生誕地と云われる皇子原に建てられていたものが、霧島の噴火で現在地に遷座したとされているものです。神武天皇の幼名・狭野(さぬ)尊から付けられた神社名です。国内各地にも幾つか点在していますが、ほとんどが神武天皇を祀った神社です。
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しかし、佐野町の狭野神社は、それとは関係なく、逆に素戔嗚(すさのお)・大己貴(おおなむち)と言った出雲系の神が主祭神になっています。(大和の祖神、天照・豊受比咩も並列していますが、近世になってからと思われます。)

佐野町の狭野神社には並列の祭り神がいるだけで、神武天皇の影は見られません。。神社の方でも、名の由来は字の示す通り、山間の狭い野原の奥にあったことから来ているとしています。社殿では現在地より東方に2キロほど行った現在の九谷ケアハウス周辺か星が丘牧場手前が発祥地としています。江戸末期に書かれた神社覈録(かくろく)に前述の狭野尊絡みの所縁を付記していますが。。
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画像上・中:表参道 神馬舎 下:拝殿前 寄進物・神馬像  神馬像と言えば下のようなレース馬のような姿態が多いのですが、この神馬像はポニーのような小型馬、農耕馬と思われます。頭を三度なぜるとご利益があるそうです。おかげで顔だけ黒くなってます。 他に都賀田勇馬作と思われる宙を翔ける神馬像もあります。比べると面白いですね。

先述してしまいましたが、能美の狹野神社については大和朝廷とは関係が感じられません。単に狭い野原にあった神社が正解のようです。ともあれ、この名前が狹野から佐野に変わったようで、地名の由来にはなったようです。

残念ながら、加賀国神名帳(863年)は石川郡しか現存していないのですが、延喜式神名帳(927年)には記載されていますから、古くから存在していたのは確かです。神社の伝承では、義経記にあるように根上の松から岩本宮に向かう際に狹野神社を経由して七ツ滝を経由した際に、神社で鉄扇を奉納したと伝わっているそうです。

神田山旧境内地 旧神宮遥拝所跡
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鎌倉末期に佐野村が南北統一されると、神社も現在地に遷座したと書かれていますが、遷座地は現在の本拝殿横の文中の神田山頂でした。そこには神田神社(祭神・大己貴神(大国主))の祠が先にあったようです。現在は山上には五輪塔が建っています。

寛永16年(1539年)加賀藩3代藩主・前田利常は家督を長子・光高に譲り、小松城に隠居しましたが、能美郡20万石を隠居領として分離しています。領国経営の政治は変わらず、人心安定のために式内社を含め多くの寺社の復興や補修を行っています。正保元年(1644年)春には狹野神社に参拝、翌春には自ら祭主となって例大祭を行っています。領主自らの祭主は神社の格を上げるとともに穀倉地帯の一角の佐野村の民心安定に大きく貢献しています。加賀藩前田家は前田利家・利長が入部したとはいえ、加賀・能登・越中・飛騨の一部の領内民衆にとってはよそ者でした。あげくに長らく真宗勢力の教化の下にありました。初期の利常まで、年貢にしても兵力・労働力の募集にも苦労しています。この為に人心掌握・安定策は重要な事項でした。武家の多くを金沢に集中させ、十村政策をとったことも、寺社を保護したのもすべてこの為です。
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江戸期には前田利常所縁の神社として崇敬され、明治には産業九谷の里として繁盛したところから、言っては悪いですが郊外から離れた神社でありながら県社格に昇格しています。境内地も広く神苑とされる裏山の神楽山も含めると2000坪に及ぶ広大な社域を持っています。
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拝殿上部 扁額 左右に祭神の名 素戔嗚(スサノオ)命・大己貴(おおなむち、神田神社祭神)・天照(アマテラス)大神・豊受比咩(とようけひめ)命
江戸期から明治にかけては神田山は神宮遥拝所となり、拝殿が現在地に移ったようですが、時期は判然としません。いつの間にか神宮遥拝所としていましたから、、神宮は伊勢神宮を指すと思われます。祭神に天照大神(内宮)・豊受大神(外宮)にあるのでそう推論できます。明治40年(1907年)神田山の本来の先住神の大己貴(おおなむち)神を合祀して祭神に加えています。大正13年(1924年)、拝殿を改修するととも長く受け継がれてきました。現在の神社建物は拝殿を利用して、昭和50年(1975年)に本・幣殿、社務所を造営したものになります。地形を利用した重厚な造りです。
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拝殿脇 飾提灯 神紋は神社としては珍しい八本矢車(八つ矢車)紋、破魔矢を連想させると思われます。 加賀藩関係では越中高岡出身で藩御典医・藩校(壮猶館)教授・高峰精一を父に持つの高峰譲吉博士がいます。矢車紋の発祥は伊賀の服部氏と云われますが、有名なのは父が服部氏と云われる観阿弥の十本矢車。ちなみに太平記では母は楠木正成の妹になっています。現在の観世流は二本増えて十二本矢車。

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佐野九谷の里に立つ神社ですので、九谷焼関係者からの寄進物が多い神社です。
境内地が広いこともあり、表参道だけでも五柱の鳥居が建てられていますし、香炉型灯籠や狛犬も複数寄進されています。また、本殿内にも九谷の飾り壺・大皿の額が寄進されています。境内を回るだけで、多くの寄進物を目にすることができます。                                   雉の山 寄進物・十三重塔
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表参道に入ってすぐ左手の雉の山、山頂に多重塔がありますが、山裾になる塀脇に「石川県十名勝」の石柱があります。

昭和2年(1927年)、新愛知新聞が中部各県の一般投票募集を行って、翌翌年、紙上で石川・福井が同時に発表された場所です。現在でもこの標柱は各同地に残されています。さすがに90年程も経つと、今では地元でも、えっ?という結果になります。今、観光人気で沸いている金沢からは、金沢城・兼六園その他の名はなく、選ばれているのは尾山神社と鳴和の滝だけ。尾山神社は皆さんご存知のように前田利家・松夫妻を祀った神社で、ステンドガラスの和洋折衷の神門が金沢のシンボル的存在です。その尾山神社を抑えて3位の鳴和(なるわ)の滝は、今では石川県人・金沢市民でも知らない人が多いと思います。機会があったら、ご紹介しますねえ^^ちなみに、僕は全部行ったことがありますが^^V このブログで紹介した場所はリンクを設けて置きました。未紹介は画像がないので再訪してからにしようと思いますが、中にはとんでもない場所もあるしなあ。。。鳴和の滝も車だと停める場所が。。。寺尾観音は山登り。。。久常は古墳の天辺

1.江沼郡 気多御子神社 2.江沼郡 塩屋海岸 3.河北郡 義経旧蹟鳴和滝 4.能美郡 久常白髭神社 5.珠洲郡 九十九湾 6.能美郡 狭野神社 7.金沢市 尾山神社 8.石川郡 能美郡 手取峡谷 9.能美郡 明公園九谷庄三碑 10.江沼郡 曾宇 寺尾山観音
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福井県の十名所は不明で、調べている途中ですが、、この一般投票の切っ掛けになった、大正13年(1924年)の名古屋十名所は見つけました。
1..熱田神宮 2.闇ノ森 3.圓頓寺 4.天理教々務支庁 5.名古屋城 6.榎ノ権現 7.久屋金刀比羅 8.笠寺観世音 9.櫻田勝景 10.山田元大将之社
現在も県外人でもわかる有名な神宮・名古屋城はありますが、地元ならではも・・・2位闇(くらがり)の森は源為朝所縁の神社で浄瑠璃・名古屋心中の舞台、8位は寺院も有名ですが徳川家康(竹千代)が織田から今川に返還された人質交換の場、9位は万葉集に歌われた景勝地、10位は承久の乱で上皇方で唯一活躍した山田重忠を祀っていたと云われています。

ちなみに新愛知新聞は明治21年(1888年)に創刊された新聞社で、戦前、愛知では名古屋新聞と二分する勢力の新聞社で愛知を中心に中部で販売していた新聞社、昭和17年に新聞統制で名古屋新聞と合併して現在の中日新聞(当時は中部日本新聞社)になっています。
プロ野球の発祥時代に読売に対抗して、名古屋軍(現在の中日ドラゴンズ)を創設しています。ついでに昭和7年、譲渡された子会社・国民新聞に創設させたのが大東京軍で松竹・大洋などを経て現在の横浜DeNAベイスターズになります。セリーグの二球団の原点の新聞社ともいえます。
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幣拝殿と社務所の渡り廊下の下を潜った先に、この神社の神木が幣本殿の塀垣・石垣の横に立ちはだかっています。狭野神社の社叢は、この神木のスダジイ(椎の木)を始めとして豊富な種類の樹木草に満ちた原生林を有しており、昭和52年に文化財指定を受けています。
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能美市指定文化財 天然記念物 狭野神社の社叢 昭和五十二年十二月八日指定
狭野神社の社叢は、樹齢三百五十年に及ぶ椎(しい)の木をはじめ、多くの古木や極めて珍しい樹木、灌木、下草があり、その種類は四十四科・九十種にものぼる。
また樹木が階層的に調和のとれた状態を保って自然のままに、残っているところから、のちのちも原生林が続くと思われ、貴重な自然として保護されている。     能美市教育委員会

画像椎の巨木には大きく分けると二種類あります。多いのが根が盛り上がった同根の別幹や、同じ地盤から幾つかの椎の幹が寄り集まって主幹に密着して合一になって伸びる根上・株立などと呼ばれる多幹タイプと、単独の一本の主幹からなる単独タイプの二種類になります。当然、巨樹の多くは前者が多くなります。

狭野神社のスダジイ(椎の木)は後者の部類になります。
最新調査のデータでは(平成19年(2007年))、樹高16m・幹周7.02m・幹幅1.3m・樹齢350年超
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地上2メートル程のところで5本ほどに枝分かれしています。スダジイ特有の樹瘤が多く観られ、樹皮も勢いがあるように見えます。御神木として地元の崇拝を集めることを示すように、大きな注連縄が巻かれ、石柱を張り巡らし、塀石垣に寄り添うように立っています。

しかしこの石垣や参道として参拝者が多く地盤が踏み固められて固くなっており、成長に支障を来したためか、大きく樹勢が弱った時期があり中央部に腐食が進んでいたそうです。平成15年に樹木治療として腐朽部の治療や施肥が施されています。
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斉田道開生誕地碑

この神社にやってきた大きな目的が陶祖神社の存在。
前々回にも書きましたが、斉田道開(斉田伊三郎)の生誕地であり、産業九谷の先駆けとなった佐野窯開窯の地でもあるのです。狭野神社の表参道を進んだ新馬舎を左折した場所にある斉田道開を祀った陶祖神社はあります。斉田道開については、奥野八幡神社で触れています。
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斉田道開は佐野村で生まれ、16歳で若杉窯で本多貞吉に製陶を学び、5年後に山代九谷で南京写を習得して若杉窯に戻り赤絵技法を学んでいます。本多貞吉没後、清水焼で製陶・着画を学んだのをはじめ、肥前・伊万里焼で製陶、築窯、焼成法を修め、丹波、美濃、尾張なども見分して36歳で若杉窯に戻り習得技術を伝えて発展させています。また、隣の小野窯にも赤絵技術を伝えています。40歳で佐野村に帰って独立、佐野窯を開きます。更に赤絵の発色をもたらす2度焼きを行い鈍い赤色を深紅にまで引き出す技術も開発。傍らで作画塾を開き門弟を多く抱えます。佐野窯が軌道に乗った後、素焼き窯を独立させ、分業専業が進み産業九谷としての能美九谷・佐野窯の後継者が多く出ています。佐野窯は明治30年で閉窯していますが、その後も陶工・画工がこの地に育ち、九谷資料館や陶芸村が現在も置かれ中心地になっています。(2017.06.12 奥野八幡神社から
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陶祖神社の由来

佐野九谷陶祖神社には、良質の陶土を発見し、佐野窯を創始した斉田道開が祀られています。
斉田伊三郎(道開)は一七九六年、佐野村で桶屋の長男に生まれ、一六才のときから、若杉窯に修行に入り、南京写・染付・赤絵を学び、ニ七才からは京都・伊万里・美濃と諸国の陶地で学び歩いた。四〇才で佐野に帰郷し、佐野窯を始めた。九谷焼の上絵に荒窯と金窯の二度焼き技法をあみ出し、絢爛豪華な佐野赤絵の基礎を築いた。七三才で没した道開の徳を慕い、狭野神社に祖霊社を建て祀り、記功碑を建てた。
一九〇八年(明治四一年)ここに陶祖神社として再建、道開らの慰霊祭を持った。以来、道開の遺徳を偲んで、五月三日に慰霊祭が行われ、九谷焼に係わられた人々が合祀されている。佐野茶碗祭りはこの境内で始まり発祥の地とされています。

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画像中央右が斉田道開の碑 左が弟子三人の碑(供養塔?) 左端の登り道が神楽山登山道天保年間、佐野窯を開き赤絵細絵の特殊技法を編み出した、斉田道開は弟子と共に製作に励み、安政4年(1859年)近くの坪野山・佐野与四兵衛山で新陶石を発見すると、翌年には中川源左衛門・三川庄助・深田源六らに素地窯を築かせました。ここから産業九谷に繋がる素地窯と錦窯に分かれる分業制が確立されます。明治元年(1868年)斉田道開が亡くなり、二代目・伊三郎が継ぎますが47歳で早世、前述の中川源左衛門が引き継ぎ、明治24年にその後を三川庄助が引き継ぎ、明治30年に閉窯となっています。その後明治末期には弟子筋が佐野村で七つの窯が築かれ、茶碗山と呼ばれるほどの隆盛を迎えていました。

佐野九谷の開祖として尊敬を集めた斉田道開の祖霊社・記功碑が狭野神社の弁天山に建てられたそうです。弁天山というのはよく解らないんですが、神苑とされる神楽山のことではないかと思われます。狭野神社の神殿の真裏に当たる神楽山の登山道の入り口に斉田道開の碑があります。その横に中川源左衛門・三川庄助・深田源六の円柱碑があります。神楽山はまだ上ったことが無かったのですが、嫁さんを待たせているので、今回も登らなかったので、まだ未登頂がちょっと後悔。。。横に少し離れたところに歌碑がありました。 この巌(いわお) さざれ石にと なり果つも 陶のふるさと 神の鎮めむ ♪

神楽山の山頂では、佐野窯で使われる釉薬(ゆうやく)の原材料となる磁石が採れていたと云われています。
釉薬というのは別名では「うわぐすり」とも云いますが、陶磁器の表面のガラス質のような部分になります。
これがないと磁器の色を保てないし、輝きというか光沢も出ません。「彩釉磁器」で人間国宝となった三代・徳田八十吉は釉薬を調整することで鮮やかな色彩を演出しています。九谷焼の絵付と共に重要な命になります。
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明治41年(1908年)、現在地に陶祖神社が再建され、佐野九谷の祖・斉田道開を筆頭に中川源左衛門・三川庄助・深田源六、更に再興九谷の祖・本多貞吉も祀られています。
同年に慰霊祭と共に、佐野村の窯の蔵の総ざらえとして陶祖神社境内で行われた陶器市がお祭り広場に移り、更に現在の九谷陶芸村の九谷茶碗祭り(5月3~5日)の起源になっています。前出の斉田道開生誕地碑のある傍に「茶碗祭り発祥の地碑」(H26)があります。九谷茶碗祭りの際にはぜひ立ち寄って欲しい場所です。
旅行日 2018.07.22 

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