桑島化石壁(恐竜壁)

桑島の大栃のある百合谷橋を渡って進むと広々した広場の三叉路に出ますが、右折すると谷川に沿った大嵐山への登山道の入り口駐車場に行けます。途中には近年発見された立木の珪化木があり、大嵐山の登山道の途中には水芭蕉の群生群が見られます。5.6月にまた再訪したいなあ。。今回は先日の台風のせいか通行止めの表示があったのと時間的に断念。三叉路をまっすぐ進むことに、以前は深瀬の手取橋まで行けたんですが、道路が数カ所崩落していてトンネルを抜けたところで通行止めです。とはいえ、目的地はこのトンネルでしたから。。。
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三叉路からしばらく行くと、前回画像を紹介した「手取川総合開発記念館」が右手の山上にそびえ立っています。遠くからでも目立つ建物ですが、間近で観ると本当に大きな建物です。
その記念館の前には寂しげで朽ち果てそうな旧家造りの家屋二軒(旧桑島資料館)に挟まれた広場に記念碑と迫力満点の恐竜の像が佇んでいます。
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「ライン博士顕彰碑」(写真は撮ったんですが不鮮明な上に銘文が潰れたりで、予測字があります。)
ライン博士(1853~1918)は、明治七年(1874)に我が国の工芸調査のため、二年間、プロシア国(現ドイツ国)から派遣された。
山岳信仰研究のため、明治七年七月白山登山をされ、帰路桑島化石壁付近で植物化石を採集された。化石は友人ガイラー博士によって、明治十年ジュラ紀(一億数千年前)のものと公表された。このことは、我が国の化石による地質時代確認の最初の報告であった。
したがって、桑島地区は日本の地質学発祥の地である。
またライン博士はボン大学で地理学を教えられるがかたわら、日本人留学生の世話をされたので、我が国学界の育ての親の一人である。
ここにライン博士の業績の一つ●●●●●にあったことを顕祝する
昭和五十五年三月 金沢大学教授 松尾秀邦 撰

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「ライン博士顕彰碑」 Monument of Dr.Rein (白山ジオパーク設置板)
この地域で続けられている化石調査の歴史は、1874年、ドイツから日本に来ていたライン博士による化石の発見から始まりました。採集された植物化石に関する論文は、日本で初めて化石から地質時代を推定したものとなりました。そのため桑島地区は、日本の地理学、古生物学発祥の地と呼ばれており、ここでの化石調査は世界的にも注目を集めています。このようなライン博士の功績を称え、1980年に桑島地区が、ライン博士顕彰碑を建立しました。毎年ライン博士の遺徳をしのぶライン祭が行われ、後世に語り継いでいます。
図はライン博士の友人であるガイラー博士の論文で、新種と記載されたPodozamites reinii(ポドザミテス・ライニイ)。ライン博士の名前をとって命名された。 Hakusan Tedorigawa Geopark


ライン博士のフルネームは、ヨハネス・ユストゥス・ラインという舌を噛みそうな名前なので、ライン博士に統一させてください。ライン博士は地理・植物の科学専攻で大学卒業後、教職資格を取得と共にプロシア王国からの派遣でフランクフルト・ドルバート(現エストニア・タルトゥ)・バミューダ・イギリスと渡り歩いています。派遣と言えば聞こえが良いですが、まだまだ教職としては駆け出しで、プロシアの命令で一種の地方巡察・状況報告が仕事でした。日本に関しても2年の任期で派遣されたものでした。派遣の名目は日本の工芸品調査でしたが、裏の目的は、当時欧州を席巻した漆器に使われるウルシキの原木の採集と持ち出しとされていました。漆(うるし)は欧米ではジャパンと今でも云われているほどの貴重品。プロシアでは、プロイセンでの漆器製造を狙い、戦車などの金属の防錆に繋げようとしていたと云われます。日本にとっての貴重品は海外への持ち出しは厳禁、調整法の困難さから主目的は断念しています。

当初の目的は挫折したものの、ライン博士は当初工芸品の研究とは別に、日本の地理と宗教関連の研究として、北海道を除く本州・四国・九州の各地に及んでいます。この2年間の旅行は、ライン博士をプロシアでも日本通の学者にしたわけです。その後、帰国後には「日本自然誌・産業誌」、「みかどの国の自然と国民」の著作を発表、その後も「渡航・研究後の日本」を発表するなど、日本研究家として留学生の面倒を見、ボン大学地理学教授として活躍しています。

明治7年(1874年)の白山登山も山岳宗教の研究の一巻でした。白山下山後、立ち寄った桑島での散策中に桑島化石壁で見なれぬ植物化石を数点採集しています。この辺りは植物学専攻の血ですね。桑島では昔から葉模様の入った石や爪痕のような引掻き傷の石があるという話に興味を覚えたようです。
帰国後、友人の古生学・植物学者のガイラー博士に化石を提供。明治10年(1877年)ガイラー博士はジュラ紀中期の物と解明、学術発表しています。化石による日本の地質が確定したのは日本最初の出来事で、日本地質学・古生物学の発祥の地の由縁です。昭和32年(1957年)桑島化石壁一帯は日本最古の珪化木産地として国天然記念物に指定されています。    桑島化石壁全景(対岸・白山恐竜パーク白峰入口から)
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国指定天然記念物「手取川流域の珪化木産地」
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この地は明治七年夏、白山に登ったドイツ人ライン博士が中生代の植物化石を採集したことを記念して、村人が”桑島化石壁”とよんでいる場所です。彼から研究をたのまれたガイラー博士がジュラ紀中期の植物であると公表したのは、明治十年です。このことはわが国で、地質時代が化石によって初めて明らかにされたことであり、日本の古生物学発祥の地といえます。
昭和になって、立木のままの珪化木が発見されて、日本最古の森林があったことがわかり昭和三十二年に国の天然記念物になりました。
電源開発株式会社が手取川総合ダムを昭和五十四年に完成させ、この地の一部は水没しました。この水没の前に会社の委託をうけて石川県教育委員会が文化庁と白峰村教育委員会の協力を得て昭和五十年から三年間調査しました。その結果は世界最古の植物種子、珍しい中生代の植物や昆虫がでてきて、一億五千万年前の手取統の森は、小川の流れる明るい林であったことがわかりました。この時採取した標本は当委員会に保管されています。     

昭和五十四年十一月 白峰村教育委員会


右:国指定天然記念物指定の決め手になった直立珪化木への登山口
年輪が確認されたことから、当時にも寒暖の季節があったと想像されます。


白峰・桑島地区では昭和55年(1980年)ライン博士を顕彰して顕彰碑を建立し、白山市合併までこの広場でライン祭が行われていました。平成26年(2014年)から合併記念として、白山市では小学高学年・中学生対象で、地理・地質・化石の調査・研究にライン賞を贈っています。興味津々で毎年観るんですが、大人顔負けの素晴らしい物ばかり^^; ⇒ 白山市 ライン賞
今年(2018年)は、ライン博士没後100年。4月にボン大学教授を招いて顕彰碑で式典が行われ、白山恐竜パーク白峰で早大・平山廉教授の記念講演が行われたそうです。

ライン博士帰国後、フォッサマグマを発見し日本初の地質図を作製して、ナウマンゾウに名を遺すH・E・ナウマンの弟子・小藤文次郎が明治10年地質調査を行い、同じく地質学ではナウマンの弟子で、ドイツ留学後、日本古生物学の草分けとなった横山又二郎が明治22年~化石・地質調査を行って、桑島を含む手取川流域・福井北谷などが中生代の地層だとして手取統(手取層群)として確定命名しています。横山又二郎の名はなじみが薄いと思いますが、現在、僕たちが古生物の話の時に普通に名前を挙げる恐竜・始祖鳥・菊石などその多くは彼が考案したもので、貝化石の部門では現在でも標準指標となっています。

ジュラ紀から白亜紀の地層確定、多くの貝や魚・亀の化石が算出し、当時の大木の珪化木や植物の化石が大量に産出したことから大きな河川と森林を有していたことが想像されました。当然学会内では恐竜発見が期待されていました。その後、日本各地に中生代地層が発見されましたが、これだけの自然環境を窺わすものや発見化石数からも桑島が恐竜の骨化石が出るなら最有力とみられていたのです。ところが。。。。地層発掘には山一つ削るくらいの大掛かりな調査と、慎重な石割り、石削りが必要で時間が掛かりすぎるものがあります。そもそも石の中にある石ですから、そのまんまの完全体であるのは希少と言わざる負えません。更に特定するにも年数を要します。発見、持ち込みから数年・数十年というのはざらなんですね。。。とはいえ明治以降、地道な調査は継続されて多くの実績があったのも事実です。地元の一般住民や僕にして見れば中生代の地層と云われても、観るだけならただの野山や岩ですから、、意識は薄かったと云わざる負えず、県や国も前回の手取川ダム建設の自然災害対策や交通・インフラ整備が優先された帰来があります。

ただでさえ、明治以降の石川県は自然史的にも史学的にも特殊なものを多く抱えながら、学術面では後進県と言わざる負えず、個人・大学のレベルに頼らざる負えなく、保護促進すべき県・国は開発や利便性を優先。そうこうするうちに経済開発や交通開発の手が伸びて貴重な存在を多く失うことになってしまいます。
石川県特に加賀に目を移せば、現在歴史的観光都市として金沢を打ち出していますが、その時代背景は加賀百万石・明治草創期つまり江戸期以降に限られています。現代にも継承されているものが多く、資料や物件も多いということが有ります。ただ、それ以前になると、見直しが掛かってきたとはいえ、特に昭和40.50年代の開発で消えたものもあり不明点が多くまだまだもったいない、もったいなかったというのが現実。大きな事例と云えば、戦国期の守護が倒され実質真宗支配の分岐点になった高尾城址。高速道路建設の土砂取で本丸のあった山が崩され、屋敷地があったとされる麓部も調査なしで掘削され破壊されています。留めには本来調査を優先主導すべきだった教育センターが跡地に立っているというのはなんともはや。。
画像右:桑島化石壁 標本石 貝殻が入っているのが解ります

手取川ダムの完成によってライン博士が植物化石を採集した地点を含め大部分が湖底に沈んでいるのです。もちろん、工事完成前に珪化木の巨木を含めた調査標本として多くの岩石採集が行われ採集岩石の調査は現在も継続されています。。その調査結果をみれば調査地点を沈めるにはもったいなかった物ばかりでした。。
とはいえ、工事期間中にも一般には新聞やTVのニュースに出るばかりで、ピンとは来ていなかったのです。学会と一般の温度差は大きかったのです。ところがこれを一変させる出来事が昭和61年(1986年)に起こります。。。。

そういうわけで専門家が期待していた桑島化石壁の恐竜の化石も昭和40年代以降話題から遠ざかっていました。その間に国内各地で地層が発見され他地区からも恐竜化石が発見されました。近年では昨昨年(H28)徳島県勝浦から最古級のティタノサウルス系(竜脚類)の歯が発見されています。これまでは太平洋側は大陸と地続きだった時も海域だったとされていましたが、これまでは海竜やワニ・亀くらいだったのですが、沿岸部の範囲が広がったことになります。この地層は四国から伊勢にかけて確認されているので、まだまだ発見は増えてくるかもしれません。ところで、専門家が期待した桑島化石壁を差し置いて日本初の恐竜化石はどこから発見されたかご存知でしょうか?
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日本初の恐竜化石発見は昭和9年(1934年)北海道大学・長尾教授が樺太で発掘したニッポノザウルス(かものはし竜)。現在も日本人発掘第一号として北海道大学に保管されています。ところが戦後は樺太はロシア領。。その後、昭和51年、北海道三笠市でエゾミカサリュウが肉食恐竜発掘されましたが、後の研究で海棲爬虫類・モササウルス(とかげ目)というワニの仲間と判明して恐竜から除外、現在の国内初は昭和53年(1978年)岩手県岩泉町のモシリュウ(状態不良で分類不明)となっています。この岩手県のモシリュウが日本初とされてきました。ところが昨年ですが、山口県下関市で個人が所蔵していた化石が恐竜の卵と確認され、個人が高校生時代に拾った記録と同日のスケッチブックから昭和40年(1965年)と記録が塗り替えられました。ちなみに鑑定したのは福井県立恐竜博物館。あなたのお家にももしかしたら昔拾った石が‥

現在、恐竜王国と呼ばれる福井県。福井の玄関とも云える福井駅前の恐竜広場には特大の恐竜モニュメント、駅舎には特大トリックアートやイラストラッピングと、大々的に打ち出しています。その恐竜王国の象徴が勝山市北谷にある福井県立恐竜博物館になります。世界三大恐竜博物館(ロイヤル・ティレル古生物学博物館(カナダ)・自貢恐竜博物館(中国)に数えられ、宇宙船を思わせるような建物デザインと世界の恐竜44体の完全骨格展示もさることながら、恐竜発掘・研究・検証では国内でも最先端を進んでいます。昨昨年には北谷の発掘現場に野外展示場、昨年には九頭竜上流の旧和泉村に発掘体験場が開設され教育や体験事業の充実も広げています。正直、30年前は同じ程度どころか先行していた石川県ですが、ここ数年で逆転され、20年で大きく溝を開けられてしまいました。まあ、数年先に開館していた白峰の恐竜館に遅れ、平成12年(2000年)この博物館が開館した時、恐竜大好きの娘は白峰はつまらないの一言で山越えで勝山の博物館に何度も連れて行かされていました、、個人的には、開館初期は国内展示は桑島の発掘品で桑島資料館の方が多いくらいで、入館客も少なく、じっくり間近で見学できるし、貸し切り状態で予約なしの発掘体験もあって白峰の方が好きだったんですが、北谷の発掘品が展示に加わると、こうなるのは眼に見えていましたが。。。
                                    国土交通省近畿整備局HPから引用
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別添の手取層群の分布図を見てもらうと、手取層群は北陸三県と岐阜県、新潟上越の西端、北長野の一部に点在しています。手取層群は大きく分けると「石徹白(いとしろ)赤岩亜層群」「九頭竜(くずりゅう)亜層群」に分けられます。九頭竜の方が石徹白より古く、海性層の地層。石徹白は陸性・淡水層になります。九頭竜川上流部と富山・新潟の県境が両層の混在型です。
主に恐竜化石がが発見されているのは石徹白赤岩層群で白山の南面、有峰湖南面が主要地になります。現在恐竜化石が発見されている主要地は⑥石川県白峰桑島、⑨福井県九頭竜川上流部・⑧北谷、⑦高山市荘川町、②富山市旧大山町の5カ所になります。(〇番号は分布図番号)

元々、福井県は県立博物館時代から恐竜発掘の情熱を持っていました。最初は⑨九頭竜上流部を中心に発掘を行っていましたが、前述の様に一時代古い地層で、アンモナイトや三葉虫など海生動物の発掘に留まっていました。とはいえ、この頃の県立博物館のアンモナイト・三葉虫更にカブトガニのコーナーは見ごたえがありました。余程館長さんは古生代が好きなんだろうなと感心したのを覚えています。(開館当初、前職の関係で福井にいました。)

しかし肝心の恐竜化石が無く、館長の大英断で、平成元年(1989年)桑島の化石壁と同じ地層の北谷に狙いを定めて大規模な5か年計画で発掘を断行、イグアノドンの歯の化石や足跡化石を含む300点近くを発掘しました。これで恐竜博物館の建設が決定しました。その後も第二次5か年計画の発掘に着手して大成功、現在も第三、四次と重ねるごとに大きな成果を上げ5種類の新型恐竜化石を発見しています。この間に九頭竜からもイグアノドンの歯を発掘して福井に恐竜がいたことの証明と二つの恐竜化石の発掘地を確定したわけです。

この⑧北谷の発掘は当初ははっきり言って、無謀な挑戦と云われても仕方ない場所でした。分布図の北谷を見れば一目瞭然、北谷の手取層は白山の手取層から飛び地の限られた場所でした。これに関しては当時の県立博物館長・東洋一(現名誉館長)の「福井にも恐竜はいた!!」という確信と執念でした。

この東洋一氏の北谷発掘はワニの全身骨格の化石発見がきっかけですが、確信と執念の源が⑥桑島化石壁での偶然の出来事にありました。
手取川のダム湖が出来て3年後、昭和57年(1982年)、勝山の高校の研修旅行で白峰を訪れた松田亜規さんという女子高生が桑島の遊歩道を散策中に、貝化石のついた母石に付いた黒い牙状の化石を拾いました。当時は白峰にも福井にも博物館は無くそのまま記念として彼女の部屋の机の引き出しの中に。。。
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3年後、福井県立博物館が開館して前述の様に古生物研究の大家・東洋一氏が館長になると、古生物展示が評判になり松田さんはこの化石を東氏の元に持ち込みます。松田さんは母石に貝があることから、古代の鮫の牙だと思っていたようですが、東氏の鑑定は肉食恐竜(カガリュウ、アロサウルス系)の牙化石と鑑定します。東氏は白峰村調査団と共に桑島化石壁で再調査を行いイグアノドンの歯の化石や足跡化石を発見します。

ちなみにアロサウルスは、当時はティラノサウルスの同形の中大型系を指していましたが、現在は不明肉食恐竜の総称になっていて、カガリュウは種類を特定されていません。記念碑の巨大恐竜像は、当時の恐竜図鑑のアロサウルスの実物大模型で約30年近くこの場所に立っています。その後の発掘で似た牙化石が数個発見されていますが、一つはティラノサウルスの牙に似ているそうです。ともかく東氏が福井県内の桑島と同じ地層帯の北谷に眼をつけたのは、桑島でのこの調査活動によるものでした。福井の恐竜王国創設の流れはこのとおり。。
画像       右:旧桑島資料館 南棟
ちなみに松田さんが見つけた恐竜の牙化石は経緯は知りませんが、白峰村に渡り保管・保存・特別展示がされていました。現在は前述の白山恐竜パーク白峰(旧白峰恐竜館)ですが、開館前はライン博士記念碑アロサウルスの左右に立つ古民家の桑島資料館で特別展示・保存されていました。今は老朽で崩れそうな建物で見る影もありませんが。。
僕が新潟から一時期戻った時ですから30年近く前に訪れていますが、アロサウルス像も当時すでに作られてて、雑然とした自分で引き出しを開けるという展示でしたが、頼むと館員が見せてくれるというスタイルで、綿入りのケースを自分の手で持ってマジマジ見させて貰えました。う~~ん、いい時代でしたねえ^^;
4㎝に満たない黒い塊で先端は少し欠けていましたが、形状はきれいに牙だと解るものでした。感想?正直チッチャ、黒曜石みたい@@;

白山恐竜パーク白峰HP・・・https://city-hakusan.com/learn/hakusan_dinosaur_park/
福井県立恐竜博物館HP・・・https://www.dinosaur.pref.fukui.jp/

両サイトを見ると本来の恐竜壁(桑島化石壁)をもつ石川県と福井県の恐竜展示の温度差が解りますが、新幹線開通を見越して金沢という観光資源に力を入れた石川県と市街が戦災や地震で二度に渡って壊滅した福井市の違いが現れています。新幹線開通の時期が読めなかった福井では市外に多くの観光資源や名所旧跡を持っており、そちらに重点を置いているということもあります。
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女子高生・松田さんが恐竜化石を発見した恐竜壁は崩落の危険があり通行止めになっています。この桑島から車道を通すために内部を貫通するライントンネル(平成11年)が作られましたが、この際に大規模な竪坑調査と採集が行われています。福井県立恐竜館でもこの様子が再現ジオラマされ、当時の桑島周辺の想像図が発掘品と共に長く展示されていました。
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桑島化石壁  桑島化石壁旧遊歩道 女子高生が化石を拾った所は落石で埋まっています。
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桑島で女子高生が発見した肉食恐竜化石ですが、前述の恐竜卵も高校生が発見しています。福井の北谷は大規模な手が入り専門家に委ねられていますが、桑島の恐竜化石の多くはなんと一般人や子供の方が多いのです。恐竜パークの発掘体験・・要は桑島化石壁の石をパークに持ち込んで、金槌で割る体験なんですが、ここから多くの化石が出ているのも事実です。恐竜館に訪れた際は是非お試しあれ、但し貴重・稀少なものは博物館員に捕られて貰えませんが、多く産出するシダ化石などは持って帰れます。
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桑島化石壁は女子高生が恐竜化石を発見してから大きな話題となり、桑島恐竜壁と云われるようになりました。それから30数年が経ち、福井の恐竜ブームに隠れて、恐竜壁の存在は風化しつつあり、若い方には知らない人が増えてきています。
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その後も桑島化石壁から採集された標本石から毎年のように多くの動植物の化石が発見・新発見が続いています。昨年は新種のサンショウウオが発見されています。また現在も調査研究が進められています。その中には草食・肉食更に羽毛恐竜と思われるものなど多種の恐竜、それ以外にも植物種子、蛇の先祖カガナイアス、草食トカゲのクワジマーラなど世界最古級の化石が発見されています。
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しかし、福井のように恐竜研究所のような専門機関を持たないつらさ、埋蔵文化財センターのみではなかなかスピードが追い付いていません。資源的には福井を凌駕する石川の手取川層、専門組織と展示施設の構築が急がれます。いつまでも、福井に恐竜王国などと云わせないというのが白山市・白峰の思い、、、でもなあ。。二つの恐竜館の年間入場者数は福井89万人、白峰1.5万人と遠い道のり、全県挙げて頑張らないと無理、まだまだ石川県の重い腰は上がりそうもないしなあ。。。
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旅行日 2018.10.13









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