木製笠塔婆 金沢市埋蔵文化財センター

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今月14日、北金沢の千田町から画期的な発見がなされたことが発表されました。
木製の笠塔婆が発見されたのは国内2例目。ところが今回の発見が画期的なのは、梵字が金箔で描かれており、その金箔が残っていたことにあります。そもそも木製品が腐らずに残るのも奇跡的ですが、漆や金箔が残されているというのは、画期的というよりもう奇跡としか言いようがありません。

ちなみに木製笠塔婆の国内初の発見は、平成19年(2007年)奥能登の野々江本江寺跡遺跡で、平安末期の物とされています。ちなみに本江寺は小さな寺院ながら明治まであった寺院でした。珠洲市の飯田高校から東に2キロ弱の金川という河川の段丘上にありました。古くは平安末期から室町にかけては真言宗寺院と江戸期には伝わっていました。(石川県文化財、笠塔婆の竿(支柱)2・笠塔婆の額・板碑) ⇒ 野々江本江寺遺跡出土品(石川県HP)
リンクを見て貰えば分かりますが、非常に簡素なもので笠塔婆と言っても、板棒に近い造りです。それでも竿丈は2mの長さがある大きなもの。

千田町で発見された笠塔婆はTVの映像を見ると、額がはっきりある様子。。これは見たい^^/しかも公開場所は、車で15分くらい。。 しかも日曜だけど午前中は仕事で、津幡に用事があるから千田町にも寄って行けるし、公開時間にもバッチリ^^V

発見された場所は全くの偶然の産物。。白山市から金沢の西側(海側)を縦貫する海側バイパス道路。片側2車線化を施しながら浅野川の手前・大河端まで延伸しています。県や金沢市の計画では更に延伸して8号線の福久に繋げるつもりのようです。この為に現在は浅野川と金腐川(かなくさりがわ)の間、その先の血ノ川の先の車両基地にかけて道路を造成の工事を行っています。

千田北遺跡付近 工事中の高架工事から左に直線上 左の農道の左手になります。
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千田町はこの金腐川(かなくさりがわ)血ノ川の間の田園地になります。この工事によって今回の仙田北遺跡が発見されたのです。そもそも、もっと南の国道8号の以南や東の旧159号付近では古い遺跡が発見されていましたが、まさかこんな所からというのが正直なところ。。
画像 金腐川 千田橋から

ちなみに、金腐川とか血ノ川とか、実際にどちらも正式な名前で、とんでもない名前の川だと思うでしょ。。浅野川もですが、金腐川、血ノ川、更には東を流れる森下川は医王山系を源にして流れる急流でした。浅野川は金沢市街を巻くように流れるために。流通の河川として金沢の物流を担う川として古くから改修の手が加えられていましたが、、郊外を流れる金腐川、血ノ川はそれ程の大改修の手を加えられていませんでした。又前々回の野間神社で触れたように太古はこの辺りは湖だったと云われ、低湿地や濡地・粘土層の低高度の土地で、そこを流れる河川だったわけです。このため、洪水ごとに手が加えられ、いくらお金があっても足りない・金が腐るほどかかるという語源から来ていると云われています。

もう一つの語源の由来は・・・戦国末期に木越には浄土真宗の一大勢力の光徳寺(現七尾市・光徳寺)があったと云われています。戦国期の真宗は寺院と言っても、城郭の機能を持っていました。 木越山・光徳寺については以前簡単な説明書きをしています。⇒ 2015.09.24 堅田城址
近年、この光徳寺跡の大規模な堀跡と磁器類が発見されています。場所的には田中の交差点から粟が崎に向かう幹線道路の高架のような田中橋を渡った右手に見える八坂神社の森の前の田園になります。そして、この光徳寺跡が金沢における一向宗VS織田軍(佐久間盛政主将)の最後の激戦地となりました。光徳寺は河北潟の水を引き入れた水城だったと云われており、幅6m・深さ0.8mに及ぶ大溝の直角部の発見によりそれが証明されています。また、光徳寺跡から八坂神社の反対側は光徳寺を撤退した一向宗が、陣を張り直した木越コウタイジン(後退陣)遺跡が発見されています。こちらでは簡易な堀跡と板塀跡、陣屋跡、多数の箸や食器が入れられた深穴が発見されています。この二つの攻防戦により後のない一向宗徒は壊滅的な損害を受け、多くの宗徒兵の血が流され加賀一向一揆は終焉を迎えています。宗徒兵たちの血は川の水を赤く染め、しばらくは色が引かなかったと云われます。これが血ノ川の由来です。また、金腐川も同じ理由で、流れた血によって鉄が錆びたように腐った色の川になったため名付けられたとも言われます。
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この光徳寺跡遺跡と幹線道路を挟んだ田園地帯が今回の発見となった千田北遺跡になります。野間神社の時にも書きましたし、前述もしましたが、太古には河北潟は現在よりも南東に湖が広がっていたと想像されます。そして河北潟の南面には浅野川・大宮川・金腐川・血の川・柳橋川・柳瀬川・森下川は扇状地を造りながら河北潟を縮めて行ったと想像されます。
このため、土壌は安定しておらず、特に木越地区は少し掘れば水が湧き出る濡れ土や粘土層になっています。この土質が今回の奇跡の発見を呼びました。

本来、木製品は腐食や変色そして土塊になりやすいため、地中に埋もれた古い木製品や木材の表面に塗られた塗料、ましてや箔などが残存することはまれなことになります。更に外で野ざらしになっていたような墓所の卒塔婆などは、石材でも溶けたり破損するのに、まず残ることはありません。

千田北遺跡で発見された笠塔婆には黒漆・金箔が鮮やかに残っていたのです。これは千田町の土壌が前述のような土壌で、天然の水中保存になっていたということです。年代測定はまだですが、形状やデザインから平安末期から鎌倉初期と思われますから、約1000年の歳月を土中に過ごしてきたことになります。

墓標の笠塔婆の流行の始まりは、阿弥陀信仰の研究に努め往生要集をまとめ、その後の阿弥陀信仰や法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗にも大きな影響を与えた源信(恵心僧都)の墓標、もしくは師の良源(慈恵、元三大師御廟)のキノコ型の笠塔婆、源信の兄弟弟子の尋禅・覚超からではないかと云われています。

良源の場合は阿弥陀信仰よりも延暦寺中興の祖としての意味合いが強く、本人も遺言によって横川から最奥の崖っぷちの地・元三大師御廟を指定して「墓所は荒れるに任せるように」と言明しています。ちなみにこの場所は京都の鬼門の延暦寺から更に鬼門の方向で、最果ての鬼門の果てと言えます。延暦寺最大の魔所とも呼ばれています。
ですから、全国に広まっていた笠塔婆の原型は、阿弥陀と浄土を考察して、世間に浄土・地獄観を根差した源信の墓標・笠塔婆だと思われます。この源信の笠塔婆は阿弥陀信仰の具象として持て囃された様で、親鸞の最初の墓標も源信の笠塔婆を参考にしたと云われます。

ただし、浄土への魂の来迎を強調した良源・源信・親鸞は自分の遺骸・肉体に未練を残さず無視していて、親鸞に至っては、野に打ち捨てるか火葬後に川に流せと遺言しています。あくまで三人の墓を創作したのは師の遺言を拒んだ弟子たちになります。

墓石としての笠塔婆はその後の著名な浄土信仰の墓石として、阿弥陀三尊梵字仏観として彫って受け継がれますが、鎌倉時代には板碑(板石塔婆)が増えてきます。板といっても角柱に上部が三角錐になったものが多く、特に関東に多い傾向が強く出ているようです。最古(嘉禄3年(1227年銘)のものとしては埼玉県熊谷市の大沼公園の弁天島から発見されたものだそうです。

石材を使用した墓石や墓標はある程度残っていて、流れなども判明しているのですが、初期の木製となるとこれまでは前述の珠洲市での発見まで一切現物が発見されていなかったのです。しかし、国宝「餓鬼草紙」などの絵図や文書では実在が語られていて、学界でも実在したことは確実と云われていましたが、何せこれまで遺物の発見が無かったのです。
画像 餓鬼草紙 京博本
盂蘭盆会に笠塔婆に祈る人々に忍び寄る餓鬼


餓鬼草紙・地獄草紙をご存知でしょうか。どちらも国宝の指定を受けているものです。
餓鬼草紙は後白河法皇が蓮華王院三十三間堂の宝蔵に納めたと伝わる絵巻物で因果応報を描いたものです。文章は失われていますが六道思想(生前の罪業によって六つの地獄で責め苦を受けるというもの)を描いた絵が岡山県の河本家に伝わり東京国立博物館にあるもの(東博本)と、三つの餓鬼を救う話が絵と共に語られる絵物語絵巻で岡山の曹源寺の旧蔵に納められていたものが京都国立博物館(京博本)に所蔵されています。東博本と同じく元は蓮華王院三十三間堂の宝蔵にあったものと言われ、同じ場所にあった地獄草紙・辟邪絵と共に六道絵と呼ばれていたと伝わります。
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 餓鬼草紙 東博本 第四段 疾行餓鬼
僧侶が遊興に耽ったり、病者に与えるべき飲食を自分が喰ってしまった者がなる。墓地を荒らし屍を食べる。疫病などで大量の死者が出た時に一瞬で駆けつけると云われます。



他も観たい方はこちらを・・・
東博本・餓鬼草紙 ⇒ 国立博物館所蔵 国宝・重要文化財 e国宝
京博本・餓鬼草紙 ⇒ 国立博物館所蔵 国宝・重要文化財 e国宝

地獄草紙は東京(4図)と奈良(7図)の国立博物館に所蔵されている地獄絵図(国宝)。辟邪絵(へきじゃえ)は奈良国立博物館所蔵(国宝、5幅)で疫鬼を懲らしめ祓う善神を描いたもの。辟邪絵は一つの絵巻でしたが、戦後に掛け軸として5幅とされたものです。

京博本では盂蘭盆会で左側に立つ笠付の柱、笠の下には阿弥陀如来が描かれています。東博本の右上の小山の上に立つ笠付の柱、左右の頭が三角も笠の省略形だと予想されていました。その左の山の上の三本の柱は右の山の左右と同型です。画像が小さくて解り難いですが六本には梵字が書かれています。これまではこれらが笠塔婆の姿だと推測されていたわけです。

文献で有名なものでは吾妻鏡において、奥州藤原家初代・藤原清衡は、中尊寺を再興し、金色堂建立後の大治元年(1126)大法要を営み、供養願文で「前九年、後三年合戦の犠牲者を、敵味方区別なく弔い、数多の御霊を浄土に導き、奥羽両国に平和な仏国土を築きたい」としています。
その後、それを示すかのように南は白川の関(白河市)から外ヶ浜(青森市)までの奥大道に一町(約106m)ごとに笠塔婆を建てたと云われています。この笠塔婆には金箔押で金色堂の阿弥陀如来を図絵にしていたと伝わります。
画像 千田北遺跡発掘物 
上から蕨手(わらびて)・風鐸(ふうたく)・風招(ふうしょう)
笠の底辺の先端に吊り下げられていた飾り

水中保存のため、天上の蛍光灯が写り込んでしまいます。


千田北発掘現場は堀又は溝になっている箇所で、笠塔婆は破壊された後に土台の石ごと廃棄されたのではないかと思われます。石の下敷きになっていて今回発見された部材は27点、笠塔婆の支柱となる竿は発見されていませんが、本体上部の宝珠・笠・蕨手・風鐸・風招・額(額面・額縁)が出土しており、周囲を囲んだと思われる柵の釘貫の部材も出土しています。
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額縁付額面 
三組の額の内、左右に置かれたと思われるもの、額縁や額面の端の赤っぽい部分は白色系の顔料の付着と思われ、当時は白く塗られていたようです。画像では小さく見えますが額全体で横60㎝程、縦1mと想像より大きいものです。


は堀跡から3点が出土、いずれも左右どちらかが半分ほど欠損していますが、上端と左右端部がは額縁が斜めになるように加工されていました。鉄釘によって額面と額縁が接合されていました。額と額縁の下部は同型の規則的な花咲型(左右に足のような広がり)で繰形(板の刳り貫き)で猪目(ハートの形)が施されて3点とも共通の形になっています。額縁底辺は中央の薬師如来の額縁の先端に猪目が施されていますが大きさ・形状は統一されています。

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 額面の円相 
彫刻の円中に更に梵字が彫られ、円全体に黒塗料(黒漆)で塗り梵字には金箔が押されています。画像は勢至菩薩(サク)だと思われます。


額面には円相を彫って、内部に阿弥陀三尊(阿弥陀如来・勢至菩薩・観音菩薩)梵字が薬研彫りされています。円相には黒色顔料(たぶん黒漆、分析中)が塗られ文字部に金箔が押されていました。額縁上部に模様の痕跡があり描画の可能性があります。又上部には白色顔料の痕跡があり、額面の円相以外は白系で塗られていた可能性があります。
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額面と額縁の接合部の鉄釘



額縁 3本の鉄釘で額面と接合していたのが解ります
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意匠も驚かされますが、僕が更に驚いたのは当時貴重品だった鉄釘が結構ふんだんに使われていること。表面から見えないように裏面にステップルのU字型釘のように加工も施していること。


それにしても、発掘物をこれだけ至近で観る機会はなかなか無い貴重な機会。。至福のひと時でした。頭の中で笠塔婆の姿を想像していました。文化財センター員の方は相当の有力者やこの辺りを取り仕切った旧豪族の墓所だと考えているようですが、これだけ大型になるということは個人の墓所とは思えず、共同墓地群の象徴として建てたのだろうと思われます。
竿軸がないので高さは解りませんが、餓鬼草紙の画などから想像すれば、3~4mの高さはあったと思われます。
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現在でも見られる共同墓地の慈母観音像・地蔵菩薩像や祠堂に相当するものではないかとも想像されます。
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支柱となる竿軸以外の部材が大部分が揃っていることから、埋蔵文化財センターでは笠塔婆推定復元図風景イメージ図を発表しています。

今回はたまたま早く着いたら、事前公開説明を少人数で観ることが出来ました。大きな部材だけでしたが、それでもゆっくり見学できて、ラッキーでした。後でもう一度正式公開に来ようと思いましたが来られず。後でニュースを観たら凄い人混みで。。。関心の高さが。。。
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センターの人によれば、今回の発掘は道路予定地のみの発掘で、南面には大規模寺院の可能性が高いようです。

堀の南が内側になると思われ、近くから一体の曲物棺(円筒形の蓋つき棺)に座った形で納められた人骨の墓が発見されています。傍から出た磁器などから13世紀後半から14世紀初頭とみられています。ちなみに鎌倉期の人骨発見は、鎌倉市(鎌倉材木座遺跡、鎌倉陥落時の910名の戦死兵士の集積墓)に次ぐ国内2例目だそうです。また、僧形の神像も出ており、大寺院の可能性は非常に高いと思われます。大規模発掘は後世に譲ることになると思いますが、今後が期待されます。

旅行日 2019.02.17





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