葭島(よしじま)神社

小松城は加賀藩三代藩主・前田利常が自身の隠居城として、金沢城の倍の規模と趣向を凝らした建物や庭園(お花の庭園まで造っていたそうです。)を造作していたと云われます。利常の死後、小松・能美の隠居領(約20万石)は加賀藩に帰属しましたが江戸期を通じて小松城代(主には前田対馬守・土佐守家が多く努めています。)・城番が置かれ、維持されていました。一藩(一国)一城令の中、幕府の許可を得た慮外の城として存続していました。

残念ながら明治の廃城令によって、一部の払い下げと共に、刑務所が置かれ懲役業務が城郭の破却作業となって徹底的に破壊されてしまいました。更に堀を構成していた梯川(かけはしがわ)の度重なる氾濫の対処に明治以降、平成の現在まで、川の流れを変えたりの度重なる改修工事で、小松城の面影を残すのは天守台の石垣と僅かな堀壁の一部くらいになっています。
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小松城の古地図を観ると梯川が直角に曲がる角地を利用した水に浮かぶ城だということが解ります。前田利常の改修によって、新設された南面の竹島の裏鬼門には菟橋(うはし、得橋)神社を城外内に移転させています。その他にも城内の一角には幾つかの守護神的存在として、寺社が存在していたようです。琵琶島の北堀対岸の外郭にあった愛宕養福院(鎮座地は現在は梯川に水没)で鬼門の守護神としていました。その後にその延長線上の対岸に創建したのが、小松天満宮になります。
画像 葭島神社 表参道 一の鳥居

同じ鬼門方向のもう一社が古地図上では小松城郭の最外郭の梯川岸辺にある稲荷社になります。この稲荷社は利常以前の丹羽・村上時代の本丸の鬼門に当たる位置になります。この稲荷社が葭島(よしじま)神社の前身になります。

葭島神社(石川県神社庁から)

御祭神 倉稲魂神・大田神・大宮女神・火結神・宇加神・八坂之神・前田利常
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由緒   元、小松城中葭島に鎮座(前田利常公小松城に入る以前より)前田利常公寛永19年9月3日多田権内奉行に命じて現社地に屋舗社堂護摩堂建立せられ之を拝領し、又宝物什器を拝領する。正保元年8月18日小松城の守護神稲荷大明神を遷座する。爾来藩主別段大社格に取扱われ、城内士族を氏子として毎年正月に国家安泰、五穀豊穣、商工業繁昌御祈祷を行う。前田利常公と縁極めて深き当社には古くより公の御霊を斎き祀る。明治14年5月2日郷社になる。明治39年12月29日神饌幣帛料供進神社に指定になる。昭和42年5月21日幣殿社務所を改築する。御本殿は昭和44年2月18日石川県指定文化財になる。

画像   葭島神社 二の鳥居・稲荷門

主祭神は倉稲魂神(うかのみたま)。スサノオの娘で稲荷大神に準えられる神様です。大田神猿田彦神の別名。大宮女神は天皇家守護八神の一柱で女官・巫女の神様。
倉稲魂神・大田神・大宮女神で稲荷三神。伏見稲荷大社の下・中・上社のそれぞれの主祭神になります。
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画像 葭島神社 摂社
明治20年(1887年)に合祀された愛宕養福院を祀る愛宕社と思いますが、僕としたことが確認するのを忘れてしまいました。明治41年に後述する前田利常を祀る能美神社を合祀していますから、もしかして。。。再訪時に確認し直します。。


火結神(ホムスビ・カグツチ)は、イザナギ・イザナミの二人の間から生まれた最後の神様で火の神様。この神の出産が元でイザナミが亡くなり、逆上した父のイザナギに斬り殺された可哀想な神様ですが、その血や身体から神話の重要な神々が生まれています。鎮火の神として愛宕神社や秋葉神社の主祭神。前述の愛宕養福院の主祭神だったと思われます。
画像         葭島神社 手水舎

宇加神(ウカ)宇賀神とも云われ、山・畑の神とされ蛇の化身とも云われています。明治の神仏習合で合祀されたと思われます。
八坂之神は諏訪大社のタケミナカタの妃神か京都八坂神社のスサノオかは不明。これまた明治の神仏習合で合祀されたと思われます。
画像           葭島神社 表参道

前田利常は前述のとおり、小松城を再建し小松の町を発展させた人物として江戸期から城内に能美神社として祀られていました。ちなみに神社の名の葭島は、利常が居住の屋敷を置いたと云われる小松城の郭の島名から由来しています。またメインの稲荷社も葭島に鎮座していたと云われます。このため、利常が屋敷を置いた所を西葭島、神社のある所を東葭島と呼ぶ人もいます。
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画像 上:葭島神社拝殿 中:右が拝殿 左が幣殿社務所 右:幣殿社務所
幣拝殿の築年は不明ですが、江戸期の山上一門の手によるとも云われています。幣殿社務所は昭和42年(1967年)に改築が施されています。また、本殿・幣拝殿共に小松特有の茶色瓦が施されていますが、これは近年の葺き替えだと思われます。


画像 葭島神社境内
葭島神社の境内には大きな松の木が9本ありますが、能楽にも興味の強かった前田利常が非常に松を好み、小松城内に多くの松を植樹していた古例に倣ったと思われます。小松城三の丸跡の芦城公園の北側は松の名木が多く観られます。

   葭島神社 拝殿向背
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古地図の稲荷社の地には、江戸期初期に金沢に移住していた能登石動山天平寺の僧・高倉坊行蔵院空清(くうせい)を、寛永16年(1639年)、招いて五穀寺という山伏寺を創建させ、寛永19年には多田権内を奉行として護摩堂を建立したのを皮切りに社堂を整備していきました。ところが、五穀寺が洪水で大破してしまい、正保元年(1644年)、現在地に社地を与え葭島の稲荷社を遷座・合祀して小松稲荷社五穀寺という神仏習合の寺院を改めて創建しています。空清は現在の葭島神社の宮司・浮見家の祖先になるそうです。
画像            葭島神社 扁額

ちなみに天平寺(現・伊須流岐比古神社)は、加賀の白山と対を生すと云われる石動山、白山比咩神に対する石動(いするぎ)彦神(五社権現)を信奉し、石動法師と呼ばれる修験者を多く抱えた大寺院でした。本能寺の変後に越後上杉氏から戻った畠山旧臣の温井景隆・三宅長盛に協力蜂起したために、佐久間盛政の協力を得た前田利家によって焼亡しましたが、朝廷・豊臣秀吉の命で前田利家によって再建(ただし、本尊は今石動に遷座)、朝廷からの七か国知識米徴収の権を得て、江戸期には72坊の伽藍・僧舎にまで復活を果たしていました。しかし明治の神仏分離令で破却され、僧籍・修験者は解散・還俗を強制されています。中部地方に点在する石動神社の本山になります。
画像         葭島神社 幣拝殿内

江戸期を通じて加賀前田家・小松城代の手厚い保護を受けて存続していましたが、明治になって神仏分離令によって、愛宕養福院・五穀寺が廃され、明治14年(1881年)、葭島神社と改めています。理由は定かではありませんが、この時に廃された愛宕養福院・五穀寺他の伝来仏像群が集められ葭島神社の管理に任されています。この為に、神仏分離後の神社に仏像が保管されるという不可思議な事実が現出しています。この内の江戸期の仏像と思われる五穀寺伝来の仏像12体が小松市文化財に指定されています。
         小松市の文化財 ⇒ 葭島神社の仏像
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葭島神社 拝殿向背 獅子(象)眼

仏像の中には民間的な菩薩立像・地蔵菩薩立像、個人(加賀藩?)寄贈と思われる大日如来坐像・薬師如来坐像、不動明王立像・愛染明王立像・歓喜天立像・役行者倚像(いぞう、台座に腰かけた姿)といった密教系、遠州秋葉神社系の秋葉尊立像・京都壬生寺系の地蔵菩薩半跏塼仏(はんかせんぶつ、半跏は台座に座って片足を下ろし、片足を腿に組んだ姿。塼仏はレリーフのように板上に仏を浮き上がらせて焼いたもの。)・神人像といった特殊の物と多士済々。塼仏や神人像などは奈良平安から鎌倉期に流行したもので江戸期としては珍しいかも。その他にも江戸期の仏具や未解読の資料も多く、公開解明が期待されます。
平成6年(1994年)鎮座350年祭で一般公開されていますが、またの御開帳を期待しています。
画像         葭島神社向背 龍柱

幣拝殿は小振りながら、彫刻や造りは緻密で、築年は不明ですが、拝殿内の格天井は小松城書院に使用されていたと云われる花々が描かれた豪華なものです。明治以降に移築されたと思われます。
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画像         葭島神社 本殿覆堂
本殿は大きな覆堂に包まれていますが、江戸後期の作製で緻密な彫刻が施されており、石川県文化財の指定を受けています。
本殿は江戸時代後半の建造と推定される。 屋根が曲線的に前面伸びて向拝となる流造という建築様式で、正面の柱間が3間の三間社流造の本殿である。覆屋に覆われているため 、建てられた当時の姿をよく残している。 また欄間や各所の彫刻も精 巧であり、建築とよく調和したものである。(小松市HPより)

小松城内の名残を残す寺社という貴重な存在。。祭事や公開時にまた機会があれば。。。幣拝殿内部や本殿表を再訪したいと思っています。            葭島神社 新しい狛犬
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神社と言えば狛犬。。一の鳥居を潜ったら出迎えてくれる狛犬。台座の文字部は赤石を用いた古いものですが、上にある狛犬は平成特有の狛犬。
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台座には「御大典」の掠れた文字が@@ 御大典というのは天皇の即位礼、ということは、明治元年(1867年)はチョット考えられないですが、十年とか二十年、三十年、四十年記念というのも考えられます。後は大正元年(1912年)以降、もしくは昭和元年(1926年)以降ということになります。
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                     葭島神社 庫裏
庫裏は土台は古そうな土蔵造りですが、屋根の葺き替え、石材をコンクリートに差し替えたりと補修を加えられています。しかし、鬼瓦の横に鴟尾(しび)を施しているのは久しぶりに見ました。

画像 葭島神社 古い狛犬

そして、それを示すかのような古い狛犬発見@@拝殿横の庫裏の前に置かれた摩耗した狛犬@@形態や素材を観ると台座の素材が同じ、文字部と狛犬が同じ石材を使用しています。
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この摩耗や溶け方は石灰分を多く含んでいるようです。顎下から胸にかけて溶けていますが、この狛犬の横腹の紋と尻尾の形は明治3.40年代の作風に見えます。後述する同石材に見える狐像の年代が明治36年、灯篭が明治41年ですから、明治生まれの狛犬のようです。
画像狛犬横の奉納灯篭
鎮火50年記念 奉納年・明治42年3月と記されています。
表の下泥町はこの神社の鎮座地の大川町の北側にあった町名です。葭島神社の前身・護国寺があった地と云えます。梯川の岸辺町ということで、度重なる洪水被害を受けその度に家屋が泥をかぶるために、この町名がついていたそうです。ちなみに東隣は上泥町と呼ばれていました。昭和43年(1968年)の洪水後の河岸整備で川幅が10mずつ北と南に広げられるために、全家・全住民立ち退きで現在は町自体がありません。
画像    葭島神社 白狐像
明治36年(1906年)建立


葭島神社は主祭神を倉稲魂神として、大田神・大宮女神稲荷三神を祀るれっきとした稲荷神社になりますから、拝殿前には赤鳥居と神の使いとされる「白狐」が鎮座しています。

白狐の由来は幾つかの説がありますが、、、稲荷神の別名に稲荷御饌津(みけつ)神というのがあります。この御饌津は食物に関連する神様につけられるのですが、これに当て字として三狐(みつけ・みけつ・さぐじ)神を当てたために、稲荷神の使い・守護神として狐が登場するという説。
狐は、稲や農作物を荒らす野鼠の天敵となることから、いつしか狐=稲を守る者として、稲の神様・稲荷神の守り神としたという説。これに付随したものでは、元は日本狼(狩猟民の畏敬の対象)だったものが、農耕や住民の進出で日本狼が山に去ったために、替りに野鼠を襲う狐が成り代わったという説。
画像ついでに白狐と呼ばれるように、神社では白い狐で表されていますが、、実は白狐は人の眼に見えない存在で透明の狐が正解になります。それでは、信仰にも困るので白い色で表現されるのが実情ということです。

更に稲荷神社の代名詞とも云える赤鳥居、でも実際には稲荷神社だけのものではありません。有名なモノでも近江の日吉大社、宮島の厳島神社、赤城山の大鳥居他、多くの神社などで観られます。本来は鳥の止まり木の黒や生木の白が元々の色で、赤色は仏教から持ち込まれ神仏習合を顕すというひともいますが。。。
古来から赤(朱)の原料は水銀(丹)になります。水銀は不変の象徴であり、魔除けや万病除けともされていました。また、丹から産み出される朱色は魔力・災厄を防ぎ、神の力を増幅するとされています。これといった有力説はありませんが、朱丹が源と思います。
画像 葭島神社拝殿 奉納能楽額
前田利常は小松城を隠居城とすると、城・庭園の整備・周辺の寺社の増改築と自身の芸術感覚を実現するために、美術工芸を中心として金沢・京都・江戸から名人・名工を呼び寄せます。この時の技術が小松の伝統産業として現在に伝わっています。この中には茶器・瓦(小松瓦)・畳表・絹織物などに残っています。文化面でも茶道の裏千家・ 仙叟宗室(宗室初代)を招聘、祇園祭の山車の導入、能楽の催しなど、後の小松・金沢文化の発展の基礎となっています。拝殿扁額の横に架かる奉納能楽の額などは、利常が種をまいた文化が息づいてきた証明ともいえます。

画像 葭島神社境内 句会記念碑
明治32年(1899年)建立、多くの俳句が作者名と共に書かれているようでしたが、表面の解読が近年なされて、葭島神社界隈の句人100人ほどによる句会の記念碑ということが解りました。全国でも珍しい事例で、町の一角に100人もの句人がいた文化ゾーンが存在したことが判明したということです。

小松で俳句が隆盛を極め出したのは、元禄2年(1689年)松尾芭蕉奥の細道の途上に立ち寄って句会を開いたことからと云われています。ただ、芭蕉は事前には小松は一泊の予定でしたが、地元の俳人に引き留められて2度の句会を開催しています。金沢でもそうですが、小松でも引き留めるほどですから、芭蕉到来以前から俳諧が盛んだったことが窺われます。その立役者は小松天満宮の別当・能順だとも云われています。確かに小松天満宮葭島神社は梯川を挟んで対岸同志ですから、距離で100m程、回り道(小松大橋)で行ってもすぐの場所で、十分考えられます。

小松から山中温泉に移動した後、曽良が病を得たことから別れ、芭蕉は金沢から随行した立花北枝と共にUターンしています。那谷寺を経由して小松に戻った芭蕉は生駒万子(まんし)と会い、翌日に小松天満宮で宮司別当の能順と会っています。
万子はこの時に入門し、その後は芭蕉三友と呼ばれるほど、親密な関係になっていますが
、この時の主目的は能順との会合だったようです。万子は加賀藩では奥小姓出身の千石取、馬廻組、先筒頭、普請奉行を努めるほどの殿様側近のエリート。北枝・秋の坊と親しく芭蕉門下の俳人のスポンサー的存在でもありました。この時も加賀藩所縁の小松天満宮(小松梅林院)の能順との会合の橋渡しをしたと思われます。芭蕉が山中温泉から小松に戻るほど、能順との会合は芭蕉が切望していたと思われます。

上大路(梅林院)能順は、当時は当代一流の連歌師として知られていた人物で、京都北野天満宮宮仕と、加賀藩の要請で小松天満宮の別当を50年に渡って兼務していました。芭蕉と会う3年前には北野天満宮の学問所(北野学堂)の初代宗匠に選出されていました。つまり、一介の俳人である芭蕉にとっては、歌の大家と共に憧れの人物ともいえる存在だったと云えます。

ところが、能順との会合は全くの不調に終わり、喧嘩別れで終わっています。そもそもの発端は、能順の歌に対する芭蕉(45歳)能順(61歳)の見解の違いにありました。この違いは、現在も議論の残る所で専門家でも見解は分かれています。正直、僕はどっちでも。。いいんじゃない。。

    秋風は 薄吹ちる(すすきふきちる) ゆふべかな

この歌を観た芭蕉は、「秋風」を「秋風」と変えて詠じて、句の内容を褒めたそうです。ところがそれを聞いた能順は、「言葉にくらき人にておはせり」と席を蹴って退出。書院に籠ってしまいます。呆気に取られてしまった芭蕉は、若い僧に理由を尋ねてみると、「秋風は」でなければ、言葉の続きも溜まりも良くない」と別当が呟いていたとのこ。。しかし、その場では芭蕉も納得いかず、宿に戻っています。

一夜を過ごした後、芭蕉は天満宮の能順に手紙を届けて旅立っています。
  「さてあやまりつ『秋風は』とあらざれば下の七言ととのはざる物を」
要は詫び状を届けたということ、どうせなら、直に謝るか、自分で届けていればいいのにと思うのは僕だけ。。とはいえ、能順と芭蕉の関係は、その後は修復されていたようです。5年後、芭蕉の死を聞いた能順は、「風雅に遊ぶものは五十前後を限りと言ふべし」と、言っています。また、その後も、同行した北枝、町役として芭蕉を世話した越前屋歓生などの親交を続け、芭蕉門下の指導も行っていたと云われます。

ちなみに能順は、芭蕉との会合から14年後、75歳で北野天満宮を辞職。小松天満宮専任で過ごし、3年後の78歳で逝去しています。墓所は小松駅前の誓円寺。
僕が知っている連歌では、今江城址近くの連歌山の歌碑(上句だけ)碑にあるもの。。下の( )は下句になりますが。。。連歌山から眺めた白山を詠んだものです。

今一重(いまひとえ) 雪もかすみの 高根哉(たかねかな)
             (遠近(おちこち)の 雪や むら山 むら霞(かすみ))


没後、越前屋歓生によって能順の連歌発句集「梅の雫(しずく)」を出版。それが霊元上皇の手に入り「聯玉(れんぎょく)集」の名を受けています。ちなみに霊元天皇(上皇・法皇)は法皇を名乗った史上最後の人物で能書家で知られています。世界最大の木造門と云われる知恩院の三門の扁額「「華頂山」は霊元天皇の宸筆と伝わっています。

葭島神社周辺の100人に及ぶ句会グループの存在は、能順と芭蕉を源流にしていると思わせてくれます。

旅行日 2019.03.08

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