今年観た桜 山島の郷

ここに来て、最大の繁忙期を迎えながら、昨年よりは余裕があると、サボり気味に仕事をしていたら、またまた残務が。。営業人間には厳しい10連休が間近に迫って、泡喰っても後の祭りTT

前回の続きの芋掘り藤五郎②を書いていたんですが、調べ物をしてたら実は。。が出てきて、構想が崩れてグダグダに。。。で、半分諦め状態で。。。四苦八苦、、、まだまだ掛かりそう。。

今年も結局は車からの横眼で観る桜に終わってしまいました。連休は八重桜でも見に行こうかなとも思っていたんですが、嫁さんに実家の草刈りを命ぜられ汗流すことになりそうです。。
で、満開のソメイヨシノがあっちこっちで咲いていたのに、桜無し状態のブログは寂しいので。。。

昨年は曇天に最後は土砂降りの桜風景を載せました。。松南小学校 旧剣崎校舎跡(2018.04.06)

さて今春の桜は、山島こども園の隣の広場にある桜並木です。昨年と違って晴れていますが、夕方近くで明るさが今一つですが、、、、
今年も結局、桜の下を歩けたのは一度だけになってしまいました。それも、昨年の松南(しょうなん)小学校に関連した場所。。まさか2年続きでお花見の場所が松南小学校・こども園絡みになるとは思いもしませんでした。。こうなったら来年は松南小学校の本校にしようかな^^;でも桜の木なんて在ったかなあ。。。。
画像
この広場は旧山島村を記念した「山島の郷」、旧山島小学校の校庭広場から構成されています。平素は今年から山島こども園と改称した山島保育園の子供たちの遊び場にもなっています。
画像



※保育園ついでに、、、

意外に知られていないのは保育所は厚生労働省、幼稚園は文部科学省管轄。建前は保育所は保育施設で、幼稚園は小学校就学前の準備教育施設というわけです。ただこの棲み分けは解り難いものがあって、幼児を抱える親御さんにとっては一種の苦労の種になります。家庭状況や条件によって保育所に入れない家庭も出てきます。核家族化で子供を預けたいけど要件を満たせない、4歳にならないと幼稚園に入れない。児童の送迎は。。片親の失業時や病気時は???また幼稚園は時間的に早く、延長がなくて子供の帰宅後に預け先がないなど、現代事情に合わなくなってきたのです。そこで一時預かり、病後児預、訪問保育の諸サービス、、、更に、内閣府が介入して知事が認定する、幼稚園と保育所の双方の機能を持ったこども園(幼保連携型こども園)、また学童クラブ、放課後クラブ、児童センターが拡充されて来ています。
画像
画像 山島こども園 園舎 旧山島小学校グラウンド
こども園の園庭は南北の園舎の内側になります。


ところが、こども園にするためには、保育士・教員資格の双方を採る必要(簡易取得で緩和措置にはなっている)がありますし、事務の専門化で部門や事務長を専任しなければなりません。また、0~6歳を預かりますから保育室・教室はもちろん保育士の拡充も必要になり、園舎の老朽化もあって、増築・建替えが必須にもなってきます。こども園としての負担が大きく東京などでこども園返上で保育所や幼稚園に戻る動きも観られます。ただ、全体的にはこども園への変換は大きく進んでいます。
画像
保育所の呼び名についても、石川県を例に挙げると、公立(市町村運営)が保育所、私立(社会福祉法人・福祉会運営)が保育園になります。石川県は保育変換の先進県で、保育所の民営化、こども園化は加速しています。小松市・白山市は特に顕著で、特に小松市などは公立保育所の社会福祉法人への転換が100%間近です。

この動きはこの山島地区でも例外ではありません。
画像
昭和51年(1976年)に設立した山島保育所は、平成元年(1989年)に半官半民の保育所となり、平成7年に増改築で現在の姿になり、平成17年に完全民営化(但し建物は白山市管理)で山島保育園になっていました。そして今年4月から山島こども園となっています。山島地区は農業関連や自営の家庭が多いのですが、近年では新興住宅地の山島台や金沢工大のリサーチキャンパスを中核にした産業支援団地(石川ソフトリサーチパーク)がある八束穂(やつかほ)などが充実してきた来たこと、兼業農家や松任・金沢への勤める人が増えてきて、需要や保育園の運営見直しも求められたようです。
画像
山島地区は古くからは安吉とも呼ばれましたが、山一つない加賀扇状地(加賀平野)のど真ん中の平原地帯になり、手取川の白山堰堤(鶴来町)から取水されている七ヶ用水の内、山島・大慶寺・中島用水と3本の用水路に潤された田園地帯になります。江戸期から大規模な穀倉地帯にこの広場のある安吉村、吉田漆島・矢頃島・向島・藤木・寄新保・上島田・内方新保・長島村・御影堂といった農村が、田園の中に飛び地のように点在してきました。明治22年にこれらの村落が合併して山島村が誕生しています。
画像 旧山島小学校 校歌碑
奥向こうに見える白とベージュの建物は八束穂リサーチパークの西端にある国土開発センターの技術開発研究所


明治6年(1873年)内方新保村(山島西部)に山島初の村営.小学校が開校、翌年に吉田漆島村にも小学校が開校します。その後、吉田漆島の小学校は東端の矢頃島に移りましたが、両校は山島の東西を校区にして明治を過ごしてきました。
明治37年に両校を統合する形で、山島村役場のあった安吉の地、つまりこの広場とこども園のある場所に、山島村全体の山島尋常高等小学校を創立したわけです。昭和22年(1947年)山島小学校と改称しています。
画像




昭和32年(1957年)に松任町に編入する形で松任町となり山島村が消滅、昭和45年には松任市、平成17年(2005年)に白山市となっています。前述の村落名は字名として引き継がれ町名として現存しています。但し、吉田漆島は吉田町と漆島町、上島田は上島田町と島田町に分かれ、御影堂は五影堂町と改称しています。
画像
山島小学校があった安吉町は山島村役場は安吉町公民館や山島農村健康センターとなっていますが、校庭跡地のの山島の郷碑、こども園向かいのJA松任ビーンズセンターを観れば、白山市の穀倉地帯を担う重要地だということが解ります。

松任町合併後も山島小学校は存続していましたが、昭和45年(1970年)の松任市制の校区変更で隣地区の同じ農業地帯の林中小学校との統合で仮名・東西小学校が決定、廃校が決定しました。しかし、本校となる剣崎校舎の完成までは山島教場として2年間は山島地区の子供たちが学んでいました。昭和47年、剣崎校舎の完成と共に松南(しょうなん)小学校として、この地での小学校としての68年の歴史を閉じています。

山島小学校の名残りを残す物が幾つか。。外周の桜並木、県内の古い小学校に多い忠魂塔がありますが、、、興味深いものでは、こども園の玄関脇には山島小学校時代の二宮金次郎像。薪を担いで本を読む姿、近頃ではすっかり見られなくなってきました。
画像
校庭跡の北端の桜の木と共にあるのは、岩の上に腰かけて見上げている少年像。
少年が見つめる先には桜に隠れていますが霊峰・白山が。。この日は頭に雲が掛かっていましたが、美しい白山の姿が見られました。
画像

画像
画像
この少年像の作者は得能節朗氏。昨年、春の叙勲を受けた美術工芸大学名誉教授、89歳。金沢市内の名所に彫像があります。昨年ご紹介した躑躅の名所・大乗寺丘陵公園の彫刻の丘にある)「希望・友愛」の女性二人像(大乗寺丘陵公園をクリックすると画像があります。)。金沢駅前のANAホテル金沢の隣のヴィサージュ前の「薫風」。金沢城大手堀横の白鳥路の「白鳥像」、「風」「雨上がり」の乙女像、「泉鏡花像」。金沢市役所前の「きぼう」の男女像。浅野川の梅の橋の並木町傍の「滝の白糸の像」他など多々。。
画像
画像
画像
金沢近郊は街中に多くの彫刻作品が見られます。名所観光ついでに彫刻や彫像作品を見て歩くのも面白いですよ^^北陸では金沢・高岡は銅像・彫像の名作が満載です。高岡銅器として高岡の銅像作り(日本の銅像の9割)は現在も有名ですが、加賀藩時代、高岡と金沢は銅製品の二大生産地。。今もその名残りが両市の街中に観られます。
画像
山島こども園に訪れた際に車を停めるのがJA松任の駐車場になるのですが、こども園とは反対側にも出入り口があります。こちらにも数は多くありませんが、桜並木が見られます。
画像

元々は昭和天皇即位記念として植樹された交差点側の老木の桜が始まりになります。
画像
画像
画像
面白いのは後に出入り口を挟んだ反対側の桜が植樹されたのですが、隣の木と交配したのか同じ木の中に花の色が白とピンクの二種が見られます。



画像
裏口の所にあるのが旧山島村役場があった場所で、前述の様に、鉄筋の安吉町公民館と山島農村健康センターが建っています。公民館の前にある石柱と記念碑は安吉城址碑になります。安吉は平地ですから城跡の痕跡は何も見られません。。城址碑文は摩耗したり汚れで読めない部分が多いのですが。。。

長享元年、大窪源左衛門家長塁を築き、東西五十八間、南北四十四間、高さ四間、周囲に径三間乃至(ないし)六間の壕を■らし大慶寺川を利し常に緑水を湛えたり、其の総域五十有余坪にして、城郭は威容堂々たり。
大窪源左衛門は封土四万石の領し、河原組を率い、一向一揆の将として活躍したるも、天文十九年、城を家宰・窪田大炊允経忠に譲り、仏門に入る。
浄土寺を建立し尓来(じらい)法灯絶えず。今第十九世に及ぶ。
窪田大炊允相継に本願寺派に属し加賀国総代となり、加州軍を率い功績を残し大いに其の名を挙げしが、天正八年柴田勝家の軍に敗れ自刃し、二百年の歴史ある安吉城も一揆と運命を共にし、空しく烏有(うゆう)に帰したり。其後、荒廃し侭(ことごとく)星霜を経たるも、明治二年村人の銀労夫役に依て、城址を拓き田地となし、明治三十六年、小学校を本丸跡に新築す。往古を偲ぶべき外郭■一部は墓地とし、多屋橋と共に僅かに面影を止むるのみ、茲に(ここに)事績の埋滅を惧れ(おそれ)敢て其概を叙す。  宮田楽山撰并書 
   昭和三十五年十月建立 安吉城址保存会 

画像 安吉城址碑
未見ですが、金沢市玉川図書館に年代不明(江戸期末期?)の「石川郡安吉古城跡図」が収蔵されているそうです。上記の碑文はこの図面から、想記、書記したものだと思われます。
「石川郡安吉古城跡図」のト書きには・・・
「安吉大窪源左衛門家長築ク、天文十九年ヨリ窪田大炊経忠継居ス、天正八年此城勝家ノ為ニ陥、経忠闘死、其首安土ニ於テ梟セラル」
画像
加能郷土辞彙・・・安吉城(やすよしじょう)・・・石川郡安吉に在った。賀永誌に、この村の領に城跡があり、往昔大窪源左衛門が居住したが、天文20年遁世して、姉婿窪田大炊という家老に譲ったと記する。大窪源左衛門の諱は家長である。

大窪家長・・・越登賀三州志に、大窪源左衛門家長はその先山城国嵯峨から出た。長享の比家長石川郡安吉村に住して安吉氏を称し、手取川辺四万石を分領して、河原組一揆の隊将であった。故に今も相河村・石立村辺を四萬石浦と遺号する。天文二十年家長剃髪して、浄土寺了海と称した。家長の長子・了明も出家し、二子は大窪忠左衛門安治であり、家長の妻は富樫政親の家老・山川三河守の妹である。安吉械は天文十九年家長の姉婿・窪田大炊允(おおいのいん)に譲り、河原組の将たらしめたと。安吉村の内におわん田のあるは、家長の女おわんの屋敷跡でもあるともいう。


※おわん田というのは化粧田のことで、ここでは大窪家長の娘・おわんの住居と領地をいうようで、大窪家長が当地で重視されていたことが窺われます。

大窪家長は京都嵯峨・洪恩院の荘園の管理或いは徴税使として安吉に到来して、加賀の混乱期にそのまま土着した豪族と思われます。長享元年(1487年)に安吉城を築いて住まいも置いたとされています。その際に守護者として八幡神社(現山島八幡神社)を城内に置いたと云われます。
画像       山島こども園 南園舎
安吉城の本郭は園舎の辺りだったと思われます。


前述の「石川郡安吉古城跡図」の規模は、主郭15間×12間(約27X22m)で、馬出し・外濠・土塁を備え、城域は45間四方(約80m)の城域。城の西外濠は大慶寺(大行事)用水となる前の河川が利用されていたと云われます。近年まで土塁らしきものがありましたが、観た感じでは近年の残土の嵩上げにも見られましたが、消滅しています。山島こども園の園舎辺りを主郭にした平城というより、住居を含む砦を土塁と堀で囲んだ砦に近い造りではないかと思われます。
画像      安吉城址南西部
安吉城唯一の遺構土塁と云われていますが、後年の残土の盛り土の可能性が強く、疑念が残ります。


大窪家長は加賀守護の富樫家に仕え、守護重臣から嫁を貰うなど厚遇されていますが、早い段階で一向宗に加担していたようです。同じ松任の有力者・鏑木氏が一揆衆に恭順した時期ではないかとみられます((文明7年(1475年)吉崎退去)。一向宗の主軸の武将として手取川北岸の河原組の頭領として、安吉近辺4万石を領していました。
画像
天文19年(1550年)に出家して北方にある浄土寺を建立して、長子と共に僧籍として隠退しています。浄土寺は安吉の北にありますが、大窪姓の子孫の地が受け継がれ、現在も大きな本堂を持った寺院でこの時から周辺に大きな力を温存していたことが窺われます。

天正8年(1580年)、織田信長の北方方面軍・柴田勝家の侵攻によって、窪田大炊は討ち死、安吉城は落城。そのまま破却状態になったと云われます。一向宗の武将の難しいのは、出家=隠居とは見なせないことと、城主よりも大坊主の住職が上というのが多々見られるためです。また資料自体が少ないこともありますが。。山島郷の実権は僧籍ながら大窪家にあり、家臣筋の窪田家が政務をみていたようです。

大窪(大久保)と窪田と名前が似ており、現在も近在に何軒か存在しています。縁戚ではあるものの同族かと云えばそうでもなく、、、前述の様に大窪家長は京都から土着した人で、大窪家長が安吉城を譲った窪田大炊允綱盛(経忠)は、安吉城から4キロほど西に行った源兵島城・窪田肥前守の息子になります。窪田肥前守は家長到来前には手取川四郷の総代を努めた土豪でしたが、後年は安吉を中心に実力をつけた大窪家長の組下になったようです。
画像
画像
画像 大窪山 浄土寺
大窪家は浄土寺住職として家を繋げていますが、綱盛が討ち死にしたものの窪田家も名を残しており、窪田宮内が柴田勝家の家人となり、その息子(弥之助)が山崎長徳に仕え、加賀藩で300石の足軽組頭になって後世に家を残しています。
画像
 山島八幡神社
旧社地の画像が消えていて残念。。とはいえ、この社殿はそう古いものではありませんが、拝殿の装飾、神殿の造りは個人的好みですが白山市の五指に入ると思います。


一向宗徒集団の解体により安吉城は廃城となり、城内の八幡社は大窪家長によって、浄土寺横に遷座。ただ、この事蹟は年齢的に無理があり、家長の子孫、浄土寺住職の了海以降の子孫ではないかと思われます。また旧社地も狭く祠堂程度だったとおもわれます。
画像
画像
画像 山島八幡神社 上:表参道&拝殿 中:本殿 右:脇鳥居
脇鳥居の前に旧社地があります。鳥居横にあるのが珍しい鳩石像(昭和12年奉納)。鳥居の間に一瞬目隠し猿に見えるのは、実は狛犬のお尻^^;アップしてみてね^^;

画像 



山島八幡神社 狛犬(大正10年奉納)
逆さ狛犬の相棒は岩に前足を掛けて吠えている姿が一般的。山島の狛犬は横長方形の顔ですが、この顔は珍しい部類

画像
近代になって隣の地に大きな拝殿と神殿の山島八幡宮となり現在に受け継がれています。
社殿の造りは簡素ですが、施されている彫刻は繊細で美しく秀逸です。また幣拝殿と本殿が切り離れた権現造風の造りも秀逸です。狛犬は大正期の筋肉系の逆さ狛犬、鳩と思われる大きな奉納石像など興味深い神社です。またの機会にご紹介します。
画像

最後に安吉町の北から田園地帯を挟んだ先に見えるのが、松南小学校の菅原新校舎になります。白山市の小学校の新校舎は茶色の尖塔型のお洒落な形態。。来年の桜はあそこにします^^桜があったらね^^;
画像

旅行日 2019.04.09  04.22



"今年観た桜 山島の郷" へのコメントを書く

お名前:
メールアドレス:
ホームページアドレス:
コメント:

最近のコメント