越中国司邸跡 伏木気象資料館

新元号の令和万葉集からの典拠・引用ということで、万葉集が売れ、梅花の宴が開かれた大伴旅人の邸宅跡とニュースにされた坂本八幡神社は人が押し寄せたそうな。。でも、大伴旅人邸は正式には特定されていなかったと思うんですが。。。僕の記憶では30年程前に「玉石敷きの溝」が発見されたとき、奈良時代の国守邸の庭園発見と騒いでいたはず。。ニュースを見てて???となった僕。。菅原道真の邸跡附近も国守邸候補地と云われて、まだ確定していなかったような。。マスコミは何の根拠で坂本八幡神社としたんだろう。。そういえば世界遺産の推薦が決まった百舌鳥・古市古墳群の仁徳天皇陵も文字が躍っていたけど、近年は大仙陵古墳として、一部では伝仁徳天皇陵と書くくらいで、教科書からも消えていたはず。。まあ、宮内省は相変わらず仁徳天皇陵と治定してるけど。。

父・旅人繋がりで、万葉集の編者の第一候補とされる大伴家持もすっかり名前が売れてしまって、全国の所縁の地が名乗りを上げ、多くの人が訪れています。かく言う僕の石川でも、家持が越中守時代に能登が越中国に属していたこともあって、巡検の際に気多大社で読んだ歌碑と選者の噂の中西進氏の歌碑が並ぶと千里浜海岸が連日賑わしてくれました^^;さすが、何でも打ち出す羽咋市と感心もしましたが。。。

GWには中西氏が館長を務める「高志の国文学館」(富山を題材にした文学資料を収集展示しています。)、家持の万葉歌を研究展示する「高岡市万葉歴史館」、大伴家持の子孫を自称する「放生津八幡宮」もどっと人が押し寄せていたそうです。
以前から高岡市は大伴家持や前田利長を観光メインにしていましたから、降って湧いた令和ブームには大喜びしているようです。
画像 勝興寺 越中国府跡地碑
ちょっと、穿った見方をしてしまう僕ですが、、前回の土山御坊を起源にする勝興寺に足を延ばしたのも、この令和ブームで壮年期の(29歳)の大伴家持が5年間努めた越中国府の跡地ということもありました^^;とはいえ、人がごった返す万葉歴史館は避けて、たぶん誰も来ないだろう穴場に。。。もうちょっと早ければお隣のカフェレストに寄りたかったんですが、、、次回に、、、ちなみに、ついつい「穿った見方」と使っていますが、昨年TVを観てたら本来の意味は、「物事を深く掘り下げて本質を的確に捉えた見方をする」が本来の意味なんだそうですねえ。。それでもついつい使っちゃいますねえ^^;もちろんここでの意味は間違ってる方です^^;
画像 勝興寺門前道路
車が登ってきているのが伏木駅への道
 
勝興寺の門前から伏木駅に向かって50mほど進むと、分かれ道の分岐の広場にあるのが、大伴家持像歌碑。万葉集に載せられている大伴家持の歌は長歌・短歌合わせて473首。万葉集は全部で4500首以上ですが、その一割が家持の歌になるため、家持が編者だと云われる由縁です。473首の内、223首という半分近い数が越中国守だった5年間に作られたものになります。なお、家持は越中国府にいた間に、万葉集にに載っていない歌を含めると、300首以上、彼の人生の中で一番多く歌を作った時代でもあります。おかげと云っては何ですが、富山県内に多くの歌碑が造られています。
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しなざかる 越(こし)に五年(いつとせ) 住み住みて 立ち別れまく 惜しき夕かも

現代語訳: 遠く離れた越の国(越中)に五年間住み続けて、今こうして別れなければならないことの、なんと惜しい宵であることか。 (万葉歴史館より)
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天平勝宝3年(751年)大伴家持が5年間の越中守を退任して、少納言となって都へもどることとなった家持が餞別の宴で詠んだ歌です。着任当時は都から遠く鄙(ひな)びた田舎に来てしまったと嘆いていたものの、都への帰還が叶った喜びと、5年間の生活を振り返り、気の合う仲間を得ながら去る複雑な気持ちを唄ったものです。

※「しなざかる 越に」・・・家持が赴任して来た時に詠んだ「立山の賦(ふ)」の中に、「あまざかる 鄙に名懸かす 越の国」とあるのを凝縮した造語になります。

「立山の賦」
あまざかる 鄙に名懸かす 越の国 国内ことごと 山はしも 繁にあれども 川はしも 多に行けども 
皇神の  領き(うしはき)坐す 新川(常願寺川)の その多知夜麻(立山)に 常夏に 雪降り敷きて 帯ばせる 
片貝川の 清き瀬に 朝夕ごとに 立つ霧の 思ひ過ぎめや あり通ひ 
いや年のはに 外のみも 振り放け見つつ 
万代の 語らひ草と  いまだ見ぬ 人にも告げむ 
音のみも 名のみも聞きて 羨しぶるがね


大伴家の総領であった父・旅人は、神亀5年(728年)正三位中納言・大宰帥(そつ)として西海道の責任者を務めていました。ところが、翌年に長屋王の変が起こり、翌翌年には前任者の大納言が急死したために、人臣位階では最高位となり、急遽大納言に昇格して都に戻っています。しかし、その翌年(天平3年(731年))逝去。従二位大納言。家持13歳。

ちなみに大宰帥は、9世紀以降は親王の赴任しない名誉職となり、大宰府の実権・実働は大宰権帥及び大宰大弐に移ったり、菅原道真の左遷人事や平安期の赴任貴族の嘆きの歌など、顧みられない場所、遠国に思われています。桓武天皇以降の軍隊・死刑廃止・菅原道真の遣唐使廃止による鎖国政策によるところでもあるのですが。。。
しかし8世紀以前の大宰帥は九州・壱岐・対馬を管轄し、軍事権を持つと共に朝鮮・中国との対外交渉権を委託されるほどの重要職でした。8世紀までの歴代大宰帥の名前を観れば、日本史を動かした人物ばかりです。

偉大な父の跡を継いだ家持には、藤原氏の台頭と共に衰退に向かう大伴氏の期待がかかっていたのです。この越中赴任中には、唯一の実弟を病で失っていますから尚更です。
大伴家の総領は若い家持の双肩に掛かったのですが、とにかく若すぎたことと、藤原氏が台頭したことにより、なかなか出世が叶わず、忸怩たる思いがあったと思われます。
この越中赴任では補佐し続け、その後も深い親交と共に助けてくれた大伴池主など、有能な人材を得たのも確かでした。そして少納言という都での足掛かりを得た家持の決意もあったのです。最終的には家持は数々の政争を潜り抜け、最終的に従三位中納言、早良親王の春宮大夫(とうぐうたいふ、皇太子補佐官)・征東将軍兼鎮守府将軍に登っています。
しかし、イバラの道が待ち受けていたのは死直後で、今もって都でか多賀城で亡くなったか、墓所さえも定かでないのがそれを物語っています。 

その後の家持と池主については、以前にアップしています。 ⇒ 2017.05.03倶利伽羅峠 手向神社 倶利伽羅公園①
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原因となった藤原種継暗殺事件も書いています。長岡京の建設現場で起きたこの事件は、遷都反対派の南都勢力と関係が深かった早良(さわら)親王が仕組んだとされ、その実行・計画首謀者とされたのが大伴家持でした。早良親王は幽閉後も無実を訴えハンスト、護送中に高瀬橋付近(現・大阪府守口市馬場町)で餓死、遺骸はそのまま淡路島に贈られました。大伴家持は発覚の20日前に亡くなっており、過去の役職全てを除籍、遺体・遺骨の埋葬禁止、子・永主以下の家族の隠岐流罪という過酷なものでした。永主の流罪と主に遺骨も隠岐に渡ったようですが、その後は行方不明です。

古くから怨霊信仰は存在しましったが、国家が国書に正式に認めた怨霊神はこの早良親王と井上内親王(光仁天皇妃)になります。謝罪師の派遣・崇道天皇銘・陵墓移葬・崇道神社と何度も繰り返された早良親王鎮魂が最終的に行われた延暦25年(806年)、藤原種継暗殺事件の関係者も恩赦となり、大伴家持も恩赦となっており、息子・永主(生死不明)も恩赦で帰京しています。しかし、家持家系の永主以降は従四、五位下から昇格できずに埋もれて行きます。大伴氏から大納言に列するのは応天門事件で有名な伴善男を待つことになります。
なお、万葉集が一般に出たのが延暦25年以降になるのは大伴家持の恩赦年に当たると云われ、万葉集の最終編者の有力候補と云われる由縁です。
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大伴家持の銅像は平成27年(2015年)製作とまだ新しいものになります。
鋳造・梶原製作所、原型・新井浩二、台座・高岡石材工業
作者は申し訳ない知らないのですが、鋳造は銅像鋳造の老舗・梶原製作所(明治35年創業)になります。銅像で有名なモノには博多駅前の黒田武士像・大宰府の六尺狛犬、新しいものではアルミ合金ですが高知のアンパンマミュージアムの ジャイアントだだんだん、北海道の北の湖像、高知の坂本龍馬のシェイクハンド像が知られています。モニュメント・宝珠・仏具・銘板・梵鐘も多く手掛けていて、有名なものでは札幌オリンピックの聖火台、名古屋城の鬼瓦、金剛峯寺根本大塔相輪、昭和天皇多摩陵の門扉、浅草寺宝蔵門の銅製吊燈籠一対(赤提灯の両サイドの燈籠)、この他に修理メンテナンスも得意にしているそうで、有名どころの修理や補修はこの会社が多く請け負っています。

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銅像から100m程、伏木駅の方に坂道を下ると高台に瀟洒な洋風建物と石碑が頭上に見えます。ここが越中国守の邸宅があったとされる場所になります。奈良時代、国府があった勝興寺からここまでの道が、5年間の国守時代の大伴家持が往復していた道になるわけです。

越中国守館跡推定地(越中国府関連遺跡)

朝床(あさとこ)に 聞けば遥けし 射水川(いみずがわ) 朝漕ぎしつつ 唱う船人 
(万葉集巻十九・四一五〇)

天平勝宝二年(七五〇)三月二日、越中国守大伴家持が館舎の朝の寝床で、はるか射水川を漕ぎ歌う船人の声を聞いてよんだ歌である。射水川(小矢部川)は当時この台地のかたわらを流れていた。
国庁推定地である勝興寺境内附近には、岸が舘・大立などの当時の役人の邸宅の存在を示す地名が残っている。このあたりは東館と呼ばれ、国守館の跡と推定されている。

平成三十年三月三十日 高岡市教育委員会

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案内板の花は高岡市の市花のカタクリ(かたかご)になります。やはり、万葉集の大伴家持の歌から採用されています。郵便の350円切手にも採用されています。
もののふの 八十娘子(やそをとめ)らが 汲みまがふ  寺井の上の 堅香子(かたかご)の花
現代訳:大勢の乙女達が入り乱れて、水を汲む寺井の畔(ほとり)の、かたくりの花よ

寺井は国府から国分寺推定地に向かう途中、現在の勝興寺境内北西の角地にあった井戸になります。
画像 越中国守館跡碑
 
射水川について:高岡城の前身の射水神社や射水市(射水郡)の名で射水の名は知られていますが、射水川は現在は存在しません。実は明治20年代まで小矢部川と庄川は途中で合流していて、その合流点から河口までが射水川でした。その流れは現在の小矢部川の流れに当たります。家持在住の頃は二つの急流が合わさり川幅も大きく、河口も広かったと思われます。この高台に迫るほどの広さだったと思われます。

富山県は北アルプス・白山連邦と、その山岳を源にした河川、深度の深い富山湾を有した県です。又気候面でも降雪・降水量が多く、高い山岳から流れる河川は水量が多く、長さは太平洋側の大河川の半分以下ですが、その分、流れの高低さが激しく国内でも屈指の急流になります。富山県内には急流が多いのですが、その中でも大きさも備えた富山七大河川(黒部川、片貝川、早月川、常願寺川(新川)、神通川、庄川(雄神川)、小矢部川)はつとに有名です。これらの河川は時代で洪水を起こし、流れを変えながら、砺波・越中平野を作り、富山湾を深海にしたと云われます。旧加賀藩を引き継いだ石川県は発足当時は能登・加賀・越中を一つにしたものでした。しかし、商工業などの富国政策を優先する政策に、河川改修を優先したい越中の不満が募り、富山県として分離独立したのも、これらの河川が影響しています。
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明治25年(1892年)に常願寺川改修工事に政府から派遣されたオランダ人技師・ヨハニス・デ・レーケこれは川ではない。滝である。」、レーケの言葉を引用したという富山県知事書簡「70有余の河川、皆、極めて暴流にして、山を出て海に入る間、長きは67里、短きは23里に過ぎぬ。川と云わんよりは寧ろ瀑と称するを充当すべし」というのが富山の河川の全てを物語っています。

富山七大河川の内、最も西端にあるのが白山連邦を源にする小矢部川。大日岳を源にし小矢部川と河口を同じにする庄川があります。ちなみに、ひるがの高原の分水嶺から南に流れるのが長良川、北に流れるのが庄川になります。
古来から明治中頃まで、この二つの川は小矢部と福岡の境界辺り(能越道・福岡IC附近)で合流して、現在の小矢部川の流れで伏木の河口に流れていました(射水川)。

トップレベルの急流二つが合流した射水川は、とんでもない大河だったのですが、氾濫すると被害が甚大なものになりました。このため、明治20年代に旧中田川に庄川の流れを変更し、伏木の河口も分離して現在の姿になり、射水川が消滅しています。明治20年代のこの河川工事は富山県予算の過半を越す大事業でした。

国守邸跡の発掘調査では四本の柱跡や遺構が発見されて、遺跡包蔵地となっています。
現在、同地に立っているのは、「高岡市伏木気象資料館」、この建物は明治42年(1909年)建築の国登録有形文化財になります。2度目の訪問でしたが、以前来た時は平屋建てでした。
画像昨昨年(平成29年)、上部の塔屋(風向計付望楼)が復元され明治の姿に戻っています。木造建物の横に立つ3階建鉄筋コンクリートの測風塔が昭和12年)(1937年)完成の2年後に取り壊されていましたが、取り壊した部材は資料館床下に残されていて、その部材を再利用して望楼を復元したそうです。

国登録有形文化財(建造物) 制定年月日 平成18年3月2日
高岡市伏木気象資料館(旧伏木測候所庁舎・測風塔)

1883年、廻船問屋出身の藤井能三が、船舶の安全確保を目的に設立した全国初の私立測候所。今も全国に日々気象データを提供している。

旧伏木測候所は、明治10年(1887年)、廻船問屋出身の藤井能三が、伏木港を大型船が接岸できる近代港湾とすべく私費で建設した燈明台(灯台)の一室に、明治16年(1883年)、全国初の私立測候所として設立されたものである。その後、明治42年(1909年)、現在地に移転し、県営、国営への移管を経て、現在に至るまで、気象観測を続けている。
建造物は、平成17年(2005年)より、「高岡市伏木気象資料館」として公開されており、日本海側屈指の商工業都市として発展した高岡の経済を支えてきた伏木港、その近代化を象徴する建物である。


資料館横には設立者・藤井能三の彫像が置かれています。
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藤井能三像(一八四六~一九一三) 六六歳
藤井能三さんは明治時代の実業家で先見性に富んだ考えを持たれ、来るべき新しい時代の息吹をいち早く捉えられ、郷土だけでなく、北陸地方の発展のために私財を投じて寄与されました。
伏木港の波除け工事の取り組み、明治六年(一八七三年)には富山県で最初の伏木小学校の設立、明治一〇年(一八七七年)日本海側最初の西洋式灯台の完成、明治十六年(一八八三年)には私立伏木測候所(現在の気象資料館)の観測がはじめられ、明治三十三年(一九〇〇年)には能三さんらの鉄道誘致運動が実って高岡・伏木間に中越鉄道が開通となるなど全精力され数々の多大なる功績を残され、一九一三年(大正三年)享年六六歳、伏木の人々は町葬をもって能三さんを報いた。
今もなお私たち住民の心に深く刻みこまれ、語り伝えられている。
平成二十八年六月五日建立


廃藩置県の発足当初、能登・加賀の石川県に新川郡(後の富山県)を含めるかどうかは賛否両論でした。結局、発足時は能登・加賀・富山の石川県がスタートしたのですが、主要経済の基となる米商会所も金沢に一極集中、更に前述の河川改修工事の遅れなど、富山地区発展の遅れの恐れが生じてきました。その為、富山県独立の機運は一気に高まっていました。
小学校・灯台・護岸整備など伏木港、更に後の新湊・富山港を合わせた伏木富山港の基礎を造り、米商会所の開設要望などを何度も陳情しています。富山独立の急先鋒に立ち、その下準備に奔走したのが藤井能三でした。
明治16年・富山県成立と共に、伏木港に米商会所・灯台を作って一打拠点としています。特に米商会所の取扱量は全国188所中、第8位を誇っていました。また自身は越中汽船・北陸通船を運営して海運に力を入れ、富山発の鉄道である私鉄・中越鉄道(後の城端線・氷見線・新湊線)の開通によって、昭和40年代までの富山第一の都市・高岡市の礎を造ったと云っても過言ではありません。
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伏木気象台は日本海側初の洋式灯台と共に伏木臥浦町(現伏木中央町、伏木埠頭)で明治17年から定時観測を行い、翌年には認可を受けて東京気象台との気象電報交換などを行い、私設ながら公的測候所資格となっていました。またその翌年には地震観測なども行っていました。しかし業務量の拡大で県営に移管されています。
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明治末には波浪の浸食で庁舎が限界となり、現在地に明治42年に移転建築されたのが現在の資料館になります。明治末の瀟洒な望楼付きの様式建物は美しい姿でした。昭和12年に測風塔が完成した際に、望楼が取り外され、翌翌年、国営気象庁に移管されています。
画像 現在の自動気象装置昭和には富山市に中央気象台が置かれ、業務内容が減少すると建物を使用することも減り、別棟の建物が置かれていました。その時の気象装置は資料館に展示されています。
その後、気象・地震などの観測装置が自動化され、平成3年に建物などは高岡市に払い下げられ平成17年から資料館展示となり、平成29年に望楼が復元され、現在の姿となっています。また自動化された気象・地震ほかの装置が建物横にあり、現在も気象情報を集積・発信しています。

旅行日 2019.05.02

 



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