河北潟野鳥観察舎

石川県運転免許センター先月のお話になりますが、嫁さんの免許更新があって免許センターまで送り迎えすることに、、嫁さん、近場の買い物とかは車も運転するのですが、石川の道は狭いし解り難いからヤダ、キライといって片道5キロ圏内しか運転しない。おかげで遠出の買い物なんかは僕がお抱え運転手。おかげで金沢の北端にある運転免許センターには毎度、僕が送り迎えしているのです。 まあ、おかげで僕とは大違いで、ゴールド免許で小一時間の免許更新で済むのですが、、、どうせ僕なんて、半日かかる青い免許ですからね。来月、また来ます。。あ~~あ、あの時、覆面さえ抜かなければ。。🚓 その小一時間の待ち時間、免許センターにも食堂はあるんですが、どうも落ち着かないんですね、、その辺はブルーのトラウマですかねパンと飲み物買ってどこかで食べようかなと。。周辺をうろうろ。。駐車場も味気ないしなあ。。思いついたのは野鳥観察舎、、河北潟を眺めながらもいいなあと。。しばらくぶりに天気もいいし。。このあたりは河北潟の半島のような場所で水辺もばっちり 河北潟野鳥観察舎 石川県には県営野鳥観察舎としては、舳倉島(へぐらじま)・珠洲市三崎・七尾西湾・河北潟・県民海浜公園・ノミレイク河内(手取川第三ダム)・加賀市鴨池と大小の観察小屋を持つ施設があります。そういえば、いずれも何度か立ち寄…

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味知郷神社

久しぶりに町の神社です。白山市の福留地区の鎮守社で味知郷(みちごう)神社。   味知郷神社南脇参道・社標 石川県神社庁案内 味知郷神社(みちごうじんじゃ)御祭神 経津主(ふつぬし)神・天児屋根(あめのこやね)命・比咩(ひめ、比売)大神・白山比咩(はくさんひめ)神・天照(あまてらす)皇大神・武甕槌(たけみかづち)神鎮座地 白山市福留町1 氏子区域 白山市福新町・福留町・福留南 由緒 創立の年代不詳 初め福留白山神社と号したが明治40年神明社、春日社、白山社を合祀し味知郷神社と改める。境内地は843坪周囲小高く中央が低く稀なる地形をなしている。       上:表参道 右表参道 鳥居扁額歴史や由緒を細々と書く石川県の神社庁ですが、いたって簡略な案内文です。味知郷神社の氏子区域となる福新町・福留町・福留町は旧松任市の南の国道8号線沿い、平野部のど真ん中になります。神社の西にある南北の道は松任宿から水島の手取川の渡し場に向かう北国街道になります。往時は田園と平坦な交通路になっていました。北土塁上の旧神明社跡碑創基は不明ながら江戸期以前から存在したようで、江戸期には手取川北岸の平野部の味知郷・山島組42村の総鎮守だったと地元には伝わっています。明治以降は福留地区の産土神として福留白山神社(白山比咩神)。明治40年(1907年)に近在の春日社(経津主神・天児屋根命・比咩(比売)大神・武甕槌神)、北土塁上の神明社(天照皇大神)を合祀して味知郷神社と改めています。上:北脇参道 神橋 左右に土塁が見られます。…

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小舞子海岸

以前に歴史の道百選で批判的な記事を書いてしまいましたが、国内には多くの百選が存在しています。国・県・協議会・業界団体・選定委員会・組合・個人様々な百選が存在していて、有名・無名を含めて100や200では効かないかもしれません。とはいえ、この百選は各地から選定されていて、観光はもちろん僕のようなスポットマニアには目安の一つになっています。ただその後の開発や荒廃で首を傾げるものも出てきてしまいますが。。 今回、ご紹介するのは「日本の渚百選」。海の日(7月第三月曜)の祭日制定を記念して選定されたもので、平成8年(1996年)に農林省・自治体関連の選定委員会の選定したものです。日本は島国のおかげで多くの海岸線や渚が存在します。また狭い国土に水を生成する山々を抱え河川や湖も多く存在し、滋賀県や長野県からも選定されています。百選には地元以外には知られていないものも多くあり、再発見・評価には寄与しています。 ⇒ 日本の渚百選(日本の森・滝・渚全国協議会HP) 石川県は西側に長い海岸線と、日本海に突き出した能登半島、富山湾の西側を構成するように海に囲まれた県になります。おかげで越前海岸から続く奇岩や断崖と合間の砂浜が点在すると長い松林と砂浜の加賀海岸、きめの細かい砂浜、リアス式海岸の能登の海岸、七尾湾のような静かな海辺、富山湾の西海辺と様々な海岸線があります。海岸線の特徴的な種類の多さは国内でも突出すると思います。ところが昭和・平成初期の観光誘致の下手な石川県はあまり海岸線を発信していないせいか、お隣り福井県…

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金谷出丸 南面

尾山神社は金沢城の金谷出丸の地に創建されたものです。 金沢城は北の浅野川、南の犀川に囲まれ、東の小立野台地と自然の要害地に囲まれた城郭でした。特に搦め手の東は小立野台地の東端の千歳台(現・兼六園)とは大きな段丘の落差に百万石掘(白鳥堀)という最大幅・深度の堀が配されていました。南は台地の断崖に石垣と宮守堀(いもりぼり、復元堀は往時の半分幅)と二重の大障碍を設けていました。また大手(尾坂口)となる北側は城外よりも城の方が高台になり大手堀と百万石堀に匹敵する堀及び三の丸・二の丸と幾重の障碍が配されていました。尾山神社西神門よりところが堀は配されているものの西側は高低差が少なく、攻城軍の主力が配されるであろう平地が多い西側は、金沢城最大の弱点地とも云えました。城方の前線基地となる出丸が必要となり設けられたのが金谷出丸でした。江戸初期には金谷出丸の南(現在の広坂合同庁舎)にも外出丸があったと云われています。 延宝年間(1673~1681年)の詳細な金沢城図が残されています。              ⇒ 金沢城図(奥村家鎧袋内・箱入)(玉川図書館蔵)上が南、下が北、左が東で右が西になります。是非クリックしてみてください金沢城図は城構造や建造物を詳細記入、彩色した精緻な図絵で建物名称・主要室名も記し、辰巳用水から城内への通水水樋の埋設経路更に幹支線に渡り書かれたものです。ここまでの詳細図は珍しく、本来藩主格の持ち物で機密重要書類と想像されます。初期の金谷御殿が描かれているために加筆あるいは18世紀半ばと…

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尾山神社遥拝所と雑話

実は前回のブログに続け書きをしてたんですが、あまりに長く煩雑なものになったので、別枠の雑話ということで。。。 気分が悪くなるような宗教話や批判ばかりが目立つと思うんで、、、、ご容赦を。。。 右:遥拝所入り口石段横 関口光生記念標 従三位神田孝一謹書 とありますが、僕には不明。。横に顕彰碑がありましたが、時間もなく、摩耗で真剣に読めませんでした。。下:遥拝所入り口 ここから神苑の背景の裏山を巡れます。 次回に回そうかとも考えていたんですが、神苑の背景となる出丸南面の山林の山は明治以降には通路が造られて、歩けるようになっています。南西面にある神輿庫前にある顕彰碑横の石段から登れます。入り口に遥拝所の標柱があり、それが目印。遥拝所 伊勢神宮の方向に向けています。尾山神社では春分・秋分の日をメインに遥拝所での遥拝が行われているそうです。 ここからの文章は個人的意見ですから、宗教話や神道支持派など反発を感じる方はパスしてください。。 遥拝所は山岳信仰として山を神体として拝む場所になるものと、今回のような伊勢神宮などを拝むものがあります。神社や仏閣を巡ることが多い僕は、たまにこういう遥拝所を観ることが有るんですが、前者の山岳信仰の遥拝所は良しとして、伊勢神宮に向けた遥拝所は存在自体が国家神道の押しつけのようであまり好きではありません。 そもそも今回の尾山神社にしても、先に何度も書いたように尾山神社創建時の神様は加賀藩祖・前田利家個人だと理解されていると思います。ところがそんな個人の神社で伊勢神宮…

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尾山神社④ 神苑

神苑東側から 手前の飛び石が沢渡り、女性が渡っているのが八ッ橋、右手には水上に藤棚が配され、左手は琵琶島で奥に図月橋、図月橋の向こう岸は鳥兜島 尾山神社の南面に広がるのが神苑になります。10年程前は神仙苑と呼んでいたのですが、今は神苑と統一したようです。別名は和楽器の庭。明治になって尾山神社が創建されると、それまで荒廃した庭園に大きく手を入れて整備し直しています。⇒ 2009.07.29 尾山神社 神仙苑上:西丘陵から 右:南丘陵から神仙苑は元々は金谷御殿庭園となっていました。その創始ははっきりしませんが、以前までは池泉の存在と小堀遠州作と伝わったことから1620年頃と推定されていました。ただこの推定の問題点はまだ戦国の風が残った時代に出丸の地に御殿はまだなく、庭園だけを造るかという疑問が湧いてしまいます。18世紀初頭には庭園が作庭されたのは確かでしょうが、個人的には現在の泉水を配した庭園は前田斉泰が金谷御殿を大きく増築したころ文化15年(1844年)以降に整備したのではと思っています。辰巳用水導水管現在の神苑の池水は地下水を利用していますが、金谷御殿庭園時代は金沢城から辰巳用水の水を通水していました。この通水には兼六園霞ヶ池から金沢城内に通水した方式と同じ逆サイフォンが採用されていました。文化15年(1844年)に導水管が木管から、庄川上流の金屋石の石管に変えられています。この時に泉水や滝が配されたと思われます。神苑 響遠瀑 水が勢いよく流されてる時もあるらしいんですが、僕は未体験、観られたらラ…

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尾山神社③ 本殿・金谷神社・東神門

尾山神社の本殿は明治6年(1873年)建立。古式に則ったという三間社流造・銅板葺屋根、拝殿と本殿の高さを合わせ間の低い位置に幣殿代わりの庭面(石の間)が置かれた権現造の様式になっています。本殿は拝殿との高さを合わせるために底部を懸け造の木組みで支えています。今年9月、以前までは緑青などで緑がかった屋根色でしたが、真新しい明茶色屋根に変わりました。20X36.5㎝の銅板4000枚を使用し、屋根面だけでなく鬼瓦・千木・鰹木にも銅板を巻いたり覆ったりで処理が施されています。本殿前の守護神? 遠目には狛犬?龍?身体は蛙? ピンボケで申し訳ありません。。本殿は尾山神社境内でも一番の神域で、勝手に中に入れないのと、観ようと思うと最奥の東出口に向かうため、金谷神社と木々に隠れて暗がりで観光客もほとんど居ない場所ですが、注目に値するものが一つ。本殿を囲む塀垣で、神社などでは玉垣と云います。拝殿・石の間と金谷神社の境界には銅板葺柵塀垣ですが、本殿南面には銅板葺レンガ塀が玉垣として重厚な守りとなっています。等間隔で梅鉢紋透かしを施されています。神社でこれはなかなか見られない代物です。ちなみにこのレンガ塀は、金沢で最初のレンガ建築になります。以前、金沢の代表色の一色としてレンガ色を紹介しましたが、代表となるのが赤レンガミュージアム(旧金澤陸軍兵器支廠兵器庫)としましたが、それよりも40年近く古い建築物で、金沢の代表色の原点と云える建築です。金谷神社 上:拝殿      中:拝殿・幣殿・神殿      右:金谷神社境内尾…

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尾山神社②神門・狛犬・拝殿・菊桜

尾山神社と云えば、人気を集めるのは西の表参道石段上にある尾山神社神門 右:西表面 下:東裏面明治8年(1875年)11年、長谷川準也(金沢製糸場創業者、第2代金沢市長(M30~金沢区を含むと8代目))・大塚志良(長谷川準也の弟、江沼郡長)兄弟が願主となり、金沢大工・津田吉之助が設計・施工したものです。ちなみに津田吉之助は北陸のダヴィンチと呼ばれた大野弁吉の藩校や家にも通う弟子筋でもありました。石川製糸場の織機も富岡製糸場派遣で学び製作しており、吉之助の子・米次郎と甥・駒次郎は明治33年国内初の動力式絹織機を作製、明治42年に駒次郎が金沢で個人経営の「津田駒次郎工業」を開業、現代の高速自動織機で世界トップシェアの津田駒工業となっています。神門中央 透彫り 上:西表面 下:東裏面上画像中央門の床面の円盤は、後で紹介しますが神苑の大型灯篭の天板だと云われています。灯篭の崩落で人身死亡事故によって、天板に神罰の意味で人に踏まれる通路に埋め込んだと云われています。家紋の透かし彫りも撮影したんですが画像が消えていました。家紋透彫りに興味のある方はこちらをどうぞ⇒2009.7.29尾山神社神門は和漢洋の銅板四柱造三層建物になります。その異様な造りが徐々に人気を集め、金沢のシンボル的存在になっています。高さ18m、避雷針は8メートルになります。 基部にはレンガ積みが施され、全体を木造架橋で支持しています。門となる第一層は神苑の渡月橋をモデルにしたと見られ、戸室石が使用され、木製門扉には加賀梅鉢紋や透かし彫りが施…

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尾山神社①

金沢観光でシンボル的存在と云えば尾山神社・西神門が挙げられます。尾山神社の地は、金沢城の金谷出丸と呼ばれた堀に囲まれた出丸でした。金沢城が攻められた際には最激戦の地となる場所のはずでした。しかし250年に渡る江戸の太平期ではそういった戦闘もなく、藩主の別邸と馬場が置かれていました。明治4年(1871年)廃藩置県により藩主が東京に去った後、とはいえ全国的に長い藩政を懐かしむ風潮から、士族会を中心に全国的に藩祖を祀る神社の造営が行われていました。尾山神社もその一つと云えるものでした。明治政府も慰撫政策から容認していたようです。 幕藩体制の時代には公に藩祖を神として祀ることは幕府への遠慮から大名家では忌避されていました。ところが加賀藩では、慶長4年(1599年)藩祖・前田利家が没した際、浅野川から引き揚げられた卯辰の鏡を神体に、式内社・物部神社(現・富山県高岡市東海老坂)の八幡神、榊葉神明宮(現・榊葉乎布(さかきばおふ)神社、富山県氷見市阿尾)を勧請して卯辰八幡宮(現・宇多須神社、金沢市東山)を創建して利家の神像を祀っていました。物部神社・榊葉神明宮ともに2代前田利長の守山城時代所縁の神社です。このことは幕府に隠れての公然の秘密とされ、加賀藩と東山の武家屋敷の住人の位別の拠出金で運営されていました。しかし幕末期の藩財政の逼迫と混乱により荒廃が目立ち、神像は卯辰山三社の卯辰山天神社(現・卯辰神社)に仮遷座していました。 ちなみにこの卯辰山天神社は江戸後期に造営された竹沢御殿の部材で建てられた表向きは撫…

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医王権現社

国見ヒュッテから少し南に向かうと小さなお社があります。医王権現社。        医王権現堂標柱 養老3年(719年)泰澄(法澄)が開山した医王仙ですが、その名を高めたのは養老6年の元明天皇の大病快癒に貢献した泰澄の薬剤と祈祷でした。この業績によって元明天皇から泰澄は神融禅師の称号、薬剤の産地となった医王仙の山名も医王山と授けられています。 薬剤の元となった薬草ですがその効用から薬師如来薬草と呼ばれ薬師如来(大医王仏)を祀ることになったとされます。医王山中でも白兀山(しろはげやま)周辺が薬草が多く山頂に奥宮を置いたと思われます。加賀では医王山と云えば白兀山を指すのはこのことからではないかと云われています。泰澄が開いた加賀・能登を代表する白山・石動山と並んで医王山は加賀三権現として山岳修験道の一大霊場となり長く栄えたと云われます。 加賀側では白兀山を奥宮としてキゴ山・戸室山または二俣を登山口として、登山口周辺に寺院群が創建されたようですが、越中側では白兀山と奥医王山を頂点に国見から祖谷の斜面、前医王山を胎蔵界の中心にした香城寺にかけての斜面に天台系の四八寺三千坊が立ち並び栄えたと云われています。大池平に四八寺を取り纏めた大寺院・惣海寺が建てられたとも云われますが、今のところ所在地も詳細も真偽不明中世以降の神仏混交、明治の神仏分離によって、祭神や本尊仏がややこしく感じると思います。神仏混交時代、神道と仏教の神仏を同神として、神道側では仏の姿で神が降臨する、仏教では仏が神の姿でという一種の融合説で…

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医王山 国見ヒュッテ

富山県立医王山自然公園 モニュメント医王山(いおうぜん)は金沢市と南砺市の境界上にまたがる山稜になります。加賀では白山と並ぶ霊峰とされていますが、これは越中側からも言えることで砺波平野からも霊峰とされています。ナナカマドの紅葉と実開山は養老3年(719年)白山開山で知られる泰澄(法澄)に依ります。泰澄は前々年に白山を開山し越前の豊原寺を基盤に白山妙理権現の信仰拡大に白山周辺路を広めていました。養老3年に白山平泉寺を創建して後は全国の山岳開山と布教活動を本格化させています。その足慣らしの地として修行地としたのが医王山系だとされています。泰澄は医王山を開山すると、山系に生える薬草の多さから唐の育王寺(阿育王寺)にちなんで医王仙と名付けたのが始まりと云われています。ちなみに阿育王寺は中国晋代(280~289年頃)インドのアショーカ王(阿育王)の舎利をもって建立した古塔の発見から創建された寺院で、宋代には禅宗五山に数えられていました。中国で唯一のアショーカ王の名を冠した寺院です。 養老6年(722年)元正天皇の病気平癒に対して泰澄が祈祷と薬剤を献上したのですが、この薬剤が医王山で採集された薬草類だったとされています。天皇の平癒によって、元正天皇から泰澄は神融禅師の称号を受け、山名を医王山と受けています。この故事から薬師如来(医王権現)が祀られたと伝わっています。 ちなみにこの伝承にも面白いお話が伝わっています。7世紀末山城・丹波に跨る愛宕山を開山したのは山岳修験道の祖とされる役小角70歳と法澄(泰澄)…

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歴史の道百選 田近越・小原越・二俣越

10/30 先記事の殿様街道、別名・二俣越えを含む全国36件が文化庁から「歴史の道百選」が追加選定されました。今回、砂子坂(二俣越)を書いていて、このニュースが入ってきて、えっ@@ でもね。。 文化庁は29日、歴史的・文化的な由緒を持つ「歴史の道百選」に全国36件の街道や運河を追加選定した。平成8年(1996年)に78件を選んで以来23年ぶりの選定で、石川県関係では石川と富山を結ぶ「田近越・小原越・二俣越」が選ばれた。石川県内の歴史の道百選は計5件、全国で114件となった。歴史の道百選は都道府県教育委員会の推薦に基づき、選定委員会が「当時の道筋良好な状態で残る」「複数の地域にまたがる」「明治時代以前に活用されていた」などを基準に選定。指定されると補修や説明板設置を国が補助する。石川県内では平成8年に北陸道ー倶利伽羅峠越、白ヶ峰往来、石動山道、白山禅定道の4件が選ばれた。今回選ばれた田近越・小原越・二俣越は戦国時代以前の成立とされ、北国街道(北陸道)よりも加賀と越中間を早く往来でき、盛んに利用された。道筋には中世の山城が国境でにらみ合うように築かれ、その城跡が戦国末期の前田利家と佐々成政の攻防の緊張を伝える。百選には三つの道筋をまとめて1件として選定された。小矢部市から津幡町を通り、金沢北部の森下川右岸に出る田近越は、道筋に一乗寺城跡と朝日山城跡がある。小原越は小矢部市から森下川沿いの谷に出て金沢に向かう道で、道筋に松根城跡と切山城跡があり、一部は国史跡「加越国境城跡群及び道」に指定。南砺市から山…

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砂子坂道場跡(光徳寺跡・善徳寺跡)

金沢大学のキャンパスを巻くように迂回して、富山県の福光駅まで行く県道27号線。金沢から向かうと県境の地、右手に殿様街道直売所があります。地元砂子坂だけでなく土山など近在の金沢・南砺の農家から作物や加工品が集まっています。殿様街道の謂れは、加賀藩13代藩主・前田斉泰が参勤交代に使用した道という所から。。加賀藩主の参勤交代の経路は当時の状況によって、いろいろと経路を変更していました。この県道27号は越中から加賀に入る道としては古くから使用されていたようで、現在では整備も進んで通りやすく、福光・城端・井波そして五箇山に向かうには便利な道路になっています。しかし、殿様街道は正確に言うと医王ダムを過ぎたあたりから山中に入り、直売所の南の山中の砂子坂集落を通って100m程先の坂道から県道に戻る経路でした。 しかし、この街道も古代には山間の険しい山間地で、相当の山道だったと云われています。この街道が整備されたのは浄土真宗本願寺派(東西分裂以前)法主5世・綽如が北陸下向後ですから至徳元年(1384年、南朝・元中元年)以降になると思われます。綽如は明徳元年(1390年)越中の本山として瑞泉寺(杉谷山)を開基していますが、越中に入る前には加賀二俣(二俣本泉寺)に仮寓居として庵を置いて越中への足掛かりとしていました。優れた先人とはいえ、まだまだ北陸では新興宗教の時代で次代で二俣本泉寺を開基した如乗もしくは土山御坊に入った蓮如・蓮乗の時代、15世紀中~16世紀初頭ではないかとも思われます。戦国から江戸期にかけては浄土真…

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七ヶ用水大水門

前回の加賀一の宮駅舎から、金名鉄道線路だった真新しいサイクリングロードを二人で歩いて、古宮公園の方に以前は、大回りしないと古宮公園の奥に行けなかったんですが、整備されたおかげで目的地には一直線。。 ちょうど曲がろうとしたところで、嫁さんが@@「ねえねえ、あのガラスのピラミッドみたいのは、な~~に?」「えっ、あ~前に来た時、教えてあげたじゃん・・」「覚えてない。。わたし見てくる~~」嫁さんが見に行ったのはこれです。古宮公園 瓦笥発見保存地 2017.04.14撮影白山本宮(白山比咩神社)が、この地にあった時代の1700に及ぶ大量の瓦笥(かわらけ、土師皿)が発掘されたもので、そのほとんどが神事に使用されたもの。まあ、白山本宮のゴミ捨て場。 白山本宮がこの安久濤(あくど)の森に文明12年(1480年)まで、長い期間あった伝承が証明されたものです。白山本宮はこの年に火災で焼失、白山三の宮(現在地)に仮遷座していましたが、世紀を跨いだ前田利家の修復で現在地に固定されました。おかげで本来の三の宮が消失、白山比咩神社の町名・三宮町としてだけが残っています。後で思い出しましたが、昨昨年、家族で来た時に何があるとは教えたけど、あっちウロウロこっちウロウロで佇むお父さんを無視して二人はそそくさと先を歩いていて、その時は見なかったようです。 曲がった先にある建物は「手取川七ヶ用水土地改良区白山管理セン…

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加賀一の宮駅舎

白山比咩神社 表参道一の鳥居(R1.8.13撮影)パーク獅子吼からの帰り道、娘にお土産をということで白山比咩神社の表口に立ち寄ることに。。 白山麓のど真ん中、旧の吉野谷村にある吉野工芸の里の入り口にある大判焼のお店「山法師」 このブログサイトの最初のアップでも紹介しています。⇒ 最初のUP 日本最大級の石ころこのブログの画像はこの時のアップの2.3年前のものですからもう10年も前になるんでしょうか。。最後のおまけ画像としてアップしたものです。 皮ばかり厚く、くどい甘味の多い大判焼ですが、山法師の餡は甘いのはもちろん、変なくどさが無く誰でもペロリ ^O^しかも餡は通常の3倍のボリューム満点。日頃、大判焼はどこで買っても同じとのたまう嫁さんもここだけは特別というほど、、とにかく我が家でも全員大好きな逸品ですアップ当時から全国一の甘党とされる石川県の人には知る人ぞ知るの人気店でした。 吉野工芸の里の入り口にある茅葺屋根が目印の山法師は、白山麓のスキー場関係者が、冬以外の営業として始めたお店で、冬期間は本業のスキー場で休業しています。しかも時間的にも長時間開いているお店でもありませんでした。しかし、白山麓の吉野谷はやはり遠い、ゆっくり走ると自宅からでも車で1時間弱はかかってしまいます。というわけで、白山麓に仕事で行って昼間に通るときに、タイミングが合えば、お土産で買っていたんです。ところが人気が出ると大変な事態…

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獅子ワールド館

全国には春祭り・夏祭り・秋祭り、更には越後獅子、角館ささら舞、長崎袴獅子のご当地舞や正月舞、宴会獅子、演舞劇など様々な獅子舞が四季を通して演じられています。一人立ち・二人立ち・ムカデ獅子・大幌(胴・胴幕・伽耶・萱胴他)、神楽・伎楽、更には獅子頭も様々なものがあります。悪魔・厄払い、豊年祈願・御礼、祝祭、奉納祈願、宴会芸、劇芸など目的も千差万別。各都道府県、各地域でみても一つとして同じものが無いと云われるほどで、国内の民俗芸能では最多と云われるのが獅子舞だと云われる由縁です。能の鏡獅子、伎楽の獅子もありますから、その幅広さは計り知れません。。 獅子ワールド館   これだけ全国に民俗芸能として広がる獅子舞ですが、個別の獅子舞を紹介展示はあるもの、他県や海外を一堂に獅子頭や獅子舞を紹介する資料館はほとんどありません。。僕の知る限りでも獅子博物館(埼玉県白岡市)・ひみ獅子舞ミュージアム(富山県氷見市)くらいです。地元獅子をメインにしますから、規模としては、どちらもそう多くないのですが。。この辺りが全国でも同じものは一つもないと云われる獅子舞・獅子頭の課題にもなります。 白山市でも加賀獅子頭の里として獅子の展示館「獅子ワールド館」があります。やはり大規模なものではありませんが海外の獅子、江戸期の獅子、県外各地の獅子、鶴来町の現役獅子頭などいろいろな獅子が見られます。入場料無料。 ******************************************そもそも獅子の起源・源流はといえば、獅子…

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獅子吼高原 パーク獅子吼

9/1 獅子吼高原のパーク獅子吼で第6回OTSUITCHIマーケットというイベントが開かれていました。俗にいうテント市なんですが、昨年までは旧鶴来町役場(現・白山市役所鶴来支所)の駐車場で年2回ほど開催していたのですが、スペースも狭く、こじんまりとしたイベントになっていました。今回は獅子吼高原の山裾のパーク獅子吼のふるさと館を中心に林間の広い一帯に80店舗のテント市と30店舗のフリーマーケットを開催するという大掛かりなイベントが開催されました。ついでに奥獅子吼登山ハイキングも開催。それまでは商店街や鶴来支所が開催する小規模なものでしたが、今回は若い集団の実行委員会が合体して大きなイベントに仕上がりました。たまたま、仕事の関係のお客さんから紹介されて実行委員会から声が掛かり、ちょこっと関わることになったのです。今までのテント市にはあまり縁がなかったこともあって、以前に観た道の駅の2.3台のテント市かと思って伺うと話が全く違う。。 実行委員会の委員長さんもこれだけの大規模イベントは初めてということで、まあそんなに人は来ないだろうとタカを括っていたんですが、参加入場客は8000人が目標。。。次回もあるかもしれないし、やはり気になるんで嫁さんを誘って久しぶりにパーク獅子吼まで行ってきたんです。 白山市は全体で見れば人口はここ10年程は横ばい微増の状況ですが、やはり地域の差があり人口の増えているのは旧松任市街地で、白山麓の入り口の鶴来地区は微減、また高齢化による問題がやはり顕在化してきています。当然なが…

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赤レンガミュージアム 金沢を表す三色

******************************************金沢を代表する色といえば、まず連想するのが金沢箔の金色百万石まつりの前田利家の甲冑姿でもお馴染みの金小札白糸素懸威胴丸具足、これに金箔押鯰尾兜・金箔押面貌は金箔工芸の会社では目玉として再現展示しているところが多くあります。現物の具足は天正12年(1584年)佐々成政との攻防戦の末森城合戦に着用したと云われ、末森城主として城を死守した奥村永福(奥村宗家祖)に恩賞として与えたと云われます。その後、奥村宗家から前田家に献上されたものです。画像は金箔製造・販売の箔一の箔巧館・金箔ミュージアムの金箔の間から、黄金の鎧兜を囲む壁面にも1万枚に及ぶ金箔が張られています。プロジェクションマッピングで幻想的な世界観が演出されます。他にも金箔製作体験や、職人作業も見学できるので、観光の合間にもお薦めかも。。  ⇒ 箔一・箔巧館HP箔一は昭和50年(1975年)に浅野邦子(現会長)さんが金箔の工芸品販売を目的に創業した会社になります。浅野邦子女史は京都出身で箔製造の箔屋の四男に嫁いだ主婦だったのですが、オイルショック後の不況で低迷する家計の助けのつもりからスタート、、、箔打ち紙から作った油取り紙が大ヒット(特許も箔一)、更に食用金箔の開発など女性感覚の波及品などで金沢箔を材料から主役に押し上げた功労者です。浅野さんのお姿を拝したのは香林坊アトリオに直営店を出して北陸経済同友会員になった頃、北陸経済会主催の研修会(一里野)に行かされ…

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加賀本多博物館

旧本多蔵品館跡地 現在は国立近代美術館工芸館の移築改装工事中R1秋完成予定 本多家の上屋敷地には平成27年(2015年)まで県立美術館と藩老本多蔵品館が建っていました。昭和48年(1973年)本多蔵品館は加賀八家で最大禄高5万石を誇った本多家と石川県が共同出資で財団法人を設立、旧金沢美工大の図書館建物を利用して、収蔵品2000点(内、初代政重・二代政長関連100点+当主夫妻火事装束2点が県文化財)は調度品や収集品は武家文化を伝える物から、北斎漫画や紀行文の庶民文化まで幅広いものがありました。上:県立歴史博物館・本多博物館共通入口 左二棟が県立歴史博物館、右一棟が本多博物館中:入口前の辰巳用水導水管の復元モニュメント 午前10時から午後4時まで10分間隔で水が噴き出るようになっています。今回は4時過ぎで見られず。。下:本多博物館入口藩老本多蔵品館時代の馬具一式展示(二代・本多政長使用)初代・本多政重画像 讃・沢庵宗彭(たくあんそうほう)筆 平成27年(2015年)東京国立近代美術館工芸館(今秋完成予定)の移設工事で、赤レンガミュージアムに引っ越しています。それまでの手狭な展示スペースが広くなったおかげで常設展示はそれまでのまとまった一斉展示から個別展示が増えています。僕としては、2代政長所用の馬に合わせての馬具一式の展示は気に入ってたんですけどねえ。。それと、単独展示になった当主や当主夫人の火消装束は間近で見られるようになりましたが、周りが無地でイマイチ華やかさに落ちる展示になってしまったかも。。…

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本多の森 本多家上屋敷跡

 石川県立美術館前回ご紹介した県立美術館の地は江戸期には、八家家老で最大所領(5万石)を誇った本多家の上屋敷があった地になります。石川県立美術館最西部 左の建物は文化財修復センター町名となっている出羽町の由来ですが、金沢城・河北門石垣・外総構濠を整備した篠原出羽守一孝の屋敷があったことに由来しています。 篠原一孝は、前田利家の遺言にも「出羽は子供の時から召し仕え、心はよく解っている。片口なる(口が堅い)律儀者だから城を預けても心配はいらない。その上、末森の合戦では若年ながらよく働いてくれたので、弟・良之(佐脇良之)の娘を養女として嫁がせ、姪婿とした。関東陣では八王子でよく働いた。しかし、姪が早死にしたので青山佐渡(守)吉次を聟にしたら良いと女どもも言っているから後で取り計らったらよかろう。」と、家臣団でも第一番に名を上げられています。利長時代には横山長知・奥村栄明(永福長子)と共に執政となっていました。また、ライバルとも云われ、関係がイマイチと云われた高山右近の金沢退去時には、「もし幕府に糾明されたら、自分が勝手にやったんだから責任を取って腹を切る」と、右近への感謝と共にこまごまとした計らいを見せ、金沢随一の武士・武家の鏡と尊敬を集めています。元和2年(1616年)死去、享年65歳。その後、相続した次男・孫が早世したために篠原出羽家は断絶しています。芳春院の実家筋となる篠原本家は次弟・長次が継承しています。 前田利家の遺言や篠原一孝・佐脇良之などの略歴はこちらをどうぞ ⇒ 高山右近記念公園① …

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