粟津(あわづ)温泉

粟津温泉総湯前 開湯の碑 11月にいつも行く粟津温泉近くのお客さんの所。でも昨年に続き、早く行き過ぎて一時間ほど時間調整をすることに、ということで、昨年は文字だけになってしまった粟津温泉の中心地の風景を散策してきました。 昨年の記事は・・・  2017.11.09 粟津温泉 おっしょべ公園      旧養老公園 祈りの小径      養老山 大王寺     粟津白山神社  粟津温泉の起源は、白山開山・平泉寺創建を行った泰澄大師が、翌年の白山登頂から丸岡・豊原寺への帰路。霊夢に現れた白山権現のお告げによって、住民を集めて掘削させ温泉を発見。弟子の雅亮法師に湯守となることを命じ、雅亮法師は還俗して名を(法師)善五郎と改め湯宿をつくります。これが粟津温泉並びに世界最古第三位の温泉宿・法師の起源になります。 粟津温泉街に向かう玄関口に立つ泰澄大師像 まずは粟津温泉中心地から離れた産業道路(国道8号線)の津波倉東ICから見える泰澄大師立像。 塔のような土台に立つ泰澄大師像は近くで見るとやっぱり高い@@ 粟津温泉の玄関シンボルと云えます。石組仕立ての土台もよくも建てたという灯台のようです。 泰澄大師は越前・麻生津に生まれたと云われ、生まれながらに白髪だったと云われます。 14歳で出家・法澄と名乗ります。役小角と共に愛宕山の悪霊退治・開山、神社建立で名を挙げ、大宝2年(702年)に文武天皇から弱冠20歳で鎮護国家法師に任じられ、北陸白山信仰の本拠として丸…

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椿原天満宮② 稲荷社 ~ 牛坂八幡神社

椿原天満宮は丘陵の断崖の斜面を利用した長い石段が表参道になりますが、天神坂に面した山裾を巻くようにもう一本の脇参道があります。ちょうど、石段の横から進むと小さな祠堂・小祠を見ながら進めます。最初は田井天神の名残かと思ったんですが、この小祠と云いながら前の置石には卍が刻まれています。神社の祠に卍ですから???この脇参道は稲荷社に続く道なんですが、この稲荷社にはちょっとした謂れがあって、仏教的・慰霊的な意味なのか。。残念ながら謂れについては、不明でまた機会があったら調べてみようと思っています。 卍は寺院の記号に用いられるように、仏教信仰、仏教の吉瑞を顕す紋で神社にはふさわしくないものです。武将の家紋としては鎌倉から南北朝の武蔵七党の中心核・横山党が使用し、その末裔に受け継がれたと云われます。有名武家では蜂須賀家の代表紋、津軽家・大給松平家(松平庶流)が使用しています。武蔵七党の所縁か横山姓の家に多く、加賀藩では加賀八家老の一家・横山家の紋所が「丸に左万字」を代表紋として使い続けています。 横山家 丸に左万字 ちなみに卍紋は戦国末期及び江戸期には隠れキリシタンが十字の替わりとして用いたと云われています。以前、高山右近の項(②③)で書いていますが、横山長知(ながちか)は右近との親交が厚く、嫡男・康玄(やすはる)は右近の娘・ルチアを正室としていました。横山文書では長知より先に亡くなり康玄の項は多くが謎の削除がされていますが、右近退去後に正室を離婚してキリシタン取り締まりの責任者となりな…

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椿原天満宮①

椿原天満宮 右の道が天神坂 この神社に関しては、以前に一度アップしています。永仁5年(1298年)に山崎(?)の地・富樫丹波邸(?)に天神社として開基され、観応年間(1350~1352年)に当地に遷座、田井天神と呼ばれていました。ただ前回も書きましたが時代的にも記述的にも疑問が多く、慶長以前は詳細不明の神社です。前田利家金沢入城後に椿原天満宮と改め現在地に社殿を建てています。 江戸時代、常駐の神官が置かれ祭祀的にはもちろん金沢城の防衛拠点としても重要視された金沢五社の筆頭格とされた神社です。また戦国期には一向宗の洲崎兵庫が砦を置いた際は当初の本拠・越中・福光・城端、その後の加賀・本泉寺の先端地であり、金沢御堂の時代には越中方向の最終防衛地となった重要地です。 金沢五社や一向宗時代について興味のある方はこちらをどうぞ⇒2013.08.06椿原天満宮(椿原山砦跡) 天神坂標柱 椿原神社の旧社名、田井天神の隣にあるのでこの名でよばれている。昔坂の上部は三つに分かれていた。 金沢は九十九坂の町とも呼ばれるほど坂道の多い町ですが、その坂道の紹介があると一番に挙げられるのがこの坂になります。椿原坂・天神坂とも呼ばれています。どちらもこの天神宮から由来しています。元々、金沢大学が金沢城から角間に移って以来、急速に開けたのが杜の里・若松・田上といった地域です。それまでもその手前の旭町・田井町・桜町・横山町・材木町などは江戸期には栄えた町でもありました。更に富山の福光に抜ける主要道として重要道でし…

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西山古墳群~高座八幡神社

西山古墳群 標柱 前にご紹介した北陸最大級の前方後円墳1号墳の秋常山古墳群と隣接しているのが西山古墳群になります。秋常山は発見時は西山古墳群の一部とされていました。 以前紹介したように能美平野の中に点在する丘陵地帯を利用して造られたのが能美古墳群ですが、その中で一番東方の丘陵に位置しています。前回紹介したようにこの西山古墳群も南面や西部が宅地や田畑地として掘削を受けています。更につい最近まで西山はこの辺りの秋常・高座・久常といった地区の共同墓地になっていました。 西山古墳群入口 久しぶりに訪れてみると共同墓地は平坦地に降りて新設されていて、西山墓地はその多くが撤去移動されていました。国史跡指定の関係と思われますが、墓石が撤去されたとはいえ、古墳の形跡は解り難く、西山古墳群の標柱が無ければ、古墳のあった地とは解らない状態。。今後の灌木や藪地の整備が課題になってくると思われます。 何カ所かは円墳の形跡も観られますが、この西山は古墳群が注目されていますが、その前の時代、弥生期から古墳期への移行期の周溝墓、土坑墓・木棺墓が発見されています。また、その位置が古いものが高度の高い東北部の位置、古墳期の物は麓の低地である西南部と見事に分離されていて、しかも同じ方向に並列しています。墳墓同士があまり重なる場所がないということです。とはいえ、その後の平成に至るまでこの西山の上は墓地の集積地だったわけです。 以前は地続きだった秋常山の大型古墳を含め、弥生期から古墳終末期そして現代ま…

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桑島化石壁(恐竜壁)

桑島の大栃のある百合谷橋を渡って進むと広々した広場の三叉路に出ますが、右折すると谷川に沿った大嵐山への登山道の入り口駐車場に行けます。途中には近年発見された立木の珪化木があり、大嵐山の登山道の途中には水芭蕉の群生群が見られます。5.6月にまた再訪したいなあ。。今回は先日の台風のせいか通行止めの表示があったのと時間的に断念。三叉路をまっすぐ進むことに、以前は深瀬の手取橋まで行けたんですが、道路が数カ所崩落していてトンネルを抜けたところで通行止めです。とはいえ、目的地はこのトンネルでしたから。。。 三叉路からしばらく行くと、前回画像を紹介した「手取川総合開発記念館」が右手の山上にそびえ立っています。遠くからでも目立つ建物ですが、間近で観ると本当に大きな建物です。 その記念館の前には寂しげで朽ち果てそうな旧家造りの家屋二軒(旧桑島資料館)に挟まれた広場に記念碑と迫力満点の恐竜の像が佇んでいます。 「ライン博士顕彰碑」(写真は撮ったんですが不鮮明な上に銘文が潰れたりで、予測字があります。) ライン博士(1853~1918)は、明治七年(1874)に我が国の工芸調査のため、二年間、プロシア国(現ドイツ国)から派遣された。 山岳信仰研究のため、明治七年七月白山登山をされ、帰路桑島化石壁付近で植物化石を採集された。化石は友人ガイラー博士によって、明治十年ジュラ紀(一億数千年前)のものと公表された。このことは、我が国の化石による地質時代確認の最初の報告であった。 したがって、桑島地区は日本…

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桑島の大栃

白山麓には前回紹介した日本最大の栃ノ木「太田の大栃」のような、栃ノ木の巨樹が幾つか点在していますが、そのほとんどが山間の険しい位置にあります。ただ、唯一の例外が今回の「桑島の大栃」になります。 案内板から・・・ 『桑島の大栃』 推定樹齢・約400年 幹周り・615㎝ 幹高・23m 所在地・石川県白山市桑島10号4番地13号 標高・465m  昭和50年の手取川ダム建設事業に伴う、桑島住宅地や道路の整備により、白峰地域では唯一身近に見られるようになった大栃です。 栃の実は、古くから先人を支え、特産品『とち餅』を育みました。これからもこの巨樹が、多くの人々に末永く見守られる事を願います。 桑島区 白峰観光協会 案内板にあるように、本来この木のある場所は、水芭蕉の群生地のある大嵐山(1204m)の中腹に当たります。 元は山間だったところに、昭和50年(1975年)居住地や道路の造成整備によって、身近な位置で観られる巨木になったわけです。 金沢方向からだと国道157号線で左手に手取川ダム湖を見ながら進むと、白峰村落の手前を左折した桑島大橋でダム湖を渡ったところ、ホテル八鵬を左手に曲がった先、百合谷橋のたもとに桑島の大栃が佇んでいます。 樹勢が強そうで、真っ直ぐで太い主幹が目前で枝分かれしており、葉も生い茂っています。横に停めた愛車フィット君と比べてもらうと大きさが解ると思います。白峰の名産品・とち餅や桑島地区のシンボル的存在です。 百合谷と言えば、この谷川の…

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太田の大栃 国内最大のトチノキ

前回に続いて七尾の寺院を書こうとしたのですが、どうも文章がまとまらず途中書きになったまま、、しばらく頭を柔らかくしてまとまってから書こうと思います。。 久しぶりに一里野に仕事で行ったのですが、予定よりも2週遅れたので、今年はイルミも観れずに終わってしまいました。蕎麦畑も終了した後。。。せっかく白山麓の奥まで来たんですから、ついでに白峰に寄り道してきました。白峰には何度も訪れていながら、白峰でも10数年から20数年ぶりの場所ばかりを再訪してきました。 白峰と勝山の県境は豪雪地帯で、今年の冬も国道沿いでも2メートル以上積もっていたそうです。そんな豪雪地帯の山間地には大木が点在しています。その中には樹種では国内最大の巨樹も存在します。「太田の大栃」。 ご近所ブロ友のgoさんがお気に入りの高山植物園の入り口を200m程、福井方向の谷峠に向かうと、堂埜森神社の社があります。この社が大栃へむかう山道への目印になります。 この堂埜森神社は神社庁HPによれば、古来ここに堂があって守をなしていたところから堂ノ森と称したという。明治に神社明細帳に登載されなかったが、昭和23年に宗教法人になった白峰村内の八坂神社が管理者になっているようです。神社としては新しい部類ですが、古くから祠堂が置かれていたようです。主祭神は素戔嗚(すさのお)ですが、前述の様に、この先には勝山に抜ける最大の難所・谷峠があることから、旅人の安全を見守る手向(たむけ)神の祠堂だったと思われます。 社殿前には文学碑がありま…

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長壽寺③ 八百屋お七の供養塔

長壽寺の見所も三作目、、、、境内には立派な供養塔がありますが、なんと八百屋お七の供養塔と伝わっています。 長壽寺の案内板・・・当山八百屋お七縁起 合掌 八百屋お七の父親は七尾出身で、加賀藩の足軽・山瀬三郎兵衛といい参勤交代の折に江戸に出る。元々、侍奉公を嫌っていた三郎兵衛は脱藩し、本郷駒込追分町に八百屋を開業、相当の財を成した。一六八二年二月二十八日、江戸市外駒込の大円寺から出た火事は、おりからの強風にあおられて南の市内に向かい、本郷・上田・神田日本橋を襲い、隅田川を越えて本所・深川まで延焼、夜になってようやく鎮火した。延焼家屋は大名屋敷七十五、旗本屋敷百六十六、寺社九十五、町屋五万二千余、焼死者三千五百人。世にいわれている八百屋お七の「お七火事」とは、この日起こった火事をさしている。 だがこの火事はお七の仕業ではない。実は、この大火では、お七一家も収容者だったのだ。家を失ったお七一家は菩提寺である円乗寺に仮住まい、ここでお七は寺小姓の吉三郎と運命的な出会いをする。店が再建され、連れ戻されたお七の思いはつのるばかり 「また火事があれば・・・」 そこでお七は翌年三月二日、新築まもない我が家に火を放つ。江戸市中を火の海に埋めたお七はつかまり、火あぶりの極刑にあった。この話は、やがて浄瑠璃や歌舞伎に脚色され、お七と吉三郎の恋物語は語り継がれてきた。 だが、娘を非業の死で失ったお七の母親の子を思う心はいかばかりか計りしれない。お七の母と称する者が娘の菩提を弔いたいと、供養塔を建…

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長壽寺② 裏千家と宮崎彦九郎義一(寒雉)

長壽寺には、他にも注目に値するものがあります。まずはこの鐘楼堂の梵鐘(釣り鐘)。 以前ご紹介したことが有りますが、加賀藩の鋳物師で宮崎彦九郎儀一(初代寒雉)の作になります。 以前に宮崎彦九郎儀一(寒雉)を書いた記事 ⇒ 2013.05.08 宝乗寺 宮崎彦九郎家は金沢で代々寒雉の名を受け継いで現在14代続く茶釜鋳物師で、大樋焼とともに金沢茶道界の一翼を担ってきた伝統工芸の名家と云えます。その宮崎寒雉・初代の梵鐘になります。 初代・宮崎寒雉こと宮崎彦九郎義一 祖先は七尾北湾の海辺の能登・中居村(現・鳳珠郡穴水町中居)で代々鋳物師を営んでいました。中居村は近くに原料産地もあり、古くから鋳物の産地として知られていたようです。現在は左官業の町になっているそうですが、七尾湾に沿って走る国道249号線を奥能登に向かうと入江に古代猟法のボラ待ち櫓が見られる中居ふれあいパークがありますが、その近くに能登中居鋳物館があり、往古の能登鋳物の歴史が解ります。 天正9年(1581年)前田利家が能登を領有した際に召し出されたのが中居村の宮崎彦九郎吉綱(義一の祖父?)。小丸山城の普請にも係わったと云われますが、主には武具・馬具・鳴り物(鉦鼓,銅鑼など)などの製造に係わっていたようです。天正11年前田利家が金沢に入城すると、木の新保(現金沢駅・駅周辺)に千坪の土地を授けられて武具・馬具の生産工場を任されていました。 江戸時代に入り状況が落ち着いてくると、武具・馬具の製造はある程度落ち着…

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長壽寺① 能登長谷川家菩提寺 長谷川等伯

天正9年(1581年)前田利家が織田信長から能登23万石の領有を許されて、能登に入部すると政務をとるために山城で不便な七尾城から平地で東西にある御祓川と北の七尾湾に囲まれた小丸山城を翌年に築城しています。交通要路・攻め口になる南には今は掘削されて線路になっていますが、大念寺山砦が置かれ、更にその先に加賀・奥能登からの侵攻に対する出城替わりに、低山で緊急時の防御陣地として29の寺院を集積します。現在、山の寺寺院群と呼ばれる地区です。元々、武生府中から呼び寄せた小丸山城内にあった宝円寺をこの地に移したのが始まりで、その後既存の七尾の寺院を集めたものです。ちなみに宝円寺は本拠地を金沢に移した前田利家と共に金沢の現在地に。。寺院は名を長齢寺と改めて、前田利家の父母の菩提寺として存続しています。 後の加賀藩も人心安定政策・防御陣地を目的に前進基地となる寺院集積を行っており、金沢の寺町・東山、富山の梅沢町、大聖寺の山の下寺院群など寺院の密集地帯が要所に配置されています。 寺院群は能登畠山氏の七尾城時代は七尾城周辺に点在していたものが多かったと云われます。現在は16か寺残っていますが、宗派の内訳は浄土宗3・曹洞宗4・日蓮宗6・法華宗1・本門法華宗1・真言宗1になります。金沢・大聖寺・富山の寺院群にも言えるのですが最大人口を誇る真宗寺院が含まれないのは、実質的な加賀前田家の前の実質支配者・旧敵対勢力であり、宗教政策上は平等な扱いですが、講を教義の基本にして地域に密着しており、防衛上には問題があり地域に点在…

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宮島神社 岩抱きのけやき

宮島峡の一の滝から少し下流に向かって公民館の手前を右折すると宮島神社があります。 宮島神社は子撫川(こなでがわ)を中心に山間に点在する宮島二十五村の惣社とされています。総社と惣社は現在は同義語扱いで、よくゴッチャになってしまいますが、基本的には前者は主に奈良時代以降の国府の側に建てられ、国司が祭祀を行うために国内の神を合祀した国社ともいえます。惣社は近在の地方・村・部落・集落の点在する神様を合祀したり、代表として奏者としての役割を果たした神社になります。 宮島神社が惣社のどれに当てはまるかは別にして、大岩に巻きつくように立つケヤキが注目の社です。 小矢部市指定天然記念物 岩抱きのけやき この神社は、宮島郷宮島谷二十五ヶ村の惣社と伝えられている。神社の社殿に向かって右手の巨岩は、周囲一七メートル高さ三メートルを測り、その上に幹まわり三・六メートル樹高三五メートルの大木が太い根で岩を抱きかかえるようにして生えている。「岩抱きのけやき」と呼ばれ、小矢部市指定天然記念物に指定されている。 境内には、自然石の露頭が多くあり、かつては神霊を招き祭祀を行った聖地で古代、神社が発生する以前の磐境(神霊祭祀の霊域)と考えられている。後に社殿がつくられるようになり、この磐境をそのままにして、後方に拝殿を建て、その奥に本殿を築いた。このように古い時代の磐境のすがたを今に残している埜は、県内でも数少ない。(昭和六十年九月には由緒を伝える石碑が建立されている。) 平成十年七月十五日 小矢部市教育…

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宮島峡 川と滝そしてビーナスたち

河合谷の木窪大滝から林道を抜けると、すぐに富山県に入れます。分かれ道を北に行けば、五位ダム経由で宝達山の西麓になりますし、西に向かえば子撫川(こなでがわ)ダムを経由して子撫川に沿って小矢部の町に出られます。子撫川ダムから下流は浸食された川底や川崖で大小の滝が多く観られる宮島峡として景勝地になっています。途中の二の滝付近に宮島温泉郷もあります。 富山県では里山の景勝地を独自に選定して「県定公園」として指定しています。現在は17公園が指定されています。この宮島峡も「稲葉山宮島峡県定公園」として、小矢部市からは倶利伽羅県定公園と共に選定されています。ちなみに稲葉山は子撫川の東方にある丘陵の主峰で、稲葉山丘陵(稲葉山牧野)には小矢部牛の牧場がひろがり、小矢部市街を一望できる景観と動物と触れ合る施設が山頂にある家族連れには打ってつけの行楽地になっています。 宮島峡には子撫川が織りなす流れと大小の滝が見所なのですが、世界のヴィーナス像が12体が要所に配されています。もちろんブロンズのレプリカやコピーですが。。大滝から林道で行くと、途中の久利須野外緑地広場に3体・林道の丘上に2体あるのですが、今回はパス。。前述の林道の三叉路に立つのが永遠の像と呼ばれるミロのヴィーナス。 ミロのヴィーナスは御存じのようにルーブル美術館所蔵の彫像ですが、林の中のブロンズの姿もなかなかですねえ^^10年前にお逢いした時はそうでもなかったのですが、長年の風雪で緑青が目立っていますが、逆になまめかしさを感じます。 …

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河合谷 大滝

お盆の時季となって、我が家も復活した嫁さんと僕の休日が合うということで、早めにお墓参りに行くことに。。 早くいくということは、他の家族より早いということで、墓掃除は今回は僕たちのお仕事に。。 お盆と言えば、新盆と旧盆がありますが、子供の頃不思議に思っていたのが、石川だと金沢市は新盆の7/15を中心にしていますが、その他は8/15を中心にした旧盆になっています。なんで金沢だけ7月なんだろうと思っていました。まあ、その後も気にはなっても何にも考えない僕は、前職ではお盆休みなど関係なく逆に忙しくお仕事をしていたので、気にもしていませんでした。ところが今の仕事になるとお盆は意外に暇になっているんで、ふと気になって調べたことがありました。 江戸期以前までは、ご存知のように太陰暦を採用していました。ただ、日本では純粋なイスラム世界で使用する月の運行のみで数える純粋なものではなくて、太陽の運行にも合わせた閏月を入れる正確には太陰太陽暦と呼ばれるものを飛鳥時代(554年)に導入して以来、中国の暦を和暦として使い続けていました。江戸初期にズレを修正する日本独自の貞享暦・宝暦暦・寛政暦・天保暦と改変を加えながら運用していたわけです。今でもたまに見ることがあると思いますが、伊勢神宮が発行している神宮暦の略本などは(子供の頃はなんのこっちゃとみるだけでしたが。。)、この天保歴に沿った作製ですが、修正を加えないので、真実とはあてにはならないのですが。。 旧暦(太陰太陽暦)の良い所は、お月さまを見ればだい…

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狹野(さの)神社・能美九谷陶祖(とうそ)神社

狭野神社 表参道・一の鳥居 九谷焼陶芸村から500mほど西に行った所に、産業九谷の草分けとなった佐野窯が開かれた佐野町(旧佐野村)があります。旧佐野村は辰口丘陵の姓南端に当たり、広大な加賀平野の東端からなだらかな丘陵帯に広がる村落でした。この地で崇敬されていたのが狭野(さの)神社になります。佐野の名の由来はこの神社の名からのようです。 狹野神社由緒 御祭神 素盞嗚尊命 すさのおのみこと 天照大神 あまてらすおうみかみ 豊受比咩命 とようけひめのみこと 仰、当社は往昔、佐野集落の発祥の地である。東部丘陵団地の東端、峠路の山中に、鎮守の神として創建されたもので、郷民の崇敬厚く、嘉祥三年(八五〇)に皇室から正六位上を賜 った。狹い谷間の野原の奥にあったから狹野の社と称えられ、これが佐野の地名の起こりと言う。やがて祖先が農耕に便利な八丁川沿岸と鍋谷川沿岸に移住した。延喜七年(九〇七)に式内社となって、全国でも著名な古社として知られたが、嘉元元年(一三〇三)に南禅寺領となって、その管轄の政所が置かれた。その後南北両佐野が合体し、現在地へ氏神が遷座された。 前田藩政のとき、利常公が格別に崇敬され正保元年(一六四四)の春にご参拝、翌年の春の祭儀に自ら祭主となられた。明治三十五年県社に昇格し、同年神饌幣帛供進神社に指定さ れ、明治四十年に末社神田神社を合祀し大正十三年拝殿を改築し、昭和五十年に本殿、幣殿、社務所を造営した。 境内は二千坪余(神苑神楽山を含む)神田山、お守り 山、雉の山の神…

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雑記 馬について

狭野神社の参道沿いに珍しい農耕馬と思われる神馬像を見たので、日本の馬に関する考察。多少どころか多分に私見が入りますのでご容赦を。。 神社に奉納されている神馬像をよく見ると思いますが、元々は神社宮に奉納していたのは本物の馬でした。ところが、近世になるとそう簡単に生きている馬を奉納もできなくなります。貰った神社にしても世話に困るし、近世以降は無神官の神社も多くなりましたから。。その替りに像を奉納するようになったと云われています。 現在、馬はどういったものと言われると、ほとんどの人が思い浮かべるのがサラブレッド。。競馬ブームの中で馬のイメージはスマートで大きい、サラブレッド(体高160前後)や近代(アングロ)アラブ種(140~160)がみんなの頭に刷り込まれています。ポニーは、海外では炭鉱現場で使うために馬を改良して小型化したものが始まりですが、今は体高147センチ以下の馬種の総称に使われています。現在、国内に残る在来種のほとんどが海外から観るとポニーというわけです。ついでにウマ科には白黒ゼブラのシマウマ、耳が立って尻尾の短い単独種のロバ・ノロバがいます。ところがこの体高の世界基準と競馬が歴史の上では、錯覚を起こす原因になっています。 この文以降にも馬の体高が多く出ると思います。馬の体高は、地上から首の付け根・たてがみの下の盛り上がった部分・鬣甲(きこう)までの高さを云います。現在までの世界記録はベルギーのベルジャン種のビッグジェイク号の210.2㎝、頭までなら3mを超す巨馬です。 …

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浅蔵五十吉美術館 陶壁ビッグモニュメント

能美市九谷焼資料館と道路を挟んだお隣にあるのが、浅蔵五十吉美術館です。 二代・浅蔵五十吉は大正2年(1913年)、能美郡寺井町(現・能美市寺井)生まれ、戦後、現代九谷焼の旗手・トップを走り続けた人物です。昭和61年(1986年)に寺井町名誉町民、平成4年(1992年)に九谷焼作家としては初の文化功労者になったことを記念して、翌年に浅蔵五十吉美術館(能美市立)が開館しています。合わせて、同年には小松市からも小松市名誉市民を受けています。 浅蔵五十吉美術館 斬新な立体造形の建物としても評価が高く、平成6年中部建築賞、翌年には建築業協会賞を受賞しています。 更に平成10年(1998年)10月に建設省(現・国土交通省)設立50周年記念の公共建築百選に選定されています。ちなみに石川関係では、石川県立歴史博物館・金沢市文化ホールがあります。当時の箱物行政批判の払拭を狙ったものですが、それだけに厳選された百選では大型建物が多い中、中小規模建築物としては稀少な存在です。ただ、入り口が登って奥まっているので入場するのを躊躇する人が多いようですが、池を配した直線と三角形を重視した建物を見るだけでも一見の価値があります。 浅蔵五十吉略歴(パンフから) 二代 浅蔵五十吉(1913_1998年) 大正2年、石川県能美郡寺井町(現能美市)生まれ。小学校卒業後、父親(初代・磯吉)から陶技一般を習得。昭和3年(1928年、15歳)初代・徳田八十吉氏に師事、21年(1946年、33歳)に北出塔次郎氏に師事…

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能美市九谷焼資料館

前々回に奥野八幡神社を書いていたら、やはり寺井の九谷焼陶芸村に行こうか、忘れないうちに、、イヤ行った方が良いかなと。。 昨年秋から長いリニューアルのために閉館していた能美市九谷焼資料館が3/21に開館したということだし。。やっと歩けるようになった嫁さんをリハビリがてら誘いまして、九谷焼の鑑賞に それにしても、佐野の泉台地の高台は遮蔽物がなくて、厳しい陽射しに、車から降りた途端に汗がドバ~~ 先々週まで松葉杖をついていた嫁さんですが、もうゆっくりなら歩けると、サッサと館内に逃げ込みます・・玄関にある像も太陽がまぶしそう 加賀の各地に九谷焼の資料館や博物館がありますが、後述する九谷焼作家や後進育成を目指す石川県立九谷焼技術研修所・支援工房九谷、資料館別館でロクロ・絵付体験の出来る九谷焼陶芸館、販売店群など九谷の陶芸村を構成する中心点として、能美市九谷焼資料館は九谷焼の収蔵品は古九谷から現代九谷まで最大規模を誇っています。 能美市九谷焼資料館 HP案内 能美市九谷焼資料館は九谷焼の歴史を振り返るとともに、過去の名作を鑑賞し、さらに現代九谷の新しい息吹を広く一般に公開するため1982(昭和57)年にオープンし、2018年(平成30)年にリニューアルオープンしました。館内では、「紺青の間」「朱赤の間」の江戸時代からの名品の常設展のほか、「紫の間」「緑の間」では随時特…

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秋常山古墳

今年は豪雪があって、花の開花や満開は遅れるだろうと、内心期待していましたが、、案に反してあっという間に咲いてあっという間に桜が散り、バタバタしているうちにアヤメは見逃すし、家庭内事情で紫陽花も観に行けず。。。車の窓から見る花ばかり。。ここまで、今年は花とは縁がないかと諦めていたんですが、6月に秋常山に紫陽花を植栽したという情報を聞いて見に行ったのに、アップしないまま1カ月。。。 たまたまニュースで秋常山古墳に紫陽花3000株を植栽したと聞きまして、夕方になってしまいましたが、秋常山の古墳も一年近くご無沙汰ということで、一人で行ってきました。嫁さんが昨年に続いて今年も負傷して歩けなくて、、、娘に行こうと云ったら拒否。。ここ2カ月ちょっと、家族では買い物以外どこも行ってないなあ><;まあ、嫁さんもギプスが外れて復活基調。。しばらくしたら、気分転換でどこかに旅行がしたいなあ。。 今更と云われそうですが、その時の画像を。。。 3000株というと、けっこうな数なんですが、秋常山古墳は名前の通り、古墳自体大きいうえに小山の上にあるので、紫陽花の範囲は広くは見えません。しかも時期が遅れて、しかも陽射しの当たる場所、咲いているのは約半分。。しかも時刻も夕方、紫陽花の花も陽射しで疲れた感じでした。来年はもっと早く来ないといけませんねえ^^;場所は2号墳に登る坂道になります。 秋常山古墳群といっても二基の古墳から構成されるのですが、実際にはもう一つ隣に稲葉山という山に大型古墳があっ…

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奥野八幡神社

能美市の中心地・寺井地区は古代は広大な平野の真ん中に忽然と存在した丘陵と平坦地でした。 古墳期にはこの丘陵地帯に多くの古墳が築かれており60基以上の存在が確認され能美古墳群として国史跡に認定されています。しかし、戦後の高度成長期に市街地化のために丘陵地が掘削されて消滅しており、実際には150.200以上の古墳が集積されていたと推測され、日本最大級の古墳群であり、一大勢力が存在したと思われます。 奥野八幡神社 一の鳥居 表参道 平安初期に加賀国が成立した際にも、能美郡に五郷(村)の臨時集合地となる寺井市(いち)が置かれたと云われています。平安期には加賀の中心地ということもあり荘園が点在して勢力争いも垣間見られますが、この寺井市が商業市場として緩衝地の役割を果たしていたようです。この辺りのことは奥野八幡神社の縁起にも書かれています。 奥野八幡神社由緒 御祭神 応神天皇 比売大伸 神功皇后 武甕槌命 比咩大神 天小屋根命 経津主命 少彦名命 高良玉垂命 千数百年の昔、能美丘陵に墳丘を築き祖宗を祀る豪族がいて、この地にも村があった。 九世紀、加賀立国の時、五郷二駅で能美郡が置かれ、郷が寄り合う寺井市が開かれた。 中世この地が畿内の岩清水八幡や南禅寺などの荘園になり各郷それぞれの争いを、商いで解決し、荘園ごとの均衡を保ったのも、この寺井市があったからといわれている。 十四世紀の初めから、臨時市が定期市に発達し、商い店が建ち人が住んで町に発展し、住む人それぞれが、…

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余談 荘園・刀伊(とい)の入寇

実は次回作・能美市寺井町の奥野八幡神社をアップするつもりで書いていたのですが、いつもの悪い癖で荘園の話を書いていたら、やはり大嫌いな部分は辛らつに長くなる傾向が出てしまい、まとまらない文を羅列してしまいました。。。削除するのももったいないので、、、、そのまま荘園と刀伊の入寇だけ抜粋です。日本史でも一番人気のない時代ですから、覚悟してください。。。 平安期以降は、加賀は多くの有力寺社や皇室領の荘園になっていたのですが、この為に地区(荘園)ごとで分散していたというのが実情です。 荘園というのは有力寺社や皇室領、貴族の領地になります。初期はそもそも、これらが自身で開発した農地を指していました。 歴史の授業では三世一身・墾田永代私有令は律令を崩した原因の法律と教えられたと思います。そもそも目的は新田や畑地という農地開発促進が大きな目的でした。実際にこの法に依って、農地自体は飛躍的に伸びたのも確かです。そして大小の土地所有者が増えて行きました。ところがこの法を悪用したのが10世紀末の摂関家や高級貴族を独占していた藤原氏でした。 それまでは律令の班田収授法によって、土地はすべて国有地で、決められた耕地面積で定められた租税を国衙に納め、中央政府に集められていました。集められた租税を政府が政府運営の国費として地方に再配分するというのが、律令制度の根幹だったのです。前述の三世一身・墾田永代私有令はあくまで土地所有権を土地開発者に認めるもので、本来は租税免除まで認めるものではなかったのです。これは現在…

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