永安寺② 

前回は開山堂と由来記で終わってしまったので、その続きです。今回は永安寺が真言宗寺院であることと、真言宗について取り留めなく。。。 開山堂入り口から本堂の風景 山岳修験道は国家神道に対抗するものとして、自然崇拝に八百万の神や古代神道・仏教が混在して独自の進化を遂げて来たともいえます。純粋に山岳修業を通して自己研鑽を目的にする者もいましたが、山の民や口減らしの対象としての側面も強く持っていました。インチキ祈祷や護符を売り歩く輩の温床にもなっていました。とはいえ、山岳修験者の数は、正式な申請修験者・はぐれ修験者合わせて江戸期には17万人以上いたとも云われています。当時の人口からすれば200~250人に一人の割合になります。その半数以上がいかがわしい行者や浮浪者ともみられていました。 明治5年(1872年)政府は廃仏毀釈の前段階として、天台宗・真言宗の一部を除く山岳修験道の禁止令を出しています。国家神道を是とする国としては、怪しげな自称修験行者の排除はもちろんですが、古代神道・仏教が混在して独自の進化を遂げた山岳修験道は危険な存在であり大きな障害でもありました。 更に段階的に一般への売薬・護符の販売禁止、一般への祈祷行為の禁止など締め付けを強くし、山岳修験者の収入源を断ち、廃仏毀釈によってとどめを刺したと云えます。石川県内では能登の石動山・天平寺の破却が典型的な事例です。 永安寺 本堂 古来から中央政府から虐げ続けられた存在、国家神道(中臣神道)に反抗し続けた歴史を持つ山岳修験道。…

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永安寺①

永安寺 本堂 山丘を巻くように流れる寺津用水と遊歩道。。その山丘の上にあるのが真言宗・鶴舞山・永安寺になります。 永安寺に関してはあまり予備知識がなくまったくの初訪問になります。 永安寺は山岳修験道を修めた初代・霊光が大正・昭和初期に開山した歴史的には新しい寺院ですが、境内の広さは金沢では屈指の広さを持っています。また、多少の昇り降りがありますが、真言宗寺院特有の構築物が多いのが特徴で散策に打ってつけ 永安寺 開山堂 開祖・霊光僧正を祀っています。中央に観世音菩薩立像、右に弘法大師座像、左が霊光僧正座像 開山堂に書かれていた説明板によれば… 開山堂  中央に観世音菩薩、向かって右に宗祖・弘法大師、左に当山の開祖・霊光僧正を安置してあります。霊光僧正は明治二十三年に元加賀百万石の城主・前田慶寧の外孫として出世される。 幼少より出家の遊びをされ、わずか七歳にて金沢夕日ヶ丘の傳燈寺にて七日間の行をされる。更に十五歳のとき、奈良県の生駒山にて百日間の捨身の行をされ、時の瓜生海軍大将の斡旋にて、高僧大阿闍梨・井上哲城僧正の元で修行。師の跡を継がれ、更に近畿・北陸三県の深山にて、数年間修行される。 師・哲城大僧正の遺言により、足利九代将軍・義尚公が建立した由緒ある永安寺が、維新後の廃仏毀釈で、廃寺寸前にあるのを惜しまれ、新たに造営、仏法興隆、国家安泰、衆生済度のために一生を尽くされる。 永安寺由来記から 当山開基 霊光上人は明治23年、石川県河北郡三谷村字月…

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寺津用水

寺津用水 永安寺第一駐車場 金沢は犀川・浅野川の二つの河川に囲まれた街になります。。この河川の水源を利用して網の目のように用水路が市街に張り巡らされています。その数は55用水と云われています。歴史を紐解けば、金沢の町は用水路の開削と共に新しい町が出来て来たと云えます。これらの用水路は道路沿いに流れが多く観られます。 長町の武家屋敷通りや片町・香林坊の裏道のせせらぎ通りに観られるように、道に沿うように用水路が流れ、生活用水・灌漑用水・防火用水はもちろん、各家や屋敷に曲水として取り入れて庭園の池水にしたり、加賀友禅を始めとした工芸品の貴重な源泉にもなっていたわけです。また、雪国の悩みの種である除雪の捨て場としても利用されていました。江戸時代から明治にかけて金沢の町は用水路が張り巡らされ、水と共に生きる町だったわけです。 ところが文明開化の波が押し寄せた明治以降、農地改革や電気事業の進歩で用水事業はますます必要性を増したのですが、自動車や電車の発達には水路は非常に邪魔な存在とされてしまいました。更に戦災や大災害がなかったために区画をいじるわけにはいかず、水路分を道路にするということしかできなかったのです。 このために暗渠といって、水路に蓋をしたり、上部を塞いだり潰して、道路として拡張する必要に迫られてしまいました。 寺津用水遊歩道 更に中心街となる金沢城のお堀。元々、用水路からの水を取り込んだ堀で、金沢城の城郭は囲まれた城でした。更に外側には石川門下の4車線道…

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帰り道 明神の森 ~ 柳ケ瀬トンネル

さざれ石公園からの帰り道は狭い林道の序盤戦と、明神山の登りはありますが、その多くは急激な下り坂の約15キロ。。 明神山は標高659m、さざれ石公園もそれなりの標高の地ですから登りはそう思ったほどでもありません。まあ、狭い林道と川があるのでそろそろ運転でしたが、下りは一気に頂上から関ケ原に駆け降りるスラローム。久しぶりに飛ばしたなあ^^V助手席に相方が居たら決して出せない走り方^^V 関ケ原まで明神山越えで関ケ原・垂井町の境界線上を走る総距離約15キロの山道走破。 上:関ケ原明神の森・第四駐車場付近から 濃尾平野と関ケ原東口 右:関ケ原明神の森・管理事務所前  濃尾平野 前述の岩手峠の手前を越えると明神山の最高点になるのですが、ここは非常に眺望が良くて展望台からは天気が良ければ琵琶湖も見えますし、垂井・大垣から広がる濃尾平野が一望できます。夜間には夜景のビュースポットだそうです。そして歴史ファンにとっておすすめが、関ケ原合戦の東軍本陣が上空から見るように観望出来るんですね。一度は登って欲しい場所の一つです。 関ケ原明神の森 ⇒ HP 明神の森 管理事務所前から 展望台に登ればもっとはっきり見えます。 手前の白っぽい細道が関ケ原東口・中山道で、真ん中の山が南宮山稜、右手前山裾に家康本軍が陣を布き、東山上に毛利秀元軍、左側面裏側に安国寺・長曾我部が陣取っていました。右奥の山稜が小早川の陣取った松尾山の東部山稜、木で隠されているところが松尾山になります。 ここから見るだ…

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さざれ石公園

君が代は 千代に八千代に さざれ石の いわおとなりて 苔のむすまで ♪ 御存じ 「君が代」の歌詞ですねえ。歴史の経過と共に、いろいろな論議を醸す歌なんですが、、、それはさておき国歌としては馴染み深いものがあります。あの独特なメロディーも僕は好きですねえ。。ただ、独唱となると非常に歌いにくい歌で、いきなり歌うと千代に八千代に↑↑で声が裏返っちゃう人が続出。。プロでも失敗は多々、それと、さざれ石は本来つなげて歌うのが本当なんですが、歌い難いので一度さざれと石を切る歌手も多いですねえ。 入学式や卒業式はもちろんですが、各種国際イベントのスポーツではいろいろな人が歌っていますが、僕はテレビで観ることが多いのですが、覚えているというか印象に残っているのは。。。ちょっと対照的ですが。。この二人 小柳ゆき 日米国歌 ポップス調 2000/11 小柳ゆき 2012/2 サッカーWC アジア予選 2012/2 野々村彩乃 選抜高校野球大会 2012/3 小柳ゆきさんは「あなたのキスを数えましょう~~」で、デビューして、「愛情」「be alive」といきなり連続ヒットしました。今はライブ中心ですが、僕は今でも好きで何枚かCDを持っています。 野々村彩乃さんはこの時高校生ですが、声楽コンクールでは名を知られていたようです。その後、プロのソプラノ歌手で活動しているそうです。2.3年前にTVで歌ってる姿を観ましたが、相変わらず耳を惹きつける歌声でした。 ついでに、…

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大野湊神社

金沢の東西を外環状のバイパス道路が近年、すっかり整備されました。まだ他にも計画道路が多いのですが、今の知事さんはホントに交通網の整備に力を入れますねえ。確かに便利になったけど、景観が変わりすぎてちょっと寂しいものもあります。 金沢の東側を走る通称・山側バイパス。能登方面に向かう北金沢の花園で中央を走る国道8号と分岐、小松の八幡町で合流します。西側を走る通称・海側バイパスは山側バイパスの途中の白山麓に向かう安養寺北交差点から県庁のある大通りまでつながっています。更に現在は浅野川の手前まで延伸しています。 金沢の中心街を通る国道8・157号線の交通緩和が進んで、進行やアクセスが楽になりました。更に能登里山街道や川北大橋の無料化も拍車をかけています。 この恩恵を大きく受けているのが、車を駆使して広範囲に営業・サービス活動に動く僕なんですね。日頃、景観がどうの、地名がどうの、名所旧跡が消えるなどと言っておきながら、大きな寄与を受けているわけです。 僕が住む旧松任地区はこの山側・海側・8・157号といった主要幹線道路の中心経由地、特に乾の交差点は前述の四路線の中継点で我が家からすぐの場所になるんです。おかげで目的地によって進行があっさり決まります。前は地図とにらめっこがよくありましたから。。 しかし交通網が広域化して大忙しなのが、道路公団や警察関係。。特に白山・金沢西部は大変だと思います。まあ、石川県警本部が県庁横、交通機動隊が野々市の二日市に移転しています。まあ、おかげで海側や野…

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金沢南総合運動公園 バラ園

金沢南総合運動公園 噴水 中央彫刻 金沢南総合運動公園は昭和22年(1947年)の第2回国民体育大会(国体)が開催された市営陸上競技場(大正14年(1925年)開設)、その後造られた総合プール(国体の水泳・飛び込みは松任市)、球技場を中心にして、昭和33年に開設された総合運動公園です。 金沢南総合運動公園 入り口 いうなれば、石川県・金沢市のスポーツ体育のメッカと云える場所です。 金沢南総合運動公園 中央芝生広場 ゲートボール場 幾度も改修工事が加えられていますが老朽化は否めず、近年は西部緑地公園・いしかわ総合スポーツセンター・城北市民運動公園の金沢プールと拠点の分散化が進んでいます。とはいえ、金沢市のスポーツ振興のシンボルには変わりなく、併設する芝生公園やバラ園によって認知度も高く憩いの場としての側面を維持しています。 金沢市内の小学校出身者なら9割が歌って出来る体操という「若い力」、この歌は国体・石川大会から使用されているんですが、金沢では毎年、この演目が運動公園で開催されています。おかげで金沢圏外の僕たちでもソラで歌えますが、ダンスというかこの体操は教えられたけどできませんねえ。「若い力」に興味のある人はこちらをどうぞ 前回のアップの記事 ⇒ H23.6.6 金沢南総合運動公園 バラ園 金沢南総合運動公園 バラ園 この公園の最奥にあるのがバラ園で、大規模なバラ園が少ない石川県ですが、その中では屈指のバラ園になっています。バラ園の面積は1600㎡。1…

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竹松海岸 ハマナス群生地

竹松海岸河口部 右が倉部川、左が屋越川 白山市(旧松任市)の北西端、手取川扇状地を構成する手取川の支流、倉部川と屋越川の河口にあたるのが竹松海岸です。白山市の松任美川線から金沢の専光寺健民海浜公園の中を走るバイパス「しおさい道路」の入り口にあたります。この竹松海岸は河口ということもあって、多くの釣り人が訪れています。 そして、大正・昭和初期には県内随一といわれたハマナスの群生地としても知られていました。 ハマナスと云えば、僕らの年代にはこの歌がすぐに思い浮かんできます。知床=北海道のイメージが強く、北海道の道花にも指定されていますから、ハマナスと云えば北海道。。しかし北海道はもちろん東北の海岸線、日本海側の砂浜や砂丘に昼顔と共に観られる花になります。 石川県内でも、かほく市(旧七塚町・七塚海岸)、内灘町(権現森)がよく知られていて、両市町の市町花に指定されています。他でも白山市(旧美川町・小舞子海岸)、能美市(旧根上町・大浜海岸)が群生地として知られています。僕の子供時代は家から距離はありましたが七塚海岸の白尾に行っていましたが、海と云えば海水浴メインでハマナスや浜昼顔が咲く時期には滅多に行かず、咲いている姿は数えるほどしか観ていませんでした。それでも可憐な花は記憶に残っています。 とはいえ、お肌がデリケートな僕は日焼けが大敵でして、、ウン 誰かそこで鼻で笑ったでしょ 顔は慣れ…

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大乗寺丘陵公園

ゴールデンウィークの真っ只中の貴重な平日 やっとこ、仕事のめどがつき始めた上天気のこの日 北金沢から小立野のお客さんを廻った帰り道、山側バイパスを通っての帰り道に立ち寄ったのが大乗寺丘陵公園。加賀藩前田家の墓所がある野田山の山稜を同じくする西端の丘陵地帯ですが、同じ丘陵に曹洞宗寺院・大乗寺があることからこの名称になっています。 東香山・大乗寺は、金沢では加賀藩主関係の宝円寺・天徳院に規模は譲るものの、それ以上の歴史・地位・格式を持つ曹洞宗寺院です。加賀の曹洞宗総持寺派の旧本拠地・永光寺、総持寺の源といえる寺院です。 永平寺でも最高位とされる四門首の一つにも数えられています。ちなみに四門首は福井県大野市・宝慶(ほうきょう)寺、熊本県熊本市・大慈寺、京都府宇治市・興聖(こうしょう)寺とこの大乗寺なります。更に総持寺を開基した瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)が二代目の住職になっており、近年では大乗寺山主だった板橋興宗(現・御誕生寺住職、ちなみにこの寺は近年、猫の寺として人気急上昇中の福井にある寺院です。)が、平成10年(1998年)総持寺貫主・曹洞宗管長になっており、永平寺・総持寺双方に重い関係を持った重要寺院です。 ちなみに管長は、二大本山(総持寺・永平寺)の貫主が2年交代で務めるもので、曹洞宗の実質的なトップになります。 大乗寺の開基は弘長3年(1263年)。安宅関の勧進帳における関守・富樫左衛門(泰家)の孫にあたる富樫家尚(いえひさ)が真言宗寺院として建立したのが始まりです。正…

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松南小学校 旧剣崎校舎跡

バタバタした春を過ごしてしまったせいか、いつもの嫌々病に罹っている僕です。。 花が咲く春の多くは車からの横目で見た景色ばかりでしたが、そうはいっても息抜きに立ち寄った場所が幾つかあったんで、そのご紹介を。。。今更、桜と云われそうですが振り返るつもりで見て頂ければ幸いです。 まずは、白山市内(旧松任市)の旧松南小学校・剣崎校舎跡の現・市営剣崎グラウンド 少子化による小学生の減少によって多くの小学校が統廃合されていますが、中には統合のついでに新校舎を建設して新しい学校に生まれ変わるところも出ています。また、校区内で新築移転する小学校も見受けられます。 石川県内の鉄骨・鉄筋の古い小学校校舎は昭和40~50年代に建てられたものがほとんどです。以前ご紹介した津幡(つばた)小学校(津幡城址)が昭和40年(1965年)にそれまでの木造校舎から鉄筋コンクリート校舎(4階建て)になったのを皮切りに、昭和40~50年代に鉄筋コンクリートの小学校校舎が立て続けに造られていきました。しかし、その後の耐震基準変更(昭和56年6月)、築後40~50年以上の老朽化によって建て替えや改築を迫られている状況にあります。 今回の松南(しょうなん)小学校も、昭和47年(1972年)に建てられた旧剣崎本校舎、同時期の体育館、昭和55・56年増築の校舎があったのですが、平成25年(2013年)1月、老朽化により新校舎を菅波町に建設して移転しています。剣崎校舎は田圃のマン中でしたが新しい菅波校舎も田圃のど真ん中とい…

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能登比咩神社

能登比咩神社  表参道入口 一の鳥居 雨の宮古墳群を見て狭い林道を抜け、眉丈山トンネルを抜けて能登部の旧町道を右折して1キロほど進むと能登比咩神社の鳥居があり、長い参道がみられます。鳥居側には駐車スペースがないので手前のスーパー横の路地を登ると神社の駐車場があります。 神社のある場所は能登部・下という古代から続く街道沿いの集落に当たり、伝統的な能登の住宅が観られる地域です。ちなみに上は能登比咩神社には兄宮とも弟宮とも云われる能登部神社の辺りをいいます。能登部神社は後でも書きますが能登国造(くにのみやつこ)の祖神を祭った神社で能登でも重要神社の一つになり、後年には同地で前田家から隠れた寿福院(千代保)が加賀藩3代藩主・前田利常を生んだ地とも云われています。江戸期には前田利常の産神として崇敬されています。利常自身も「兄宮(大入杵命、おおいりきのみこと)の神域を侵すべからず」という掟書を残しています。 上:能登部下 旧家住宅 中:能登部下 旧街道 下:能登部下 能登比咩神社 東部 旧鹿西(ろくせい)町の能登部上・下、徳丸地区は前述の様に古くからの集落であり、黒瓦の大屋根と切り妻の大きな三角壁のアズマダチ、土壁などの古民家の大型住宅が約50軒が軒を並べる地区になります。 石川県の方針もあって、能登の各地には景観保全のために、新築・改築物件に屋根や壁の色調制限がある地区があるのですが、ここもその一つになります。しかし、古くからの伝統的な家屋が多く残る地区としては突出した存在です。そ…

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雨の宮古墳群

すっかりブログが停止して、ご訪問もせず申し訳ありません。 毎年2月から4月にかけては仕事のかき入れ時で絶対にさぼれない時期に突入しています。 ところがご存知の如く2月初旬から中旬が大雪で交通マヒ状態で動けず、豪雪によって多くの家や車に被害が発生。。おかげでトラブル処理に忙殺、雪が消えた3月には家屋の破損が解る状態で、契約や更新、変更で大変な時期にさらなるトラブル処理、ブログを書き始めるとのめり込むので、ログインしないと決めて勝手な休止状態になってしまいました。この2月から引きずり込まれたトラブルはGWまでは引きずりそうです。。まだまだ、温かい眼で観てください。。おかげで、好きなスポットにもなかなか立ち寄れず、咲き始めた桜も満開の桜も横目で見るだけの生活。。(ため息) とはいえ、ストレスを解消するにはやはり好きな場所に佇むのが一番。山城や古墳など木や草に覆われる場所は冬枯れの3月初旬が地形や形が見えて、最高の時季なのです。合間にはちょこっと立ち寄りたい衝動に駆られてしまいます。たまにはおサボりタイムも欲しいですからねえ。。。 能登半島は日本海に突き出ており、様々な形態の海岸線や年中波静かな七尾湾、深海が陸に迫る好漁場の富山湾と海に恵まれた土地柄です。海に突き出た好位置のために古代から東北・九州の交易の中継港、大陸の朝鮮・渤海などとの交易や親善使節の港があったことが知られています。以前ご紹介した福浦湊(福良津)はその代表のような港です。 しかし、港としての好条件な土地ですが、海岸線を…

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斐太(ひだ)神社・雁田神社

昨年、上越に行った際に家族でドライブがてら鮫ヶ尾城に登ろうと思って妙高の方に行ったんですが、山裾を車で登っていくと公園の入り口にはパトカーが二台がトウセンボ><前日の大雨で崖崩れでもあったのかと引き返したんですが。。。家に帰ってネットを見るとお城のお祭りだったんですねえ。大失敗でした。。滅多にない好機だったのに。。歩いて登ってみるべきでした家族が一緒だとこれがあるんですね。。 みょうこう景虎物語~山城の陣~ 鮫ヶ尾城は上越でも信州との北国街道における国境警備の城で、春日山城直近の最前線基地に当たりました。 上杉謙信死後の家督争いに端を発した上杉景勝と上杉景虎が戦った御館の乱の決着地です。 画像:上越埋蔵文化財センター前 上杉謙信公像 上杉謙信は御存じのように戦国時代、軍神・越後の虎など軍事では戦国最強とも云われていましたが、その信仰から女犯をしない聖将としても知られるように実子はいませんでした。長尾守護代家の生まれとはいえ四男坊主、栃尾城という中越の一角から台頭して越後を統一、31歳で上杉姓を譲られ関東管領・北国探題の名のもとに勢力を広げていました。 国が広がるごとに人質となる子を受け入れていますが、養育と教育に熱心で気に入った人物は自身の養子や側近としたものが多く存在しました。 画像:上越埋蔵文化財センター 謙信公と春日山城展 ドラマ天地人使用甲冑 左・上杉景勝 右・直江兼続 名前の知られたところでは、七尾の畠山義春(上条政繁、七尾城主・畠山義読の次男)、村上国…

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護国山 宝円寺

お客さんの自宅に伺うことになって、待ち合わせ時間に3.40分あったので時間調整に久しぶりに立ち寄ったのが宝円寺でした。あまり時間がないので、境内だけを少し歩いてきました。 10年ほど前に一度簡単にUPしていますが、合わせて観て頂けましたら幸いです。⇒ H20.11.28 宝円寺 今回は時間があまりなかったので境内をちょこっと歩くだけで、あまり前回と変わり映えしませんがご容赦ください。。新緑や紅葉の時期に本堂内からの濡れ縁から大正時代に建てられた対青軒と庭園の眺めが美しい寺院です。 曹洞宗・宝円寺の開基は天正3年(1575年)以降、前田利家が府中三人衆の一人として初めて領地を持った際に寺院を建立して父母の供養塔を置いたのが始まりとされています。一説には古くから宝円寺という寺院は古くからあったものを住職・大透圭徐(だいとうけいじょ)との出会いから自身の父母の菩提寺にしたとも云われています。その後、天正9年(1571年)利家が能登を領国とすると、七尾に圭徐を招いて同名の宝円寺を建立しています。更に天正11年(1583年)金沢入城の際にやはり圭徐を招いて千歳台(現在の兼六園蓮池の東端に同名の寺院を建立して加賀前田家の菩提寺としていました。ちなみに表門となる山門は石川門の正対にありました。寺院の南隣に前回の記事で触れた白山信仰の波着寺が置かれ祈祷所となっていました。前田利家の葬儀もこの千歳台にあった頃の宝円寺で行われ菩提寺となっています。 宝円寺が現在地に移ったのは元和9年(1620…

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加賀騒動

更新頻度が少なく、ご訪問も多くなく、皆さんにはご迷惑をおかけしています。 機会を観て、整理がてらUPしようと思ったものの、途中書きになってそのままのものも。。今回の加賀騒動にしても歴史の陰に埋もれた人が多いので、なかなか機会や画像がなくて、。。ただ相変わらず年末年始にだらだら書いたので、まとまりなく長くなってしまいました。知ってる人は知っている、名前や事件の名は知っていても、中身まではの人も多いと思います。たまたま書き始めた時は映画「武士の献立」が公開されて、作中の舟木伝内の墓が特定された時期でもありました。映画に関しては加賀騒動と加賀藩の料理頭の話を絡めたものですが、作者が思うほど加賀騒動の内容を理解している人が多くなく、知らずに見ると何のことやらになっただろうな。。上戸彩が久しぶりの映画主演で頑張っていましたが、ちょっと展開が早すぎて空回りという感じでした。。加賀騒動のあらましを知るには良作品と思います。 2013.12.11 椿原天満宮(椿原山砦跡) から 脇参道の稲荷社について・・・(本文から抜粋) 椿原天満宮の社域には石段とは別にもう一本の脇参道があります。 こちらは稲荷神社があるのですが、この稲荷神社は月読社と稲荷社を合祀したものです。実はこちらは加賀騒動で大槻伝蔵と密通の末、自分の息子を殿様にしようと図ったとされる6代藩主・吉徳の側室・真如院(稲荷社)と息子・勢ノ佐(利和・月読社)を祀ったものだそうです。そういえば、この辺りは加賀騒動で犯人とされた真如院の墓があ…

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石川県庁 夜景

巷はクリスマスのイルミネーションイベントや個人宅のイルミが瞬いている今日この頃。。 掃除さえまともに進んでいない我が家には関係ないなんて開き直ってはいますが、やはり綺麗なものは綺麗。 イルミも観たいなあ。。とは思うけれど、ここ何日かは強風と雨。。出かけるのもなあと面倒くさいなあと仕事以外はそそくさと部屋にこもる日々が続いています。ついでに画像整理もしてます。。 また、年末の追い込みのめどがついたら、能登までイルミを観に行こうと思っています。まあ、秋に一里野のイルミも観れてるから、いつもより意欲が減ってる気がする。。 言い訳になってしまいましたが、言い訳ついでのお詫びに、イルミとは違いますが晩秋の夜景を。。つなぎとして 県庁18階の展望台からの夜景です。仕事の関係でちょこちょこ県庁に行く機会があって、たまに一番上まで行くのですが、、県庁の周りには高い建物がないので四方が見渡せて夜景を見るなら県内一の場所だと思います。 四季それぞれの風景が観られますが、僕の一番好きなのが秋の薄暮がお気に入りです。特に宵闇(本来は10月の中秋の名月の頃を云うそうです。)が迫る寸前が一番お気に入りです。まあ、なかなか日や時間に限られて観られないのですが、秋の10月中旬過ぎには一度は登っています。 前に撮ったこのくらいが一番好きです。 ⇒ H26.10.23 石川県庁展望台 今回はあたりが暗くなって見逃してしまいましたが、この時の夜景では初めてのものも観られました。いつもの説明調はここま…

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白山七社④ 白山別宮(しらやまべっくう)神社

前回から、すっかり間が空いてしまいましたが、白山七社で最後に登場するのが白山別宮(べっくう)神社です。別宮の読み方は諸説あってはっきりしませんが「べっくう、べつぐう」と読む資料が多いようですが、地名では「べつく」になります。 画像は春先と夏が混在します。申し訳ありません。 小松に加賀国府があった時代、加賀国の中心地は小松でした。加賀国府の推定地は小松市東部の国府町近辺と云われていますが、現在も不明のままです。加賀国府は前のブログでも書いたように、安元事件以降は自然消滅的に消滅して、その後の源平の争乱、寺井・林氏、野々市の富樫氏と中心地が北上して、国府の地も荒涼とした荒れ地や耕作地になったこともあります。 加賀国府が健在だった頃、小松市街や加賀国府から白山参拝の道は、辰口の虚空蔵山などの山間の道を通って、宮竹の平地に出て岩本宮を経由して岩本の渡しから渡し船に乗って本宮、加賀禅定道を進む道。 もう一本が現在の国道360号線をまっすぐ進んで、仏御前の原町を越えて中ノ峠・三坂峠越えで白山麓の鳥越から吉野で加賀禅定道の途中から入るルートでした。 小松から中ノ峠・三坂峠を越えて白山麓の鳥越に入ったところで待つのが白山七社で中宮三社の一つの別宮でした。前回の佐羅宮が加賀禅定道から白山の登山道の関門とするなら、三坂峠越えの関門に当たるのが別宮でした。 前回も紹介しましたが、白山記の記述には…本地は十一面・阿弥陀・正観音の三所権現なり。 十一面は垂迹なり。 御姿本宮の…

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粟津白山神社

大王寺の本堂を左手に進むと、祈りの小径の入り口になる粟津白山神社の長い石段が現れます。 粟津温泉街を見下ろす山上にあり、一の鳥居から粟津温泉の町の広がりが観られます。大王寺が拝殿とすれば、白山神社の位置は神殿、奥の院といった位置になります。そのためか加賀の国守や、加賀藩から小松に隠居領として入部した前田利常が参拝した記録が残されています。 一の鳥居を潜ったすぐ脇に、綺麗な由来碑がありましたので転記を。。綺麗だったので新しいものだと思ったんですが昭和60年(1985年)のものでした。後ろには同時期に寄進された珠玉を抱えた獅子像。さすが小松・加賀の神社ですねえ。。現代九谷の代表的なモチーフです。珠玉は加賀手毬になることが多いのですが、有力氏子や九谷焼の工房のある加賀・小松の神社ではよく見かけます。けして嫌いなモチーフではないですが、僕にはお金持ちの床の間に置かれた置物が連想されてしまいます。う~~む、貧乏人のひがみ眼ですかね。。 白山神社由来碑 湯の町を眺望するみどり深き山上に鎮座まします白山神社は、奈良時代より粟津保の総社であり、保内の人々によって厚く崇敬されてきた。 粟津保はもと粟津上保、粟津下保に分かれていたが、南北朝以降は合して粟津郷となった。 当社はむかし白山比咩神社と共に伊弉諾命(いざなぎのみこと)・伊弉〇命(いざなみのみこと)・菊理比咩命(くくりひめのみこと)の三柱を祭ると称せられ、また粟津白山宮と号し、養老二年(718年)僧泰澄の温泉発見の古事に因み…

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養老山 大王寺

祈りの小径からの終点が粟津白山神社と大王寺になります。 さてどちらから書こうかと迷いつつ、どちらも由来や縁起を読めば、泰澄上人の開湯から始まりますし、元は一体の寺院だったと思われます。まあ、祠が先か寺院が先かという余地はありますが、地形は山裾に張り付くように敷地が重なっていますから、共存していたと思われます。 西国三十三カ所 第一番 如意輪観世音菩薩 大王寺・白山神社の中間点 泰澄上人坐像の前にあります  祈りの小径の始点で考えれば、、やはり大王寺からになると思うのでそちらから。。大王寺はのとやの脇を通って80段の石段を登ったところにあります。 大王寺の縁起を撮影して、後で転写・参考にと思ったんですが、見事なピンボケで判読不能状態。。まずは大王寺のHPからご住職のご案内を転写でお許しを。。 養老山 大王寺 HP 当寺は約1300年前の養老二年(718年)に泰澄大師(泰澄神融禅師)によって開かれた「高野山真言宗」の寺院です。 泰澄大師は、聖域として禁則の地であった霊峰白山を白山神(白山妙理大権現)に導かれて開山された高僧です。 白山の山頂で修行中の泰澄大師の元に再び白山神が十一面観世音菩薩のお姿で現れ、「この白山のふもとから山川を越えて五、六里行ったところに粟津という村があり、そこには薬師如来の慈悲による霊験あらたかな温泉がある。しかしながら、まだ、だれ一人として地中深くに隠れたその霊泉のことを知らぬ。お前は、ご苦労ではあるが山を下りて粟…

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旧養老公園 祈りの小径

おっしょべ公園から山の方に登ると長い散策路になります。別名・祈りの小径。 前ブログでも書きましたが、本来はのとやの側道から登った所にある粟津の守護寺・大王寺からが順路になりますが、今回はおっしょべ公園から逆に進むことにしました。ただ、ちょっと後悔したのは、最初の三叉路までの登り坂が結構きついんですよね。日ごろの運動不足がこんなところに出てしまいます。 祈りの小径には西国三十三観音が道伝いに配されています。落ち葉の中の石仏は少し寒そうですが、なかなか良い雰囲気で静かな山道を石仏を眺めながら進むことができます。案内板には総延長630メートルになっていますが、側道とかもありますから実質的には倍以上はあると思います。起伏があるので運動靴が良いですねえ。   画像はおちょぼ滝 手前が29番・馬頭観世音菩薩坐像 奥は不動明王像 おっしょべ公園から最初の登りでクランクの曲がり角の広場にあるのが、おちょぼ滝 。残念ながら、水は流れていませんでしたが、流れた後がありますから雪解けの春先頃には滝の流れも観られるかも。。 広場には日露戦役の慰霊碑が。。山陰に建っています。日露戦役では金沢の第九師団は乃木希典の第三軍の主力で旅順攻略、奉天会戦で多くの犠牲者が出ています。石川・福井には日露戦役の慰霊碑が多く各地にあります。 急勾配の登りに、やっぱり順路通りにするべきだったと後悔しながらも三叉路に、右に登る道が泰澄上人像や岳山への登山道のあるところ、ますます厳しい登り坂になります。ヒイコラ言い…

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