龍言寺跡 長尾政景墓所

長尾政景は、上杉景勝の実父です。 元々、越後の守護代家の長尾氏は、春日山、上田、栃尾などに分かれていました。守護代は春日山の長尾能定・為義・晴景・景虎と続いていましたが、政景の上田長尾家は外戚として、重要な位置を占めていました。 晴景・景虎(謙信)の姉妹の仙桃院を正室にしていたことでも、重要な位置にいたようです。謙信の引退を引き止めたり、川中島の際には春日山城の城代を務めたりしています。 38歳の若さで亡くなっていますが、野尻池(鐘淵公園)の舟遊びの際に溺死したと言われています。謙信の軍師として有名な宇佐美定満に依る謀殺という説が有力です。地位と権力の進捗を恐れたともいわれています。 ちなみに宇佐美定満も同じ場所で同時に溺死しており、宇佐美家はこの後断絶しています。 龍言寺は景勝が、政景の菩提寺として建立したものですが、米沢に移封の際、一緒に移されています。 その寺跡の奥の山裾にあるのが政景の墓所です。 案内に沿って登ると墓石がありますが、これは地元の愛好会が建てた物。 その裏側にある石碑が、政景の碑と言われています。刻まれた文字に名があるそうです。本通りからだいぶ奥に入った位置にありますが、静かな森の悠久に触れるのも良いかもしれません。 入口にある上田長尾家当主の歴代墓や直江兼続の墓は観光用に後で作られたご愛嬌ですが^^; 古い歴史を知るには良いかも^^; 旅行日 2009.12.6

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雲洞庵

天地人ですっかり有名になってしまった    「こんなとこ来とうはなかった」雲洞庵 現在は、すっかり観光地と化してしまいましたが、元々は藤原氏の尼寺として開祖されたものです。藤原房前(鎌足の孫、不比等の子)が庵を開いた母親の菩提を弔うための尼寺でした。養老元年701年創建。 その後、関東管領・上杉憲実が禅寺として再興、曹洞宗の寺です。 曹洞宗の寺特有の山門・赤門を有し、杉木立の中に質実剛健な建物がたたずんでいます。禅道場・本堂も趣ぶかいものがあります。 景勝と兼続が幼少時ここで学んだといわれています。 ちなみに、NHKで饅頭をうまそうに食べている住職が、当時の住職・通天存達。景勝のお父さん政景の兄、つまり伯父さんに当たります。 宝物殿には、上杉謙信・武田信玄の書簡、憲実の茶釜、景勝の天目茶碗など多くの展示があります。中には、楠木正成の遺言状とか怪獣の頭骨などという眉唾物もありますが、、、、 本物ならば、国宝級のものがたくさん展示されています。 でも、保存展示がちとずさんで、う~むとなってしまいます。 もう少し、大事に保存しないと、と変な心配をしてしまいました。 雲洞庵   http://www.untouan.com/ デジカメが壊れて画像が消滅、携帯で撮った物が一部あったので。。。哀 旅行日 2009.12.6 六日町温泉 旬彩の庄 ホテル坂戸城楽天トラベル 2009年NHK大河ドラマ直江兼続公戦国武将生誕の地の坂戸山麓の和風…

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阿尾城址

阿尾城は文禄年間(1570年頃)、菊池入道によって築城されました。 菊池家は南朝方として活躍した九州の菊池党の末裔と言われています。 阿尾城は氷見市阿尾地区の海に突き出た岩山の上に築かれていました。 富山湾に面し、七尾への街道の分岐点のため、交通の要所、能登・越中の騒乱の中心になった場所です。 上杉謙信の七尾城攻めの前線基地になったり、前田VS佐々の戦の激戦地にもなっています。最初、佐々の配下になっていましたが、その後前田に寝返っています。その際、花の慶二で有名な前田慶次が城代として入城しています。慶次はこの城にいる間に末森城の合戦・阿尾の合戦で中心的な働きで勝利を治めています。慶次の城として訪れる若い女性も多いようですね。 海に突き出た高い岩山なので眺望は素晴らしいです。 本丸跡の先端からは、富山湾の海岸線、能登半島の東海岸、そして富山湾越しに立山連峰を眺めることが出来ます。近くの雨晴海岸からの眺望が有名ですが、ここからの眺望も負けないものがあります。 城の入口には白峰社(崇徳神社)が建っていますが、その奥を登っていくのが城になります。細い道で両側が崖になっていますから、まさに天然の要害です。ただし水の補給や貯蔵は難しそうなので、長期の篭城は難しかったと思われます。事実、阿尾の合戦も城方は外に出て野戦に望んでいます。海上の監視や灯台の役割のほうが強かったと思います。 現在も岩山の先端になる本丸には、簡易の灯台が設置されています。 旅行日 2009.11.22 …

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尾山神社

金沢市街を走る国道157号沿いの香林坊交差点の北側にあるのが、尾山神社です。 なんといっても、和洋折衷のステンドガラスの神門が目立つ神社です。 夜通ると点灯されていて幻想的な雰囲気を見せてくれます。 この神門は創建当時は灯台としても利用されていました。 創建は明治6年。廃藩置県により加賀藩がなくなった際、旧加賀藩士の有志により建立されました。神門はその翌々年の創建です。 加賀藩の消滅を惜しんで、初代藩主の前田利家とお松の方を祀っています。金沢の最大のイベント「百万石祭り」の際には前田利家の御霊がここから発します。 尾山神社の敷地は元々は加賀藩主の隠居所として建てられていた「金谷御殿」があった場所です。その名残は拝殿横の「金谷神社」や「神仙苑」にわずかに残っています。 「神仙苑」は金谷御殿の庭園です。小堀遠州の作と言われています。 この「金谷御殿」のあった出丸は道路を挟んだ「玉泉院丸」と「鼠橋」と呼ばれる橋で繋がっていました。尾山神社の裏側は現在道路になって丸の内駐車場などがありますが、当時はお堀でした。つまり、僕らは堀の中を車で通っていると言うことですね。 尾山神社の拝殿の横に「金渓閣」と呼ばれる結婚式場があるのですが、この建物は地下通路で拝殿と繋がっています。 ここで結婚式を挙げるときは、拝殿内で結婚式を挙げることになります。 大安の日に行くと拝殿の外廊下から式を見られるかもしれませんよ^^ 僕の妹もここで結婚式を行いました。まだ雪のある冬の時季でしたが、…

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長町武家屋敷群

金沢の繁華街の片町・香林坊の西側の大野用水沿いにあるのが長町武家屋敷群です。この辺りは江戸期には下級・中級武士の屋敷が集中していた場所です。明治期に入り、士族は没落して屋敷土地を切り売りしたりして没落していきましたが、屋敷群の風情がこの地区には残っています。 大野用水路に沿ったこの道路には板葺や瓦葺の屋根を持つ塗り壁や土壁の塀が続いています。道路はアスファルトですが、ちょっと違った世界にタイムスリップした雰囲気があります。またこの塀には冬になると雪よけのためコモが架けられ、また違った雰囲気を感じられます。 長町のこの通りには、長町交差点側に前田土佐守資料館や老舗記念館なども新設・移築されています。 お奨めとしては、 前田家八家老の一つ、「前田土佐守家資料館」 前田利家の次男、前田利政を祖にした家系で、多くの資料が保存されています。特に室町期の甲冑や書見は貴重なものばかりです。母親(まつ)が心配のあまり送った手紙などもあります。 前田利政は長男の利長に比べ勇猛な性格で徳川嫌いで知られた人物です。利政は利家死後、能登22万石を継ぎましたが、関が原戦では東軍についた利長と共に西軍の大聖寺城を陥落しましたが、東軍参入を嫌い仮病で再途上せず、所領没収を受け(所領は利長に与えられた。)京都で余生を過ごしました。 大坂の陣では両軍から勧誘を受けましたが参加せず、大坂方に参加しなかったことから徳川家康から10万石復帰を打診されましたが断っています。理由が「大野治長の指揮下に入りたくな…

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柴田神社

福井駅前から5.6分歩くと「北の庄通り」という商店街があります。 繊維の町、福井を代表するファッション街です。けっこう個性的な店が多いんで見て歩くだけでも面白い通りです。その通りを歩いていくと途中に商店の間に鳥居があります。 それが「柴田神社」です。この地が戦国時代に織田信長の武将の鬼柴田で有名な「柴田勝家」の居城の「北の庄城」の本丸があったとされる場所です。柴田勝家は羽柴秀吉により滅びましたが、その終焉の地がここだとされています。江戸時代までは小さな祠がたっていましたが、明治になって旧藩主・松平春嶽によって柴田神社が作られました。 福井市は戦災や震災で、町自体が大きく変わってしまったため、北の庄や福井城の全貌がまだまだ未解明です。現在も発掘調査が進められています。この神社のそばにも発掘の現場や資料館がありますから、覗いてみるのもいいものですよ。 柴田勝家の奥さんは、有名な「お市の方」です。彼女も勝家と共になくなりました。お市の方の連れ子の三姉妹を祀る「三姉妹神社」も同じ境内に立てられています。三姉妹は茶々・お初・お江ですが、太閤秀吉の側室「淀君」京極高次の室「初・常高院」徳川2代将軍秀忠の室「お江の方」といえば有名な方々ですね。戦国時代に翻弄された女性達です。 福井駅前の繁華街の中に、狭間のようにぽっかりとある静かな空間のような場所です。 旅行日 2008.2.15

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野田山 加賀藩主墓所

金沢城から南南東方向の標高175mの野田山の山肌に、金沢市最大の墓地群が存在します。墓地の広さは43万㎡、東京ドーム敷地面積の10倍あります。墓の数も数万を数えるそうです。室生犀星・鈴木大拙・大久保利通暗殺事件の首謀者6名・日露戦争のロシア人墓地など有名人や時代を象徴した人たちの墓があります。その墓地群の一番高い位置にあるのが加賀藩主前田家の墓所です。 歴代当主17代の墓はもちろん現当主18代以降の墓も準備されていますが、関係の墓を含め76基が7.6haの敷地に建てられています。元々は初代・前田利家の兄利久を野田山墓地の一番高い位置に葬ったのが野田山墓地の始まりだといわれています。 元々、尾張の荒子城が居城だった前田家において本来の当主は利久でした。それを信長の命令により利家を当主として強制されたものです。利家は利久が好きだったようで、各地を放浪した利久を七尾・加賀に迎え入れて手厚く保護しています。利久も利家が国を出ているときは、城代として執務していますから、けして無能ではなかったと思われます。利久の死後、利家は野田山に葬りましたが、野田山墓地の一番高所に利久を葬り、自分の墓はその下に位置させています。 この前田利久の息子(養子)で長男が「花の慶次」で有名な前田慶次郎利益です。 前田家の墓は神道方式で、土を盛り上げた土饅頭の形の円墳ですが、仲良く並んでいる利家と松(芳春院)は階段型の方墳になっています。入口には鳥居を建てて神になるという神道式になっています。 加賀前田家の絶頂期は…

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前田利長 墓所

瑞龍寺の総門前から800メートルちょっと続く遊歩道が整備されています。「八丁道」といって瑞龍寺から前田利長の墓所を繋ぐ参道です。 参道沿いには松並木と利長像・オブジェそして114基の灯篭が立っています。 利長の墓所は高岡の芳野中学の横になります。 森の中の参道を通っていくと、利長の墓所に突き当たります。 前田家の墓所は、神道方式で古墳のような造りなのですが、ここには曹洞宗の影響が多分にあります。水郷に囲まれた静かな場所に墓は立っています。 墓の入口には10m超の灯篭、大きさにはびっくり、小さいものでも2.5m以上あるんですよ。 この利長の墓所と金沢の野田山墓所は、合わせて国指定の史跡として今年認定されます。 旅行日 2009.1.4

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春日山城

北信越で人気投票をすれば、トップに上がってくる人気者が上杉謙信です。義の武将とも呼ばれていました。 その上杉謙信の居城が春日山城です。 標高189メートルの山城です。急峻な山肌の山上にありました。 江戸時代に廃城となり建物は在りません。 山頂まではひたすら登りが続きます。登ってみましたが、日頃運動不足の僕にはつらかつたぁ。。。。頂上に着いたら、息が切れてゼイゼイでした。 でも、山頂からの眺望は美しいですよ。しかも、四方を見下ろすように。。。体力に自信のある人は挑戦してみてください。辛かった登りの見返りに余りある眺めが待っています。 来春の大河ドラマは、「天地人」の直江兼続ですが、前半戦はこのあたりが舞台になります。上越市のあちこちにポスターや幟が立っていました。 旅行日 2008.12.3

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