野田山③ 前田利久 前田利家夫妻 篠原弥助長重

加賀藩主墓所の初めの埋葬は、家祖・前田利家の長兄・利久からと云われています。天正11年(1583年)に能登に入った前田利久は天正15年(1587年)8月に亡くなり、利久死去の報を聞いて驚き色を成した弟で家祖・利家が自ら「いづみ野迄野おくり」、を行い当時はまだ名前のなかった泉野の山頂に葬っています。慶長4年(1599年)閏3月に前田利家が亡くなると、遺言により野田山の利久墓所の下段に葬らせています。この二人の埋葬と墓所の造営が野田山の藩主墓所及び野田山墓地の始まりになります。この後には3代利常の意向によって7名の墓所を同高所の一角に葬ったのが初期前田家墓所になります。 加賀藩の系譜(過去帳)によれば、草創期の前田一族の野田山被葬者(利久・利家は利家指示、蕭は利長、利長遥拝墓以降が利常指示)を羅列すると名前 読み   院号  続柄   没年年月     西暦    享年 利久 としひさ 真寂院 利家長兄 天正15年 8月 1587年  ?  (生年不詳)利家 としいえ 高徳院 初代家祖 慶長 4年閏3月 1599年 62歳?(生年不詳)蕭  しゅく  瑞雲院 利家次女 慶長 8年11月 1603年 41歳            中川光重正室利長 としなが 瑞龍院 利家嫡男 慶長19年 5月 1614年 50歳  2代拝墓保智 ほち   清妙院 利家九女 慶長19年 8月 1614年 20歳            松平信吉婚約者・篠原貞秀正室幸  こう   春桂院 利家長女 元和 2年 4月 1616…

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野田山② 村井長頼・奥村永福 利家の両輪

野田山加賀藩主墓所から金沢市街 中央の大きなベージュの建物は金沢大学付属病院、その左端裏が菩提寺の宝円寺、右端手前が天徳院になります。その後ろの山稜は卯辰山稜、山稜の左端手前が金沢城になります。前田利家の墓所は金沢城本丸から南東の方角(辰巳の方角)で、鬼門(北東)に次ぐ不吉な方角と重視していた方角です。鬼門には利家の霊を祀った卯辰八幡宮(現宇多須神社)。重要方向に家祖・前田利家を祀っていたわけです。また、裏鬼門(南西)には小松天守台を3代・利常が築いていました。手前の大きなグラウンドは陸上自衛隊金沢駐屯地。今年の2月にはじっこだけの画像に、長々と説明を加えた加賀藩主墓所。今回は初期の主要墓所群を訪れてきました。今回は久しぶりに駐車場まで来ました。墓所までは狭い道を通らねばなりませんが、駐車場は広々としています。いつも平日に来ると寂しいくらいに誰もおらず静かな場所です。駐車場は前田利家の眠る墓所からはちょうど真下の下段に当たり、利家の目線と同じく金沢の城下町が一望に出来る位置になります。2020.01.18撮影 藩主墓所表参道石段 起点江戸時代は前回紹介した表参道入口からひたすら登り続け、最後に長く急な石段を登ることになります。右の画像は表参道の石段となる前田家墓所の玄関口になります。藩祖・前田利家の正室・松(芳春院)は慶長19年(1614年)に長い人質生活から解放され金沢に戻っていますが、晩年には足腰の衰えでこの石段を登ることが出来ず、麓の墓守寺に利家の遥拝墓を建て墓参としていました。その長い石段…

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医王権現社

国見ヒュッテから少し南に向かうと小さなお社があります。医王権現社。        医王権現堂標柱 養老3年(719年)泰澄(法澄)が開山した医王仙ですが、その名を高めたのは養老6年の元明天皇の大病快癒に貢献した泰澄の薬剤と祈祷でした。この業績によって元明天皇から泰澄は神融禅師の称号、薬剤の産地となった医王仙の山名も医王山と授けられています。 薬剤の元となった薬草ですがその効用から薬師如来薬草と呼ばれ薬師如来(大医王仏)を祀ることになったとされます。医王山中でも白兀山(しろはげやま)周辺が薬草が多く山頂に奥宮を置いたと思われます。加賀では医王山と云えば白兀山を指すのはこのことからではないかと云われています。泰澄が開いた加賀・能登を代表する白山・石動山と並んで医王山は加賀三権現として山岳修験道の一大霊場となり長く栄えたと云われます。 加賀側では白兀山を奥宮としてキゴ山・戸室山または二俣を登山口として、登山口周辺に寺院群が創建されたようですが、越中側では白兀山と奥医王山を頂点に国見から祖谷の斜面、前医王山を胎蔵界の中心にした香城寺にかけての斜面に天台系の四八寺三千坊が立ち並び栄えたと云われています。大池平に四八寺を取り纏めた大寺院・惣海寺が建てられたとも云われますが、今のところ所在地も詳細も真偽不明中世以降の神仏混交、明治の神仏分離によって、祭神や本尊仏がややこしく感じると思います。神仏混交時代、神道と仏教の神仏を同神として、神道側では仏の姿で神が降臨する、仏教では仏が神の姿でという一種の融合説で…

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本多の森 本多家上屋敷跡

 石川県立美術館前回ご紹介した県立美術館の地は江戸期には、八家家老で最大所領(5万石)を誇った本多家の上屋敷があった地になります。石川県立美術館最西部 左の建物は文化財修復センター町名となっている出羽町の由来ですが、金沢城・河北門石垣・外総構濠を整備した篠原出羽守一孝の屋敷があったことに由来しています。 篠原一孝は、前田利家の遺言にも「出羽は子供の時から召し仕え、心はよく解っている。片口なる(口が堅い)律儀者だから城を預けても心配はいらない。その上、末森の合戦では若年ながらよく働いてくれたので、弟・良之(佐脇良之)の娘を養女として嫁がせ、姪婿とした。関東陣では八王子でよく働いた。しかし、姪が早死にしたので青山佐渡(守)吉次を聟にしたら良いと女どもも言っているから後で取り計らったらよかろう。」と、家臣団でも第一番に名を上げられています。利長時代には横山長知・奥村栄明(永福長子)と共に執政となっていました。また、ライバルとも云われ、関係がイマイチと云われた高山右近の金沢退去時には、「もし幕府に糾明されたら、自分が勝手にやったんだから責任を取って腹を切る」と、右近への感謝と共にこまごまとした計らいを見せ、金沢随一の武士・武家の鏡と尊敬を集めています。元和2年(1616年)死去、享年65歳。その後、相続した次男・孫が早世したために篠原出羽家は断絶しています。芳春院の実家筋となる篠原本家は次弟・長次が継承しています。 前田利家の遺言や篠原一孝・佐脇良之などの略歴はこちらをどうぞ ⇒ 高山右近記念公園① …

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津田玄蕃屋敷~陸軍第九師団長官舎

金沢は戦災や大きな災害にあっていないせいか、古い路地や建物や庭園が結構残されています。そんな中には観光名所の中にありながら、歴史的に興味的にも面白いのに、あまり人が訪れないものも結構あります。大体がパンフや観光案内には載っていないんですね。載っていても小さな扱いだったり。。というわけで、今回は兼六園の随身口近くにある二つの建物を。。まずは百万石通りから金澤神社に向かう随身口。左手に見える古風な建物。。現在は兼六園管理事務所となっています。実はこの建物は江戸期の加賀藩重臣だった津田玄蕃屋敷だったものです。江戸期の重臣屋敷で玄関付きで残っている数少ない建物です。 前田利家が初めて領地を得た府中三人衆時代(前田利家・佐々成政・不破光治三人合わせて10万石)から急速な領地の拡大によって、利家・利長時代はスカウトや与力武将の参集によって急速に家臣団は数を増やしていきます。加賀前田家が30~40年程の短期間で3万石から40倍の120万石と領土拡大に成功したのは、利家・利長の才覚はもちろんですが、この家臣団の活躍が大でした。活躍=加増となり、利家・利長時代には1万石を超える家臣が20数家存在していました。当時は城・所領持ちである上に戦国気風を受け継ぐ独立心の強い家臣団で、加賀藩は加賀藩前田家を頂点の象徴に小大名連合国家でもあったのです。 江戸期に入って利常・光高・綱紀時代になると、国内戦闘がなくなり、藩内政治・文化振興や対幕府政策などの行政面が優先されます。そこで安定しない地方は十村や代官に任せ、所領を廃し…

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高山右近の碑③

慶長19年(1614年)にマニラに退去させられた高山右近でしたが、乗船した船にはすし詰めの乗員数で劣悪な環境状態。途中、高齢の三人の宣教師が死亡したと云われています。定員オーバーの為、通常の倍以上の日数を掛け、マニラに辿り着いたというのが実情でした。しかし、先駆けの伝達で「日本の殉教者的武将」の名は知られており、マニラ総督府の祝砲と大歓声と共に、大歓迎を受け、総督からはスペイン人しか許されないイントロラムス内に邸宅と十分な援助を与えられたそうです。 しかし、この過酷な船旅に消耗した身体は癒えることはなく、熱病に侵され到着40日後、帰らぬ人となっています。マニラでの高山右近の葬儀は10日に渡り盛大に行われたと云われています。旧暦慶長20年(1615年)1月6日(新暦2月3日)享年63歳。福者記念日は逝去日2月3日。 高山右近に同行した一族や仲間には妻のジュリア夫人、娘で横山康玄に嫁いでいたルチア、長子・長房の子が5人と云われています。高山右近の家族構成については色々な説や伝承があり一致は見ないのですが、マニラに向かった一族は右近と7人の家族と云われています。 長子・長房(ジョアン)については死亡説があって慶長13年(1608年)夫婦共々亡くなった(病没)というものがあります。そうなると、利長が同年に書いた遺言状の不和を嘆いた「高山長房・篠原長次の不和」は右近本人になってしまいますが、この点は大きな疑問が残ってしまいます。この頃の金沢での右近の公的な事蹟は高岡城築城くらいで、伝わるの…

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②高山右近 前田利長時代

天正16年(1588年)加賀に来た高山右近でしたが、前田利家時代にはそのほとんどが大阪での前田利家の相談役、外征と金沢城の修復・町割りの整備にと大阪・金沢間往復に忙殺されたと云えます。畿内の先進的な築城術、利休七哲としての文化の素養による金沢文化の創設など、多岐に渡ったことが窺えます。 しかし、この間に忠節を尽くした右近の実績と信義は、利家の信頼と藩内でも重きをなしていったようです。 H21.11.01撮影 高岡城址 前田利長像 恩人ともいえる前田利家が亡くなったのは慶長4年(1599年)。跡を継いだ前田利長はやはり利休門下として高山右近とは元々が交際が深く、利長は重要な相談役として右近を重用することになります。 利長時代の執政は前ブログでも来ましたが、篠原一孝・横山長知・奥村栄明の三家老でした。この三人の中で横山長知(ながちか)が特に腹心的最側近となっていました。この横山長知と高山右近は加賀藩内で特に友好的な関係であったとされています。しかし、陪臣出身の横山家と客分の高山家(右近は客分ですが、長子・長房は利長家臣になっていたようです。)は、前田家旧臣からは嫉妬の眼で観られ、一部家臣団との確執があったようです。 いずこにもあることですが、創業者の家臣団と二代目・家臣団にはどうしても軋轢が発生します。前ブログで前田利長の失策としましたが、利家の遺言「三年は大阪・洛中に留まれ」を半年で帰国した事情には、徳川家康の謀略もありましたが、この人事の収拾も影響したようです。痛恨事はまとめ…

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高山右近記念公園①

今年(H29)2月7日 大阪城ホールで戦国武将だった高山右近(洗礼名ジュスト、ユスト)の列福式が行われ、高山右近を福者とするカトリック教会・ローマ教皇庁の宣言がなされました。古くから、高山右近の所縁の地(金沢・高槻・明石など)から日本キリスト教会に聖者・福者の申請が行われており、もっと大きなニュースとして報道されると思っていましたが、意外に小さい見出しで逆に驚いたものです。やはり、キリスト教は名前は知られても、まだまだ日本での地位は小さいものなのか、聖人じゃないとダメなのかと勘繰ってしまいました。 高山右近列福式ニュース ⇒ バチカン放送局 カトリック教会では各教区から推薦された候補者が「神のしもべ」とされて、教皇庁列聖省による列福の審査対象者になります。神のしもべの中から英雄視、福音的な生涯と公認された者が「尊者」と呼ばれます。 更に、尊者の徳ある行為、あるいは殉教によりその生涯が聖性に特徴づけられたものであったことを列聖省が証明した者が列福式を経て「福者」になるわけです。「福者」はその上のランクになる「聖人」の候補者になるんです。今回の高山右近の「福者」の列福は「聖人」への道が開かれたことを意味します。一部関係者の間では一気の列聖を期待していた向きがありました。 ちなみに、近年、「聖人」となった有名人は、「神の愛の宣教者会」を設立して貧困者の救済と後継者育成に尽くし聖女と呼ばれたマザー・テレサ(1997年死去、2003年列福、2016年列聖)。歴代2位の教皇在位と宗教の枠を…

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滝寺不動 吉祥寺跡

上越のヒーロー・上杉謙信は、自身を毘沙門天の転生・化身として深く信仰していたことで知られています。主城・春日山城の山頂に護摩堂や毘沙門堂を建てて、平素・出陣前にも籠っていたと云われています。 日本では毘沙門天は、天部の御法神・四天王神の一神、北部を守護する多聞天として知られています。つまり、四天王の一神として呼ぶときは多聞天、独尊とした時には毘沙門天と呼ばれています。夜叉・羅刹を率いるところから夜叉王・羅刹王と荒ぶる神として呼ばれるときもあります。 また、神仏混交では恵比寿の本地仏にされますが、七福神では別々になっていますね。日本では甲冑姿で現わされるので勝負事や守護神の要素が強調されていますが、元々の発祥とされるインドではクベーラ、ヴァイシュラヴァナ(神の息子の意)と呼ばれ北の守護神ですが、武装はなく財宝の神とされています。中国を経由して日本に伝わるまでに財宝神としての恵比寿が分離して北面の守護神・多聞天・毘沙門天が強調されたと思われます。 上杉謙信が深く信仰し春日山城に建てて籠ったとされる毘沙門堂、堂内に安置して拝んだとされる毘沙門天像は泥足毘沙門天と呼ばれていました。謙信の死後は遺骸を収めた甕と共に安置され、上杉家が米沢に移った後も江戸期を通じて謙信の遺骸の甕と善光寺如来像と共に城内の謙信霊柩(御堂)に収められていました。明治維新後、米沢城の破却で現在の上杉家廟所に廟所を移された際に上杉謙信の位階を上げて神式に変えたために、泥足毘沙門天像は上杉家菩提寺の法音寺に安置されてい…

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山口玄蕃宗永 首塚跡

「全昌寺」が菩提寺となっている旧大聖寺城城主・山口宗永の首塚が移設されているとなっていたので、改めて宗永の首塚の在った地にやって来ました。 宗永の首塚があったのは、大聖寺城の東北東に6,700m程行った旧大聖寺川に架かる福田橋の対岸になります。 大聖寺の町には大聖寺川・熊坂川が市街を流れていました。市内を蛇行して流れるために、江戸期には氾濫が何度も繰り返されていました。上流に昭和39年(1964年)我谷ダムが造られ本流も市街を巻くように外周の直線化が図られて、洪水対策がなされています。 現在、福田橋が架かり、江沼神社の側を流れる本来の本流は「旧大聖寺川」と呼ばれる大聖寺川の支流となっており、現在の本流は2.300mほど北を流れています。 福田橋は小松から大聖寺に入る貴重な橋で、古くから戦乱の地となって何度も落とされていたと伝わります。 江戸期にも小松・橋立と大聖寺を結ぶ街道の橋として貴重な存在になっていたようです。大聖寺市内でも有力商家が多かった新町と武家屋敷の耳聞山を結ぶ道の架け橋として近年まで栄えていました。 大聖寺一番の豪商で、古九谷の吉田窯の開業・販売、橋立漁港の運送に係り、全昌寺の五百羅漢の世話方になった吉田屋も新町に居を構えていました。 加賀藩資料「聖藩文庫-山口文庫」によれば、山口宗永、修弘親子は大聖寺城の攻防戦で善戦しますが、多勢に無勢で最後は追い詰められ、城内戦の混乱の中、山口修弘は前田軍先方の山﨑長徳の家臣・木崎長左衛門を呼び出し名を名乗った後、一太刀…

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桃雲寺(とううんじ) 前田利家の墓守寺

金沢市の野田山は加賀藩主・前田家墓所を頂点にして、総面積43万㎡以上(東京ドーム敷地面積の10倍以上)・総墳墓数1万~2万と国内でも最大級の墓地となっています。 野田山墓地の始まりは、天正15年(1587年)前田利家の兄・利久を埋葬したのが始まりと云われていますが、やはり前田利家を埋葬したのが始まりと云って良いと思われます。その後、江戸期を通じて家臣団、武家、戦没者、一般民衆と裾野を広げ、現在の一大集合墓地となっています。現在も無縁墓の整理整備、新墓地の整備でさらに巨大化して行っています。 前田利家を始めとする前田家墓所の墓守であり、江戸期を通じて野田山墓地全体のの管理を行っていたのが、この桃雲寺(とううんじ)です。巨大な墓域の為、野田村の住民の多くが墓守となり現在も存在しますが、その一括管理を行ったのが桃雲寺でした。 慶長4年(1599年)3月に前田利家は京都で亡くなっていますが、跡を継いだ利長は金沢の宝円寺(現金沢市宝町)で葬儀を行い菩提寺としています。また利家を野田山の現在地に埋葬しています。 翌年の一周忌に併せて野田山の麓に寺を創建して、利家の墓守としての菩提寺を創建します。それが桃雲寺であり、創建時は「野田宝円寺」と呼ばれていたようです。 後に前田利家の戒名から名をとって「高徳山 桃雲寺」と改めています。その時期は定かではありませんが、三代藩主・利常が就任して、江戸屋敷に居た利家の正室・芳春院(於松)と利常の母・寿福院(千代、千代保)が交代して、芳春院が金沢に戻り野…

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二曲城(ふとげじょう)

加賀一向一揆の最後の牙城として有名なのが「鳥越城」ですが、この鳥越城と連携して最後まで抵抗した城が「二曲城(ふとげじょう)」です。 鳥越城の規模が大きく有名すぎて支城扱いということもあり、更に発掘調査の開始が平成16年と近年になってからということもあり、影に隠れたように意外に知られていませんが、一向一揆の城としては最後まで抵抗した城として同等の評価があっても良いように思われる城です。 鳥越城の発掘物などを展示している「鳥越一向一揆歴史館」「道の駅・一向一揆の里」がある場所は、間に大日川が流れ、別宮から三坂峠まで南北を山岳に囲まれた盆地帯ですが、白山麓の一向宗徒の本拠地になっていました。 この地には鳥越・二曲城主で白山麓門徒(山内衆)の指揮官の鈴木出羽守の屋敷もあったそうです。 鈴木出羽守の屋敷があったとされる場所は、二曲城の登り口の左手に鳥越一向一揆の慰霊碑の横に建つ平吉庵がある場所だそうです。 現在は出合町となっていますが、応時は一向一揆館や二曲城の麓の上出合は二曲(ふとげ)とも呼ばれていました。 ちなみに「二曲」の由来は、美貌と優雅さで知られた鈴木出羽守の娘が立ち上がった際、長い髪が背を伝って下に降り、更に二曲り(ふたまがり)も溜まったということから来ているそうです。これは江戸期の十村役の書上げ帳に書かれているそうです。 鈴木出羽守に関しては資料が少なく詳細は多くありませんが、二曲が本貫とも本願寺が依頼して紀伊雑賀衆門徒から…

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田中郷菅原神社

携帯電話を買い替えたのは良いのですが、機種変更のデータ移行はいつもとは違って、画像データは移せなかったので徐々に整理中(連絡先の通常連絡先も解らなくなって、古いののデータを観ながら直してます。やっぱりガラケーにすべきだったと少し後悔中。。以前のデータが解りづらい) そのついでにUPしてないものをこの機会にUPしようなどと考えています。時期は一気に古くなったりしますがご容赦ください。 外回りの仕事ついでにその近辺をウロウロしてみると、意外な発見があったりします。 今回の田中郷菅原神社(たなかごうすがわらじんじゃ)もそんな神社の一つです。この神社は実をいうと、我が家から車で5分程度の場所なんですが、長年近くに住んでおきながら全く知らなかったとは不覚の一言でした。 手取川扇状地の上にある白山・野々市には多くの用水路がありますが、この神社の横にも郷用水と呼ばれる用水路が流れています。おかげで、用水路を回り込み狭い住宅路を入り込まねばなりません。散歩や散策路には最適ですが車にはとてもつらい場所です。でも、用水路には桜が植えられ並木になっていますから、やっぱり散策路としては素晴らしい景観です。この神社の横には大きな広場(菅原公園)があって、子供たちの遊び場にもなっています。 社域に入ると真新しい社歴板があります。それによると田中郷菅原神社の創建は天正12年(1584年)となっています。田中村の有力者・藤右衛門が菅原大神(菅原道真・天神様)を勧請して天満宮としたものです。 寛永15年(1…

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梅洞山 岩松院

小布施町の東部にある岩松院は曹洞宗の寺院です。 文明4年(1472年)に苅田城主・荻野常倫によって創建されたと云われています。 苅田城は岩松院の脇を登った所に小城・大城と呼ばれる2つの城に連郭式の石垣を用いた堀切など堅固な造りの城だそうです。今回は家族連れで雨でぬかるんでいたので、城は断念しましたがこの辺りでは珍しい造りだそうです。この地は川中島4郡の一つに当たり激戦地の一つで、苅田氏の後も高梨・武田・上杉・森(織田家)と領主が変わっており、現在の城址はだれが改修したかははっきりしないそうです。 岩松院にも似た石垣が多く使われており、領主の館跡、苅田城の詰所跡と説があり、それを利用して寺院を整備したようです。岩松院を整備したのは戦国武将・福島正則で、福島正則の菩提寺となっています。 本来の福島家の菩提寺は京都の妙心寺塔頭海福院ですが、この当時の大名は自分の領地に菩提寺を置くのが慣例になっているためのようです。 福島正則は豊臣家において加藤清正と並んで豪将として有名です。 賤ヶ岳の戦いでは七本槍の中でも武功一番として七人の中で最高の5000石を恩賞として受けています。 福島正則は豊臣秀吉の母方の縁者に当たるようで、豊臣家では一門衆の扱いを受けていたようです。 その他多くの戦いに活躍して尾張清洲24万石の大名に抜擢されています。これは豊臣方における東海方面の抑えの役目でしたが、関が原では東軍の先鋒となり、岐阜城奪取・関が原先陣と活躍しています。その戦功により安芸広島49万石…

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称念寺② 明智光秀伝承

前回紹介した称念寺には、もう一人の武将の伝承が残っています。それが明智光秀夫妻の伝承です。 明智光秀はご存じのように「本能寺の変」で、織田信長を急襲した武将です。その後、山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れ、三日天下と主殺しの汚名を着たまま消えて行った人物です。 新田義貞もそうなのですが、敗軍の将はその後に勝者によって事績や記録が消されてしまうため、生い立ちや変の動機など謎の部分が多く残ってしまいます。しかし、明智光秀の所領だった丹波や大津・坂本はもちろん各地に残る事績・伝承では悪い評判があまりありません。逆に誠実な人柄の表れる物ばかりです。 特に自分の家族、家臣団や家来には細やかな対処を行っており、実際に信長に対する反乱「本能寺の変」においても、家臣団から一人の裏切りを出していないことは特筆されます。  (※明智光秀に関しては多くの説や異論がありますが、ここでは省略します。  ただ、一言いっておくと、個人的には好きな武将の一人ということです(ちなみに信長も好きなんですよね。)。  知れば知るほど、織田信長とは対極をなす人物像が浮かび上がってきます。この二人が結びつくこと自体奇  跡に近いものがあるし、あの信長が正反対の性情の光秀を軍師的存在として身近に置くと云うのも奇跡的でし た。  信長の覇業があれだけ先進できたのは、信長の急進的な発想と光秀の伝統に精通した合理性、臨機応変な  機敏性が合致したと云えます。) この称念寺の伝承は、明智軍記から伝わるものです。明智軍記に関…

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浅井畷古戦場

加賀における最後の合戦が行われたのが小松城東方の浅井畷と呼ばれる一帯でした。 畷の名の通り、当時は小松の地は手取川による湿地帯が多く、そこをほそい隘路が通っていたそうです。また、その湿地を利用して桑の実畑が広がっていたそうです。 現在はその名残は観られませんが、住宅地の一角に九つの墓標が立つ園地があるのですが、ここが浅井畷合戦の最激戦地になった場所と云われています。 戦ったのは前田利長軍(25000)VS丹羽長重軍(3000) これは前田軍の侵攻時のもので、実際は戦闘開始時は1万余VS1000と思われます。 時は関が原合戦(慶長5年 1600年)直前 この時点ではご存知のように能登・加賀の前田家は東軍に服属した形でした。当然、そのままならば、大国の前田家が東軍になるのですから、加賀江沼・越前の小中名も東軍に与したはずだったのですが、石田光成との友諠によって大谷義継が西軍についたことで、北陸の様相は一変します。そもそも敦賀の大谷義継をはじめ加賀江沼・越前の各領主は豊臣秀吉による政策で、前田・上杉の抑えとして配されており、その元締めが大谷義継だったのです。 同じことは毛利・黒田の抑えの宇喜多秀家や、島津の抑えの小西行長・加藤清正、徳川の抑えとなる東海も云えるのですが、こちらは肝心の元締めとなる福島正則が徳川方の先鋒になったのですから、やんぬるかな秀吉の構想は一番大事な部分が破たんしたわけです。 大谷義継の西軍参戦は、前田利長にとっては脅威になったわけで、京・近江に向かう…

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六日町 長尾政景墓所 ~ 坂戸城 BASARAイベント

前回の日記を書いてすぐ、車に飛び乗ってだったのですが もちろん、新潟の山道も走るので、タイヤはスタッドレスに替えてしまいました。しかし、雪には一切あわずタイヤを減らしただけでしたね。去年(H20)はこの日から積もったんですけど 上越から国道8号線を右折して、253号線の松代経由という初めての道を通るということで、時間に余裕を持って走って行ったんですが 予想通り、早く着きすぎていました ということで、車の中で3時間ほど 久しぶりに車で寝ると節々が痛いですねぇそれに、10分ごとに眼が覚めちゃうし 車を停めていたのは、六日町IC横のジャスコの駐車場。外が明るくなって外に出ると、東に坂戸山が大きく観えます。 夜だと景色は解りにくいけれど、明るくなると違う土地に来たんだなぁ。と実感しますねぇ。 車の外で、のんびりと煙草をふかしていたら、出発以来コンビニに寄ったとき以外寝ていた二人も起きてきました。それにしても、我が家の二人はどこでも熟睡する特技を持っていて、羨ましいかぎり さて、なぜにこんなに急な六日町行きになっ…

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道の駅・高岡万葉の里 ~ 阿尾城

日曜日、午前中に仕事が入ってしまったので、お昼過ぎに家に帰ると、遅起きの一人が部屋にポケーっとしておりました。 まったく、若い娘が休みとはいえ、何をしているのやら。。。 嫁さんは、この日もお仕事。。。ここん所、休日が合わない夫婦になっています。 そんな娘とまたまたお出かけドライブに。。。まっ、半分無理やりだけど、 タダ、出かけるのは遅いし(なんだかんだと3時近く)、天気もイマイチでしたけど。。。 さて、国道8号線をひた走り、高岡に入った所で娘が一言    「お父さん、わたしお腹すいたぁ」    「午前中、ずっと寝てたから、朝昼食べてないんだよね。」 というリクエストにお応えしまして「道の駅 高岡万葉の里」に なぜ高岡が万葉の里かというと、万葉詩人の一人「大伴家持」が6年間程の期間、越中守として赴任していたためです。 さて、ここでお食事タイム 食べたのは富山・高岡では御馴染みのブラック系のラーメン。店の名前は「元祖 高岡ラーメン」 出来て3年ほどの道の駅の店なのに、なぜ元祖なのかは不明。 色は濃いけれど、醤油系でしつこくない味ですね。思ったよりも丁寧な味で美味しかった。汁もちゃんと飲める味でしたから。 ついでに車の中で食べるために、コロッケも。。…

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松風閣庭園

金沢城と兼六園の間を通るお堀通りを南下して広坂の交差点から先は「本多通り」と呼ばれています。左右に広がる本多町・下本多町・出羽町があり、21世紀美術館・県立美術館・歌劇座・北陸放送・社教センターなど金沢の文教地区になっています。この3町は名前が示す通り、加賀藩の一番家老・本多家の所領・屋敷地があった場所です。本多家は所領5万石、本多政重の最盛期には7万石で下手な大名より大きな石高を誇っていました。 加賀・本多家の創業者は「本多政重」。戦国末期の武将で波乱万丈の過去を持っています。父親は徳川家康の軍師・謀将と呼ばれた本多正信でその次男です。もちろん、最初は父と共に徳川家に仕えていたのですが、徳川秀忠の乳母・大姥局の息子・岡部荘八を惨殺して出奔し、大谷吉継・宇喜多秀家・福島正則・前田利長・上杉景勝と主に徳川の敵対勢力に仕えています。関が原では西軍の宇喜多軍の右翼として戦っていますし、上杉家では直江兼続の婿養子として親子関係になっています。 加賀藩に移っても上杉・直江家とは親交が続いており、加賀前田家に復帰後、本多家の家臣の半数以上は両家の出身者が占めています。 その本多家の中屋敷側にあったのが「松風閣庭園」です。 この辺りは本多の森と呼ばれるように原生林もある緑に恵まれた場所ですが、元々あった池を中心に2200平方メートルの規模の回遊式庭園です。国の有形記念物にも指定されています。 池の名前は霞が池、その中に蓬莱島、といったように兼六園に似た形式名称です。5代藩主・前田綱紀が創始した…

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木舟城址

以前、紹介した前田利家の末弟・前田秀継が生涯を閉じたのが「木舟城」 高徳寺址 前田秀継夫妻の墓所  http://72469241.at.webry.info/201210/article_33.html 真光山 永傳寺            http://72469241.at.webry.info/201210/article_34.html 天正15年(1585年)に起こった天正大地震は震源はいろいろ推測されていますが、飛騨・伊勢の連鎖地震だと推測されています。広範囲に被害が起こり、岐阜だけでなく北陸・関西にも甚大な被害を与えたことが伝わっています。有名な城でも、大垣城・長浜城が全壊、未だに場所も特定できない埋没した帰雲城。近年、液状化の痕跡が確認された清州城など大きな被害を受けたようです。この木舟城も同じく陥没全壊しています。 幻の帰雲城  http://72469241.at.webry.info/201209/article_22.html 「木舟城」は元暦元年(1184年)に石黒光弘によって築城されたと云われています。石黒光弘は越中の地方豪族で、木曽義仲に従い倶利伽羅合戦で活躍しています。その後、石黒氏はこの城を本拠に戦国期までこの辺りから福光に至る一帯を治めていたようです。 戦国末期に入り、越後の上杉謙信の配下になった時期もありますが、謙信死後に勢力を伸ばしてきた織田信長に与しましたが、上杉軍との共謀を疑う信長によって近江長浜で当主・石黒成綱が謀殺され断絶、…

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前田利秀の墓所

前田利秀は父親の後を受け、小矢部の基礎を築き、北条攻めでは前田軍の主力として上野・松井田城攻め、武蔵・八王子城攻めに活躍しました。 しかし、文禄2年(1593年)朝鮮出兵で滞在中の肥前・名護屋城で発病帰国しましたが、その年に治療中の京都で弱冠26歳でなくなっています。 墓所は父母の菩提寺・永傳寺から愛宕神社を間に置いた本行寺の高台の墓所に眠っています。本行寺の境内から階段を登って行けますが、愛宕神社の拝殿前の鳥居横からも行けます。こちらの方が楽に進める道です。 利秀の墓所は石垣造りでなかなか堅固な造りです。小矢部・石動の市街を見下ろせる位置にあり、眺望のよい場所です。 菩提寺の本行寺には利秀19歳画像が寺宝として残っています。大阪の画家が描いたと云われています。本行寺は元々は能登の七尾にありましたが、父親の前田秀継の本拠(津幡・木舟)が移動するごとに本行寺も一緒に移動して来た寺です。前田家にはこういう伝統があるようで、前田利家の宝円寺に通じるものがあるようです。利秀も本行寺を石動に再建して厚く帰依したようです。 前田家での故人の評価は高かったようで、後世において250回忌の法要が行われているのは、開祖・前田利家、3代藩主・利常、父の秀継・利秀の4人だということからも窺えます。 小矢部・石動では前田利秀が城主として入城した際の獅子舞や感謝祭が今も受け継がれています。 旅行日 2011.11.26

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真光山 永傳寺

前田利秀は父母の墓所を高徳寺に造り菩提寺としましたが、先に書いたように規模としては小さな寺院でした。 高徳寺址 前田秀継夫妻の墓所 http://72469241.at.webry.info/201210/article_33.html その後、今石動城を主城として城下町を整備する際に、木舟城下の商家・職人・寺院を今石動城下に集めています。この時に高徳寺も現在地に移し、寺号も「真光山 永傳寺」と改めています。この寺号も父母の戒名を合わせたものです。 町道から寺に続く参道には三十三観音が並んでいます。 三十三観音は観音様が人々の救済のために臨機応変に姿を変える三十三身にちなんで考えられたものですが、様々な顔・姿があり興味深い物です。 この永傳寺と三十三観音は、健康・環境・観光をキーワードに自然と歴史を再発見する旅をテーマにした「遊歩百選」にも選定されています。 http://select100.pdc-web.jp/yuho2011/ 町道が狭いですが、この「永傳寺」に車を停めて「石動愛宕神社」「前田利秀墓所」「本行寺」を巡って歴史散策するコースはお奨めです。 旅行日 2011.11.26

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高徳寺址 前田秀継夫妻の墓所

今石動城の初代城主・前田秀継が木舟城に移って3か月後、天正13年・(1586年)に天正の大地震が起こっています。 この地震により、木舟城は3丈(9メートル以上)以上も沈下し圧死した秀継夫妻の遺体発見には3日以上を要したと記録に残っています。 息子の前田利秀は当時弱冠18歳。石動山合戦を初陣にして末森城合戦・今石動合戦など大きな合戦を副将として経験していますが、現代でも多感な年齢で悲しみは深かったと思いますが、その後8年間の小矢部統治・北条攻めなど大活躍の働きを示しています。 その利秀が、両親の眠る地として選んだのが、この矢波地区にある高徳寺です。前面には宮島峡から流れる子撫川があり、ちょうど砺波平野に流れ出る位置にあります。静かな盆地地帯で現在も閑静な場所です。 ここから子撫川に沿って行く二つの街道は、一方がかつて秀継が居城とした津幡城に至り、もう一方は石動山系の山並みを越えて末森城に至ります。どちらも父と共に過ごした地です。 越中は佐々氏の統治があったとはいえ真宗の影響が強く、宗教面の制約がきつい地域でした。また前田家は石動山合戦に見られるようにこの頃は宗教対決色が強い時期でした。高徳寺はそんな越中にあって規模は小さいながら当時唯一の曹洞宗の寺院でした。秀継が曹洞宗信者ということもありますが、小さな寺院を選んだのにはそんな事情もあったようです。 利秀が今石動城を主城として城下町を整備した際に、高徳寺は名前を真光山永傳寺と名を改めて石動城下に移り、秀継夫妻の菩提寺として続い…

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今石動城址

小矢部市の城山(昔の呼び名は白馬山・石動山)の山頂186メートルにあったのが「今石動城」です。 賤ヶ岳合戦後の天正13年(1585年)、加賀の前田利家と越中の佐々成政が緊張状態になった年に、前田利家によって最前線基地として築かれました。城主には津幡城主で利家の末弟・前田秀継が入城しました。 後方に倶利伽羅峠に続く山地が続き、城下からは急峻な登りの山頂にある堅固な立地です。六つの尾根を利用整地しており、規模も大きい物だったようです。築城1か月後に佐々方5.000に攻め込まれますが、城兵1.500を率いた城主・前田秀継とその息子・前田利秀によって撃退しています。この戦闘がこの城の唯一の合戦ですが、防御能力の高さを証明するようです。 現在は本丸とその下の曲輪が観られるのみですが、本丸は東西41メートル・南北27メートルと広々としており、竪堀や切通も急峻に切られており、眼下に砺波平野や小矢部市街が広がります。 ただ、整備はイマイチで途中に倒木があったり、城址までの道路も車一台がやっとの道ですので気を付けて下さい。 今石動の名の由来ですが、前に紹介した能登・石動山の「伊須流岐比古神社」を分霊した神社が山頂にあったというものと、前田利家の天平寺攻めの際に、人質とした虚空蔵菩薩像を城の守護神として山麓の愛宕神社に奉納した為に、新しい石動→今石動 の2説があるそうです。文献的には前者が有力ですが、個人的には両説融合だと思っています。 初代城主・前田秀継は兄の全幅の信頼を得ていたようで、…

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七尾城址

能登を代表する山城「七尾城」別名は「松尾城」と云います。 七尾の名は七尾城の位置する城山の七つの尾根から来ていると言います。 七つの尾根の名は松尾・竹尾・梅尾(鶴尾)・菊尾(烏帽子尾)・亀尾・虎尾(袴尾)・龍尾(牛尾)ですが、七尾城が築かれたのはこの内の北端の松尾になり、別名では松尾城という記述もあります。石動山系の北端に位置しその規模・威容は難攻不落と云われた物でした。 日本五大山城・山岳城に数えられる名城です。ちなみに他の四城は春日山城(新潟)・月山富田城(島根)・観音寺城(滋賀)・小谷城(滋賀)。山岳城の場合は小谷城の代わりに八王子城(東京)がこれに加えられます。 七尾市という所は面白い所で昔にあったものが町名になったものが多いのです。七尾城の在る場所は現在は古城町と呼ばれ、その外側が古屋敷町と当時の配置が解るようになっています。ちなみにこの古屋敷町には畠山氏の子孫が建てた「七尾城史資料館があり、能登畠山氏の資料や城から発掘された物など七尾城の事前勉強にうってつけです。同じく隣の「懐古館 飯田家」がありますが、現在の七尾城が荒廃せずに残っているのはこの大庄屋・飯田家代々の整備・手入れのおかげと云っても過言ではありません。 七尾城に登るには2つコースがあります。一つは昔からの登城口から三の丸を超していくコース。こちらは本丸までは直線で3キロ程ですが途中に虎口や七曲り、2の丸と3の丸の間の大堀切など急こう配が多く倍以上を歩く覚悟が必要です。一度歩いたことがあるんですが、足腰…

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織田劔神社 織田家発祥の地

「織田劔神社」は越前国二ノ宮にあげられる神社です。別名は織田明神。 ちなみにオダではなくオタと読みます。 劔神社の創建は社伝によれば、仲哀天皇の第2子の忍熊王が北陸平定の際に、近くの座ヶ岳に祀られていたスサノオの霊力と剣を借りて当地を平定し、その後、スサノオの神霊をこの地に移し神剣を御神体として劔神社を創建されたと云われています。 仲哀・忍熊共に神功皇后により非業の死を遂げていますが、スサノオを主祭神に共に祭神になっています。 この神社が有名なのは織田信長の織田家の発祥の地とされているからです。真実は別にして、劔神社の神官は神社への崇拝を怠らなかった平清盛の嫡男で小松殿と呼ばれた平重盛の孫(資盛の子・親実)が壇ノ浦後に神官家に養子に入ったことに始まっています。、その子孫で神官だった常昌が管領の斯波家の家臣となり、名前も地名から織田常昌と名乗ります。その後、尾張の守護代として派遣され尾張織田家が誕生したというわけです。信長も朝倉氏の一乗谷攻めの後、立ち寄り、自分の氏神であるとして神社の領地保有と保護を認めています。 拝殿の右横には織田神社の社があり信長ファンが拝んで行くそうですが、これは実は織田の庄の産土神なのです。その前にある二つの末社の右側が平重盛と織田信長を祀る「小松建勲神社」なのでそちらを拝んだ方がご利益あると思いますよ。 劔神社の境内は現在も広く拝殿や本殿の建物もなかなか趣があります。 本殿は柿葺で織田様式と呼ばれ唐・千鳥破風が施されており、築400年と云われ…

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朝倉義景墓所

戦国期、越前を治めていたのが朝倉氏。 朝倉氏の本拠は大野から西方の一乗谷で、5代約100年間勢威を誇っていました。5代当主・朝倉義景は織田信長に敦賀の刀根坂の合戦(斉藤龍興が戦死、美濃斉藤家の実質滅亡)に敗れ、一乗谷を放棄して大野に撤退して勝山・平泉寺に味方要請しましたが拒否され、宿所の六方賢松寺を寝返った朝倉景鏡に囲まれ自刃しました。ここで朝倉氏の越前支配は幕を閉じています。余談ですが、朝倉景鏡は姓を土橋と改め信長から本領安堵を受けましたが1年後、越前一向一揆により亡くなっています。このため信長が再侵攻するまで越前は一向宗のものとなりました。 江戸時代になって朝倉氏の旧臣・松田氏の子孫により五輪塔がつくられ曹源寺に置かれていましたが、20年後に100メートル程離れた現在地に移されたそうです。 朝倉義景の墓を中心に、信長により処刑された愛王丸(義景の子)・小少将(義景の側室・愛王丸の母)・光徳院(義景の母)の3人連名の墓。朝倉義景に殉死した高橋景倍・鳥居景近の墓が配されています。 大野における朝倉氏の人気は高く、この墓所の近在には義景保育園・義景集会所など義景の名を冠したものが多く存在します。 この墓所は閑静な住宅街の一角にあるのですが、一帯は「義景公園」として綺麗に整備されています。「義景庵」、湧水の「義景清水」とにかく義景だらけです^^;非業の死を遂げた義景もニンマリしているかも^^ 義景庵の前には「水琴窟」が作られていて、耳を澄ますと甲高い澄んだ音色が聞こえます。立ち…

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越前大野城

越前大野城(別名:亀山城)は1575年に越前平定に織田信長の武将として活躍した金森長近が入部・築城したのが始まりの城です。 金森長近は最初は大野盆地の西端にある戌山城(いぬやまじょう)に入りましたが、翌年から盆地にせり出す小孤峰の亀山の山頂に新城の建築を始め、亀山の東に広がる平地に二の丸・三の丸・将棋盤のように区画された城下町を整備しています。これが現在の大野市街の基礎になっています。 標高239メートルの山頂の天守からは大野盆地の四方が見渡せ、防衛上は戌山城の方が上ですが、政治・戦略上はこちらの方が良かったと思われます。 金森長近が大野城に在城したのは約10年でしたが、その後、長谷川秀一・青木一矩・織田秀雄と城主が変わり、関が原後は福井藩の直轄領、松平(結城)秀康の三・四男、天領など領主・城主が頻繁に変わり、1682年に幕府老中だった土井利房(土井利勝の四男)が老中辞任後、国替えで転封、越前大野藩の初代藩主になっています。 大野城は古図によると、天守・小天守・天狗書院(天狗櫓)の三つの天守からなる複合連結式の城だったようですが、1775年に焼失、20年後に小天守・天狗書院が再建されましたが明治維新に破却され城壁だけとなり放置・売却されていました。おかげで往時の姿は不明となっています。 昭和になって旧士族の寄付により1968年に再建されたものです。 ただ、往時の絵図や他城の天守から推定製作したために、天狗櫓に小天守があり、3連結ではなく2連結になっています。城もコンクリート…

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西光寺 柴田勝家の菩提所

北ノ庄城落城により亡くなった「柴田勝家」の菩提所がこの「西光寺」です。 元々、西光寺は朝倉氏の時代、天台宗真盛派の祖・真盛上人により一乗谷に創建されたもので、現在も一乗谷の寺跡には多くの石仏塔・石仏群が残されています。柴田勝家が越前に進出した際、柴田家の菩提寺として現在地に移したものです。 福井駅から南へ市電伝いに足羽川を渡った足羽山の下、住宅街にあるお寺です。幕末に安政の大獄で小塚原で命を落とした橋本左内の菩提寺の善慶寺の裏側になります。 境内には柴田勝家の墓所があります。 この墓には北ノ庄落城の際、亡くなった勝家・お市の方・甥の柴田勝景(丸岡城主)・子の孫次郎が合祀されたと伝わっています。しかし、戦後になって墓の位置を移動した際に中を開いたところ、わずかの遺品・調度だけだったそうです。落城の火災・爆発で遺体も発見できなかったと何かで読んだような気がします。尚、お市の方の墓も合祀されてここですが、菩提寺は江戸時代に近くの自性院になっています。 毎年、二人の亡くなった4/24には法要が行われていますし、市内では勝家の武者行列が行われています。残念なことに、震災の為、今年は武者行列は中止になってしまったそうです。 墓の横には北ノ庄城の堀から発見された礎石、勝家が愛用の梅の木があります。梅の木は戦災で焼けたのですが数日で後日発芽したそうで、現代に残っています。 勝家・お市夫婦の遺品は数多くあったそうですが、第2次大戦の福井空襲により多くを失ってしまったそうです。そ…

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一乗谷朝倉氏遺跡

復元町並みの正面から川を渡った場所に朝倉義景の館跡があります。発掘以前は朝倉義景の菩提寺として「正雲院」と呼ばれる寺院が建っていましたが、現在は福井市内の心月寺に移転統一されています。 入り口には朝倉遺跡の紹介写真で有名な唐門。豊臣秀吉が朝倉義景の菩提の為に寄進したと云われています。表上部に朝倉家の「三ツ木瓜紋」裏には豊臣家の「五三の桐紋」があります。現在建っているのは江戸中期に福井藩主によって建て替えられた物だそうです。 土塁と濠に囲まれた敷地は6400㎡で17棟の建物が確認されています。門をくぐるとその広さには驚きます。 また主殿跡からは日本最古の10m程の花壇も発掘されています。花粉調査から菊・百合・油菜の花が植えられていたようです。いくつか草木を植えて再現していました。一番上の写真の中央右斜め下の長方形の部分です。 主殿脇から木立の中に入ると朝倉義景の墓があります。 元々は天正4年に地元農民が小さな祠を建てたのが始まりですが、江戸初期に福井藩主によって現在の墓塔が建てられたそうです。何となく古びた墓と薄暗がりに栄枯盛衰を感じます。 大野にも義景の墓がありますが、これは江戸中期に子孫によって作られたそうです。朝倉義景は身内の朝倉景鏡によって自刃に追い込まれ、その首は京で獄門に晒されましたが、首も遺体もその後は不明。信長がしゃれこうべで酒杯を作ったといいますが、自分や家臣でそれを使って飲んだというのは創作という説が有力です。 どちらにしても、宏大な屋敷跡を持っ…

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