長壽寺③ 八百屋お七の供養塔

長壽寺の見所も三作目、、、、境内には立派な供養塔がありますが、なんと八百屋お七の供養塔と伝わっています。 長壽寺の案内板・・・当山八百屋お七縁起 合掌 八百屋お七の父親は七尾出身で、加賀藩の足軽・山瀬三郎兵衛といい参勤交代の折に江戸に出る。元々、侍奉公を嫌っていた三郎兵衛は脱藩し、本郷駒込追分町に八百屋を開業、相当の財を成した。一六八二年二月二十八日、江戸市外駒込の大円寺から出た火事は、おりからの強風にあおられて南の市内に向かい、本郷・上田・神田日本橋を襲い、隅田川を越えて本所・深川まで延焼、夜になってようやく鎮火した。延焼家屋は大名屋敷七十五、旗本屋敷百六十六、寺社九十五、町屋五万二千余、焼死者三千五百人。世にいわれている八百屋お七の「お七火事」とは、この日起こった火事をさしている。 だがこの火事はお七の仕業ではない。実は、この大火では、お七一家も収容者だったのだ。家を失ったお七一家は菩提寺である円乗寺に仮住まい、ここでお七は寺小姓の吉三郎と運命的な出会いをする。店が再建され、連れ戻されたお七の思いはつのるばかり 「また火事があれば・・・」 そこでお七は翌年三月二日、新築まもない我が家に火を放つ。江戸市中を火の海に埋めたお七はつかまり、火あぶりの極刑にあった。この話は、やがて浄瑠璃や歌舞伎に脚色され、お七と吉三郎の恋物語は語り継がれてきた。 だが、娘を非業の死で失ったお七の母親の子を思う心はいかばかりか計りしれない。お七の母と称する者が娘の菩提を弔いたいと、供養塔を建…

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高山右近記念公園①

今年(H29)2月7日 大阪城ホールで戦国武将だった高山右近(洗礼名ジュスト、ユスト)の列福式が行われ、高山右近を福者とするカトリック教会・ローマ教皇庁の宣言がなされました。古くから、高山右近の所縁の地(金沢・高槻・明石など)から日本キリスト教会に聖者・福者の申請が行われており、もっと大きなニュースとして報道されると思っていましたが、意外に小さい見出しで逆に驚いたものです。やはり、キリスト教は名前は知られても、まだまだ日本での地位は小さいものなのか、聖人じゃないとダメなのかと勘繰ってしまいました。 高山右近列福式ニュース ⇒ バチカン放送局 カトリック教会では各教区から推薦された候補者が「神のしもべ」とされて、教皇庁列聖省による列福の審査対象者になります。神のしもべの中から英雄視、福音的な生涯と公認された者が「尊者」と呼ばれます。 更に、尊者の徳ある行為、あるいは殉教によりその生涯が聖性に特徴づけられたものであったことを列聖省が証明した者が列福式を経て「福者」になるわけです。「福者」はその上のランクになる「聖人」の候補者になるんです。今回の高山右近の「福者」の列福は「聖人」への道が開かれたことを意味します。一部関係者の間では一気の列聖を期待していた向きがありました。 ちなみに、近年、「聖人」となった有名人は、「神の愛の宣教者会」を設立して貧困者の救済と後継者育成に尽くし聖女と呼ばれたマザー・テレサ(1997年死去、2003年列福、2016年列聖)。歴代2位の教皇在位と宗教の枠を…

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倶利伽羅 山頂本堂

長々と倶利伽羅峠の周辺を書いてきましたが、最後は倶利伽羅不動寺・山頂本堂です。 一番最後にしたのは、前に書きましたが撮ったはずの奥の院が消えていたせい。。5/26に改めて撮り直してきたので。。 倶利伽羅不動寺の入り口は二つありまして、倶利伽羅トンネルの手前・九折(つづらお)口から右折して天田峠越えで登って、倶利伽羅古戦場展望台近くから長い階段を登る倶利伽羅不動寺の表参道。国道がバイパス化される前は、ここがメインの登山道でしたから、僕の子供時代はここからがほとんどでした。途中には棚田の風景も見られる道です。急激な坂道でカーブだらけ、帰り道は要注意。倶利伽羅トンネルが開通する以前はこの道が富山に抜ける唯一の道路でした。下り坂で崖に落ちる車の多い難所でした。 もう一つは、手向神社で紹介しましたが、倶利伽羅駅の東口から出た坂戸口から登る手向神社の表参道から入る道。以前はとんでもない狭い道でしたが、現在は整備されて、桜並木が見られるのでこちらが主なメインの道になっています。 倶利伽羅不動尊に参拝するなら、まず最初に訪れて欲しい場所があります。手向神社の参道前駐車場の奥に、それはあります。この駐車場、そもそもが舗装処理されていないので、みなさん入り口付近に停めてしまうので、ほとんどの人が気づかずに山頂本堂に向かうか帰ってしまうんですね。 西之坊鳳凰堂のブログにも書きましたが、倶利伽羅不動尊の起源は。。倶利伽羅不動は縁起によれば、善無畏三蔵がこの地の不動池で感得して彫った彫像を養老2年(7…

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倶利伽羅 猿ケ馬場

倶利伽羅公園側の山塊が平家軍撤退戦の最激戦地で、源平両兵士の巨大な供養塔(昭和49年建立)や奮戦した平為盛の墓(源平盛衰記では戦死、平家物語では生存。平清盛の弟・頼盛の次男)など、顕彰碑や歌碑が点在します。 倶梨伽羅合戦における平家軍の布陣は、猿ケ馬場に本陣を置いて街道沿いに東、また街道から尾根筋の源氏ヶ峰の尾根筋にL字の形で布陣していました。この布陣は北陸道や大池経由の山道を登ってくるのを迎え撃つ形でした。位置的には街道を見下ろす立場で、実際に北陸道の進軍や山道からの義仲軍を補足して矢合わせは優位に進めたとされています。 逆落としや峠道を塞ぐことを狙うには間違った布陣場所ではありませんが、大人数が留まるには不都合でした。峠上の街道は尾根筋も、3.4人横に並べば満杯の狭い道伝い(しかも片側は谷)に布陣しており、大軍では身動きも不自由だったと思われます。 戦国時代の佐々成政が、後に源氏ヶ峰砦(城)を街道を塞ぐ要塞に改造して、少人数での籠城戦を狙ったように、進軍を防いだり籠城には向きますが、大人数が留まる場所としては、宿営地となる広場もなく不向きとしか思えません。やはり、後の祭りですが、倶利伽羅峠の出口(竹橋口)での待ち伏せか、もしくは峠越えでの正面衝突が最良の策だったでしょう。 平家軍の布陣ミスもありますが、義仲軍の勝因は夜間の奇襲攻撃が効果絶大だったのもありますが、最大の勝因は別動隊・樋口兼光軍が竹橋口に回り込んで後方から攻撃できたのが最大要因と云えます。この狭い街道では身動き…

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倶利伽羅峠 手向神社 倶利伽羅公園①

前々回の記事では、倶利伽羅不動尊の西之坊・鳳凰殿をご紹介しました。 僕の子供時代と云えば、山頂本堂に初詣でに行くのが、当たり前になっていました。倶利伽羅駅から反対方向に父方の本家があって、年始がてら伺って、軽トラで乗せてって貰うか、坂戸口や九折(つづらお)から、てくてくと登って行ったのを覚えています。その頃は、そんなにきつい印象の記憶がなかったんですが、改めて車で登ると結構どちらの道も険しく厳しい道のりです。若かったのかなあ。そういえば、小中学高校の頃、歩くことには全然苦にしてなかったなあ。。今はちょっとの坂道でぜーぜー 当時は裏駐車場から参拝してたんで、ほとんど手向神社の印象はなかったんですが、大人になって自分の運転で登るとなると坂戸口からの距離が長く感じるけれど、子供の頃は観ることのなかった場所を再確認することが出来て、思わぬ発見や位置関係が解るようになって、この辺りに来ることを楽しみにするようになっています。 実は、山頂本堂に行って奥の院の撮影をしたはずなのに消えておりまして、また行ったときに奥の院を撮影して記事を書こうと思っていました。ところがそう思っている時に限って機会がないんですね。で、奥の院はまたの機会ということで。。倶利伽羅不動寺を書き始めて方針転換。。僕が、倶利伽羅では倶利伽羅不動明王以上に重要と感じる神様について、先に書くことに。。 鳳凰殿のブログで書いたように、倶利伽羅不動尊は長楽寺としての歴史は長いのですが、江戸末期の門前店の火災の延焼で荒廃した後は、再…

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金沢大学の旧標石

金沢大学の角間キャンパスには仕事絡みや福光に抜ける際によく行きます。 何度も行きながら、昨年(H28)に行ったとき、ふと懐かしいものを見つけてしまいました。 角間キャンパスに訪れると云っても、大概は直接学部棟に向かってしまうので、長らく行っていなかった本部棟の駐車場。たまたまこの本部棟でお客さんと待ち合わせをしたんです。その一角の駐車場遮蔽の緑地に、木々 やツツジの木枝に隠れるようにそれは存在していました。それが金沢大学の標石です。 大学だからあっても不思議ではないんですが、この標石は実は昔は金沢城の石川門の前に設置されていたものなんです。 金沢大学は昭和24年(1949年)に誕生した新制大学(国立大学)。金沢大学というと前身は中央公園にある旧制第四高等学校を思い浮かべる人が多いのですが、第四高等学校と共に石川県女子師範学校・石川師範学校 石川青年師範学校・金沢高等師範学校・金沢工業専門学校・旧制金沢医科大学を母体にして誕生しています。 発足当時は6学部(法文学部・教育学部・理学部・医学部・薬学部・工学部)でしたが、現在は平成20年(2008年)に8学部を改組して3学域16学類5研究科となっているそうです。 金沢大学は金沢城内に本(丸の内)キャンパスを置いて、医学部・薬学部が金沢大学付属病院のある宝町・鶴間キャンパス、工学部の小立野(鶴間)キャンパス、その他にも付属の小中高校のあった広坂キャンパスや各町に特別キャンパスもありましたが主要はこの三キャンパスでした。 本…

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境関① 境一里塚

以前、加賀藩の関所跡として一番西に当たる大聖寺関をご紹介しましたが、今回は一番東に当たる境関をご紹介しましょう。 境は越中・越後の国境で今ものどかな風景があります。富山県内でもまっすぐな海岸線・国道・北陸本線が観られる数少ない地点でもあります。 石川・上越間を国道8号線を走っていると、石川からだと富山を過ぎた片貝川の手前で二股に分かれて新設された山側周りの道が本道で、旧国道がバイパスになっています。その時の気分で走るんですが、正直どちらも単調な道で片側一車線が多く、低速の先行車がいると辛いはイライラするはですが、再合流して入善・朝日を抜けて城山トンネルを抜けると、一気に視界が広がり、市振への峠越えは親不知前の最期の登坂2車線、親不知に入る前に1台でも前に出たいと、アクセルを踏み込むドライバーが多い場所です。 この登坂車線の始まる境交差点を左折した道が旧街道になります。久しぶりに左折して立ち寄ることに。 江戸期当時は当然ながら国道8号は存在せず深く急激な尾根になっていました。この海沿いの街道が越中と越後をつなぐ唯一の通行・交易路でした。 この旧街道に加賀藩の最東端になる境関所があったんですが、この旧街道には現在は道に沿って住宅や商店が道路に沿って家屋が立ち並んでいますが、一旦通り越して国道8号線に再合流する一角に一旦立ち寄ることに。。境関も市振関という関所は存在しませんが、ここに江戸初期の一里塚が残っています。 越中・越後の国境は古くから北アルプスの北端の一つ・犬ヶ岳を源…

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前田利常灰塚 ~徳橋神社 ~埴田の虫塚

ここのところ、加賀市に行く機会が多くて、山側バイパスから小松の八幡で国道8号に合流する産業道路をよく利用していました。この産業道路は広告看板が禁止されていて景観重視の要素が大事にされています。それはそれでとても良いことなんですが、金沢・松任・鶴来の分岐点の安養寺交差点から国道8号に合流する小松の八幡まで延々と続く片側2車線は、多少の起伏とカーブがありますが走りやすく、ドライバーはついつい飛ばし気味になってしまいます。 途中には松任グリーンパーク、いしかわ動物園、辰口丘陵公園など家族連れに人気のスポットもありますが、ビジネスや作業の営業車は脇目もふらずスピードに乗って走って行きます。 この産業道路のおかげで近接した場所に、精密機械系の工業団地や住宅地が形成されています。自然景観や緑をそこなうというなどの欠点はありますが、事前調査で埋もれていた遺跡や古墳など多くの歴史的遺物が発見されています。 そういう面では、この道路が開発されると聞いたときに期待したのが加賀国府の特定でした。日本の各地に置かれた国府のなかでも一番最後に出来た国府なのに、場所が特定されていない加賀国府は石川の歴史の中で最大の謎の一つです。 一応、地名から推測すれば国分寺を称する寺院のある古府町、河田山古墳群の近くの国府小学校近辺の河田町、埴田町近辺など諸説まちまちです。 地名の通り、歴史深い地名なのですが、現在はのどかな田園地帯で、産業道路でも一番の起伏地で周りを観ずに走りすぎることがしばしばの地でもあります。 そ…

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加賀海岸② 泉浜

橋立には大聖寺藩を支え、明治の初期まで海運を担った北前船の船主や水主達の住まいがあり、現在も見事な館が観られます。また、橋立港は蟹の水揚げ地として県内でも特別視されています。橋立港の近辺には蟹が食べられる、食堂や旅館が立ち並んでいます。 橋立港の少し西方にジゲ浜と呼ばれる地があります。橋立の北前船はジゲ浜の沖合に船を停泊させて、荷の揚げ降ろしを行ったり、自宅で過ごしたそうです。 現在のジゲ浜は浸食によって崩落が発生して立入禁止になっていますが、禁止ロープの場所からでも海が見渡せます。 ジゲ浜には西出朝風(にしでちょうふう)の歌碑が建てられています。あまり聞かない名前だと思いますが、口語文の自由詩運動の先駆者の一人です。現代の解りやすい用語や五七調からはみ出した和歌・短歌・俳句・自由詩の先駆者と云えます。 廣重の 藍よりすこし 濃い色の 故郷の海に 逢うたけれども     西出朝風  昭和6年 春 横の銘碑 ・・・ 西出朝風(一八八五~一九四三) 当地、北前船の大船主家系に生まれた。 文学を志して東京へ出たのち、現代語による短歌を提唱し、口語短歌雑誌、歌集を発行するなど世のそしりにも屈することなく口語短歌の復及に努めた。また、新聞に口語歌壇を設け、多くの門人を育てた。その先見の明と勇気は北前船魂に通ずるものであり、北前船の社会的貢献と共に長くたたえたい。                              平成十八年十一月   橋立町民と有志がこれを建てた …

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山口玄蕃宗永 首塚跡

「全昌寺」が菩提寺となっている旧大聖寺城城主・山口宗永の首塚が移設されているとなっていたので、改めて宗永の首塚の在った地にやって来ました。 宗永の首塚があったのは、大聖寺城の東北東に6,700m程行った旧大聖寺川に架かる福田橋の対岸になります。 大聖寺の町には大聖寺川・熊坂川が市街を流れていました。市内を蛇行して流れるために、江戸期には氾濫が何度も繰り返されていました。上流に昭和39年(1964年)我谷ダムが造られ本流も市街を巻くように外周の直線化が図られて、洪水対策がなされています。 現在、福田橋が架かり、江沼神社の側を流れる本来の本流は「旧大聖寺川」と呼ばれる大聖寺川の支流となっており、現在の本流は2.300mほど北を流れています。 福田橋は小松から大聖寺に入る貴重な橋で、古くから戦乱の地となって何度も落とされていたと伝わります。 江戸期にも小松・橋立と大聖寺を結ぶ街道の橋として貴重な存在になっていたようです。大聖寺市内でも有力商家が多かった新町と武家屋敷の耳聞山を結ぶ道の架け橋として近年まで栄えていました。 大聖寺一番の豪商で、古九谷の吉田窯の開業・販売、橋立漁港の運送に係り、全昌寺の五百羅漢の世話方になった吉田屋も新町に居を構えていました。 加賀藩資料「聖藩文庫-山口文庫」によれば、山口宗永、修弘親子は大聖寺城の攻防戦で善戦しますが、多勢に無勢で最後は追い詰められ、城内戦の混乱の中、山口修弘は前田軍先方の山﨑長徳の家臣・木崎長左衛門を呼び出し名を名乗った後、一太刀…

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山ノ下寺院群① 全昌寺

寛永16年(1639年)加賀藩から分藩されて大聖寺藩が誕生した際に、藩祖・前田利治に従って多くの家臣が加賀藩から移籍したのですが、同時に寺院もこの際に移されています。 これらの寺院の多くは、大聖寺の南端の山裾に集められ山ノ下寺院群と呼ばれていますが、南端の大聖寺藩主の菩提寺・実性院から神明宮までの約1キロ弱の山裾に沿って各宗派の寺院が並んでいます。その数は大きい物で7寺院・1神社。宗派がバラバラなのが大きな特徴です。 南から順番に云うと。。。     ☆実性院・・・曹洞宗・大聖寺藩主菩提寺   ☆久法寺・・・法華宗   ☆蓮光寺・・・日蓮宗     ☆全昌寺・・・曹洞宗・山口宗永菩提寺     ☆正覚寺・・・浄土宗   ☆宗寿寺・・・日蓮宗     ☆本光寺・・・法華宗                 ☆神明宮・・・藩政期は真言宗・慈光院        大聖寺藩の創立目的の一つには、徳川親藩で越前松平家の福井藩に対する最前線防波堤の役目を担っていました。このため旧来の敵対勢力でまだまだ監視体制に在った浄土真宗の寺院だけは除かれていました。 山ノ下寺院群の中に全昌寺という寺院があります。正式には「熊谷山・全昌寺」と云い曹洞宗の寺院です。 天正4年(1576年)に創建された曹洞宗寺院ですが、元は山代(加賀市山代温泉)に在ったと云われています。慶長2年(1598年)に大聖寺城主となった山口宗永の信仰を受けて大聖寺に移されたと伝わっています。この為、山口宗永・修弘親子の菩提寺…

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大聖寺城址

加賀藩には幕末まで三つの支藩と近江の飛び領がありました。 元和2年(1616年)立藩した前田利家の五男・利孝の上野七日市藩1万石。 寛永16年(1639年)、三代藩主・前田利常が隠居した際に加賀藩の家督を長男・光高に譲り、富山10万石を次男・利次、加賀大聖寺7万石を三男・利治に分与・分藩しています。 意外に知られていませんが、この三藩以外に前田利家の時代から近江の今津(現・高島市今津町今津)に、今津村・弘川村・梅津村の二千五百石の飛び領が幕末まであり在地の任命代官が居ました。 大聖寺藩は現在の加賀市と小松の一部で構成されていました..開藩時は江沼郡133村と飛び地の越中新川郡9村で構成され、万治3年(1660年)に加賀藩との間で新川郡と能美6村(馬場・島・串・日末・松崎・佐美)を交換、矢田野の開墾で3村増えて幕末まで続きます。 その間に三代藩主・前田利直が弟・利昌に新田1万石を分与していますが、利昌が徳川綱吉の法会で乱心して奈良柳本藩主・織田秀親を刺殺するという事件を起こして新田藩が取り潰されていますが、新田1万石は大聖寺藩に返還されるという紆余曲折はありました。また9代利之(としゆき)の時代、高直しを行って10万石となり、幕末までを迎えています。 大聖寺には江戸期初期まで大聖寺城(錦城)がありましたが、一国一城令で廃城となっており、その後に立藩した大聖寺藩ではその麓を開削して、陣屋と藩邸を熊坂川と大聖寺川(旧大聖寺川)に囲まれた要害地に置いていました。現在の加賀聖城高校・錦城…

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倶利伽羅山 八重桜

小矢部の巴塚のある堤池から津幡町の坂戸口までの約10キロ強の歴史国道には6000本の八重桜が植えられています。毎年GWには満開の花が観られます。この期間は「くりからさん八重桜祭り」として多くの人が訪れています。 4/28.29には倶利伽羅不動尊の山頂本堂の境内で、念仏赤餅の餅つきが行われ参加者にはその場で振る舞われ、住職のお話と共に食べる習わしになっています。もちろん、持ち帰り用にも販売されています。すぐ売り切れてしまうので、早めに行かないといけません。 倶利伽羅の八重桜のビュースポットは、倶利伽羅合戦の際に平氏が本陣にしたという「猿ケ馬場」、為盛塚の近くの「倶利伽羅公園」、手向神社参道から坂戸口の坂道の道路脇がお奨めスポットです。 ソメイヨシノに比べぼってりとして大振りの八重桜は満開になると華やかさがあります。 散策スポットとしても最高の時期がこの桜の咲くころだと思います。 昨年は坂戸口の桜しか見られず残念な思いをしましたが、今年はちゃんと山頂に咲く花が観られちょっと感激^^V 4/28.29は不動尊の祭礼もあって交通規制がありますから、埴生口か天田峠から倶利伽羅峠へ向かうのをお奨めします。 くりからさん八重桜祭り(倶利伽羅不動尊)  http://www.kurikara.jp/?eid=288423 旅行日 2011.5.4

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親不知駅付近

親不知は、親不知駅から東が子不知、西が親不知になります。 駅の近くには水上勉の「越後つついし親不知」の舞台になった歌という地区、北陸高速道の下にある道の駅「親不知ピアパーク」、東からきても西から来てもくねくねして、しかも狭い国道を走ってきた人に、ちょっとした人心地を与えてくれる場所です。 親不知の駅も無人駅でひなびた駅ですが、横を走る近代的な高速道や国道と、一味違う雰囲気を与えてくれます。 旅行日 2008.12.3 親不知観光ホテル楽天トラベル 日本海を望む断崖絶壁に建ち、北陸街道の歴史を偲ぶ。 楽天市場 by 越後つついし親不知 (新潮文庫 み 7-7)新潮社 水上 勉 Amazonアソシエイト by

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