加賀騒動

更新頻度が少なく、ご訪問も多くなく、皆さんにはご迷惑をおかけしています。 機会を観て、整理がてらUPしようと思ったものの、途中書きになってそのままのものも。。今回の加賀騒動にしても歴史の陰に埋もれた人が多いので、なかなか機会や画像がなくて、。。ただ相変わらず年末年始にだらだら書いたので、まとまりなく長くなってしまいました。知ってる人は知っている、名前や事件の名は知っていても、中身まではの人も多いと思います。たまたま書き始めた時は映画「武士の献立」が公開されて、作中の舟木伝内の墓が特定された時期でもありました。映画に関しては加賀騒動と加賀藩の料理頭の話を絡めたものですが、作者が思うほど加賀騒動の内容を理解している人が多くなく、知らずに見ると何のことやらになっただろうな。。上戸彩が久しぶりの映画主演で頑張っていましたが、ちょっと展開が早すぎて空回りという感じでした。。加賀騒動のあらましを知るには良作品と思います。 2013.12.11 椿原天満宮(椿原山砦跡) から 脇参道の稲荷社について・・・(本文から抜粋) 椿原天満宮の社域には石段とは別にもう一本の脇参道があります。 こちらは稲荷神社があるのですが、この稲荷神社は月読社と稲荷社を合祀したものです。実はこちらは加賀騒動で大槻伝蔵と密通の末、自分の息子を殿様にしようと図ったとされる6代藩主・吉徳の側室・真如院(稲荷社)と息子・勢ノ佐(利和・月読社)を祀ったものだそうです。そういえば、この辺りは加賀騒動で犯人とされた真如院の墓があ…

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石川県庁 夜景

巷はクリスマスのイルミネーションイベントや個人宅のイルミが瞬いている今日この頃。。 掃除さえまともに進んでいない我が家には関係ないなんて開き直ってはいますが、やはり綺麗なものは綺麗。 イルミも観たいなあ。。とは思うけれど、ここ何日かは強風と雨。。出かけるのもなあと面倒くさいなあと仕事以外はそそくさと部屋にこもる日々が続いています。ついでに画像整理もしてます。。 また、年末の追い込みのめどがついたら、能登までイルミを観に行こうと思っています。まあ、秋に一里野のイルミも観れてるから、いつもより意欲が減ってる気がする。。 言い訳になってしまいましたが、言い訳ついでのお詫びに、イルミとは違いますが晩秋の夜景を。。つなぎとして 県庁18階の展望台からの夜景です。仕事の関係でちょこちょこ県庁に行く機会があって、たまに一番上まで行くのですが、、県庁の周りには高い建物がないので四方が見渡せて夜景を見るなら県内一の場所だと思います。 四季それぞれの風景が観られますが、僕の一番好きなのが秋の薄暮がお気に入りです。特に宵闇(本来は10月の中秋の名月の頃を云うそうです。)が迫る寸前が一番お気に入りです。まあ、なかなか日や時間に限られて観られないのですが、秋の10月中旬過ぎには一度は登っています。 前に撮ったこのくらいが一番好きです。 ⇒ H26.10.23 石川県庁展望台 今回はあたりが暗くなって見逃してしまいましたが、この時の夜景では初めてのものも観られました。いつもの説明調はここま…

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月照寺 玉泉寺

以前ご紹介した加賀八家・前田対馬守家の菩提寺・玉龍寺。金沢に多くの寺院が林立する寺町に隣接する野町にあり、周囲に多くの寺院が林立します。加賀藩三代・前田利常を養育した前田長種を祖にしています。 尾張時代を遡ればこの前田対馬守家は、加賀前田家の本家筋に当たります。本家から二・三代前に分家した荒子前田家の前田利家が織田信長の北陸方面軍の与力として出征し、能登に地盤を固め賤ケ岳後の金沢入城によって能登・加賀半国を領有して地歩を固め始めた時まで、前田本家(当時は前田与十郎家)の前田長定・長種親子は尾張に残って、下之一色城を本城として本貫の地・海東郡(現名古屋市中川区・津島市・あま市・蟹江町周辺)に寄っていました。。最盛期には四城(前田・荒子・蟹江・下之一色)を持っていましたが、前田城・荒子城は廃城となっており、蟹江城は長島攻めの基地として滝川一益の支配下となり城代待遇、後に織田信雄の持ち城となり織田信雄傘下となっていました。 天正12年(1584年)豊臣秀吉が織田信雄・徳川家康連合軍と戦った小牧・長久手の合戦の開戦前、織田信雄方だった前田長定に秀吉の内意を受けた滝川一益の誘いに乗って、蟹江城を攻め落とし秀吉の来援を待ちます。ところが脅威を感じた織田信雄・徳川家康の大軍で逆に完全包囲を受け、秀吉の来援も間に合わず落城。この落城で前田長定は捕縛、一族・妻子と共に斬首。本城・下之一色城を守っていた前田長種は降伏開城して、前田利家を頼って能登に単身落ち延びています。前田利家は本家の御曹司・長種を迎え入…

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②高山右近 前田利長時代

天正16年(1588年)加賀に来た高山右近でしたが、前田利家時代にはそのほとんどが大阪での前田利家の相談役、外征と金沢城の修復・町割りの整備にと大阪・金沢間往復に忙殺されたと云えます。畿内の先進的な築城術、利休七哲としての文化の素養による金沢文化の創設など、多岐に渡ったことが窺えます。 しかし、この間に忠節を尽くした右近の実績と信義は、利家の信頼と藩内でも重きをなしていったようです。 H21.11.01撮影 高岡城址 前田利長像 恩人ともいえる前田利家が亡くなったのは慶長4年(1599年)。跡を継いだ前田利長はやはり利休門下として高山右近とは元々が交際が深く、利長は重要な相談役として右近を重用することになります。 利長時代の執政は前ブログでも来ましたが、篠原一孝・横山長知・奥村栄明の三家老でした。この三人の中で横山長知(ながちか)が特に腹心的最側近となっていました。この横山長知と高山右近は加賀藩内で特に友好的な関係であったとされています。しかし、陪臣出身の横山家と客分の高山家(右近は客分ですが、長子・長房は利長家臣になっていたようです。)は、前田家旧臣からは嫉妬の眼で観られ、一部家臣団との確執があったようです。 いずこにもあることですが、創業者の家臣団と二代目・家臣団にはどうしても軋轢が発生します。前ブログで前田利長の失策としましたが、利家の遺言「三年は大阪・洛中に留まれ」を半年で帰国した事情には、徳川家康の謀略もありましたが、この人事の収拾も影響したようです。痛恨事はまとめ…

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四坊高坂八幡神社(波自加弥神社奥の院)

全国には変わった神様を祀っている神社がありますが、北金沢の波自加弥(はじかみ)神社もその一つです。 波自加弥神社が主祭神としているのが生姜(しょうが)の神様になります。生姜の古名は「薑・椒」で「はじかみ」と読んでいたと云われています。神社名の波自加弥はこの語が変じたものだと云われています。金沢では波自加弥神社の生姜から更に広義に広げて香辛料の神様として、神社で開催される「はじかみ大祭」には、生姜を扱う生産者や業者はもちろん食堂やレストラン関係者が集まってきて製品などを献納して、社業発展などを祈願して賑わっています。日頃は静かな神社ですが、この日は賑やかな祭礼でごったがえします。近年ではすっかり金沢の風物詩の一つになってきています。 6月15日は「生姜の日」。実はこれはお茶漬けの素やふりかけなどで知られる永谷園が、日本記念日協会に登録申請して制定されたものなんです。H19(2007年)に冷え知らず・生姜シリーズのヒットで、気を良くした永谷園は生姜部という部署を造るほどの力の入れよう ⇒ 永谷園生姜部HP H21(2009年)に前述のように日本記念日協会に申請して6月15日が「生姜の日」になったのですが、波自加弥神社のはじかみ大祭の開催日でして、永谷園はこの祭礼の日に因んで申請したそうです。 波自加弥神社の神主・田近氏は、河北・金沢や白山市の神社合わせて42社の兼務をしていて、石川県神社庁の金沢支部長さん。相当多忙なはずなんですが、ブログも毎日更新しています。神主らしからぬはじけた…

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弥生さくら公園

金沢がソメイヨシの開花宣言をしたのが先週4日の火曜日。そして満開宣言が8日の土曜日。開花から満開までが異常に早かったように感じます。3~4月にかけては私用と仕事がたてこんで、お花見はできるなら遅いほどうれしい僕でしたが、願いむなしく今年も家族でお花見に出かけられないようです。 満開情報のおかげか、月曜日も金沢城や犀川河畔、伏見川河畔は桜も満開状態で、市街は人出も車の混み具合も平常より多いかも。。そんな桜の名所は例年の如く横目で見るだけで、通り過ぎてはため息をつく僕。。 昨年は盛りを過ぎた大聖寺川の河畔を久しぶりに家族で桜を見ながら歩いたけれど、今年はどうも一緒には観れないかも。。。 金沢から能美に向かう途中で久しぶりの公園に立ち寄ってみました。ここは近くに僕の好きなケーキ屋さんのロンシャンがあるし、幹線道路脇ながら閑静で、休憩場所のひとつにしています。 弥生さくら公園 ここは金沢市民なら誰れもが知る桜の名所になります。 国道157号線の幹線道路沿いで、駐車スペースがないので、、なかなか立ち寄りにくいんですが、たまたま空いていてラッキー 弥生さくら公園は平成3年(1991年)まで金沢地方気象台が置かれていた場所になります。気象台といえば桜の標本木。。公園の入り口左手にある巨木がそれになります。気象台が金沢市西念に移って、その役目を終えていますが、樹齢は不明ですが、樹勢は強く今も綺麗で花弁が力強く見えま…

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石川県消防学校

年に1.2回ですが仕事の関係で、石川県の消防学校に訪れています。とはいえ、いつも管理棟の事務室止まりなんですが、ロビーの展示をいつもシゲシゲと見学させて頂いています。 前にも2回ほどUPしていますが、1.2年にちょこっとですが展示物が変わっていたりします。 前回、前々回のブログに興味のある方はこちらをどうぞ。。         H23.08.17 石川県消防学校     H24.07.23 石川県消防学校 ~ 河北潟野鳥観察舎 前回から増えた展示物としては、防災ジオラマ。なかなかの力作です。 たしか消防関係者個人の作品の寄贈だったと思いますが素晴らしい作品で、消防・救助関連の防火・救援作業が描かれています。1X2mほどの大作。アップにも負けない力作です。 他は今までと変わらずに、寄贈されたものなどの展示や消火品の展示・解説。。 左・右上 可動式放水ポンプ  近年まで使用していたもの。現在は改良を加えて最新型が使用されています。現場での水を使用するため、遠心型から自吸型の呼び水を必要としない瞬発性を重要視してきています。 右下 消火器各種 いろんな種類があるものです。。粉末・強化液・二酸化炭素など多種多様。。使用方法も事前に読んだり試したりしないといけませんね。 左 左:放射能防護服 右:耐火服 右 特殊結束の実物展示 ピンボケで御免なさい 管理棟の外玄関には特別仕様で昭和34年製造の日本初と云われる6人乗りダブルシート…

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チカモリ遺跡~縄文ワールド

金沢にある国史跡「チカモリ遺跡」は縄文末期(BC3000~2300年)から晩期にかけての集落遺跡になります。 チカモリ遺跡のある金沢市の西南部に当たる場所は、近くには同時期の遺跡で土器・石器が1万点近く出土した環濠集落の御経塚遺跡、弥生期の遺跡から続いて庄家(奈良期?)・初期荘園(平安初期~鎌倉中期)となり多くの木簡が発掘された東大寺領荘園の三宅(今でいう管理事務所)があった横江庄・上荒屋遺跡が近くになります。他にも縄文・弥生期の遺跡を含め戦国中期まで近隣に遺構が多くあり、加賀の中心的存在地の一つとして連綿と発展を続けた地でもあります。 左:チカモリ遺跡史跡公園 H24.4.20撮影 下:東大寺領横江庄跡(東庄)・上荒屋遺跡 H24.9.20撮影 このチカモリ遺跡を含む地域は手取川・犀川によって構成された扇状地で、水分を多く含んだ土壌と水脈が地下にあるために、柱跡が390、それと木柱の底部である木柱根が295本も発掘されたのです。遺跡の発掘現場を観たことのある人は解ると思いますが、通常は柱跡などは木柱は腐って土となって柱の跡として穴だけが残る場合が多いのです。この遺跡は、掘れば水が出る悪条件ながら、柱の底部とはいえ水にパックされ保存されたことで木柱が数多く発掘された貴重な例にもなります。 上荒屋遺跡ではこの豊富な水脈を利用した舟輸送用の運河が確認されています。 元々、チカモリ遺跡は昭和29年(1954年)の調査には縄文土器が発掘されていて、縄…

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金沢大学の旧標石

金沢大学の角間キャンパスには仕事絡みや福光に抜ける際によく行きます。 何度も行きながら、昨年(H28)に行ったとき、ふと懐かしいものを見つけてしまいました。 角間キャンパスに訪れると云っても、大概は直接学部棟に向かってしまうので、長らく行っていなかった本部棟の駐車場。たまたまこの本部棟でお客さんと待ち合わせをしたんです。その一角の駐車場遮蔽の緑地に、木々 やツツジの木枝に隠れるようにそれは存在していました。それが金沢大学の標石です。 大学だからあっても不思議ではないんですが、この標石は実は昔は金沢城の石川門の前に設置されていたものなんです。 金沢大学は昭和24年(1949年)に誕生した新制大学(国立大学)。金沢大学というと前身は中央公園にある旧制第四高等学校を思い浮かべる人が多いのですが、第四高等学校と共に石川県女子師範学校・石川師範学校 石川青年師範学校・金沢高等師範学校・金沢工業専門学校・旧制金沢医科大学を母体にして誕生しています。 発足当時は6学部(法文学部・教育学部・理学部・医学部・薬学部・工学部)でしたが、現在は平成20年(2008年)に8学部を改組して3学域16学類5研究科となっているそうです。 金沢大学は金沢城内に本(丸の内)キャンパスを置いて、医学部・薬学部が金沢大学付属病院のある宝町・鶴間キャンパス、工学部の小立野(鶴間)キャンパス、その他にも付属の小中高校のあった広坂キャンパスや各町に特別キャンパスもありましたが主要はこの三キャンパスでした。 本…

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金沢駅東口~石川県立音楽堂~平岡野神社

金沢駅東口がリニューアルされて鼓門(つづみもん)ともてなしドームが完成したのは、早いもので平成17年(2005年)3月でしたから、もう12年も経つんですねえ。。 平生、完璧な車人間の僕は、電車や汽車を利用することはほとんどなくって、当然ながら駅構内に入ることはほとんどありえない世界が正直なところ。。最後に金沢駅のプラットホームに立ったのは、友人の娘さんの結婚披露宴の2次会で駅前のホテルのレストランに行った時(15年前)だから、まだ現在の東口改装の完成してない時で、百番街が出来た頃で、まだ懐かしい雑然とした駅風景でした。ついでにいえば、家族や知り合いの送り迎えも車の停車しやすかった西口が多かった(昨年からは西口もタクシー乗り場が増設されて一般車は停め難くなった)。。しかも西口から金沢駅構内には喫茶店や百番街に2.3度入っただけ。。 と、いうわけで、車では駅前道路を何度も通って鼓門やもてなしドームの姿は何度も見ているのですが、準地元ともいえる金沢駅なのに、表玄関の東口には前述の披露宴の2次会以来、立ったことがなかったんですねえ・・ この新装になった金沢駅東口に、初めて立ったのはナントナント10年以上経った昨年(H28)10月になってしまいました。 建設時、完成時には正直高い金(詳しくは知らないけど50億以上をかけたと云われています。)かけて、能楽(加賀宝生流)に使われる鼓を2本立てたような門と、アルミパイプとガラスを組み合わせたもてなしドームの姿を観て「変なの{%顔モジヘェー(シェ…

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玉龍寺 (前田対馬守家菩提寺・墓所)

加賀藩では人持組頭として1万石以上の所領を受け、家老として藩政に常時参画する資格を持つ一門衆・重臣の家系を別名で加賀八家と呼んでいました。他藩の年寄役に当りますが、所領を見ても解るように、外様陪臣とはいえ小大名以上で幕府でも別格扱いを受けており、明治には全家が男爵号を受けています。加賀八家の成立時期ははっきりしませんが、三代・利常から五代・綱紀にかけて成立して行ったようです 軍制面では、約68家と云われる人持組(上士身分、1000石以上)からなる7組をそれぞれの組頭(軍団長)として率い、また藩主不在時や緊急時の金沢城代、平時・緊急時の小松城代として努めています。行政面では幕府交渉、藩内人事、財政管理、藩校運営などがありますが、月番で行政担当を努め、残りの組頭(年寄)が加判と呼ばれ承認・非承認の判断役となり、重要事項の全員連署で決定していました。つまり、加賀八家の八人が加賀藩の最高首脳部になります。 加賀八家をあげると(所領は時期で分家・返上や相続・恩賞・昇給で変動があります。) 本多家   ・・・筆頭家老5万石 家祖・本多政重 徳川家康の最側近で某臣と呼ばれた本多正信の次男         本多政重の波瀾万丈の人生は以前(松風閣庭園)で書いていますが、紆余曲折(七家を渡り歩いています)の末で前田利常に2万石で帰参、対幕府交渉に当り、特に幕府からの越中国返上の強要を撤回させた功績で3万石を加増されてます。また利常・光高・綱紀と三代の藩主の補佐をしています。 長家…

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黒壁山薬王寺 九萬坊権現

ずいぶん前になりますが、金沢に伝わる天狗伝説を紹介しています。その天狗というのが九萬坊大権現。額団地の頂上にある満願寺山にある九萬坊権現が著名です。 他にも前田利家の墓守寺・桃雲寺。三代藩主・前田利常の正室・珠姫の菩提寺・天徳院。他にも利家の六女・菊姫の肖像画を伝える寺町の西方寺など、前田家所縁の寺院に伝えるものが多くあります。その主人公が九萬坊大権現という存在になります。 九萬坊には幾つか逸話があるのですが加賀藩絡みでは、九萬坊は金沢城の本丸の森に住んで、辺り一帯に勢力を誇っていたと云われています。前田利家が金沢に入城した際に、九萬坊を追い出して金沢でも山間地の一つ黒壁山の奥地に封じ込めたと云われています。 九萬坊を追い出した利家は跡地を切り開いて、本丸御殿・天守台を築いたと云われています。ところが、九萬坊の怨念か、主には度重なる落雷によって天守・御殿は幾度も焼け落ちています。金沢城公園に訪れたことがある人には解ると思いますが、現在の金沢城の本丸は広い城域の中でも南面の高台で城内を見渡せる好位置に在りながら、何にもない場所で観光客の人もあまり滞留しない裏寂しい場所になっています。 五層の天守が慶長7年(1602年)慶長の大火で焼け落ち、跡地に三階櫓が天守替わりに建てられたのですが、寛永8年(1631年)寛永の大火で三階櫓・殿様屋敷が焼失、ついにこの時で本丸が放置されて二の丸に御殿が移されています。以降、本丸には目立った建物は建てられず庭園となっていた時期もあったようですが、江戸期…

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戸室山 医王山寺~

暖冬だなあ、もう雪は無しかなあと思っていた年初め、ところが10日過ぎくらいから急激に寒くなって雪が降り始めました。その降り始めの12日、でも市街はチラつくくらいで積雪もなかったんですが、仕事で金沢大学の角間キャンパスに行ったんですが、案外に早く終了しちゃって手持無沙汰の時間が。。 というわけで、足を延ばしてキゴ山の方に行って観ることに。。 さて山の方に向かってみると、積雪はたいしたことはないけれど、さすがに寒いと思っていたら。。 昼過ぎだというのに山の木々には雪の華や氷樹の華が咲いてるじゃないですか。。 金沢中心街から10キロ弱と車で30分ほどで行けることと、キゴ山には自然観察やキャンプなどの屋内外施設やプラネタリウム(銀河の里キゴ山)など子供に人気のある場所で、家族連れが多く集まってきます。 冬季間もプラネタリウムはもちろんですが、スキー場もあって一年を通して人気がある場所です。 今冬は雪が降らなくて、スキー場や雪まつりが出来なくて心配されていましたが、この日の後からの一気の積雪で解消されたようです。よかったよかった。 キゴ山(標高546m)の斜面を利用する医王山スキー場の向かいにあるのが戸室山(548m)になります。 戸室山と言えば戸室石。金沢城の石垣の95%がこの石を使用しており、重要神社の石垣・鳥居・狛犬、上級武家屋敷の塀石垣基礎、石橋の用材、用水道の導管などに使用されていた加賀を代表する名石です。金沢城建築時はこの戸室山を中心にキゴ山を含む半径1.5キ…

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小坂まり子遺作絵画展 奥卯辰山県民公園

仕事で久しぶりに鈴見台のお客様の御家にお伺いしたのですが、こちらに伺うとついつい奥卯辰山のコブハクチョウが気になって、ついつい様子を観に足を延ばしてしまいます。 前回のブログ あいにくの強い雨ふりで、いつもなら山頂駐車場から金沢の遠景を眺めたり、池を一周するんですが。。さすがに、ヘたれな自分としては白鳥君(コブハクチョウ)を観にスタスタ。。 以前もご紹介しましたが、現在は伴侶を失って一羽寂しく佇んでいます。いつもなら、近づくとス~~っと離れて行ってしまうんですが、雨降りで寒いせいか、しばらく眼の前にいてくれました。翼を広げてもくれたのに、撮り損ねちゃいました でも、やはり、一羽というのは寂しそうですねえ 寒い雨の中の姿は美しいですが。。。 早くお嫁さんが欲しいですねえ。。。。 雨降りの中しばらく白鳥君を眺めていたんですが、白鳥君が池の奥に行ってしまい、追い掛ける気力もなく管理棟の自販機コーナーに は~~っあったか~~いココアが冷えた体に沁み渡る~~ どしゃ降りの中では、いつものように公園内を散策したり、駐車場から金沢市がを眺めるというわけにもいかず、、、まっすぐ戻るかなあと考えつつ、2階展示ロビーに。。 2階展示場は来場客が多い時でも、ほと…

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堅田城址

加賀と越中を結ぶ北国街道は旅人にとっては古来から大事な街道として機能していましたが、何といっても倶利伽羅峠という難所があるために交易路としては大きな難点になっていました。険しい道ではありますが、起伏が少なく大きな難所がないことで、越中との交易路として重視されたのが小原越道でした。 現在も北陸自動車道や国道304.359号、山側環状、国道159号など主要道路が交差して大きなICを構成する森本ICのように、往時も北国街道と小原越道が合流するのも、この森本の地になりました。また能登から津幡宿を経由する道も手前で北国街道に合流しますから、越中からの2街道と能登からの街道も重なり交通の要衝となっていました。 加賀と越中が本格的な戦闘を行ったのは倶利伽羅峠の源平合戦。ここから源義仲が松根城と共に築城したという伝承がありますが、倶利伽羅合戦以降は源義仲は加賀には長く留まらず進撃を速めていますから、その可能性は低いと思います。 更に時代が下って、越中の佐々成政と加賀・能登の前田利家が国境の多くの箇所で戦闘を行っています。余談になりますが、二人の立場や状況があったと思いますが、基本的には佐々軍が攻勢に出て加賀、能登への侵攻を行い、前田軍は徹底して防衛戦に徹した印象を受けます。 野外戦となった前田慶次城代の氷見の阿尾城、防衛戦に徹した奥村永福の末森城、同じく防衛戦を戦った前田秀継の今石動城などが良い例であり、撤退戦の不測時で発生した津幡の鳥越城の落城、朝日山城の佐々軍占拠という例外はありましたが、…

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中村神社拝殿 (旧金沢城二の丸舞楽殿・旧卯辰山招魂社拝殿)

今年の春に金沢城の玉泉院丸が復元公開されました。次の復元は玉泉院丸と金谷御殿の間の堀を繋いだ鼠橋や鼠多門ということで計画が進んでいるそうです。そうなると、金沢城と尾山神社が繋がることになります。 近年、金沢城の復元計画が進められています。それに合わせて調査や発掘も進められており、今月には本丸南側に庭園があったことが確認されたところです。しかも寛永年間の火災の瓦礫が積み上げられていて、年代も特定されたそうです。 金沢市や石川県では百年後の国宝を目指しているそうですが、金沢城内の建物が無くなったのは明治14年(1881年)の陸軍歩兵第七連隊が基地を置いた際、それも火の不始末による焼失でかえすがえすも残念な出来事になっています。金沢城内の石垣を残して、江戸期の建物は石川門・三十間長屋・鶴丸倉庫くらいしか残っていません。 石垣に関しては石垣の博物館と云えるほど、多種多様な石組みや技法がありますが、やはり建物がないというのは寂しいものです。 明治期に金沢城が焼失したわけですが、それ以前に移築によって焼失を免れた遺構が幾つかあります。尾山神社の裏口にある東神門は二の丸御殿唐門 として使用されていたものです。また以前紹介しましたが尾崎神社は本殿、中門、透塀、拝殿・幣殿は元々は北の丸に東照権現としてあった物です。金沢城内にあった建物としては尾崎神社は現存する最古の遺構になります。 他には玉泉院丸太鼓塀も城外に移されたそうですが、こちらはどこにあるのか復現地に戻したのかは不勉強で僕にはわかりません…

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佐奇神社(さきじんじゃ)

富山との県境の稜線にある奈良岳(二又川)や大門山(倉谷川)の稜線を源流にして、金沢市街を流れる犀川は、途中幾つかの支流や用水路を配したり、幾つかの支流を合流して、普正寺町と金石の河口から日本海に注いでいます。金沢市民の貴重な水として利用され、文学にも多く取上げられて石川県内では一番有名な川ともいえます。 犀川は辰巳用水が代表するように、金沢市内を巡るように水が供給され、兼六園の湖や噴水もこの水が美しい景観を演出しています。また本流も浅野川が泉鏡花が浅野川を女川と評し、それに対比するように男川と呼ばれています。更には室生犀星や国府犀東といった中心街に育った文学者たちにも大きな影響を与えています。 今はあまり観られなくなりましたが友禅流しの風情や、河岸広場の桜など金沢市民の憩いや伝統にも大きく貢献しています。金沢市民の多くが犀川と浅野川に慣れ親しんでいるように観光客の人達も犀川の流れに眼を休めさせています。 河口には金沢の外港となり銭屋五兵衛を代表とする宮腰湊(現・金石港)が、北前船の本拠として機能していました。同じく大野川を河口(大野湊・金沢港)として河北潟を経由して金沢にたどり着く浅野川・森下川(もりもとがわ)と共に、金沢と日本海を繋ぐ重要な海運としての重要行路にもなっていました。 犀川という川名を持つ川は全国にも点在しています。有名なものでは長野県にある犀川。頼山陽の漢詩で読まれた「鞭声粛々夜河を渡る(べんせいしゅくしゅくよるかわをわたる)。。。」川中島合戦の様子に語られる犀…

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奥卯辰山県民公園 ~ 金沢仏舎利塔

5月下旬、毎年この時季に鈴見台のお客さんの所に来るんですが、今年もやってまいりました。 相変わらずの商品改定と体調不良を言い訳にして、予定を大幅に遅れてしまっていました。あまりに長引いて、言い訳の根拠が薄らいでるような、一種の嫌々病かもしれません、とにかくどこかで発散するしかないですね。 で、またまた恒例のように奥卯辰山に立ち寄ってきました。例年通りですと、時季が早すぎてバラや菖蒲が咲き始めでマバラなのですが、今回は訪問が遅れたのと、花の開花が早くてちょうど良かったかもしれません。 僕の訪れた2週後ですがgoさんが訪れていたようです。詳しい説明なんかや画像は、理屈っぽく、携帯画像の多い僕より綺麗なんで合わせて観て下さい^^; goさん「奥卯辰山県民公園へ」 奥卯辰山県民公園には薔薇のベルギー庭園がありまして、大振りな花を咲かせています。時季がうまく合ったのか、今年は咲き揃った薔薇が観られました。毎回、咲初めだったり、完全に盛りを過ぎていたりで、まともに咲き揃っているのは始めて観ました。天気も良くてバッチリでした。 ベルギー庭園はベルギー政府から贈呈されたものです。金沢とベルギーのなれ初めは昭和45年(1970年)大阪万博になります。お祭り広場で各国の伝統祭事やパフォーマンスが行われていたんですが、その際に金沢の百万石祭り行列とベルギーブリュッセルのオメガングが同日のイベントで一緒になって、意気投合したのが始まりです。      オメガング・・・14世紀ブリ…

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金沢森本IC ~ 旧朝日小学校校舎

先日、不動寺の方に用事がありまして、久しぶりに国道359号線を通ってきました。 僕の住む白山市からは、以前までは8号線から狭い町道を経由して、森本駅近くから359号線に乗るのが一般的でした。ただ、いかんせん、8号線は混むし町道は狭いしで正直好きな道筋ではありませんでした。 ところが交通・道路整備が大好きな知事さんのおかげもあって、海側・山側バイパスが整備されて、白山市から金沢を越して河北や津幡方面に向かうのが非常に楽になりました。 バイパスが整備されると、当然ながらICが整備されますが、これがなかなか複雑で最初はよく戸惑いました。円型カーブを右に左に廻ったり、行先によってはカーブ途中で車線変更も。。普通に車で走っているとよく解らないんですが、幾何学的な形態になっているのはなんとなくわかります。ところが実際には自分の眼で、この形態が解る場所というのはなかなかないものです。 山側環状バイパス・北陸自動車道・国道359号線が重なる「金沢森本IC」の辺りが、県内でも一番大規模なICになるのですが、なんとこれを見下ろせるような見晴台が存在するわけです。地元の石川県民でも知られていない存在の穴場です。場所は工業団地のある北洋台の西端、月浦町の東端になります。位置的にはICの南東の山裾になりますから、山側環状がメインになりますけど。。。あまり訪れる人もいないし、車で登れるので休憩にも良い場所。 画像で手前からまっすぐ伸びてトンネルに向かっているのが「山側環状道路」。 トンネル(森本ト…

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瓶割坂③ 雨宝院

前回の神明宮の境内を遊び場にしていた室生犀星が幼少・少年期を過ごしたのが「雨宝院」です。正式名は「千日山 雨宝院」。真言宗の寺院です。 創建は天平7年(737年)。北陸の寺社仏閣・神社には必ずといって良いくらい顔や名前が出てくる泰澄上人。この雨宝院も縁起によれば、泰澄が大日如来を本尊として秘法道場として精舎を建てたのが始まりとされています。 中世になって神仏習合が主流になると、大日如来=天照大神となって天照の十六歳像が本尊に加えられています。現在もこの像は本堂内に安置されており、院内を見学すると観られます。 同じ天照大神を信奉する神明宮とは親交が深かったと云われ、室生犀星が境内を遊び場に出来たのも寺院と神社の親交が深かったためではないかと云われています。 長い年月に荒廃衰退していたようですが、安土桃山期の文禄2年(1593年)、大和出身の修験僧・雄勢が伊勢神宮での千日参籠・修業を修めてこの地に来訪、再興を果たして現在に至っているそうです。 雄勢は参籠末期に天啓を受けてこの地にやって来たそうですが、その際に金毘羅十一面観音、三種の神器、白狐二匹を供奉して来たと云われ、現在にも伝えられ本堂内に安置されています。 現在でも千日回峰や千日参籠の達成はニュースになるほどの快挙ですが、当時は尚更に成就者には尊敬と崇敬が集められていました。雄勢も地元から「千日和尚」と呼ばれ尊敬と崇敬を集めたようです。雨宝院の山号もこの千日和尚から来ているそうですが、雨宝院のある千日町もこの名から来て…

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瓶割坂② 神明宮

前回の大蓮寺のお隣にあるのが「神明宮」になります。 神明宮は金沢五社(宇多須神社、小坂神社、神明宮、椿原天満宮、安江八幡宮)に数えられる江戸期に重要視された由緒ある神社です。金沢五社は以前にも書いたことがあり、この神明宮も文字だけですが、簡単な説明を書いていました。 椿原天満宮(椿原山砦跡) その時の文章を抜粋すると 金沢五社 ・・・ 前田家の加賀藩時代には、金沢の町と城の鎮護と防衛拠点として、正式な神官だけが常駐している神社が五つ存在しました。金沢城を囲むように存在したこれらの神社は、宇多須神社、小坂神社、神明宮、椿原天満宮、安江八幡宮 それぞれが浅野川や犀川、卯辰山や小立野台地と云った重要拠点に配置されているのですが、地図で見ると五芒星の形に配されているようにも見えます。現在も金沢五社巡りとして、神社愛好家に人気のコースになっています。  加賀・金沢神明宮・・・金沢城の南に位置し、犀川に掛かり加賀・松任・鶴来からの主要入り口となる犀川大橋のたもとで、城から観ると犀川の対岸となる場所にあります。 別名は祓宮(はらいのみや)。この名は江戸期、正月などに金沢城内で使われた注連縄などを寺社奉行立ち合いで、境内で祓い燃やすのが慣例となっていたためです。この行事が金沢の左義長の起源と云われています。 また、春(5/15~17)・秋(10/15~17)に行われる「あぶりもち神事」は食べるお守りとして、金沢の風物詩の一つになっています。 上戸彩・高良健吾主演の「武士の献立」の前作と…

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瓶割坂(かめわりざか)① 大蓮寺(だいれんじ)

国道157号線を野町広小路から犀川大橋に向かうなだらかな坂道があります。この坂は別名「瓶割り坂」と云います。古くから北国街道の主要道で、尾山(金沢市街)に入る入口になっていたようです。 瓶割坂の名の由来ですが、奥州逃避行中の源義経一向がこの坂に差し掛かった際、同行していた義経の妻が産気づき、慌てた一行が瓶に入れていた衣服を取り出そうとして、大事な瓶を割ってしまった所から来ていると云われています。 余談ですが30年近く前、転勤で新潟に移った際、国道8号線沿いの米山IC近くの峠越えの道路沿い(たしか米山トンネルを抜けてすぐだったかな)にある胞姫(よなひめ)神社に立ち寄ったんですが、地元では安産の神様として信心されているんですが、ここにも同じ逸話が伝わっていて驚いた記憶があります。ちなみに柏崎の上輪の峠の坂道は漢字違いの亀割坂と云うんだそうです。 この瓶割坂は幹線道路の一部で観光客も犀川沿いに行きますし、寺町や片町に向かうために通り過ぎる人が多いんですが、江戸期から重要視された寺社があります。入口が狭くて通り過ぎることが多いんですが、一度くらいは中に入ってほしい寺と神社があります。それが「大蓮寺」「神明宮」「雨宝院」 と。云うわけで今回は3部作になります。たぶん。。。。 まずは「大蓮寺」 「宝池山 大蓮寺」は浄土宗の寺院で、開山は天正11年(1583年)に前田利家の金沢入城に伴って、荒子七人衆の一人・小塚淡路守秀正が七尾の西光寺の広誉怒白上人を勧請して創建したのが始まりです。…

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新幹線の見える丘公園

先週、金沢市街・北部に行ったついでに、少し足を延ばして津幡まで行ってきました。 土曜で予定も多くなかったんで、少し気分転換でドライブがてらといった感じ。。 3/14に北陸新幹線が開業して、金沢市街は大賑わい。。新幹線だけでなく県外ナンバーも目立って、土日は渋滞も多くて金沢市街は避けていたんですが、そういう時に限って行くことになったりして。。。もうたいへん 新幹線を撮影しようと、あちこちのスポットにはカメラをぶら下げたり、三脚担いだ老若男女も良く見かけます。 そんな、撮影スポットの一つで人気があるのが、津幡町が造ったその名もずばり「新幹線の見える丘公園」 TV番組やニュースでは何度も放映されていましたが、今一つ場所が解らなかったんですが、そこは地元出身者の僕。映像風景で見当をつけて行ってみることに、やっぱりちょっとしたミーハー気分ですね 旧国道8号線から石川高専を過ぎて、津幡高校側の陸橋側の交差点を過ぎて右折した道路沿いの旭山工業団地の入り口にありました。この道は国道359号線の上平や朝日といった内山峠に抜ける道です。 ちなみに上平や朝日は金沢市になりますが、僕の中学時代は交通・環境の関係で中学生は津幡中学に通っていました。当時も何人か同級生がいました。当時は舗装も…

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鳥越の雪 ~ 秋浜海岸の夕陽

すっかりご無沙汰しています 毎年のことながら、この時期は仕事の繁忙期で只でさえ、更新や訪問が滞ってしまいます 今年は更に仕事の商品改定や帳票や支払方法の変更で、繁忙に輪を掛けて苦しんでいます 更に、年末にひいた咳風邪が治らず、、、、まあ治りかけに嫁さんがインフルになって、、、うつされて悪化したんですが、、、幸い、僕のはインフルではなく風邪だったみたい、、、でもしゃべってると咳が止まらない。。 ついでに時間のある時に記事UPをしようとしたら、PCの不調か、、、途中で消えちゃったり、、、 マア、二重どころか四重苦。。。。と云ったところ。。。 4月半ば過ぎには完全復帰予定(大丈夫かなあ。。) 忙しいとは言っても、サボろうと思えばサボれる営業仕事。。写真だけは溜まっています。まだ、前のも残っているのに。。 ちまたでは、桜の開花や満開情報が聞こえてきます。僕の近所でも早咲きの桜が観られたりします。春ももうすぐ本番。スタッドレス…

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傅泉寺(でんせんじ、大野弁吉墓所) ~ 大野日吉神社(大野弁吉居宅跡)

金石・大野地区の有名人と云えば、以前何度かUPした銭屋五兵衛と大野弁吉(中村屋弁吉。 銭屋五兵衛は海の百万石・海の豪商と呼ばれ、河北潟の干拓事業による一家破綻など、波瀾万丈の生涯を送った人物です。前に幾つか書いていますんで興味のある方はこちらをどうぞ ⇒ 銭屋五兵衛記念館 銭五の館 本龍寺・銭屋五兵衛の墓所 大野弁吉も一度書いています ⇒ 金沢大野からくり記念館 概ねの経歴などは「金沢大野からくり記念館」で書いてありますので、お読みいただければ幸いです。 からくり儀右衛門こと東芝の創始者の田中久重と並び称されますが、対照的な生き方をしたからくり職人として知られた人物です。羽子板職人の子として京都に生まれ、30歳で指物師・中村屋の娘・うたと結婚して婿入りしています。その後すぐに、妻の故郷である石川郡大野村(現・金沢市大野)に移っています。 清貧を旨として、製作・研究にその生涯を費やしています。 その製作は本業の指物師としての家具・根付・神棚・祠の他、獅子頭・山車は現在にも伝えられています。祭礼の県内の獅子頭が20頭、美川のおかえり祭りの山車などが知られています。この製作の合間には、エレキテル・色ガラス、火薬の製法・大砲・色ガラス製法・細工・写真機・湿版写真、更には鶴型模型飛行機の製作、医学分野では梅毒研究・医薬品開発と他分野にまで及んでいます。 発明家として藩内外に知られる存在でしたが、地位名声・金銭への執着がないというより敬遠した帰来が強く、加賀藩からの登用にも謝辞、高峰…

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千枚田 イルミネーション

冬になるとすっかり出不精になるし、年末年始の風邪で体調不良でまったくと言っていいほど、仕事以外の外出がなかった僕。ストレスが溜まりに溜り、ついに爆発。 一緒に行かないかと誘っても反応を示さない嫁さんに「ちょっと、行ってくる!!」 午後3時半頃に、行先も告げずに車に飛び乗ってひとっ走り。。向かうは輪島・千枚田 海側バイパスから、H25.4に無料化になって料金所が無くなって、ノンストップで能登空港まで直通になった能登海浜道路改め「のと里山海道」をひた走り、輪島への山越え、海岸線と更に15キロほど。。 場所によって海道に残雪などがありましたが、意外に車も少なくスムーズにPM5:30過ぎ到着。。夕方だけど、まだ当りは少し明るい感じ。。陽が長くなってきましたねえ。。 やって来たのは、輪島の千枚田ポケットパーク 千枚田では冬季間はイルミネーションを施しています。 能登は冬は風も強く、風景も冬枯れで寒々しく厳しい感じ。竹などを使った間垣の風景や波の花など、食も穴水の牡蠣が美味しい。それはそれで風情がありますが、やっぱり寒々しく厳しいのはと、途中の七尾・穴水辺りは雪も多いので、敬遠されることが多いのです。確かに能登と聞くと冬のイメージを持つんだけど、寒い・厳しいはマイナスイメージになってしまいます。 観光に力が入る能登ですが、四季の中でも冬はどうしても観光が落ち込む傾向があります。 そりゃそうだ。。寒風吹きすさぶ海風のなか、海の前に立つのはよほどの酔狂な人か、失恋でもして落ち込んでるか…

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浅野川大橋詰めの火の見櫓

前回の記事内で火の見櫓に触れた際に、この浅野川大橋詰めの火の見櫓の画像が無かったので、市街に仕事があったついでに写真を撮って来たのが今回の「浅野川大橋詰めの火の見櫓」です。ただし、陽が暮れかかった時間帯で、大通ということでフラッシュは焚かなかったんで暗い画像になってしまいました。 浅野川大橋は文禄3年(1594年)、前田利家が河北・越中と金沢を結ぶ重要道路と云える北国街道を分断する浅野川に架けた橋が始まりとされています。 大正11年(1922年)にコンクリート造り、三連アーチの美しいフォルムに架け替えられたのが、現在の浅野川大橋になります。昭和63年(1988年)、車線拡幅、照明・高覧などの大改修が加えられて現在の姿になっています。この改修工事で架橋当時の姿に戻り、浅野川沿いの東山茶屋街や主計町(かずえまち)の茶屋街など金沢観光のメッカを繋ぐ橋になっています。平成12年(2000年)に犀川大橋と共に、国有形文化財に指定されています。 僕が小学生の頃、津幡から金沢に来るときは、大概は汽車を利用することが多かったんですが。。 3年生の時にダンプと格闘して負けて頭部強打で約1か月入院したことがあったんですが、退院後に病院の指示で精密検査のために週に1.2度でしたが、1.2か月ほど母親に連れられて大学病院に通わされました。 当時は家の近くに金沢直通のバス停があったのでバスで通っていました。すぐに車酔いする僕にとってはバスは苦痛の何物でもなかったんですが、おかげで夏休みを含む約3か月の休学…

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石川県消防学校 ~ 河北潟野鳥観察舎

以前、紹介したことがある石川県消防学校。 年に1.2回ですが、仕事がらみで訪れるのですが、いつも事務室どまり。。さすがに消防・防災関係者じゃないと、なかなか奥まで入る機会はありません。ですが玄関やロビーには消防車や纏や装束などが展示されています。 前回はあまり画像を紹介できなかったので、今回は続きということで、、、、興味深い展示物があるので機会が在ったら立ち寄ってみることをお勧めします。ただし、校内は日中は授業や訓練が行われていますから静かに見学しましょう。 石川県消防学校は沿革によると、昭和31年(1956年)石川郡松任町(現・白山市松任地内)に石川県消防訓練所が設置され昭和35年に「石川県消防学校」と改称したのが始まりです。昭和38年に金沢市畝田町(うねだまち)に移転、昭和57年に現在の金沢市東蚊爪町(ひがしかがつめまち)の校舎に移り、平成に入って屋内訓練場やグラウンドに丙ポートが新設されて現在に至っています。 石川県内の消防人材の育成を担っていて、市町村で採用された消防職員は全寮制で缶詰教育で今年も62名が巣立っています。、更に県内の消防団員の専科・幹部教育、地域自衛消防団、少年消防クラブ、他の団体の一日入校学習なども行っています。 展示品は多くはありませんが、玄関脇には昭和期の消防車、ホール内には明治から昭和まで使用された手動ポンプ車、耐火服・消火器など消火道具の展示があります。更に消防、防災の紹介も行われています。 また、加賀八家の…

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宝乗寺

宝乗寺のある三谷地区は金沢から山越えで越中・福光に抜けられる国道304号線の県境近くの山間になります。金沢から富山方向に走って、古屋谷町の交差点を右折すると、これまた峠越えに医王ダムから流れる森下川伝いに、以前ご紹介した二俣本泉寺に抜けられるのですが(県道211号)。。右折してしばらく行くと山中に入るような車町という住宅団地があります。そして住宅街の一番奥に宝乗寺の駐車場があります。 211号沿いにも入口はあるんですが、長い階段をひたすら登ることになるし、そもそも駐車スペースはあるけど狭く、水汲みの人に邪魔になってしまいます。登り口に七面清水(しちめんしょうず)という洗水と清水があり、けっこう車で水を求める人が多いようです。 正式名は明珍山・宝乗寺。日蓮宗の寺院です。 創建は当寺縁起によれば、真言宗の寺院として創建されたとされます。真言密教に関連する真言宗は北陸には多く観られましたが、そもそもこの辺りは医王山系に当たり、修験者が多く存在したことが覗えます。 永仁2年(1294年)、日蓮宗の北陸本山・妙成寺を開基した日像が京都布教の途次に立ち寄り、法論の末に日蓮宗に転宗させています。日像の足跡は北陸に多く残されていますが、七尾の石動山・天平寺でやはり法論を持ちかけて排斥されていますし、この後京都でも延暦寺・東寺から排斥を受けていますから、その法論の持ちかけはけっこう過激だったようです。ともあれ、1.2度京都から追放処分を受けていますが、赦免後は後醍醐天皇の保護の元に京都に妙顕寺を建立、公…

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尾﨑神社

黒門前緑地と同じ並びの西側にあるのが「尾﨑神社」 塀垣や社殿が朱色に塗られていて、古風で落ち着いた神社が多い金沢の中でも異色な神社です。 寛永20年(1643年)、4代藩主・前田光高によって金沢城北の丸に建てられたものです。元々は金沢城内の北の丸は現在の尾﨑神社の裏面に当たる場所になります。 創建時は「東照三所大権現社・神護寺」と命名されていましたが、明治の神仏分離で現在の「尾﨑神社」となっています。明治8年(1875年)陸軍第七連隊が入場して金沢城が陸軍省用地になると、明治11年に現在地に移設遷座されています。 東照大権現社の名の通り、幕府からの許可を取り徳川家康(東照権現)を祀ったもので、日光東照宮から分霊を受けてを創建したものです。当時の幕府の大工頭・木原木工允を棟梁として呼び、金沢の大工・宮大工が施工。もちろん、金箔・塗装など材料は金沢産が多く使われており、象嵌や金具などの飾り細工は京都・金沢の名人・職人が集められたと云われます。加賀工芸は国内でも特筆されるものですが、この神社建築が始まりと云っても過言ではありません。ちなみに金箔は金沢が昔から突出しており、本場の日光東照宮の金箔は金沢産です。 全国各地に東照宮はありますが、東照宮建築としては本殿と拝殿を分離させるなど最初期のものとされています。また、北の丸の発掘調査から石瓦が発掘され、他に建物があったことが確認されています。 御存じのように、明治14年(1881年)陸軍金沢第七連隊の火の不始末で金沢城は三十間長屋、…

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