金谷出丸 南面

尾山神社は金沢城の金谷出丸の地に創建されたものです。 金沢城は北の浅野川、南の犀川に囲まれ、東の小立野台地と自然の要害地に囲まれた城郭でした。特に搦め手の東は小立野台地の東端の千歳台(現・兼六園)とは大きな段丘の落差に百万石掘(白鳥堀)という最大幅・深度の堀が配されていました。南は台地の断崖に石垣と宮守堀(いもりぼり、復元堀は往時の半分幅)と二重の大障碍を設けていました。また大手(尾坂口)となる北側は城外よりも城の方が高台になり大手堀と百万石堀に匹敵する堀及び三の丸・二の丸と幾重の障碍が配されていました。尾山神社西神門よりところが堀は配されているものの西側は高低差が少なく、攻城軍の主力が配されるであろう平地が多い西側は、金沢城最大の弱点地とも云えました。城方の前線基地となる出丸が必要となり設けられたのが金谷出丸でした。江戸初期には金谷出丸の南(現在の広坂合同庁舎)にも外出丸があったと云われています。 延宝年間(1673~1681年)の詳細な金沢城図が残されています。              ⇒ 金沢城図(奥村家鎧袋内・箱入)(玉川図書館蔵)上が南、下が北、左が東で右が西になります。是非クリックしてみてください金沢城図は城構造や建造物を詳細記入、彩色した精緻な図絵で建物名称・主要室名も記し、辰巳用水から城内への通水水樋の埋設経路更に幹支線に渡り書かれたものです。ここまでの詳細図は珍しく、本来藩主格の持ち物で機密重要書類と想像されます。初期の金谷御殿が描かれているために加筆あるいは18世紀半ばと…

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尾山神社遥拝所と雑話

実は前回のブログに続け書きをしてたんですが、あまりに長く煩雑なものになったので、別枠の雑話ということで。。。 気分が悪くなるような宗教話や批判ばかりが目立つと思うんで、、、、ご容赦を。。。 右:遥拝所入り口石段横 関口光生記念標 従三位神田孝一謹書 とありますが、僕には不明。。横に顕彰碑がありましたが、時間もなく、摩耗で真剣に読めませんでした。。下:遥拝所入り口 ここから神苑の背景の裏山を巡れます。 次回に回そうかとも考えていたんですが、神苑の背景となる出丸南面の山林の山は明治以降には通路が造られて、歩けるようになっています。南西面にある神輿庫前にある顕彰碑横の石段から登れます。入り口に遥拝所の標柱があり、それが目印。遥拝所 伊勢神宮の方向に向けています。尾山神社では春分・秋分の日をメインに遥拝所での遥拝が行われているそうです。 ここからの文章は個人的意見ですから、宗教話や神道支持派など反発を感じる方はパスしてください。。 遥拝所は山岳信仰として山を神体として拝む場所になるものと、今回のような伊勢神宮などを拝むものがあります。神社や仏閣を巡ることが多い僕は、たまにこういう遥拝所を観ることが有るんですが、前者の山岳信仰の遥拝所は良しとして、伊勢神宮に向けた遥拝所は存在自体が国家神道の押しつけのようであまり好きではありません。 そもそも今回の尾山神社にしても、先に何度も書いたように尾山神社創建時の神様は加賀藩祖・前田利家個人だと理解されていると思います。ところがそんな個人の神社で伊勢神宮…

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尾山神社④ 神苑

神苑東側から 手前の飛び石が沢渡り、女性が渡っているのが八ッ橋、右手には水上に藤棚が配され、左手は琵琶島で奥に図月橋、図月橋の向こう岸は鳥兜島 尾山神社の南面に広がるのが神苑になります。10年程前は神仙苑と呼んでいたのですが、今は神苑と統一したようです。別名は和楽器の庭。明治になって尾山神社が創建されると、それまで荒廃した庭園に大きく手を入れて整備し直しています。⇒ 2009.07.29 尾山神社 神仙苑上:西丘陵から 右:南丘陵から神仙苑は元々は金谷御殿庭園となっていました。その創始ははっきりしませんが、以前までは池泉の存在と小堀遠州作と伝わったことから1620年頃と推定されていました。ただこの推定の問題点はまだ戦国の風が残った時代に出丸の地に御殿はまだなく、庭園だけを造るかという疑問が湧いてしまいます。18世紀初頭には庭園が作庭されたのは確かでしょうが、個人的には現在の泉水を配した庭園は前田斉泰が金谷御殿を大きく増築したころ文化15年(1844年)以降に整備したのではと思っています。辰巳用水導水管現在の神苑の池水は地下水を利用していますが、金谷御殿庭園時代は金沢城から辰巳用水の水を通水していました。この通水には兼六園霞ヶ池から金沢城内に通水した方式と同じ逆サイフォンが採用されていました。文化15年(1844年)に導水管が木管から、庄川上流の金屋石の石管に変えられています。この時に泉水や滝が配されたと思われます。神苑 響遠瀑 水が勢いよく流されてる時もあるらしいんですが、僕は未体験、観られたらラ…

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尾山神社③ 本殿・金谷神社・東神門

尾山神社の本殿は明治6年(1873年)建立。古式に則ったという三間社流造・銅板葺屋根、拝殿と本殿の高さを合わせ間の低い位置に幣殿代わりの庭面(石の間)が置かれた権現造の様式になっています。本殿は拝殿との高さを合わせるために底部を懸け造の木組みで支えています。今年9月、以前までは緑青などで緑がかった屋根色でしたが、真新しい明茶色屋根に変わりました。20X36.5㎝の銅板4000枚を使用し、屋根面だけでなく鬼瓦・千木・鰹木にも銅板を巻いたり覆ったりで処理が施されています。本殿前の守護神? 遠目には狛犬?龍?身体は蛙? ピンボケで申し訳ありません。。本殿は尾山神社境内でも一番の神域で、勝手に中に入れないのと、観ようと思うと最奥の東出口に向かうため、金谷神社と木々に隠れて暗がりで観光客もほとんど居ない場所ですが、注目に値するものが一つ。本殿を囲む塀垣で、神社などでは玉垣と云います。拝殿・石の間と金谷神社の境界には銅板葺柵塀垣ですが、本殿南面には銅板葺レンガ塀が玉垣として重厚な守りとなっています。等間隔で梅鉢紋透かしを施されています。神社でこれはなかなか見られない代物です。ちなみにこのレンガ塀は、金沢で最初のレンガ建築になります。以前、金沢の代表色の一色としてレンガ色を紹介しましたが、代表となるのが赤レンガミュージアム(旧金澤陸軍兵器支廠兵器庫)としましたが、それよりも40年近く古い建築物で、金沢の代表色の原点と云える建築です。金谷神社 上:拝殿      中:拝殿・幣殿・神殿      右:金谷神社境内尾…

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尾山神社②神門・狛犬・拝殿・菊桜

尾山神社と云えば、人気を集めるのは西の表参道石段上にある尾山神社神門 右:西表面 下:東裏面明治8年(1875年)11年、長谷川準也(金沢製糸場創業者、第2代金沢市長(M30~金沢区を含むと8代目))・大塚志良(長谷川準也の弟、江沼郡長)兄弟が願主となり、金沢大工・津田吉之助が設計・施工したものです。ちなみに津田吉之助は北陸のダヴィンチと呼ばれた大野弁吉の藩校や家にも通う弟子筋でもありました。石川製糸場の織機も富岡製糸場派遣で学び製作しており、吉之助の子・米次郎と甥・駒次郎は明治33年国内初の動力式絹織機を作製、明治42年に駒次郎が金沢で個人経営の「津田駒次郎工業」を開業、現代の高速自動織機で世界トップシェアの津田駒工業となっています。神門中央 透彫り 上:西表面 下:東裏面上画像中央門の床面の円盤は、後で紹介しますが神苑の大型灯篭の天板だと云われています。灯篭の崩落で人身死亡事故によって、天板に神罰の意味で人に踏まれる通路に埋め込んだと云われています。家紋の透かし彫りも撮影したんですが画像が消えていました。家紋透彫りに興味のある方はこちらをどうぞ⇒2009.7.29尾山神社神門は和漢洋の銅板四柱造三層建物になります。その異様な造りが徐々に人気を集め、金沢のシンボル的存在になっています。高さ18m、避雷針は8メートルになります。 基部にはレンガ積みが施され、全体を木造架橋で支持しています。門となる第一層は神苑の渡月橋をモデルにしたと見られ、戸室石が使用され、木製門扉には加賀梅鉢紋や透かし彫りが施…

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尾山神社①

金沢観光でシンボル的存在と云えば尾山神社・西神門が挙げられます。尾山神社の地は、金沢城の金谷出丸と呼ばれた堀に囲まれた出丸でした。金沢城が攻められた際には最激戦の地となる場所のはずでした。しかし250年に渡る江戸の太平期ではそういった戦闘もなく、藩主の別邸と馬場が置かれていました。明治4年(1871年)廃藩置県により藩主が東京に去った後、とはいえ全国的に長い藩政を懐かしむ風潮から、士族会を中心に全国的に藩祖を祀る神社の造営が行われていました。尾山神社もその一つと云えるものでした。明治政府も慰撫政策から容認していたようです。 幕藩体制の時代には公に藩祖を神として祀ることは幕府への遠慮から大名家では忌避されていました。ところが加賀藩では、慶長4年(1599年)藩祖・前田利家が没した際、浅野川から引き揚げられた卯辰の鏡を神体に、式内社・物部神社(現・富山県高岡市東海老坂)の八幡神、榊葉神明宮(現・榊葉乎布(さかきばおふ)神社、富山県氷見市阿尾)を勧請して卯辰八幡宮(現・宇多須神社、金沢市東山)を創建して利家の神像を祀っていました。物部神社・榊葉神明宮ともに2代前田利長の守山城時代所縁の神社です。このことは幕府に隠れての公然の秘密とされ、加賀藩と東山の武家屋敷の住人の位別の拠出金で運営されていました。しかし幕末期の藩財政の逼迫と混乱により荒廃が目立ち、神像は卯辰山三社の卯辰山天神社(現・卯辰神社)に仮遷座していました。 ちなみにこの卯辰山天神社は江戸後期に造営された竹沢御殿の部材で建てられた表向きは撫…

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砂子坂道場跡(光徳寺跡・善徳寺跡)

金沢大学のキャンパスを巻くように迂回して、富山県の福光駅まで行く県道27号線。金沢から向かうと県境の地、右手に殿様街道直売所があります。地元砂子坂だけでなく土山など近在の金沢・南砺の農家から作物や加工品が集まっています。殿様街道の謂れは、加賀藩13代藩主・前田斉泰が参勤交代に使用した道という所から。。加賀藩主の参勤交代の経路は当時の状況によって、いろいろと経路を変更していました。この県道27号は越中から加賀に入る道としては古くから使用されていたようで、現在では整備も進んで通りやすく、福光・城端・井波そして五箇山に向かうには便利な道路になっています。しかし、殿様街道は正確に言うと医王ダムを過ぎたあたりから山中に入り、直売所の南の山中の砂子坂集落を通って100m程先の坂道から県道に戻る経路でした。 しかし、この街道も古代には山間の険しい山間地で、相当の山道だったと云われています。この街道が整備されたのは浄土真宗本願寺派(東西分裂以前)法主5世・綽如が北陸下向後ですから至徳元年(1384年、南朝・元中元年)以降になると思われます。綽如は明徳元年(1390年)越中の本山として瑞泉寺(杉谷山)を開基していますが、越中に入る前には加賀二俣(二俣本泉寺)に仮寓居として庵を置いて越中への足掛かりとしていました。優れた先人とはいえ、まだまだ北陸では新興宗教の時代で次代で二俣本泉寺を開基した如乗もしくは土山御坊に入った蓮如・蓮乗の時代、15世紀中~16世紀初頭ではないかとも思われます。戦国から江戸期にかけては浄土真…

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赤レンガミュージアム 金沢を表す三色

******************************************金沢を代表する色といえば、まず連想するのが金沢箔の金色百万石まつりの前田利家の甲冑姿でもお馴染みの金小札白糸素懸威胴丸具足、これに金箔押鯰尾兜・金箔押面貌は金箔工芸の会社では目玉として再現展示しているところが多くあります。現物の具足は天正12年(1584年)佐々成政との攻防戦の末森城合戦に着用したと云われ、末森城主として城を死守した奥村永福(奥村宗家祖)に恩賞として与えたと云われます。その後、奥村宗家から前田家に献上されたものです。画像は金箔製造・販売の箔一の箔巧館・金箔ミュージアムの金箔の間から、黄金の鎧兜を囲む壁面にも1万枚に及ぶ金箔が張られています。プロジェクションマッピングで幻想的な世界観が演出されます。他にも金箔製作体験や、職人作業も見学できるので、観光の合間にもお薦めかも。。  ⇒ 箔一・箔巧館HP箔一は昭和50年(1975年)に浅野邦子(現会長)さんが金箔の工芸品販売を目的に創業した会社になります。浅野邦子女史は京都出身で箔製造の箔屋の四男に嫁いだ主婦だったのですが、オイルショック後の不況で低迷する家計の助けのつもりからスタート、、、箔打ち紙から作った油取り紙が大ヒット(特許も箔一)、更に食用金箔の開発など女性感覚の波及品などで金沢箔を材料から主役に押し上げた功労者です。浅野さんのお姿を拝したのは香林坊アトリオに直営店を出して北陸経済同友会員になった頃、北陸経済会主催の研修会(一里野)に行かされ…

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加賀本多博物館

旧本多蔵品館跡地 現在は国立近代美術館工芸館の移築改装工事中R1秋完成予定 本多家の上屋敷地には平成27年(2015年)まで県立美術館と藩老本多蔵品館が建っていました。昭和48年(1973年)本多蔵品館は加賀八家で最大禄高5万石を誇った本多家と石川県が共同出資で財団法人を設立、旧金沢美工大の図書館建物を利用して、収蔵品2000点(内、初代政重・二代政長関連100点+当主夫妻火事装束2点が県文化財)は調度品や収集品は武家文化を伝える物から、北斎漫画や紀行文の庶民文化まで幅広いものがありました。上:県立歴史博物館・本多博物館共通入口 左二棟が県立歴史博物館、右一棟が本多博物館中:入口前の辰巳用水導水管の復元モニュメント 午前10時から午後4時まで10分間隔で水が噴き出るようになっています。今回は4時過ぎで見られず。。下:本多博物館入口藩老本多蔵品館時代の馬具一式展示(二代・本多政長使用)初代・本多政重画像 讃・沢庵宗彭(たくあんそうほう)筆 平成27年(2015年)東京国立近代美術館工芸館(今秋完成予定)の移設工事で、赤レンガミュージアムに引っ越しています。それまでの手狭な展示スペースが広くなったおかげで常設展示はそれまでのまとまった一斉展示から個別展示が増えています。僕としては、2代政長所用の馬に合わせての馬具一式の展示は気に入ってたんですけどねえ。。それと、単独展示になった当主や当主夫人の火消装束は間近で見られるようになりましたが、周りが無地でイマイチ華やかさに落ちる展示になってしまったかも。。…

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本多の森 本多家上屋敷跡

 石川県立美術館前回ご紹介した県立美術館の地は江戸期には、八家家老で最大所領(5万石)を誇った本多家の上屋敷があった地になります。石川県立美術館最西部 左の建物は文化財修復センター町名となっている出羽町の由来ですが、金沢城・河北門石垣・外総構濠を整備した篠原出羽守一孝の屋敷があったことに由来しています。 篠原一孝は、前田利家の遺言にも「出羽は子供の時から召し仕え、心はよく解っている。片口なる(口が堅い)律儀者だから城を預けても心配はいらない。その上、末森の合戦では若年ながらよく働いてくれたので、弟・良之(佐脇良之)の娘を養女として嫁がせ、姪婿とした。関東陣では八王子でよく働いた。しかし、姪が早死にしたので青山佐渡(守)吉次を聟にしたら良いと女どもも言っているから後で取り計らったらよかろう。」と、家臣団でも第一番に名を上げられています。利長時代には横山長知・奥村栄明(永福長子)と共に執政となっていました。また、ライバルとも云われ、関係がイマイチと云われた高山右近の金沢退去時には、「もし幕府に糾明されたら、自分が勝手にやったんだから責任を取って腹を切る」と、右近への感謝と共にこまごまとした計らいを見せ、金沢随一の武士・武家の鏡と尊敬を集めています。元和2年(1616年)死去、享年65歳。その後、相続した次男・孫が早世したために篠原出羽家は断絶しています。芳春院の実家筋となる篠原本家は次弟・長次が継承しています。 前田利家の遺言や篠原一孝・佐脇良之などの略歴はこちらをどうぞ ⇒ 高山右近記念公園① …

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津田玄蕃屋敷~陸軍第九師団長官舎

金沢は戦災や大きな災害にあっていないせいか、古い路地や建物や庭園が結構残されています。そんな中には観光名所の中にありながら、歴史的に興味的にも面白いのに、あまり人が訪れないものも結構あります。大体がパンフや観光案内には載っていないんですね。載っていても小さな扱いだったり。。というわけで、今回は兼六園の随身口近くにある二つの建物を。。まずは百万石通りから金澤神社に向かう随身口。左手に見える古風な建物。。現在は兼六園管理事務所となっています。実はこの建物は江戸期の加賀藩重臣だった津田玄蕃屋敷だったものです。江戸期の重臣屋敷で玄関付きで残っている数少ない建物です。 前田利家が初めて領地を得た府中三人衆時代(前田利家・佐々成政・不破光治三人合わせて10万石)から急速な領地の拡大によって、利家・利長時代はスカウトや与力武将の参集によって急速に家臣団は数を増やしていきます。加賀前田家が30~40年程の短期間で3万石から40倍の120万石と領土拡大に成功したのは、利家・利長の才覚はもちろんですが、この家臣団の活躍が大でした。活躍=加増となり、利家・利長時代には1万石を超える家臣が20数家存在していました。当時は城・所領持ちである上に戦国気風を受け継ぐ独立心の強い家臣団で、加賀藩は加賀藩前田家を頂点の象徴に小大名連合国家でもあったのです。 江戸期に入って利常・光高・綱紀時代になると、国内戦闘がなくなり、藩内政治・文化振興や対幕府政策などの行政面が優先されます。そこで安定しない地方は十村や代官に任せ、所領を廃し…

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木越光徳寺跡 八坂神社(貴船神社)天狗の森

七尾の小丸山城を下城して一本杉通りに向かうと、大きな伽藍を有する「木越山 光徳寺」があります。11/3の光徳寺の報恩講では、七尾市街地では人気スポットの一本杉通りでは、露店が立ち並び賑わいます。七尾秋の大市として親しまれています。 山号・寺名が示すように、この光徳寺の発祥地は金沢市木越地区になります。戦国期には河北郡の四大坊主寺院(鳥越・弘願(ごがん)寺、吉藤・専光寺、磯部・勝願寺、木越・光徳寺)の一つとして加賀一向宗を主導した寺院になります。そしてこの寺院も加賀富樫家とは深い繋がりがあります。ちなみに現在の光徳寺住職は代々富樫姓を名乗っています。木越山 光徳寺跡 開祖宗性は、第十二代加賀国守護の富樫左衛門尉泰家入道仏誓の孫で、富樫右衛門利信である。文永十一年(一二七四)比叡山に登り天台宗の僧となり、宗性と名のる。乾元元年(けんげん、一三〇二)宗性七十六歳で浄土真宗本願寺覚如上人に帰依する。帰国に当たり覚如上人より、恵心僧都<源信>自作の「阿弥陀如来の木造」と覚如上人自筆の「六号名号」一軸を拝受し、加賀国河北郡木越の里に光徳寺を創建する。戦国騒乱の時代、第七代現道は、加賀一向一揆の大坊主として活躍し、長享二年(一四八八)加賀国守護富樫政親を滅し、「百姓を持ちたる国」を実現させた。 2019.07.15撮影 木越光徳寺跡遺跡 右の白い車の停まっている畑地から薄緑の田園が跡地 天正八年(一五八〇)織田信長から加賀一向一揆平定の命令を受けた越前北ノ庄柴田勝家は二万の大軍を率いて加州に乱入し、一揆…

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芋掘り藤五郎① 金城霊澤 芋掘り藤五郎神社

暖かい陽射しが感じられながら、晴れたと思ったら雪混じりの雨が降るなど、気温変化が激しい先週まで。。風も肌寒かったりして、個人宅の桜は咲いていますが屋外や河岸の桜は今週辺りから咲き始めそうです。こういった肌寒さが残ると、一気に咲いて一気に散ることが多いのですが、今年はどうなんでしょうか。。。今年も残務が押し気味なので、どうせならもっと遅くなって欲しいと内心思っている僕でした。先週金曜日に開花宣言@@雪かぶりの桜なんて何年ぶりだろう。昨日(4/6)標本木も満開に。。来週は各所は花盛りかな。。 先週木曜日、山科の高台に登ったのですが、高台はまだ肌寒く花の気配もありませんでした。久しぶりに芋堀藤五郎神社や大桑化石層に立ち寄ってきました。  石川県立美術館広坂別館 大正11年(1912年)建築。旧陸軍第九師団長官舎として建てられたものです。昭和中期、末、平成27年に改修が加えられていますが、大正期の軍官舎の通例を残す建物です。右側のベージュの建物が増設された県文化財保存修復工房になります。入り口は建物正門からになります。 翌々日の土曜日、午前中の早い時間帯にお仕事終了。。観光客が多くて日中は避けている兼六園周辺ですが、3年前に県立美術館横に移設された県文化財保存修復工房を観てきました。修復センター併設の国立美術館(東京・京都・奈良・福岡大宰府)がありますが、どうしても国宝・重文が優先で、県や市町村の文化財は後回しの傾向があります。これまでも地方自治体の美術館の修復センターは金沢だけでしたが、…

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木製笠塔婆 金沢市埋蔵文化財センター

今月14日、北金沢の千田町から画期的な発見がなされたことが発表されました。 木製の笠塔婆が発見されたのは国内2例目。ところが今回の発見が画期的なのは、梵字が金箔で描かれており、その金箔が残っていたことにあります。そもそも木製品が腐らずに残るのも奇跡的ですが、漆や金箔が残されているというのは、画期的というよりもう奇跡としか言いようがありません。 ちなみに木製笠塔婆の国内初の発見は、平成19年(2007年)奥能登の野々江本江寺跡遺跡で、平安末期の物とされています。ちなみに本江寺は小さな寺院ながら明治まであった寺院でした。珠洲市の飯田高校から東に2キロ弱の金川という河川の段丘上にありました。古くは平安末期から室町にかけては真言宗寺院と江戸期には伝わっていました。(石川県文化財、笠塔婆の竿(支柱)2・笠塔婆の額・板碑) ⇒ 野々江本江寺遺跡出土品(石川県HP) リンクを見て貰えば分かりますが、非常に簡素なもので笠塔婆と言っても、板棒に近い造りです。それでも竿丈は2mの長さがある大きなもの。 千田町で発見された笠塔婆はTVの映像を見ると、額がはっきりある様子。。これは見たい^^/しかも公開場所は、車で15分くらい。。 しかも日曜だけど午前中は仕事で、津幡に用事があるから千田町にも寄って行けるし、公開時間にもバッチリ^^V 発見された場所は全くの偶然の産物。。白山市から金沢の西側(海側)を縦貫する海側バイパス道路。片側2車線化を施しながら浅野川の手前・大河端まで延伸しています。県や金…

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野間神社

金沢の北東部にある野間神社。現在は金沢市ですが、旧小坂村一帯の惣社として河北(加賀)13座に数えられる式内論社としても古い歴史を持つ神社です。小坂村は長く河北郡でしたが昭和11年(1936年)に金沢市に編入されています。 一応、式内社・野間神社に関しては金沢市玉鉾(たまぼこ)の野間神社も論社として主張しています。ただ玉鉾野間神社の主祭神は豊宇賀能売命(とようけび、豊受大神、稲荷神)にしています。豊宇賀能売命は伊勢神宮の外宮の主祭神と知られた食物・穀物を司る女神で、天照大神の相棒的存在で大和系ともみられます。 野間神社御由緒 金沢市小坂町東一番地鎮座 一.御祭神 草野(かやの)比賣大神    配祀   武甕槌(たけみかづち)命 経津主(ふつぬし)命 天児屋根(あまのこやね)命 比咩(ひめ)大神 一.境内地 壱千八百拾四坪 一.由緒    本神社は延喜式内の名社であり、古来小坂地区の総鎮守神として仰がれて来た。    その創建は悠久の大古にさかのぼるが、文献に現れたのは、斉明天皇二年(西暦六五六年)二月を始めとする。以来、歴代天皇、国守、介、守護等の崇敬極めて厚く、神階を授け給い、神領を寄進し、社殿の造営や幣帛の供進などしばしばであった。藩政期には河北郡一郡の総社と称せられ、明治三十八年石川県より郷社に列せられて今日に至った。  表参道石段下の狛犬像  平成8年(1996年)奉納と新しいものです。平成生まれの加賀の狛犬にはこのような迫力系が多いです。 …

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馬坂

前々回にも書きましたが、ご紹介した椿原天満宮を巻くような天神坂は、田井・旭町などの旧街や越中・福光などから金沢城下町への往来の本道でした。 天神坂を登り切った小立野台地は砂岩層を覆う岩盤層がある台地で、水の手が少ないために農地としてはむかない場所でした。この為小立野台地上の住民は、農地を求める住人は浅野川沿いや犀川沿いの低地に畑地を求めることになります。この為浅野川に向かう台地には天神坂の他に三つの坂道がありました。それが、馬坂・鶴間坂・牛坂の三本の坂道でした。馬や牛が示すように農耕用の牛馬を使った名のように小立野の住民の生活道路となっていました。牛坂は整備が進んで面影がなく、鶴間坂・馬坂は車の通行禁止。。 とはいえ、車人間の僕としては、なかなか訪れにくい場所なんですが、お客さんの家に訪問後に宝町に来たついでに立ち寄ってみることに。。というわけで今回は馬坂の紹介です。 坂道は舗装されていますが、道幅は当時より少し拡張していると思われます。なかなかの急勾配で途中には別名・六曲坂と呼ばれるように、大きなカーブがあります。 馬坂(途中の坂標碑より)・・・昔、田井村の農民が小立野へ草刈りに行くため、馬をひいて登ったのでこの名がついた。六曲り坂ともいわれていた  馬坂 扇町口 大曲 馬坂は現在は上部の宝町と扇町を繋ぐ坂でした。前述したように小立野台地の崖面を登る三つの坂は住民の生活道路であり、鶴間・牛坂は小立野から浅野川沿いに降りる坂でしたが、この馬坂の上部の宝町は、前田利家を始…

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国造(こくぞう)神社

金沢市街には「泉」のつく町名が多くあります。米泉・増泉・西泉・泉本町・泉・泉野・泉野出町・泉が丘他、僕が思いつくものだけでもこれだけあります。この泉の付く地区は、犀川南岸から伏見川の両岸、大乗寺から西金沢駅周辺に及ぶ一帯です。この辺りは古くから金沢市内でも屈指の人口密集地になります。 この泉の地名のルーツですが、別にここに大きな泉や湖があったというわけではありません。前々回にご紹介した天満宮の前身・椿原砦を築いた須崎兵庫になります。須崎兵庫は賀州三箇寺(松岡寺・山田光教寺・本泉寺)の旧真宗軍団の中でも主力的存在で、加賀守護・富樫政親が滅んだ高尾城攻めでも、攻城方の総大将を努めています。この須崎兵庫の別名が泉入道と云い、前述の範囲が泉入道の領地だったといわれ、町名にそれが残っているそうです。泉入道自身も隠居後は米泉に庵を結んで隠棲、後に法名・慶覚から慶覚寺になっています。後に移転して現在は幸町の県税事務所の近くにあります。 旧北国街道 泉2丁目付近 犀川大橋から南に向かう旧北国街道は現在の国道157号線をなぞるように進みますが、大きくずれている場所が泉一丁目交差点から右斜めに進み、有松交差点手前に抜ける細い住宅路が特筆されます。この通りには江戸期から続く伝統のお店や店舗が残っていますし、一歩露地に入ると迷子になりそうな迷路の細道があります。 この北国街道沿いの泉2.3丁目、泉本町、弥生の産土神の神社になっているのが国造神社になります。神社の門前にも何軒か老舗や旧家が観られます。 …

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椿原天満宮② 稲荷社 ~ 牛坂八幡神社

椿原天満宮は丘陵の断崖の斜面を利用した長い石段が表参道になりますが、天神坂に面した山裾を巻くようにもう一本の脇参道があります。ちょうど、石段の横から進むと小さな祠堂・小祠を見ながら進めます。最初は田井天神の名残かと思ったんですが、この小祠と云いながら前の置石には卍が刻まれています。神社の祠に卍ですから???この脇参道は稲荷社に続く道なんですが、この稲荷社にはちょっとした謂れがあって、仏教的・慰霊的な意味なのか。。残念ながら謂れについては、不明でまた機会があったら調べてみようと思っています。 卍は寺院の記号に用いられるように、仏教信仰、仏教の吉瑞を顕す紋で神社にはふさわしくないものです。武将の家紋としては鎌倉から南北朝の武蔵七党の中心核・横山党が使用し、その末裔に受け継がれたと云われます。有名武家では蜂須賀家の代表紋、津軽家・大給松平家(松平庶流)が使用しています。武蔵七党の所縁か横山姓の家に多く、加賀藩では加賀八家老の一家・横山家の紋所が「丸に左万字」を代表紋として使い続けています。 横山家 丸に左万字 ちなみに卍紋は戦国末期及び江戸期には隠れキリシタンが十字の替わりとして用いたと云われています。以前、高山右近の項(②③)で書いていますが、横山長知(ながちか)は右近との親交が厚く、嫡男・康玄(やすはる)は右近の娘・ルチアを正室としていました。横山文書では長知より先に亡くなり康玄の項は多くが謎の削除がされていますが、右近退去後に正室を離婚してキリシタン取り締まりの責任者となりな…

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椿原天満宮①

椿原天満宮 右の道が天神坂 この神社に関しては、以前に一度アップしています。永仁5年(1298年)に山崎(?)の地・富樫丹波邸(?)に天神社として開基され、観応年間(1350~1352年)に当地に遷座、田井天神と呼ばれていました。ただ前回も書きましたが時代的にも記述的にも疑問が多く、慶長以前は詳細不明の神社です。前田利家金沢入城後に椿原天満宮と改め現在地に社殿を建てています。 江戸時代、常駐の神官が置かれ祭祀的にはもちろん金沢城の防衛拠点としても重要視された金沢五社の筆頭格とされた神社です。また戦国期には一向宗の洲崎兵庫が砦を置いた際は当初の本拠・越中・福光・城端、その後の加賀・本泉寺の先端地であり、金沢御堂の時代には越中方向の最終防衛地となった重要地です。 金沢五社や一向宗時代について興味のある方はこちらをどうぞ⇒2013.08.06椿原天満宮(椿原山砦跡) 天神坂標柱 椿原神社の旧社名、田井天神の隣にあるのでこの名でよばれている。昔坂の上部は三つに分かれていた。 金沢は九十九坂の町とも呼ばれるほど坂道の多い町ですが、その坂道の紹介があると一番に挙げられるのがこの坂になります。椿原坂・天神坂とも呼ばれています。どちらもこの天神宮から由来しています。元々、金沢大学が金沢城から角間に移って以来、急速に開けたのが杜の里・若松・田上といった地域です。それまでもその手前の旭町・田井町・桜町・横山町・材木町などは江戸期には栄えた町でもありました。更に富山の福光に抜ける主要道として重要道でし…

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永安寺② 

前回は開山堂と由来記で終わってしまったので、その続きです。今回は永安寺が真言宗寺院であることと、真言宗について取り留めなく。。。 開山堂入り口から本堂の風景 山岳修験道は国家神道に対抗するものとして、自然崇拝に八百万の神や古代神道・仏教が混在して独自の進化を遂げて来たともいえます。純粋に山岳修業を通して自己研鑽を目的にする者もいましたが、山の民や口減らしの対象としての側面も強く持っていました。インチキ祈祷や護符を売り歩く輩の温床にもなっていました。とはいえ、山岳修験者の数は、正式な申請修験者・はぐれ修験者合わせて江戸期には17万人以上いたとも云われています。当時の人口からすれば200~250人に一人の割合になります。その半数以上がいかがわしい行者や浮浪者ともみられていました。 明治5年(1872年)政府は廃仏毀釈の前段階として、天台宗・真言宗の一部を除く山岳修験道の禁止令を出しています。国家神道を是とする国としては、怪しげな自称修験行者の排除はもちろんですが、古代神道・仏教が混在して独自の進化を遂げた山岳修験道は危険な存在であり大きな障害でもありました。 更に段階的に一般への売薬・護符の販売禁止、一般への祈祷行為の禁止など締め付けを強くし、山岳修験者の収入源を断ち、廃仏毀釈によってとどめを刺したと云えます。石川県内では能登の石動山・天平寺の破却が典型的な事例です。 永安寺 本堂 古来から中央政府から虐げ続けられた存在、国家神道(中臣神道)に反抗し続けた歴史を持つ山岳修験道。…

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永安寺①

永安寺 本堂 山丘を巻くように流れる寺津用水と遊歩道。。その山丘の上にあるのが真言宗・鶴舞山・永安寺になります。 永安寺に関してはあまり予備知識がなくまったくの初訪問になります。 永安寺は山岳修験道を修めた初代・霊光が大正・昭和初期に開山した歴史的には新しい寺院ですが、境内の広さは金沢では屈指の広さを持っています。また、多少の昇り降りがありますが、真言宗寺院特有の構築物が多いのが特徴で散策に打ってつけ 永安寺 開山堂 開祖・霊光僧正を祀っています。中央に観世音菩薩立像、右に弘法大師座像、左が霊光僧正座像 開山堂に書かれていた説明板によれば… 開山堂  中央に観世音菩薩、向かって右に宗祖・弘法大師、左に当山の開祖・霊光僧正を安置してあります。霊光僧正は明治二十三年に元加賀百万石の城主・前田慶寧の外孫として出世される。 幼少より出家の遊びをされ、わずか七歳にて金沢夕日ヶ丘の傳燈寺にて七日間の行をされる。更に十五歳のとき、奈良県の生駒山にて百日間の捨身の行をされ、時の瓜生海軍大将の斡旋にて、高僧大阿闍梨・井上哲城僧正の元で修行。師の跡を継がれ、更に近畿・北陸三県の深山にて、数年間修行される。 師・哲城大僧正の遺言により、足利九代将軍・義尚公が建立した由緒ある永安寺が、維新後の廃仏毀釈で、廃寺寸前にあるのを惜しまれ、新たに造営、仏法興隆、国家安泰、衆生済度のために一生を尽くされる。 永安寺由来記から 当山開基 霊光上人は明治23年、石川県河北郡三谷村字月…

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寺津用水

寺津用水 永安寺第一駐車場 金沢は犀川・浅野川の二つの河川に囲まれた街になります。。この河川の水源を利用して網の目のように用水路が市街に張り巡らされています。その数は55用水と云われています。歴史を紐解けば、金沢の町は用水路の開削と共に新しい町が出来て来たと云えます。これらの用水路は道路沿いに流れが多く観られます。 長町の武家屋敷通りや片町・香林坊の裏道のせせらぎ通りに観られるように、道に沿うように用水路が流れ、生活用水・灌漑用水・防火用水はもちろん、各家や屋敷に曲水として取り入れて庭園の池水にしたり、加賀友禅を始めとした工芸品の貴重な源泉にもなっていたわけです。また、雪国の悩みの種である除雪の捨て場としても利用されていました。江戸時代から明治にかけて金沢の町は用水路が張り巡らされ、水と共に生きる町だったわけです。 ところが文明開化の波が押し寄せた明治以降、農地改革や電気事業の進歩で用水事業はますます必要性を増したのですが、自動車や電車の発達には水路は非常に邪魔な存在とされてしまいました。更に戦災や大災害がなかったために区画をいじるわけにはいかず、水路分を道路にするということしかできなかったのです。 このために暗渠といって、水路に蓋をしたり、上部を塞いだり潰して、道路として拡張する必要に迫られてしまいました。 寺津用水遊歩道 更に中心街となる金沢城のお堀。元々、用水路からの水を取り込んだ堀で、金沢城の城郭は囲まれた城でした。更に外側には石川門下の4車線道…

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大野湊神社

金沢の東西を外環状のバイパス道路が近年、すっかり整備されました。まだ他にも計画道路が多いのですが、今の知事さんはホントに交通網の整備に力を入れますねえ。確かに便利になったけど、景観が変わりすぎてちょっと寂しいものもあります。 金沢の東側を走る通称・山側バイパス。能登方面に向かう北金沢の花園で中央を走る国道8号と分岐、小松の八幡町で合流します。西側を走る通称・海側バイパスは山側バイパスの途中の白山麓に向かう安養寺北交差点から県庁のある大通りまでつながっています。更に現在は浅野川の手前まで延伸しています。 金沢の中心街を通る国道8・157号線の交通緩和が進んで、進行やアクセスが楽になりました。更に能登里山街道や川北大橋の無料化も拍車をかけています。 この恩恵を大きく受けているのが、車を駆使して広範囲に営業・サービス活動に動く僕なんですね。日頃、景観がどうの、地名がどうの、名所旧跡が消えるなどと言っておきながら、大きな寄与を受けているわけです。 僕が住む旧松任地区はこの山側・海側・8・157号といった主要幹線道路の中心経由地、特に乾の交差点は前述の四路線の中継点で我が家からすぐの場所になるんです。おかげで目的地によって進行があっさり決まります。前は地図とにらめっこがよくありましたから。。 しかし交通網が広域化して大忙しなのが、道路公団や警察関係。。特に白山・金沢西部は大変だと思います。まあ、石川県警本部が県庁横、交通機動隊が野々市の二日市に移転しています。まあ、おかげで海側や野…

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金沢南総合運動公園 バラ園

金沢南総合運動公園 噴水 中央彫刻 金沢南総合運動公園は昭和22年(1947年)の第2回国民体育大会(国体)が開催された市営陸上競技場(大正14年(1925年)開設)、その後造られた総合プール(国体の水泳・飛び込みは松任市)、球技場を中心にして、昭和33年に開設された総合運動公園です。 金沢南総合運動公園 入り口 いうなれば、石川県・金沢市のスポーツ体育のメッカと云える場所です。 金沢南総合運動公園 中央芝生広場 ゲートボール場 幾度も改修工事が加えられていますが老朽化は否めず、近年は西部緑地公園・いしかわ総合スポーツセンター・城北市民運動公園の金沢プールと拠点の分散化が進んでいます。とはいえ、金沢市のスポーツ振興のシンボルには変わりなく、併設する芝生公園やバラ園によって認知度も高く憩いの場としての側面を維持しています。 金沢市内の小学校出身者なら9割が歌って出来る体操という「若い力」、この歌は国体・石川大会から使用されているんですが、金沢では毎年、この演目が運動公園で開催されています。おかげで金沢圏外の僕たちでもソラで歌えますが、ダンスというかこの体操は教えられたけどできませんねえ。「若い力」に興味のある人はこちらをどうぞ 前回のアップの記事 ⇒ H23.6.6 金沢南総合運動公園 バラ園 金沢南総合運動公園 バラ園 この公園の最奥にあるのがバラ園で、大規模なバラ園が少ない石川県ですが、その中では屈指のバラ園になっています。バラ園の面積は1600㎡。1…

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大乗寺丘陵公園

ゴールデンウィークの真っ只中の貴重な平日 やっとこ、仕事のめどがつき始めた上天気のこの日 北金沢から小立野のお客さんを廻った帰り道、山側バイパスを通っての帰り道に立ち寄ったのが大乗寺丘陵公園。加賀藩前田家の墓所がある野田山の山稜を同じくする西端の丘陵地帯ですが、同じ丘陵に曹洞宗寺院・大乗寺があることからこの名称になっています。 東香山・大乗寺は、金沢では加賀藩主関係の宝円寺・天徳院に規模は譲るものの、それ以上の歴史・地位・格式を持つ曹洞宗寺院です。加賀の曹洞宗総持寺派の旧本拠地・永光寺、総持寺の源といえる寺院です。 永平寺でも最高位とされる四門首の一つにも数えられています。ちなみに四門首は福井県大野市・宝慶(ほうきょう)寺、熊本県熊本市・大慈寺、京都府宇治市・興聖(こうしょう)寺とこの大乗寺なります。更に総持寺を開基した瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)が二代目の住職になっており、近年では大乗寺山主だった板橋興宗(現・御誕生寺住職、ちなみにこの寺は近年、猫の寺として人気急上昇中の福井にある寺院です。)が、平成10年(1998年)総持寺貫主・曹洞宗管長になっており、永平寺・総持寺双方に重い関係を持った重要寺院です。 ちなみに管長は、二大本山(総持寺・永平寺)の貫主が2年交代で務めるもので、曹洞宗の実質的なトップになります。 大乗寺の開基は弘長3年(1263年)。安宅関の勧進帳における関守・富樫左衛門(泰家)の孫にあたる富樫家尚(いえひさ)が真言宗寺院として建立したのが始まりです。正…

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護国山 宝円寺

お客さんの自宅に伺うことになって、待ち合わせ時間に3.40分あったので時間調整に久しぶりに立ち寄ったのが宝円寺でした。あまり時間がないので、境内だけを少し歩いてきました。 10年ほど前に一度簡単にUPしていますが、合わせて観て頂けましたら幸いです。⇒ H20.11.28 宝円寺 今回は時間があまりなかったので境内をちょこっと歩くだけで、あまり前回と変わり映えしませんがご容赦ください。。新緑や紅葉の時期に本堂内からの濡れ縁から大正時代に建てられた対青軒と庭園の眺めが美しい寺院です。 曹洞宗・宝円寺の開基は天正3年(1575年)以降、前田利家が府中三人衆の一人として初めて領地を持った際に寺院を建立して父母の供養塔を置いたのが始まりとされています。一説には古くから宝円寺という寺院は古くからあったものを住職・大透圭徐(だいとうけいじょ)との出会いから自身の父母の菩提寺にしたとも云われています。その後、天正9年(1571年)利家が能登を領国とすると、七尾に圭徐を招いて同名の宝円寺を建立しています。更に天正11年(1583年)金沢入城の際にやはり圭徐を招いて千歳台(現在の兼六園蓮池の東端に同名の寺院を建立して加賀前田家の菩提寺としていました。ちなみに表門となる山門は石川門の正対にありました。寺院の南隣に前回の記事で触れた白山信仰の波着寺が置かれ祈祷所となっていました。前田利家の葬儀もこの千歳台にあった頃の宝円寺で行われ菩提寺となっています。 宝円寺が現在地に移ったのは元和9年(1620…

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加賀騒動

更新頻度が少なく、ご訪問も多くなく、皆さんにはご迷惑をおかけしています。 機会を観て、整理がてらUPしようと思ったものの、途中書きになってそのままのものも。。今回の加賀騒動にしても歴史の陰に埋もれた人が多いので、なかなか機会や画像がなくて、。。ただ相変わらず年末年始にだらだら書いたので、まとまりなく長くなってしまいました。知ってる人は知っている、名前や事件の名は知っていても、中身まではの人も多いと思います。たまたま書き始めた時は映画「武士の献立」が公開されて、作中の舟木伝内の墓が特定された時期でもありました。映画に関しては加賀騒動と加賀藩の料理頭の話を絡めたものですが、作者が思うほど加賀騒動の内容を理解している人が多くなく、知らずに見ると何のことやらになっただろうな。。上戸彩が久しぶりの映画主演で頑張っていましたが、ちょっと展開が早すぎて空回りという感じでした。。加賀騒動のあらましを知るには良作品と思います。 2013.12.11 椿原天満宮(椿原山砦跡) から 脇参道の稲荷社について・・・(本文から抜粋) 椿原天満宮の社域には石段とは別にもう一本の脇参道があります。 こちらは稲荷神社があるのですが、この稲荷神社は月読社と稲荷社を合祀したものです。実はこちらは加賀騒動で大槻伝蔵と密通の末、自分の息子を殿様にしようと図ったとされる6代藩主・吉徳の側室・真如院(稲荷社)と息子・勢ノ佐(利和・月読社)を祀ったものだそうです。そういえば、この辺りは加賀騒動で犯人とされた真如院の墓があ…

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石川県庁 夜景

巷はクリスマスのイルミネーションイベントや個人宅のイルミが瞬いている今日この頃。。 掃除さえまともに進んでいない我が家には関係ないなんて開き直ってはいますが、やはり綺麗なものは綺麗。 イルミも観たいなあ。。とは思うけれど、ここ何日かは強風と雨。。出かけるのもなあと面倒くさいなあと仕事以外はそそくさと部屋にこもる日々が続いています。ついでに画像整理もしてます。。 また、年末の追い込みのめどがついたら、能登までイルミを観に行こうと思っています。まあ、秋に一里野のイルミも観れてるから、いつもより意欲が減ってる気がする。。 言い訳になってしまいましたが、言い訳ついでのお詫びに、イルミとは違いますが晩秋の夜景を。。つなぎとして 県庁18階の展望台からの夜景です。仕事の関係でちょこちょこ県庁に行く機会があって、たまに一番上まで行くのですが、、県庁の周りには高い建物がないので四方が見渡せて夜景を見るなら県内一の場所だと思います。 四季それぞれの風景が観られますが、僕の一番好きなのが秋の薄暮がお気に入りです。特に宵闇(本来は10月の中秋の名月の頃を云うそうです。)が迫る寸前が一番お気に入りです。まあ、なかなか日や時間に限られて観られないのですが、秋の10月中旬過ぎには一度は登っています。 前に撮ったこのくらいが一番好きです。 ⇒ H26.10.23 石川県庁展望台 今回はあたりが暗くなって見逃してしまいましたが、この時の夜景では初めてのものも観られました。いつもの説明調はここま…

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月照寺 玉泉寺

以前ご紹介した加賀八家・前田対馬守家の菩提寺・玉龍寺。金沢に多くの寺院が林立する寺町に隣接する野町にあり、周囲に多くの寺院が林立します。加賀藩三代・前田利常を養育した前田長種を祖にしています。 尾張時代を遡ればこの前田対馬守家は、加賀前田家の本家筋に当たります。本家から二・三代前に分家した荒子前田家の前田利家が織田信長の北陸方面軍の与力として出征し、能登に地盤を固め賤ケ岳後の金沢入城によって能登・加賀半国を領有して地歩を固め始めた時まで、前田本家(当時は前田与十郎家)の前田長定・長種親子は尾張に残って、下之一色城を本城として本貫の地・海東郡(現名古屋市中川区・津島市・あま市・蟹江町周辺)に寄っていました。。最盛期には四城(前田・荒子・蟹江・下之一色)を持っていましたが、前田城・荒子城は廃城となっており、蟹江城は長島攻めの基地として滝川一益の支配下となり城代待遇、後に織田信雄の持ち城となり織田信雄傘下となっていました。 天正12年(1584年)豊臣秀吉が織田信雄・徳川家康連合軍と戦った小牧・長久手の合戦の開戦前、織田信雄方だった前田長定に秀吉の内意を受けた滝川一益の誘いに乗って、蟹江城を攻め落とし秀吉の来援を待ちます。ところが脅威を感じた織田信雄・徳川家康の大軍で逆に完全包囲を受け、秀吉の来援も間に合わず落城。この落城で前田長定は捕縛、一族・妻子と共に斬首。本城・下之一色城を守っていた前田長種は降伏開城して、前田利家を頼って能登に単身落ち延びています。前田利家は本家の御曹司・長種を迎え入…

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②高山右近 前田利長時代

天正16年(1588年)加賀に来た高山右近でしたが、前田利家時代にはそのほとんどが大阪での前田利家の相談役、外征と金沢城の修復・町割りの整備にと大阪・金沢間往復に忙殺されたと云えます。畿内の先進的な築城術、利休七哲としての文化の素養による金沢文化の創設など、多岐に渡ったことが窺えます。 しかし、この間に忠節を尽くした右近の実績と信義は、利家の信頼と藩内でも重きをなしていったようです。 H21.11.01撮影 高岡城址 前田利長像 恩人ともいえる前田利家が亡くなったのは慶長4年(1599年)。跡を継いだ前田利長はやはり利休門下として高山右近とは元々が交際が深く、利長は重要な相談役として右近を重用することになります。 利長時代の執政は前ブログでも来ましたが、篠原一孝・横山長知・奥村栄明の三家老でした。この三人の中で横山長知(ながちか)が特に腹心的最側近となっていました。この横山長知と高山右近は加賀藩内で特に友好的な関係であったとされています。しかし、陪臣出身の横山家と客分の高山家(右近は客分ですが、長子・長房は利長家臣になっていたようです。)は、前田家旧臣からは嫉妬の眼で観られ、一部家臣団との確執があったようです。 いずこにもあることですが、創業者の家臣団と二代目・家臣団にはどうしても軋轢が発生します。前ブログで前田利長の失策としましたが、利家の遺言「三年は大阪・洛中に留まれ」を半年で帰国した事情には、徳川家康の謀略もありましたが、この人事の収拾も影響したようです。痛恨事はまとめ…

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