野田山③ 前田利久 前田利家夫妻 篠原弥助長重

加賀藩主墓所の初めの埋葬は、家祖・前田利家の長兄・利久からと云われています。天正11年(1583年)に能登に入った前田利久は天正15年(1587年)8月に亡くなり、利久死去の報を聞いて驚き色を成した弟で家祖・利家が自ら「いづみ野迄野おくり」、を行い当時はまだ名前のなかった泉野の山頂に葬っています。慶長4年(1599年)閏3月に前田利家が亡くなると、遺言により野田山の利久墓所の下段に葬らせています。この二人の埋葬と墓所の造営が野田山の藩主墓所及び野田山墓地の始まりになります。この後には3代利常の意向によって7名の墓所を同高所の一角に葬ったのが初期前田家墓所になります。 加賀藩の系譜(過去帳)によれば、草創期の前田一族の野田山被葬者(利久・利家は利家指示、蕭は利長、利長遥拝墓以降が利常指示)を羅列すると名前 読み   院号  続柄   没年年月     西暦    享年 利久 としひさ 真寂院 利家長兄 天正15年 8月 1587年  ?  (生年不詳)利家 としいえ 高徳院 初代家祖 慶長 4年閏3月 1599年 62歳?(生年不詳)蕭  しゅく  瑞雲院 利家次女 慶長 8年11月 1603年 41歳            中川光重正室利長 としなが 瑞龍院 利家嫡男 慶長19年 5月 1614年 50歳  2代拝墓保智 ほち   清妙院 利家九女 慶長19年 8月 1614年 20歳            松平信吉婚約者・篠原貞秀正室幸  こう   春桂院 利家長女 元和 2年 4月 1616…

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野田山② 村井長頼・奥村永福 利家の両輪

野田山加賀藩主墓所から金沢市街 中央の大きなベージュの建物は金沢大学付属病院、その左端裏が菩提寺の宝円寺、右端手前が天徳院になります。その後ろの山稜は卯辰山稜、山稜の左端手前が金沢城になります。前田利家の墓所は金沢城本丸から南東の方角(辰巳の方角)で、鬼門(北東)に次ぐ不吉な方角と重視していた方角です。鬼門には利家の霊を祀った卯辰八幡宮(現宇多須神社)。重要方向に家祖・前田利家を祀っていたわけです。また、裏鬼門(南西)には小松天守台を3代・利常が築いていました。手前の大きなグラウンドは陸上自衛隊金沢駐屯地。今年の2月にはじっこだけの画像に、長々と説明を加えた加賀藩主墓所。今回は初期の主要墓所群を訪れてきました。今回は久しぶりに駐車場まで来ました。墓所までは狭い道を通らねばなりませんが、駐車場は広々としています。いつも平日に来ると寂しいくらいに誰もおらず静かな場所です。駐車場は前田利家の眠る墓所からはちょうど真下の下段に当たり、利家の目線と同じく金沢の城下町が一望に出来る位置になります。2020.01.18撮影 藩主墓所表参道石段 起点江戸時代は前回紹介した表参道入口からひたすら登り続け、最後に長く急な石段を登ることになります。右の画像は表参道の石段となる前田家墓所の玄関口になります。藩祖・前田利家の正室・松(芳春院)は慶長19年(1614年)に長い人質生活から解放され金沢に戻っていますが、晩年には足腰の衰えでこの石段を登ることが出来ず、麓の墓守寺に利家の遥拝墓を建て墓参としていました。その長い石段…

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玉泉院丸庭園② 借景の石垣群

色紙短冊積石垣 玉泉院丸庭園北東面の借景。色違い・大きさの異なる石を組合せて積み上げた石垣。色も青・赤戸室石、そして黒は藩主親族のみの使用に限定された坪野石が使われています。綱紀時代に製作されたと予想されていますが、利常が築城した小松城天守台の石垣にも使用されており、鵜川石も使用され5色遣いでした。小松城石垣を手本にしています。段落ちの滝の水源にもなっていました。右上部に水口のような蛇口があり、水を落としていました。滝つぼと呼ばれる水の落ち口には玉石が敷かれていました。残念ながら水源がないために水落の再現はなされていません。惜しい。。元和9年(1623年)玉泉院が逝去し屋敷が撤去され、玉泉院丸と呼称されてから10年ほど後、寛永8年(1631年)加賀藩政期における四大火のひとつ寛永の大火が起きます。金沢城外南西部から出火した火事が強風であっという間に金沢城や金沢市街地を嘗め尽くしました。当時、金沢城内には水の手が少なく、堀も空堀に近いものだったと云われます。金沢城内の本丸の辰巳櫓が類焼、燃えるに任せたまま更に二の丸・三の丸と惨状を拡大して、中心部にかけて石垣も含め家臣屋敷も焼き尽くす大火となっていました。 火事の原因が藩士による色恋沙汰の放火ということも加わって、前田利常は家臣団の組織変更を含め、金沢城や城下町の町割り編成など大胆な修理と変更を加えています。特に本丸に天守替わりだった辰巳櫓を失ったことは大きく、本丸を放棄して政庁を移すために二の丸を拡大、二の丸と三の丸の間を整地して堀を北上させて4…

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玉泉院丸庭園① 玉泉院(永姫)

鼠多門を潜って石段を登ると広がるのが玉泉院丸庭園。江戸期に存在した殿様のプライベート空間の大名庭園を復元再現したものになります。玉泉院丸庭園 北西側遊歩道 右の建物は玉泉庵、中央上部石垣上に見えるのは三十間長屋。ちなみに玉泉庵は緑茶と上生菓子を呈茶(730円)する観光施設で茶室や休憩室から庭園を一望できます。藩政期には露地役所(庭園の整備管理をする役所)が置かれた場所でした。三十間長屋は安政5年(1858年)築造の多門櫓で石川門・鶴丸倉庫と藩政期の建築物として国重文。玉泉院丸案内図(石川県HPより、上が東、下が西、右が南、左が北) 玉泉院丸庭園 北側水路船溜まり 上:紅葉橋址 右:北石垣沿い水路跡様々な古図などによれば、往時の泉水は倍近くの大きさがあり、右の三の島から玉泉院丸口まで東西の谷間を縫うように泉水があり、玉泉院丸を囲むような内堀(宮守(いもり)堀から揚水を行っていました。南側水路を暗渠にしたのは幕末の13代斉泰が唐傘亭を築いた頃と推定されます。逆に北側は象の鼻先のような船着場から北に石垣群に沿うように水路があり橋を潜って船上から石垣群を見られるようにしていました。北水路は前回紹介した丸の内園地の内堀手前までで、そこから内堀に排水していました。 天正11年(1583年)の前田利家の金沢入城から江戸初期にかけては西の丸の一部としての扱いでした。寛永の大火以前は、藩主及び家族は本丸御殿、利長が建てた鶴の丸別邸が藩主の住まい&政庁として使用され、家臣団は本丸以外の城内に住居していたのですが、二…

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金沢城 鼠多門・鼠多門橋

尾山神社がある旧金谷出丸と金沢城の外丸の玉泉院丸を連結していた鼠多門橋。そして出入口となっていた鼠多門の復元が完成しました。鼠多門・鼠多門橋 同じく石垣を復元した北櫓跡から 往時は橋の幅いっぱいに堀となっていました。鼠多門は明治の写真2枚と遺構調査により忠実に再現されています。石垣部も残存石と3D加工石を組合せ、建物も釘を使わない伝統工法と、古式と現代建築の融合物です。橋は明治の老朽撤去の桁礎石を採用しています。当初の計画では年末完成予定でしたが、東京五輪の開催に合わせた完成に修正していましたが、予定通り7月初旬に完成しました。この完成によって金沢の顔となっている尾山神社から金沢城公園へ直接入れるようになりました。新しい観光コースと期待されています。7/18に一般公開と共に尾山神社・金沢城公園の共用が開始されたんですが、もう一つの朗報が外丸となる玉泉院丸庭園が無料開放になったこと^^国立工芸館正門&連結廊下上:旧陸軍金沢偕行社(明治42年(1909)築) 右:旧陸軍第九師団司令部庁舎(明治31年(1898)築)以前までの建物を知るせいで、あまりの綺麗な色目に驚き@@ 移築時の調査で判明した新築時の色に塗り直したそうです。もう一つ目玉となる東京国立近代美術館工芸館が金沢に移転する国立工芸館も、旧第九師団司令部庁舎と旧金沢偕行社の建物を移築改造して昨年秋には完成、建物および館内の完熟期間も終えて展示品が東京から搬入、ただ開館はコロナ対策もあって10月31日に延期となっています。それでも現在は目隠しとな…

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金沢南総合運動公園バラ園 雨の残り花

今年はどうも花の盛りに、花の名所を訪れるというのが、なかなかできずに盛りが過ぎてから通るという、どうもタイミング自体にも恵まれていませんでした。しかも、残った花を見ようとすると天候に恵まれないというのが続いています。金沢南総合運動公園 緑地広場バラ園への道金沢のバラの名所と云われるのが、今回の金沢南総合運動公園にあるバラ園になります。今年は残念ながら見頃の4.5月は入園禁止の閉園状態で入れず、解禁となった6/1には、新聞に画像が載って最後の見頃にどっと人が集まっていたようです。どうも人が多いのを避ける僕としては今年は諦めていたのですが、たまたまこの日真ん前を通ったら、雨降りということもあって駐車場もがら空きで、ちょっと寄り道をしてみる気になったんです。駐車場に着いたときには雨が強く降ってきてあちゃ~~~っと思っていたんですが、バラ園に向かう頃には小雨に。。噴水園地ちなみに金沢南総合運動公園は、皇太子(昭和天皇)成婚記念事業として、大正14年(1925年)に完成した400mトラックを持つ多目的(野球・テニス・バスケット)運動場として造られた金沢市公設運動場が創始になります。昭和22年(1947年)第2回国民体育大会(国体)の為に、主会場・陸上競技場に改修。 昭和33年(1958年)サブグラウンド(球技場)・屋内外プール施設(金沢市総合プール)更にバラ園を含めた緑地公園を整備、面積も2倍となって完成させて都市計画金沢総合運動公園となっています。 平成2年(1990年)に金沢北部に城北市民運動公園が…

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犀川・犀川神社

金沢の城下町を形作っているのが、犀川と浅野川になります。この二つの河川に囲まれたのが金沢の城下町になります。対照的な流れとして優美な流れの浅野川は女川(雌川)。雄々しい流れの犀川は男川(雄川)、雅名・菊水川と呼ばれて、金沢の様々な景観や産業、生活に根付いています。水源の両白山地からの雪解け水、いつ開けるか解らない梅雨、「弁当忘れても、傘忘れるな」という言葉があるほど、県庁所在地では高知と全国一位を争うほどの降水量、雨の多い金沢という土地柄から、何時も水量豊かな川と用水路の流れをもたらしてくれています。水不足を知らない土地柄として恵まれています。犀川 犀川緑地から上流方向ところが、今年は暖冬で上流部も雪なし状態で雪解け水が少なく、春は例年の1/3と云われるほど雨が少なかったこともあって、極端に川の水量が少なく、少し寂しいものがありました。ちょうど、今の時期には犀川では鮎が産卵のために溯上を始めているのですが、あまりに川水が少なく川底が浅くなったために上流に遡上できないという異常事態で、ついに水量調整で上流貯水を増やし放流が計画されています。というわけで、普段なら水量豊かな川が流れているのですが、水の少ない画像で申し訳ありません。 北陸特有の高所から低地に流れる短い河川から過去には何度も水害をもたらしてきました。有名なものでは大正11年(1922年)大雨で浅野川・犀川が氾濫、両川の橋が天神橋を除き全て流出、犀川大橋は流木などで危険性を増し、繁華街も浸水し、…

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河北潟干拓地 だいこんの花

今年はゆっくりと花見が出来なかったので、ずっと残念に思っていました。ゴールデンウィークも外出自粛で、人が集う花の名所にもいかずじまい、、今年の春はお花見なんて無理だなと思っていたのですが、ゴールデンウィークはせめて2.3度でも実家の草刈りをせねばならないし、ここ何年か夏になってからだったので草というより草叢・草木になっていましたから・・今年は少し心を入れ替えて、頑張ってみようと思ったんです。 今年のコロナ騒ぎでは各種のイベントが中止されていますが、河北潟の干拓地でも平成7年(1995年)から続けられてきた35万本の向日葵が咲き、大きな迷路を作る「ひまわり村」の種植えが今年はまだ行えずにいます。毎年、保育園児や小学生が種植えに多く参加しているのですが、なにせ今年のコロナ騒動では感染率の高い石川県では、現在のところ様々なイベントが中止・順延となっています。今回の危険宣言も延長になったことで、ひまわり村も難しくなったと云わざる負えません。 草刈りの帰り道、嫁さんとドライブがてら河北潟の干拓地を通って自宅に戻ることにしたんですが、そこで思い出したのが花畑。今年は春になってから、前述のように梅も桜も、そして藤も牡丹も観ていないんです。我が家では嫁さんが喘息持ちということもあって、例年花粉症もあって外出は避け気味ですが、今年は完全に人混みは避けていましたから^^;でも僕の知る干拓地の一隅なら、そもそも人がいるのはまれな場所^^と、いうわけで少し寄り道してみました。河北潟干拓地 津幡町 小麦畑河北潟は昭和3…

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霊寶山 善性寺

山側環状道路を能登方向から加賀方向に向かって、四十万町東の交差点を左折してすぐの場所にある寺院が善性寺になります。浄土真宗の真宗大谷派(東本願寺)の寺院になります。善性寺のある場所は金沢市四十万町にあります。 四十万(しじま)の町名の由来は解らないのですが、中世には富樫の庄・額(ぬか)七か村(大額・額谷・額乙丸・額新保・額三十苅(現・三十苅町)・額助九(現・四十万?)・額栗林(現・馬替?)、明治22年(1889年)に合併・額村、昭和29年(1954年)に金沢市編入村の一つだったと云われています。善性寺のある場所は加賀一向一揆に滅ぼされた富樫政親が最後の牙城とした高尾城から同じ峰筋の南2キロほどになります。 平安期から戦国末期まで、加賀に古く根付いていた富樫氏ですが、その基盤となっていたのが富樫の庄と呼ばれる地盤でした。本拠の富樫館のあった野々市を中心に、白山市の一部(郷村など)、明治以降昭和にかけて編入された金沢の前述の額村・富樫村・押野村・三馬村辺りが中心的な主要基盤の地だったと云われています。富樫の名を引き継ぐ富樫村、12代・泰家(加賀守護初代)の弟・家忠・景家からの額田・額氏を引き継ぐ額村などは、以前にご紹介した芋堀等五郎伝承などが残るように発祥地的な存在と見られ、高尾城が示すように最終防衛地でもあった富樫家の重要地だったと思われます。善性寺 本堂大屋根善性寺は明応8年(1499年)に前述の富樫政親を滅ぼした富樫泰高によって寺地と寺院寄進により法慶(ほうきょう)によって開基されたものです…

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波自加彌(はじかみ)神社

神社に行くと、神社の奥山に先座地や奥宮がある場合があります。今回の波自加彌(はじかみ)神社も、だいぶ前になりますが奥宮の方をアップしていました。 ⇒ 2017.05.10四坊高坂八幡神社(波自加弥神社奥の院)  今回は改めて本社の方に伺いました。神社の駐車場は山上になるため表参道を右折して山道を登ると便利ですが、なにせ参道は長い石段に急な傾斜。。一応、山上から一往復しましたが、きつかったあ。。冬の間にすっかり運動不足のつけがたまってますねえ。。というわけで進行(撮影)方向とは逆になりますが、表参道入口というより時間が無くて立ち寄れなかった遥拝所付近からスタート。。 波自加彌神社標柱 花園小学校から100m程北に進んだ旧北国街道沿いの三叉路に建っています。標柱の方向に進むのが波自加彌神社の本宮への表参道になります。北国街道をここから、更に北に7,80m進んだ右に遥拝所兼神主さんの自宅があります。御札やお守り、御朱印帳は遥拝所で授与して貰えます。ナビに頼るとこの標柱に案内されてしまいますが、この標柱から500m程、IR七尾線の踏切、国道8号の二日市交差点を越えて行った山の突き当りにあるのが波自加彌神社の本宮になります。表参道入口には河原市用水に立派な神橋が掛かっていていますから、それが良い目印になります。波自加彌神社 神橋 河原市用水(浅田用水)河原市用水(浅田用水)は医王山を源にする森下川の不動寺町から取水して山裾を縫うように流れ、更に旧国道8号に沿うように10.2キロを流れて津幡町の加賀…

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野田山墓地

今冬は雪が降らない降らないと云っていたら、ここ3.4日雪が降って、うっすらと積雪が道に積もって久しぶりに、雪道を車で走りました。。久しぶり過ぎて怖々ハンドルを握っていました。さすがに朝は凍結で、雪に慣れてる石川県人もそこここでスリップ事故や立ち往生があったみたいです。(2/10)しかし、その後は温かくすぐ溶けちゃいましたが。。。 コロナウィルス騒ぎも収まりませんねえ。。今週風邪をぶり返した嫁さんが医者に行ったら軽い肺炎で、一週間の絶対安静でドクターストップ、家でどんよりテレビ三昧の日々を送っています。時期が時期だけにインフルやいろんな検査をやられて、落ちこんどりました。。(風邪をこじらしたで、チョン)。。クルーズ客船も日増しに陽性患者が増えてて心配ですねえ、、足留めを喰らったみなさんには頑張って欲しいものです。ダイヤモンド・プリンセスは昨昨年寄港した「MSCスプレディダ」が寄港するまで、金沢港の最大のクルーズ客船の記録を持っていた船で、僕も眼の前で見て思入れがあるんで、早く収束することを願っています。 2014.07.20 無量寺埠頭 護衛艦ちくま加賀藩主墓所本参道 ここから長い石段を登ると前田利家夫妻の墓所正面に直接向かえます。僕は車を左に進めて墓所手前から歩いてみました。1.2月は雪がないとはいえ氷雨や冷たい雨降りが多く、遠出をほとんどしないのですが、この日も冷たい雨降りでしたが河北からの帰り道、久しぶりに野田山墓地に立ち寄ってみました。一応目的地は加賀藩主墓所のつもりだったのですが。。右の…

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河北潟野鳥観察舎

石川県運転免許センター先月のお話になりますが、嫁さんの免許更新があって免許センターまで送り迎えすることに、、嫁さん、近場の買い物とかは車も運転するのですが、石川の道は狭いし解り難いからヤダ、キライといって片道5キロ圏内しか運転しない。おかげで遠出の買い物なんかは僕がお抱え運転手。おかげで金沢の北端にある運転免許センターには毎度、僕が送り迎えしているのです。 まあ、おかげで僕とは大違いで、ゴールド免許で小一時間の免許更新で済むのですが、、、どうせ僕なんて、半日かかる青い免許ですからね。来月、また来ます。。あ~~あ、あの時、覆面さえ抜かなければ。。🚓 その小一時間の待ち時間、免許センターにも食堂はあるんですが、どうも落ち着かないんですね、、その辺はブルーのトラウマですかねパンと飲み物買ってどこかで食べようかなと。。周辺をうろうろ。。駐車場も味気ないしなあ。。思いついたのは野鳥観察舎、、河北潟を眺めながらもいいなあと。。しばらくぶりに天気もいいし。。このあたりは河北潟の半島のような場所で水辺もばっちり 河北潟野鳥観察舎 石川県には県営野鳥観察舎としては、舳倉島(へぐらじま)・珠洲市三崎・七尾西湾・河北潟・県民海浜公園・ノミレイク河内(手取川第三ダム)・加賀市鴨池と大小の観察小屋を持つ施設があります。そういえば、いずれも何度か立ち寄…

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金谷出丸 南面

尾山神社は金沢城の金谷出丸の地に創建されたものです。 金沢城は北の浅野川、南の犀川に囲まれ、東の小立野台地と自然の要害地に囲まれた城郭でした。特に搦め手の東は小立野台地の東端の千歳台(現・兼六園)とは大きな段丘の落差に百万石掘(白鳥堀)という最大幅・深度の堀が配されていました。南は台地の断崖に石垣と宮守堀(いもりぼり、復元堀は往時の半分幅)と二重の大障碍を設けていました。また大手(尾坂口)となる北側は城外よりも城の方が高台になり大手堀と百万石堀に匹敵する堀及び三の丸・二の丸と幾重の障碍が配されていました。尾山神社西神門よりところが堀は配されているものの西側は高低差が少なく、攻城軍の主力が配されるであろう平地が多い西側は、金沢城最大の弱点地とも云えました。城方の前線基地となる出丸が必要となり設けられたのが金谷出丸でした。江戸初期には金谷出丸の南(現在の広坂合同庁舎)にも外出丸があったと云われています。 延宝年間(1673~1681年)の詳細な金沢城図が残されています。              ⇒ 金沢城図(奥村家鎧袋内・箱入)(玉川図書館蔵)上が南、下が北、左が東で右が西になります。是非クリックしてみてください金沢城図は城構造や建造物を詳細記入、彩色した精緻な図絵で建物名称・主要室名も記し、辰巳用水から城内への通水水樋の埋設経路更に幹支線に渡り書かれたものです。ここまでの詳細図は珍しく、本来藩主格の持ち物で機密重要書類と想像されます。初期の金谷御殿が描かれているために加筆あるいは18世紀半ばと…

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尾山神社遥拝所と雑話

実は前回のブログに続け書きをしてたんですが、あまりに長く煩雑なものになったので、別枠の雑話ということで。。。 気分が悪くなるような宗教話や批判ばかりが目立つと思うんで、、、、ご容赦を。。。 右:遥拝所入り口石段横 関口光生記念標 従三位神田孝一謹書 とありますが、僕には不明。。横に顕彰碑がありましたが、時間もなく、摩耗で真剣に読めませんでした。。下:遥拝所入り口 ここから神苑の背景の裏山を巡れます。 次回に回そうかとも考えていたんですが、神苑の背景となる出丸南面の山林の山は明治以降には通路が造られて、歩けるようになっています。南西面にある神輿庫前にある顕彰碑横の石段から登れます。入り口に遥拝所の標柱があり、それが目印。遥拝所 伊勢神宮の方向に向けています。尾山神社では春分・秋分の日をメインに遥拝所での遥拝が行われているそうです。 ここからの文章は個人的意見ですから、宗教話や神道支持派など反発を感じる方はパスしてください。。 遥拝所は山岳信仰として山を神体として拝む場所になるものと、今回のような伊勢神宮などを拝むものがあります。神社や仏閣を巡ることが多い僕は、たまにこういう遥拝所を観ることが有るんですが、前者の山岳信仰の遥拝所は良しとして、伊勢神宮に向けた遥拝所は存在自体が国家神道の押しつけのようであまり好きではありません。 そもそも今回の尾山神社にしても、先に何度も書いたように尾山神社創建時の神様は加賀藩祖・前田利家個人だと理解されていると思います。ところがそんな個人の神社で伊勢神宮…

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尾山神社④ 神苑

神苑東側から 手前の飛び石が沢渡り、女性が渡っているのが八ッ橋、右手には水上に藤棚が配され、左手は琵琶島で奥に図月橋、図月橋の向こう岸は鳥兜島 尾山神社の南面に広がるのが神苑になります。10年程前は神仙苑と呼んでいたのですが、今は神苑と統一したようです。別名は和楽器の庭。明治になって尾山神社が創建されると、それまで荒廃した庭園に大きく手を入れて整備し直しています。⇒ 2009.07.29 尾山神社 神仙苑上:西丘陵から 右:南丘陵から神仙苑は元々は金谷御殿庭園となっていました。その創始ははっきりしませんが、以前までは池泉の存在と小堀遠州作と伝わったことから1620年頃と推定されていました。ただこの推定の問題点はまだ戦国の風が残った時代に出丸の地に御殿はまだなく、庭園だけを造るかという疑問が湧いてしまいます。18世紀初頭には庭園が作庭されたのは確かでしょうが、個人的には現在の泉水を配した庭園は前田斉泰が金谷御殿を大きく増築したころ文化15年(1844年)以降に整備したのではと思っています。辰巳用水導水管現在の神苑の池水は地下水を利用していますが、金谷御殿庭園時代は金沢城から辰巳用水の水を通水していました。この通水には兼六園霞ヶ池から金沢城内に通水した方式と同じ逆サイフォンが採用されていました。文化15年(1844年)に導水管が木管から、庄川上流の金屋石の石管に変えられています。この時に泉水や滝が配されたと思われます。神苑 響遠瀑 水が勢いよく流されてる時もあるらしいんですが、僕は未体験、観られたらラ…

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尾山神社③ 本殿・金谷神社・東神門

尾山神社の本殿は明治6年(1873年)建立。古式に則ったという三間社流造・銅板葺屋根、拝殿と本殿の高さを合わせ間の低い位置に幣殿代わりの庭面(石の間)が置かれた権現造の様式になっています。本殿は拝殿との高さを合わせるために底部を懸け造の木組みで支えています。今年9月、以前までは緑青などで緑がかった屋根色でしたが、真新しい明茶色屋根に変わりました。20X36.5㎝の銅板4000枚を使用し、屋根面だけでなく鬼瓦・千木・鰹木にも銅板を巻いたり覆ったりで処理が施されています。本殿前の守護神? 遠目には狛犬?龍?身体は蛙? ピンボケで申し訳ありません。。本殿は尾山神社境内でも一番の神域で、勝手に中に入れないのと、観ようと思うと最奥の東出口に向かうため、金谷神社と木々に隠れて暗がりで観光客もほとんど居ない場所ですが、注目に値するものが一つ。本殿を囲む塀垣で、神社などでは玉垣と云います。拝殿・石の間と金谷神社の境界には銅板葺柵塀垣ですが、本殿南面には銅板葺レンガ塀が玉垣として重厚な守りとなっています。等間隔で梅鉢紋透かしを施されています。神社でこれはなかなか見られない代物です。ちなみにこのレンガ塀は、金沢で最初のレンガ建築になります。以前、金沢の代表色の一色としてレンガ色を紹介しましたが、代表となるのが赤レンガミュージアム(旧金澤陸軍兵器支廠兵器庫)としましたが、それよりも40年近く古い建築物で、金沢の代表色の原点と云える建築です。金谷神社 上:拝殿      中:拝殿・幣殿・神殿      右:金谷神社境内尾…

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尾山神社②神門・狛犬・拝殿・菊桜

尾山神社と云えば、人気を集めるのは西の表参道石段上にある尾山神社神門 右:西表面 下:東裏面明治8年(1875年)11年、長谷川準也(金沢製糸場創業者、第2代金沢市長(M30~金沢区を含むと8代目))・大塚志良(長谷川準也の弟、江沼郡長)兄弟が願主となり、金沢大工・津田吉之助が設計・施工したものです。ちなみに津田吉之助は北陸のダヴィンチと呼ばれた大野弁吉の藩校や家にも通う弟子筋でもありました。石川製糸場の織機も富岡製糸場派遣で学び製作しており、吉之助の子・米次郎と甥・駒次郎は明治33年国内初の動力式絹織機を作製、明治42年に駒次郎が金沢で個人経営の「津田駒次郎工業」を開業、現代の高速自動織機で世界トップシェアの津田駒工業となっています。神門中央 透彫り 上:西表面 下:東裏面上画像中央門の床面の円盤は、後で紹介しますが神苑の大型灯篭の天板だと云われています。灯篭の崩落で人身死亡事故によって、天板に神罰の意味で人に踏まれる通路に埋め込んだと云われています。家紋の透かし彫りも撮影したんですが画像が消えていました。家紋透彫りに興味のある方はこちらをどうぞ⇒2009.7.29尾山神社神門は和漢洋の銅板四柱造三層建物になります。その異様な造りが徐々に人気を集め、金沢のシンボル的存在になっています。高さ18m、避雷針は8メートルになります。 基部にはレンガ積みが施され、全体を木造架橋で支持しています。門となる第一層は神苑の渡月橋をモデルにしたと見られ、戸室石が使用され、木製門扉には加賀梅鉢紋や透かし彫りが施…

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尾山神社①

金沢観光でシンボル的存在と云えば尾山神社・西神門が挙げられます。尾山神社の地は、金沢城の金谷出丸と呼ばれた堀に囲まれた出丸でした。金沢城が攻められた際には最激戦の地となる場所のはずでした。しかし250年に渡る江戸の太平期ではそういった戦闘もなく、藩主の別邸と馬場が置かれていました。明治4年(1871年)廃藩置県により藩主が東京に去った後、とはいえ全国的に長い藩政を懐かしむ風潮から、士族会を中心に全国的に藩祖を祀る神社の造営が行われていました。尾山神社もその一つと云えるものでした。明治政府も慰撫政策から容認していたようです。 幕藩体制の時代には公に藩祖を神として祀ることは幕府への遠慮から大名家では忌避されていました。ところが加賀藩では、慶長4年(1599年)藩祖・前田利家が没した際、浅野川から引き揚げられた卯辰の鏡を神体に、式内社・物部神社(現・富山県高岡市東海老坂)の八幡神、榊葉神明宮(現・榊葉乎布(さかきばおふ)神社、富山県氷見市阿尾)を勧請して卯辰八幡宮(現・宇多須神社、金沢市東山)を創建して利家の神像を祀っていました。物部神社・榊葉神明宮ともに2代前田利長の守山城時代所縁の神社です。このことは幕府に隠れての公然の秘密とされ、加賀藩と東山の武家屋敷の住人の位別の拠出金で運営されていました。しかし幕末期の藩財政の逼迫と混乱により荒廃が目立ち、神像は卯辰山三社の卯辰山天神社(現・卯辰神社)に仮遷座していました。 ちなみにこの卯辰山天神社は江戸後期に造営された竹沢御殿の部材で建てられた表向きは撫…

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砂子坂道場跡(光徳寺跡・善徳寺跡)

金沢大学のキャンパスを巻くように迂回して、富山県の福光駅まで行く県道27号線。金沢から向かうと県境の地、右手に殿様街道直売所があります。地元砂子坂だけでなく土山など近在の金沢・南砺の農家から作物や加工品が集まっています。殿様街道の謂れは、加賀藩13代藩主・前田斉泰が参勤交代に使用した道という所から。。加賀藩主の参勤交代の経路は当時の状況によって、いろいろと経路を変更していました。この県道27号は越中から加賀に入る道としては古くから使用されていたようで、現在では整備も進んで通りやすく、福光・城端・井波そして五箇山に向かうには便利な道路になっています。しかし、殿様街道は正確に言うと医王ダムを過ぎたあたりから山中に入り、直売所の南の山中の砂子坂集落を通って100m程先の坂道から県道に戻る経路でした。 しかし、この街道も古代には山間の険しい山間地で、相当の山道だったと云われています。この街道が整備されたのは浄土真宗本願寺派(東西分裂以前)法主5世・綽如が北陸下向後ですから至徳元年(1384年、南朝・元中元年)以降になると思われます。綽如は明徳元年(1390年)越中の本山として瑞泉寺(杉谷山)を開基していますが、越中に入る前には加賀二俣(二俣本泉寺)に仮寓居として庵を置いて越中への足掛かりとしていました。優れた先人とはいえ、まだまだ北陸では新興宗教の時代で次代で二俣本泉寺を開基した如乗もしくは土山御坊に入った蓮如・蓮乗の時代、15世紀中~16世紀初頭ではないかとも思われます。戦国から江戸期にかけては浄土真…

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赤レンガミュージアム 金沢を表す三色

******************************************金沢を代表する色といえば、まず連想するのが金沢箔の金色百万石まつりの前田利家の甲冑姿でもお馴染みの金小札白糸素懸威胴丸具足、これに金箔押鯰尾兜・金箔押面貌は金箔工芸の会社では目玉として再現展示しているところが多くあります。現物の具足は天正12年(1584年)佐々成政との攻防戦の末森城合戦に着用したと云われ、末森城主として城を死守した奥村永福(奥村宗家祖)に恩賞として与えたと云われます。その後、奥村宗家から前田家に献上されたものです。画像は金箔製造・販売の箔一の箔巧館・金箔ミュージアムの金箔の間から、黄金の鎧兜を囲む壁面にも1万枚に及ぶ金箔が張られています。プロジェクションマッピングで幻想的な世界観が演出されます。他にも金箔製作体験や、職人作業も見学できるので、観光の合間にもお薦めかも。。  ⇒ 箔一・箔巧館HP箔一は昭和50年(1975年)に浅野邦子(現会長)さんが金箔の工芸品販売を目的に創業した会社になります。浅野邦子女史は京都出身で箔製造の箔屋の四男に嫁いだ主婦だったのですが、オイルショック後の不況で低迷する家計の助けのつもりからスタート、、、箔打ち紙から作った油取り紙が大ヒット(特許も箔一)、更に食用金箔の開発など女性感覚の波及品などで金沢箔を材料から主役に押し上げた功労者です。浅野さんのお姿を拝したのは香林坊アトリオに直営店を出して北陸経済同友会員になった頃、北陸経済会主催の研修会(一里野)に行かされ…

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加賀本多博物館

旧本多蔵品館跡地 現在は国立近代美術館工芸館の移築改装工事中R1秋完成予定 本多家の上屋敷地には平成27年(2015年)まで県立美術館と藩老本多蔵品館が建っていました。昭和48年(1973年)本多蔵品館は加賀八家で最大禄高5万石を誇った本多家と石川県が共同出資で財団法人を設立、旧金沢美工大の図書館建物を利用して、収蔵品2000点(内、初代政重・二代政長関連100点+当主夫妻火事装束2点が県文化財)は調度品や収集品は武家文化を伝える物から、北斎漫画や紀行文の庶民文化まで幅広いものがありました。上:県立歴史博物館・本多博物館共通入口 左二棟が県立歴史博物館、右一棟が本多博物館中:入口前の辰巳用水導水管の復元モニュメント 午前10時から午後4時まで10分間隔で水が噴き出るようになっています。今回は4時過ぎで見られず。。下:本多博物館入口藩老本多蔵品館時代の馬具一式展示(二代・本多政長使用)初代・本多政重画像 讃・沢庵宗彭(たくあんそうほう)筆 平成27年(2015年)東京国立近代美術館工芸館(今秋完成予定)の移設工事で、赤レンガミュージアムに引っ越しています。それまでの手狭な展示スペースが広くなったおかげで常設展示はそれまでのまとまった一斉展示から個別展示が増えています。僕としては、2代政長所用の馬に合わせての馬具一式の展示は気に入ってたんですけどねえ。。それと、単独展示になった当主や当主夫人の火消装束は間近で見られるようになりましたが、周りが無地でイマイチ華やかさに落ちる展示になってしまったかも。。…

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本多の森 本多家上屋敷跡

 石川県立美術館前回ご紹介した県立美術館の地は江戸期には、八家家老で最大所領(5万石)を誇った本多家の上屋敷があった地になります。石川県立美術館最西部 左の建物は文化財修復センター町名となっている出羽町の由来ですが、金沢城・河北門石垣・外総構濠を整備した篠原出羽守一孝の屋敷があったことに由来しています。 篠原一孝は、前田利家の遺言にも「出羽は子供の時から召し仕え、心はよく解っている。片口なる(口が堅い)律儀者だから城を預けても心配はいらない。その上、末森の合戦では若年ながらよく働いてくれたので、弟・良之(佐脇良之)の娘を養女として嫁がせ、姪婿とした。関東陣では八王子でよく働いた。しかし、姪が早死にしたので青山佐渡(守)吉次を聟にしたら良いと女どもも言っているから後で取り計らったらよかろう。」と、家臣団でも第一番に名を上げられています。利長時代には横山長知・奥村栄明(永福長子)と共に執政となっていました。また、ライバルとも云われ、関係がイマイチと云われた高山右近の金沢退去時には、「もし幕府に糾明されたら、自分が勝手にやったんだから責任を取って腹を切る」と、右近への感謝と共にこまごまとした計らいを見せ、金沢随一の武士・武家の鏡と尊敬を集めています。元和2年(1616年)死去、享年65歳。その後、相続した次男・孫が早世したために篠原出羽家は断絶しています。芳春院の実家筋となる篠原本家は次弟・長次が継承しています。 前田利家の遺言や篠原一孝・佐脇良之などの略歴はこちらをどうぞ ⇒ 高山右近記念公園① …

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津田玄蕃屋敷~陸軍第九師団長官舎

金沢は戦災や大きな災害にあっていないせいか、古い路地や建物や庭園が結構残されています。そんな中には観光名所の中にありながら、歴史的に興味的にも面白いのに、あまり人が訪れないものも結構あります。大体がパンフや観光案内には載っていないんですね。載っていても小さな扱いだったり。。というわけで、今回は兼六園の随身口近くにある二つの建物を。。まずは百万石通りから金澤神社に向かう随身口。左手に見える古風な建物。。現在は兼六園管理事務所となっています。実はこの建物は江戸期の加賀藩重臣だった津田玄蕃屋敷だったものです。江戸期の重臣屋敷で玄関付きで残っている数少ない建物です。 前田利家が初めて領地を得た府中三人衆時代(前田利家・佐々成政・不破光治三人合わせて10万石)から急速な領地の拡大によって、利家・利長時代はスカウトや与力武将の参集によって急速に家臣団は数を増やしていきます。加賀前田家が30~40年程の短期間で3万石から40倍の120万石と領土拡大に成功したのは、利家・利長の才覚はもちろんですが、この家臣団の活躍が大でした。活躍=加増となり、利家・利長時代には1万石を超える家臣が20数家存在していました。当時は城・所領持ちである上に戦国気風を受け継ぐ独立心の強い家臣団で、加賀藩は加賀藩前田家を頂点の象徴に小大名連合国家でもあったのです。 江戸期に入って利常・光高・綱紀時代になると、国内戦闘がなくなり、藩内政治・文化振興や対幕府政策などの行政面が優先されます。そこで安定しない地方は十村や代官に任せ、所領を廃し…

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木越光徳寺跡 八坂神社(貴船神社)天狗の森

七尾の小丸山城を下城して一本杉通りに向かうと、大きな伽藍を有する「木越山 光徳寺」があります。11/3の光徳寺の報恩講では、七尾市街地では人気スポットの一本杉通りでは、露店が立ち並び賑わいます。七尾秋の大市として親しまれています。 山号・寺名が示すように、この光徳寺の発祥地は金沢市木越地区になります。戦国期には河北郡の四大坊主寺院(鳥越・弘願(ごがん)寺、吉藤・専光寺、磯部・勝願寺、木越・光徳寺)の一つとして加賀一向宗を主導した寺院になります。そしてこの寺院も加賀富樫家とは深い繋がりがあります。ちなみに現在の光徳寺住職は代々富樫姓を名乗っています。木越山 光徳寺跡 開祖宗性は、第十二代加賀国守護の富樫左衛門尉泰家入道仏誓の孫で、富樫右衛門利信である。文永十一年(一二七四)比叡山に登り天台宗の僧となり、宗性と名のる。乾元元年(けんげん、一三〇二)宗性七十六歳で浄土真宗本願寺覚如上人に帰依する。帰国に当たり覚如上人より、恵心僧都<源信>自作の「阿弥陀如来の木造」と覚如上人自筆の「六号名号」一軸を拝受し、加賀国河北郡木越の里に光徳寺を創建する。戦国騒乱の時代、第七代現道は、加賀一向一揆の大坊主として活躍し、長享二年(一四八八)加賀国守護富樫政親を滅し、「百姓を持ちたる国」を実現させた。 2019.07.15撮影 木越光徳寺跡遺跡 右の白い車の停まっている畑地から薄緑の田園が跡地 天正八年(一五八〇)織田信長から加賀一向一揆平定の命令を受けた越前北ノ庄柴田勝家は二万の大軍を率いて加州に乱入し、一揆…

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芋掘り藤五郎① 金城霊澤 芋掘り藤五郎神社

暖かい陽射しが感じられながら、晴れたと思ったら雪混じりの雨が降るなど、気温変化が激しい先週まで。。風も肌寒かったりして、個人宅の桜は咲いていますが屋外や河岸の桜は今週辺りから咲き始めそうです。こういった肌寒さが残ると、一気に咲いて一気に散ることが多いのですが、今年はどうなんでしょうか。。。今年も残務が押し気味なので、どうせならもっと遅くなって欲しいと内心思っている僕でした。先週金曜日に開花宣言@@雪かぶりの桜なんて何年ぶりだろう。昨日(4/6)標本木も満開に。。来週は各所は花盛りかな。。 先週木曜日、山科の高台に登ったのですが、高台はまだ肌寒く花の気配もありませんでした。久しぶりに芋堀藤五郎神社や大桑化石層に立ち寄ってきました。  石川県立美術館広坂別館 大正11年(1912年)建築。旧陸軍第九師団長官舎として建てられたものです。昭和中期、末、平成27年に改修が加えられていますが、大正期の軍官舎の通例を残す建物です。右側のベージュの建物が増設された県文化財保存修復工房になります。入り口は建物正門からになります。 翌々日の土曜日、午前中の早い時間帯にお仕事終了。。観光客が多くて日中は避けている兼六園周辺ですが、3年前に県立美術館横に移設された県文化財保存修復工房を観てきました。修復センター併設の国立美術館(東京・京都・奈良・福岡大宰府)がありますが、どうしても国宝・重文が優先で、県や市町村の文化財は後回しの傾向があります。これまでも地方自治体の美術館の修復センターは金沢だけでしたが、…

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木製笠塔婆 金沢市埋蔵文化財センター

今月14日、北金沢の千田町から画期的な発見がなされたことが発表されました。 木製の笠塔婆が発見されたのは国内2例目。ところが今回の発見が画期的なのは、梵字が金箔で描かれており、その金箔が残っていたことにあります。そもそも木製品が腐らずに残るのも奇跡的ですが、漆や金箔が残されているというのは、画期的というよりもう奇跡としか言いようがありません。 ちなみに木製笠塔婆の国内初の発見は、平成19年(2007年)奥能登の野々江本江寺跡遺跡で、平安末期の物とされています。ちなみに本江寺は小さな寺院ながら明治まであった寺院でした。珠洲市の飯田高校から東に2キロ弱の金川という河川の段丘上にありました。古くは平安末期から室町にかけては真言宗寺院と江戸期には伝わっていました。(石川県文化財、笠塔婆の竿(支柱)2・笠塔婆の額・板碑) ⇒ 野々江本江寺遺跡出土品(石川県HP) リンクを見て貰えば分かりますが、非常に簡素なもので笠塔婆と言っても、板棒に近い造りです。それでも竿丈は2mの長さがある大きなもの。 千田町で発見された笠塔婆はTVの映像を見ると、額がはっきりある様子。。これは見たい^^/しかも公開場所は、車で15分くらい。。 しかも日曜だけど午前中は仕事で、津幡に用事があるから千田町にも寄って行けるし、公開時間にもバッチリ^^V 発見された場所は全くの偶然の産物。。白山市から金沢の西側(海側)を縦貫する海側バイパス道路。片側2車線化を施しながら浅野川の手前・大河端まで延伸しています。県や金…

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野間神社

金沢の北東部にある野間神社。現在は金沢市ですが、旧小坂村一帯の惣社として河北(加賀)13座に数えられる式内論社としても古い歴史を持つ神社です。小坂村は長く河北郡でしたが昭和11年(1936年)に金沢市に編入されています。 一応、式内社・野間神社に関しては金沢市玉鉾(たまぼこ)の野間神社も論社として主張しています。ただ玉鉾野間神社の主祭神は豊宇賀能売命(とようけび、豊受大神、稲荷神)にしています。豊宇賀能売命は伊勢神宮の外宮の主祭神と知られた食物・穀物を司る女神で、天照大神の相棒的存在で大和系ともみられます。 野間神社御由緒 金沢市小坂町東一番地鎮座 一.御祭神 草野(かやの)比賣大神    配祀   武甕槌(たけみかづち)命 経津主(ふつぬし)命 天児屋根(あまのこやね)命 比咩(ひめ)大神 一.境内地 壱千八百拾四坪 一.由緒    本神社は延喜式内の名社であり、古来小坂地区の総鎮守神として仰がれて来た。    その創建は悠久の大古にさかのぼるが、文献に現れたのは、斉明天皇二年(西暦六五六年)二月を始めとする。以来、歴代天皇、国守、介、守護等の崇敬極めて厚く、神階を授け給い、神領を寄進し、社殿の造営や幣帛の供進などしばしばであった。藩政期には河北郡一郡の総社と称せられ、明治三十八年石川県より郷社に列せられて今日に至った。  表参道石段下の狛犬像  平成8年(1996年)奉納と新しいものです。平成生まれの加賀の狛犬にはこのような迫力系が多いです。 …

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馬坂

前々回にも書きましたが、ご紹介した椿原天満宮を巻くような天神坂は、田井・旭町などの旧街や越中・福光などから金沢城下町への往来の本道でした。 天神坂を登り切った小立野台地は砂岩層を覆う岩盤層がある台地で、水の手が少ないために農地としてはむかない場所でした。この為小立野台地上の住民は、農地を求める住人は浅野川沿いや犀川沿いの低地に畑地を求めることになります。この為浅野川に向かう台地には天神坂の他に三つの坂道がありました。それが、馬坂・鶴間坂・牛坂の三本の坂道でした。馬や牛が示すように農耕用の牛馬を使った名のように小立野の住民の生活道路となっていました。牛坂は整備が進んで面影がなく、鶴間坂・馬坂は車の通行禁止。。 とはいえ、車人間の僕としては、なかなか訪れにくい場所なんですが、お客さんの家に訪問後に宝町に来たついでに立ち寄ってみることに。。というわけで今回は馬坂の紹介です。 坂道は舗装されていますが、道幅は当時より少し拡張していると思われます。なかなかの急勾配で途中には別名・六曲坂と呼ばれるように、大きなカーブがあります。 馬坂(途中の坂標碑より)・・・昔、田井村の農民が小立野へ草刈りに行くため、馬をひいて登ったのでこの名がついた。六曲り坂ともいわれていた  馬坂 扇町口 大曲 馬坂は現在は上部の宝町と扇町を繋ぐ坂でした。前述したように小立野台地の崖面を登る三つの坂は住民の生活道路であり、鶴間・牛坂は小立野から浅野川沿いに降りる坂でしたが、この馬坂の上部の宝町は、前田利家を始…

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国造(こくぞう)神社

金沢市街には「泉」のつく町名が多くあります。米泉・増泉・西泉・泉本町・泉・泉野・泉野出町・泉が丘他、僕が思いつくものだけでもこれだけあります。この泉の付く地区は、犀川南岸から伏見川の両岸、大乗寺から西金沢駅周辺に及ぶ一帯です。この辺りは古くから金沢市内でも屈指の人口密集地になります。 この泉の地名のルーツですが、別にここに大きな泉や湖があったというわけではありません。前々回にご紹介した天満宮の前身・椿原砦を築いた須崎兵庫になります。須崎兵庫は賀州三箇寺(松岡寺・山田光教寺・本泉寺)の旧真宗軍団の中でも主力的存在で、加賀守護・富樫政親が滅んだ高尾城攻めでも、攻城方の総大将を努めています。この須崎兵庫の別名が泉入道と云い、前述の範囲が泉入道の領地だったといわれ、町名にそれが残っているそうです。泉入道自身も隠居後は米泉に庵を結んで隠棲、後に法名・慶覚から慶覚寺になっています。後に移転して現在は幸町の県税事務所の近くにあります。 旧北国街道 泉2丁目付近 犀川大橋から南に向かう旧北国街道は現在の国道157号線をなぞるように進みますが、大きくずれている場所が泉一丁目交差点から右斜めに進み、有松交差点手前に抜ける細い住宅路が特筆されます。この通りには江戸期から続く伝統のお店や店舗が残っていますし、一歩露地に入ると迷子になりそうな迷路の細道があります。 この北国街道沿いの泉2.3丁目、泉本町、弥生の産土神の神社になっているのが国造神社になります。神社の門前にも何軒か老舗や旧家が観られます。 …

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椿原天満宮② 稲荷社 ~ 牛坂八幡神社

椿原天満宮は丘陵の断崖の斜面を利用した長い石段が表参道になりますが、天神坂に面した山裾を巻くようにもう一本の脇参道があります。ちょうど、石段の横から進むと小さな祠堂・小祠を見ながら進めます。最初は田井天神の名残かと思ったんですが、この小祠と云いながら前の置石には卍が刻まれています。神社の祠に卍ですから???この脇参道は稲荷社に続く道なんですが、この稲荷社にはちょっとした謂れがあって、仏教的・慰霊的な意味なのか。。残念ながら謂れについては、不明でまた機会があったら調べてみようと思っています。 卍は寺院の記号に用いられるように、仏教信仰、仏教の吉瑞を顕す紋で神社にはふさわしくないものです。武将の家紋としては鎌倉から南北朝の武蔵七党の中心核・横山党が使用し、その末裔に受け継がれたと云われます。有名武家では蜂須賀家の代表紋、津軽家・大給松平家(松平庶流)が使用しています。武蔵七党の所縁か横山姓の家に多く、加賀藩では加賀八家老の一家・横山家の紋所が「丸に左万字」を代表紋として使い続けています。 横山家 丸に左万字 ちなみに卍紋は戦国末期及び江戸期には隠れキリシタンが十字の替わりとして用いたと云われています。以前、高山右近の項(②③)で書いていますが、横山長知(ながちか)は右近との親交が厚く、嫡男・康玄(やすはる)は右近の娘・ルチアを正室としていました。横山文書では長知より先に亡くなり康玄の項は多くが謎の削除がされていますが、右近退去後に正室を離婚してキリシタン取り締まりの責任者となりな…

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