本多の森 本多家上屋敷跡

 石川県立美術館前回ご紹介した県立美術館の地は江戸期には、八家家老で最大所領(5万石)を誇った本多家の上屋敷があった地になります。石川県立美術館最西部 左の建物は文化財修復センター町名となっている出羽町の由来ですが、金沢城・河北門石垣・外総構濠を整備した篠原出羽守一孝の屋敷があったことに由来しています。 篠原一孝は、前田利家の遺言にも「出羽は子供の時から召し仕え、心はよく解っている。片口なる(口が堅い)律儀者だから城を預けても心配はいらない。その上、末森の合戦では若年ながらよく働いてくれたので、弟・良之(佐脇良之)の娘を養女として嫁がせ、姪婿とした。関東陣では八王子でよく働いた。しかし、姪が早死にしたので青山佐渡(守)吉次を聟にしたら良いと女どもも言っているから後で取り計らったらよかろう。」と、家臣団でも第一番に名を上げられています。利長時代には横山長知・奥村栄明(永福長子)と共に執政となっていました。また、ライバルとも云われ、関係がイマイチと云われた高山右近の金沢退去時には、「もし幕府に糾明されたら、自分が勝手にやったんだから責任を取って腹を切る」と、右近への感謝と共にこまごまとした計らいを見せ、金沢随一の武士・武家の鏡と尊敬を集めています。元和2年(1616年)死去、享年65歳。その後、相続した次男・孫が早世したために篠原出羽家は断絶しています。芳春院の実家筋となる篠原本家は次弟・長次が継承しています。 前田利家の遺言や篠原一孝・佐脇良之などの略歴はこちらをどうぞ ⇒ 高山右近記念公園① …

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津田玄蕃屋敷~陸軍第九師団長官舎

金沢は戦災や大きな災害にあっていないせいか、古い路地や建物や庭園が結構残されています。そんな中には観光名所の中にありながら、歴史的に興味的にも面白いのに、あまり人が訪れないものも結構あります。大体がパンフや観光案内には載っていないんですね。載っていても小さな扱いだったり。。というわけで、今回は兼六園の随身口近くにある二つの建物を。。まずは百万石通りから金澤神社に向かう随身口。左手に見える古風な建物。。現在は兼六園管理事務所となっています。実はこの建物は江戸期の加賀藩重臣だった津田玄蕃屋敷だったものです。江戸期の重臣屋敷で玄関付きで残っている数少ない建物です。 前田利家が初めて領地を得た府中三人衆時代(前田利家・佐々成政・不破光治三人合わせて10万石)から急速な領地の拡大によって、利家・利長時代はスカウトや与力武将の参集によって急速に家臣団は数を増やしていきます。加賀前田家が30~40年程の短期間で3万石から40倍の120万石と領土拡大に成功したのは、利家・利長の才覚はもちろんですが、この家臣団の活躍が大でした。活躍=加増となり、利家・利長時代には1万石を超える家臣が20数家存在していました。当時は城・所領持ちである上に戦国気風を受け継ぐ独立心の強い家臣団で、加賀藩は加賀藩前田家を頂点の象徴に小大名連合国家でもあったのです。 江戸期に入って利常・光高・綱紀時代になると、国内戦闘がなくなり、藩内政治・文化振興や対幕府政策などの行政面が優先されます。そこで安定しない地方は十村や代官に任せ、所領を廃し…

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木越光徳寺跡 八坂神社(貴船神社)天狗の森

七尾の小丸山城を下城して一本杉通りに向かうと、大きな伽藍を有する「木越山 光徳寺」があります。11/3の光徳寺の報恩講では、七尾市街地では人気スポットの一本杉通りでは、露店が立ち並び賑わいます。七尾秋の大市として親しまれています。 山号・寺名が示すように、この光徳寺の発祥地は金沢市木越地区になります。戦国期には河北郡の四大坊主寺院(鳥越・弘願(ごがん)寺、吉藤・専光寺、磯部・勝願寺、木越・光徳寺)の一つとして加賀一向宗を主導した寺院になります。そしてこの寺院も加賀富樫家とは深い繋がりがあります。ちなみに現在の光徳寺住職は代々富樫姓を名乗っています。木越山 光徳寺跡 開祖宗性は、第十二代加賀国守護の富樫左衛門尉泰家入道仏誓の孫で、富樫右衛門利信である。文永十一年(一二七四)比叡山に登り天台宗の僧となり、宗性と名のる。乾元元年(けんげん、一三〇二)宗性七十六歳で浄土真宗本願寺覚如上人に帰依する。帰国に当たり覚如上人より、恵心僧都<源信>自作の「阿弥陀如来の木造」と覚如上人自筆の「六号名号」一軸を拝受し、加賀国河北郡木越の里に光徳寺を創建する。戦国騒乱の時代、第七代現道は、加賀一向一揆の大坊主として活躍し、長享二年(一四八八)加賀国守護富樫政親を滅し、「百姓を持ちたる国」を実現させた。 2019.07.15撮影 木越光徳寺跡遺跡 右の白い車の停まっている畑地から薄緑の田園が跡地 天正八年(一五八〇)織田信長から加賀一向一揆平定の命令を受けた越前北ノ庄柴田勝家は二万の大軍を率いて加州に乱入し、一揆…

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芋掘り藤五郎① 金城霊澤 芋掘り藤五郎神社

暖かい陽射しが感じられながら、晴れたと思ったら雪混じりの雨が降るなど、気温変化が激しい先週まで。。風も肌寒かったりして、個人宅の桜は咲いていますが屋外や河岸の桜は今週辺りから咲き始めそうです。こういった肌寒さが残ると、一気に咲いて一気に散ることが多いのですが、今年はどうなんでしょうか。。。今年も残務が押し気味なので、どうせならもっと遅くなって欲しいと内心思っている僕でした。先週金曜日に開花宣言@@雪かぶりの桜なんて何年ぶりだろう。昨日(4/6)標本木も満開に。。来週は各所は花盛りかな。。 先週木曜日、山科の高台に登ったのですが、高台はまだ肌寒く花の気配もありませんでした。久しぶりに芋堀藤五郎神社や大桑化石層に立ち寄ってきました。  石川県立美術館広坂別館 大正11年(1912年)建築。旧陸軍第九師団長官舎として建てられたものです。昭和中期、末、平成27年に改修が加えられていますが、大正期の軍官舎の通例を残す建物です。右側のベージュの建物が増設された県文化財保存修復工房になります。入り口は建物正門からになります。 翌々日の土曜日、午前中の早い時間帯にお仕事終了。。観光客が多くて日中は避けている兼六園周辺ですが、3年前に県立美術館横に移設された県文化財保存修復工房を観てきました。修復センター併設の国立美術館(東京・京都・奈良・福岡大宰府)がありますが、どうしても国宝・重文が優先で、県や市町村の文化財は後回しの傾向があります。これまでも地方自治体の美術館の修復センターは金沢だけでしたが、…

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木製笠塔婆 金沢市埋蔵文化財センター

今月14日、北金沢の千田町から画期的な発見がなされたことが発表されました。 木製の笠塔婆が発見されたのは国内2例目。ところが今回の発見が画期的なのは、梵字が金箔で描かれており、その金箔が残っていたことにあります。そもそも木製品が腐らずに残るのも奇跡的ですが、漆や金箔が残されているというのは、画期的というよりもう奇跡としか言いようがありません。 ちなみに木製笠塔婆の国内初の発見は、平成19年(2007年)奥能登の野々江本江寺跡遺跡で、平安末期の物とされています。ちなみに本江寺は小さな寺院ながら明治まであった寺院でした。珠洲市の飯田高校から東に2キロ弱の金川という河川の段丘上にありました。古くは平安末期から室町にかけては真言宗寺院と江戸期には伝わっていました。(石川県文化財、笠塔婆の竿(支柱)2・笠塔婆の額・板碑) ⇒ 野々江本江寺遺跡出土品(石川県HP) リンクを見て貰えば分かりますが、非常に簡素なもので笠塔婆と言っても、板棒に近い造りです。それでも竿丈は2mの長さがある大きなもの。 千田町で発見された笠塔婆はTVの映像を見ると、額がはっきりある様子。。これは見たい^^/しかも公開場所は、車で15分くらい。。 しかも日曜だけど午前中は仕事で、津幡に用事があるから千田町にも寄って行けるし、公開時間にもバッチリ^^V 発見された場所は全くの偶然の産物。。白山市から金沢の西側(海側)を縦貫する海側バイパス道路。片側2車線化を施しながら浅野川の手前・大河端まで延伸しています。県や金…

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野間神社

金沢の北東部にある野間神社。現在は金沢市ですが、旧小坂村一帯の惣社として河北(加賀)13座に数えられる式内論社としても古い歴史を持つ神社です。小坂村は長く河北郡でしたが昭和11年(1936年)に金沢市に編入されています。 一応、式内社・野間神社に関しては金沢市玉鉾(たまぼこ)の野間神社も論社として主張しています。ただ玉鉾野間神社の主祭神は豊宇賀能売命(とようけび、豊受大神、稲荷神)にしています。豊宇賀能売命は伊勢神宮の外宮の主祭神と知られた食物・穀物を司る女神で、天照大神の相棒的存在で大和系ともみられます。 野間神社御由緒 金沢市小坂町東一番地鎮座 一.御祭神 草野(かやの)比賣大神    配祀   武甕槌(たけみかづち)命 経津主(ふつぬし)命 天児屋根(あまのこやね)命 比咩(ひめ)大神 一.境内地 壱千八百拾四坪 一.由緒    本神社は延喜式内の名社であり、古来小坂地区の総鎮守神として仰がれて来た。    その創建は悠久の大古にさかのぼるが、文献に現れたのは、斉明天皇二年(西暦六五六年)二月を始めとする。以来、歴代天皇、国守、介、守護等の崇敬極めて厚く、神階を授け給い、神領を寄進し、社殿の造営や幣帛の供進などしばしばであった。藩政期には河北郡一郡の総社と称せられ、明治三十八年石川県より郷社に列せられて今日に至った。  表参道石段下の狛犬像  平成8年(1996年)奉納と新しいものです。平成生まれの加賀の狛犬にはこのような迫力系が多いです。 …

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馬坂

前々回にも書きましたが、ご紹介した椿原天満宮を巻くような天神坂は、田井・旭町などの旧街や越中・福光などから金沢城下町への往来の本道でした。 天神坂を登り切った小立野台地は砂岩層を覆う岩盤層がある台地で、水の手が少ないために農地としてはむかない場所でした。この為小立野台地上の住民は、農地を求める住人は浅野川沿いや犀川沿いの低地に畑地を求めることになります。この為浅野川に向かう台地には天神坂の他に三つの坂道がありました。それが、馬坂・鶴間坂・牛坂の三本の坂道でした。馬や牛が示すように農耕用の牛馬を使った名のように小立野の住民の生活道路となっていました。牛坂は整備が進んで面影がなく、鶴間坂・馬坂は車の通行禁止。。 とはいえ、車人間の僕としては、なかなか訪れにくい場所なんですが、お客さんの家に訪問後に宝町に来たついでに立ち寄ってみることに。。というわけで今回は馬坂の紹介です。 坂道は舗装されていますが、道幅は当時より少し拡張していると思われます。なかなかの急勾配で途中には別名・六曲坂と呼ばれるように、大きなカーブがあります。 馬坂(途中の坂標碑より)・・・昔、田井村の農民が小立野へ草刈りに行くため、馬をひいて登ったのでこの名がついた。六曲り坂ともいわれていた  馬坂 扇町口 大曲 馬坂は現在は上部の宝町と扇町を繋ぐ坂でした。前述したように小立野台地の崖面を登る三つの坂は住民の生活道路であり、鶴間・牛坂は小立野から浅野川沿いに降りる坂でしたが、この馬坂の上部の宝町は、前田利家を始…

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国造(こくぞう)神社

金沢市街には「泉」のつく町名が多くあります。米泉・増泉・西泉・泉本町・泉・泉野・泉野出町・泉が丘他、僕が思いつくものだけでもこれだけあります。この泉の付く地区は、犀川南岸から伏見川の両岸、大乗寺から西金沢駅周辺に及ぶ一帯です。この辺りは古くから金沢市内でも屈指の人口密集地になります。 この泉の地名のルーツですが、別にここに大きな泉や湖があったというわけではありません。前々回にご紹介した天満宮の前身・椿原砦を築いた須崎兵庫になります。須崎兵庫は賀州三箇寺(松岡寺・山田光教寺・本泉寺)の旧真宗軍団の中でも主力的存在で、加賀守護・富樫政親が滅んだ高尾城攻めでも、攻城方の総大将を努めています。この須崎兵庫の別名が泉入道と云い、前述の範囲が泉入道の領地だったといわれ、町名にそれが残っているそうです。泉入道自身も隠居後は米泉に庵を結んで隠棲、後に法名・慶覚から慶覚寺になっています。後に移転して現在は幸町の県税事務所の近くにあります。 旧北国街道 泉2丁目付近 犀川大橋から南に向かう旧北国街道は現在の国道157号線をなぞるように進みますが、大きくずれている場所が泉一丁目交差点から右斜めに進み、有松交差点手前に抜ける細い住宅路が特筆されます。この通りには江戸期から続く伝統のお店や店舗が残っていますし、一歩露地に入ると迷子になりそうな迷路の細道があります。 この北国街道沿いの泉2.3丁目、泉本町、弥生の産土神の神社になっているのが国造神社になります。神社の門前にも何軒か老舗や旧家が観られます。 …

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椿原天満宮② 稲荷社 ~ 牛坂八幡神社

椿原天満宮は丘陵の断崖の斜面を利用した長い石段が表参道になりますが、天神坂に面した山裾を巻くようにもう一本の脇参道があります。ちょうど、石段の横から進むと小さな祠堂・小祠を見ながら進めます。最初は田井天神の名残かと思ったんですが、この小祠と云いながら前の置石には卍が刻まれています。神社の祠に卍ですから???この脇参道は稲荷社に続く道なんですが、この稲荷社にはちょっとした謂れがあって、仏教的・慰霊的な意味なのか。。残念ながら謂れについては、不明でまた機会があったら調べてみようと思っています。 卍は寺院の記号に用いられるように、仏教信仰、仏教の吉瑞を顕す紋で神社にはふさわしくないものです。武将の家紋としては鎌倉から南北朝の武蔵七党の中心核・横山党が使用し、その末裔に受け継がれたと云われます。有名武家では蜂須賀家の代表紋、津軽家・大給松平家(松平庶流)が使用しています。武蔵七党の所縁か横山姓の家に多く、加賀藩では加賀八家老の一家・横山家の紋所が「丸に左万字」を代表紋として使い続けています。 横山家 丸に左万字 ちなみに卍紋は戦国末期及び江戸期には隠れキリシタンが十字の替わりとして用いたと云われています。以前、高山右近の項(②③)で書いていますが、横山長知(ながちか)は右近との親交が厚く、嫡男・康玄(やすはる)は右近の娘・ルチアを正室としていました。横山文書では長知より先に亡くなり康玄の項は多くが謎の削除がされていますが、右近退去後に正室を離婚してキリシタン取り締まりの責任者となりな…

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椿原天満宮①

椿原天満宮 右の道が天神坂 この神社に関しては、以前に一度アップしています。永仁5年(1298年)に山崎(?)の地・富樫丹波邸(?)に天神社として開基され、観応年間(1350~1352年)に当地に遷座、田井天神と呼ばれていました。ただ前回も書きましたが時代的にも記述的にも疑問が多く、慶長以前は詳細不明の神社です。前田利家金沢入城後に椿原天満宮と改め現在地に社殿を建てています。 江戸時代、常駐の神官が置かれ祭祀的にはもちろん金沢城の防衛拠点としても重要視された金沢五社の筆頭格とされた神社です。また戦国期には一向宗の洲崎兵庫が砦を置いた際は当初の本拠・越中・福光・城端、その後の加賀・本泉寺の先端地であり、金沢御堂の時代には越中方向の最終防衛地となった重要地です。 金沢五社や一向宗時代について興味のある方はこちらをどうぞ⇒2013.08.06椿原天満宮(椿原山砦跡) 天神坂標柱 椿原神社の旧社名、田井天神の隣にあるのでこの名でよばれている。昔坂の上部は三つに分かれていた。 金沢は九十九坂の町とも呼ばれるほど坂道の多い町ですが、その坂道の紹介があると一番に挙げられるのがこの坂になります。椿原坂・天神坂とも呼ばれています。どちらもこの天神宮から由来しています。元々、金沢大学が金沢城から角間に移って以来、急速に開けたのが杜の里・若松・田上といった地域です。それまでもその手前の旭町・田井町・桜町・横山町・材木町などは江戸期には栄えた町でもありました。更に富山の福光に抜ける主要道として重要道でし…

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永安寺② 

前回は開山堂と由来記で終わってしまったので、その続きです。今回は永安寺が真言宗寺院であることと、真言宗について取り留めなく。。。 開山堂入り口から本堂の風景 山岳修験道は国家神道に対抗するものとして、自然崇拝に八百万の神や古代神道・仏教が混在して独自の進化を遂げて来たともいえます。純粋に山岳修業を通して自己研鑽を目的にする者もいましたが、山の民や口減らしの対象としての側面も強く持っていました。インチキ祈祷や護符を売り歩く輩の温床にもなっていました。とはいえ、山岳修験者の数は、正式な申請修験者・はぐれ修験者合わせて江戸期には17万人以上いたとも云われています。当時の人口からすれば200~250人に一人の割合になります。その半数以上がいかがわしい行者や浮浪者ともみられていました。 明治5年(1872年)政府は廃仏毀釈の前段階として、天台宗・真言宗の一部を除く山岳修験道の禁止令を出しています。国家神道を是とする国としては、怪しげな自称修験行者の排除はもちろんですが、古代神道・仏教が混在して独自の進化を遂げた山岳修験道は危険な存在であり大きな障害でもありました。 更に段階的に一般への売薬・護符の販売禁止、一般への祈祷行為の禁止など締め付けを強くし、山岳修験者の収入源を断ち、廃仏毀釈によってとどめを刺したと云えます。石川県内では能登の石動山・天平寺の破却が典型的な事例です。 永安寺 本堂 古来から中央政府から虐げ続けられた存在、国家神道(中臣神道)に反抗し続けた歴史を持つ山岳修験道。…

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永安寺①

永安寺 本堂 山丘を巻くように流れる寺津用水と遊歩道。。その山丘の上にあるのが真言宗・鶴舞山・永安寺になります。 永安寺に関してはあまり予備知識がなくまったくの初訪問になります。 永安寺は山岳修験道を修めた初代・霊光が大正・昭和初期に開山した歴史的には新しい寺院ですが、境内の広さは金沢では屈指の広さを持っています。また、多少の昇り降りがありますが、真言宗寺院特有の構築物が多いのが特徴で散策に打ってつけ 永安寺 開山堂 開祖・霊光僧正を祀っています。中央に観世音菩薩立像、右に弘法大師座像、左が霊光僧正座像 開山堂に書かれていた説明板によれば… 開山堂  中央に観世音菩薩、向かって右に宗祖・弘法大師、左に当山の開祖・霊光僧正を安置してあります。霊光僧正は明治二十三年に元加賀百万石の城主・前田慶寧の外孫として出世される。 幼少より出家の遊びをされ、わずか七歳にて金沢夕日ヶ丘の傳燈寺にて七日間の行をされる。更に十五歳のとき、奈良県の生駒山にて百日間の捨身の行をされ、時の瓜生海軍大将の斡旋にて、高僧大阿闍梨・井上哲城僧正の元で修行。師の跡を継がれ、更に近畿・北陸三県の深山にて、数年間修行される。 師・哲城大僧正の遺言により、足利九代将軍・義尚公が建立した由緒ある永安寺が、維新後の廃仏毀釈で、廃寺寸前にあるのを惜しまれ、新たに造営、仏法興隆、国家安泰、衆生済度のために一生を尽くされる。 永安寺由来記から 当山開基 霊光上人は明治23年、石川県河北郡三谷村字月…

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寺津用水

寺津用水 永安寺第一駐車場 金沢は犀川・浅野川の二つの河川に囲まれた街になります。。この河川の水源を利用して網の目のように用水路が市街に張り巡らされています。その数は55用水と云われています。歴史を紐解けば、金沢の町は用水路の開削と共に新しい町が出来て来たと云えます。これらの用水路は道路沿いに流れが多く観られます。 長町の武家屋敷通りや片町・香林坊の裏道のせせらぎ通りに観られるように、道に沿うように用水路が流れ、生活用水・灌漑用水・防火用水はもちろん、各家や屋敷に曲水として取り入れて庭園の池水にしたり、加賀友禅を始めとした工芸品の貴重な源泉にもなっていたわけです。また、雪国の悩みの種である除雪の捨て場としても利用されていました。江戸時代から明治にかけて金沢の町は用水路が張り巡らされ、水と共に生きる町だったわけです。 ところが文明開化の波が押し寄せた明治以降、農地改革や電気事業の進歩で用水事業はますます必要性を増したのですが、自動車や電車の発達には水路は非常に邪魔な存在とされてしまいました。更に戦災や大災害がなかったために区画をいじるわけにはいかず、水路分を道路にするということしかできなかったのです。 このために暗渠といって、水路に蓋をしたり、上部を塞いだり潰して、道路として拡張する必要に迫られてしまいました。 寺津用水遊歩道 更に中心街となる金沢城のお堀。元々、用水路からの水を取り込んだ堀で、金沢城の城郭は囲まれた城でした。更に外側には石川門下の4車線道…

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大野湊神社

金沢の東西を外環状のバイパス道路が近年、すっかり整備されました。まだ他にも計画道路が多いのですが、今の知事さんはホントに交通網の整備に力を入れますねえ。確かに便利になったけど、景観が変わりすぎてちょっと寂しいものもあります。 金沢の東側を走る通称・山側バイパス。能登方面に向かう北金沢の花園で中央を走る国道8号と分岐、小松の八幡町で合流します。西側を走る通称・海側バイパスは山側バイパスの途中の白山麓に向かう安養寺北交差点から県庁のある大通りまでつながっています。更に現在は浅野川の手前まで延伸しています。 金沢の中心街を通る国道8・157号線の交通緩和が進んで、進行やアクセスが楽になりました。更に能登里山街道や川北大橋の無料化も拍車をかけています。 この恩恵を大きく受けているのが、車を駆使して広範囲に営業・サービス活動に動く僕なんですね。日頃、景観がどうの、地名がどうの、名所旧跡が消えるなどと言っておきながら、大きな寄与を受けているわけです。 僕が住む旧松任地区はこの山側・海側・8・157号といった主要幹線道路の中心経由地、特に乾の交差点は前述の四路線の中継点で我が家からすぐの場所になるんです。おかげで目的地によって進行があっさり決まります。前は地図とにらめっこがよくありましたから。。 しかし交通網が広域化して大忙しなのが、道路公団や警察関係。。特に白山・金沢西部は大変だと思います。まあ、石川県警本部が県庁横、交通機動隊が野々市の二日市に移転しています。まあ、おかげで海側や野…

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金沢南総合運動公園 バラ園

金沢南総合運動公園 噴水 中央彫刻 金沢南総合運動公園は昭和22年(1947年)の第2回国民体育大会(国体)が開催された市営陸上競技場(大正14年(1925年)開設)、その後造られた総合プール(国体の水泳・飛び込みは松任市)、球技場を中心にして、昭和33年に開設された総合運動公園です。 金沢南総合運動公園 入り口 いうなれば、石川県・金沢市のスポーツ体育のメッカと云える場所です。 金沢南総合運動公園 中央芝生広場 ゲートボール場 幾度も改修工事が加えられていますが老朽化は否めず、近年は西部緑地公園・いしかわ総合スポーツセンター・城北市民運動公園の金沢プールと拠点の分散化が進んでいます。とはいえ、金沢市のスポーツ振興のシンボルには変わりなく、併設する芝生公園やバラ園によって認知度も高く憩いの場としての側面を維持しています。 金沢市内の小学校出身者なら9割が歌って出来る体操という「若い力」、この歌は国体・石川大会から使用されているんですが、金沢では毎年、この演目が運動公園で開催されています。おかげで金沢圏外の僕たちでもソラで歌えますが、ダンスというかこの体操は教えられたけどできませんねえ。「若い力」に興味のある人はこちらをどうぞ 前回のアップの記事 ⇒ H23.6.6 金沢南総合運動公園 バラ園 金沢南総合運動公園 バラ園 この公園の最奥にあるのがバラ園で、大規模なバラ園が少ない石川県ですが、その中では屈指のバラ園になっています。バラ園の面積は1600㎡。1…

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大乗寺丘陵公園

ゴールデンウィークの真っ只中の貴重な平日 やっとこ、仕事のめどがつき始めた上天気のこの日 北金沢から小立野のお客さんを廻った帰り道、山側バイパスを通っての帰り道に立ち寄ったのが大乗寺丘陵公園。加賀藩前田家の墓所がある野田山の山稜を同じくする西端の丘陵地帯ですが、同じ丘陵に曹洞宗寺院・大乗寺があることからこの名称になっています。 東香山・大乗寺は、金沢では加賀藩主関係の宝円寺・天徳院に規模は譲るものの、それ以上の歴史・地位・格式を持つ曹洞宗寺院です。加賀の曹洞宗総持寺派の旧本拠地・永光寺、総持寺の源といえる寺院です。 永平寺でも最高位とされる四門首の一つにも数えられています。ちなみに四門首は福井県大野市・宝慶(ほうきょう)寺、熊本県熊本市・大慈寺、京都府宇治市・興聖(こうしょう)寺とこの大乗寺なります。更に総持寺を開基した瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)が二代目の住職になっており、近年では大乗寺山主だった板橋興宗(現・御誕生寺住職、ちなみにこの寺は近年、猫の寺として人気急上昇中の福井にある寺院です。)が、平成10年(1998年)総持寺貫主・曹洞宗管長になっており、永平寺・総持寺双方に重い関係を持った重要寺院です。 ちなみに管長は、二大本山(総持寺・永平寺)の貫主が2年交代で務めるもので、曹洞宗の実質的なトップになります。 大乗寺の開基は弘長3年(1263年)。安宅関の勧進帳における関守・富樫左衛門(泰家)の孫にあたる富樫家尚(いえひさ)が真言宗寺院として建立したのが始まりです。正…

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護国山 宝円寺

お客さんの自宅に伺うことになって、待ち合わせ時間に3.40分あったので時間調整に久しぶりに立ち寄ったのが宝円寺でした。あまり時間がないので、境内だけを少し歩いてきました。 10年ほど前に一度簡単にUPしていますが、合わせて観て頂けましたら幸いです。⇒ H20.11.28 宝円寺 今回は時間があまりなかったので境内をちょこっと歩くだけで、あまり前回と変わり映えしませんがご容赦ください。。新緑や紅葉の時期に本堂内からの濡れ縁から大正時代に建てられた対青軒と庭園の眺めが美しい寺院です。 曹洞宗・宝円寺の開基は天正3年(1575年)以降、前田利家が府中三人衆の一人として初めて領地を持った際に寺院を建立して父母の供養塔を置いたのが始まりとされています。一説には古くから宝円寺という寺院は古くからあったものを住職・大透圭徐(だいとうけいじょ)との出会いから自身の父母の菩提寺にしたとも云われています。その後、天正9年(1571年)利家が能登を領国とすると、七尾に圭徐を招いて同名の宝円寺を建立しています。更に天正11年(1583年)金沢入城の際にやはり圭徐を招いて千歳台(現在の兼六園蓮池の東端に同名の寺院を建立して加賀前田家の菩提寺としていました。ちなみに表門となる山門は石川門の正対にありました。寺院の南隣に前回の記事で触れた白山信仰の波着寺が置かれ祈祷所となっていました。前田利家の葬儀もこの千歳台にあった頃の宝円寺で行われ菩提寺となっています。 宝円寺が現在地に移ったのは元和9年(1620…

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加賀騒動

更新頻度が少なく、ご訪問も多くなく、皆さんにはご迷惑をおかけしています。 機会を観て、整理がてらUPしようと思ったものの、途中書きになってそのままのものも。。今回の加賀騒動にしても歴史の陰に埋もれた人が多いので、なかなか機会や画像がなくて、。。ただ相変わらず年末年始にだらだら書いたので、まとまりなく長くなってしまいました。知ってる人は知っている、名前や事件の名は知っていても、中身まではの人も多いと思います。たまたま書き始めた時は映画「武士の献立」が公開されて、作中の舟木伝内の墓が特定された時期でもありました。映画に関しては加賀騒動と加賀藩の料理頭の話を絡めたものですが、作者が思うほど加賀騒動の内容を理解している人が多くなく、知らずに見ると何のことやらになっただろうな。。上戸彩が久しぶりの映画主演で頑張っていましたが、ちょっと展開が早すぎて空回りという感じでした。。加賀騒動のあらましを知るには良作品と思います。 2013.12.11 椿原天満宮(椿原山砦跡) から 脇参道の稲荷社について・・・(本文から抜粋) 椿原天満宮の社域には石段とは別にもう一本の脇参道があります。 こちらは稲荷神社があるのですが、この稲荷神社は月読社と稲荷社を合祀したものです。実はこちらは加賀騒動で大槻伝蔵と密通の末、自分の息子を殿様にしようと図ったとされる6代藩主・吉徳の側室・真如院(稲荷社)と息子・勢ノ佐(利和・月読社)を祀ったものだそうです。そういえば、この辺りは加賀騒動で犯人とされた真如院の墓があ…

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石川県庁 夜景

巷はクリスマスのイルミネーションイベントや個人宅のイルミが瞬いている今日この頃。。 掃除さえまともに進んでいない我が家には関係ないなんて開き直ってはいますが、やはり綺麗なものは綺麗。 イルミも観たいなあ。。とは思うけれど、ここ何日かは強風と雨。。出かけるのもなあと面倒くさいなあと仕事以外はそそくさと部屋にこもる日々が続いています。ついでに画像整理もしてます。。 また、年末の追い込みのめどがついたら、能登までイルミを観に行こうと思っています。まあ、秋に一里野のイルミも観れてるから、いつもより意欲が減ってる気がする。。 言い訳になってしまいましたが、言い訳ついでのお詫びに、イルミとは違いますが晩秋の夜景を。。つなぎとして 県庁18階の展望台からの夜景です。仕事の関係でちょこちょこ県庁に行く機会があって、たまに一番上まで行くのですが、、県庁の周りには高い建物がないので四方が見渡せて夜景を見るなら県内一の場所だと思います。 四季それぞれの風景が観られますが、僕の一番好きなのが秋の薄暮がお気に入りです。特に宵闇(本来は10月の中秋の名月の頃を云うそうです。)が迫る寸前が一番お気に入りです。まあ、なかなか日や時間に限られて観られないのですが、秋の10月中旬過ぎには一度は登っています。 前に撮ったこのくらいが一番好きです。 ⇒ H26.10.23 石川県庁展望台 今回はあたりが暗くなって見逃してしまいましたが、この時の夜景では初めてのものも観られました。いつもの説明調はここま…

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月照寺 玉泉寺

以前ご紹介した加賀八家・前田対馬守家の菩提寺・玉龍寺。金沢に多くの寺院が林立する寺町に隣接する野町にあり、周囲に多くの寺院が林立します。加賀藩三代・前田利常を養育した前田長種を祖にしています。 尾張時代を遡ればこの前田対馬守家は、加賀前田家の本家筋に当たります。本家から二・三代前に分家した荒子前田家の前田利家が織田信長の北陸方面軍の与力として出征し、能登に地盤を固め賤ケ岳後の金沢入城によって能登・加賀半国を領有して地歩を固め始めた時まで、前田本家(当時は前田与十郎家)の前田長定・長種親子は尾張に残って、下之一色城を本城として本貫の地・海東郡(現名古屋市中川区・津島市・あま市・蟹江町周辺)に寄っていました。。最盛期には四城(前田・荒子・蟹江・下之一色)を持っていましたが、前田城・荒子城は廃城となっており、蟹江城は長島攻めの基地として滝川一益の支配下となり城代待遇、後に織田信雄の持ち城となり織田信雄傘下となっていました。 天正12年(1584年)豊臣秀吉が織田信雄・徳川家康連合軍と戦った小牧・長久手の合戦の開戦前、織田信雄方だった前田長定に秀吉の内意を受けた滝川一益の誘いに乗って、蟹江城を攻め落とし秀吉の来援を待ちます。ところが脅威を感じた織田信雄・徳川家康の大軍で逆に完全包囲を受け、秀吉の来援も間に合わず落城。この落城で前田長定は捕縛、一族・妻子と共に斬首。本城・下之一色城を守っていた前田長種は降伏開城して、前田利家を頼って能登に単身落ち延びています。前田利家は本家の御曹司・長種を迎え入…

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②高山右近 前田利長時代

天正16年(1588年)加賀に来た高山右近でしたが、前田利家時代にはそのほとんどが大阪での前田利家の相談役、外征と金沢城の修復・町割りの整備にと大阪・金沢間往復に忙殺されたと云えます。畿内の先進的な築城術、利休七哲としての文化の素養による金沢文化の創設など、多岐に渡ったことが窺えます。 しかし、この間に忠節を尽くした右近の実績と信義は、利家の信頼と藩内でも重きをなしていったようです。 H21.11.01撮影 高岡城址 前田利長像 恩人ともいえる前田利家が亡くなったのは慶長4年(1599年)。跡を継いだ前田利長はやはり利休門下として高山右近とは元々が交際が深く、利長は重要な相談役として右近を重用することになります。 利長時代の執政は前ブログでも来ましたが、篠原一孝・横山長知・奥村栄明の三家老でした。この三人の中で横山長知(ながちか)が特に腹心的最側近となっていました。この横山長知と高山右近は加賀藩内で特に友好的な関係であったとされています。しかし、陪臣出身の横山家と客分の高山家(右近は客分ですが、長子・長房は利長家臣になっていたようです。)は、前田家旧臣からは嫉妬の眼で観られ、一部家臣団との確執があったようです。 いずこにもあることですが、創業者の家臣団と二代目・家臣団にはどうしても軋轢が発生します。前ブログで前田利長の失策としましたが、利家の遺言「三年は大阪・洛中に留まれ」を半年で帰国した事情には、徳川家康の謀略もありましたが、この人事の収拾も影響したようです。痛恨事はまとめ…

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四坊高坂八幡神社(波自加弥神社奥の院)

全国には変わった神様を祀っている神社がありますが、北金沢の波自加弥(はじかみ)神社もその一つです。 波自加弥神社が主祭神としているのが生姜(しょうが)の神様になります。生姜の古名は「薑・椒」で「はじかみ」と読んでいたと云われています。神社名の波自加弥はこの語が変じたものだと云われています。金沢では波自加弥神社の生姜から更に広義に広げて香辛料の神様として、神社で開催される「はじかみ大祭」には、生姜を扱う生産者や業者はもちろん食堂やレストラン関係者が集まってきて製品などを献納して、社業発展などを祈願して賑わっています。日頃は静かな神社ですが、この日は賑やかな祭礼でごったがえします。近年ではすっかり金沢の風物詩の一つになってきています。 6月15日は「生姜の日」。実はこれはお茶漬けの素やふりかけなどで知られる永谷園が、日本記念日協会に登録申請して制定されたものなんです。H19(2007年)に冷え知らず・生姜シリーズのヒットで、気を良くした永谷園は生姜部という部署を造るほどの力の入れよう ⇒ 永谷園生姜部HP H21(2009年)に前述のように日本記念日協会に申請して6月15日が「生姜の日」になったのですが、波自加弥神社のはじかみ大祭の開催日でして、永谷園はこの祭礼の日に因んで申請したそうです。 波自加弥神社の神主・田近氏は、河北・金沢や白山市の神社合わせて42社の兼務をしていて、石川県神社庁の金沢支部長さん。相当多忙なはずなんですが、ブログも毎日更新しています。神主らしからぬはじけた…

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弥生さくら公園

金沢がソメイヨシの開花宣言をしたのが先週4日の火曜日。そして満開宣言が8日の土曜日。開花から満開までが異常に早かったように感じます。3~4月にかけては私用と仕事がたてこんで、お花見はできるなら遅いほどうれしい僕でしたが、願いむなしく今年も家族でお花見に出かけられないようです。 満開情報のおかげか、月曜日も金沢城や犀川河畔、伏見川河畔は桜も満開状態で、市街は人出も車の混み具合も平常より多いかも。。そんな桜の名所は例年の如く横目で見るだけで、通り過ぎてはため息をつく僕。。 昨年は盛りを過ぎた大聖寺川の河畔を久しぶりに家族で桜を見ながら歩いたけれど、今年はどうも一緒には観れないかも。。。 金沢から能美に向かう途中で久しぶりの公園に立ち寄ってみました。ここは近くに僕の好きなケーキ屋さんのロンシャンがあるし、幹線道路脇ながら閑静で、休憩場所のひとつにしています。 弥生さくら公園 ここは金沢市民なら誰れもが知る桜の名所になります。 国道157号線の幹線道路沿いで、駐車スペースがないので、、なかなか立ち寄りにくいんですが、たまたま空いていてラッキー 弥生さくら公園は平成3年(1991年)まで金沢地方気象台が置かれていた場所になります。気象台といえば桜の標本木。。公園の入り口左手にある巨木がそれになります。気象台が金沢市西念に移って、その役目を終えていますが、樹齢は不明ですが、樹勢は強く今も綺麗で花弁が力強く見えま…

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石川県消防学校

年に1.2回ですが仕事の関係で、石川県の消防学校に訪れています。とはいえ、いつも管理棟の事務室止まりなんですが、ロビーの展示をいつもシゲシゲと見学させて頂いています。 前にも2回ほどUPしていますが、1.2年にちょこっとですが展示物が変わっていたりします。 前回、前々回のブログに興味のある方はこちらをどうぞ。。         H23.08.17 石川県消防学校     H24.07.23 石川県消防学校 ~ 河北潟野鳥観察舎 前回から増えた展示物としては、防災ジオラマ。なかなかの力作です。 たしか消防関係者個人の作品の寄贈だったと思いますが素晴らしい作品で、消防・救助関連の防火・救援作業が描かれています。1X2mほどの大作。アップにも負けない力作です。 他は今までと変わらずに、寄贈されたものなどの展示や消火品の展示・解説。。 左・右上 可動式放水ポンプ  近年まで使用していたもの。現在は改良を加えて最新型が使用されています。現場での水を使用するため、遠心型から自吸型の呼び水を必要としない瞬発性を重要視してきています。 右下 消火器各種 いろんな種類があるものです。。粉末・強化液・二酸化炭素など多種多様。。使用方法も事前に読んだり試したりしないといけませんね。 左 左:放射能防護服 右:耐火服 右 特殊結束の実物展示 ピンボケで御免なさい 管理棟の外玄関には特別仕様で昭和34年製造の日本初と云われる6人乗りダブルシート…

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チカモリ遺跡~縄文ワールド

金沢にある国史跡「チカモリ遺跡」は縄文末期(BC3000~2300年)から晩期にかけての集落遺跡になります。 チカモリ遺跡のある金沢市の西南部に当たる場所は、近くには同時期の遺跡で土器・石器が1万点近く出土した環濠集落の御経塚遺跡、弥生期の遺跡から続いて庄家(奈良期?)・初期荘園(平安初期~鎌倉中期)となり多くの木簡が発掘された東大寺領荘園の三宅(今でいう管理事務所)があった横江庄・上荒屋遺跡が近くになります。他にも縄文・弥生期の遺跡を含め戦国中期まで近隣に遺構が多くあり、加賀の中心的存在地の一つとして連綿と発展を続けた地でもあります。 左:チカモリ遺跡史跡公園 H24.4.20撮影 下:東大寺領横江庄跡(東庄)・上荒屋遺跡 H24.9.20撮影 このチカモリ遺跡を含む地域は手取川・犀川によって構成された扇状地で、水分を多く含んだ土壌と水脈が地下にあるために、柱跡が390、それと木柱の底部である木柱根が295本も発掘されたのです。遺跡の発掘現場を観たことのある人は解ると思いますが、通常は柱跡などは木柱は腐って土となって柱の跡として穴だけが残る場合が多いのです。この遺跡は、掘れば水が出る悪条件ながら、柱の底部とはいえ水にパックされ保存されたことで木柱が数多く発掘された貴重な例にもなります。 上荒屋遺跡ではこの豊富な水脈を利用した舟輸送用の運河が確認されています。 元々、チカモリ遺跡は昭和29年(1954年)の調査には縄文土器が発掘されていて、縄…

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金沢大学の旧標石

金沢大学の角間キャンパスには仕事絡みや福光に抜ける際によく行きます。 何度も行きながら、昨年(H28)に行ったとき、ふと懐かしいものを見つけてしまいました。 角間キャンパスに訪れると云っても、大概は直接学部棟に向かってしまうので、長らく行っていなかった本部棟の駐車場。たまたまこの本部棟でお客さんと待ち合わせをしたんです。その一角の駐車場遮蔽の緑地に、木々 やツツジの木枝に隠れるようにそれは存在していました。それが金沢大学の標石です。 大学だからあっても不思議ではないんですが、この標石は実は昔は金沢城の石川門の前に設置されていたものなんです。 金沢大学は昭和24年(1949年)に誕生した新制大学(国立大学)。金沢大学というと前身は中央公園にある旧制第四高等学校を思い浮かべる人が多いのですが、第四高等学校と共に石川県女子師範学校・石川師範学校 石川青年師範学校・金沢高等師範学校・金沢工業専門学校・旧制金沢医科大学を母体にして誕生しています。 発足当時は6学部(法文学部・教育学部・理学部・医学部・薬学部・工学部)でしたが、現在は平成20年(2008年)に8学部を改組して3学域16学類5研究科となっているそうです。 金沢大学は金沢城内に本(丸の内)キャンパスを置いて、医学部・薬学部が金沢大学付属病院のある宝町・鶴間キャンパス、工学部の小立野(鶴間)キャンパス、その他にも付属の小中高校のあった広坂キャンパスや各町に特別キャンパスもありましたが主要はこの三キャンパスでした。 本…

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金沢駅東口~石川県立音楽堂~平岡野神社

金沢駅東口がリニューアルされて鼓門(つづみもん)ともてなしドームが完成したのは、早いもので平成17年(2005年)3月でしたから、もう12年も経つんですねえ。。 平生、完璧な車人間の僕は、電車や汽車を利用することはほとんどなくって、当然ながら駅構内に入ることはほとんどありえない世界が正直なところ。。最後に金沢駅のプラットホームに立ったのは、友人の娘さんの結婚披露宴の2次会で駅前のホテルのレストランに行った時(15年前)だから、まだ現在の東口改装の完成してない時で、百番街が出来た頃で、まだ懐かしい雑然とした駅風景でした。ついでにいえば、家族や知り合いの送り迎えも車の停車しやすかった西口が多かった(昨年からは西口もタクシー乗り場が増設されて一般車は停め難くなった)。。しかも西口から金沢駅構内には喫茶店や百番街に2.3度入っただけ。。 と、いうわけで、車では駅前道路を何度も通って鼓門やもてなしドームの姿は何度も見ているのですが、準地元ともいえる金沢駅なのに、表玄関の東口には前述の披露宴の2次会以来、立ったことがなかったんですねえ・・ この新装になった金沢駅東口に、初めて立ったのはナントナント10年以上経った昨年(H28)10月になってしまいました。 建設時、完成時には正直高い金(詳しくは知らないけど50億以上をかけたと云われています。)かけて、能楽(加賀宝生流)に使われる鼓を2本立てたような門と、アルミパイプとガラスを組み合わせたもてなしドームの姿を観て「変なの{%顔モジヘェー(シェ…

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玉龍寺 (前田対馬守家菩提寺・墓所)

加賀藩では人持組頭として1万石以上の所領を受け、家老として藩政に常時参画する資格を持つ一門衆・重臣の家系を別名で加賀八家と呼んでいました。他藩の年寄役に当りますが、所領を見ても解るように、外様陪臣とはいえ小大名以上で幕府でも別格扱いを受けており、明治には全家が男爵号を受けています。加賀八家の成立時期ははっきりしませんが、三代・利常から五代・綱紀にかけて成立して行ったようです 軍制面では、約68家と云われる人持組(上士身分、1000石以上)からなる7組をそれぞれの組頭(軍団長)として率い、また藩主不在時や緊急時の金沢城代、平時・緊急時の小松城代として努めています。行政面では幕府交渉、藩内人事、財政管理、藩校運営などがありますが、月番で行政担当を努め、残りの組頭(年寄)が加判と呼ばれ承認・非承認の判断役となり、重要事項の全員連署で決定していました。つまり、加賀八家の八人が加賀藩の最高首脳部になります。 加賀八家をあげると(所領は時期で分家・返上や相続・恩賞・昇給で変動があります。) 本多家   ・・・筆頭家老5万石 家祖・本多政重 徳川家康の最側近で某臣と呼ばれた本多正信の次男         本多政重の波瀾万丈の人生は以前(松風閣庭園)で書いていますが、紆余曲折(七家を渡り歩いています)の末で前田利常に2万石で帰参、対幕府交渉に当り、特に幕府からの越中国返上の強要を撤回させた功績で3万石を加増されてます。また利常・光高・綱紀と三代の藩主の補佐をしています。 長家…

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黒壁山薬王寺 九萬坊権現

ずいぶん前になりますが、金沢に伝わる天狗伝説を紹介しています。その天狗というのが九萬坊大権現。額団地の頂上にある満願寺山にある九萬坊権現が著名です。 他にも前田利家の墓守寺・桃雲寺。三代藩主・前田利常の正室・珠姫の菩提寺・天徳院。他にも利家の六女・菊姫の肖像画を伝える寺町の西方寺など、前田家所縁の寺院に伝えるものが多くあります。その主人公が九萬坊大権現という存在になります。 九萬坊には幾つか逸話があるのですが加賀藩絡みでは、九萬坊は金沢城の本丸の森に住んで、辺り一帯に勢力を誇っていたと云われています。前田利家が金沢に入城した際に、九萬坊を追い出して金沢でも山間地の一つ黒壁山の奥地に封じ込めたと云われています。 九萬坊を追い出した利家は跡地を切り開いて、本丸御殿・天守台を築いたと云われています。ところが、九萬坊の怨念か、主には度重なる落雷によって天守・御殿は幾度も焼け落ちています。金沢城公園に訪れたことがある人には解ると思いますが、現在の金沢城の本丸は広い城域の中でも南面の高台で城内を見渡せる好位置に在りながら、何にもない場所で観光客の人もあまり滞留しない裏寂しい場所になっています。 五層の天守が慶長7年(1602年)慶長の大火で焼け落ち、跡地に三階櫓が天守替わりに建てられたのですが、寛永8年(1631年)寛永の大火で三階櫓・殿様屋敷が焼失、ついにこの時で本丸が放置されて二の丸に御殿が移されています。以降、本丸には目立った建物は建てられず庭園となっていた時期もあったようですが、江戸期…

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戸室山 医王山寺~

暖冬だなあ、もう雪は無しかなあと思っていた年初め、ところが10日過ぎくらいから急激に寒くなって雪が降り始めました。その降り始めの12日、でも市街はチラつくくらいで積雪もなかったんですが、仕事で金沢大学の角間キャンパスに行ったんですが、案外に早く終了しちゃって手持無沙汰の時間が。。 というわけで、足を延ばしてキゴ山の方に行って観ることに。。 さて山の方に向かってみると、積雪はたいしたことはないけれど、さすがに寒いと思っていたら。。 昼過ぎだというのに山の木々には雪の華や氷樹の華が咲いてるじゃないですか。。 金沢中心街から10キロ弱と車で30分ほどで行けることと、キゴ山には自然観察やキャンプなどの屋内外施設やプラネタリウム(銀河の里キゴ山)など子供に人気のある場所で、家族連れが多く集まってきます。 冬季間もプラネタリウムはもちろんですが、スキー場もあって一年を通して人気がある場所です。 今冬は雪が降らなくて、スキー場や雪まつりが出来なくて心配されていましたが、この日の後からの一気の積雪で解消されたようです。よかったよかった。 キゴ山(標高546m)の斜面を利用する医王山スキー場の向かいにあるのが戸室山(548m)になります。 戸室山と言えば戸室石。金沢城の石垣の95%がこの石を使用しており、重要神社の石垣・鳥居・狛犬、上級武家屋敷の塀石垣基礎、石橋の用材、用水道の導管などに使用されていた加賀を代表する名石です。金沢城建築時はこの戸室山を中心にキゴ山を含む半径1.5キ…

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