砺波のチューリップ フラワーロード ~ 四季彩館

久しぶりに家族3人でドライブに行ってきました ほんとは桜を見るつもりだったんですが、週頭からの冷たい風雨でソメイヨシノは散ってしまって、すっかり葉桜になってしまいました。 実は能登鹿島の駅に行きたかったんですが、急遽予定変更で富山県の砺波まで行くことにしました。じつはこれの花見をするつもりだったのですよ チューリップといえば、富山・新潟が一大生産地で両県の県花がチューリップです。富山県の中でも砺波・高岡地区はチューリップの生産の中心。新潟もそうですがこの地区も豪雪地帯として有名です。 そんな風土がチューリップの生産に向いているそうです。 4月半ば過ぎには、畑地にチューリップの花が絨毯のように美しい風景を見せてくれます。そんな砺波の象徴とも云えるチューリップを纏めて見られるのが「チューリップ公園」と「四季彩館」です。 チューリップ公園では毎年、500種100万本のチューリップが咲く「チューリップフェア」が開催されています。色とりどりの花といろんな形の花が公園に花の絨毯と芸術を織り成します。 今年(H25)は4/23~5/6の期間に開催されます。真ん中の塔に登って、公園内を見下ろすと素晴しいですよ。 以前までは開催前の公園は入場自由だったんですよ。ところが着いてみると、公園にはバリケードが立てられていて入場禁止いつの…

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瑞龍寺 ~ 前田利長墓所

新年(H21)の三が日、我家では年末に引いた風邪で絶不調の嫁さん 結局何処にも行かずに、駅伝見ながら寝正月に徹しておりました 1/4さすがに3日間篭っていると窒息しそうでしたよ ゲホゲホいっていた嫁さんも、「どこかイキタイ」 という事で、兄弟や親戚の所へ年始に廻って、途中、尾山神社の前を通ったんですが、石段まで並ぶ人の列 >>> う~む え~い、予定通り、富山に行っちゃえ 国道359号線を山越えして砺波から156号線を北上 やって来たのは「瑞龍寺」 建物が国宝・重文指定を受けている富山を代表する寺です。この寺は前田家2代藩主の前田利長の菩提寺として、3代藩主・弟の利常が建てた物です。写真は2度クリックすると大きくなりますよ。天気が悪くて暗いけど 伽藍構成も変わった配置で、総門・山門・仏殿・法堂を一直線に配置し、そこを回廊で囲むようにして作られています。先の総門から山門・仏殿を三つの門にして法堂が本殿になる造りです。観てもらうと解りますが重厚でシンプルな造りです。 本来、妾腹で腹違いの弟…

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井波 瑞泉寺

井波の町は欄間と彫刻の町で、瑞泉寺までの道には木作りの店舗を配置しています。公衆電話BOXも趣きのある感じ 雨がポツポツとまた降り始めてきたので、慌てて瑞泉寺に 瑞泉寺は真宗大谷派の別院ですが、元々は後小松天皇の勅願寺です。 創建は1390年、伽藍の規模は北陸で一番の規模を誇っています。何度も兵火や大火にあってその度に再建されましたが、特に江戸期の再建で京都からの御用彫刻師が技術を伝えてから彫刻が発展しました。現在も井波の町には120人以上の彫刻師が居り店を構えています。井波の街には彫刻師の専門学校まであります。 瑞泉寺に着くと最初に目に入るのは巨大な山門、江戸時代のものです。 明治の大火からも類焼を免れたもので、この山門も多分北陸で一番大きいと思います。 山門の隣には勅使門が。。。こちらも山門と同じ時期に作られたものです。 近年改修されて金細工が新しくなっています。この門は勅使専用の門なので、通常は開かずの門なんですよ。 この門の左右に彫られた「獅子の子落とし」は井波彫刻の最高傑作と云われています。 山門を潜って入ろうとしたら、またまた雨が本降り・土砂降り 入口の社務所で貸し傘を借りて…

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子撫川ダム ~ 井波

前回の続きです。日記の方は夏真っ盛りです晴れ 河合谷の大滝から、さらに山の中を通って行くと、富山になります。そして、ダムに出会います。 子撫川ダムと言って、富山県の貴重な水瓶の一つです。 このダムは、宮島峡・宮島峡温泉の最上流部になります。 ここから、子撫川沿いに三・二・一の滝や淵が織り成す緑と水の風光明媚なスポットです。今回は急いで通り抜けてしまったので写真をちょっとしか撮っていません。また機会があったら紹介しますね。 この川沿いの道路は、スポットごとにビーナスの彫像を配置しているので、「ビーナス・ライン」と呼ばれています。龍ヶ淵なんか人魚姫が淵の真ん中にいますわーい(嬉しい顔) 子撫川ダムとダム横の広場にあるビーナス像です。 急いで通り抜けたのは、行く場所が遠くだったから思い立ったが吉日で向かったのは井波の瑞泉寺 井波は現在、南砺市の一部ですが、山間の入口にあります。 井波は彫刻の町で有名です。欄間や木彫り、全国の有名寺社に井波の技術者の作品があります。そして獅子頭も、北陸の獅子頭は前に紹介した鶴来と井波が主流です。 町のお店も木彫で統一していて、雰囲気のある通りになっています。彫刻や欄間は勿論ですが、彫刻刀の店が何軒もあるのも特徴です。 井波に近づく頃、それまで凄く良い天気だったのに、空が曇ってきましたよ。そしてついにポツポツと{%曇りwebr…

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浄教寺 世界に一本だけの桜 浄教寺手毬桜

浄教寺は浄土真宗本願寺派のお寺です。 元々は近くにある真言宗・安居寺の24坊の一つでしたが、文明6年(1474年)に住持が蓮如に弟子入りして転宗したものです。 入口の山門も2層式で上部に釣鐘があり、なかなか趣のあるものです。 山門は明治10年頃の創建と言われています。昭和36年の室戸台風による倒木で倒壊しましたが、創建時の原材料を使って再建されたそうです。 境内の本堂前にある樹齢推定150年程の老桜木が「浄教寺手毬桜(じょうきょうじてまりざくら)」です。可憐な花の中に花が咲くように手毬のような花弁が咲くのが特徴です。 前々からこの寺にあった桜なのですが珍しい綺麗な桜として地元の人にしか認識されていませんでした。花の趣味を持つ信徒が花の名を知りたくて地元の植物園に持ち込んのが始まりで、平成20年に中央植物園の調査研究により桜の新種発見となった経緯があります。分類的には菊咲きの山桜になるそうです。 老齢の桜木のため樹勢が弱く接ぎ木では不可能で存続が心配されていましたが、富山中央農業高校バイオ技術科が増殖に成功したそうで、今年の秋に研究成果が発表されるそうです。 訪れた日は少し早かったようで花も三分咲き。。 この桜の葉も変わっていて、最初は赤みがかって紅葉のように見え、徐々に緑に変わっていくという変わり種です。この日の木はまるで秋の紅葉のようでした。花もポツポツ。。 GW前には満開が観られそうです。丸い花が咲きそろう姿、また訪れてみたいと思います。 国内には幾…

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メルヘンの街・小矢部 大谷中学校

富山県小矢部市のキャッチフレーズは「メルヘンの街」 市内の各所には国内・海外のゴシック・バロック建築の建物を模した公共建物が30以上あります。その他の私設のメルヘン建造物も多く、田園の中に建つ優雅な風景が表現されています。建物を見て回るだけでも楽しいものです。 その中でもビックリするほどの規模と華麗なものが「蟹谷中学校」「石動中学校」「大谷中学校」の3校の中学校舎です。初めて見る人には校門まで行かないと、とても中学校とは気づかないと思います。 特にこの3施設は人気があって、土日には21:00までライトアップもされています。機会があったらぜひ廻ってみてください。 今回は昼間、しかも雪が積もったものですが、意外に雪景色も良いものです^^ 「大谷中学校」 写真を見て「あれ?どこかで観た建物?」と思ったあなたは鋭い^^ 搭屋は東京大学安田講堂その先端はオックスフォード大学生寮、体育館は大阪中之島の中央公会堂、クラブハウスのドームはフィレンツェの大聖堂の合体建物です。ちなみに内部は国立劇場です。一番高い塔の部分で47メートルあるそうです。合体の建物ですが中学の廻りには田園しかないので遠景も美しい姿です。 ちなみにこの中学の建設には先の記事に紹介した大谷竹次郎の長男・大谷勇の尽力が大きいものです。大谷勇は現エスイーシー会長・報徳学園理事長です。 他の建物にも興味のある人はこちらをどうぞ 小矢部メルヘン公共建築  http://www.oyabe.info/marche…

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小矢部ふるさと博物館

小矢部市の水落地内にあるのが「小矢部ふるさと博物館」 外観を見ると古びた公民館に見えますが、れっきとした博物館登録された資料展示館です。入場料は無料で展示点数はそれほど多くはありませんが、こちらには結構興味深い展示があります。 1Fには小矢部地内で発掘された考古史料や昔使われた農具や祭事の道具・衣装が展示されています。更に2Fには今石動城の詳細図や小矢部の偉人たちを紹介しています。 その中で大きなスペースを取っているのが大谷兄弟のコーナーです。 大谷米太郎・竹次郎兄弟をご存知でしょうか。小矢部市のこの水落の寒村に生まれ、日雇人夫・相撲取り・酒屋など職を重ね、戦前後「鉄鋼王」と呼ばれるほどの人物です。 大谷米太郎は大谷重工業・ホテルニューオオタニの創業者。蔵前国技館の勧進元、浅草寺寶蔵門の寄進などで知られています。 竹次郎は米太郎を手伝い大谷重工業を経て、尼崎の昭和電極(現在のエスイーシー)の創業者。死後、自宅やコレクションを西宮市に寄贈して大谷記念美術館となっています。 成功後の二人は母親がここに残っていたこともありますが、郷土愛が深く、特に教育機関に対して多額の寄付や建設に係っています。主なところでは石動小学校・大谷小学校・富山県立大学(当時は短大)・市庁舎と枚挙にいとまがありません。小矢部市に対する多大な貢献から兄弟揃って、小矢部市の名誉市民となっています。 この博物館も元々は兄弟が大谷記念会館として地元市民の交流施設として建設したものです。その後、小矢部市に寄…

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木舟城址

以前、紹介した前田利家の末弟・前田秀継が生涯を閉じたのが「木舟城」 高徳寺址 前田秀継夫妻の墓所  http://72469241.at.webry.info/201210/article_33.html 真光山 永傳寺            http://72469241.at.webry.info/201210/article_34.html 天正15年(1585年)に起こった天正大地震は震源はいろいろ推測されていますが、飛騨・伊勢の連鎖地震だと推測されています。広範囲に被害が起こり、岐阜だけでなく北陸・関西にも甚大な被害を与えたことが伝わっています。有名な城でも、大垣城・長浜城が全壊、未だに場所も特定できない埋没した帰雲城。近年、液状化の痕跡が確認された清州城など大きな被害を受けたようです。この木舟城も同じく陥没全壊しています。 幻の帰雲城  http://72469241.at.webry.info/201209/article_22.html 「木舟城」は元暦元年(1184年)に石黒光弘によって築城されたと云われています。石黒光弘は越中の地方豪族で、木曽義仲に従い倶利伽羅合戦で活躍しています。その後、石黒氏はこの城を本拠に戦国期までこの辺りから福光に至る一帯を治めていたようです。 戦国末期に入り、越後の上杉謙信の配下になった時期もありますが、謙信死後に勢力を伸ばしてきた織田信長に与しましたが、上杉軍との共謀を疑う信長によって近江長浜で当主・石黒成綱が謀殺され断絶、…

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消防神社

石動城山公園の入口にあるのが「消防神社」 消防団員や職員の物故者を祭る全国でも珍しい神社。隣りの県に居ながら、しかも城山公園には子供の頃何度か訪れていながら、昨年まで知りませんでした。。 「消防神社」は案内板によれば、石動町が大正10年(1921年)に纏形招魂碑と忠魂碑を建てた所から始まるそうで、その時からここを消防山と呼んでいたようです。昭和28年(1953年)に火除けで有名な秋葉神社から分霊を受けて創建されたそうです。 毎年11月に例祭が行われ、小矢部の消防関係の忠魂の例祭が行われているそうです。消防神社の周りは紅葉が美しく、なかなか良い雰囲気です。 旅行日 2011.11.26

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石動愛宕神社

今石動城や石動(いするぎ)の町の名前は前の記事にも少し書きましたが、白馬山(現在の城山)に能登・石動山の伊須流岐比古神社を分霊して神社があったことから。白馬山を別名・石動山という記述が古くからあるそうです。正式に石動の町名が呼ばれるようになったのは、前田利家が能登石動山の天平寺攻めの際に、天平寺側が降伏助命条件に本尊仏・虚空蔵菩薩像を差し出したことから端を発します。 白馬山頂に城を築造した際に、城の守護神としてこの虚空蔵菩薩像を城山の麓にあった「愛宕神社」の側に「伊須流岐比古神社」を創建して安置し、新しい石動として城の名を「今石動」としたのが始まりです。 その後1638年、今石動城が廃城となった際に「愛宕神社」と「伊須流岐比古神社」は合祀され「石動愛宕神社」として現在地に移されています。 「石動愛宕神社」の創建は不明ですが、少なくとも鎌倉期には存在したようで、京都の「愛宕神社」から分霊を受けて創建されたそうです。 町道から続く108段の石段や寄進された鳥居や灯篭でなかなかの雰囲気があります。現在の拝殿は文久2年(1862年)に建立された物です。 石動の町は南砺の井波・城端との関係が深く、拝殿には多くの装飾や彫刻が施されていますが、井波・城端の粋が詰まっています。十二支・獏・獅子・龍などが装飾されていて江戸期から世評に高かったもので、参拝の際には拝殿の廊下を端まで歩いて見上げて観て下さい。 毎年4/29.30に春季祭礼が行われるんですが、その際に11基の曳山が小矢部市内を巡り…

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前田利秀の墓所

前田利秀は父親の後を受け、小矢部の基礎を築き、北条攻めでは前田軍の主力として上野・松井田城攻め、武蔵・八王子城攻めに活躍しました。 しかし、文禄2年(1593年)朝鮮出兵で滞在中の肥前・名護屋城で発病帰国しましたが、その年に治療中の京都で弱冠26歳でなくなっています。 墓所は父母の菩提寺・永傳寺から愛宕神社を間に置いた本行寺の高台の墓所に眠っています。本行寺の境内から階段を登って行けますが、愛宕神社の拝殿前の鳥居横からも行けます。こちらの方が楽に進める道です。 利秀の墓所は石垣造りでなかなか堅固な造りです。小矢部・石動の市街を見下ろせる位置にあり、眺望のよい場所です。 菩提寺の本行寺には利秀19歳画像が寺宝として残っています。大阪の画家が描いたと云われています。本行寺は元々は能登の七尾にありましたが、父親の前田秀継の本拠(津幡・木舟)が移動するごとに本行寺も一緒に移動して来た寺です。前田家にはこういう伝統があるようで、前田利家の宝円寺に通じるものがあるようです。利秀も本行寺を石動に再建して厚く帰依したようです。 前田家での故人の評価は高かったようで、後世において250回忌の法要が行われているのは、開祖・前田利家、3代藩主・利常、父の秀継・利秀の4人だということからも窺えます。 小矢部・石動では前田利秀が城主として入城した際の獅子舞や感謝祭が今も受け継がれています。 旅行日 2011.11.26

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真光山 永傳寺

前田利秀は父母の墓所を高徳寺に造り菩提寺としましたが、先に書いたように規模としては小さな寺院でした。 高徳寺址 前田秀継夫妻の墓所 http://72469241.at.webry.info/201210/article_33.html その後、今石動城を主城として城下町を整備する際に、木舟城下の商家・職人・寺院を今石動城下に集めています。この時に高徳寺も現在地に移し、寺号も「真光山 永傳寺」と改めています。この寺号も父母の戒名を合わせたものです。 町道から寺に続く参道には三十三観音が並んでいます。 三十三観音は観音様が人々の救済のために臨機応変に姿を変える三十三身にちなんで考えられたものですが、様々な顔・姿があり興味深い物です。 この永傳寺と三十三観音は、健康・環境・観光をキーワードに自然と歴史を再発見する旅をテーマにした「遊歩百選」にも選定されています。 http://select100.pdc-web.jp/yuho2011/ 町道が狭いですが、この「永傳寺」に車を停めて「石動愛宕神社」「前田利秀墓所」「本行寺」を巡って歴史散策するコースはお奨めです。 旅行日 2011.11.26

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高徳寺址 前田秀継夫妻の墓所

今石動城の初代城主・前田秀継が木舟城に移って3か月後、天正13年・(1586年)に天正の大地震が起こっています。 この地震により、木舟城は3丈(9メートル以上)以上も沈下し圧死した秀継夫妻の遺体発見には3日以上を要したと記録に残っています。 息子の前田利秀は当時弱冠18歳。石動山合戦を初陣にして末森城合戦・今石動合戦など大きな合戦を副将として経験していますが、現代でも多感な年齢で悲しみは深かったと思いますが、その後8年間の小矢部統治・北条攻めなど大活躍の働きを示しています。 その利秀が、両親の眠る地として選んだのが、この矢波地区にある高徳寺です。前面には宮島峡から流れる子撫川があり、ちょうど砺波平野に流れ出る位置にあります。静かな盆地地帯で現在も閑静な場所です。 ここから子撫川に沿って行く二つの街道は、一方がかつて秀継が居城とした津幡城に至り、もう一方は石動山系の山並みを越えて末森城に至ります。どちらも父と共に過ごした地です。 越中は佐々氏の統治があったとはいえ真宗の影響が強く、宗教面の制約がきつい地域でした。また前田家は石動山合戦に見られるようにこの頃は宗教対決色が強い時期でした。高徳寺はそんな越中にあって規模は小さいながら当時唯一の曹洞宗の寺院でした。秀継が曹洞宗信者ということもありますが、小さな寺院を選んだのにはそんな事情もあったようです。 利秀が今石動城を主城として城下町を整備した際に、高徳寺は名前を真光山永傳寺と名を改めて石動城下に移り、秀継夫妻の菩提寺として続い…

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今石動城址

小矢部市の城山(昔の呼び名は白馬山・石動山)の山頂186メートルにあったのが「今石動城」です。 賤ヶ岳合戦後の天正13年(1585年)、加賀の前田利家と越中の佐々成政が緊張状態になった年に、前田利家によって最前線基地として築かれました。城主には津幡城主で利家の末弟・前田秀継が入城しました。 後方に倶利伽羅峠に続く山地が続き、城下からは急峻な登りの山頂にある堅固な立地です。六つの尾根を利用整地しており、規模も大きい物だったようです。築城1か月後に佐々方5.000に攻め込まれますが、城兵1.500を率いた城主・前田秀継とその息子・前田利秀によって撃退しています。この戦闘がこの城の唯一の合戦ですが、防御能力の高さを証明するようです。 現在は本丸とその下の曲輪が観られるのみですが、本丸は東西41メートル・南北27メートルと広々としており、竪堀や切通も急峻に切られており、眼下に砺波平野や小矢部市街が広がります。 ただ、整備はイマイチで途中に倒木があったり、城址までの道路も車一台がやっとの道ですので気を付けて下さい。 今石動の名の由来ですが、前に紹介した能登・石動山の「伊須流岐比古神社」を分霊した神社が山頂にあったというものと、前田利家の天平寺攻めの際に、人質とした虚空蔵菩薩像を城の守護神として山麓の愛宕神社に奉納した為に、新しい石動→今石動 の2説があるそうです。文献的には前者が有力ですが、個人的には両説融合だと思っています。 初代城主・前田秀継は兄の全幅の信頼を得ていたようで、…

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桜町遺跡

昭和63年に国道8号線の増幅工事に伴って発見されたのがこの「桜町遺跡」です。以前から縄文遺跡があることは予測されていて、前々年に行われた試掘では1万2千年前の縄文草創期から2千年前の晩期までの縄文時代を通じての重層遺跡だということが解っていました。 金沢方向から国道8号線の源平トンネル・小矢部トンネルを抜けた辺りから道の駅「メルヘンおやべ」の辺りが桜町遺跡の縄文時代の遺跡だとされています。 桜町の交差点辺りが縄文初期の遺構で、その後石川に向かって中・晩期の遺構が谷川に沿って広がって行ったようです。中後期には石川にもある環濠型遺構や同種の土器・北陸特有のウッドサークルが発見されて交流が伺えます。 この「桜町遺跡」が一躍注目されたのは、平成9年の第2期発掘で2300年前の高床式建物跡の遺構と加工された柱材が発見されたからです。それまでの定説では大陸から米作と共に弥生後期に高床式建物が伝えられたと考えられていました。ところが定説を2000年も上回る縄文晩期に高床式建物が存在したことが確認され、同時期に日本各地の縄文遺跡から稲の痕跡が確認され定説が大きく変わったきっかけになりました。 その後も籠・笊の発見、漆塗の土器、祭祀用と思われる彫刻装飾の柱などの発見、Y字に加工された謎の木材の発見。その意味でも縄文全期を通じる遺跡としてまだまだ新発見を期待されています。 桜町の交差点を右折したところに「桜町JOMONパーク」があります。 これまでの土器・石器・装飾木柱など発掘品の一部…

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リベンジの称名の滝

前の記事で豪雨の中、遠目にしか見られなかった「称名の滝」。 改めて娘とこの日も出直してきました。 しかし、午前中の用事を済ませて娘を待ってたら2時半@@; 明るいうちに行けるかなと思いつつ、車を飛ばしてなんとか4時過ぎに到着(ほっ) 前回と同じく駐車場に車を停めて、1.3キロ程先の滝見台までテクテクと。。登りを。。。日頃、運動不足の二人。。ヒイヒイ 後ろを歩いてたはずの家族連れは途中で引き返しちゃいました^^; 前週の称名川は濁流でしたが、今回は静かな流れ^^後で知ったんですが、称名川の水かさがハンノキ滝の有り無しの目安になるそうです。 称名橋の側で、監視中のおじさん2人^^; 「あと300メートルですよ。ファイト!!」「もうお二人だけだから、静かに見られますよ^^」 ちょっと嬉しい^^  娘は300mの言葉に「ヒエっ^^;」 称名の滝の全景を観るなら「称名橋」からが一番です。 滝見台は3段に分かれて間近に見られますが、どこかが岩に隠されてしまいます。でも、迫力満点、水しぶきも来ます。残念だったのは予想通り、ハンノキ滝はちょろちょろ^^; やっぱり春の雪解け時季が良いみたいですね。 ; 滝壺まで行きたかったけど監視員のおじさんがこっちを見ていて断念>< 一段目・二段目・三段目と順番に2人だけの滝見台で滝を堪能しまして。。すぐに薄暗くなってます。 山の夕暮れは早い。5時には^^; 暗い帰り道、二人で良かったあ^^ 一人じゃ寂しかったろうなあ^^; 駐車…

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称名の滝 レストハウス駐車場から

この日は前日から強い雨が降っていた日。 でも前々から娘と紅葉を観るついでに「称名の滝」を観に行こうと予定していたのです。でも、朝から強い雨>< 正直、立山駅には何度か行ってるんですが、称名の滝は遠目にしか見たことがなかったので、その誘惑には勝てない。それでも行くだけ行っちゃえということで、車で359号をひた走ります。雨の方が水量も多くて良いじゃんという甘い考え^^ ところが、立山橋までくると、道路の電光表示が「称名滝 駐車場先通行止」の文字。。。こういう時のショックは大きいですねえ>< それでも遠目でも良いから見たいし、いざとなりゃ歩いてけば良い。。 途中の称名川は凄い濁流になっています。こりゃやばいかなと思いつつ駐車場に到着。レストハウスまで行ってみると、しっかり通行止。 しかも合羽を着たおじさんが怖い目で睨んでいます。あえなくもくろみは崩れ、レストハウスの裏から遠目に滝を観ることに。。 霧にかすんでうっすらとしか見えません。濁流の音しか聞こえません。 待つこと10数分後、わずかに雨が小降りになったときに撮ったのがこの写真。わずか10数秒^^; 称名の滝は4段構成の落差350メートル。その落差は日本一。 その右隣にはハンノキ滝。こちらは落差497メートルで「称名の滝」よりもさらに高い落差ですが、雪解け水の多い時にしか見られない滝の為に公認されておらず、影の日本一ということらしいです。更に豪雨時しか見られないソーメン滝という幻の滝もあるそうです。 写真をアップ…

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石動山への道 能登半島からの富山湾

七尾城の駐車場から展望台へ続く道は更に進むと富山湾の佐々波・黒崎海岸と多根ダム経由で石動山に向かう林道に分かれますが、石動山方向の林道の方は現在(H23)崖崩れや整備で通行止めですのでUターンして国道159号に戻ることをお奨めします。富山湾側の氷見の脇地区の須久那彦名神社から石動山に向かえますが、途中の平の山から吉岡にかけては先日の台風豪雨で崖崩れ修復工事中です。迂回路はあるんですが、小型車で車幅いっぱいですので大型車は回避した方が良いと思います。 今回僕はこの経路を強行しましたが、坂道・林道・集落地を縫いながら車を進めましたが対向車は1台だけ、ちょっと不安もありましたがハンドルを持つと引かない性格が良いのか悪いのか。。ナビを持たぬ僕^^; 感と経験?と。。。で進んでいくと。。途中、なかなか良い景色や懐かしい風景にも出会えました。 県境の脇・平地区は水利が悪く、多くの溜め池が観られますし、棚田や石垣造りの畑や田圃があったりします。途中途中にたまに出会う集落にも懐かしい雰囲気があります。 斜面の開けた場所からは富山湾や立山連峰が観られるし、適度な紅葉も美しい^^たまにはこんなドライブも良いもんですねえ^^などと 無謀なドライブもちゃんと目的の石動山に抜けました。この間、携帯は圏外。。。ちなみに石動山の辺りも圏外><あげくには石動山では自衛隊のレンジャー訓練に出会ったり^^;能登・越中の国境の山中はなかなかハードな場所です^^; 旅行日 2011.11.02

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弥勒山 安居寺

正直、名前は知っていましたが、行くまで場所など詳しいことは知りませんでした。 境内に懸れた説明板によると、「安居寺(あんごじ)は、高野山真言宗に属する寺院です。本尊は聖観世音菩薩。約1300年前(718年、養老2)にインドから渡来した善無畏三蔵が創建したと伝えられています。奈良時代に聖武天皇の勅願所として、行基[ぎょうき]が勅命を受けて壮大な伽藍を造営。行基が御前立観音を彫り、本尊は秘仏になりました。」 境内は広い寺域を誇ります。 一番古い仁王門・観音堂は加賀2代藩主・前田利長が寄進したもので、以降は前田家の祈願所になっています。加賀藩の藩運営は宗派を問わず保護したことですが、特に利長・利常の兄弟はその促進者の始点です。特に富山県は前田利長が藩主・隠居後も居住・発展を促した地ですので、寺数はいったい幾つあるというぐらい多数です。 境内・寺域は「安居寺公園」として整備されていて、多くの散策路があります。四国三十三箇所のミニ霊場、その四国霊場を創始した花山上皇の慰霊碑などもあります。また伝長慶天皇陵などもあります。 長慶天皇陵が富山にあるというのは聞いていましたが、ここだったとは。。ゆっくり見ましたがあんまり大きくない。。 長慶天皇は後醍醐天皇の孫で南朝3代天皇です。近世まで天皇在位が議論された天皇で、大正15年にやっと認定された天皇で謎の多い人物です。 そのせいか、ここ以外に全国各地に20か所以上の伝天皇陵が存在します。 境内には大きな枝垂桜があり、行った日は美しい花…

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光徳寺

金沢大学のキャンパスを通り抜けて山越えする県道27号線は、途中には浄土真宗中興の祖・蓮如上人が滞在居住した蓮如町を経由して、南砺市の福光町に抜けられる道です。以前は険しい道でしたが現在は改修工事が進み走行しやすい道になっています。 医王山登山口にある法林寺温泉を過ぎて(ちなみに法林寺温泉は源泉かけ流し・高温無色透明の湯で日帰り入浴も500円で入れます。)、最初の信号を左折すると光徳寺の大きな駐車場があります。 「光徳寺」は1471年建立(創建は金沢の砂子坂、1614年にこの地に移転)の浄土真宗の寺院です。蓮如上人の滞在居住した蓮如町の本泉寺から近い事もあり、本尊は蓮如自作の黄金阿弥陀仏、他にも直筆書面などがあるそうです。平素は保管されて見られませんが、毎年4/25.26に蓮如上人御忌の際に公開されているそうです。 更にこの寺を有名にしたのが有名な版画家・棟方志功です。 棟方志功は戦時疎開で昭和20年から9年間この福光町に居住していました。民芸運動の際に紹介された光徳寺の住職と知遇を得たのが縁になったそうです。最初(1年間)この光徳寺に住まい、その後もう少し東の地に住居を建て自称「鯉雨画斎」と名付けて過ごしました。引っ越し後も志功はこの寺や近くの桑山を何度も訪れていたようです。 この福光にいた期間、志功はこの光徳寺により浄土真宗に深く触れ、以降の仏に関する作品は志功の代表作になっています。 光徳寺の展示館(500円)には、いくつかの作品がありますが、特筆物は半襖4…

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源氏ヶ峰砦・城

倶利伽羅合戦における平家軍の配置は猿ケ馬場の本陣からこの源氏ヶ峰の砦にかけての街道沿いに布陣していました。 その平家軍に対し義仲軍は夜襲の奇襲攻撃「火牛の計」などにより、深い谷底に追い落とし勝利を掴んでいます。 その後、この峰の砦を義仲の源氏軍が占領したことから「源氏ヶ峰」と呼ばれるようになりました。 源氏ヶ峰の標高は240mですが見晴らしが良く北陸道を見渡せる位置にあり、裏間道の上に立地していました。この好条件の砦陣地を奇襲したのですから、源氏軍が巧妙だったのか平氏軍に余程油断があったとしか思えない場所です。 倶利伽羅合戦後は重要拠点として、戦国時代も佐々成政が大掛かりな改修を加えて要塞化し前田軍に備えたと云われています。 その際規模が大きくなり曲輪内を間道が通る形に成っていました。 また堀切・切岸が施されているのが解ります。 北陸道街道から土塁に登れるようになっており、そこから約1キロ進むと主曲輪がある峰の山頂に行けます。その間は堀切・切岸が施されているため両側が崖になったような馬の背のような道を歩けます。 なかなかハードな道ですから覚悟を決めて登って下さい。特に主曲輪の目前は急ですんで気をつけて。。山頂には石柱が建っているだけ。。裏間道も草木でこれ以上は解りません。昔は滝までの間道があったんですが。。 源氏ヶ峰の入口横のガードレール上から、平家軍が落ちた地獄谷が眺められます。他の場所にも展望台が設置されていますが、ここからの眺めが一番解り易い地点です。急カー…

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巴塚 葵塚

埴生八幡からの源義仲軍の進撃路は3路と云われています。 一つは現在はふるさと歩道とよばれ、毘沙門川を経由して埴生大池を抜ける険しい迂回路。現在も車が一台がやっとの幅で山間を上り下りします。 更に当時の北陸道で、長坂山を越える縦貫路。近年までこの道に茶店もありました。現在は山越え部分が「いにしえの街道」として保存整備されています。義仲の本軍はここを進んでいます。 そしてもう一つが古代北陸道でこの合戦で一番重要な役を演じた樋口兼光が進んだ道です。この樋口兼光は同じ源義仲四天王の今井兼平、巴御前の兄になります。更に子孫には樋口与六のちの直江兼続がいます。ここは現在の車道の源平ラインがこの道をなぞる様に作られています。 この源平ラインを進んで山に入る手前の堤池の脇を入って行ったところに塚があります。それが葵塚と巴塚です。 堤横の道から真直ぐ登ったところに巴塚があり、分かれ道から回り込むように登ったところに葵塚があります。ちょうど位置的には隣り合うような場所にあります。 巴というのは巴御前のことです。源義仲の愛妾で武勇でも特出される女性として有名です。 義仲は強い女性が好みだったようで、京への遠征軍にも3人の愛妾を従軍させています。それが巴・葵・山吹御前です。この3人共に戦女として鎧着用で戦闘に参加した女傑です。 あまりに巴御前が有名になりすぎて他の二人はあまり知られていませんが、勇ましさは葵・山吹も優れていたようです。 ちなみに義仲の正室は藤原伊子といって義仲が京都上洛後に摂関家…

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埴生護国八幡宮

古代、加賀と越中をつないだ旧北陸道は倶利伽羅峠という天嶮を通っていました。国道8号線を走れば県境は多くの昇り降りと長いトンネルを潜ります。昔はそんなものはありませんでしたから、この峠越えの道は貴重な存在でした。つい近年まで加賀の津幡町と越中の小矢部市にとって貴重な生活道路にもなっていました。 そんな倶利伽羅峠において源平の大きな戦が行われました。「火牛の計」で有名な「倶利伽羅合戦」です。源氏は源(木曽)義仲軍、平氏は平維盛軍。結果は源氏の圧倒的な勝利、平氏は壊滅的な敗戦となりました。この源義仲が本陣を置き戦勝祈願を行ったのが「埴生八幡宮」です。 この倶利伽羅合戦の戦勝により、その後の戦国・江戸期を通じて武将たちの尊称を受け、多くの寄進や祈願を受けつづけました。 源義仲の戦勝祈願文写、武田信玄・佐々成政・豊臣秀頼・徳川家などの古文書、鎧兜、采配などが現在も宝物館にあります。 「埴生護国八幡宮」は養老2年(718年)九州の宇佐八幡を分霊して建立されたものです。主祭神は八幡神(応神天皇)。 古代においては越中の国府は氷見に置かれていましたが、その頃から北陸道を来た往来人はこの神宮を越中への出入口としていました。万葉歌人としても有名な大伴家持も越中国守時代にこの神宮で祈願をした記録が残っています。 地元にも深く根ざしていたようで、平成14年に神宮前の「倶利伽羅源平の郷 埴生口」の建設工事の際、小判12枚・明治の金貨など1275枚入りの甕が掘り出されました。明治初頭に埋められたと思わ…

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コスモスのゲレンデ 夢の平スキー場

「夢の平スキー場」は砺波市の東山麓の鉢伏山の斜面をゲレンデにしたスキー場です。 スキーシーズンにはナイタースキーも楽しめるし、スノーボードも全面滑降可能だそうです。毎年12月中旬から春先まで開場され、2月には雪祭りも開催されています。 鉢伏山の頂上からは東に立山連邦の山並み、北に砺波市や高岡市の街並みや日本海、西は砺波平野の散居村集落の全景が見られます。 スキー場が休業中の春にはゲレンデに30万球の水仙が花が咲きます。 そして、秋には100万本のコスモスがゲレンデを埋めるように咲き乱れます。 今秋(H20)は10/2~10/17の期間「コスモスウォッチング」として、地元の直産品の販売・食材の販売などテント市が行われていました。 この期間、リフトも動いていて、ゲレンデに咲くコスモスの花の絨毯が遠望できます。もちろん、背の高いコスモスの間を歩くこともできます。 コスモスはまだまだ見ごろは続いていて10月下旬まで見頃だそうです。 来年も開催されるようなので機会がありましたらコスモスのゲレンデを満喫して観てください。 スキー場の近くに「夢の平散居村展望台」もありますから、砺波平野を一望できるので是非寄り道することをお勧めします。素晴らしい景観です。 となみ夢の平スキー場  http://www1.tst.ne.jp/yume-ski/ 旅行日 2010.10.16 追記 今年(H24)のコスモスウォッチングは10/6~だそうです。今年はリフトの運行日が決…

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五箇山 菅沼合掌造り集落

五箇山にある集落は相倉集落とこの菅沼集落になります。 現存するのは9棟ですが、五箇山の生活などを紹介する民族館。 加賀藩の塩硝工場の役目を果たした塩硝の館など合掌集落の学習には良い場所です。荻村や相倉は観光がメインですが、学習目的ならここがお奨めです。 国道156号線上にある展望台からは緑色の庄川の流れと合掌造りの家が美しく眺めおろすことが出来ます。 小さな駐車スペースですが、車を停めて観る価値があります。 旅行日 2008.4.11 世界文化遺産貨幣セット白川郷・五箇山の合掌造り集落平成8年(1996)紅林コイン■商品説明■この貨幣セットは、未使用の5百円から1円までの6種類の通常貨幣がプラスチック製の内ケース楽天市場 by

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高岡古城公園 本丸広場

古城公園は高岡城の城址ですが、射水神社・市民会館・体育館・動物園・博物館を含む市民憩いの公園になっています。 高岡大仏から北にまっすぐ進んで、赤い欄干の駐春橋と石垣の見られる土橋を渡った先の射水神社の隣りに3000平方メートルの芝生公園があります。ここが高岡城の本丸跡になります。 高岡城は加賀藩2代藩主前田利長が隠居城として高山右近に設計を指示したものといわれています。城の1/3を占める水郷と堀が織り成す、緑豊かな城です。ただ建築物はなく、命じた利長も築城開始3年でなくなっています。また、大阪夏の陣後に廃城になっていますので、資料からも倉庫などしか確認できていません。しかし、江戸期は軍事拠点として重視され高岡奉行所が置かれ、魚津城と並んで加賀藩の越中管理の拠点になっていました。 本丸公園は広い芝生が広がり、真ん中に立つとその大きさが偲ばれます。 芝生を囲むように遊歩道も整備されていて、散策にはうってつけです。 途中には、馬上姿の利長像もあり、本丸を眺めているように見えます。 旅行日 2009.11.1

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道の駅 万葉の里高岡

国道8号線沿い、能越道・高岡ICの手前にある道の駅です。 なぜ高岡が万葉の里と言うのかといえば、万葉歌人の大伴家持が6年程、越中の国司として赴任していたからです。当時国庁は高岡の伏木に置かれていました。家持は赴任中に多くの句を残していて、220首以上の歌を読んでいます。 高岡には銅像や句碑が多くありますし、伏木の国庁址には万葉歴史館があり、大伴家持の研究や展示がなされています。庭園には万葉歌に歌われた植物が植えられていて、美しい花も見られます。 高岡市万葉歴史館  http://www.manreki.com/index.htm   道の駅には幾つかの食事処とお土産の販売を行っています。 ここでしか、販売していない物がひとつあります。 「大仏コロッケ」なんですが、大きさは14センチ、なかなか食べがいのあるコロッケですよ。普通のコロッケの3個分^^お立ち寄りの際には是非お試しあれ。(追記、今は北陸のコンビニでも置いています。) ついでに、高岡ラーメンというのもあります。富山や高岡で有名なのがブラックラーメン。名前の通り、黒っぽい出汁のラーメンです。美味しいものもありますが、醤油味のきついものが多いので気をつけねばなりません。道の駅のはこういう所では珍しく、味付けも吟味されているようで醤油の臭みやくどさは感じません。割合あっさりした味になっています。 駐車場も広いし、休憩にはちょうど良い感じです。 道の駅 万葉の里高岡  http://www.manyon…

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阿尾城址

阿尾城は文禄年間(1570年頃)、菊池入道によって築城されました。 菊池家は南朝方として活躍した九州の菊池党の末裔と言われています。 阿尾城は氷見市阿尾地区の海に突き出た岩山の上に築かれていました。 富山湾に面し、七尾への街道の分岐点のため、交通の要所、能登・越中の騒乱の中心になった場所です。 上杉謙信の七尾城攻めの前線基地になったり、前田VS佐々の戦の激戦地にもなっています。最初、佐々の配下になっていましたが、その後前田に寝返っています。その際、花の慶二で有名な前田慶次が城代として入城しています。慶次はこの城にいる間に末森城の合戦・阿尾の合戦で中心的な働きで勝利を治めています。慶次の城として訪れる若い女性も多いようですね。 海に突き出た高い岩山なので眺望は素晴らしいです。 本丸跡の先端からは、富山湾の海岸線、能登半島の東海岸、そして富山湾越しに立山連峰を眺めることが出来ます。近くの雨晴海岸からの眺望が有名ですが、ここからの眺望も負けないものがあります。 城の入口には白峰社(崇徳神社)が建っていますが、その奥を登っていくのが城になります。細い道で両側が崖になっていますから、まさに天然の要害です。ただし水の補給や貯蔵は難しそうなので、長期の篭城は難しかったと思われます。事実、阿尾の合戦も城方は外に出て野戦に望んでいます。海上の監視や灯台の役割のほうが強かったと思います。 現在も岩山の先端になる本丸には、簡易の灯台が設置されています。 旅行日 2009.11.22 …

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五箇山 相倉合掌造り集落

五箇山・白川郷の合掌集落は世界遺産に指定されています。 白川郷の荻村、五箇山の菅沼・相倉が合掌造りの集落が指定対象とされています。どちらかと言えば、広場や建物の整備が進んでいる白川郷が観光のメインになっていますが、ちょっと観光地化が進みすぎて、近くで見ると風情の面がちょっと。。。。天守台跡からの風景は余りにも有名ですが。 菅沼は合掌造りの紹介展示色が強く、合掌造りや五箇山・白川郷の勉強をするならここですね。 五箇山は江戸時代は加賀藩の領地ですが、鉄砲の煙硝の生産・保管地として秘密基地的要素がありました。平村の合掌作りの家の床下は煙硝作りにも使われていました。また加賀藩の中心地の金沢・高岡から遠い僻地だったため、流刑地にもされていました。加賀騒動の主役・大槻伝蔵もここを終焉の地としています。 さて、この日行った相倉(あいのくら)地区は、総戸数37棟、その内の合掌造りは21軒。80人ほどの人が生活しています。他の地区の合掌造り地区とは違い生活観が根付いているのが、この相倉集落です。 相倉は地図で見たとおり、山間の谷間にある集落で、主要道路や街道からも隔絶された場所にあります。 元々五箇山は平安末期の平氏の落人部落が出自という説が有力です。 相倉は隔絶された谷間であり、豪雪地帯です。集落内の人たちの助け合いにより運営されていました。富山の人特有の人懐こいけど、人見知りもする純な性格の多い地区でもあります。民宿も5軒在り、田舎の家と自然、人と触れ合うのも良いかもしれません。 …

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高岡大仏

高岡城のあった古城公園の南側にあるのがこの高岡大仏です。 元々、1221年に二上山に5mの大仏が建立されたのが始まりですが、この大仏を前田利長の高岡入城と共に現在地に移しました。しかし、その後大火で焼失。その後何度も再建・焼失を繰り返し、1841年に再建された11mの大仏も1900年に首だけ残して焼失。ちなみにこの首は現在の大仏下の展示場に安置されています。 高岡は何度も大火に見舞われたため「燃えない大仏」のスローガンの元、30年をかけて1933年に現在の大仏が完成しました。 高岡は銅器の町として有名で、銅像の製作は全国の70%以上を占めています。その総力を挙げたのが高岡大仏です。1958年に光背が取り付けられて、現在の形になりました。 完成後、見学に来た与謝野晶子が「鎌倉より一段美男^^」と言った為、「日本一美男子な大仏様」とも呼ばれています。 高さ15.8m、2年前に補修が行われて、綺麗になりました。ますます、美男になったそうです^m^ 鎌倉・奈良・高岡の大仏を称して「日本三大仏」としています。ただ、岐阜大仏も自称していますので、こちらも見ると完璧です。 ちなみに、以前までに鎌倉・奈良・岐阜は見ていましたが、高岡はいつでも見られると最後になってしまいました^^; 改めてみると、顔は高岡が一番好きかな。 見比べてみて、あなたの好みはいかがですか? 奈良・鎌倉の大仏  ⇒ http://www.nkdaibutsu.com/ 岐阜の大仏(正法寺)⇒ htt…

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