医王権現社

国見ヒュッテから少し南に向かうと小さなお社があります。医王権現社。        医王権現堂標柱 養老3年(719年)泰澄(法澄)が開山した医王仙ですが、その名を高めたのは養老6年の元明天皇の大病快癒に貢献した泰澄の薬剤と祈祷でした。この業績によって元明天皇から泰澄は神融禅師の称号、薬剤の産地となった医王仙の山名も医王山と授けられています。 薬剤の元となった薬草ですがその効用から薬師如来薬草と呼ばれ薬師如来(大医王仏)を祀ることになったとされます。医王山中でも白兀山(しろはげやま)周辺が薬草が多く山頂に奥宮を置いたと思われます。加賀では医王山と云えば白兀山を指すのはこのことからではないかと云われています。泰澄が開いた加賀・能登を代表する白山・石動山と並んで医王山は加賀三権現として山岳修験道の一大霊場となり長く栄えたと云われます。 加賀側では白兀山を奥宮としてキゴ山・戸室山または二俣を登山口として、登山口周辺に寺院群が創建されたようですが、越中側では白兀山と奥医王山を頂点に国見から祖谷の斜面、前医王山を胎蔵界の中心にした香城寺にかけての斜面に天台系の四八寺三千坊が立ち並び栄えたと云われています。大池平に四八寺を取り纏めた大寺院・惣海寺が建てられたとも云われますが、今のところ所在地も詳細も真偽不明中世以降の神仏混交、明治の神仏分離によって、祭神や本尊仏がややこしく感じると思います。神仏混交時代、神道と仏教の神仏を同神として、神道側では仏の姿で神が降臨する、仏教では仏が神の姿でという一種の融合説で…

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医王山 国見ヒュッテ

富山県立医王山自然公園 モニュメント医王山(いおうぜん)は金沢市と南砺市の境界上にまたがる山稜になります。加賀では白山と並ぶ霊峰とされていますが、これは越中側からも言えることで砺波平野からも霊峰とされています。ナナカマドの紅葉と実開山は養老3年(719年)白山開山で知られる泰澄(法澄)に依ります。泰澄は前々年に白山を開山し越前の豊原寺を基盤に白山妙理権現の信仰拡大に白山周辺路を広めていました。養老3年に白山平泉寺を創建して後は全国の山岳開山と布教活動を本格化させています。その足慣らしの地として修行地としたのが医王山系だとされています。泰澄は医王山を開山すると、山系に生える薬草の多さから唐の育王寺(阿育王寺)にちなんで医王仙と名付けたのが始まりと云われています。ちなみに阿育王寺は中国晋代(280~289年頃)インドのアショーカ王(阿育王)の舎利をもって建立した古塔の発見から創建された寺院で、宋代には禅宗五山に数えられていました。中国で唯一のアショーカ王の名を冠した寺院です。 養老6年(722年)元正天皇の病気平癒に対して泰澄が祈祷と薬剤を献上したのですが、この薬剤が医王山で採集された薬草類だったとされています。天皇の平癒によって、元正天皇から泰澄は神融禅師の称号を受け、山名を医王山と受けています。この故事から薬師如来(医王権現)が祀られたと伝わっています。 ちなみにこの伝承にも面白いお話が伝わっています。7世紀末山城・丹波に跨る愛宕山を開山したのは山岳修験道の祖とされる役小角70歳と法澄(泰澄)…

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砂子坂道場跡(光徳寺跡・善徳寺跡)

金沢大学のキャンパスを巻くように迂回して、富山県の福光駅まで行く県道27号線。金沢から向かうと県境の地、右手に殿様街道直売所があります。地元砂子坂だけでなく土山など近在の金沢・南砺の農家から作物や加工品が集まっています。殿様街道の謂れは、加賀藩13代藩主・前田斉泰が参勤交代に使用した道という所から。。加賀藩主の参勤交代の経路は当時の状況によって、いろいろと経路を変更していました。この県道27号は越中から加賀に入る道としては古くから使用されていたようで、現在では整備も進んで通りやすく、福光・城端・井波そして五箇山に向かうには便利な道路になっています。しかし、殿様街道は正確に言うと医王ダムを過ぎたあたりから山中に入り、直売所の南の山中の砂子坂集落を通って100m程先の坂道から県道に戻る経路でした。 しかし、この街道も古代には山間の険しい山間地で、相当の山道だったと云われています。この街道が整備されたのは浄土真宗本願寺派(東西分裂以前)法主5世・綽如が北陸下向後ですから至徳元年(1384年、南朝・元中元年)以降になると思われます。綽如は明徳元年(1390年)越中の本山として瑞泉寺(杉谷山)を開基していますが、越中に入る前には加賀二俣(二俣本泉寺)に仮寓居として庵を置いて越中への足掛かりとしていました。優れた先人とはいえ、まだまだ北陸では新興宗教の時代で次代で二俣本泉寺を開基した如乗もしくは土山御坊に入った蓮如・蓮乗の時代、15世紀中~16世紀初頭ではないかとも思われます。戦国から江戸期にかけては浄土真…

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砂子谷富士社 砂子谷の大杉

金沢の森本ICから富山県・福光に向かう国道304号線で、県境を越えて1キロほどを右折すると砂子谷の集落になります。坂道の途中に土地の産土神と思われる神社があります。 日頃、神社や旧跡を見るのが好きな僕は、標柱や歴史看板などを見るとつい急ブレーキを踏んじゃいますねえ^^;今回も石柱の「巨木」の文字に反応してしまいました。 自分の知らない神社に出会うと、後で神社庁を検索することが多いのですが。。石川の神社庁のHPでは小さな神社でも、それなりの由緒や由来が載せられているんですが、富山の神社庁では名前・住所くらいしか載っていないことが多いんです。いつも四苦八苦^^;今回の砂子谷富士社も例にもれず、境内にも案内板もなく、今のところ不明状態です。 とはいえ、鳥居横の標柱「富士社」の揮毫は衆議院議員・綿貫民輔氏。南砺市出身の代議士で、すでに政界は引退していますが、自民党で入閣、国民新党でも活躍していました。 綿貫民輔氏は28歳で倒産寸前の砺波運輸の社長となって、4年間で立て直して上場、現在のトナミ運輸へとつなげたことで知られています。その後、政界入り、自民党幹事長・建設大臣・衆院議長などを歴任、郵政民営化で小泉首相に反旗を翻して、自民党離党の末に国民新党初代代表など。。。南砺市では名誉市民第一号。。 ちなみに綿貫家は歴代・井波八幡宮の宮司の家柄になります。現在の井波瑞泉寺のお隣りで、大きな境内地を誇っています。境内は元々は瑞泉寺・井波城の跡地でもあって、けっこう…

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越中国司邸跡 伏木気象資料館

新元号の令和が万葉集からの典拠・引用ということで、万葉集が売れ、梅花の宴が開かれた大伴旅人の邸宅跡とニュースにされた坂本八幡神社は人が押し寄せたそうな。。でも、大伴旅人邸は正式には特定されていなかったと思うんですが。。。僕の記憶では30年程前に「玉石敷きの溝」が発見されたとき、奈良時代の国守邸の庭園発見と騒いでいたはず。。ニュースを見てて???となった僕。。菅原道真の邸跡附近も国守邸候補地と云われて、まだ確定していなかったような。。マスコミは何の根拠で坂本八幡神社としたんだろう。。そういえば世界遺産の推薦が決まった百舌鳥・古市古墳群の仁徳天皇陵も文字が躍っていたけど、近年は大仙陵古墳として、一部では伝仁徳天皇陵と書くくらいで、教科書からも消えていたはず。。まあ、宮内省は相変わらず仁徳天皇陵と治定してるけど。。 父・旅人繋がりで、万葉集の編者の第一候補とされる大伴家持もすっかり名前が売れてしまって、全国の所縁の地が名乗りを上げ、多くの人が訪れています。かく言う僕の石川でも、家持が越中守時代に能登が越中国に属していたこともあって、巡検の際に気多大社で読んだ歌碑と選者の噂の中西進氏の歌碑が並ぶと千里浜海岸が連日賑わしてくれました^^;さすが、何でも打ち出す羽咋市と感心もしましたが。。。 GWには中西氏が館長を務める「高志の国文学館」(富山を題材にした文学資料を収集展示しています。)、家持の万葉歌を研究展示する「高岡市万葉歴史館」、大伴家持の子孫を自称する「放生津八幡宮」もどっと人が押し寄せて…

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土山御坊③ 御峰城 

           御峰山 登山道 御峰城(土山城)は、天正12年(1584年)加賀の前田利家と対立した佐々成政が国境防御の城として築いた城になります。前・前々回でご紹介したように、半世紀以上前には一向宗の土山御坊があり、遺構が重なっています。元々あった杉浦家の屋敷周りにも空堀が掘られ、土塁が施されており、城と御坊の判別が付き難くなっています。また、土山への登山道になる南東面にも大規模で大きな削平や土塁が施されており、現在の家屋や道路は削平や土塁の盛り土面上を縫うように、施されたり建てられたりしています。この為、道が狭く曲がりくねったようになっています。                  御坊碑奥の土山城道標 事前下調べで主格部は御坊から、すぐ西面の山上ということで、嫁さんと娘を庭園において、山を登ることにしたのですが。。。林道の入り口には道標が、ところがこれに従ってひたすら林道を進むと、肝心な主郭には行きつけません。。 林道を進んで、猪・クマ用の罠や祠がありますが、そこまで進むと完全に行き過ぎです。まあ、その辺りも崖面を削った古い形跡は感じられますが。。。僕も完全に騙されて檻の近くまで行って、祠からの道は作業中で、引き返してきました。 御峰城(土山砦)登山口 実は主郭に向かう道の目印は水道メーター、ここになります。まさかと思って進んでみると右に大きな堀切が施された崖路に。。堀切の上面の険しい登りをあがると主郭部と云われる御峰山の頂上部の主郭部に出られます。   …

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土山御坊跡② 庭園「御壺」

蓮乗(蓮如次男)は本泉寺退却時の落馬で負傷を追いながらも一揆衆を指導しましたが、病がちとなり、補佐として蓮悟(蓮如七男)を蓮乗の娘の養子として迎え入れて本泉寺を任せ、実悟(蓮如10男)を蓮悟の養子につけています。 この蓮悟が二股から若松本泉寺(金沢市若松、現・専徳寺)に本拠を移し、加州三箇寺を主導していきます。瑞泉寺は妹(了如、蓮如9女)の婿・蓮欽(勝如の甥)を住職としています。 蓮悟に実子が生まれ、疎まれた実悟は独立して白山麓の鶴来に清沢坊願得寺を創建しています。この実悟が加賀一向一揆を例えた言葉「百姓が持ちたる国」を残した人物です。清沢坊願得寺は後に現在にも続く河内願得寺で、明治まで東本願寺法主を選ぶ5箇寺(勅許院家、別院、一家衆)の一つとなっています。 蓮乗は病を押して越中全土を主導していましたが、蓮如が京都に去って以降、病で父の死に目にも会えず、父・蓮如の死の5年後に逝去しています。 瑞泉寺を起点にして、三人もの息子を瑞泉寺・本泉寺に投入した蓮如が、後の勝興寺となる土山(どやま)御坊を重視したことが窺われます。蓮如の構想には越前・吉崎御坊に三男・蓮綱を中心にした超勝寺・本覚寺と越中の次男・蓮乗を中心にした土山御坊・瑞泉寺・本泉寺の協力で、加賀御堂(金沢御堂)の成立を企図。北陸を真宗布教の王国にしようと企図していたようです。 将来的に京都の本願寺を預かる長男・順如を法主として、真宗の教生と集団を平和的に固めたかったようです。それに応えるように順如は、朝廷・幕府へ…

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土山(どやま)御坊跡① 石楠花の庭園

10連休直前の26日 なんとかぎりぎりに仕事を切りの良いところまでこぎつけて、、、最終日の訪問先3軒。。お昼前に1軒目の国道304号沿いの三谷地区に、、、次の訪問先の野々市市・白山市には時間があったので、県境越えで福光から八重桜の並木がある27号で遠回りの金沢大学経由で戻ろうと思ったのですが、県境で土山の文字に思わず方向転換。。お花見ついでに久しぶりに山城散策をしようと。。しかし、日頃の行いが悪いのか、山間に入ると雨がポツポツ。。 帰り道の金沢井波線・県道27号線の八重桜の並木     一向宗時代は瑞泉寺と本泉寺を繋ぐ連絡路、江戸期には加賀藩主13代・前田斉泰の参勤交代の帰路とされていて、別名「殿様街道」と呼ばれていました。 土山の御峰山の頂上に着く頃には本格的な雨模様。。山の天気は変わり易いとはよく言ったものです。雨が降ってしまうと、山城への道はぬかるみになってしまいます。とても山の中には入れません。。長靴は常備してますが、服は仕事途中のネクタイ・スラックス姿では無理。。今回はあきらめて、、、 またまた変更で土山御坊跡の庭園のお花見に変更。。 土山の石楠花の庭園は土山の村民に大事に手入れをされている庭園。山深く隘路を登るため、真宗関連の人以外にはあまり知られていない存在ですが、隠れた石楠花の名所になります。 石楠花の庭園はちょうど満開でしたが、雨のせいか花が下を向いているのがちょっと残念。。 一週間後に家族を連れて再訪したんですが、晴天に近か…

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宮島神社 岩抱きのけやき

宮島峡の一の滝から少し下流に向かって公民館の手前を右折すると宮島神社があります。 宮島神社は子撫川(こなでがわ)を中心に山間に点在する宮島二十五村の惣社とされています。総社と惣社は現在は同義語扱いで、よくゴッチャになってしまいますが、基本的には前者は主に奈良時代以降の国府の側に建てられ、国司が祭祀を行うために国内の神を合祀した国社ともいえます。惣社は近在の地方・村・部落・集落の点在する神様を合祀したり、代表として奏者としての役割を果たした神社になります。 宮島神社が惣社のどれに当てはまるかは別にして、大岩に巻きつくように立つケヤキが注目の社です。 小矢部市指定天然記念物 岩抱きのけやき この神社は、宮島郷宮島谷二十五ヶ村の惣社と伝えられている。神社の社殿に向かって右手の巨岩は、周囲一七メートル高さ三メートルを測り、その上に幹まわり三・六メートル樹高三五メートルの大木が太い根で岩を抱きかかえるようにして生えている。「岩抱きのけやき」と呼ばれ、小矢部市指定天然記念物に指定されている。 境内には、自然石の露頭が多くあり、かつては神霊を招き祭祀を行った聖地で古代、神社が発生する以前の磐境(神霊祭祀の霊域)と考えられている。後に社殿がつくられるようになり、この磐境をそのままにして、後方に拝殿を建て、その奥に本殿を築いた。このように古い時代の磐境のすがたを今に残している埜は、県内でも数少ない。(昭和六十年九月には由緒を伝える石碑が建立されている。) 平成十年七月十五日 小矢部市教育…

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宮島峡 川と滝そしてビーナスたち

河合谷の木窪大滝から林道を抜けると、すぐに富山県に入れます。分かれ道を北に行けば、五位ダム経由で宝達山の西麓になりますし、西に向かえば子撫川(こなでがわ)ダムを経由して子撫川に沿って小矢部の町に出られます。子撫川ダムから下流は浸食された川底や川崖で大小の滝が多く観られる宮島峡として景勝地になっています。途中の二の滝付近に宮島温泉郷もあります。 富山県では里山の景勝地を独自に選定して「県定公園」として指定しています。現在は17公園が指定されています。この宮島峡も「稲葉山宮島峡県定公園」として、小矢部市からは倶利伽羅県定公園と共に選定されています。ちなみに稲葉山は子撫川の東方にある丘陵の主峰で、稲葉山丘陵(稲葉山牧野)には小矢部牛の牧場がひろがり、小矢部市街を一望できる景観と動物と触れ合る施設が山頂にある家族連れには打ってつけの行楽地になっています。 宮島峡には子撫川が織りなす流れと大小の滝が見所なのですが、世界のヴィーナス像が12体が要所に配されています。もちろんブロンズのレプリカやコピーですが。。大滝から林道で行くと、途中の久利須野外緑地広場に3体・林道の丘上に2体あるのですが、今回はパス。。前述の林道の三叉路に立つのが永遠の像と呼ばれるミロのヴィーナス。 ミロのヴィーナスは御存じのようにルーブル美術館所蔵の彫像ですが、林の中のブロンズの姿もなかなかですねえ^^10年前にお逢いした時はそうでもなかったのですが、長年の風雪で緑青が目立っていますが、逆になまめかしさを感じます。 …

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タラ汁 ひまつぶし

城山トンネルを抜けて宮崎海岸(翡翠海岸)を横目に見ながら走る国道8号線。。城山トンネルの坂道を降りた所にある踏切を渡った宮崎漁港の宮崎の町から境関の旧街道に入る境西の交差点までの国道沿いには、タラ汁の文字の看板の食堂が並んでいます。別名・タラ汁街道と呼ばれています。 この朝日を通るときは、いつも午前中か真夜中が多くて、なかなか食べる機会に恵まれなかったんですよね。。 そういえば、このタラ汁街道で最後に食べたのは20年以上前になるかもしれません。その時は、老舗の栄食堂さんだったかな。。男同士なら栄さんも良いかも、トラックドライバーさんに人気の一品物・天婦羅が多いです^^ その間には、高速(北陸自動車道)の越中境SAでも食べたことはあるんですが、あの白いプラスティック容器では全然美味しく感じません。やはり、たっぷりの味噌汁で一匹分をゆっくり陶器やお椀で食べたいですからねえ。。 タラ汁のお店は何軒かありますが、今回は境関に向かう交差点・境西にある「ひまつぶし」さん。山登りでバテバテ、それに夕方前の遅いお昼、お座敷で足を延ばしたかったこともありまして。。栄食堂さんの斜め向かい、、 朝日町のタラ汁は、スケトウダラのぶつ切りに、味噌仕立ての汁にゴボウやネギを入れて臭み取りにしたシンプルな味噌汁。石川・富山では昔からあった猟師飯・家庭飯の一つです。内臓ごとぶち込むので旬としては、白子や卵のある冬場がメインですが、滋養や体力の消耗しやすい夏場にも良いと思います。暑い時には熱い…

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宮崎城址

平安末期から鎌倉初期にかけて、越中最東部・黒部川東部一帯を支配していたのが宮崎党でした。北陸宮の御所警護の名目で築かれたのが、城山(当時は八幡山、脇子山)山頂の宮崎城になります。 宮崎氏は藤原鎌足の末裔を称していますが、藤原氏荘園の代官的存在、そこから台頭した土着の豪族、在地領主だったと思われます。ちなみに、この黒部川東部には宮崎・入善・南保・佐味・大家庄・五箇荘などの荘園地があり、そこから発生した各在地領主が武士団となって、勢力争いを繰り返しながら、その中から宮崎党が台頭支配していったようです。 この地には、宮崎浦、泊、入善など良港があり、交易が行われていたと云われます。また信濃路からの貢納品や物資を送る、都への出向港にもなっており、その交易料は大きな収入源となっており、経済力と共に大きな武力も備えていったようです。 宮崎長康の出自は、前述の荘園のうち「大家庄」と云われています。大家庄は朝日ICの南、小川(名前は小川ですがけっこう大きい川です)の対岸にありました。田園の中の墓地に井口城址という石碑がありますが、そこが井口館跡とも云われています。井口氏は南北朝で桃井直常と共に名が出る家柄ですが、そこから東部に分家した各支族が派生したようです。後年の義仲上洛戦では、宮崎党は主力部隊として、その前哨戦となる礫城(火打城)の戦いでも、人造湖を造るほどの大掛かりな合戦でしたが、越前に出陣していますから早くから源義仲と誼みを通じていたようです。 これはあくまで一部の異説なのですが、越中国…

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以仁王と北陸宮

富山県の最東部・朝日町の朝日ICから国道8号線を新潟方向に進むと城山を貫く笹川・城山の二本のトンネルがあり、抜けると左手に翡翠がとれる別名・翡翠海岸と呼ばれる宮崎海岸の海岸線が観られ、それまでの暗く狭い道がいきなり開けたような穏やかな平地に変わります。この平地帯は東端の境川で越中・越後の国境になります。この境川の地は国境の緩衝帯であり、国境の係争地でもありました。江戸期の加賀藩の境関が出来るまでは越中側の国境警備・防御は、この城山の山頂にあった宮崎城が果たしていました。 散らした画像は、笹川郷の総氏神の笹川諏訪神社です。寿永元年(1182年)源義仲が諏訪大社の大祝(おおはふり)・金刺盛澄に銘じて勧請して建立・創立した神社です。全国にも広がる諏訪神社の中で創立者・創立年が明確なのは笹川諏訪神社が唯一だそうです。この地で源義仲が烏帽子親となって元服式が行われ、正式に北陸宮という名が誕生した地です。 この宮崎城を築いたのは地元の豪族・宮崎長康ですが、城としての防御機能を持たせるようになった最初の事由が、朝日将軍・源義仲がこの城山の裏側に御所を造営して以仁王の第一王子・北陸宮を庇護し、その防御の役割として城山の山頂に築城を命じたのが始まりと云われています。今回はこの北陸宮の出自と父親の以仁王について。。。名前は「以仁王の令旨」として平家打倒の旗印としてよく知られていますが、どんな人と云われると意外に知らない方が多いですからね。。 治承4年(1180年)5月、以仁王は打倒平氏の令旨…

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倶利伽羅 猿ケ馬場

倶利伽羅公園側の山塊が平家軍撤退戦の最激戦地で、源平両兵士の巨大な供養塔(昭和49年建立)や奮戦した平為盛の墓(源平盛衰記では戦死、平家物語では生存。平清盛の弟・頼盛の次男)など、顕彰碑や歌碑が点在します。 倶梨伽羅合戦における平家軍の布陣は、猿ケ馬場に本陣を置いて街道沿いに東、また街道から尾根筋の源氏ヶ峰の尾根筋にL字の形で布陣していました。この布陣は北陸道や大池経由の山道を登ってくるのを迎え撃つ形でした。位置的には街道を見下ろす立場で、実際に北陸道の進軍や山道からの義仲軍を補足して矢合わせは優位に進めたとされています。 逆落としや峠道を塞ぐことを狙うには間違った布陣場所ではありませんが、大人数が留まるには不都合でした。峠上の街道は尾根筋も、3.4人横に並べば満杯の狭い道伝い(しかも片側は谷)に布陣しており、大軍では身動きも不自由だったと思われます。 戦国時代の佐々成政が、後に源氏ヶ峰砦(城)を街道を塞ぐ要塞に改造して、少人数での籠城戦を狙ったように、進軍を防いだり籠城には向きますが、大人数が留まる場所としては、宿営地となる広場もなく不向きとしか思えません。やはり、後の祭りですが、倶利伽羅峠の出口(竹橋口)での待ち伏せか、もしくは峠越えでの正面衝突が最良の策だったでしょう。 平家軍の布陣ミスもありますが、義仲軍の勝因は夜間の奇襲攻撃が効果絶大だったのもありますが、最大の勝因は別動隊・樋口兼光軍が竹橋口に回り込んで後方から攻撃できたのが最大要因と云えます。この狭い街道では身動き…

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境関所③ 境神社~護国寺

境関所跡があった境小学校跡のグラウンドの東端参道を進んで、急な長い階段を登った裏山の中腹にあるのが境神社になります。拝殿前には境関所跡を広く見渡せる好眺望の展望台があります。 展望台になるところに枝を広げた木が邪魔をしていますが、春には美しい花を見せてくれる桜の大木だそうです。 社歴碑がないので詳しいことが解りませんが、江戸時代の境関所の絵図面にはこの神社は描かれていません。 このことから、江戸末期から明治期の創建ではないかと思われます。ただ高台にあるために海風を受けることから拝殿は風化が窺われ、古い造りのようにも見えますが、拝殿規模が大きくやはり明治以降の建立だと思われます。予想ですが、お隣の真言宗仁王山・護国寺から神仏分離で独立したのではないかと思います。 拝殿右横には海辺の町に多く見られますが、大正11年(1922年)建立の金毘羅大神の石塔が鳥居と共に建てられています。ちなみに、金毘羅(こんぴら)は水運の神様として認知されることが多く、琴平の金刀比羅宮(ことひらぐう)は総本宮として知られています。また薬師如来を祀る寺院では、如来を守る十二神将の筆頭・宮比羅(くびら)と同神としても知られています。 同じ敷地越しで、お隣の護国寺に行けますが、改めて表参道から登り直してみました。 小さな軽自動車がやっとな参道沿いには、小川に沿って地蔵尊が在ったり、綺麗な花を見れたり、山頂に近づくと無骨ですが…

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境関所② 境関所跡

現在は主要道路になる国道8号線は当然ながら江戸時代には存在せず、前回紹介した境一里塚横の海沿いの街道を500m程進んだ先に、境関所が明治2年(1869年)までありました。 現在は境関跡はほとんど痕跡はないのですが、旧境小学校の跡地と道路を挟んだ向かいの空き地と数軒の民家が境関跡に当たります。境関所は大きく分けると小学校跡地の岡番所と、向かいの空地及び民家と海辺までにあった浜番所。後で画像を紹介しますが境神社の階段を登って、更に国道を横切った先にある山を登ったところにある二つの御亭(おちん)と呼ばれた見張り所から構成されていました。境神社の境内が展望台になっており、境関所の全景が把握できます。 年ごとに強化されて規模の拡大・人員が増やされ、武器類も多く保有しており、その規模・人員・武器数は、有名な箱根の関所を上回る全国一といっても過言ではない厳重な関所でした。 古来から境には国境としての施設が置かれていたようで、古代朝廷では公務で。ここを通って境川を越えて行くときには、馬を用意したと云われています。馬匹の用意施設が当地にされていたのではないかと思われます。当地の文献として境関について名前と共に出て来るものとしては、資料館の年表に書かれていましたが、永正15年(1518年)伊達稙宗(伊達家14代当主、伊達政宗の曽祖父)が、当主就任の左京太夫任官にあたり朝廷御礼の使節派遣の際に、経費として「二百文。境川の関の庭立共に御酒の分」と記述されているそうです。 加賀藩としては前田利長在世…

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境関① 境一里塚

以前、加賀藩の関所跡として一番西に当たる大聖寺関をご紹介しましたが、今回は一番東に当たる境関をご紹介しましょう。 境は越中・越後の国境で今ものどかな風景があります。富山県内でもまっすぐな海岸線・国道・北陸本線が観られる数少ない地点でもあります。 石川・上越間を国道8号線を走っていると、石川からだと富山を過ぎた片貝川の手前で二股に分かれて新設された山側周りの道が本道で、旧国道がバイパスになっています。その時の気分で走るんですが、正直どちらも単調な道で片側一車線が多く、低速の先行車がいると辛いはイライラするはですが、再合流して入善・朝日を抜けて城山トンネルを抜けると、一気に視界が広がり、市振への峠越えは親不知前の最期の登坂2車線、親不知に入る前に1台でも前に出たいと、アクセルを踏み込むドライバーが多い場所です。 この登坂車線の始まる境交差点を左折した道が旧街道になります。久しぶりに左折して立ち寄ることに。 江戸期当時は当然ながら国道8号は存在せず深く急激な尾根になっていました。この海沿いの街道が越中と越後をつなぐ唯一の通行・交易路でした。 この旧街道に加賀藩の最東端になる境関所があったんですが、この旧街道には現在は道に沿って住宅や商店が道路に沿って家屋が立ち並んでいますが、一旦通り越して国道8号線に再合流する一角に一旦立ち寄ることに。。境関も市振関という関所は存在しませんが、ここに江戸初期の一里塚が残っています。 越中・越後の国境は古くから北アルプスの北端の一つ・犬ヶ岳を源…

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IOX-AROSAスキー場 キバナコスモス畑

前回の国道304号線から湯涌街道を経由して戻った際に久しぶりに医王山系の山裾伝いに車を走らせたんです。元々はすぐ戻るつもりで目的地も決めていなかったのです。 小雨が降り続き、ときおり強く降ったりするので、品定めといっては何ですが、次の為の目星をつけるつもりで半分脇見運転や停車しながらの気ままな運転でした。 南砺の地は真宗5世・棹如上人が井波に瑞泉寺を開いて教生を広げたことから、北陸浄土真宗の発祥の地ともいえる所です。教生を飛躍的に広げた8世・蓮如上人も若き日に父親に随行して訪れており、また法主就任の後押しをした叔父の本泉寺・如乗は棹如の孫娘・勝如尼に婿入りしていた関係から、蓮如やその息子たちはこの南砺の地から加賀に教線を伸ばしています。棹如が庵を結んだ本泉寺と瑞泉寺を結ぶ道が現在の県道27号線に当りますが、この道はその後も蓮如が教生に努めるために加賀に向かう道でもありました。このため途中になる医王山の東麓の地にも棹如・蓮如所縁の地や寺院が点在します。そいうわけで、訪れていない寺院の場所を確認しようというのが、最初のもくろみでした。 当然とは言っては何ですが、医王山山系は白山と並ぶ山岳信仰のメッカでもあるし、南北朝では足利直義・直冬について足利尊氏・高師直などに対抗、一時は京都を占領した越中守護・桃井直常、戦国末期に羽柴秀吉・前田利家に最後まで孤高の抵抗をした佐々成政。この二人の足跡もこの辺りにチラホラ。。またの機会に。。 話は全く違うのですが、全国的にゆるキャラブームでいったい…

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刀利ダム

たまたま、仕事で国道304号線から富山との県境まで行く用事がありまして、時間もあるので南砺市から湯涌経由で戻ることに。。あいにくの小雨模様の天気でしたが、山裾からの砺波平野の緑が綺麗に観られました。もうしばらくすると紅葉の季節になるんでしょうね。 南砺市から山越えになる湯涌線に入ると、早くも所々で紅葉しかけた木々の葉が観られるようになっていました。この湯涌線にも色々と見どころはあるんですが、通り道にもなっている久しぶりのダムをご紹介しましょう。 富山県はご存知のように立山などの3000メートル級の北アルプス、白山を主峰として1500メートル級の山並が石川・富山の県境を扼する加越山地の高山地帯から、最深部1000メートルを越える富山湾という両極の海山を持つ自然豊かなところで、山の幸・海の幸に恵まれた北陸の中でも屈指の山・海産品の宝庫と言えます。この自然の宝とも云える山岳地帯と海湾を繋ぐ河川は古くからの氾濫を繰り返しながらも、豊穣な産物を生む土壌の砺波・越中平野を生み出してもいます。 富山湾に幾本もそそぐ主要河川としては一番西を流れるのが小矢部川。加越山地からはこの小矢部川と庄川があります。江戸期以前は2本の河川は源は別ですが、途中で何度か合流しては離れ、高岡で再合流してからは1本の河川として富山湾に流れ込んでいました。この高岡からの流れは総称されて射水川と呼ばれていたそうです。 江戸時代に大規模氾濫で庄川の流れが東に移動して、前田利常以降の加賀藩による大規模改修によって庄川の流れが固…

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高瀬神社 越中一の宮 のひとつ

庄川・井波がある旧砺波郡には越中一の宮と称する「高瀬神社」があります。帰り道にここにも立ち寄ってきました。 全国には○○一の宮と呼ばれる神社があります。 越中一の宮とか加賀一の宮など○○一の宮は律令制時代の国割による令制国の一番社格の高い神社を指すとされています。二番目が二の宮、三番目が三の宮となるのが基本です。あるいは国府と共にある総社と呼ばれる神社を指すという人もいます。国ではなく神社名で白山一の宮とか立山一の宮などは、白山神社や立山神社などの序列を示す別種のものになります。 日本の律令制度は、日本史の授業では聖徳太子・天智・天武が手掛け、持統以降で完成、奈良時代からの荘園発生で破綻して武士の時代にはまるで消滅したように習わなくなります。ところが意外かもしれませんが、律令制は朝廷があることで連綿と続いていて、明治初期まで実は続いていたんです。律令制の基本は隋・唐の政治理念で「王土王民(臣)」「一君万民」、簡単に言えば天皇一人の前に国土と国民は服属し、天皇は万民に平等に仕置と報酬(日本では土地が主体)を分け与え、万民は平等に奉仕と税を天皇に捧げるという考え方です。 この理念を進めるために、律という高度な刑法と令というその他の法律や条令を持ってするという考え方です。天皇という最高の場所に一旦すべてを集めて、平等に地方に配分するというのが律令制の大きな考え方です。 つまり中央集権ということですね。ただ勘違いされやすいのは、律令制の基本は天皇対国民一個人が理念の主体で、天皇対団体とい…

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井波彫刻の里

庄川水記念公園を後にして、家路につこうと思ったんですが、せっかく庄川まで来たんだからということで、お隣の井波町にも立ち寄ることにしました。 庄川町が轆轤(ろくろ)の里なら、井波は彫刻の里になります。井波の欄間といえば超一級品ですが、その他にも獅子頭、全国の寺社仏閣の彫刻など広く出回っていて、各名所のどこかに井波彫刻が施されています。 獅子頭は特に加賀・越中では各部落・村に一体あるのが当たり前ですが、僕の故郷の獅子頭も井波の職人が作製した物でした。また越中では天神信仰が盛んで、端午の節句には天神様の掛け軸を飾る家が多いのですが、井波木彫の天神像も良く見かけます。 井波彫刻が発展したのは井波瑞泉寺に由来すると云われています。瑞泉寺の山門と本堂は北陸では最大規模と云われています。梵鐘は昭和の作ですが、これまた北陸最大級です。宝物殿の展示も素晴らしいし、聖徳太子絵図の絵解きをする太子伝会(7月末の10日間)、10月10日の連休の町アートの庭園解放は狙い目ですが、機会があったら必見のお寺です。 瑞泉寺は明徳元年(1390年)、浄土真宗五代法主・綽如(しょうにょ)上人によって開基建立されたそうです。中国からの難解な国書を読解した褒賞に、後小松天皇に勅許所として瑞泉寺の建立許可が下り、歓進状を書く料紙が下されています。綽如はこの料紙に歓進状をしたため有縁に送っています。この歓進状は瑞泉寺にあり明治に国宝指定(現在は国重文)を受けています。 北陸の浄土真宗は戦国期の加賀一向宗の印象が強く、八代・…

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二万七千石用水 大水門 ~ 庄川合口堤堰(ダム)

鯉恋の宮を降りて河岸に出ると庄川の河岸に出られます。 庄川の本流と用水路に囲まれて細長い島のようになっています。その島を散策するように遊歩道が配されていて散策が楽しめます。というわけで、この細長い島や河岸を巡るのが舟戸公園と云います。 けっこう起伏があり長い距離がありますから、鯉恋の宮から降りた厄除け鯉の放流地で、ウッドプラザをもう一度見たいという二人と分かれて、まずは上流側の「二万七千石の堰」に向かって歩きます。 島の部分はけっこう起伏があるんですが、河岸には平坦な遊歩道もあります。でも、せっかく来たんだから、島の起伏のあるコースで歩いてみました。 歩きながら、けっこうシャッターを切ったはずなんですが、画像データが残っていませんでした チョット少ないですが。。。。お許しを。。。そうそう、遊歩道沿いには桜並木や古くからある江戸桜の大木があり桜の名所にもなっているそうです。 庄川は先にも書いたようにエメラルドグリーンに輝いて見える河川です。 なぜグリーンなのかは詳しくは知りませんが、河岸に迫る山林の緑が太陽光線によって映り込むとか、きれいな川や海に当たる赤い光は吸収され波長の長い緑や青の光が人の目に映るそうです。特に水底が深い場合に多いそうです。更に植物性プランクトンが多いと青の光が吸収され、葉緑素が反応して緑の光だけが強く残って見えると聞いたことがあります。 もちろん川の水の成分もあるんでしょうが、緑の川は綺麗な川の証明なんだそうです。 …

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庄川水記念公園② 日本箸(橋)

前の記事に書きましたが、庄川水記念公園の北端には「庄川峡・鮎の里」があります。この時季になると富山県内はもちろんですが、石川県内にもTVCMが流れていて、ここの認知度は意外に高いんです。同じ源を持つ長良川の鮎は有名ですが、庄川も鮎が魅力的な川です。特に9.10月.11月初旬は子持ち鮎が食べられる貴重な期間なんですが、アユの塩焼きはもちろんですが、子持ち鮎が食べられるということで、認知度が高まっています。庄川には他にも「鮎や」「鮎の庄」など人気店があります。 ところが、我が家の嫁さんは大の川魚嫌いどうも泥臭く感じるというんですねてなわけで、入れなかった。。ちなみに、魚ならなんでも大好きな娘や焼き魚が好物な僕は後ろ髪引かれっぱなし来年こそは娘と二人で来ようと内緒話 ちなみに、僕と同じ小学校出身で、我が家程じゃないけど川魚嫌いで濃口好きの奥さんを持つのっちさんが、昨年ですが鮎の里をUPしています。でも、奥さんが一緒いつの間に克服したのか説得したのやら                      のっちさんのブログ ⇒…

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庄川水記念公園① 庄川水資料館~鯉宮神宮

久しぶりに家族全員が休みで、みんなでドライブに出かけました。久しぶりだなあ~~ だいぶ前なんですが、ニュースを観ていたら、面白いのをやっていたので、しっかり記憶しているうちにということで庄川水公園にやってきました。北陸の年配の人には鮎の里がある所と云えば、知っている人も多いかも。ニュースってなんだ チャハ 後のお楽しみに ナ~ンだと云われそうですが まずは、混む駐車場を避けて庄川水資料館の駐車場に車を停めまして、庄川水資料館(アクアなないろ館)を見学(入場料210円)。ちょうど、資料館では地元陶芸家・木村恭子さんの個展「スリップウェアと三島」もやっていました。僕は陶芸品に関してはとても疎いんですが観るのは好き。嫁さんは食器関係は観たり集めたりでシゲシゲ 個展の記念に箸置き3個を貰って、嫁さんは長距離ドライブに嫌な顔してたのが一発でご機嫌アップ う~む。。。なんでも、貰っちゃうと喜んじゃう我が家族 個展は皿類が多かったんですが、スリップウェアと三島手という技法のようです。…

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稲葉山牧場(稲葉山牧野)

体調が悪くてクサクサしていた頃 家に閉じこもってるのが我慢できなくなった僕 ちょうど家族全員休みだったんで、ちょっとドライブに 行った先は稲葉山。名前を聞くと,岐阜城のある稲葉山を想像する人が多いと思うんですが、実は富山の小矢部にあるんですよ 国道8号線をよく通る人は何となく見覚えがあると思いますが、桜町の交差点を過ぎた辺り・道の駅メルヘン小矢部のむこうに、山の上に風車が見えると思うんですが、それが稲葉山です。 この稲葉山は標高386メートルほどですが、下から見上げても登ってみても、もっと高く感じます。登ってみると小矢部市内が綺麗に見下ろせるんですよ 建物もメルヘン建築でライトアップされるのですが、小矢部の町の灯りと共に、夜景スポットとしても知られています。ただし夜間は街灯が少ないので、山頂への走行には要注意 でも、今回は真昼間で天気も良好 実は盆の時にも寄り道したんですが、5…

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夢の平 コスモスのゲレンデ

H22.10 午前中、仕事で金沢大学の側に行ったら街路樹が色づいていました。やっと秋らしい雰囲気になってきました 嫁さんも昼過ぎに仕事から戻って来まして、久しぶりに家族でドライブに出かけましたよ 3人揃ってドライブは久しぶり 週頭にを見たら、砺波のスキー場のコスモスが満開だといってたので、そこまで行くことに 相変わらず出かける時間が遅く着いた頃にはもう4時近く。。 遅かったおかげで道路は空いていましたけど 場所は富山県砺波市の「夢の平スキー場」 ここのスキー場は鉢伏山のスロープを利用していて、東に立山連峰・西には砺波平野に点在する散居村の姿が見られる景色の良い場所です。 雪のない春には30万球の水仙がゲレンデを飾るし、なんといっても秋には100万本のコスモスがゲレンデを飾っています。 まずはリフトに乗ってゲレンデの頂上「鉢伏山」へ 高所恐怖症の娘は終始嫁さんにしがみついておりました ちなみに、嫁さんも高い所は苦手。えっ僕?高い所は大好きです{%…

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道の駅・高岡万葉の里 ~ 阿尾城

日曜日、午前中に仕事が入ってしまったので、お昼過ぎに家に帰ると、遅起きの一人が部屋にポケーっとしておりました。 まったく、若い娘が休みとはいえ、何をしているのやら。。。 嫁さんは、この日もお仕事。。。ここん所、休日が合わない夫婦になっています。 そんな娘とまたまたお出かけドライブに。。。まっ、半分無理やりだけど、 タダ、出かけるのは遅いし(なんだかんだと3時近く)、天気もイマイチでしたけど。。。 さて、国道8号線をひた走り、高岡に入った所で娘が一言    「お父さん、わたしお腹すいたぁ」    「午前中、ずっと寝てたから、朝昼食べてないんだよね。」 というリクエストにお応えしまして「道の駅 高岡万葉の里」に なぜ高岡が万葉の里かというと、万葉詩人の一人「大伴家持」が6年間程の期間、越中守として赴任していたためです。 さて、ここでお食事タイム 食べたのは富山・高岡では御馴染みのブラック系のラーメン。店の名前は「元祖 高岡ラーメン」 出来て3年ほどの道の駅の店なのに、なぜ元祖なのかは不明。 色は濃いけれど、醤油系でしつこくない味ですね。思ったよりも丁寧な味で美味しかった。汁もちゃんと飲める味でしたから。 ついでに車の中で食べるために、コロッケも。。…

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五箇山・相倉集落

先日、まっきーさんの日記を見ていたら、西湖の美しい紅葉と古民家の写真が この日、久しぶりの家族全員が休みの日になったのですが、前々から中宮温泉に行こうと言っていたのです。ところが、嫁さんが「私、体調悪いから温泉はPASS」 結局計画倒れで、しかも天気はザァザァの朝はみんなで朝寝坊 そこで、午前中ぼけっとニュースを見ていたら、五箇山で年末恒例の消防の一斉放水が有ったそうです。一度だけ見たことがあるんですが、50以上のポンプで放水する景色は綺麗です。これを観て、しかもまっきーさんの日記を観てしまったもんだから。。。そうだよこっちには世界遺産があるじゃないか雨がなんだ、風がなんだ 「よ~し、ドライブ行くぞー」「えーっ」「えーっ」 「行くと言ったら行くの」 駄々っ子になる父に引きずられ、車に渋々乗り込む二人 石川か…

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イケメン大仏 高岡大仏

日曜日、久しぶりに仕事も完全OFFでしたが、嫁さんはお仕事で家に居らず。ここの所、仕事でストレスが溜まりっぱなしだった僕としては、どうしても発散するためにドライブに行きたかったのです 部屋でボケッとしている娘を連れ出して(娘に言わせれば、無理やりつき合わされた ご存知のごとく、僕のストレス発散は車で走り回って、あっちこっち回ること。ところが事前に行き先を決めていないことが多いんですよね。 んで娘に、「東西南北、どっちが良い」「う~ん、東かな」 ということで、東に向かってGO 朝は晴れていたけど、出かけた頃には曇り空 さて、東と言うことで、着いたのが富山の高岡市。4.50分くらいですかね。高岡は今年(H21)開町400年、先月まで賑やかな行事が開かれていました。 加賀藩の2代目藩主・前田利長が隠居後、この高岡を居城として入城し、現在日本の銅器の70%以上を占める銅器製造や織物の奨励などで町を発展させました。30数年程前までは、富山で一番大きい町でした。 皆さんの近くにある銅像のほとんどが高岡製ですよ{%顔モジヘェー(シェ…

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散居村ミュージアム

ここ何日か日頃の不摂生がたたったのか、数日寝込んでしまいました 仕事もちょぼちょぼで。。あとあとに響いてきそうです。少し頑張らないとです。 前回の続きです。チューリップ公園をでて、次に向かったのは「散居村ミュージアム」 全国的にも持ち家率NO.1の富山県。 そんな富山には、特徴的な家並みがあります。それが散居村です。 国道359号線沿いを走ると、小矢部・砺波・富山にかけて見られます。 散居村は広い田圃の中に家がぽつんと一軒だけ建っています。そんな家がそこかしこに点在しているのです。お隣が何十、何百メートルも離れて孤立したように立っているのです。 特徴的なのは、カイニョと呼ばれる屋敷林に囲まれるように各家が建っていること。杉や欅、竹林が多いんですが、防風の役目を果たしています。 また、各家の特徴として、造りが黒瓦に白漆喰壁です。そして、必ず大きな蔵や納屋が並立していることです。 元々、この辺りの土壌は弱めの砂上地で家屋を建てる土壌が少なく、家を建てる際に点在する固めの土壌を選んだことと、そんな弱い土壌のための庄川の水を用水として小まめに管理するための必要上、田畑の中に家を立てる必要があったのが理由だったようです。 とにかく、緑の中に白黒の建物と背の高い木々のコントラストが美しい姿で見られます このように隣同士が離れているためなのか、富山人は人づきあいが苦手な人の多い県民性があります。逆に家族…

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