実性院③ 大聖寺藩主墓所

実性院の左脇の裏山に続く参道を登ると、大聖寺藩主の墓所があります。この墓所も前回紹介していますので、詳しくはこちらをどうぞ ⇒ 山ノ下寺院群② 実性院 (H27.11.3)  藩主墓所に登る参道沿いには、家臣団の墓地があります。実性院の真裏に当たる山上の位置にあるのですが、時代ごとに墓石の形態は変わりますが、山上に近づくごとに墓標が大きくなっていきます。特に最後の石段前の脇道、実性院の本堂の上に当たる位置には、藩主墓と同形態の墓があります。大きさも側室・子族並みの大きさがあり身分の高さが窺えますが、碑文が摩耗していて判読できませんでした。。 大聖寺藩主墓所 梅芳院の五輪塔 空・風・火・水・地が鮮明に彫られています。梅芳院は後述していますが、7代利物(としたね)の側室、9代利之(としこれ)の生母 前ブログでも書きましたが、大聖寺藩主の墓は石垣の土台の上に五輪塔を重ねたものです。石垣の中はどうなっているかは解りませんが、江沼神社の利治を主祭神ににする神殿の様に南加賀の神社の神殿も石垣造が多く、石垣の形態が似ています。五輪塔は元々は仏教のストゥーパ・五重塔から変形したものと云われますが、この形態は日本特有のものです。大きくは名前の通り、空(輪)・風(輪)・火(輪)・水(輪)・地(輪)の五行を表していると云われます。発案者は空海とも云われていますが、古くから宗派を超えて広まっています。 藩主墓所入り口の灯篭土台 上部が無くなっています。 ちなみに加賀本藩の野田山墓所…

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実性院②

実性院は江戸期の建物ですが、内外部共に補修や改造の痕が多く観られますが、曹洞宗特有の屋根付通路の伽藍配置、本殿内の正側三方丈・広縁(大廊下)・露地(土間)は基本的な配置と景観を保っています。曹洞宗寺院は仏間・正方丈が派手なものが多いのですが、思ったよりも簡素な造りです。ただし、正方丈を仕切る柱、仏間の装飾柱は立派な木柱で側方丈、広縁から隔絶した雰囲気を感じます。 曹洞宗は臨済宗・黄檗(おうばく)宗と並ぶ禅宗の一派ですが、禅宗は武家階層に広く広まっており大名家の菩提寺に広く広がっています。密教系の天台宗・真言宗や浄土系の法華宗・浄土宗・浄土真宗の内陣・外陣に比べるとはっきりと広間が区別されたものが多いのが特徴です。特に大名家が訪れる菩提寺には、この区割りが更にはっきりしてきます。法要や葬式では座る位置は身分や序列がはっきりしますから、正側三方丈の他に広縁・露地は更にこれを助長していると云われます。 また、九谷焼の本家ともいえる大聖寺藩の菩提寺ですから、再興九谷・現代九谷の良品も展示されています。 上:実性院門前 九谷絵皿参勤道中一里塚碑 中:再興九谷 赤絵大皿 下:実性院 九谷焼コレクション 上:海部公子作 色絵水注ぎ 以前、ご紹介した洋画・陶芸家、硲伊之助(はざまいのすけ)氏の弟子に当たり、硲伊之助氏が作陶した吸坂窯を継いで、ご夫婦で製作活動を行っています。まだ嫁さんを連れて行っていないなあ。。あの美術館。 中:下:現代九谷 コーヒーカップ 古九谷が廃された原…

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実性院①

昨昨年、訪れるのが遅れて白い花を見られなかった実性院でしたが、昨年は予定が狂ってこられず、今年は大丈夫と思って伺いましたが、今度は逆に1.2週早すぎた1分咲きといった感じです。花の時季に合わせるのは本当に難しいですね。 実性院は大聖寺藩主・前田家の菩提寺になります。本堂横には御霊屋に歴代当主(初代~14代)の位牌が納められ、左手の参道から裏山に登ると山頂付近に、歴代藩主の墓所があります。大聖寺藩は加賀藩主三代・前田利常が三男・前田利治を7万石で分藩したことから誕生したものです。 大聖寺藩は廃城だった大聖寺城を本城としては使用せず、麓の大聖寺川沿いに陣屋を構えて政庁としていました。 文政4年(1821年)10万石に高直しを行い大聖寺10万石となり、陣屋持ち大名としては最大級になっています。ただ、高直しというのは、実質石高はそのままで表高を引き上げたもので、最後までこのギャップに苦しんだ藩でもありました。前回、実性院を紹介した時に大聖寺藩の歴代藩主を簡単に紹介していますので、興味のある方はどうぞ・・・ 山ノ下寺院群② 実性院(H27.11.03) 実性院の前身は宗英寺という大聖寺家臣・玉井市正が建てた寺院でした。万治3年(1660年)初代藩主・前田利治が江戸屋敷で亡くなった際に遺体を大聖寺まで運んで荼毘に付したのですが、発足間もない大聖寺藩(寛永16年(1639年))では、まだ菩提寺がなく新しい曹洞宗寺院は宗英寺(正保元年(1644年))しかなく、仮安置という体裁をとっていました…

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古九谷の里~九谷焼窯跡展示館

石川県を代表する色絵磁器・九谷焼、時代ごとや先駆者によって開発改良で特徴が変わっていますが、華やかさに定評があって人気を得ています。 九谷焼の始まりは、寛永17年(1640年)頃、大聖寺藩始祖・前田利治が、山中温泉の奥地(九谷)に良質の陶土を発見したことから、殖産業振興のために藩士・後藤才次郎を有田に派遣して製法を学ばせて、明暦年間(1655年)に後藤才次郎が帰国後に九谷の地に開窯(九谷初窯)したのが始まりと云われ、同年、初期のの作陶の花瓶(田村権左衛門銘)を当地の九谷八幡宮(現・三柱神社)に奉納したというのが九谷焼の創始と云われています。(画像はH24.9.29) 現在の三柱神社は、九谷ダム建設による離町後の平成12年(2000年)に再建されたものです。九谷町はダム建設によって離町を余儀なくされましたが、九谷初窯・吉田屋窯跡が国指定史跡に指定されたことから、九谷の里としてダム湖(五彩湖)計画が変更され建物や町民はいませんが大部分が残されています。(画像はH24.9.29) 九谷の地名の由来ですが、最古の九谷の名が出てくるのは文明18年(1486年)浄土真宗・蓮如の四男・蓮誓が九谷坊を開基したという記録がありますが、古来から山中温泉の中心地を一番にして、西の谷村と呼ばれる地区を隣接する柏野が2番、柏野は以前紹介したことのある柏野の大杉のある所です。その先の今はダム湖の下ですが我谷が3番といった具合に、奥に向かって村落に番号が振られていました。九谷は名前の通り、最奥の九番目の谷にあ…

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旧大聖寺川河畔 

相変わらずといっては何ですが、2月末から4月にかけては仕事の一番忙しい時で、一番の掻きいれ時、更には歳とともに処理能力のうちの肝心なスピードと耐久力を失って来て、なかなか仕事を消費できず。自分で繁忙期間を延ばしてしまい、ブログの休止期間が毎年長引いてきています。しかし、この期間がないと僕の収入が大激減。一家も路頭に迷っちゃうんで頑張らないといけない時期なんですよ。。 ブログをサボってしまい、皆さんの所にも行けずじまい 大変申し訳なく思っております。どうか、お見捨てなく。。 (4月初頭に書いていたんでその続きです。その後、バタバタしてもう5月になって今更桜かと云われそうですが。。。) 今年は桜の開花が遅れると云われ、遅い花見を内心期待してたんですが、気温の上昇と共に早い時期に一気に開花。ところが満開時になった途端に雪まじりの豪雨と風で、花が散ってしまい期間的には短いものになってしまいました。 近年は開花時期が早くて、営業で車を走らせながら横目で桜並木を観るだけで、桜の下を歩くというのがなかなか出来ていませんでした。たまの休日も部屋に籠って資料や見積・請求書などの書類製作に忙殺され。。。そもそも、嫁さんと娘は年々ひどくなる花粉症で外へ行くのを嫌がり、閉め切った家に篭りっきり。。 おかげで、ここ何年かは桜の花見どころか桜の下を歩くということもなかったような。。 ところが、この日(4/9)、午前中にお客さんが来るというので、嫁さんと娘は前日から大慌て。。長く閉め切った家は籠った空気…

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菅生石部(すごういそべ)神社 加賀二の宮

前回紹介した大聖寺関所から東に向かうと、菅生交差点で三叉路になります。南に向かうと加賀温泉郷の山中温泉や山代温泉への街道だった国道364号線になり、北に向かうと北国街道の本道となる県道145号線になります。市街地から北にこの街道を進んで大聖寺川を渡ると、山腹に突き当たり街道が直角に東に伸びて行きます。 この山腹にあるのが「菅生石部(すごういそべ)神社」になります。別名は敷地(しきぢ)天神。 敷地は敷地村の村名からですが、「神が敷きます地なる」からと云われています。 創建は古く用明天皇元年(31代、585年)。用明天皇はかの有名な聖徳太子のお父さんになります。在位2年、疫病による病死とされています。天皇が疫病で病死するほど、用明天皇が即位した当時は全国各地で疫病発生が頻発していました。当時は仏教伝来が示すように、朝鮮・大陸からの文化の流入、渡来人の渡来・帰化が活発化してきた時代で、疫病もこの影響が大きかったようです。当時は越前国だったこの地でも疫病が発生し大変な被害を出したそうです。 当時の越前国は敦賀から北の福井県と石川県の大国で朝鮮からの入国ルートの一つであり、都から近からず遠からずの大国で、現在の天皇家の祖とも云える継体天皇(26代)の出身国・勢力母体(生まれは近江と云われています。)であり重要視されていました。 疫病発生を憂い、宮中で祀られていた菅生石部神を遷座して、疫病鎮護と五穀豊穣を祈願したのが始まりとされています。菅生石部神は、医術の神とされる少彦名神(すくなひこ…

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大聖寺関所跡

加賀藩は分藩した大聖寺藩7万石・富山藩10万石を含めると120万石の大藩でした。 その分国は能登・加賀・越中・飛騨の一部と広範囲に及び、国境の警備防衛・特産品の流出・不審者の流入・民の逃散には気を使っていました。このために、多くの口留番所を設置していました。 関所というのは元々は防衛目的が主務で、古代には武器庫と軍票を常備したもので、中世の出城の要素が強い物でした。 中世になると寺社・貴族・守護などが関銭目的の関所を設けて通行規制を行いました。あまりの乱立に通行税が高騰して、流通には大きな支障をきたしました。これを撤廃して商業流通を活発にして町を発展させ、大きな軍費の獲得と神速の移動を可能にしたのが織田信長でした。ただし関所を撤廃したために、通行が自由になりすぎて明智光秀の急襲を受けて本能寺の変を招いています。もし、丹波から京都にかけて関所があれば、そう簡単に明智軍が京に侵入を果たせなかったはずです。そういう功罪が関所にはありました。 信長の跡を継いだ豊臣秀吉も商業重視で関所を撤廃しています。 徳川幕府は両者の功罪から、江戸防衛の面から関所を53カ所設置していました。有名な所では東海道の箱根関、中山道の碓氷関、甲州街道の小仏関、日光街道の栗橋関、北国街道の関川関が有名です。主要道に配置された関所は、初期は江戸防衛の立場からでしたが、「入鉄砲出女」という言葉の通り、江戸での武器使用が可能な鉄砲持込みの規制、江戸屋敷からの大名の妻の勝手な帰国の阻止も役目になっていました。 前述…

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加賀海岸③ 橋立港 恵比寿神社

大聖寺川の河口の塩屋浜から橋立港にかけての塩屋町・瀬越町・橋立町は、かつては浜方(はまかた)と呼ばれ、北前船の船主を輩出したことで知られています。最盛期には48名の北前船主がこの地区に存在したそうです。特に橋立には30名の北前船主が居を構えたと云われています。 大聖寺藩は以前に紹介していますが、中期以降は莫大な慢性赤字を抱えて苦しんでいましたが、幕末まで存続できたのは北前船主の隆盛が寄与したと云われています。また、明治にも北前船の隆盛は続き、橋立には赤瓦の屋根や石畳・石垣の豪壮な船主たちの屋敷が立ち並び「日本一の富豪の村」と呼ばれていました。 加賀で有名な北前船の基地となった大野湊や宮腰湊は、金沢という大消費地を抱え荷の揚げ降ろしが行われるために港が整備されていましたが、橋立湊は寄港地であり宿営地のため岩場海岸のまま天然の良港として機能していました。 北前船の衰退と共に天然の湊では、遠洋航海の寄港地や沖合漁業基地としての転用が遅れ、昭和期には大きく衰退して忘れられた地になってきました。また、単調な海岸線における漁港の整備は厳しい物があったと云われています。 ところが、この浜方の沖合には蟹はもちろんですが、多種類の魚介類の好漁場があるために漁業地として注目を集めます。藩政期には北前船が注目され、漁業には注目されていなかったのですが、この好漁場を抱える浜方地区は天の恵みに恵まれていたといえます。 前述のとおり、藩政期から明治にかけては北前船の停泊地でしたが、明治から大正にかけて、県や…

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加賀海岸② 泉浜

橋立には大聖寺藩を支え、明治の初期まで海運を担った北前船の船主や水主達の住まいがあり、現在も見事な館が観られます。また、橋立港は蟹の水揚げ地として県内でも特別視されています。橋立港の近辺には蟹が食べられる、食堂や旅館が立ち並んでいます。 橋立港の少し西方にジゲ浜と呼ばれる地があります。橋立の北前船はジゲ浜の沖合に船を停泊させて、荷の揚げ降ろしを行ったり、自宅で過ごしたそうです。 現在のジゲ浜は浸食によって崩落が発生して立入禁止になっていますが、禁止ロープの場所からでも海が見渡せます。 ジゲ浜には西出朝風(にしでちょうふう)の歌碑が建てられています。あまり聞かない名前だと思いますが、口語文の自由詩運動の先駆者の一人です。現代の解りやすい用語や五七調からはみ出した和歌・短歌・俳句・自由詩の先駆者と云えます。 廣重の 藍よりすこし 濃い色の 故郷の海に 逢うたけれども     西出朝風  昭和6年 春 横の銘碑 ・・・ 西出朝風(一八八五~一九四三) 当地、北前船の大船主家系に生まれた。 文学を志して東京へ出たのち、現代語による短歌を提唱し、口語短歌雑誌、歌集を発行するなど世のそしりにも屈することなく口語短歌の復及に努めた。また、新聞に口語歌壇を設け、多くの門人を育てた。その先見の明と勇気は北前船魂に通ずるものであり、北前船の社会的貢献と共に長くたたえたい。                              平成十八年十一月   橋立町民と有志がこれを建てた …

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加賀海岸① 加佐の岬

福井県と石川県は日本海に沿った位置にあり、その海岸線は風光明媚なことと、奇岩や急激な岸壁で冬の日本海と共に厳しく峻険なものがあります。その風光明媚さと峻険さが見せる海岸線は越前・加賀海岸国定公園として指定されています。 越前は東尋坊や敦賀海岸が代表するように、峻険な岩や海岸線に迫る急峻な崖が続きますが、加賀海岸は急峻な崖や岩の部分と長い砂浜地帯が交互に織りなすのが特徴です。 ここのところ、加賀に行く頻度が高かったので、久しぶりに加賀の海岸線を訪れて観ました。まずはお久しぶりの加佐の岬に。 TVのサスペンスドラマのラストシーンで、海岸の断崖がよく使われた時代がありました。 北陸ではゼロの焦点の能登の「痩せの断崖」、福井の「東尋坊」なんかはその代表的な場所です。自殺の名所なんて言われるほど、高く急峻な断崖は訪れて覗くと急峻さに驚かされます。 ところが、いざ撮影すると出演者を大きくアップすると、背景の断崖が高すぎて、ただの広場か遠くの海しか背景にならないわけです。更に観光地なので観光客も多く支障をきたしてきたわけです。そこで、高さはそれ程ではないけれど、背景に打ち寄せる波や岩山が入る海岸が増えました。それが、加賀ではだいぶ前に紹介したICから直接行ける「尼御前岬」や秋冬には観光客が少ない「加佐の岬」が増えていました。 今はお決まりのサスペンスのこういうラストの場所は減りましたが、その分隠れた名所ともいえます。 日本海側は特に秋冬場は強い海風が吹くために、海岸線には強風と打ち寄せる波…

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山ノ下寺院群③ 正覚寺・宗壽寺・本光寺

全昌寺に入って墓地を抜けて、奥の細道で芭蕉と曽良が風の音で明け方まで眠れなかったという裏山を登って抜けて来たのですが、そのおかげで全昌寺の本堂内や展示室をすっかり見逃してしまった。。 裏山も古くからの墓地になっており、江戸初期のものが多くあり、興味深かったのですが。。抜けてみるとまたまた多くの墓が並ぶ墓地に出て最後には寺院の裏庭に抜けていました。 当初は全昌寺の裏庭だと思っていたんですが、表に戻るとお隣の正覚寺(しょうがくじ)と宗壽寺(そうじゅじ)の墓地を抜けて来てしまったようです。 今更、表の受付に行くのもなんだし、また長い道のりの墓地を歩くのも嫌だったので、そのまま近接している寺院群を駆け足で回ってきました。 山ノ下寺院群の各寺院には、いろいろ特色があって興味をそそられたので、三か寺ですが簡単にご紹介します。 まずは全昌寺のお隣の正覚寺(しょうがくじ)。浄土宗の寺院で正式名は「幽谷山正覚寺」。 天正元年(1572年)に、現在の大聖寺法華坊町に庵が結ばれたのが始まりと云われ、元和年間(1615~1624年)に現在地に移されたと云われています。 この正覚寺には「履行(くつばき)阿弥陀如来像」という変わった仏像があります。 平家物語の巻一に出てくる「祇王」の中の仏御前に所縁があるとされています。平家物語では祇王・祇女姉妹、姉妹の母親・刀自と、四人で出家して嵯峨野の祇王寺の庵で生涯を過ごしたとされています。 しかし、祇王寺には祇王・祇女・刀自の墓はありますが、仏御前の墓は…

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山ノ下寺院群② 実性院

前回ご紹介した山ノ下寺院群の一番南端に在るのが実性院になります。 この実性院が大聖寺藩主の歴代の菩提寺になります。実性院は前の庭園に萩の花が咲くことでも知られています。9月初旬には白い花が咲き乱れて美しい姿を見せてくれます。 残念ながら訪れたのが10月で遅れてしまったので花は観られずでした。来年は9月にこちらに来る予定なんで、忘れずに寄るつもりです。今回は駆け足ということもありましたが、けっこう撮ったはずの画像が抜け落ちているんで、リベンジも含めて。。。。というわけで、画像は少ないですが、ご容赦ください。。 寛永16年(1639年)加賀藩3代藩主・前田利常は隠居して相続分けの形で、次男・利次に富山10万石、三男・前田利治に7万石を分藩しています。加賀藩の東西を扼するもので支藩としての防衛拠点を造るのが主眼となっていました。前田利治は21歳と若く、隣の小松20万石には隠居領として父・利常が入っており、当初は利常が利治を後見指導する腹積もりだったようです。藩主が若く、菩提寺や墓所は当然ながら当初は存在しておらず準備もされていませんでした。 正保2年(1645年)に加賀藩主・前田光高が急死したため、3歳の綱紀の養育と後見に復帰していた前田利常が万治元年(1658年)に亡くなり小松は加賀藩領に復しましたが、その翌々年に大聖寺藩初代の前田利治が江戸屋敷で43歳の若さで亡くなっています。利治には出羽米沢藩上杉家から徳姫が正妻として入っていましたが子供がなく、異母弟・利明(22歳)が前年に養子となっ…

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大聖寺城址

加賀藩には幕末まで三つの支藩と近江の飛び領がありました。 元和2年(1616年)立藩した前田利家の五男・利孝の上野七日市藩1万石。 寛永16年(1639年)、三代藩主・前田利常が隠居した際に加賀藩の家督を長男・光高に譲り、富山10万石を次男・利次、加賀大聖寺7万石を三男・利治に分与・分藩しています。 意外に知られていませんが、この三藩以外に前田利家の時代から近江の今津(現・高島市今津町今津)に、今津村・弘川村・梅津村の二千五百石の飛び領が幕末まであり在地の任命代官が居ました。 大聖寺藩は現在の加賀市と小松の一部で構成されていました..開藩時は江沼郡133村と飛び地の越中新川郡9村で構成され、万治3年(1660年)に加賀藩との間で新川郡と能美6村(馬場・島・串・日末・松崎・佐美)を交換、矢田野の開墾で3村増えて幕末まで続きます。 その間に三代藩主・前田利直が弟・利昌に新田1万石を分与していますが、利昌が徳川綱吉の法会で乱心して奈良柳本藩主・織田秀親を刺殺するという事件を起こして新田藩が取り潰されていますが、新田1万石は大聖寺藩に返還されるという紆余曲折はありました。また9代利之(としゆき)の時代、高直しを行って10万石となり、幕末までを迎えています。 大聖寺には江戸期初期まで大聖寺城(錦城)がありましたが、一国一城令で廃城となっており、その後に立藩した大聖寺藩ではその麓を開削して、陣屋と藩邸を熊坂川と大聖寺川(旧大聖寺川)に囲まれた要害地に置いていました。現在の加賀聖城高校・錦城…

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ほっぺちゃん

ところでこいつを知ってますか?ほっぺちゃんというんですが、恥ずかしながら、僕は全く知りませんでした 最初、観た時には、確かに可愛いけどスライムじゃないのと思った僕 嫁さんにそう言ったら、「それを言っちゃいけないんだよ。。覚えておかないと、女の子に嫌われるよ」 という会話が以前にあったんですねえ。。そういえばBIGLOBEのビップルもお仲間??? 天気が良くて、嫁さんもおやすみで出かけたくてウズウズしていた僕。。ところが朝からお客さんの電話だらけ。。 仕事の見積もりや対処で午前中はすっかりつぶしてしまいました ところが、お昼にはピタッと仕事の電話もなく、スムーズに終わって(なんと珍しい出来事)。。背伸びをして。。 ますます出かけたい気持ちがむらむら。。 でも横を見れば、花粉症でどよ~~んとしたままTVを観ながらひっくり返ってる嫁さん。。{%ひま(ゴロ…

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法皇山横穴古墳群

加賀市には古代には江沼の地と呼ばれていましたが、古墳時代から開けていたようで多くの遺跡があります。 特に狐山古墳からは皇族・王族クラスの装飾品が発掘されて注目されています。狐山古墳は外観しか見たことがないので、再訪したらまたUPするつもりです。 狐山古墳の近辺は以前UPした花山法皇の所縁や伝説が多い場所でもあります。法皇所縁の名前のある勅使町(てしまち)の交差点からすぐの場所にも、花山法皇の伝承が残る法皇山という標高30mほどの小さな山があります。伝承では法皇の財物をこの山に隠し埋めたと云われていました。実際にはそのようなものはなく、法皇を信奉する地ですから手を加えられることも少なかったようです。 その法皇山には古くから洞窟があることは知られ古い墓だとも解っていました。大正期に本格的な調査の手が入って、大規模な横穴の集合墓であることが確認されました。その後、地元の大聖寺高校などの調査が入り、昭和初期に国指定史跡「法皇山横穴古墳群」の指定を受けています。 史跡指定と共に史跡公園整備として昭和42年からの2年間で本格的な調査発掘が行われたのですが、特筆すべきはその横穴の数で、調査により開口したもので77基、確認未開口が5基、合せて82基が確認されています。 発掘調査は主に法皇山の山裾に集中している為、未調査の山中を合わせれば200~300があると推測されています。太平洋側では埼玉県の吉見百穴が有名ですが、この規模の数は日本海側では最大規模のものです。 法皇山は凝灰岩で出来た岩山…

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硲 伊之助美術館

石川県内には個人の美術館が幾つかあります。 大型美術館ではたくさんの美術作家の作品を揃えて並べるため、作家の個性が際立って一種の統一感やテーマ性が欠ける機来が多々あります。個人美術館は本人のみの作品がメインですから、その点では違和感なく見られます。 欠点と云えば、作家や作品への好き嫌いが個人によって変わるので、家族やアベックだと一人だけが見入って、もう一人が渋い顔で手持無沙汰で外で待ってるなんてのがよくあります。 我が家でも、嫁さんと僕では好みが離れすぎていて、意見の一致を観る美術館は珍しいくらいです。 とは言いつつ、作家の事や画風なんてよく解らず、眺めては気に入るとじっと見続ける似た者夫婦なんですけどね。そんな夫婦が好きな作家の美術館と意見がそろう、珍しい美術館が「硲 伊之助(はざまいのすけ)美術館」 かれこれ24.5年程前、我家族は僕の転勤もありましたが、新潟から石川(元々僕の生まれ故郷なんですが10何年振りの帰郷でした。)に引っ越してきたんです。まあ、3年程で次の勤務地(滋賀・守山)に引っ越したんですが。。さすがに高校以来離れていたので、生まれ育った県とはいえ、意外に名所旧跡が解らないんですよね。 その時に購入したのが、能登出版の「見る・学ぶ・遊ぶ石川県の博物館」¥1800、54の施設を紹介した本 その本を参考にその3年で8割がたを踏破したんですが、その中に加佐ノ岬にある「硲 伊之助美術館」に訪れたんです。当時は辺鄙な場所でしたが、木彫の展示室にあった絵画はゴッホ・…

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栢野大杉&草団子

風邪が長引いてしまってクサクサしていたのですが、 久しぶりの完全休養日。天気も相変わらず良いし、ついに我慢できずに外へドライブに  同じくお休みの嫁さんを連れ出しました 昨昨年(H20)のお正月にコメントを戴いたjillママさん その時、jillママさんが雑誌で見たという「栢野大杉屋の草団子」  大聖寺の駅前のお店では見たこともあるし食べたこともあったのですが、柏野の大杉の前にあるお店は知りませんでした。食日記に載せてjillママさんに見せてあげたかったんですが、なかなか機会がなくて行けずにいたのですがついに心機一転、栢野の大杉まで行くことにしました ということで今回の食日記は、jillママさんとヨモギのお餅や団子が好きだったというjillさんへ 栢野(かやの)の大杉は、山中温泉の一番奥の方にある菅原神社の境内にある大杉です。樹齢2300年で根元の周りは11.5m、途中から二又に分かれていて樹高54.8mの巨木です。昭和3年に国の天然記念物に指定されています。昭和22年の石川国体の際、昭和天皇がご覧になったことから別名「展覧の大杉」とも呼ばれています。 他に三本の幹周り8mの大杉と共に神社の参道を挟む様に平行に立っています。この4本の巨木が菅原神社の御神木に…

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2010年の桜

毎年の事なんですが、2月末から4月にかけては仕事が立て込んで、好きなことができないことが多いんです。 今年も同じく、相変わらずの行き当たりばったりの仕事ぶりもありまして、すっかり更新が滞ってしまいました。 でも、この約2か月間で年間の三分の一以上を稼がねばならないので、頑張らないと家庭の崩壊にもつながるのです、ファイトなのです。ただ、残念なのは例年に比べて桜の時期が早かったこと、昨年(H24)のように遅れた桜なら、時間が獲れるようになってゆっくり見られるんですが、今年みたいに早く散ってしまうとお花見ドライブも逃してしまいそうです。 というわけで、今年はのんびり見られそうにないので、3年前の日記をUPということでお許しを^^; (本文) 今年(H22)の石川県の桜は昨年(H21)より遅くて、4/10前後が満開だったのですが、強風と豪雨で散ってしまって、短い期間になってしまいました。残りは5月まで咲く樹木公園くらいです。 ということで、短かった桜のシーズンでしたが、写真を幾つか撮っておいたので、行ってしまった桜の季節を。。。今頃とは言わない様に などと言いつつ、たしかに今頃と思いつつ。でも、新潟や東北の方は今が盛りだそうですが(4/28)                   まずは(H22)3/17 早咲きの兼六園の桜                   4/5 香林坊の広坂…

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人間国宝館 庭園喫茶・洞夢

金沢のほうに仕事が集中しまして、3時過ぎ今度は反対方向のお客さんから書類を取りに来てというお電話 天気はあいにくの雨降りだったけど取りに行くだけなんで一気に 行き先は山代温泉街のど真ん中、あ~あ 昼間なら温泉なのになぁ 今度時間が早いときに来たら、のんびりと回ってみたいなぁ 仕事もさっさと終わらせまして、このまま帰るのもなんだし、嫁さんと娘にお土産も頼まれていたし、ちょっと寄り道をば 久しぶりにやって来たのは「お菓子城加賀藩」 ここの名物は「加賀福」ちょっと伊勢の赤福に似たあんころ菓子です。 以前に紹介したことがあるので、興味のある人はこちらをどうぞ          ⇒ 2008.1.20の日記 今回はそのお菓子城の奥にある「人間国宝館」に立ち寄りまして、ちと眼の保養をしようと思いまして 大駐車場の一番奥の位置なので、知らずに帰ってしまう観光客の人も多いようですが、一見の価値がありますよ。たくさんの小型ドームの集まりが目印です庭園も美しいので窓から覗いてみると良いですよ 人間国宝の正式名は重要無形文化財保持者と団体、芸能と…

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月うさぎの里

ここのところ、土日になると誰かが必ず急用が入って、一週間の中でなかなか家族3人が揃うことが減ってしまいました なかなか、3人揃わないと遠出や外食が減っちゃいますねぇ この日も嫁さんは1日仕事  僕は午前中だけ仕事して帰って来ましたら、娘がぽつねんと一人で部屋におりました  つまらなさそうにしている娘を連れ出しまして、二人でドライブに 行き先は加賀市まで。。。。で、到着したのは「月うさぎの里」元々、ここは以前まで「うるし蔵」といって、漆の工芸品を中心に加賀や福井の土産品を販売、薮内佐斗司の木彫り彫刻の展示・販売を行っていました。広場には薮内氏の作品がモニュメント代りに置かれていました。 その広場をそのまま利用してHPでは50羽だけど、70匹以上のうさぎを放し飼いにして、うさぎの広場にしてしまったんだそうです。以前からの広場作品や美術館もそのままです。 広場は入場無料だし。。。。 日曜ということもあって…

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山中温泉 湯気街道

この日は素晴しいお天気でした 運転するにも最高の良い日和です という事で、越前海岸に行ってきました。越前海岸は国定公園として指定されていますが、なにせ長い海岸線です。目的地は越前町の水仙畑です。 本当は、先週か先々週に行きたかったんですが、今週になってしまいました。水仙の花は現在満開中というより、少し盛りが過ぎていましたが、山の方に入ると水仙畑の花が綺麗でした。 越前海岸の日記は、また後日書きますね ほんとの事を言うと、前日に行こうと思ったんですよ。 ところが、午前中仕事をしていたら出発が遅くなってしまって、出掛けたのは2:00過ぎになってしまいました。しかも、道路を走ってみると結構混んでいるのですよしかも、国道はのろのろ運転。。。加賀温泉に入った頃には3:00を過ぎちゃいまして、結局諦めて娘のご要望で万代書店に 娘がCDを物色している間、漫画を立読みして30分、駐車場で30分ほど このままUターンするのも悲しいし、方角を変更して山中温泉街に 山中温泉街に着いた時には4:30になってしまっておりました。 駐車場に車を停めて、湯気街道を菊の湯に向かって歩いてみましたよ  あっと忘れていました{%ビッ…

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世界のガラス館 加賀店

そういえばこの日もでした。 最初、獅子吼に行くつもりだったんですが、雨が降り始めてしまって、行き先変更という事に、行き先の当てもなく加賀方向へ そして、着いた先がここでした。「世界のガラス館 加賀店」 ここには、ヨーロッパの手作りガラス製品やガラス工芸品、それからガラス小物がたくさん展示販売されています。別に買う気がなくても、良い眼の保養にもなりますよ お値段も、500円位からウン百万まで、中には触るのも躊躇しそうなものまで 作品はさすがに撮影できなかったんで、ガラス館のHPを見てください。 天気も悪いし、夕方だというのに、結構お客さんが入っています。 ボーっとカフェでノンビリしていたら、買い物袋をいくつも抱えた人達が何人も表を通っていく。。。 ソレが、みんな女の人そういえば、我が家の2人もあっちこっちに行っちゃってます 僕はカフェにいたんですが、周りを見るとカフェにいるのは男性陣、どう見ても待たされているって顔で、ボーッ・ブスーッとしています 店内には、大型…

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シーサイドガーデン&カフェ ヴァン・ベール美岬

尼御前岬を出まして、次にお隣に建つカフェ・レストランへ 「ヴァン・ベール美岬」 シーサイドガーデンカフェです。 凄く広い英国風の庭園とお洒落な建物です。 実は、ここのオープンも存在も知らなかったんです。 以前、makoちゃんさんの日記を読んでいて、上島珈琲をみたんです  学生時代大阪にいたり、10年ほど前まで滋賀にいた時よく飲んだのですが、石川に戻って来てみると上島珈琲はないんですよ。日記を読んだ後に、ネットで検索してみたら、なんとここで上島珈琲を飲めるという事を知ったのです。これは行かずばなるまい という事で、この日家族を誘ってレッツらGO  ところが、家を出たのも遅かったんですが、尼御前岬でノンビリしていたら、すっかり遅くなっちゃって、もPM16:00 こりゃ、ご飯は無理かなと恐る恐る聞いたら、大丈夫ですの一言     でも、ライスが切れてるので、ナンでもいいですか?        そんなの、文句言いません。是非ソレで。。。 で、注文したのが、 「ハンバーグプレート(デミグラスソース)」 ハンバーグも美味しいけど、一緒についている野菜が美味しい{%ハ…

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御菓子城加賀藩 加賀福

仕事の関係で福井まで行ってきました この日は、久しぶりに寒波到来で、朝はがちがちであちらこちらで事故があったようです。この時季はただでさえ天気が悪くて、視界が悪いので事故が増えます。気をつけましょうね 仕事もあっさり終わりまして、金沢に向かって 行き帰りでは、雪や消雪装置で車君もドロドロです これでも、時刻は14:30 走りながら撮ったので、写りが悪くてごめんなさい 以前の日記で、チラリと紹介した「御菓子城加賀藩」の前を通ったので、チト寄り道することに  ここは、「加賀藩文化村」として、いろんな加賀文化の施設も併合した観光施設になっています。石川に来たら是非おススメする施設です。 御菓子の販売所(お菓子御殿本丸)以外に、多種多様な作品のある日本折り紙博物館 ・県内の人間国宝全員の作品のある人間国宝館・先人館もあって1日居てもあきませんよ しかし、今回はまだ仕事途中なので、「加…

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麺拠 さぬき庵

我が家では、GW前日に、愛娘が軽い十二指腸潰瘍(不規則な生活とストレスらしい。)で、生まれて初めて麻酔を打たれ胃カメラを飲まされショックの娘、ついでに自分の内臓写真もしっかり見せられて「えぐいよー」 点滴も2回やられ、いててててーーーー 留めにドクターから「肉・油物を控えろ。酒はもってのほか」「お菓子も駄目」「GW中は安静に寝てろ。」と言われどこへも行けず、お粥と精進料理になってしまいました。当然一家の食事も右へ倣い 僕は飛び込み仕事が入って結局何処も行けず、3・4日あった休みも家の中でゴロゴロ。。。。皆で家の中を ゴロリン ゴロリン  途中何回かは気分転換に、買い物&ビデオヤへ3人もしくは母娘でしてましたけど さすがに、最終日5/6(日) 我慢の限界に達したのか、「ドライブと外食したーい」と、我が娘がのたまったので、、 甘い夫婦ですね15:00過ぎすぐに3人のなかでした。。。。 目的地無しでスタートしたのですが、娘が古いCDと漫画が欲しいという一言で、新しい場所をという事で一路 加賀温泉まで。。。。…

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ローソンで眼の保養

この日、なかなか連絡の取れなかったお客さんの呼び出しで山代温泉の町まで行ってきました。ところがお客さんの急用で家は留守。 2時間近く待ったけど、結局会えずじまい(TT) まあ、車で待つ間、中で他の仕事先に電話連絡。なぜかこういう時に限って、電話作業がはかどるんですよね^^; 寂しく帰途に向かう前、夜食代わりにローソンに立ち寄りました。 おにぎり・缶コーヒー買って、車に乗ろうとヒョイと店舗を見ると、焼き物が展示されてるじゃないですか。いや~~、こういうのも良いですねえ@@ 大概、コンビニの表ってガラス面にベタベタとポスターやポップが張ってあるのが多いし、本を外に向けただけってのが多いですからねえ。 たまにこんなのを見るのも良いですねえ 新鮮な感じ^^ 翌週も昼間にここによって写真を撮ったはずなんですが、のこってませんでした(TT) 夜間写真だけですみません(TT) UP日 2012.03.29 ローソンゆのまち山代北店

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首洗池

斉藤実盛は単騎奮戦した際、最後に一騎打ちを行い打ち取ったのが手塚光盛という若武者でした。手塚光盛が単騎残って戦う武者に一騎打ちを自分の名を名乗り挑んだ際、斉藤実盛は「事情があって名を名乗ることはできないが、良き武者に出会い嬉しい。お相手する。」と答えています。 長い時間の奮戦と老齢により息切れした実盛は、馬が稲刈り後に足を取られ、その隙を光盛によって討たれています。 首を取った光盛が主将・源義仲の首実検に持参した際、 「大将の目印の赤地錦の直垂・立派な兜・萌黄の鎧、大将の格好だが侍と思われます。」と戦闘の模様と共に報告しています。 義仲も誰だろうと不思議に思っていましたが、側にいた斉藤実盛と親交のあった樋口兼光(今井兼平、巴御前の長兄)が気づき、池の水で首を洗うと黒髪が白髪に変わったために、実盛と確認できたそうです。 < 義仲の嘆きは大きかったというより衝撃そのものでした。 先の記事に書きましたが、父の源義賢が討たれた際、同居の2歳児だった義仲を匿い木曽に送ってくれた命の恩人が斉藤実盛だったんですから。 しばし主従三人は泣き通したと云われています。その姿を模した像が池の淵に建てられています。三者三様の哀しみと慚愧の念が表現されています。 池の西側の坂道を登った場所を手塚山と云いますが、その頂に小さく古びた祠堂があります。この祠堂は「兜の宮」と呼ばれるもので、実盛の御霊と鋳物の兜が祀られています。この兜は小松市の多太神社に奉納された実盛のクワガタ兜を模したものです。ち…

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実盛塚 篠原古戦場

加賀市篠原町は海に近く松林が続く風光明媚な場所です。平安末期の頃は葦の原野が広がっていたと云われています。この地は倶利伽羅合戦で敗走した平維盛軍を追尾した源義仲軍が追い付いて合戦になった地です。結果として平家軍はここでも完敗、京へと落ちていきます。この戦いで最後尾の殿(しんがり)を引き受け討ち死にした武将が今回の「実盛塚」の主・斉藤実盛です。 越前南井郷(現在の鯖江市南井町)に河合助房として生まれ、斉藤氏の養子となって斉藤実盛となり、長井の庄(現在の埼玉県熊谷市)を本拠として活躍した人物です。 武蔵の国では源義朝・義賢兄弟に仕えています。主に義賢に仕えていましたが、大蔵合戦で義朝の子・義平によって義賢が敗死後は義朝に仕え保元・平治の乱でも活躍しています。 義理人情にも厚く、源義朝・義平親子から義堅の遺児で2歳の駒王丸(後の義仲)を匿い、信濃木曽の仲原兼遠の庇護下に送っています。 平治の乱後は長井の庄は平宗盛の所領となりましたが、それまでの功績と実績を認められ宗盛の家人となり、別当として長井の庄を引き続き任されています。 長井の庄においては庄内の開拓・治水・土地改良に努め、農作物の出来具合の面倒を見る事などから農民から大きな信頼を得ており、総鎮守として聖天宮を建立して、現在も「妻沼聖天」として受け継がれています。熊谷では現在も人気の人物だそうです。 妻沼聖天山 歓喜院 http://www.ksky.ne.jp/~shouden/ 篠原の戦いの時には実盛は72歳の高齢で…

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鶴ヶ滝

内水面水産センターを出て山の方に行くと鞍掛山の登山道になります。 鞍掛山は標高477メートル、大日山(1368メートル)・富士写ヶ岳(942メートル)と共に加南三山の一つです。白山信仰と共にこの加南三山も修験者が修行で籠る山でした。四種類ほどの登山道があり、登り口に石塔や石仏が観られます。登山道によっては子供達でも登れる山ということもあり、登山やハイキングにも人気があります。 林に入ると道標に沿って川沿いの勾配を200メートル程行くと、滝がいきなり目に飛び込んできます。これが「鶴ヶ滝」です。 大小5段程で構成され、落差は約30メートル程です。それほど大きい滝ではないのですが水量が豊富で見応えのある滝です。一番奥の一段目の滝は最長の大きさで20メートル程ですが、上部から二つに分かれ鶴の足のように見えることから「鶴ヶ滝」の名がついたそうです。 滝の側に「鶴ヶ滝不動明王」を祀る神社と広場があり、滝の全景が観られます。神社に向かう木橋の手前下から、川の岸辺に簡易のロープがあり、幾つかの崖を昇り降りすると、一段目の二つの滝が落ちる滝壺まで伝って行くことができます。滝壺に立つと意外に高いのが解ります。マイナスイオンもたっぷり浴びることができますよ。 道標まで戻って、鞍掛山の登山道を歩いていくと滝の上部(落ち口)も観られます。小さな祠が目印です。 柵も何にもないので、覗き込むのは良いですが、くれぐれも目が眩んで落ちないように気を付けましょう^^; 間近で見られる美しい滝です。山…

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内水面水産センター オオサンショウウオ

日本海に囲まれた石川県。海産物は重要な資源になっていることもあり、海洋調査・養殖技術の開発などの為に能登町に本部を置く「水産総合センター」や水産事業所が置かれています。 しかし忘れてはいけないのが、河川や湖の水産物。金沢の犀川河畔で採れる唐揚げ・刺身・骨酒・佃煮が魅力の「ごり料理」「鮎料理」・金沢名物「ドジョウのかば焼き」、白山麓の手取川の岩魚・山女魚(ヤマメ)。能登のモロコの天ぷら・佃煮。石川には河川や湖沼の魚が名産として存在しています。 ところが大事な河川や湖沼は河岸工事や開発によって、漁獲量が激減しているのが実情です。子供の頃、普通に食べていた「ごり」「岩魚」「鯉」などは今ではすっかり高級魚になって、なかなか口に入らなくなってしまいました。川魚釣りをする子供の姿などもなかなか見られなくなっているのが現状です。 この貴重な河川や湖沼の調査・技術開発・環境の復元保全・種苗(稚魚)の生産・配布・養魚技術・魚病対策を一手に担っているのがこの「内水面水産センター」です。 「内水面水産センター」がある荒谷地区は県の里山伝承地区であり、加賀市民や小松市民に愛されている倉掛山を水源として鶴が滝を継由して流れる川沿いにあります。この支流は片山津温泉の柴山潟に流れ込む動橋川(いぶりばしがわ)に合流しています。 センターには各研究棟や浄化施設の他、自前のエサとなるミジンコの生産も行っています。鮎・鯉・ごり・ヤマメの稚魚の生産・育成や親魚の大水槽が広がります。事務棟で申請すれば研究棟はさす…

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