金谷出丸 南面

尾山神社は金沢城の金谷出丸の地に創建されたものです。 金沢城は北の浅野川、南の犀川に囲まれ、東の小立野台地と自然の要害地に囲まれた城郭でした。特に搦め手の東は小立野台地の東端の千歳台(現・兼六園)とは大きな段丘の落差に百万石掘(白鳥堀)という最大幅・深度の堀が配されていました。南は台地の断崖に石垣と宮守堀(いもりぼり、復元堀は往時の半分幅)と二重の大障碍を設けていました。また大手(尾坂口)となる北側は城外よりも城の方が高台になり大手堀と百万石堀に匹敵する堀及び三の丸・二の丸と幾重の障碍が配されていました。尾山神社西神門よりところが堀は配されているものの西側は高低差が少なく、攻城軍の主力が配されるであろう平地が多い西側は、金沢城最大の弱点地とも云えました。城方の前線基地となる出丸が必要となり設けられたのが金谷出丸でした。江戸初期には金谷出丸の南(現在の広坂合同庁舎)にも外出丸があったと云われています。 延宝年間(1673~1681年)の詳細な金沢城図が残されています。              ⇒ 金沢城図(奥村家鎧袋内・箱入)(玉川図書館蔵)上が南、下が北、左が東で右が西になります。是非クリックしてみてください金沢城図は城構造や建造物を詳細記入、彩色した精緻な図絵で建物名称・主要室名も記し、辰巳用水から城内への通水水樋の埋設経路更に幹支線に渡り書かれたものです。ここまでの詳細図は珍しく、本来藩主格の持ち物で機密重要書類と想像されます。初期の金谷御殿が描かれているために加筆あるいは18世紀半ばと…

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土山御坊③ 御峰城 

           御峰山 登山道 御峰城(土山城)は、天正12年(1584年)加賀の前田利家と対立した佐々成政が国境防御の城として築いた城になります。前・前々回でご紹介したように、半世紀以上前には一向宗の土山御坊があり、遺構が重なっています。元々あった杉浦家の屋敷周りにも空堀が掘られ、土塁が施されており、城と御坊の判別が付き難くなっています。また、土山への登山道になる南東面にも大規模で大きな削平や土塁が施されており、現在の家屋や道路は削平や土塁の盛り土面上を縫うように、施されたり建てられたりしています。この為、道が狭く曲がりくねったようになっています。                  御坊碑奥の土山城道標 事前下調べで主格部は御坊から、すぐ西面の山上ということで、嫁さんと娘を庭園において、山を登ることにしたのですが。。。林道の入り口には道標が、ところがこれに従ってひたすら林道を進むと、肝心な主郭には行きつけません。。 林道を進んで、猪・クマ用の罠や祠がありますが、そこまで進むと完全に行き過ぎです。まあ、その辺りも崖面を削った古い形跡は感じられますが。。。僕も完全に騙されて檻の近くまで行って、祠からの道は作業中で、引き返してきました。 御峰城(土山砦)登山口 実は主郭に向かう道の目印は水道メーター、ここになります。まさかと思って進んでみると右に大きな堀切が施された崖路に。。堀切の上面の険しい登りをあがると主郭部と云われる御峰山の頂上部の主郭部に出られます。   …

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今年観た桜 山島の郷

ここに来て、最大の繁忙期を迎えながら、昨年よりは余裕があると、サボり気味に仕事をしていたら、またまた残務が。。営業人間には厳しい10連休が間近に迫って、泡喰っても後の祭りTT 前回の続きの芋掘り藤五郎②を書いていたんですが、調べ物をしてたら実は。。が出てきて、構想が崩れてグダグダに。。。で、半分諦め状態で。。。四苦八苦、、、まだまだ掛かりそう。。 今年も結局は車からの横眼で観る桜に終わってしまいました。連休は八重桜でも見に行こうかなとも思っていたんですが、嫁さんに実家の草刈りを命ぜられ汗流すことになりそうです。。 で、満開のソメイヨシノがあっちこっちで咲いていたのに、桜無し状態のブログは寂しいので。。。 昨年は曇天に最後は土砂降りの桜風景を載せました。。松南小学校 旧剣崎校舎跡(2018.04.06) さて今春の桜は、山島こども園の隣の広場にある桜並木です。昨年と違って晴れていますが、夕方近くで明るさが今一つですが、、、、 今年も結局、桜の下を歩けたのは一度だけになってしまいました。それも、昨年の松南(しょうなん)小学校に関連した場所。。まさか2年続きでお花見の場所が松南小学校・こども園絡みになるとは思いもしませんでした。。こうなったら来年は松南小学校の本校にしようかな^^;でも桜の木なんて在ったかなあ。。。。 この広場は旧山島村を記念した「山島の郷」、旧山島小学校の校庭広場から構成されています。平素は今年から山島こども園と改称した山島保育園の子供たちの遊び場にも…

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②高山右近 前田利長時代

天正16年(1588年)加賀に来た高山右近でしたが、前田利家時代にはそのほとんどが大阪での前田利家の相談役、外征と金沢城の修復・町割りの整備にと大阪・金沢間往復に忙殺されたと云えます。畿内の先進的な築城術、利休七哲としての文化の素養による金沢文化の創設など、多岐に渡ったことが窺えます。 しかし、この間に忠節を尽くした右近の実績と信義は、利家の信頼と藩内でも重きをなしていったようです。 H21.11.01撮影 高岡城址 前田利長像 恩人ともいえる前田利家が亡くなったのは慶長4年(1599年)。跡を継いだ前田利長はやはり利休門下として高山右近とは元々が交際が深く、利長は重要な相談役として右近を重用することになります。 利長時代の執政は前ブログでも来ましたが、篠原一孝・横山長知・奥村栄明の三家老でした。この三人の中で横山長知(ながちか)が特に腹心的最側近となっていました。この横山長知と高山右近は加賀藩内で特に友好的な関係であったとされています。しかし、陪臣出身の横山家と客分の高山家(右近は客分ですが、長子・長房は利長家臣になっていたようです。)は、前田家旧臣からは嫉妬の眼で観られ、一部家臣団との確執があったようです。 いずこにもあることですが、創業者の家臣団と二代目・家臣団にはどうしても軋轢が発生します。前ブログで前田利長の失策としましたが、利家の遺言「三年は大阪・洛中に留まれ」を半年で帰国した事情には、徳川家康の謀略もありましたが、この人事の収拾も影響したようです。痛恨事はまとめ…

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宮崎城址

平安末期から鎌倉初期にかけて、越中最東部・黒部川東部一帯を支配していたのが宮崎党でした。北陸宮の御所警護の名目で築かれたのが、城山(当時は八幡山、脇子山)山頂の宮崎城になります。 宮崎氏は藤原鎌足の末裔を称していますが、藤原氏荘園の代官的存在、そこから台頭した土着の豪族、在地領主だったと思われます。ちなみに、この黒部川東部には宮崎・入善・南保・佐味・大家庄・五箇荘などの荘園地があり、そこから発生した各在地領主が武士団となって、勢力争いを繰り返しながら、その中から宮崎党が台頭支配していったようです。 この地には、宮崎浦、泊、入善など良港があり、交易が行われていたと云われます。また信濃路からの貢納品や物資を送る、都への出向港にもなっており、その交易料は大きな収入源となっており、経済力と共に大きな武力も備えていったようです。 宮崎長康の出自は、前述の荘園のうち「大家庄」と云われています。大家庄は朝日ICの南、小川(名前は小川ですがけっこう大きい川です)の対岸にありました。田園の中の墓地に井口城址という石碑がありますが、そこが井口館跡とも云われています。井口氏は南北朝で桃井直常と共に名が出る家柄ですが、そこから東部に分家した各支族が派生したようです。後年の義仲上洛戦では、宮崎党は主力部隊として、その前哨戦となる礫城(火打城)の戦いでも、人造湖を造るほどの大掛かりな合戦でしたが、越前に出陣していますから早くから源義仲と誼みを通じていたようです。 これはあくまで一部の異説なのですが、越中国…

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境関所② 境関所跡

現在は主要道路になる国道8号線は当然ながら江戸時代には存在せず、前回紹介した境一里塚横の海沿いの街道を500m程進んだ先に、境関所が明治2年(1869年)までありました。 現在は境関跡はほとんど痕跡はないのですが、旧境小学校の跡地と道路を挟んだ向かいの空き地と数軒の民家が境関跡に当たります。境関所は大きく分けると小学校跡地の岡番所と、向かいの空地及び民家と海辺までにあった浜番所。後で画像を紹介しますが境神社の階段を登って、更に国道を横切った先にある山を登ったところにある二つの御亭(おちん)と呼ばれた見張り所から構成されていました。境神社の境内が展望台になっており、境関所の全景が把握できます。 年ごとに強化されて規模の拡大・人員が増やされ、武器類も多く保有しており、その規模・人員・武器数は、有名な箱根の関所を上回る全国一といっても過言ではない厳重な関所でした。 古来から境には国境としての施設が置かれていたようで、古代朝廷では公務で。ここを通って境川を越えて行くときには、馬を用意したと云われています。馬匹の用意施設が当地にされていたのではないかと思われます。当地の文献として境関について名前と共に出て来るものとしては、資料館の年表に書かれていましたが、永正15年(1518年)伊達稙宗(伊達家14代当主、伊達政宗の曽祖父)が、当主就任の左京太夫任官にあたり朝廷御礼の使節派遣の際に、経費として「二百文。境川の関の庭立共に御酒の分」と記述されているそうです。 加賀藩としては前田利長在世…

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舟岡山城

白山市の旧鶴来町は古くから白山巡礼の入り口的存在で、宿場的存在として古くから栄えた町です。また、加賀禅定道の起点となる加賀馬場となる白山比咩神社が鎮座することで知られています。 手取川の流れが作った細長い盆地と、獅子吼高原と呼ばれる急峻な高原がすぐ側に迫る特異な自然環境です。盆地の横の崖面は町を守るようにありますが、その端に舟の形のような台地になる孤峰があります。                                          清沢坊願得寺跡 H25.12.04撮影 戦国初中期、加賀国の実権を握っていたのは、加賀守護・富樫政親を高尾城に滅ぼした真宗勢力の賀州三ヶ寺(松岡寺(蓮綱、蓮如三男)、山田光教寺(蓮誓、蓮如四男)、二俣・若松本泉寺(蓮乗⇒蓮悟、蓮如次男⇒七男)でした。鶴来には蓮如の十男・実悟が本泉寺・蓮悟の養子となって清沢坊願得寺に置かれていました。この実悟が、加賀を「百姓が持ちたる国」と云った人物です。願得寺の名称は実如(蓮如の長男)から与えられたもので、実如は北陸に退避した蓮如に代わって近畿に残り、旧仏教・朝廷交渉を一身にになった人物です。早世しなければ確実な法主候補でした。というより晩期には法主的存在でした。真宗内では、実如から寺名を下賜されることはこの時点では蓮如以上に重要なものでした。 しかし実如の死後、本願寺内の内紛で能登・加賀・越前守護まで巻き込んだ享禄の錯乱(大小一揆)が起きます。しかし北陸真宗の最強軍団・山之内衆が大一揆側(本願寺・本覚寺・超勝…

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大聖寺城址

加賀藩には幕末まで三つの支藩と近江の飛び領がありました。 元和2年(1616年)立藩した前田利家の五男・利孝の上野七日市藩1万石。 寛永16年(1639年)、三代藩主・前田利常が隠居した際に加賀藩の家督を長男・光高に譲り、富山10万石を次男・利次、加賀大聖寺7万石を三男・利治に分与・分藩しています。 意外に知られていませんが、この三藩以外に前田利家の時代から近江の今津(現・高島市今津町今津)に、今津村・弘川村・梅津村の二千五百石の飛び領が幕末まであり在地の任命代官が居ました。 大聖寺藩は現在の加賀市と小松の一部で構成されていました..開藩時は江沼郡133村と飛び地の越中新川郡9村で構成され、万治3年(1660年)に加賀藩との間で新川郡と能美6村(馬場・島・串・日末・松崎・佐美)を交換、矢田野の開墾で3村増えて幕末まで続きます。 その間に三代藩主・前田利直が弟・利昌に新田1万石を分与していますが、利昌が徳川綱吉の法会で乱心して奈良柳本藩主・織田秀親を刺殺するという事件を起こして新田藩が取り潰されていますが、新田1万石は大聖寺藩に返還されるという紆余曲折はありました。また9代利之(としゆき)の時代、高直しを行って10万石となり、幕末までを迎えています。 大聖寺には江戸期初期まで大聖寺城(錦城)がありましたが、一国一城令で廃城となっており、その後に立藩した大聖寺藩ではその麓を開削して、陣屋と藩邸を熊坂川と大聖寺川(旧大聖寺川)に囲まれた要害地に置いていました。現在の加賀聖城高校・錦城…

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堅田城址

加賀と越中を結ぶ北国街道は旅人にとっては古来から大事な街道として機能していましたが、何といっても倶利伽羅峠という難所があるために交易路としては大きな難点になっていました。険しい道ではありますが、起伏が少なく大きな難所がないことで、越中との交易路として重視されたのが小原越道でした。 現在も北陸自動車道や国道304.359号、山側環状、国道159号など主要道路が交差して大きなICを構成する森本ICのように、往時も北国街道と小原越道が合流するのも、この森本の地になりました。また能登から津幡宿を経由する道も手前で北国街道に合流しますから、越中からの2街道と能登からの街道も重なり交通の要衝となっていました。 加賀と越中が本格的な戦闘を行ったのは倶利伽羅峠の源平合戦。ここから源義仲が松根城と共に築城したという伝承がありますが、倶利伽羅合戦以降は源義仲は加賀には長く留まらず進撃を速めていますから、その可能性は低いと思います。 更に時代が下って、越中の佐々成政と加賀・能登の前田利家が国境の多くの箇所で戦闘を行っています。余談になりますが、二人の立場や状況があったと思いますが、基本的には佐々軍が攻勢に出て加賀、能登への侵攻を行い、前田軍は徹底して防衛戦に徹した印象を受けます。 野外戦となった前田慶次城代の氷見の阿尾城、防衛戦に徹した奥村永福の末森城、同じく防衛戦を戦った前田秀継の今石動城などが良い例であり、撤退戦の不測時で発生した津幡の鳥越城の落城、朝日山城の佐々軍占拠という例外はありましたが、…

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末次城址 (奥能登の城②)

松波城の支城となるのが末次城です。別名は地名から行延城とも呼ばれています。 築城年代は未詳ですが南北朝になるのではないかと云われています。 位置的には松波城から旧街道と云える国道249号線を4キロ程西に位置します。街道を見下ろす位置にあり出城の役目を十分に果たす存在です。また街道は末次城を巻くように続いており、街道と山城の間には木郎川と大杉谷川があり、天然の外堀になっていました。 典型的な山城の形態ですが標高50mと高さはありませんが、山肌を削って攻城兵の登りをきつくしています。東口の竪堀は特に急角度となっており、山頂までの登りのきつさを感じさせます。 本丸や六つの曲輪の一つ一つは大きくなく砦の規模のようですが、城域は大きく取っており標高30~50mの丘陵の三つの尾根を利用しており、その広さは東西360m・南北400mと広範囲に渡ります。尾根と云っても頂上部は高低差20メートルほどで尾根上の移動はけっこう楽にできています。搦め手道は尾根を迂回するように東口・狼煙台・曲輪を迂回するように山並の尾根を利用して各曲輪を結んでおり、南に出られるようにしています。 山頂は守備兵の俊敏な移動を重視し、山肌を堅固にして攻城兵を各個撃破することを狙ったようです。 上杉軍侵攻の際には松浪畠山家の配下武将・末次甚右衛門が主将となり、地元土豪を集めて抵抗していますが、松波城に先立って落城しています。ちなみに末次城の登山口にある家が末次家で、山頂にあった天神社を家の側において守り伝えているそう…

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松波城址 (奥能登の城①)

毎夏、仕事の関係で輪島まで行くんですが、お仕事は午前中のみ。で、毎回、その後に能登観光をしています。 今夏は新幹線効果とまれ効果もあり、石川に来る人が多いようで海浜道路(のと里山海道)も車が多くて、いつもより時間が掛かっちゃいました。最初、仕事でつきあえないと同行を拒否していた嫁さんは、休みが取れたと云って一緒に来てくれたから、1人よりはおとなしい運転ということもあったみたい お天気は家を出るときは良かったんですが、能登に北上するごとに曇天にそしてポツポツ 天気予報は豪雨注意だったけど、そこは出かけると晴れ男の僕車を降りると雨がやむ僕輪島はず~~ッと曇天、ときおり太陽が観れました のと里山海道の高松SAで一休み ここまでは最高に良い天気・・・出がけに何も食べてなかったんで、おにぎりとお客さんにお土産 相変わらずですが、お客さんの家は朝市通りなので、海側の駐車場に車を停めて朝市通りを少し通るんですが、盆後ということで昨年よりお客さんは多く感じませんでしたが(いつもは盆前や祭りの前くらい)、僕が御客さんの家にいる間、朝市をウロウロしていた嫁さんが言うには、去年より賑わってるよ…

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小松城址

小松城は江戸時代を通じて加賀の国に金沢城の支城として存続していた城です。 御存じのように江戸時代は一国一城令によって、加賀藩は金沢城を本城として、小松城も廃城になっていたのですが、加賀藩三代藩主・前田利常の隠居城として幕府から特別許可が下りて再興したものです。 小松城の最初の築城は通説では、天正4年(1576年)一向一揆衆の有力武将・若林長門守によるものとされています。ただ、明智軍記や小松軍記の記述にある朝倉義景・明智光秀の問答や記述からはそれ以前に小松の名が出ており、明智光秀が朝倉氏に係ったのは1560年代とされていますから、それ以前から小松に城もしくは砦、寺(北陸の本願寺の寺は城郭を兼ねた造りが多かったですから)があったと思われます。 ちなみに若林長門守は、越前朝倉氏が滅亡して(天正元年)織田軍の勢力圏になった後、土一揆の蜂起で一向宗の再占領になった天正2年に本願寺から越前・加賀に派遣された人物です。雑賀衆の一門と云われています。その後、織田信長の越前再侵攻(天正3年)にも前線に出ており、その後は小松城、鶴来の舟岡城の主将として転戦、最後は鳥越城に入るなど抵抗戦を主導した人物の一人です。 鳥越城攻略にに手間取った柴田勝家の謀略によって、松任城で鳥越城首脳が騙し討ちで殺害された際に命を落としています。なお、松任城で討たれた首脳や武将の内、数名の首が安土に送られ晒されていますが、若林長門守はその内の1名です。 前田利常が再興する以前の小松城に関しては、詳しい図…

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津幡城址 為広塚 清水八幡神社

金沢市の北隣にある津幡町。現在は金沢市の衛星都市的な存在です。近年になって国道8号線・159号線のバイパス化で、主幹線道路が変わって西側を回るようになり、旧国道から商業地や住宅地が西方や北方の郊外に移り、元々の中央銀座商店街や津幡宿があったおやど商店街も少し寂しくなってきました。 この中央銀座商店街とおやど商店街が交差する四ツ角という交差点を北に真直ぐ行って、急な坂道を登った大西山と呼ばれた丘陵に津幡城がありました。城址の痕跡はほとんど見られませんが城址碑がある高台からは津幡の街並みがきれいに見渡せる場所です。 この丘陵には平成23年3月まで津幡小学校の校舎がありました。現在は新校舎が完成して東の麓に移り、現在は小学校グラウンドと記念庭園となっています。 何を隠そうこの津幡小学校は僕の母校になります。家庭的にはその後の人生を左右する良いことも悪いこともありました。校舎はなくなりましたが、それでも懐かしい母校に変わりはありません。 僕の小学2年の時に旧校舎が建ったのですが、県内初の4階建て鉄筋コンクリート造・床総アスタイル張りという近代型校舎でした。当然ながら田舎者だらけの子供達で、初めてのアスタイルにツルツル滑り、掃除には今まで見たこともなかったモップにワックスで大騒ぎになっていました。掃除のときはアステアやジーンケリー、ポパイとかの感じで遊んどりました^^ 旧校舎が新築された際には大幅な改修工事が施され、城の痕跡はほぼ無くなってしまいましたが、地中から人…

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二曲城(ふとげじょう)

加賀一向一揆の最後の牙城として有名なのが「鳥越城」ですが、この鳥越城と連携して最後まで抵抗した城が「二曲城(ふとげじょう)」です。 鳥越城の規模が大きく有名すぎて支城扱いということもあり、更に発掘調査の開始が平成16年と近年になってからということもあり、影に隠れたように意外に知られていませんが、一向一揆の城としては最後まで抵抗した城として同等の評価があっても良いように思われる城です。 鳥越城の発掘物などを展示している「鳥越一向一揆歴史館」「道の駅・一向一揆の里」がある場所は、間に大日川が流れ、別宮から三坂峠まで南北を山岳に囲まれた盆地帯ですが、白山麓の一向宗徒の本拠地になっていました。 この地には鳥越・二曲城主で白山麓門徒(山内衆)の指揮官の鈴木出羽守の屋敷もあったそうです。 鈴木出羽守の屋敷があったとされる場所は、二曲城の登り口の左手に鳥越一向一揆の慰霊碑の横に建つ平吉庵がある場所だそうです。 現在は出合町となっていますが、応時は一向一揆館や二曲城の麓の上出合は二曲(ふとげ)とも呼ばれていました。 ちなみに「二曲」の由来は、美貌と優雅さで知られた鈴木出羽守の娘が立ち上がった際、長い髪が背を伝って下に降り、更に二曲り(ふたまがり)も溜まったということから来ているそうです。これは江戸期の十村役の書上げ帳に書かれているそうです。 鈴木出羽守に関しては資料が少なく詳細は多くありませんが、二曲が本貫とも本願寺が依頼して紀伊雑賀衆門徒から…

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和田山城址

和田山城という名前を聞くと、城好きな人は今人気の天空の城・竹田城の別名と思われそうですが、今回の城は加賀の手取川南岸の丘陵地帯にあったお城です。 古代における石川県の中心地は手取川南岸から加賀温泉に広がる平野部であったと云われています。当時は加賀三湖や大小の湖沼が存在していましたので、現在の小松市街の旧8号線(現在の305号線)東部の加賀国府があったという古府町辺りから手取川南岸の寺井(現・能美市寺井)の平野部だと推測されています。 寺井や小松の西部を訪れると、なだらかに広がる平野が広く感じると思います。 その平野部にポツネンと標高50メートルほどの丘陵地帯があります。昭和の高度成長期に道路建設や住宅地の造成のために大きく削られてしまいましたが、この丘陵地帯に3~7世紀にかけての古墳が集積しています。 以前紹介した北陸最大の古墳・秋常山1号墳の秋常山、多くの武具が発見された和田山5号墳、40数基が発見発掘されている和田山・末寺山古墳群、同じく10基以上が確認されている寺井山古墳群などなど。。。元々、これらは同じ丘陵地でしたが、前述のとおり造成による掘削により大きく削られ、その際に更にあったと思われる古墳群が失われてしまったようです。 この大規模な古墳期・飛鳥期(3~7世紀)の円墳・方墳・前方後円墳・前方後方墳など、古墳の展覧会のような場所が存在するのですから、加賀の古代史の中心地はこの近辺だと推察されます。 この古墳群はまたの機会にご紹介したいと思いますが、史跡公園とし…

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椿原天満宮(椿原山砦跡)

先日、南米から戻った家ニスタさんのブログを読んでいたら、久しぶりのお城巡りをされていました。 昔の古城巡りですから、薮の中になっていたり、城の敷地や構造を利用して神社やお寺に変わっているものもあり大苦戦したようです。 僕も城跡巡りは嫌いじゃないですから、幾つかまわっているのですが、やはり寺社や薮の中はよくあります。中には古墳を利用して造られた城もあり、古墳調査と保存で城の遺構が解り難いものまであります。 しばらく、お城巡りをしていなかったんですが、一番最近、行ったというか立ち寄ったのが、この椿原山砦跡。 現在は椿原天満宮になっているところです。 前田家の加賀藩時代には、金沢の町と城の鎮護と防衛拠点として、正式な神官だけが常駐している神社が五つ存在しました。金沢城を囲むように存在したこれらの神社は、宇多須神社、小坂神社、神明宮、椿原天満宮、安江八幡宮 それぞれが浅野川や犀川、卯辰山や小立野台地と云った重要拠点に配置されているのですが、地図で見ると五芒星の形に配されているようにも見えます。現在も金沢五社巡りとして、神社愛好家や観光客に人気のコースになっています。 それぞれを簡単に紹介すると、、、、 ★宇多須神社(江戸期は卯辰八幡宮)・・・金沢城から北東の東山茶屋街を入った所にある神社。東に卯辰山、南に浅野川がある要衝です。また、加賀藩の武家屋敷が多く存在した場所です。この神社は金沢城からは鬼門に当たるのですが、幕府に隠れて藩祖・前田利家を神霊として祀っていたことで知…

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今江城址(御幸塚城)

前回の記事の浅井畷の合戦を書いた際、前田利長の別働隊が布陣していた城が今江城だとしたので、以前訪れているのでご紹介します。 今江城の別名・御幸塚(以前はみゆきづか、現在はごこうづか)の起源は、花山法皇(968-1008)がこの地に滞在中に、加賀三湖(今江潟・木場潟・柴山潟)を眺めるために近くの三湖台という丘に登ったことからこの辺りを御幸と名付けられたものです。花山法皇の伝承の足跡としては、近くの那谷寺の名にも残されています。 1960年代までこの城の西側には今江潟という湖が広がっていました。その大きさも結構大きくて、ここから小松空港までの間にありました。その後、干拓によって今は広い田園地帯になっています。城があった当時は側の湖を利用した堀に囲まれていたようでなかなか堅固な城の要素があり、加賀平野の要衝点ということで古くから重要視された城でした。 築城年ははっきりしませんが、富樫泰高が加賀守護職に初めて就いた辺りではないかと云われています。そうすると1441年以降となります。 この人物はなかなか波乱万丈の生涯を送っていて、加賀守護・富樫家の衰亡期を逞しくまたずるがしこく送っています。そもそも富樫泰高は守護職には縁がないはずでした。守護就任前は醍醐寺の修行僧で喝食(食事の報告係)をしていたという経歴があります。ところが守護だった兄・教家が室町幕府6代将軍・足利義教の不興を買って失脚した際に還俗して家督を継いだ曰くつ…

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プラチナルート⑤ 帰雲城 ~ 長滝白山神社

7/18 白川郷で上越組と別れ僕達は156号線を南下、白鳥町に向かいます 東海北陸自動車道が出来たおかげで、観光客の車は高速に廻ってくれるので、国道も日曜ですが車も少なくすんなり走れます 白川郷からしばらく行くと「帰雲城」の文字を見つけて立ち寄りました 歴史好き・お城好きの人には有名なお城です。 室町・戦国時代、白川郷を治めていたのは内ヶ島氏という一族でした。 内ヶ島氏は飛騨の金山を採掘管理をしていて裕福な一族として知られていました。古くは足利義政の銀閣寺、織田信長の安土城、豊臣秀吉の大阪城の建築予算の多くは内ヶ島氏が負ったといわれています。 秀吉の越中の佐々征伐では佐々成政の援軍として従軍しましたが、その後秀吉に帰順して許され、本城である帰雲城に帰っていました。しかし3ヵ月後、天正の大地震で帰雲山が崩壊、庄川を塞ぎ山津波で一族郎党・城・城下町が全滅消滅してしまいました。ちなみにこの日は城中で本領安堵を祝って宴の真っ最中で、一族郎党が集まっていたそうで、生存者は他国に使者として出ていた4人のみと云われています。 長い日本史の中で、自然災害でひとつの城下町が一夜で消滅したのはここだけです。この城址碑の向こう、東の山肌には現在も崩落の爪あとが見られます。別名日本のポンペイとも言えます。 戦国期…

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六日町 長尾政景墓所 ~ 坂戸城 BASARAイベント

前回の日記を書いてすぐ、車に飛び乗ってだったのですが もちろん、新潟の山道も走るので、タイヤはスタッドレスに替えてしまいました。しかし、雪には一切あわずタイヤを減らしただけでしたね。去年(H20)はこの日から積もったんですけど 上越から国道8号線を右折して、253号線の松代経由という初めての道を通るということで、時間に余裕を持って走って行ったんですが 予想通り、早く着きすぎていました ということで、車の中で3時間ほど 久しぶりに車で寝ると節々が痛いですねぇそれに、10分ごとに眼が覚めちゃうし 車を停めていたのは、六日町IC横のジャスコの駐車場。外が明るくなって外に出ると、東に坂戸山が大きく観えます。 夜だと景色は解りにくいけれど、明るくなると違う土地に来たんだなぁ。と実感しますねぇ。 車の外で、のんびりと煙草をふかしていたら、出発以来コンビニに寄ったとき以外寝ていた二人も起きてきました。それにしても、我が家の二人はどこでも熟睡する特技を持っていて、羨ましいかぎり さて、なぜにこんなに急な六日町行きになっ…

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道の駅・高岡万葉の里 ~ 阿尾城

日曜日、午前中に仕事が入ってしまったので、お昼過ぎに家に帰ると、遅起きの一人が部屋にポケーっとしておりました。 まったく、若い娘が休みとはいえ、何をしているのやら。。。 嫁さんは、この日もお仕事。。。ここん所、休日が合わない夫婦になっています。 そんな娘とまたまたお出かけドライブに。。。まっ、半分無理やりだけど、 タダ、出かけるのは遅いし(なんだかんだと3時近く)、天気もイマイチでしたけど。。。 さて、国道8号線をひた走り、高岡に入った所で娘が一言    「お父さん、わたしお腹すいたぁ」    「午前中、ずっと寝てたから、朝昼食べてないんだよね。」 というリクエストにお応えしまして「道の駅 高岡万葉の里」に なぜ高岡が万葉の里かというと、万葉詩人の一人「大伴家持」が6年間程の期間、越中守として赴任していたためです。 さて、ここでお食事タイム 食べたのは富山・高岡では御馴染みのブラック系のラーメン。店の名前は「元祖 高岡ラーメン」 出来て3年ほどの道の駅の店なのに、なぜ元祖なのかは不明。 色は濃いけれど、醤油系でしつこくない味ですね。思ったよりも丁寧な味で美味しかった。汁もちゃんと飲める味でしたから。 ついでに車の中で食べるために、コロッケも。。…

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イケメン大仏 高岡大仏

日曜日、久しぶりに仕事も完全OFFでしたが、嫁さんはお仕事で家に居らず。ここの所、仕事でストレスが溜まりっぱなしだった僕としては、どうしても発散するためにドライブに行きたかったのです 部屋でボケッとしている娘を連れ出して(娘に言わせれば、無理やりつき合わされた ご存知のごとく、僕のストレス発散は車で走り回って、あっちこっち回ること。ところが事前に行き先を決めていないことが多いんですよね。 んで娘に、「東西南北、どっちが良い」「う~ん、東かな」 ということで、東に向かってGO 朝は晴れていたけど、出かけた頃には曇り空 さて、東と言うことで、着いたのが富山の高岡市。4.50分くらいですかね。高岡は今年(H21)開町400年、先月まで賑やかな行事が開かれていました。 加賀藩の2代目藩主・前田利長が隠居後、この高岡を居城として入城し、現在日本の銅器の70%以上を占める銅器製造や織物の奨励などで町を発展させました。30数年程前までは、富山で一番大きい町でした。 皆さんの近くにある銅像のほとんどが高岡製ですよ{%顔モジヘェー(シェ…

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鳥越城 ~ 道の駅 一向一揆の里

嫁さんがこの日、GW中の数少ない休日でした。 午前中いっぱい昼まで寝ていた嫁さん、昼過ぎになってから起き出して来まして、ドライブでもして買い物に行こうとなりました。 人が少ない所ということで、もうすぐ夏季閉鎖になっちゃうブナオ山観察舎に行こうといって出かけようとした途端、部屋から体調不良で寝ていた娘がもそもそと起きて来ました 私も行く~~~~ これ以上布団の中にいたら腐っちゃうよ~~ お前が勝手に体調崩して寝てたんだろうがよ 行くと言ってきかない娘の着替えとシャワーを待ちまして、スタートはまたまた遅くなっちゃいました。ブナオ山は時間的に無理・ヘロヘロ娘の山歩きなんか無理に決まってる ということで、久しぶりの鳥越に行くことにしましたよ 鳥越は白山麓の奥へと向かう入口、昔の北国脇街道の牛首道(白峰・尾口)と小松・原町への分岐点になります。 まずは、鳥越城まで一気に登りました。 鳥越城は標高359m、車で頂上まで登ることができます。 戦国時代「百姓の持ちたる国」と言われた真宗王国・加賀の国 その真宗王国の最後の牙城がこの鳥越城でした。 織田信長の侵攻で、本拠の金沢城の前身「尾山御坊」も落城、最後…

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親不知駅 ~ 春日山城

寝過ごしたといえど、相変わらず高速道嫌いの僕は、国道をちんたらと走っていきました 写真は2度クリックすると大きくなりますよ それにしても年末には道路工事が多いですねぇ。あっちこっちで交互通行ですよ。信号や警備に止められて時間の掛かること。。。 親不知でもトンネルの清掃・補修工事で長い列になっていました  という事で、親不知で小休憩。  親不知駅に車を停めて、缶コーヒーで一休みです ひなびた駅舎の静かな場所で、ここから一番の難所<子不知の始まる場所です。            また、この辺りは豪雪地区でもあります。構内には除雪車が準備万端 親不知には「歌」という地区がありますが、ここは水上勉の「越後つついし親不知」の舞台になっていま…

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松根城址

加賀と越中の国境を繋ぐ街道は、倶利伽羅山の側を通る北国街道が表街道でした。それに対する裏街道が小原越道と云われる道です。 現在の金沢・森本駅付近から砺波に繋がる国道359号線と福光に繋がる304号線に沿い途中、両国道の中間点を抜ける感じの道です。同じ山越えでも倶利伽羅越えに比べて遠回りでしたが、起伏が楽だったこともあり、江戸期以前は物資の往還は小原越道が主になっていました。 松根城は小原越道を取り込むように、国境となる砺波丘陵に沿って作られた重要拠点でした。 文献としては源平盛衰記に源義仲が陣をここに置いたというのが最初です。その後、南北朝では南朝方の桃井直常軍が陣を置いたという記録があります。戦国期には一向宗の持ち城となっていましたが、戦国末期には佐々成政の持ち城となって加賀に対する前線基地になっていました。 その後、豊臣秀吉の佐々征伐の際、前田利家の重臣・村井長頼によって近くの朝日山城と共に攻略を受けた際に、佐々方の放棄により落城。その後は一国一城令により廃城になるまで村井長頼の持ち城なっていました。 現在の城遺構は佐々時代に作定されたものですが、虎口の二重隠しや枡形、竪堀や土塁を多用して三つに郭を連郭式にしたものです。城跡は綺麗に整備されていて自然公園として整備されており、城内の道も木チップを使っているので歩きやすくなっています。 連郭の一番高所となる松根山頂(標高304メートル)にある本丸からは能登・加賀・越中方向が開けて観えます。眺望も良く特に加賀方向は天気が…

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木舟城址

以前、紹介した前田利家の末弟・前田秀継が生涯を閉じたのが「木舟城」 高徳寺址 前田秀継夫妻の墓所  http://72469241.at.webry.info/201210/article_33.html 真光山 永傳寺            http://72469241.at.webry.info/201210/article_34.html 天正15年(1585年)に起こった天正大地震は震源はいろいろ推測されていますが、飛騨・伊勢の連鎖地震だと推測されています。広範囲に被害が起こり、岐阜だけでなく北陸・関西にも甚大な被害を与えたことが伝わっています。有名な城でも、大垣城・長浜城が全壊、未だに場所も特定できない埋没した帰雲城。近年、液状化の痕跡が確認された清州城など大きな被害を受けたようです。この木舟城も同じく陥没全壊しています。 幻の帰雲城  http://72469241.at.webry.info/201209/article_22.html 「木舟城」は元暦元年(1184年)に石黒光弘によって築城されたと云われています。石黒光弘は越中の地方豪族で、木曽義仲に従い倶利伽羅合戦で活躍しています。その後、石黒氏はこの城を本拠に戦国期までこの辺りから福光に至る一帯を治めていたようです。 戦国末期に入り、越後の上杉謙信の配下になった時期もありますが、謙信死後に勢力を伸ばしてきた織田信長に与しましたが、上杉軍との共謀を疑う信長によって近江長浜で当主・石黒成綱が謀殺され断絶、…

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今石動城址

小矢部市の城山(昔の呼び名は白馬山・石動山)の山頂186メートルにあったのが「今石動城」です。 賤ヶ岳合戦後の天正13年(1585年)、加賀の前田利家と越中の佐々成政が緊張状態になった年に、前田利家によって最前線基地として築かれました。城主には津幡城主で利家の末弟・前田秀継が入城しました。 後方に倶利伽羅峠に続く山地が続き、城下からは急峻な登りの山頂にある堅固な立地です。六つの尾根を利用整地しており、規模も大きい物だったようです。築城1か月後に佐々方5.000に攻め込まれますが、城兵1.500を率いた城主・前田秀継とその息子・前田利秀によって撃退しています。この戦闘がこの城の唯一の合戦ですが、防御能力の高さを証明するようです。 現在は本丸とその下の曲輪が観られるのみですが、本丸は東西41メートル・南北27メートルと広々としており、竪堀や切通も急峻に切られており、眼下に砺波平野や小矢部市街が広がります。 ただ、整備はイマイチで途中に倒木があったり、城址までの道路も車一台がやっとの道ですので気を付けて下さい。 今石動の名の由来ですが、前に紹介した能登・石動山の「伊須流岐比古神社」を分霊した神社が山頂にあったというものと、前田利家の天平寺攻めの際に、人質とした虚空蔵菩薩像を城の守護神として山麓の愛宕神社に奉納した為に、新しい石動→今石動 の2説があるそうです。文献的には前者が有力ですが、個人的には両説融合だと思っています。 初代城主・前田秀継は兄の全幅の信頼を得ていたようで、…

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荒山砦(荒山城址)

前田利家が全山焼き討ちした石動山攻めで重要なポイントになったのが、桝形山の山頂にあった荒山砦です。能登と越中の国境上にある荒山峠・桝形山は現在は「荒山城址」と中能登町や氷見市がパンフレットや観光案内・登り口には表示されていますが、昔の文書や歴史小説などでは「荒山砦」と記されている物が多いのでここでは「荒山砦」とさせてもらいます。 氷見の阿尾城と能登の鹿島口を繋ぐ街道の国境線上にあります。現在は県道18号です。なかなか急峻でカーブの連続ですが思ったより走り易い道です。石動山の出城とも言われていますが、元々は阿尾城の菊池氏の持ち砦だったようです。 阿尾城に関しては以前、記事に書いていますのでこちらをどうぞ                http://72469241.at.webry.info/201208/article_57.html そもそも石動山合戦の原因は本能寺の変に乗じて、上杉軍の後援を受けた畠山氏旧臣の温井景隆・三宅長盛が旧領復活を狙い、同じく寺領復活を狙う石動山に入ったことにあります。ちなみに景隆・長盛は兄弟です。その後、2人は桝形山に砦構築を始め普請を始めます。 魚津から信長横死を聞き急遽戻った前田利家は石動山天平寺に僧侶として入っていた七尾の氷見屋の息子から情報を得、加賀の佐久間盛政に協力を要請し、石動山と桝形山の中間に秘かに3000の軍勢で布陣します。翌日、石動山から桝形山に向かう三宅軍4300を急襲し三宅長盛を討ち取ります。勢いに乗って佐久間盛政は荒山…

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七尾城址

能登を代表する山城「七尾城」別名は「松尾城」と云います。 七尾の名は七尾城の位置する城山の七つの尾根から来ていると言います。 七つの尾根の名は松尾・竹尾・梅尾(鶴尾)・菊尾(烏帽子尾)・亀尾・虎尾(袴尾)・龍尾(牛尾)ですが、七尾城が築かれたのはこの内の北端の松尾になり、別名では松尾城という記述もあります。石動山系の北端に位置しその規模・威容は難攻不落と云われた物でした。 日本五大山城・山岳城に数えられる名城です。ちなみに他の四城は春日山城(新潟)・月山富田城(島根)・観音寺城(滋賀)・小谷城(滋賀)。山岳城の場合は小谷城の代わりに八王子城(東京)がこれに加えられます。 七尾市という所は面白い所で昔にあったものが町名になったものが多いのです。七尾城の在る場所は現在は古城町と呼ばれ、その外側が古屋敷町と当時の配置が解るようになっています。ちなみにこの古屋敷町には畠山氏の子孫が建てた「七尾城史資料館があり、能登畠山氏の資料や城から発掘された物など七尾城の事前勉強にうってつけです。同じく隣の「懐古館 飯田家」がありますが、現在の七尾城が荒廃せずに残っているのはこの大庄屋・飯田家代々の整備・手入れのおかげと云っても過言ではありません。 七尾城に登るには2つコースがあります。一つは昔からの登城口から三の丸を超していくコース。こちらは本丸までは直線で3キロ程ですが途中に虎口や七曲り、2の丸と3の丸の間の大堀切など急こう配が多く倍以上を歩く覚悟が必要です。一度歩いたことがあるんですが、足腰…

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越前大野城

越前大野城(別名:亀山城)は1575年に越前平定に織田信長の武将として活躍した金森長近が入部・築城したのが始まりの城です。 金森長近は最初は大野盆地の西端にある戌山城(いぬやまじょう)に入りましたが、翌年から盆地にせり出す小孤峰の亀山の山頂に新城の建築を始め、亀山の東に広がる平地に二の丸・三の丸・将棋盤のように区画された城下町を整備しています。これが現在の大野市街の基礎になっています。 標高239メートルの山頂の天守からは大野盆地の四方が見渡せ、防衛上は戌山城の方が上ですが、政治・戦略上はこちらの方が良かったと思われます。 金森長近が大野城に在城したのは約10年でしたが、その後、長谷川秀一・青木一矩・織田秀雄と城主が変わり、関が原後は福井藩の直轄領、松平(結城)秀康の三・四男、天領など領主・城主が頻繁に変わり、1682年に幕府老中だった土井利房(土井利勝の四男)が老中辞任後、国替えで転封、越前大野藩の初代藩主になっています。 大野城は古図によると、天守・小天守・天狗書院(天狗櫓)の三つの天守からなる複合連結式の城だったようですが、1775年に焼失、20年後に小天守・天狗書院が再建されましたが明治維新に破却され城壁だけとなり放置・売却されていました。おかげで往時の姿は不明となっています。 昭和になって旧士族の寄付により1968年に再建されたものです。 ただ、往時の絵図や他城の天守から推定製作したために、天狗櫓に小天守があり、3連結ではなく2連結になっています。城もコンクリート…

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高尾城址・見晴し台

金沢市の東南に位置する場所にあったのが「高尾城」別名は「富樫城」 「百姓が持ちたる国」と呼ばれた加賀一向一揆を象徴する城でした。 高尾城の築城年代は不明ですが、富樫氏が建武の新政時に加賀守護についた1335年から加賀守護に復帰した1400年初頭ではないかと云われています。富樫氏の本城でしたが防衛戦用の山城で郭内に館などもあったという記録もありますが不明です。守護職は近くの野々市の「富樫館」に住んで政務・生活をしていたようです。 高尾城の最後の城主は富樫政親。一時期、小松の今江城に本城を移したりしましたが、ここを本城にして加賀一国の守護でした。1488年、一向一揆に攻められこの城で自刃しています。城もこの後歴史に出てくることがなく廃城となったようです。 教科書などでは政親の死を持って加賀は百姓の国になったと書いている物が多いですが。政親の家督継承の際、応仁の乱の関係で東西に分かれた弟の幸千代(大聖寺城主)との長きにわたる争いとなり、政親は一向宗の支援を受けて勝利を得ました。その後から一向宗勢力の勢いを恐れた政親は一向宗の勢力減少を狙い圧迫を続け、たまりかねた一向宗徒が在地勢力や一部の富樫一族と結びつき、守護に反抗して攻めたのが真相です。実際、落城後、守護職は政親の大叔父・富樫泰高がついています。大きく力は弱まりましたが守護としての地位と政務は富樫家に残っていたわけです。 更に言えば、1531年本願寺の内紛により起こった「大小一揆」において、富樫家は小一揆に加担して敗れ守護追…

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「金谷出丸 南面」- by つとつと (12/08)

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「金谷出丸 南面」- by 藍上雄 (12/08)

「金谷出丸 南面」- by tor (12/08)