金沢城 河北門 菱櫓

延宝年間(1673~1681年)の金沢城図(下が北・上が南)寛永の大火後、本丸・東丸から拡張した二の丸にある二の丸御殿の表向が加賀藩の政庁になります。現在発掘・資料調査が行われ、次回の復元はここに決定しています。二の丸御殿表向に家臣団・使節が向かうのが尾坂口から新丸を経由する大手道、石川門橋を渡ってくるのが搦手道。この二筋の道が合流するのが三の丸の中心部で堀際を右に五十間長屋に見下ろされながら、渡し橋を渡って二の丸に至ります。この間には多くの門がありますが、その中で枡形を設けた門(河北門・石川門・橋爪門)を、金沢三門と呼んでいます。この三門の内、河北門と石川門が金沢城内への正式な入口になっていました。橋爪門は政庁でもあり殿様御殿への式台門の役割を果たしていました。金沢城 河北門 一の御門 石川門をご紹介した時にも書きましたが、河北門も石川門と同じく表門+枡形+櫓門の順で通行するもので、周囲を櫓・長屋・石垣で構成されています。この為に河北門の名もこれらの総称となります。 新丸が造成されて大手堀が外堀となったために、石垣下は第二の外堀兼内堀となっていました。明治の埋立でお堀通りやいもり堀という水源を失ったために荒れ地でしたが、発掘調査後に湿性池として往時の半分ほどですが湿性池として堀を復元しています。新丸側は往時の護岸を復元したそうです。本来は二の丸は現在の三分の一にも満たない広さで北側の多くは三の丸でした。本来はこの石垣は三の丸下石垣だったわけです。3代藩主・前田利常が二の丸御殿増設のために二の丸…

続きを読む

10代前田重教(七男)~11代前田治脩(十男)

石川門 表門・続櫓 宝暦9年(1759年)宝暦の大火によって石川門も焼失していました。再建は案内では天明8年(1788年)となっています。しかし、正確には明和2年(1765年)の石垣の修復が手掛けられ、櫓などの構築物が天明8年に完成しています。金沢の城下町の9割を焼いた大火からの復興は限られた予算によって30年近い歳月が掛かっています。これには二人の兄弟藩主の地と涙の努力が表されています。 宝暦9年(1759年)宝暦の大火で金沢城が全焼した際に石川門も焼失し、明和2年(1765年)に10代藩主・前田重教(しげみち)によって石垣が補修されています。予算の調達や城下町や産業の復興が優先されたこともあり、櫓などの建物は天明8年(1788年)11代藩主・前田治脩(はるなが)によって再建されています。ちなみに加賀藩主の7代から11代は兄弟が藩主を繋いできましたが、治脩はその最後の兄弟藩主になります。ここからは、本来ならば家臣の婿養子になったり、仏門で人生を過ごすはずだったのに、運命の変転で、苦労に苦労を重ねて石川門を再建した二人の兄弟藩主について。。六代藩主・前田吉徳の野田山墓所 加賀騒動の主役・大槻伝蔵を抜擢して藩主独裁による急進改革・経済改革に着手しました。それなりの成果を挙げつつあった中で逝去。彼の死と共に守旧派の巻き返しによって政策は頓挫しています。死後に、藩主独裁が頓挫するかもとは予測できても、自分の後継が長男から十男まで続くなどとは想像もつかなかったでしょう。大槻伝蔵朝元の墓所(妙成寺)200…

続きを読む

金沢城 石川門・石川櫓

金沢城 石川門 表門(高麗門)・太鼓塀 石川門は金沢城の搦手門として江戸期は金沢城の第二の門でした。明治以降、そして金沢大学時代、そして現在は兼六園側からの入口として、誰にも金沢城の正門として認識されてきました。この日もここだけは観光客が多く、密になるので早々に退却。。画像が少なくて申し訳ありません。石川門は表門・多聞櫓・渡り櫓・続櫓・菱櫓・太鼓塀から構成された枡形門の総称になります。画像の門は表門で高麗門の形式で、左右(南北)に太鼓塀を有しています。 金沢城石川門 表門・表門北方太鼓塀・表門南方太鼓塀・櫓門・続櫓・櫓・附属左方太鼓塀・附属右方太鼓塀(8棟)天明8年(1788年)再建 重要文化財 昭和25年(1950年)8月29日指定 金沢城公園の入口となっている石川門は、金沢城の時代は搦手の門で、石川郡の方を向いていたので「石川門」と称した。型式的には桝型門で、表門・多聞櫓・渡り櫓・菱櫓・太鼓塀から構成され、その全体を石川門といっている。石垣の上の、腰に海鼠壁を付けた白壁に、鉛瓦のにぶく光るその姿は、周辺の樹木と相映じて四季を通じて美しい。前田利家の入城以来整えられた金沢城は、宝暦9年(1759)の大火で全焼し、その後、天明8年(1788)に至って、ようやく再建された。寛政11年(1799)の大地震で損傷を受けており、文化11年(1814)に櫓を解体修理している。その後も修理を重ねながら、昭和28年(1953)から同34年(1959)にかけて大修理が行われ、現在の姿となった。 (石川県HPよ…

続きを読む

金沢城 鶴の丸 +三十間長屋

鶴の丸跡 左の建物は平成29年(2017年)に新設された鶴の丸休憩館。以前にも簡易な休憩所があったのですが老朽化で建て直されました。東側が入口になりますが西側は全面ガラス張りで、橋爪門・続櫓から五十間長屋・菱櫓を一望できます。館内には金沢城の発掘調査結果の展示、カフェレスト「豆皿茶屋」で九谷焼や山中塗りの器や皿で食事やお茶が楽しめます。館外には石垣や土塀の構造展示などが見られます。鶴の丸広場(鶴の丸休憩館からの眺望) 復元された橋爪門・続櫓・五十間長屋・菱櫓が一望できる絶好スポット。鶴丸御殿はこの広場になるのではないかと考察されます。以前は近代に造られた泉水の庭園になっていましたが、休憩館が出来てイベント広場に替わっています。延宝年間(1673~1681年)の金沢城図(下が北・上が南) 濃紺の丸点は井戸で鶴の丸には五カ所もあり、これは他の丸や郭よりも非常に多いものです。三の丸は新丸から河北門を抜けて来る大手道、石川門からの搦手道が合流する処で、三の丸から内堀の橋を渡って橋爪門から入城するのが正式な経路でした。 東の丸・本丸から下りて来た広場が鶴の丸になります。金沢城初期には三の丸の一部もしくは丘陵の一部だったと思われます。内堀が整備されてからは隔絶した広場として、庭園の要素が強く歴代藩主が植えたと伝わる各種の木々が植樹されています。 鶴の丸から東の丸  於松の方は築城当時から江戸に行くまで東の丸に在住でした 鶴の丸の名の由来は、芳春院(利家正室・於松)が東の丸在住中に、東の丸直下の郭に鶴が舞…

続きを読む

金沢城 鶴丸倉庫

東の丸北石垣(丑寅櫓下高石垣) 金沢城内で現存する最も古い技法・野面積による石垣になります。ちなみに野面積みは自然石その物や荒削りの石を組み上げたものです。右は東の丸附け段の石垣で上部に鶴丸倉庫があります。前回の丑寅櫓を紹介した時に北側の石垣画像を載せましたが、実は全体画像があったはずなのに見つからず、鶴丸倉庫での画像を載せて誤魔化していました。見つけたので、まずはその画像を。。金沢城絵図(延宝年間(1673~1681年) 金沢市立玉川図書館近世資料館蔵今回はこの絵図を多く使わせて頂きましたが、一目でわかるのが石垣ですが、オレンジ色は建物を表しています。L字、細長いものは長屋(多聞櫓)になります。(一部、門もあり)東の丸御門から本丸裏手門への遊歩道 虎口のような導線に、往時には正面石垣は本丸の一体の本丸高石垣でした。本丸石垣の右端に沿うように本丸裏手門があり、右石垣下には大きな枡形でそこに鶴丸倉庫があります。鶴丸倉庫 本来は東の丸附段にあるのですが、鶴の丸に隣接することから明治頃から呼称されてきたようです。本丸・東の丸から藩主の政庁・御殿が二の丸に移り、半分放棄状態されてから呼称されたと思われます。金沢城内には多数の倉庫・土蔵がありましたが、防衛施設の長屋(多聞櫓)も平時は倉庫として使用されていました。全国の城郭内の土蔵としては最大級(延べ床面積636㎡)と云われていますが、古絵図には鶴丸倉庫より数倍規模の土蔵が幾つも描かれています。金沢城は倉庫・蔵だらけの城でもあったわけです。鶴丸倉庫 右の石垣…

続きを読む

金沢城 辰巳櫓跡・丑寅櫓跡

本丸・東の丸北側の遊歩道の森東の丸跡 辰巳櫓台の木々 丑寅櫓と辰巳櫓の間には今は鬱蒼とした森になっています。上の遊歩道北面(本丸・東の丸)は自然林が多く城壁側は明治の植林と自然林が混在しているそうです。 本丸の森 本丸・東の丸の南面の森の遊歩道を東に進むと、辰巳・丑寅櫓跡に抜けられます。金沢城絵図(延宝年間(1673~1681年) 金沢市立玉川図書館近世資料館蔵 一段目の高石垣は埋めてなだらかな斜面地の土台にしていたようです。明治の災害はこの平地部の土砂を掘り起こし、高石垣を壊したのが原因ではないかと考えらます。小立野台地の最西端になる金沢城では防衛の最重要地と見なされていたのが、同じ台地上(兼六園など)となる東側及び東南部が重視されていました。この為に東面に百閒堀(長さ270m・幅68.4m・水深2.4m)、南面に宮守堀(いもりぼり、最大幅40m・最大水深10m)の直線的な外堀が配され、城壁も20m以上に及ぶ高石垣を巡らしていました。この石垣上に配されたのが角地の隅櫓となる辰巳櫓と丑寅櫓でした。古絵図などから両櫓は石垣からはみ出すような造りで石落としも備えられ、間には鉄砲狭間を備えた土塀・矢倉塀・長屋が配されていました。特に辰巳櫓は角にあることから、金沢城でも一番目立つ建物だったと云われています。上:辰巳櫓跡 明治の改編で敷地は狭くなっています。金沢城から城外眺望を見るには最高の場所右:下:辰巳櫓下石垣 2021.2.7撮影金沢に訪れて中心通りとなる金沢市役所やしいのき迎賓館のある広坂通から兼…

続きを読む

金沢城 戌亥櫓跡

金沢城本丸西端 戌亥櫓跡 左奥にあるのが戌亥櫓跡の土台石垣になります。本丸の森に入って最初の三叉路を左に行くと本丸の西側部広場にでます。江戸初期、寛永8年(1631年)の寛永の大火によって、城下町の殆どと金沢城が全焼した際に3代藩主・前田利常は金沢城再建・改造だけでなく金沢城下町の縄張り・区割りを再整備しています。この時の大改修が現在の金沢城の縄張り、城下町の区割・道路などの基礎が出来たと云えます。大きな事業として辰巳用水の開削による大量の堀や導水路による防火・生活水の導入。それまでも多少の浅野川・犀川の直接導水はあったものの、金沢城内の水堀が整備強化されたのもこの頃だと云われています。それまで城内に居住していた家臣団を城外に出し、城下町の区割を確定しています。金沢が武家の都市となったのもこの時からが正式なものと言えました。政庁の機能を有していた本丸を放棄し、二の丸と三の丸の境目を開削して二の丸を大拡張し、政庁と殿様御殿を合わせた二の丸御殿を造営して、金沢城の政庁機能・防衛力を増強したわけです。本丸(戌亥櫓)からの金沢城 正面に金沢城三門の橋爪門、後方は橋爪門続櫓、後方に長く伸びるのが五十間長屋になります。橋爪門は石川門(搦手門)・河北門(正門)と合わせて金沢城三門と呼ばれますが、格式が一番高く枡形も金沢城最大の広さを誇ります。橋爪門の右が三の丸、左が二の丸になります。金沢城橋爪門戦国気風が残る江戸初期とはいえ、城下町の整備や城の改築増強は幕府の監視に引っ掛かる重要案件でした。大火災による惨状は、…

続きを読む

金沢城② 極楽橋~三十間長屋

二の丸御殿跡から本丸付け段 左端がニの丸と本丸を繋ぐ極楽橋、右上に見えるのが三十間長屋極楽橋 尾山御坊時代の施設で唯一名を遺すと云われています。現在の極楽橋は平成3年(1991年)に改修工事をされたアーチ橋です。冬場には筵が敷かれ歩行者の滑止となっています。極楽橋 本丸付け段の石段から、観光客の多い日でもこの辺りは意外に人が少なく静かな場所です。二の丸御殿の御居間廻と奥向の境(台所)から南に極楽橋があります。極楽橋は切通(涸堀)を渡る橋ですが、加賀藩以前の尾山御坊時代から存在した名だと伝えられています。加賀一向宗の本拠・尾山御坊(金沢御堂)は現在の金沢城内に存在したと云われていますが、天正8年(1580年)に柴田勝家が攻略し、城主として佐久間盛政が入城しています。佐久間盛政は尾山御坊の施設を御堂及び周辺を徹底的に破壊し、名前さえも消し去って、加賀一向宗を排除して金沢城を築いています。このために、金沢御堂の所在地も不明状態になっていました。涸堀の発掘で極楽橋下に一向宗時代の遺構があることが発見され、城の形態の研究からも、、現在の金沢城の本丸から御宮広場・藤右衛門丸(北の丸)にかけての金沢城西側が尾山御坊の城塁になると推測されてきています。しかし石川門橋には一向宗時代から御坊の土橋があったといわれ、正式な位置は不明です。涸れ堀(かれほり) 極楽橋上から、上が西方向(玉泉院丸・いもり坂)、右:東方向(橋爪御門)、右が本丸石垣上に長屋、左の石垣上には門まで土居が積まれていました。極楽橋は東西を見通せるよう…

続きを読む

金沢城① 玉泉院丸~数寄屋敷跡

今更ですが、新年明けましておめでとうございます。相変わらず時季外れや拙いブログですが、本年もよろしくお願いします。今回も前回の続きですがおつきあいください鼠多門橋と鼠多門 鼠多門は創建は不明(推測では寛永初期)ながら、金谷出丸(現・尾山神社)と金沢城・玉泉院丸を繋ぐ門として江戸期を通じて使用され明治まで残存していた門になります。金沢城を全焼させた宝暦の大火(宝暦9年(1759年))、陸軍の不始末による大火(明治14年(1881年)にも類焼を免れた金沢城最古の建造物の一つでしたが、明治17年(1884年)に火災で全焼していました。昨年(2020年)7月に復元が完成して御目見えした門になります。 前回詳細 ⇒ 2020.07.27 金沢城 鼠多門・鼠多門橋鼠多門橋は門と同時期の創建と云われていましたが、江戸期には少なくとも3度以上の架け替えの記録が残っているそうです。明治10年(1878年)に老朽化により撤去されて以来、金谷出丸と玉泉院丸を隔てた堀が道路となったこともあり、142年間姿を消していました。鼠多門と共に今年7月に復元が完了。これまでは東の石川門が主要観光路でしたが、武家屋敷・近江町市場・尾山神社からの新たな観光連絡として期待されています。元々、玉泉院丸を囲む南西石垣は美しさで人気がありましたが、木々で覆われていた西側石垣も再整備されて上部石垣が組み直されています。もう少し歳月を経れば、右の南西石垣と馴染んでくると思われます。玉泉院丸庭園 泉水部嫁さんは登り降りは…

続きを読む

東町城(神岡城) 高原郷土館

高原郷土館入口 日当たりが良いせいか、城周りの紅葉は高木は散っていましたが外堀はきれいな紅葉でした。永禄7年(1564年)武田軍の支配下に置かれた江馬氏では、降伏した江馬輝盛は当主・時盛に替わって、越中松倉城攻めや高原郷の支城整備に東奔西走しています。北信・飛騨を任された山県昌景に防御能力の弱い江馬氏館を放棄させられ、越中・高山方向からの敵に対応するために将来の統治の本拠となる東町城の築城を命ぜられています。上宝道を見下ろすようにある東町城は小高い北面と西面を断崖とした要地になります。東町城址 外堀の紅葉天正13年(1585年)飛騨を攻略した金森長近によって、小山田小十郎なる人物が城代として入って高原郷を統治したと伝わります。元和元年(1615年)一国一城令により廃城破却されています。長らく農地として荒廃していましたが遺構の空堀・石垣・曲輪跡が地表に見られたと云われますが、昭和33年(1958年)も史跡指定を受けていましたが、昭和45年(1970年)に三井金属鉱業が神岡鉱山100周年として公園化して、模擬天守・模擬城門塀を建てています。高原郷土館(城が丘公園)は東町城址の敷地上に、二の丸に鉱山資料館・旧松葉家住宅(民俗資料館)、本丸最奥の石垣基壇上に神岡城模擬天守を建てて構成されています。整備事業を受けたものの遺構は以前のまま、空堀や石垣などは以前のまま残されていたそうです。上:東町城址 外堀東側中:右:外堀西側 外堀は土橋の両側と城寄りの土壁に20~30mほどまで石垣が施され、奥に見える住宅地の…

続きを読む

玉泉院丸庭園② 借景の石垣群

色紙短冊積石垣 玉泉院丸庭園北東面の借景。色違い・大きさの異なる石を組合せて積み上げた石垣。色も青・赤戸室石、そして黒は藩主親族のみの使用に限定された坪野石が使われています。綱紀時代に製作されたと予想されていますが、利常が築城した小松城天守台の石垣にも使用されており、鵜川石も使用され5色遣いでした。小松城石垣を手本にしています。段落ちの滝の水源にもなっていました。右上部に水口のような蛇口があり、水を落としていました。滝つぼと呼ばれる水の落ち口には玉石が敷かれていました。残念ながら水源がないために水落の再現はなされていません。惜しい。。元和9年(1623年)玉泉院が逝去し屋敷が撤去され、玉泉院丸と呼称されてから10年ほど後、寛永8年(1631年)加賀藩政期における四大火のひとつ寛永の大火が起きます。金沢城外南西部から出火した火事が強風であっという間に金沢城や金沢市街地を嘗め尽くしました。当時、金沢城内には水の手が少なく、堀も空堀に近いものだったと云われます。金沢城内の本丸の辰巳櫓が類焼、燃えるに任せたまま更に二の丸・三の丸と惨状を拡大して、中心部にかけて石垣も含め家臣屋敷も焼き尽くす大火となっていました。 火事の原因が藩士による色恋沙汰の放火ということも加わって、前田利常は家臣団の組織変更を含め、金沢城や城下町の町割り編成など大胆な修理と変更を加えています。特に本丸に天守替わりだった辰巳櫓を失ったことは大きく、本丸を放棄して政庁を移すために二の丸を拡大、二の丸と三の丸の間を整地して堀を北上させて4…

続きを読む

金沢城 鼠多門・鼠多門橋

尾山神社がある旧金谷出丸と金沢城の外丸の玉泉院丸を連結していた鼠多門橋。そして出入口となっていた鼠多門の復元が完成しました。鼠多門・鼠多門橋 同じく石垣を復元した北櫓跡から 往時は橋の幅いっぱいに堀となっていました。鼠多門は明治の写真2枚と遺構調査により忠実に再現されています。石垣部も残存石と3D加工石を組合せ、建物も釘を使わない伝統工法と、古式と現代建築の融合物です。橋は明治の老朽撤去の桁礎石を採用しています。当初の計画では年末完成予定でしたが、東京五輪の開催に合わせた完成に修正していましたが、予定通り7月初旬に完成しました。この完成によって金沢の顔となっている尾山神社から金沢城公園へ直接入れるようになりました。新しい観光コースと期待されています。7/18に一般公開と共に尾山神社・金沢城公園の共用が開始されたんですが、もう一つの朗報が外丸となる玉泉院丸庭園が無料開放になったこと^^国立工芸館正門&連結廊下上:旧陸軍金沢偕行社(明治42年(1909)築) 右:旧陸軍第九師団司令部庁舎(明治31年(1898)築)以前までの建物を知るせいで、あまりの綺麗な色目に驚き@@ 移築時の調査で判明した新築時の色に塗り直したそうです。もう一つ目玉となる東京国立近代美術館工芸館が金沢に移転する国立工芸館も、旧第九師団司令部庁舎と旧金沢偕行社の建物を移築改造して昨年秋には完成、建物および館内の完熟期間も終えて展示品が東京から搬入、ただ開館はコロナ対策もあって10月31日に延期となっています。それでも現在は目隠しとな…

続きを読む

金谷出丸 南面

尾山神社は金沢城の金谷出丸の地に創建されたものです。 金沢城は北の浅野川、南の犀川に囲まれ、東の小立野台地と自然の要害地に囲まれた城郭でした。特に搦め手の東は小立野台地の東端の千歳台(現・兼六園)とは大きな段丘の落差に百万石掘(白鳥堀)という最大幅・深度の堀が配されていました。南は台地の断崖に石垣と宮守堀(いもりぼり、復元堀は往時の半分幅)と二重の大障碍を設けていました。また大手(尾坂口)となる北側は城外よりも城の方が高台になり大手堀と百万石堀に匹敵する堀及び三の丸・二の丸と幾重の障碍が配されていました。尾山神社西神門よりところが堀は配されているものの西側は高低差が少なく、攻城軍の主力が配されるであろう平地が多い西側は、金沢城最大の弱点地とも云えました。城方の前線基地となる出丸が必要となり設けられたのが金谷出丸でした。江戸初期には金谷出丸の南(現在の広坂合同庁舎)にも外出丸があったと云われています。 延宝年間(1673~1681年)の詳細な金沢城図が残されています。              ⇒ 金沢城図(奥村家鎧袋内・箱入)(玉川図書館蔵)上が南、下が北、左が東で右が西になります。是非クリックしてみてください金沢城図は城構造や建造物を詳細記入、彩色した精緻な図絵で建物名称・主要室名も記し、辰巳用水から城内への通水水樋の埋設経路更に幹支線に渡り書かれたものです。ここまでの詳細図は珍しく、本来藩主格の持ち物で機密重要書類と想像されます。初期の金谷御殿が描かれているために加筆あるいは18世紀半ばと…

続きを読む

土山御坊③ 御峰城 

           御峰山 登山道 御峰城(土山城)は、天正12年(1584年)加賀の前田利家と対立した佐々成政が国境防御の城として築いた城になります。前・前々回でご紹介したように、半世紀以上前には一向宗の土山御坊があり、遺構が重なっています。元々あった杉浦家の屋敷周りにも空堀が掘られ、土塁が施されており、城と御坊の判別が付き難くなっています。また、土山への登山道になる南東面にも大規模で大きな削平や土塁が施されており、現在の家屋や道路は削平や土塁の盛り土面上を縫うように、施されたり建てられたりしています。この為、道が狭く曲がりくねったようになっています。                  御坊碑奥の土山城道標 事前下調べで主格部は御坊から、すぐ西面の山上ということで、嫁さんと娘を庭園において、山を登ることにしたのですが。。。林道の入り口には道標が、ところがこれに従ってひたすら林道を進むと、肝心な主郭には行きつけません。。 林道を進んで、猪・クマ用の罠や祠がありますが、そこまで進むと完全に行き過ぎです。まあ、その辺りも崖面を削った古い形跡は感じられますが。。。僕も完全に騙されて檻の近くまで行って、祠からの道は作業中で、引き返してきました。 御峰城(土山砦)登山口 実は主郭に向かう道の目印は水道メーター、ここになります。まさかと思って進んでみると右に大きな堀切が施された崖路に。。堀切の上面の険しい登りをあがると主郭部と云われる御峰山の頂上部の主郭部に出られます。   …

続きを読む

今年観た桜 山島の郷

ここに来て、最大の繁忙期を迎えながら、昨年よりは余裕があると、サボり気味に仕事をしていたら、またまた残務が。。営業人間には厳しい10連休が間近に迫って、泡喰っても後の祭りTT 前回の続きの芋掘り藤五郎②を書いていたんですが、調べ物をしてたら実は。。が出てきて、構想が崩れてグダグダに。。。で、半分諦め状態で。。。四苦八苦、、、まだまだ掛かりそう。。 今年も結局は車からの横眼で観る桜に終わってしまいました。連休は八重桜でも見に行こうかなとも思っていたんですが、嫁さんに実家の草刈りを命ぜられ汗流すことになりそうです。。 で、満開のソメイヨシノがあっちこっちで咲いていたのに、桜無し状態のブログは寂しいので。。。 昨年は曇天に最後は土砂降りの桜風景を載せました。。松南小学校 旧剣崎校舎跡(2018.04.06) さて今春の桜は、山島こども園の隣の広場にある桜並木です。昨年と違って晴れていますが、夕方近くで明るさが今一つですが、、、、 今年も結局、桜の下を歩けたのは一度だけになってしまいました。それも、昨年の松南(しょうなん)小学校に関連した場所。。まさか2年続きでお花見の場所が松南小学校・こども園絡みになるとは思いもしませんでした。。こうなったら来年は松南小学校の本校にしようかな^^;でも桜の木なんて在ったかなあ。。。。 この広場は旧山島村を記念した「山島の郷」、旧山島小学校の校庭広場から構成されています。平素は今年から山島こども園と改称した山島保育園の子供たちの遊び場にも…

続きを読む

②高山右近 前田利長時代

天正16年(1588年)加賀に来た高山右近でしたが、前田利家時代にはそのほとんどが大阪での前田利家の相談役、外征と金沢城の修復・町割りの整備にと大阪・金沢間往復に忙殺されたと云えます。畿内の先進的な築城術、利休七哲としての文化の素養による金沢文化の創設など、多岐に渡ったことが窺えます。 しかし、この間に忠節を尽くした右近の実績と信義は、利家の信頼と藩内でも重きをなしていったようです。 H21.11.01撮影 高岡城址 前田利長像 恩人ともいえる前田利家が亡くなったのは慶長4年(1599年)。跡を継いだ前田利長はやはり利休門下として高山右近とは元々が交際が深く、利長は重要な相談役として右近を重用することになります。 利長時代の執政は前ブログでも来ましたが、篠原一孝・横山長知・奥村栄明の三家老でした。この三人の中で横山長知(ながちか)が特に腹心的最側近となっていました。この横山長知と高山右近は加賀藩内で特に友好的な関係であったとされています。しかし、陪臣出身の横山家と客分の高山家(右近は客分ですが、長子・長房は利長家臣になっていたようです。)は、前田家旧臣からは嫉妬の眼で観られ、一部家臣団との確執があったようです。 いずこにもあることですが、創業者の家臣団と二代目・家臣団にはどうしても軋轢が発生します。前ブログで前田利長の失策としましたが、利家の遺言「三年は大阪・洛中に留まれ」を半年で帰国した事情には、徳川家康の謀略もありましたが、この人事の収拾も影響したようです。痛恨事はまとめ…

続きを読む

宮崎城址

平安末期から鎌倉初期にかけて、越中最東部・黒部川東部一帯を支配していたのが宮崎党でした。北陸宮の御所警護の名目で築かれたのが、城山(当時は八幡山、脇子山)山頂の宮崎城になります。 宮崎氏は藤原鎌足の末裔を称していますが、藤原氏荘園の代官的存在、そこから台頭した土着の豪族、在地領主だったと思われます。ちなみに、この黒部川東部には宮崎・入善・南保・佐味・大家庄・五箇荘などの荘園地があり、そこから発生した各在地領主が武士団となって、勢力争いを繰り返しながら、その中から宮崎党が台頭支配していったようです。 この地には、宮崎浦、泊、入善など良港があり、交易が行われていたと云われます。また信濃路からの貢納品や物資を送る、都への出向港にもなっており、その交易料は大きな収入源となっており、経済力と共に大きな武力も備えていったようです。 宮崎長康の出自は、前述の荘園のうち「大家庄」と云われています。大家庄は朝日ICの南、小川(名前は小川ですがけっこう大きい川です)の対岸にありました。田園の中の墓地に井口城址という石碑がありますが、そこが井口館跡とも云われています。井口氏は南北朝で桃井直常と共に名が出る家柄ですが、そこから東部に分家した各支族が派生したようです。後年の義仲上洛戦では、宮崎党は主力部隊として、その前哨戦となる礫城(火打城)の戦いでも、人造湖を造るほどの大掛かりな合戦でしたが、越前に出陣していますから早くから源義仲と誼みを通じていたようです。 これはあくまで一部の異説なのですが、越中国…

続きを読む

境関所② 境関所跡

現在は主要道路になる国道8号線は当然ながら江戸時代には存在せず、前回紹介した境一里塚横の海沿いの街道を500m程進んだ先に、境関所が明治2年(1869年)までありました。 現在は境関跡はほとんど痕跡はないのですが、旧境小学校の跡地と道路を挟んだ向かいの空き地と数軒の民家が境関跡に当たります。境関所は大きく分けると小学校跡地の岡番所と、向かいの空地及び民家と海辺までにあった浜番所。後で画像を紹介しますが境神社の階段を登って、更に国道を横切った先にある山を登ったところにある二つの御亭(おちん)と呼ばれた見張り所から構成されていました。境神社の境内が展望台になっており、境関所の全景が把握できます。 年ごとに強化されて規模の拡大・人員が増やされ、武器類も多く保有しており、その規模・人員・武器数は、有名な箱根の関所を上回る全国一といっても過言ではない厳重な関所でした。 古来から境には国境としての施設が置かれていたようで、古代朝廷では公務で。ここを通って境川を越えて行くときには、馬を用意したと云われています。馬匹の用意施設が当地にされていたのではないかと思われます。当地の文献として境関について名前と共に出て来るものとしては、資料館の年表に書かれていましたが、永正15年(1518年)伊達稙宗(伊達家14代当主、伊達政宗の曽祖父)が、当主就任の左京太夫任官にあたり朝廷御礼の使節派遣の際に、経費として「二百文。境川の関の庭立共に御酒の分」と記述されているそうです。 加賀藩としては前田利長在世…

続きを読む

舟岡山城

白山市の旧鶴来町は古くから白山巡礼の入り口的存在で、宿場的存在として古くから栄えた町です。また、加賀禅定道の起点となる加賀馬場となる白山比咩神社が鎮座することで知られています。 手取川の流れが作った細長い盆地と、獅子吼高原と呼ばれる急峻な高原がすぐ側に迫る特異な自然環境です。盆地の横の崖面は町を守るようにありますが、その端に舟の形のような台地になる孤峰があります。                                          清沢坊願得寺跡 H25.12.04撮影 戦国初中期、加賀国の実権を握っていたのは、加賀守護・富樫政親を高尾城に滅ぼした真宗勢力の賀州三ヶ寺(松岡寺(蓮綱、蓮如三男)、山田光教寺(蓮誓、蓮如四男)、二俣・若松本泉寺(蓮乗⇒蓮悟、蓮如次男⇒七男)でした。鶴来には蓮如の十男・実悟が本泉寺・蓮悟の養子となって清沢坊願得寺に置かれていました。この実悟が、加賀を「百姓が持ちたる国」と云った人物です。願得寺の名称は実如(蓮如の長男)から与えられたもので、実如は北陸に退避した蓮如に代わって近畿に残り、旧仏教・朝廷交渉を一身にになった人物です。早世しなければ確実な法主候補でした。というより晩期には法主的存在でした。真宗内では、実如から寺名を下賜されることはこの時点では蓮如以上に重要なものでした。 しかし実如の死後、本願寺内の内紛で能登・加賀・越前守護まで巻き込んだ享禄の錯乱(大小一揆)が起きます。しかし北陸真宗の最強軍団・山之内衆が大一揆側(本願寺・本覚寺・超勝…

続きを読む

大聖寺城址

加賀藩には幕末まで三つの支藩と近江の飛び領がありました。 元和2年(1616年)立藩した前田利家の五男・利孝の上野七日市藩1万石。 寛永16年(1639年)、三代藩主・前田利常が隠居した際に加賀藩の家督を長男・光高に譲り、富山10万石を次男・利次、加賀大聖寺7万石を三男・利治に分与・分藩しています。 意外に知られていませんが、この三藩以外に前田利家の時代から近江の今津(現・高島市今津町今津)に、今津村・弘川村・梅津村の二千五百石の飛び領が幕末まであり在地の任命代官が居ました。 大聖寺藩は現在の加賀市と小松の一部で構成されていました..開藩時は江沼郡133村と飛び地の越中新川郡9村で構成され、万治3年(1660年)に加賀藩との間で新川郡と能美6村(馬場・島・串・日末・松崎・佐美)を交換、矢田野の開墾で3村増えて幕末まで続きます。 その間に三代藩主・前田利直が弟・利昌に新田1万石を分与していますが、利昌が徳川綱吉の法会で乱心して奈良柳本藩主・織田秀親を刺殺するという事件を起こして新田藩が取り潰されていますが、新田1万石は大聖寺藩に返還されるという紆余曲折はありました。また9代利之(としゆき)の時代、高直しを行って10万石となり、幕末までを迎えています。 大聖寺には江戸期初期まで大聖寺城(錦城)がありましたが、一国一城令で廃城となっており、その後に立藩した大聖寺藩ではその麓を開削して、陣屋と藩邸を熊坂川と大聖寺川(旧大聖寺川)に囲まれた要害地に置いていました。現在の加賀聖城高校・錦城…

続きを読む

堅田城址

加賀と越中を結ぶ北国街道は旅人にとっては古来から大事な街道として機能していましたが、何といっても倶利伽羅峠という難所があるために交易路としては大きな難点になっていました。険しい道ではありますが、起伏が少なく大きな難所がないことで、越中との交易路として重視されたのが小原越道でした。 現在も北陸自動車道や国道304.359号、山側環状、国道159号など主要道路が交差して大きなICを構成する森本ICのように、往時も北国街道と小原越道が合流するのも、この森本の地になりました。また能登から津幡宿を経由する道も手前で北国街道に合流しますから、越中からの2街道と能登からの街道も重なり交通の要衝となっていました。 加賀と越中が本格的な戦闘を行ったのは倶利伽羅峠の源平合戦。ここから源義仲が松根城と共に築城したという伝承がありますが、倶利伽羅合戦以降は源義仲は加賀には長く留まらず進撃を速めていますから、その可能性は低いと思います。 更に時代が下って、越中の佐々成政と加賀・能登の前田利家が国境の多くの箇所で戦闘を行っています。余談になりますが、二人の立場や状況があったと思いますが、基本的には佐々軍が攻勢に出て加賀、能登への侵攻を行い、前田軍は徹底して防衛戦に徹した印象を受けます。 野外戦となった前田慶次城代の氷見の阿尾城、防衛戦に徹した奥村永福の末森城、同じく防衛戦を戦った前田秀継の今石動城などが良い例であり、撤退戦の不測時で発生した津幡の鳥越城の落城、朝日山城の佐々軍占拠という例外はありましたが、…

続きを読む

末次城址 (奥能登の城②)

松波城の支城となるのが末次城です。別名は地名から行延城とも呼ばれています。 築城年代は未詳ですが南北朝になるのではないかと云われています。 位置的には松波城から旧街道と云える国道249号線を4キロ程西に位置します。街道を見下ろす位置にあり出城の役目を十分に果たす存在です。また街道は末次城を巻くように続いており、街道と山城の間には木郎川と大杉谷川があり、天然の外堀になっていました。 典型的な山城の形態ですが標高50mと高さはありませんが、山肌を削って攻城兵の登りをきつくしています。東口の竪堀は特に急角度となっており、山頂までの登りのきつさを感じさせます。 本丸や六つの曲輪の一つ一つは大きくなく砦の規模のようですが、城域は大きく取っており標高30~50mの丘陵の三つの尾根を利用しており、その広さは東西360m・南北400mと広範囲に渡ります。尾根と云っても頂上部は高低差20メートルほどで尾根上の移動はけっこう楽にできています。搦め手道は尾根を迂回するように東口・狼煙台・曲輪を迂回するように山並の尾根を利用して各曲輪を結んでおり、南に出られるようにしています。 山頂は守備兵の俊敏な移動を重視し、山肌を堅固にして攻城兵を各個撃破することを狙ったようです。 上杉軍侵攻の際には松浪畠山家の配下武将・末次甚右衛門が主将となり、地元土豪を集めて抵抗していますが、松波城に先立って落城しています。ちなみに末次城の登山口にある家が末次家で、山頂にあった天神社を家の側において守り伝えているそう…

続きを読む

松波城址 (奥能登の城①)

毎夏、仕事の関係で輪島まで行くんですが、お仕事は午前中のみ。で、毎回、その後に能登観光をしています。 今夏は新幹線効果とまれ効果もあり、石川に来る人が多いようで海浜道路(のと里山海道)も車が多くて、いつもより時間が掛かっちゃいました。最初、仕事でつきあえないと同行を拒否していた嫁さんは、休みが取れたと云って一緒に来てくれたから、1人よりはおとなしい運転ということもあったみたい お天気は家を出るときは良かったんですが、能登に北上するごとに曇天にそしてポツポツ 天気予報は豪雨注意だったけど、そこは出かけると晴れ男の僕車を降りると雨がやむ僕輪島はず~~ッと曇天、ときおり太陽が観れました のと里山海道の高松SAで一休み ここまでは最高に良い天気・・・出がけに何も食べてなかったんで、おにぎりとお客さんにお土産 相変わらずですが、お客さんの家は朝市通りなので、海側の駐車場に車を停めて朝市通りを少し通るんですが、盆後ということで昨年よりお客さんは多く感じませんでしたが(いつもは盆前や祭りの前くらい)、僕が御客さんの家にいる間、朝市をウロウロしていた嫁さんが言うには、去年より賑わってるよ…

続きを読む

小松城址

小松城は江戸時代を通じて加賀の国に金沢城の支城として存続していた城です。 御存じのように江戸時代は一国一城令によって、加賀藩は金沢城を本城として、小松城も廃城になっていたのですが、加賀藩三代藩主・前田利常の隠居城として幕府から特別許可が下りて再興したものです。 小松城の最初の築城は通説では、天正4年(1576年)一向一揆衆の有力武将・若林長門守によるものとされています。ただ、明智軍記や小松軍記の記述にある朝倉義景・明智光秀の問答や記述からはそれ以前に小松の名が出ており、明智光秀が朝倉氏に係ったのは1560年代とされていますから、それ以前から小松に城もしくは砦、寺(北陸の本願寺の寺は城郭を兼ねた造りが多かったですから)があったと思われます。 ちなみに若林長門守は、越前朝倉氏が滅亡して(天正元年)織田軍の勢力圏になった後、土一揆の蜂起で一向宗の再占領になった天正2年に本願寺から越前・加賀に派遣された人物です。雑賀衆の一門と云われています。その後、織田信長の越前再侵攻(天正3年)にも前線に出ており、その後は小松城、鶴来の舟岡城の主将として転戦、最後は鳥越城に入るなど抵抗戦を主導した人物の一人です。 鳥越城攻略にに手間取った柴田勝家の謀略によって、松任城で鳥越城首脳が騙し討ちで殺害された際に命を落としています。なお、松任城で討たれた首脳や武将の内、数名の首が安土に送られ晒されていますが、若林長門守はその内の1名です。 前田利常が再興する以前の小松城に関しては、詳しい図…

続きを読む

津幡城址 為広塚 清水八幡神社

金沢市の北隣にある津幡町。現在は金沢市の衛星都市的な存在です。近年になって国道8号線・159号線のバイパス化で、主幹線道路が変わって西側を回るようになり、旧国道から商業地や住宅地が西方や北方の郊外に移り、元々の中央銀座商店街や津幡宿があったおやど商店街も少し寂しくなってきました。 この中央銀座商店街とおやど商店街が交差する四ツ角という交差点を北に真直ぐ行って、急な坂道を登った大西山と呼ばれた丘陵に津幡城がありました。城址の痕跡はほとんど見られませんが城址碑がある高台からは津幡の街並みがきれいに見渡せる場所です。 この丘陵には平成23年3月まで津幡小学校の校舎がありました。現在は新校舎が完成して東の麓に移り、現在は小学校グラウンドと記念庭園となっています。 何を隠そうこの津幡小学校は僕の母校になります。家庭的にはその後の人生を左右する良いことも悪いこともありました。校舎はなくなりましたが、それでも懐かしい母校に変わりはありません。 僕の小学2年の時に旧校舎が建ったのですが、県内初の4階建て鉄筋コンクリート造・床総アスタイル張りという近代型校舎でした。当然ながら田舎者だらけの子供達で、初めてのアスタイルにツルツル滑り、掃除には今まで見たこともなかったモップにワックスで大騒ぎになっていました。掃除のときはアステアやジーンケリー、ポパイとかの感じで遊んどりました^^ 旧校舎が新築された際には大幅な改修工事が施され、城の痕跡はほぼ無くなってしまいましたが、地中から人…

続きを読む

二曲城(ふとげじょう)

加賀一向一揆の最後の牙城として有名なのが「鳥越城」ですが、この鳥越城と連携して最後まで抵抗した城が「二曲城(ふとげじょう)」です。 鳥越城の規模が大きく有名すぎて支城扱いということもあり、更に発掘調査の開始が平成16年と近年になってからということもあり、影に隠れたように意外に知られていませんが、一向一揆の城としては最後まで抵抗した城として同等の評価があっても良いように思われる城です。 鳥越城の発掘物などを展示している「鳥越一向一揆歴史館」「道の駅・一向一揆の里」がある場所は、間に大日川が流れ、別宮から三坂峠まで南北を山岳に囲まれた盆地帯ですが、白山麓の一向宗徒の本拠地になっていました。 この地には鳥越・二曲城主で白山麓門徒(山内衆)の指揮官の鈴木出羽守の屋敷もあったそうです。 鈴木出羽守の屋敷があったとされる場所は、二曲城の登り口の左手に鳥越一向一揆の慰霊碑の横に建つ平吉庵がある場所だそうです。 現在は出合町となっていますが、応時は一向一揆館や二曲城の麓の上出合は二曲(ふとげ)とも呼ばれていました。 ちなみに「二曲」の由来は、美貌と優雅さで知られた鈴木出羽守の娘が立ち上がった際、長い髪が背を伝って下に降り、更に二曲り(ふたまがり)も溜まったということから来ているそうです。これは江戸期の十村役の書上げ帳に書かれているそうです。 鈴木出羽守に関しては資料が少なく詳細は多くありませんが、二曲が本貫とも本願寺が依頼して紀伊雑賀衆門徒から…

続きを読む

和田山城址

和田山城という名前を聞くと、城好きな人は今人気の天空の城・竹田城の別名と思われそうですが、今回の城は加賀の手取川南岸の丘陵地帯にあったお城です。 古代における石川県の中心地は手取川南岸から加賀温泉に広がる平野部であったと云われています。当時は加賀三湖や大小の湖沼が存在していましたので、現在の小松市街の旧8号線(現在の305号線)東部の加賀国府があったという古府町辺りから手取川南岸の寺井(現・能美市寺井)の平野部だと推測されています。 寺井や小松の西部を訪れると、なだらかに広がる平野が広く感じると思います。 その平野部にポツネンと標高50メートルほどの丘陵地帯があります。昭和の高度成長期に道路建設や住宅地の造成のために大きく削られてしまいましたが、この丘陵地帯に3~7世紀にかけての古墳が集積しています。 以前紹介した北陸最大の古墳・秋常山1号墳の秋常山、多くの武具が発見された和田山5号墳、40数基が発見発掘されている和田山・末寺山古墳群、同じく10基以上が確認されている寺井山古墳群などなど。。。元々、これらは同じ丘陵地でしたが、前述のとおり造成による掘削により大きく削られ、その際に更にあったと思われる古墳群が失われてしまったようです。 この大規模な古墳期・飛鳥期(3~7世紀)の円墳・方墳・前方後円墳・前方後方墳など、古墳の展覧会のような場所が存在するのですから、加賀の古代史の中心地はこの近辺だと推察されます。 この古墳群はまたの機会にご紹介したいと思いますが、史跡公園とし…

続きを読む

椿原天満宮(椿原山砦跡)

先日、南米から戻った家ニスタさんのブログを読んでいたら、久しぶりのお城巡りをされていました。 昔の古城巡りですから、薮の中になっていたり、城の敷地や構造を利用して神社やお寺に変わっているものもあり大苦戦したようです。 僕も城跡巡りは嫌いじゃないですから、幾つかまわっているのですが、やはり寺社や薮の中はよくあります。中には古墳を利用して造られた城もあり、古墳調査と保存で城の遺構が解り難いものまであります。 しばらく、お城巡りをしていなかったんですが、一番最近、行ったというか立ち寄ったのが、この椿原山砦跡。 現在は椿原天満宮になっているところです。 前田家の加賀藩時代には、金沢の町と城の鎮護と防衛拠点として、正式な神官だけが常駐している神社が五つ存在しました。金沢城を囲むように存在したこれらの神社は、宇多須神社、小坂神社、神明宮、椿原天満宮、安江八幡宮 それぞれが浅野川や犀川、卯辰山や小立野台地と云った重要拠点に配置されているのですが、地図で見ると五芒星の形に配されているようにも見えます。現在も金沢五社巡りとして、神社愛好家や観光客に人気のコースになっています。 それぞれを簡単に紹介すると、、、、 ★宇多須神社(江戸期は卯辰八幡宮)・・・金沢城から北東の東山茶屋街を入った所にある神社。東に卯辰山、南に浅野川がある要衝です。また、加賀藩の武家屋敷が多く存在した場所です。この神社は金沢城からは鬼門に当たるのですが、幕府に隠れて藩祖・前田利家を神霊として祀っていたことで知…

続きを読む

今江城址(御幸塚城)

前回の記事の浅井畷の合戦を書いた際、前田利長の別働隊が布陣していた城が今江城だとしたので、以前訪れているのでご紹介します。 今江城の別名・御幸塚(以前はみゆきづか、現在はごこうづか)の起源は、花山法皇(968-1008)がこの地に滞在中に、加賀三湖(今江潟・木場潟・柴山潟)を眺めるために近くの三湖台という丘に登ったことからこの辺りを御幸と名付けられたものです。花山法皇の伝承の足跡としては、近くの那谷寺の名にも残されています。 1960年代までこの城の西側には今江潟という湖が広がっていました。その大きさも結構大きくて、ここから小松空港までの間にありました。その後、干拓によって今は広い田園地帯になっています。城があった当時は側の湖を利用した堀に囲まれていたようでなかなか堅固な城の要素があり、加賀平野の要衝点ということで古くから重要視された城でした。 築城年ははっきりしませんが、富樫泰高が加賀守護職に初めて就いた辺りではないかと云われています。そうすると1441年以降となります。 この人物はなかなか波乱万丈の生涯を送っていて、加賀守護・富樫家の衰亡期を逞しくまたずるがしこく送っています。そもそも富樫泰高は守護職には縁がないはずでした。守護就任前は醍醐寺の修行僧で喝食(食事の報告係)をしていたという経歴があります。ところが守護だった兄・教家が室町幕府6代将軍・足利義教の不興を買って失脚した際に還俗して家督を継いだ曰くつ…

続きを読む

プラチナルート⑤ 帰雲城 ~ 長滝白山神社

7/18 白川郷で上越組と別れ僕達は156号線を南下、白鳥町に向かいます 東海北陸自動車道が出来たおかげで、観光客の車は高速に廻ってくれるので、国道も日曜ですが車も少なくすんなり走れます 白川郷からしばらく行くと「帰雲城」の文字を見つけて立ち寄りました 歴史好き・お城好きの人には有名なお城です。 室町・戦国時代、白川郷を治めていたのは内ヶ島氏という一族でした。 内ヶ島氏は飛騨の金山を採掘管理をしていて裕福な一族として知られていました。古くは足利義政の銀閣寺、織田信長の安土城、豊臣秀吉の大阪城の建築予算の多くは内ヶ島氏が負ったといわれています。 秀吉の越中の佐々征伐では佐々成政の援軍として従軍しましたが、その後秀吉に帰順して許され、本城である帰雲城に帰っていました。しかし3ヵ月後、天正の大地震で帰雲山が崩壊、庄川を塞ぎ山津波で一族郎党・城・城下町が全滅消滅してしまいました。ちなみにこの日は城中で本領安堵を祝って宴の真っ最中で、一族郎党が集まっていたそうで、生存者は他国に使者として出ていた4人のみと云われています。 長い日本史の中で、自然災害でひとつの城下町が一夜で消滅したのはここだけです。この城址碑の向こう、東の山肌には現在も崩落の爪あとが見られます。別名日本のポンペイとも言えます。 戦国期…

続きを読む

最近のコメント

「雑記 前回の補足」- by つとつと (06/14)

「雑記 前回の補足」- by つとつと (06/14)

「金沢大学 フレスコ画」- by つとつと (06/14)

「雑記 前回の補足」- by tor (06/13)

「雑記 前回の補足」- by がにちゃん (06/13)