木製笠塔婆 金沢市埋蔵文化財センター

今月14日、北金沢の千田町から画期的な発見がなされたことが発表されました。 木製の笠塔婆が発見されたのは国内2例目。ところが今回の発見が画期的なのは、梵字が金箔で描かれており、その金箔が残っていたことにあります。そもそも木製品が腐らずに残るのも奇跡的ですが、漆や金箔が残されているというのは、画期的というよりもう奇跡としか言いようがありません。 ちなみに木製笠塔婆の国内初の発見は、平成19年(2007年)奥能登の野々江本江寺跡遺跡で、平安末期の物とされています。ちなみに本江寺は小さな寺院ながら明治まであった寺院でした。珠洲市の飯田高校から東に2キロ弱の金川という河川の段丘上にありました。古くは平安末期から室町にかけては真言宗寺院と江戸期には伝わっていました。(石川県文化財、笠塔婆の竿(支柱)2・笠塔婆の額・板碑) ⇒ 野々江本江寺遺跡出土品(石川県HP) リンクを見て貰えば分かりますが、非常に簡素なもので笠塔婆と言っても、板棒に近い造りです。それでも竿丈は2mの長さがある大きなもの。 千田町で発見された笠塔婆はTVの映像を見ると、額がはっきりある様子。。これは見たい^^/しかも公開場所は、車で15分くらい。。 しかも日曜だけど午前中は仕事で、津幡に用事があるから千田町にも寄って行けるし、公開時間にもバッチリ^^V 発見された場所は全くの偶然の産物。。白山市から金沢の西側(海側)を縦貫する海側バイパス道路。片側2車線化を施しながら浅野川の手前・大河端まで延伸しています。県や金…

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秋常山古墳

今年は豪雪があって、花の開花や満開は遅れるだろうと、内心期待していましたが、、案に反してあっという間に咲いてあっという間に桜が散り、バタバタしているうちにアヤメは見逃すし、家庭内事情で紫陽花も観に行けず。。。車の窓から見る花ばかり。。ここまで、今年は花とは縁がないかと諦めていたんですが、6月に秋常山に紫陽花を植栽したという情報を聞いて見に行ったのに、アップしないまま1カ月。。。 たまたまニュースで秋常山古墳に紫陽花3000株を植栽したと聞きまして、夕方になってしまいましたが、秋常山の古墳も一年近くご無沙汰ということで、一人で行ってきました。嫁さんが昨年に続いて今年も負傷して歩けなくて、、、娘に行こうと云ったら拒否。。ここ2カ月ちょっと、家族では買い物以外どこも行ってないなあ><;まあ、嫁さんもギプスが外れて復活基調。。しばらくしたら、気分転換でどこかに旅行がしたいなあ。。 今更と云われそうですが、その時の画像を。。。 3000株というと、けっこうな数なんですが、秋常山古墳は名前の通り、古墳自体大きいうえに小山の上にあるので、紫陽花の範囲は広くは見えません。しかも時期が遅れて、しかも陽射しの当たる場所、咲いているのは約半分。。しかも時刻も夕方、紫陽花の花も陽射しで疲れた感じでした。来年はもっと早く来ないといけませんねえ^^;場所は2号墳に登る坂道になります。 秋常山古墳群といっても二基の古墳から構成されるのですが、実際にはもう一つ隣に稲葉山という山に大型古墳があっ…

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雨の宮古墳群

すっかりブログが停止して、ご訪問もせず申し訳ありません。 毎年2月から4月にかけては仕事のかき入れ時で絶対にさぼれない時期に突入しています。 ところがご存知の如く2月初旬から中旬が大雪で交通マヒ状態で動けず、豪雪によって多くの家や車に被害が発生。。おかげでトラブル処理に忙殺、雪が消えた3月には家屋の破損が解る状態で、契約や更新、変更で大変な時期にさらなるトラブル処理、ブログを書き始めるとのめり込むので、ログインしないと決めて勝手な休止状態になってしまいました。この2月から引きずり込まれたトラブルはGWまでは引きずりそうです。。まだまだ、温かい眼で観てください。。おかげで、好きなスポットにもなかなか立ち寄れず、咲き始めた桜も満開の桜も横目で見るだけの生活。。(ため息) とはいえ、ストレスを解消するにはやはり好きな場所に佇むのが一番。山城や古墳など木や草に覆われる場所は冬枯れの3月初旬が地形や形が見えて、最高の時季なのです。合間にはちょこっと立ち寄りたい衝動に駆られてしまいます。たまにはおサボりタイムも欲しいですからねえ。。。 能登半島は日本海に突き出ており、様々な形態の海岸線や年中波静かな七尾湾、深海が陸に迫る好漁場の富山湾と海に恵まれた土地柄です。海に突き出た好位置のために古代から東北・九州の交易の中継港、大陸の朝鮮・渤海などとの交易や親善使節の港があったことが知られています。以前ご紹介した福浦湊(福良津)はその代表のような港です。 しかし、港としての好条件な土地ですが、海岸線を…

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チカモリ遺跡~縄文ワールド

金沢にある国史跡「チカモリ遺跡」は縄文末期(BC3000~2300年)から晩期にかけての集落遺跡になります。 チカモリ遺跡のある金沢市の西南部に当たる場所は、近くには同時期の遺跡で土器・石器が1万点近く出土した環濠集落の御経塚遺跡、弥生期の遺跡から続いて庄家(奈良期?)・初期荘園(平安初期~鎌倉中期)となり多くの木簡が発掘された東大寺領荘園の三宅(今でいう管理事務所)があった横江庄・上荒屋遺跡が近くになります。他にも縄文・弥生期の遺跡を含め戦国中期まで近隣に遺構が多くあり、加賀の中心的存在地の一つとして連綿と発展を続けた地でもあります。 左:チカモリ遺跡史跡公園 H24.4.20撮影 下:東大寺領横江庄跡(東庄)・上荒屋遺跡 H24.9.20撮影 このチカモリ遺跡を含む地域は手取川・犀川によって構成された扇状地で、水分を多く含んだ土壌と水脈が地下にあるために、柱跡が390、それと木柱の底部である木柱根が295本も発掘されたのです。遺跡の発掘現場を観たことのある人は解ると思いますが、通常は柱跡などは木柱は腐って土となって柱の跡として穴だけが残る場合が多いのです。この遺跡は、掘れば水が出る悪条件ながら、柱の底部とはいえ水にパックされ保存されたことで木柱が数多く発掘された貴重な例にもなります。 上荒屋遺跡ではこの豊富な水脈を利用した舟輸送用の運河が確認されています。 元々、チカモリ遺跡は昭和29年(1954年)の調査には縄文土器が発掘されていて、縄…

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古九谷の里~九谷焼窯跡展示館

石川県を代表する色絵磁器・九谷焼、時代ごとや先駆者によって開発改良で特徴が変わっていますが、華やかさに定評があって人気を得ています。 九谷焼の始まりは、寛永17年(1640年)頃、大聖寺藩始祖・前田利治が、山中温泉の奥地(九谷)に良質の陶土を発見したことから、殖産業振興のために藩士・後藤才次郎を有田に派遣して製法を学ばせて、明暦年間(1655年)に後藤才次郎が帰国後に九谷の地に開窯(九谷初窯)したのが始まりと云われ、同年、初期のの作陶の花瓶(田村権左衛門銘)を当地の九谷八幡宮(現・三柱神社)に奉納したというのが九谷焼の創始と云われています。(画像はH24.9.29) 現在の三柱神社は、九谷ダム建設による離町後の平成12年(2000年)に再建されたものです。九谷町はダム建設によって離町を余儀なくされましたが、九谷初窯・吉田屋窯跡が国指定史跡に指定されたことから、九谷の里としてダム湖(五彩湖)計画が変更され建物や町民はいませんが大部分が残されています。(画像はH24.9.29) 九谷の地名の由来ですが、最古の九谷の名が出てくるのは文明18年(1486年)浄土真宗・蓮如の四男・蓮誓が九谷坊を開基したという記録がありますが、古来から山中温泉の中心地を一番にして、西の谷村と呼ばれる地区を隣接する柏野が2番、柏野は以前紹介したことのある柏野の大杉のある所です。その先の今はダム湖の下ですが我谷が3番といった具合に、奥に向かって村落に番号が振られていました。九谷は名前の通り、最奥の九番目の谷にあ…

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舟岡山城

白山市の旧鶴来町は古くから白山巡礼の入り口的存在で、宿場的存在として古くから栄えた町です。また、加賀禅定道の起点となる加賀馬場となる白山比咩神社が鎮座することで知られています。 手取川の流れが作った細長い盆地と、獅子吼高原と呼ばれる急峻な高原がすぐ側に迫る特異な自然環境です。盆地の横の崖面は町を守るようにありますが、その端に舟の形のような台地になる孤峰があります。                                          清沢坊願得寺跡 H25.12.04撮影 戦国初中期、加賀国の実権を握っていたのは、加賀守護・富樫政親を高尾城に滅ぼした真宗勢力の賀州三ヶ寺(松岡寺(蓮綱、蓮如三男)、山田光教寺(蓮誓、蓮如四男)、二俣・若松本泉寺(蓮乗⇒蓮悟、蓮如次男⇒七男)でした。鶴来には蓮如の十男・実悟が本泉寺・蓮悟の養子となって清沢坊願得寺に置かれていました。この実悟が、加賀を「百姓が持ちたる国」と云った人物です。願得寺の名称は実如(蓮如の長男)から与えられたもので、実如は北陸に退避した蓮如に代わって近畿に残り、旧仏教・朝廷交渉を一身にになった人物です。早世しなければ確実な法主候補でした。というより晩期には法主的存在でした。真宗内では、実如から寺名を下賜されることはこの時点では蓮如以上に重要なものでした。 しかし実如の死後、本願寺内の内紛で能登・加賀・越前守護まで巻き込んだ享禄の錯乱(大小一揆)が起きます。しかし北陸真宗の最強軍団・山之内衆が大一揆側(本願寺・本覚寺・超勝…

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大聖寺関所跡

加賀藩は分藩した大聖寺藩7万石・富山藩10万石を含めると120万石の大藩でした。 その分国は能登・加賀・越中・飛騨の一部と広範囲に及び、国境の警備防衛・特産品の流出・不審者の流入・民の逃散には気を使っていました。このために、多くの口留番所を設置していました。 関所というのは元々は防衛目的が主務で、古代には武器庫と軍票を常備したもので、中世の出城の要素が強い物でした。 中世になると寺社・貴族・守護などが関銭目的の関所を設けて通行規制を行いました。あまりの乱立に通行税が高騰して、流通には大きな支障をきたしました。これを撤廃して商業流通を活発にして町を発展させ、大きな軍費の獲得と神速の移動を可能にしたのが織田信長でした。ただし関所を撤廃したために、通行が自由になりすぎて明智光秀の急襲を受けて本能寺の変を招いています。もし、丹波から京都にかけて関所があれば、そう簡単に明智軍が京に侵入を果たせなかったはずです。そういう功罪が関所にはありました。 信長の跡を継いだ豊臣秀吉も商業重視で関所を撤廃しています。 徳川幕府は両者の功罪から、江戸防衛の面から関所を53カ所設置していました。有名な所では東海道の箱根関、中山道の碓氷関、甲州街道の小仏関、日光街道の栗橋関、北国街道の関川関が有名です。主要道に配置された関所は、初期は江戸防衛の立場からでしたが、「入鉄砲出女」という言葉の通り、江戸での武器使用が可能な鉄砲持込みの規制、江戸屋敷からの大名の妻の勝手な帰国の阻止も役目になっていました。 前述…

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碁石ヶ峰

能登には平野が少ないのですが、といっても半島特有で高山は少なく100~200m前後の山が尾根となって続く地形になります。当然ながら、山並のなかの盆地や海岸沿いに町があります。 100~200m程の尾根が続く中で、500m前後程の高山が幾つかあります。奥能登では高州山(567m)・鉢伏山(544m)・宝立山(469m)、七尾・鹿島の中能登には碁石ヶ峰(461m)・石動山(564m)、かほく市・羽咋の口能登では宝達山(637m)が400mを越す代表的な高山になります。 山岳が多いことから山岳修験の場になっており、石動山を代表とするような山岳信仰の修行地や山岳を主祭神として山頂に神社を置くものが多く見られます。 宝達山から石動山にかけて南北に尾根が続く宝達丘陵ですが、その中に石動山よりに碁石ヶ峰があります。 この碁石ヶ峰の辺りは険しい峠道が示すように急崖地帯になっています。しかし所々に太古の断層運動によって構成された台地があり、同じ断層運動によってできた原山大池の辺りはまるで高原の一画ような風光明媚さがあります。 この景観の良さから、石川県内では5公園ある県立自然公園(山中・大日山、獅子吼・手取、碁石ヶ峰、白山一里野、医王山)に選定されています。 碁石ヶ峰の頂上付近には自動車でも行けますが、ハイキングコースも整備されていて、ちょっとハードなハイキングコースと思って頂ければ幸いです。山頂は羽咋市・中能登町・富山氷見市の境界点にもなっています。 碁石ヶ峰の名の由来は幾つかあ…

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和田山古墳群(能美古墳群)

能美丘陵地は加賀平野の真ん中に忽然と在った丘陵地です。 以前紹介した秋常山古墳や和田山城はこの丘陵地を利用して造られたものです。 能美の丘陵地は古くから古墳が多く存在し、3~7世紀の古墳時代全般に渡る物で、方墳・円墳・前方後円墳・前方後方墳・周溝墓等々、多種多様な古墳が存在しています。しかし、戦後の市街造成によって大きく掘削されて多くの丘陵が失われています。地元の方なら地名で分かると思いますが、三道山・九谷・寺井町の大部分は丘陵を掘削してできた新興地です。もしそのまま残されていれば、貴重な古墳地帯として、計り知れないものがあったと思います。それでも、現在は60程の古墳が残っています。 その中で比較的多くの古墳が残されているのが和田山古墳群になります。 確認済みが23基、掘削されて消滅したのが4基で、19基が国指定史跡として現存しています。前述の和田山城はこの古墳群(8・9・11・14号墳)を利用して造作されたものですが、古墳・出土物の調査が進められており、3年前(平成23年)には23号墳から出土した須恵器(壺・高杯)から「未」「二年」の文字が再確認されています。共に年数を表すのではないかと推測されていますが、この文字発見は須恵器に記されたものとしては、これまで堺市・野々井古墳出土の6世紀初頭の破片が最古と云われていましたが、それを更新したことになります。 23号墓は昭和52年(1977年)に見つかった5世紀末の円墳ですが、周溝から整然と並べられた46個の有蓋高坏と器台に乗せた脚付壷が…

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法皇山横穴古墳群

加賀市には古代には江沼の地と呼ばれていましたが、古墳時代から開けていたようで多くの遺跡があります。 特に狐山古墳からは皇族・王族クラスの装飾品が発掘されて注目されています。狐山古墳は外観しか見たことがないので、再訪したらまたUPするつもりです。 狐山古墳の近辺は以前UPした花山法皇の所縁や伝説が多い場所でもあります。法皇所縁の名前のある勅使町(てしまち)の交差点からすぐの場所にも、花山法皇の伝承が残る法皇山という標高30mほどの小さな山があります。伝承では法皇の財物をこの山に隠し埋めたと云われていました。実際にはそのようなものはなく、法皇を信奉する地ですから手を加えられることも少なかったようです。 その法皇山には古くから洞窟があることは知られ古い墓だとも解っていました。大正期に本格的な調査の手が入って、大規模な横穴の集合墓であることが確認されました。その後、地元の大聖寺高校などの調査が入り、昭和初期に国指定史跡「法皇山横穴古墳群」の指定を受けています。 史跡指定と共に史跡公園整備として昭和42年からの2年間で本格的な調査発掘が行われたのですが、特筆すべきはその横穴の数で、調査により開口したもので77基、確認未開口が5基、合せて82基が確認されています。 発掘調査は主に法皇山の山裾に集中している為、未調査の山中を合わせれば200~300があると推測されています。太平洋側では埼玉県の吉見百穴が有名ですが、この規模の数は日本海側では最大規模のものです。 法皇山は凝灰岩で出来た岩山…

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尾小屋鉱山資料館(尾小屋マインロード)

以前、ご紹介した十二ヶ滝のある郷谷川を横目に観ながら上流に進むと、尾小屋鉱山資料館と鉱山跡を巡ることができる尾小屋マインロードがあります。 尾小屋鉱山は江戸時代から続いた鉱山です。 天和年代(1680年頃)から加賀藩が金の採掘を試験的に始め、宝永年間(1704年頃)になって加賀藩が本格的に採掘を始めましたが、量・質的にも良質とは言えずあまり重要視されていませんでした。 明治13年(1880年)、加賀藩八家老の一つ・横山家の10代当主・横山隆平(よこやまたかひら)・隆興兄弟が経営参入、鉱山開発に乗り出し、翌年に銅の優良鉱脈を発見して隆盛しました。(名義的に当主の隆平、鉱山実務を鉱山長として隆興が行ったと云われています。) 洪水などで苦戦した時期もありましたが近代装備を導入して乗り越え、銅の精製も行い粗銅生産量は明治36年(1903年)には生産量が1000トンを超えて、当時の日本一の銅生産量を誇るほどに隆盛しました。全盛期の大正8.9年(1919年)には2000トンを超え、山間の町には鉱夫数1700人超・人口5000人超が存在し、小松から尾小屋を繋ぐ尾小屋鉄道が開通しました。 横山家の鉱山事業部は金沢(現・金沢市大手町)に置かれていました。 明治期の石川県には繊維工場などの女性労働力をメインにしたものが多かったのですが、男性労働力をメインにした鉱山事業は北陸では特筆されるもので、前出の横山隆平・隆興・章(隆平の次男の子)などは北陸の鉱山王と呼ばれ、他鉱山の買収、尾小屋鉄道、加州…

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末松廃寺跡史跡公園

夏場に外回りの営業をしていると、日差しに負けて休憩場所が欲しくなります。お昼ご飯を食べるにしても炎天下よりも日陰が恋しくなります。営業や配送業務、工事資材の運送など車で動く人間にとって、夏の日陰は貴重な存在です。でも、住宅路や通園・通学路では駐車していると不審者扱いにされたり、駐車違反の注意を受けたりします。外回りの人にとって、だれにも邪険にされず、逆に迷惑を掛けない日陰の場所は貴重な存在です。 道路が拡充され住宅地が増えれば留める場所はますます減りますし、商業地が増えれば確かに駐車場は多くなるけど炎天下の日差しの下がほとんどです。緑の木陰に車を停めてのんびりできる場所はなかなか見つかりません。それでも、必要に迫られれば見つけるのが人間です。 木が多い神社なんかは最高の憩いの場になりますが、小さな神社では1.2台がせいぜいで、先客がいるとがっかりすることが多いものです。 そんななかで、商業地や住宅街近くでも、少し外れれば外回りの車が集まる場所があります。今回の末松廃寺跡もそんな隠れた穴場です。この史跡公園の駐車場は周りの木がせり出していて木陰が出来ているし、駐車場が砂利敷きで、アスファルトみたいに照り返しや熱が篭らない。。おかげでエアコンの為にエンジンをかける必要もありません。。車人間にとっては最高の場所です。気持ち良すぎて、ついつい眠り込んで、ハッとしたことも数知れず。。 場所的に歩いて訪れるところとしては距離があるし、意外に公園を訪れる人が少ないんですが、県内でも大規模な飛鳥時…

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富樫館 堀跡

以前、高尾城址の記事で紹介したように、多くの教科書などには1488年に守護の富樫政親が倒され、加賀は一向一揆の「百姓の持ちたる国」などと書かれていますが、実際には加賀守護の富樫家は存続していて、実権は本願寺にありましたが、守護としての富樫家はそれなりの尊重を受け、一種の協調体制をとっていたようです。 http://72469241.at.webry.info/201210/article_5.html 1531年に守護追放がありましたが、実際には守護の二男・富樫晴貞が継ぎ富樫家は守護職待遇として存続していて1570年まで続いています。 その加賀守護家が本拠を構え政務を執っていたのが「富樫館」と呼ばれたこの場所です。以前から江戸時代の文献や古図からこの辺りではないかと推定されていたのですが、平成6年(1994年)の発掘調査によってⅤ字形の幅6メートル・深さ2.5メートルの大規模な堀跡や白磁器・鏡が発見され特定されました。特に鏡は奈良の法隆寺に奉納された物と同じものだそうです。古図や測量図から館の規模は1.5町四方(164メートル四方)在ったとされています。 写真で解るように空き地奥の窪みが堀跡で、その向こうの家からが館跡とされています。なぜに今まで特定できなかったかといえば、富樫家亡きあとは中心地が野々市から金沢御坊(金沢城)に移り荒廃したことと、江戸末期から明治初期にかけて野々市全域に大火を浴び、その後の急激な住宅化が進んでしまったことがあります。現在も館跡と推定される部分は住宅…

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桜町遺跡

昭和63年に国道8号線の増幅工事に伴って発見されたのがこの「桜町遺跡」です。以前から縄文遺跡があることは予測されていて、前々年に行われた試掘では1万2千年前の縄文草創期から2千年前の晩期までの縄文時代を通じての重層遺跡だということが解っていました。 金沢方向から国道8号線の源平トンネル・小矢部トンネルを抜けた辺りから道の駅「メルヘンおやべ」の辺りが桜町遺跡の縄文時代の遺跡だとされています。 桜町の交差点辺りが縄文初期の遺構で、その後石川に向かって中・晩期の遺構が谷川に沿って広がって行ったようです。中後期には石川にもある環濠型遺構や同種の土器・北陸特有のウッドサークルが発見されて交流が伺えます。 この「桜町遺跡」が一躍注目されたのは、平成9年の第2期発掘で2300年前の高床式建物跡の遺構と加工された柱材が発見されたからです。それまでの定説では大陸から米作と共に弥生後期に高床式建物が伝えられたと考えられていました。ところが定説を2000年も上回る縄文晩期に高床式建物が存在したことが確認され、同時期に日本各地の縄文遺跡から稲の痕跡が確認され定説が大きく変わったきっかけになりました。 その後も籠・笊の発見、漆塗の土器、祭祀用と思われる彫刻装飾の柱などの発見、Y字に加工された謎の木材の発見。その意味でも縄文全期を通じる遺跡としてまだまだ新発見を期待されています。 桜町の交差点を右折したところに「桜町JOMONパーク」があります。 これまでの土器・石器・装飾木柱など発掘品の一部…

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須夷蝦夷穴古墳(すそえぞあなこふん)

能登島の南西部の高台にある古墳です。 この古墳は古墳終末期の7世紀中頃に作られた物です。葬られていた人は不明です。 縦17.1m・横18.7mの方墳です。玄室を二つ持っており、通路や奥で横長になる玄室には、近くの海岸で採れる安山岩が床・壁・天井に張り巡らされています。特に左の雌穴と呼ばれる玄室には棺を乗せたであろう棺台が作られていました。天井がドーム型など、このような造りの古墳は国内では類例がなく、朝鮮の高句麗に多く見られるものだそうです。雌穴から出土した鉄斧も朝鮮半島に多い物です。 7世紀中頃と云えば、乙巳の変(大化の改新)を代表するように、聖徳太子・蘇我物部などの飛鳥から天智・天武の時代など日本が大きく激動した時代です。中国では618年に隋が滅び唐が興り、同じく朝鮮も百済660年・高句麗668年と滅亡するなど東アジアの激動期にあたります。そんな時に能登島にこのような古墳が築かれたのは興味深い事です。 現在の七尾港には古代においては鹿嶋津といわれる海軍基地が置かれていましたが、その対岸にあたる能登島。その高台から鹿嶋津を見渡すような場所。更に当時、能登は羽咋にある「汀の正倉院」と云われる寺家遺跡・福浦湊は高句麗後の渤海との交流が顕著ですが、能登の古墳群は西側に集中しており東に当たる能登島に朝鮮式の古墳が存在するのも謎が多く残っています。 この古墳は昭和まで玄室が露わになるなど荒廃していましたが、平成になって復元・整備が薦められました。現在は国指定史跡として遺跡公園としてなか…

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内灘海岸 着弾地観測棟遺跡

内灘砂丘は鳥取砂丘に次ぐ距離・面積を誇る砂丘地帯です。 そんな砂丘地の町(当時は内灘村)で起こった「内灘闘争」をご存知でしょうか? 昭和25年に起こった朝鮮戦争により参戦した米軍は軍需物資・砲弾の補充に迫られ、日本国内で製造した特需砲弾使用の実験試射場が必要になり、当時の吉田内閣に対して日米安保条約を盾に演習場の接収を要求しました。候補は静岡の御前崎・石川の内灘でした。 昭和27年9月、政府は内灘に決定発表しました。地元村民が猛反発で県庁に押し掛ける騒動となりました。 12月に政府は4か月の期間限定を条件に接収を開始、28年3月に試射が開始されました。ところが例のバカヤロウ解散後、県選挙では反対派が勝利しましたが、政府は漁業補償を条件に永久使用を閣議決定・使用強行を発表しました。 これを機に反対住民が試射場での座込み・学生デモ・北鉄労組の軍需物資輸送拒否ストと反対運動は過激化しました。全国からも応援が駆け付けたそうです。 しかし地元利益を主張する条件闘争の支持グループも多く出て、闘争は住民を2分した形になって複雑化していきました。 当時は朝鮮特需の成長期で、政府の説得(試射場が景気を支えている。)や条件闘争派(愛村同志会)の地元利益優先活動により、最終的には内灘村は3年間の使用認可で妥結し反対闘争は終結しました。 ちなみに条件となった町村事業の保証金・見舞金総額は22億4千万円。当時の内灘村の予算が2千万円ですからその代償は大きい物でした。 この数字をどう見るかは見解が分か…

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安宅の関址

安宅住吉神社の敷地には「安宅の関址」があります。 能・文楽の「安宅」・歌舞伎の「勧進帳」で有名です。奥羽逃避行中の義経・弁慶一行12名と関守・富樫との問答など人気技芸です。その舞台がここになります。弁慶たちの難関突破にちなみ、安宅住吉神社は学業やスポーツなど受験生・選手などに人気があります。 弁慶の智勇・富樫の情・義経の忍として昔より人気があり、義経記などの読み物・能・文楽・歌舞伎と共に多くの俳人や作家の題材に成っています。 特に歌舞伎は200年以上の歴史の「お旅まつり」の曳山子供歌舞伎・全国子供歌舞伎・秋の中学生勧進帳など小松は歌舞伎の町に成っています。平成16年には本格的な歌舞伎舞台を持つ「芸術劇場うらら」も開館しています。こけら落としには市川団十郎が弁慶、坂東三津五郎が富樫、中村芝雀が義経を演じ、安宅の関公園の入り口にある「勧進帳ものがたり館」に3人が演じた際の衣装が展示されています。 安宅の関の入り口は神社を廻り込んだ海辺にあり大きな門が目印ですが、この門を潜るとすぐ左手に歌舞伎「勧進帳」の像があります。 この像は昭和41年に造られた物ですが、当初は弁慶と富樫の2体でした。平成7年に作者の都賀田勇馬氏の息子によって義経像が作られました。 弁慶と富樫にはモデルがいて、弁慶は七代目松本幸四郎(現市川団十郎・松本幸四郎の祖父、海老蔵・染五郎の曽祖父)富樫は二代目市川左団次です。 像の前を登ると義経と富樫を祀った「関ノ宮」ちなみに右が義経で左が富樫です。ここをさらに登…

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諏訪館庭園跡 一乗谷

一乗谷は4つの庭園が国の名勝に指定されています。「館跡庭園」「湯殿跡庭園」「南陽寺跡庭園」「諏訪館庭園跡」がこれにあたります。 朝倉氏滅亡後、「館跡庭園」以外は地表に残っていたものです。 その中で規模の大きなものが「諏訪館庭園跡」です。 この庭園は2140㎡。朝倉屋敷跡の3分の1の大きさを誇ります。 4段組みの滝と滝副石組、楓の古木、は美しい配置です。 滝副石の最大なものは4m以上で日本最大の物です。石には文字が彫ってありますが、これは朝倉宗滴・貞景・孝景の法名で、江戸末期に掘られたものです。ちょっと無粋と思ったのは僕だけ? これほどの豪勢な庭園を持つ館の主は朝倉義景の4人目の側室で小少将です。義景は彼女に夜も昼も溺れ込んだと云われ、傾城の美女として、義景が政治から遠ざかった原因の一つとされています。後日談ですが、義景は一乗谷から落ちる際、自刃した大野六坊賢松寺にもわざわざ連れて行っています。 そんな彼女ですが、義景との間に男子「愛王丸」を授かりましたが、義景死後に捕えられ護送途中、信長の命により親子共々虐殺されたと云われています。 旅行日 2010.11.07

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一乗谷朝倉氏遺跡

復元町並みの正面から川を渡った場所に朝倉義景の館跡があります。発掘以前は朝倉義景の菩提寺として「正雲院」と呼ばれる寺院が建っていましたが、現在は福井市内の心月寺に移転統一されています。 入り口には朝倉遺跡の紹介写真で有名な唐門。豊臣秀吉が朝倉義景の菩提の為に寄進したと云われています。表上部に朝倉家の「三ツ木瓜紋」裏には豊臣家の「五三の桐紋」があります。現在建っているのは江戸中期に福井藩主によって建て替えられた物だそうです。 土塁と濠に囲まれた敷地は6400㎡で17棟の建物が確認されています。門をくぐるとその広さには驚きます。 また主殿跡からは日本最古の10m程の花壇も発掘されています。花粉調査から菊・百合・油菜の花が植えられていたようです。いくつか草木を植えて再現していました。一番上の写真の中央右斜め下の長方形の部分です。 主殿脇から木立の中に入ると朝倉義景の墓があります。 元々は天正4年に地元農民が小さな祠を建てたのが始まりですが、江戸初期に福井藩主によって現在の墓塔が建てられたそうです。何となく古びた墓と薄暗がりに栄枯盛衰を感じます。 大野にも義景の墓がありますが、これは江戸中期に子孫によって作られたそうです。朝倉義景は身内の朝倉景鏡によって自刃に追い込まれ、その首は京で獄門に晒されましたが、首も遺体もその後は不明。信長がしゃれこうべで酒杯を作ったといいますが、自分や家臣でそれを使って飲んだというのは創作という説が有力です。 どちらにしても、宏大な屋敷跡を持っ…

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御経塚遺跡

御経塚は野々市市にある地区です。 市町村合併で石川郡の多くが松任市と合併し白山市となる中、唯一、石川郡野々市町として独立していましたが、ために多くの商業施設を誘致して、独立独歩の町運営を進めていました。 昨年(2011年)11月11日に単独町から市制に移行して「野々市市」になりました。市の面積は13.56㎢と小さい都市ですが、人口密度は日本海側では最高の都市です。その中で一番の商業集積地が御経塚です。 御経塚の一角に竪穴式住居を中心とした環濠集落が発掘されています。それが御経塚遺跡です。縄文から室町時代にかけて、石川の中心地が現在の野々市市の近辺に集中していたそうです。この辺りは掘れば何か出てくる区域なんですね。 現在は竪穴式住居を復元して、それを中心に公園にしています。隣にはゲートボール場もあって憩いの場になっています。 そんな公園の向かいに「野々市町ふるさと郷土館」がありますが、入場無料で自由に入館できます。ここに野々市町の出土品が展示されていますが、多くの注目すべきものが多く展示されています。縄文・弥生・古墳・奈良・平安・鎌倉・戦国の各資料が見られます。歴史好きにはたまらない場所ですよ。しかも、知らない人が多いみたいで、僕が行ったときも一人でゆっくり見られました^^ 旅行日 2008.11.9 野々市町ふるさと郷土館  http://www.city.nonoichi.lg.jp/bunkashinko/furusatorekishi…

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