小松天満宮 浮島・輪中堤 梯川分水路

前回の葭島神社の最後の方に、奥の細道の芭蕉と喧嘩別れした小松天満宮の能順を書きましたが。。。 実はその文章に天満宮の外観の画像を差し込むつもりでした。ところが文章がまとまらず余計なことを書き過ぎて、久しぶりの文字数オーバー><;  葭島神社から小松天満宮 ちょうどこの辺りが葭島神社側の船着き場かと。。右に見える白い建物は社務所会館(梅林院)ですが、その手前の岸が天満宮の船着き場のあった位置でした。 今は葭島側は河岸の急な土手になっています。小松天満宮は急な河岸壁。どちらも船着き場の面影はないですねえ。おかげで、今は鳥の楽園^^; 葭島神社河岸から小松天満宮東方 画像をアップしてもらうと解りますが、真ん中の大きな屋根が天満宮の拝幣本殿屋根、やや右に小さな切妻屋根が山門の屋根です。山門の前には明治初期までは約20m程の岸辺に船着き場がありました。右には小松大橋が掛かっており、そこまで河岸壁が続きます。 江戸時代、小松城の一角になる葭島神社(小松稲荷社五穀寺)の北岸と小松天満宮の南岸に船着き場が設けられ、藩主や城代は参拝時には、船で梯川を往復していました。明治以降は河岸の改修で船着き場は消滅しています。現在は100m東方の小松大橋から回り込まねばなりません。。  小松城側から小松天満宮西端 左の赤い橋は天神水管橋といって、水道水用の配管橋になります。この橋も以前は天満宮の西端の境内地を通していたのですが、今回の浮島工事で護岸が出来たおかげで、橋台が築けるようになったので、天満宮…

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葭島(よしじま)神社

小松城は加賀藩三代藩主・前田利常が自身の隠居城として、金沢城の倍の規模と趣向を凝らした建物や庭園(お花の庭園まで造っていたそうです。)を造作していたと云われます。利常の死後、小松・能美の隠居領(約20万石)は加賀藩に帰属しましたが江戸期を通じて小松城代(主には前田対馬守・土佐守家が多く努めています。)・城番が置かれ、維持されていました。一藩(一国)一城令の中、幕府の許可を得た慮外の城として存続していました。 残念ながら明治の廃城令によって、一部の払い下げと共に、刑務所が置かれ懲役業務が城郭の破却作業となって徹底的に破壊されてしまいました。更に堀を構成していた梯川(かけはしがわ)の度重なる氾濫の対処に明治以降、平成の現在まで、川の流れを変えたりの度重なる改修工事で、小松城の面影を残すのは天守台の石垣と僅かな堀壁の一部くらいになっています。 小松城の古地図を観ると梯川が直角に曲がる角地を利用した水に浮かぶ城だということが解ります。前田利常の改修によって、新設された南面の竹島の裏鬼門には菟橋(うはし、得橋)神社を城外内に移転させています。その他にも城内の一角には幾つかの守護神的存在として、寺社が存在していたようです。琵琶島の北堀対岸の外郭にあった愛宕養福院(鎮座地は現在は梯川に水没)で鬼門の守護神としていました。その後にその延長線上の対岸に創建したのが、小松天満宮になります。  葭島神社 表参道 一の鳥居 同じ鬼門方向のもう一社が古地図上では小松城郭の最外郭の梯川岸辺にある稲荷社にな…

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小松(梯)天満宮

もう昨年の話ですが、嫁さんが夏に足を骨折して約2カ月ちょいで仕事に復帰してからも、まだまだ歩くのには支障があったようで、しばらく送り迎えをしてあげてたんですが、2カ月ほどで復調。足慣らしもあるからと歩いて通勤していたんですが、復帰明けから仕事が忙しそうで、ストレスを相当ためていたみたい。 強がってたくせに、ついにまだ床に座ると足に響くんだとグチグチ。。悪い癖で、どうもやせ我慢が過ぎるんですね。 ついに我慢も限界と、気分転換に高めの座椅子を買いに行くことに。。前に、小テーブルを買いに行った家具屋さんを覚えていて、小松まで遠征することに、オリジナルのちょっとした小物インテリアが余程気に入っていたみたい。在庫や陳列もそう多くない店なんですが、余程印象に残っていたようです。気分転換には遠くで一人じゃいけないショッピングが一番とは嫁さんの言葉。。ここのところ、嫁さんの相手は娘に任せっぱなしで、二人で市外へのドライブは、春以来行ってませんでしたねえ。。あ~~耳が痛い。。気に入った足高の座椅子を買ってニコニコ^^なのに、一カ月で用済みにして、その後元気にルンルンしている嫁さんって@@; それにしても家具屋さん(家具ホームファッションイシイ)で、ミニテーブルを買ったのは8年前。よくもまあ覚えていたものです。その時に帰り道に遠回りして小松天満宮に立ち寄ったんですが、思い出して寄ってきました。 H22.10.09 道の駅こまつ木場潟                      H22.10.09 小松天…

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粟津(あわづ)温泉

粟津温泉総湯前 開湯の碑 11月にいつも行く粟津温泉近くのお客さんの所。でも昨年に続き、早く行き過ぎて一時間ほど時間調整をすることに、ということで、昨年は文字だけになってしまった粟津温泉の中心地の風景を散策してきました。 昨年の記事は・・・  2017.11.09 粟津温泉 おっしょべ公園      旧養老公園 祈りの小径      養老山 大王寺     粟津白山神社  粟津温泉の起源は、白山開山・平泉寺創建を行った泰澄大師が、翌年の白山登頂から丸岡・豊原寺への帰路。霊夢に現れた白山権現のお告げによって、住民を集めて掘削させ温泉を発見。弟子の雅亮法師に湯守となることを命じ、雅亮法師は還俗して名を(法師)善五郎と改め湯宿をつくります。これが粟津温泉並びに世界最古第三位の温泉宿・法師の起源になります。 粟津温泉街に向かう玄関口に立つ泰澄大師像 まずは粟津温泉中心地から離れた産業道路(国道8号線)の津波倉東ICから見える泰澄大師立像。 塔のような土台に立つ泰澄大師像は近くで見るとやっぱり高い@@ 粟津温泉の玄関シンボルと云えます。石組仕立ての土台もよくも建てたという灯台のようです。 泰澄大師は越前・麻生津に生まれたと云われ、生まれながらに白髪だったと云われます。 14歳で出家・法澄と名乗ります。役小角と共に愛宕山の悪霊退治・開山、神社建立で名を挙げ、大宝2年(702年)に文武天皇から弱冠20歳で鎮護国家法師に任じられ、北陸白山信仰の本拠として丸…

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西山古墳群~高座八幡神社

西山古墳群 標柱 前にご紹介した北陸最大級の前方後円墳1号墳の秋常山古墳群と隣接しているのが西山古墳群になります。秋常山は発見時は西山古墳群の一部とされていました。 以前紹介したように能美平野の中に点在する丘陵地帯を利用して造られたのが能美古墳群ですが、その中で一番東方の丘陵に位置しています。前回紹介したようにこの西山古墳群も南面や西部が宅地や田畑地として掘削を受けています。更につい最近まで西山はこの辺りの秋常・高座・久常といった地区の共同墓地になっていました。 西山古墳群入口 久しぶりに訪れてみると共同墓地は平坦地に降りて新設されていて、西山墓地はその多くが撤去移動されていました。国史跡指定の関係と思われますが、墓石が撤去されたとはいえ、古墳の形跡は解り難く、西山古墳群の標柱が無ければ、古墳のあった地とは解らない状態。。今後の灌木や藪地の整備が課題になってくると思われます。 何カ所かは円墳の形跡も観られますが、この西山は古墳群が注目されていますが、その前の時代、弥生期から古墳期への移行期の周溝墓、土坑墓・木棺墓が発見されています。また、その位置が古いものが高度の高い東北部の位置、古墳期の物は麓の低地である西南部と見事に分離されていて、しかも同じ方向に並列しています。墳墓同士があまり重なる場所がないということです。とはいえ、その後の平成に至るまでこの西山の上は墓地の集積地だったわけです。 以前は地続きだった秋常山の大型古墳を含め、弥生期から古墳終末期そして現代ま…

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狹野(さの)神社・能美九谷陶祖(とうそ)神社

狭野神社 表参道・一の鳥居 九谷焼陶芸村から500mほど西に行った所に、産業九谷の草分けとなった佐野窯が開かれた佐野町(旧佐野村)があります。旧佐野村は辰口丘陵の姓南端に当たり、広大な加賀平野の東端からなだらかな丘陵帯に広がる村落でした。この地で崇敬されていたのが狭野(さの)神社になります。佐野の名の由来はこの神社の名からのようです。 狹野神社由緒 御祭神 素盞嗚尊命 すさのおのみこと 天照大神 あまてらすおうみかみ 豊受比咩命 とようけひめのみこと 仰、当社は往昔、佐野集落の発祥の地である。東部丘陵団地の東端、峠路の山中に、鎮守の神として創建されたもので、郷民の崇敬厚く、嘉祥三年(八五〇)に皇室から正六位上を賜 った。狹い谷間の野原の奥にあったから狹野の社と称えられ、これが佐野の地名の起こりと言う。やがて祖先が農耕に便利な八丁川沿岸と鍋谷川沿岸に移住した。延喜七年(九〇七)に式内社となって、全国でも著名な古社として知られたが、嘉元元年(一三〇三)に南禅寺領となって、その管轄の政所が置かれた。その後南北両佐野が合体し、現在地へ氏神が遷座された。 前田藩政のとき、利常公が格別に崇敬され正保元年(一六四四)の春にご参拝、翌年の春の祭儀に自ら祭主となられた。明治三十五年県社に昇格し、同年神饌幣帛供進神社に指定さ れ、明治四十年に末社神田神社を合祀し大正十三年拝殿を改築し、昭和五十年に本殿、幣殿、社務所を造営した。 境内は二千坪余(神苑神楽山を含む)神田山、お守り 山、雉の山の神…

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浅蔵五十吉美術館 陶壁ビッグモニュメント

能美市九谷焼資料館と道路を挟んだお隣にあるのが、浅蔵五十吉美術館です。 二代・浅蔵五十吉は大正2年(1913年)、能美郡寺井町(現・能美市寺井)生まれ、戦後、現代九谷焼の旗手・トップを走り続けた人物です。昭和61年(1986年)に寺井町名誉町民、平成4年(1992年)に九谷焼作家としては初の文化功労者になったことを記念して、翌年に浅蔵五十吉美術館(能美市立)が開館しています。合わせて、同年には小松市からも小松市名誉市民を受けています。 浅蔵五十吉美術館 斬新な立体造形の建物としても評価が高く、平成6年中部建築賞、翌年には建築業協会賞を受賞しています。 更に平成10年(1998年)10月に建設省(現・国土交通省)設立50周年記念の公共建築百選に選定されています。ちなみに石川関係では、石川県立歴史博物館・金沢市文化ホールがあります。当時の箱物行政批判の払拭を狙ったものですが、それだけに厳選された百選では大型建物が多い中、中小規模建築物としては稀少な存在です。ただ、入り口が登って奥まっているので入場するのを躊躇する人が多いようですが、池を配した直線と三角形を重視した建物を見るだけでも一見の価値があります。 浅蔵五十吉略歴(パンフから) 二代 浅蔵五十吉(1913_1998年) 大正2年、石川県能美郡寺井町(現能美市)生まれ。小学校卒業後、父親(初代・磯吉)から陶技一般を習得。昭和3年(1928年、15歳)初代・徳田八十吉氏に師事、21年(1946年、33歳)に北出塔次郎氏に師事…

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能美市九谷焼資料館

前々回に奥野八幡神社を書いていたら、やはり寺井の九谷焼陶芸村に行こうか、忘れないうちに、、イヤ行った方が良いかなと。。 昨年秋から長いリニューアルのために閉館していた能美市九谷焼資料館が3/21に開館したということだし。。やっと歩けるようになった嫁さんをリハビリがてら誘いまして、九谷焼の鑑賞に それにしても、佐野の泉台地の高台は遮蔽物がなくて、厳しい陽射しに、車から降りた途端に汗がドバ~~ 先々週まで松葉杖をついていた嫁さんですが、もうゆっくりなら歩けると、サッサと館内に逃げ込みます・・玄関にある像も太陽がまぶしそう 加賀の各地に九谷焼の資料館や博物館がありますが、後述する九谷焼作家や後進育成を目指す石川県立九谷焼技術研修所・支援工房九谷、資料館別館でロクロ・絵付体験の出来る九谷焼陶芸館、販売店群など九谷の陶芸村を構成する中心点として、能美市九谷焼資料館は九谷焼の収蔵品は古九谷から現代九谷まで最大規模を誇っています。 能美市九谷焼資料館 HP案内 能美市九谷焼資料館は九谷焼の歴史を振り返るとともに、過去の名作を鑑賞し、さらに現代九谷の新しい息吹を広く一般に公開するため1982(昭和57)年にオープンし、2018年(平成30)年にリニューアルオープンしました。館内では、「紺青の間」「朱赤の間」の江戸時代からの名品の常設展のほか、「紫の間」「緑の間」では随時特…

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秋常山古墳

今年は豪雪があって、花の開花や満開は遅れるだろうと、内心期待していましたが、、案に反してあっという間に咲いてあっという間に桜が散り、バタバタしているうちにアヤメは見逃すし、家庭内事情で紫陽花も観に行けず。。。車の窓から見る花ばかり。。ここまで、今年は花とは縁がないかと諦めていたんですが、6月に秋常山に紫陽花を植栽したという情報を聞いて見に行ったのに、アップしないまま1カ月。。。 たまたまニュースで秋常山古墳に紫陽花3000株を植栽したと聞きまして、夕方になってしまいましたが、秋常山の古墳も一年近くご無沙汰ということで、一人で行ってきました。嫁さんが昨年に続いて今年も負傷して歩けなくて、、、娘に行こうと云ったら拒否。。ここ2カ月ちょっと、家族では買い物以外どこも行ってないなあ><;まあ、嫁さんもギプスが外れて復活基調。。しばらくしたら、気分転換でどこかに旅行がしたいなあ。。 今更と云われそうですが、その時の画像を。。。 3000株というと、けっこうな数なんですが、秋常山古墳は名前の通り、古墳自体大きいうえに小山の上にあるので、紫陽花の範囲は広くは見えません。しかも時期が遅れて、しかも陽射しの当たる場所、咲いているのは約半分。。しかも時刻も夕方、紫陽花の花も陽射しで疲れた感じでした。来年はもっと早く来ないといけませんねえ^^;場所は2号墳に登る坂道になります。 秋常山古墳群といっても二基の古墳から構成されるのですが、実際にはもう一つ隣に稲葉山という山に大型古墳があっ…

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奥野八幡神社

能美市の中心地・寺井地区は古代は広大な平野の真ん中に忽然と存在した丘陵と平坦地でした。 古墳期にはこの丘陵地帯に多くの古墳が築かれており60基以上の存在が確認され能美古墳群として国史跡に認定されています。しかし、戦後の高度成長期に市街地化のために丘陵地が掘削されて消滅しており、実際には150.200以上の古墳が集積されていたと推測され、日本最大級の古墳群であり、一大勢力が存在したと思われます。 奥野八幡神社 一の鳥居 表参道 平安初期に加賀国が成立した際にも、能美郡に五郷(村)の臨時集合地となる寺井市(いち)が置かれたと云われています。平安期には加賀の中心地ということもあり荘園が点在して勢力争いも垣間見られますが、この寺井市が商業市場として緩衝地の役割を果たしていたようです。この辺りのことは奥野八幡神社の縁起にも書かれています。 奥野八幡神社由緒 御祭神 応神天皇 比売大伸 神功皇后 武甕槌命 比咩大神 天小屋根命 経津主命 少彦名命 高良玉垂命 千数百年の昔、能美丘陵に墳丘を築き祖宗を祀る豪族がいて、この地にも村があった。 九世紀、加賀立国の時、五郷二駅で能美郡が置かれ、郷が寄り合う寺井市が開かれた。 中世この地が畿内の岩清水八幡や南禅寺などの荘園になり各郷それぞれの争いを、商いで解決し、荘園ごとの均衡を保ったのも、この寺井市があったからといわれている。 十四世紀の初めから、臨時市が定期市に発達し、商い店が建ち人が住んで町に発展し、住む人それぞれが、…

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粟津白山神社

大王寺の本堂を左手に進むと、祈りの小径の入り口になる粟津白山神社の長い石段が現れます。 粟津温泉街を見下ろす山上にあり、一の鳥居から粟津温泉の町の広がりが観られます。大王寺が拝殿とすれば、白山神社の位置は神殿、奥の院といった位置になります。そのためか加賀の国守や、加賀藩から小松に隠居領として入部した前田利常が参拝した記録が残されています。 一の鳥居を潜ったすぐ脇に、綺麗な由来碑がありましたので転記を。。綺麗だったので新しいものだと思ったんですが昭和60年(1985年)のものでした。後ろには同時期に寄進された珠玉を抱えた獅子像。さすが小松・加賀の神社ですねえ。。現代九谷の代表的なモチーフです。珠玉は加賀手毬になることが多いのですが、有力氏子や九谷焼の工房のある加賀・小松の神社ではよく見かけます。けして嫌いなモチーフではないですが、僕にはお金持ちの床の間に置かれた置物が連想されてしまいます。う~~む、貧乏人のひがみ眼ですかね。。 白山神社由来碑 湯の町を眺望するみどり深き山上に鎮座まします白山神社は、奈良時代より粟津保の総社であり、保内の人々によって厚く崇敬されてきた。 粟津保はもと粟津上保、粟津下保に分かれていたが、南北朝以降は合して粟津郷となった。 当社はむかし白山比咩神社と共に伊弉諾命(いざなぎのみこと)・伊弉〇命(いざなみのみこと)・菊理比咩命(くくりひめのみこと)の三柱を祭ると称せられ、また粟津白山宮と号し、養老二年(718年)僧泰澄の温泉発見の古事に因み…

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養老山 大王寺

祈りの小径からの終点が粟津白山神社と大王寺になります。 さてどちらから書こうかと迷いつつ、どちらも由来や縁起を読めば、泰澄上人の開湯から始まりますし、元は一体の寺院だったと思われます。まあ、祠が先か寺院が先かという余地はありますが、地形は山裾に張り付くように敷地が重なっていますから、共存していたと思われます。 西国三十三カ所 第一番 如意輪観世音菩薩 大王寺・白山神社の中間点 泰澄上人坐像の前にあります  祈りの小径の始点で考えれば、、やはり大王寺からになると思うのでそちらから。。大王寺はのとやの脇を通って80段の石段を登ったところにあります。 大王寺の縁起を撮影して、後で転写・参考にと思ったんですが、見事なピンボケで判読不能状態。。まずは大王寺のHPからご住職のご案内を転写でお許しを。。 養老山 大王寺 HP 当寺は約1300年前の養老二年(718年)に泰澄大師(泰澄神融禅師)によって開かれた「高野山真言宗」の寺院です。 泰澄大師は、聖域として禁則の地であった霊峰白山を白山神(白山妙理大権現)に導かれて開山された高僧です。 白山の山頂で修行中の泰澄大師の元に再び白山神が十一面観世音菩薩のお姿で現れ、「この白山のふもとから山川を越えて五、六里行ったところに粟津という村があり、そこには薬師如来の慈悲による霊験あらたかな温泉がある。しかしながら、まだ、だれ一人として地中深くに隠れたその霊泉のことを知らぬ。お前は、ご苦労ではあるが山を下りて粟…

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旧養老公園 祈りの小径

おっしょべ公園から山の方に登ると長い散策路になります。別名・祈りの小径。 前ブログでも書きましたが、本来はのとやの側道から登った所にある粟津の守護寺・大王寺からが順路になりますが、今回はおっしょべ公園から逆に進むことにしました。ただ、ちょっと後悔したのは、最初の三叉路までの登り坂が結構きついんですよね。日ごろの運動不足がこんなところに出てしまいます。 祈りの小径には西国三十三観音が道伝いに配されています。落ち葉の中の石仏は少し寒そうですが、なかなか良い雰囲気で静かな山道を石仏を眺めながら進むことができます。案内板には総延長630メートルになっていますが、側道とかもありますから実質的には倍以上はあると思います。起伏があるので運動靴が良いですねえ。   画像はおちょぼ滝 手前が29番・馬頭観世音菩薩坐像 奥は不動明王像 おっしょべ公園から最初の登りでクランクの曲がり角の広場にあるのが、おちょぼ滝 。残念ながら、水は流れていませんでしたが、流れた後がありますから雪解けの春先頃には滝の流れも観られるかも。。 広場には日露戦役の慰霊碑が。。山陰に建っています。日露戦役では金沢の第九師団は乃木希典の第三軍の主力で旅順攻略、奉天会戦で多くの犠牲者が出ています。石川・福井には日露戦役の慰霊碑が多く各地にあります。 急勾配の登りに、やっぱり順路通りにするべきだったと後悔しながらも三叉路に、右に登る道が泰澄上人像や岳山への登山道のあるところ、ますます厳しい登り坂になります。ヒイコラ言い…

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粟津温泉 おっしょべ公園

少し前にご紹介した「恋人の聖地」、石川県内には四カ所あるんですが、このブログでは三カ所目のご紹介になります。以前にご紹介しているのは…LOVE&BEACH/サンセットブリッジ内灘・一里野温泉/白山温泉郷 恋人の聖地の趣旨・・・ NPO法人地域活性化支援センターでは「少子化対策と地域の活性化への貢献」をテーマとした『観光地域の広域連携』を目的に「恋人の聖地プロジェクト」を展開しています。  恋人の聖地プロジェクトでは、2006年4月1日より、全国の観光地域の中からプロポーズにふさわしいロマンティックなスポットを「恋人の聖地」として選定し、地域の新たな魅力づくりと情報発信を図るとともに、地域間の連携による地域活性化を図っています。  また、このプロジェクトでは「非婚化・未婚化の進行」を少子化問題のひとつとして捉え、日本全国で選定された100ヶ所を越える「恋人の聖地」とともに、フランスのモン・サン・ミッシェルをはじめ海外の著名な観光地にも参画いただき、各地域による様々な活動を通して若い人々のみならず地域社会に向けて「結婚」に対する明るい希望と空気の醸成を図るための活動をしています。(恋人の聖地HPから引用) 各地の恋人の聖地には全国的にも有名な観光スポットが幾つかありますが、石川県内の四カ所はマイナーな存在です。県民でも知らない人が多いかもしれません。 今回の「おっしょべ恋物語/粟津(あわづ)温泉」は粟津温泉郷の一番奥にある公園が中心地になります。他にも粟津市街にもモニュメントや記…

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白山七社② 岩本神社

だいぶ日が経ってしまいましたが、白山七社シリーズに戻ります。 前回のブログ ⇒ 白山七社① 古宮公園(白山本宮跡)周辺 白山山頂の奥宮へと参拝する禅定道は、加賀・越前・美濃の三道がありました。古来の禅定道は信仰の道ですから、自分の足で歩くのが基本でした。どんな有力者・分限者であれ変わりはありませんでした。 古く伝統のある神社や寺院の入り口では観ることがあると思いますが、下馬下乗の石碑や掲示札(下馬札)があります。 大きな神社になるとその神域は広大なものになっていきます。白山神の神域もなかなか広大なものになります。最初に元も子もないことを書いてしまいますが、白山という名の山は本来はここには存在しないんです。御前峰(2702m)・剣ヶ峰(2677m)・大汝峰(2684m)の白山三峰、三県が跨る別山・三ノ峰を加えた白山五峰を中心にした山地の総称が白山になり、正式には両白山地・白山連峰といいます。ただ両白山地にしてしまうと、富山・石川・福井・岐阜;滋賀の山並みのほとんどになってしまうので、白山と云えば前述の五峰を中心にした連山を指して言います。白山開祖の泰澄上人が拝んだ別山・御前峰・大汝峰が白山三山と云います。この三山にそれぞれ別山神社・白山奥宮・大汝神社が置かれています。この三山が白山神の総称地になります。 当然ながら、この神の山地・越のしらやま・白山に登る禅定道も神の道ということで、下馬下乗の対象になったわけです。加賀・越前・美濃の三禅定道が成立したのは平安時代初期で、その起点(…

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沖太郎丸神社

小松市原町にあった豆丸様の祠の伝承の続きです。 太郎丸の姉兄弟についての伝承は、沖太郎丸神社の長い社歴のほんの一部になります。 前回のブログに引用しましたが、改めてここに書き出すと。。 太郎丸さまと称せられる。往古二人の公達が都より落ちのびてきて、ここで敵に謀殺され、夜毎に金火がでたので、その御霊を祀ったのが太郎丸・次郎丸の宮であるという。他に姉丸宮もあった。後厳之御魂社と称したが更に今の社名に改称。昭和44年沖町イ一番地甲より、今の社地に移転と同時に社殿改築。 忙殺された太郎丸・次郎丸の兄弟には、さらに姉と幼い弟がいました。 幼かった弟は部下に救われ原町に逃れたといわれ、豆丸と呼ばれたと云われています。幼い名で祀られたということは非業の死をとげたのか、白山神社に合祀された豆丸様になります。 豆丸様・・・H27.12.24 白山神社 (旧・仏が原金剣宮) また、姉丸はこれまたアップしたように小寺町にある相之宮白山神社に祀られています。兄弟が謀殺された当時の生死は不明ですが、機織りを近在に伝えたという伝承があることと、同じ小寺町に次郎丸神社があったことから兄弟の菩提を弔っていたのではないかと推測されます。 姉丸の宮・・・H28.2.24 相之宮白山神社(姉丸宮) これは沖町近辺に伝わる伝承ですが、社歴にある金火の出現に関するものですが、、、太郎丸・次郎丸を守護していた武将は二人を謀殺された後、二人の遺体を埋葬した後(小寺町)は悲嘆と無念から野町(沖町近辺、太…

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クレーンゲーム

ニャンコの日が誕生日という我が娘 誕生日の前祝と称して嫁さんと二人で、金沢にショッピングに出かけておりました近頃はお父さんをほったらかして二人で遊びに行っちゃうことが多いですね 朝出かけたと思ったらいつまで経っても帰ってこない。。まあ、その分、書類整理は進んだけれど 一仕事終わった午後6時頃、外はもう真っ暗背伸びをしながら、DVDでも観ようかなとセットした途端 まるで見てたんじゃないのかというタイミングすっかり行動パターンを読まれているような気がする。。 「お父さん仕事終わったあ?迎えに来てくれないかなあ」 まあ、手前勝手なご要望だけど。。嫌とは言えない僕 香林坊アトリオ(北陸では大和(だいわ)と云った方が解る。)の外で待ち合わせ。。交番の側のベンチで待つ二人を拾って、家路につくことに。。一応確認がてら「他に行きたいところある?」 いつもなら、ないとか、あってもせいぜい本屋くらいなのに、この日は何か言い難そうに娘がボソボソ 「お父さん…

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相之宮白山神社(姉丸宮)

昨年末に訪れて、小松市原町の白山神社(旧仏が原金剣宮)を紹介した時に、地場の祠になっていたという豆丸さまのことを書きました。それに関連した神社があるということで、沖太郎丸神社と相之宮白山神社を訪れていました。今回は相之宮白山神社です。  前回のブログ(H28.1.9) → 白山神社 (旧・仏が原金剣宮) 久しぶりの神社関連になります。 このブログの中で、豆丸さまに触れたのは ちなみに前述の番谷に在った豆丸さまですが、現在の小松市沖町に「沖太郎丸神社」というのがあるのですが、、社歴には、、太郎丸さまと称せられる。往古二人の公達が都より落ちのびてきて、ここで敵に謀殺され、夜毎に金火がでたので、その御霊を祀ったのが太郎丸・次郎丸の宮であるという。他に姉丸宮もあった。後厳之御魂社と称したが更に今の社名に改称。昭和44年沖町イ一番地甲より、今の社地に移転と同時に社殿改築。 この太郎丸と共に殺されたと云われる弟が次郎丸と言います。更にこの二人の下に居た弟を豆丸と言いました。元は沖太郎丸神社から派生したものと思われます。原町の白山神社では、野町太郎丸神社、小寺町次郎丸神社の兄弟神としていますが、野町、小寺町の神社は僕は聞いたことがないので、解ったら詳しく再UPするつもりです。ただ、沖太郎丸神社の社歴文中の姉丸宮は、小松市御宮町近くにある「相の宮白山神社」の別名が姉丸宮だと近所のお客さんに教えて貰ったことがあります。沖、相の宮から探れば案外簡単に解るかも。。甘いかな。 あまいかな。。と…

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根上(ねあがり)の松

能美市は野球の松井秀喜の出身地の根上町・九谷焼の産地の寺井町・いしかわ動物園のある辰口町の三町が、平成の大合併で誕生したものです。この能美市の在る位置は大規模な古墳群が示すように江戸期以前は加賀の中心地で、古くから歴史の端々に挙がってくる地域でもありました。 能美市高坂町(旧能美郡根上町高坂)に高坂山(通称、根上山)という小さな砂地の尾根があります。 尾根の山頂に「根上の松」と呼ばれる松があります。登り口が解り難く地元の人にしか知られていない存在ですが、旧町名の根上町の由来になっています。 源平盛衰記 巻第二十八 北国所々合戦事から(国民文庫「源平盛衰記」引用) 〔斯りしかば、〕五月二日平家は越前国を打随へ、長畝城を立、斉明を先として加賀国へ乱入。源氏は篠原に城郭を構て有けれ共、大勢打向ければ堪ずして、佐見、白江、成合の池打過て、安宅の渡、住吉浜に引退て陣を取。平家勝に乗り、隙をあらすな者共とて攻懸たり。其勢山野に充満せり。先陣は安宅につけば、後陣は黒崎、橋立、追塩、塩越、熊坂山、蓮浦、牛山が原まで列たり。権亮三位中将維盛已下、宗徒の人々一万余騎、篠原の宿に引へたり。越中、加賀、両国の兵共、安宅渡に馳集り、橋板三間引落し、城を構垣楯を掻平家を待処に、越中前司盛俊が一党五千余騎、安宅の渡に押寄見れば、橋板は引たり水は深し、南の岸に引へたり。源平川を隔て只遠矢に射る。日数をへる共落すべき様なし。盛俊子息の盛綱を招て、あの渚は波に碾れて浅かるらん者を、打下て見よと云。盛綱即打下て馬…

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石部(いそべ)神社 加賀国総社(惣社)

加賀国府が置かれた際に加賀国総社とされていたのが石部神社でした。 このため、現代においても加賀一の宮は、白山神社の総鎮守の白山比咩神社(はくさんひめじんじゃ)と石部神社が並立して主張し合っています。 弘仁14年(823年)、日本の国で一番最後に成立した加賀国。その政庁と云える加賀国府が置かれたのが、現在の小松市古府町近辺と云われています。推定されているものの、はっきり特定はされていませんが、現在の国府中学の近辺ではなかったかと云われています。これは、石部神社が国府の南にあり府南社と呼ばれたことからというものです。 国司の最初の重要な仕事は人心掌握のために、有力神社を廻って参拝することが挙げられます。 神社や祠の多くは地元神を崇拝・継承していることから地元民衆に根づいており、この参拝は民心安定には欠かせないものでした。このため奈良時代から平安初期には、国が指定した神社を国司が巡拝することを定めていました。ところがこれがなかなか大変な作業になります。 一例ですが、皇族関連や臣籍降下の重臣が国司となった令制国だった下野国では、12座の神社をランク付けして一宮、二宮と順番に巡拝していたのですが、これらの神社は現在の栃木県の外周に点在しており、栃木県の県境沿いに一周しなければなりませんでした。しかもこれを毎月行っていたわけです。相当な費用と日数、更には国司の体力も消耗してしまうのが想像されます。加賀国でも有力神社八座を毎月1日に巡拝するのが定めになっていました。 こんなことをしていて…

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前田利常灰塚 ~徳橋神社 ~埴田の虫塚

ここのところ、加賀市に行く機会が多くて、山側バイパスから小松の八幡で国道8号に合流する産業道路をよく利用していました。この産業道路は広告看板が禁止されていて景観重視の要素が大事にされています。それはそれでとても良いことなんですが、金沢・松任・鶴来の分岐点の安養寺交差点から国道8号に合流する小松の八幡まで延々と続く片側2車線は、多少の起伏とカーブがありますが走りやすく、ドライバーはついつい飛ばし気味になってしまいます。 途中には松任グリーンパーク、いしかわ動物園、辰口丘陵公園など家族連れに人気のスポットもありますが、ビジネスや作業の営業車は脇目もふらずスピードに乗って走って行きます。 この産業道路のおかげで近接した場所に、精密機械系の工業団地や住宅地が形成されています。自然景観や緑をそこなうというなどの欠点はありますが、事前調査で埋もれていた遺跡や古墳など多くの歴史的遺物が発見されています。 そういう面では、この道路が開発されると聞いたときに期待したのが加賀国府の特定でした。日本の各地に置かれた国府のなかでも一番最後に出来た国府なのに、場所が特定されていない加賀国府は石川の歴史の中で最大の謎の一つです。 一応、地名から推測すれば国分寺を称する寺院のある古府町、河田山古墳群の近くの国府小学校近辺の河田町、埴田町近辺など諸説まちまちです。 地名の通り、歴史深い地名なのですが、現在はのどかな田園地帯で、産業道路でも一番の起伏地で周りを観ずに走りすぎることがしばしばの地でもあります。 そ…

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白山神社 (旧・仏が原金剣宮)

小松市原町は世帯数134戸、人口391名。山間ののどかな町ですが、ここの鎮守の杜といえる白山神社は規模も大きく整備も行き届いて立派なものです。特に斜面に拝殿があるのですが、参道は美しい石畳みと石段が綺麗で、町の方の信心深さが垣間見られるようです。 社歴によれば創建は弘仁14年(823年)。 加賀の国が出来た年ですね。当時は新田・農地開発を目指した三世一身法(723年)や墾田永年私財令(743年)などにより公地公民制が崩れ墾田が増えた時期です。当然ながら個人の私有地を持つことは、生産物・土地の管理・警備・保全は重要案件になります。 平安時代は軍隊を放棄していた時代で(東北の蝦夷討伐も、行軍途中で寡兵して軍隊を構成しています。)簡易な警察機能程度しかありませんでした。このため、自分の土地を守ったり、運送の護衛などには自警団や自衛団を持つ必要がありました。 こういう集団を保有できたのは、村や部落単位では難しく、有力貴族や大寺院となってしまうわけです。大貴族は、地元領主を武装した管理者にして代行させていました。これが侍・武士へとなって行きました。大寺院は自前の武装集団を寺院に置きます、これが僧兵になって行きます。個人や小さな村落では寄進という形で土地名義を差し出し、一定の年貢を納めることで土地の安全を図り、自分たちは生産管理を行うという形態をとりました。これによって、貴族や大寺院の荘園化が進んで行きました。 私有財産となる土地とはいえ、国の課税は存在しており、これを管理徴収し…

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仏御前の里②

仏御前の生まれ故郷を強く主張する地は北陸には2か所あります。福井県大野市仏原及び栃沢(栃沢は現在は九頭竜湖の底です。)。国道158号線で和泉村に向かう途中にあります。ここには落差100mの三段滝の「仏御前の滝」があり、仏御前が髪を洗っていたという伝承があります。福井県内には、仏御前だけでなく祇王・妓女・刀自の過ごした寺と供養塔があったそうです(現・福井市三郎丸)。 そして、もう一つが石川県小松市原町になります。一般にはこちらが有力とされています。 小松市でも東端にあたり、先に進むと中の峠、三坂峠を越えると一向一揆最後の拠点・鳥越城・二曲城の鳥越を抜けて白山禅定道を経由、白峰越えで福井の勝山・大野へと抜けられます。 京からの帰り道は大野・勝山を経て、禅定道の途中・木滑(きなめり)の地で子供を生み落し、しばらく民家で静養、原村に戻ったとされています。しかし残念ながら生まれた子は男子でしたがわずか2週間程で夭逝しています。日数的には原村に到着後に亡くなったとも、木滑の民家でとも云われはっきりしません。ところで、仏御前出産の伝承地はもう一か所あって、尾小屋経由で西尾の手前にもあります。こちらは大倉岳スキー場に向かう道ですが、平安期は人一人がやっとの峻険な山岳路で、臨月の仏御前が歩くのは無理だと思われます(尾小屋二ツ屋地蔵尊)。 2012.09.01撮影 尾小屋トンネル南口 尾小屋二ツ屋地蔵尊 木滑での仏御前の出産地と伝わる木滑神社には、祠に安産石が祀られています。旅路の途…

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木場潟公園

加賀の小松から加賀にかけて、太古には大小の湖沼がありました。特に大きな湖沼は三つあって加賀三湖と呼ばれていました。手取川以南は加賀の国が成立前(弘仁14年(823年))は、江沼郡と呼ばれていましたが江沼はこの加賀三湖にちなんだものと云われています。 この加賀三湖は、今江湖・柴山潟・木場潟を云うのですが、前述の今江潟は総面積5.8平方キロメートルと三湖では最大の大きさでしたが(以前紹介した今江城から小松空港に至る広い田園地帯)、渇水・洪水対策と農作地拡大策で昭和43年(1968年)に全面干拓されています。 また、柴山潟は江戸時代に温泉が発見されて、江戸期から温泉利用のために干拓・埋立が試みられていましたが、明治に干拓が進んで今江潟と同時期に完成しています。全盛期は今江潟に迫る面積でしたが、現在は古来の三分の一(1.92平方キロメートル)の面積になっています。埋立地はご存知の片山津温泉街が建ち、柴山潟は片山津のシンボル的存在になっています。 三湖の中では一番小さい湖(1.13平方キロメートル)でしたが、唯一干拓や埋め立てから免れたのが木場潟です。 加賀や小松からは郊外になり、南の日用川が水を運び木場潟となり、北の前川から流れ出て小松市街の南を流れて安宅の河口近くで梯川(かけはしがわ)と合流して日本海に流れ出ています。 古くから地域の貴重な農業水源でもありました。自然のままの形で残っており、水生植物や野鳥の宝庫になっています。 昭和57年(1982年)に県営公園として整備、木場潟公園…

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七ツ滝

咳風邪が治ったと思ったら、お腹に来て約3週間トイレに行ったり来たりで、とにかくあまり動けなかった先月までの半年間。 今はすっかり元気になって、美味しく物が食べれるようになりましたが、半年近く自重して体を動かさないようにしていたら、すっかり足腰が弱ってしまいました。ここ一か月は外回りでも歩くようにして、時間余ったら緩い山なんかを登るようにして鍛え直しています。でもまだまだですねえ。けっこうそれでヘマをやらかしちゃうんです。 というわけで、この日も小松からの帰り道、ちょこっと寄り道をしてきました。 小松から産業道路で金沢方向に走って、川北大橋の手前を右折すると、北陸先端科学大学院大学(JAIST)という長い名前の大学と付属施設を中心にサイエンスパークと呼ばれる国や県の研究施設、ベンチャー企業の施設、さらにはそれらとの産学関連施設が丘陵の上にあります。 ところで地元では先端大と呼んでいますが、実態というか詳しいことは意外に知られていません。僕もよく知らなかったんですが、営業で先端大や県施設に行く機会があり、学生や教育関係者のお客さんもいたので、多少教えてもらう機会が有りました。 大学院大学というのは、一般大学とは違って学部というものが存在しません。専門分野の研究者や教育者の育成を目的にしています。一般大学の大学院を特化したものと云えば話が早いかもしれません。学士課程の大学がないので、高専出身者、他大学出身者や企業在籍者、留学生が多いことが特徴です。現在は国の方針で、私学の大学院大学が増…

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赤瀬那殿観音

赤瀬から牛ヶ首峠のダム湖に沿った道を採らずに、赤瀬の里で鳥居を潜って山中に向かいます。 鳥居の前に大きな案内板がありますが、この道は那殿観音への参道になっています。 以前にもご紹介していますが、加賀には那谷寺という寺院があります。白山開創の泰澄上人が千手観音像を納めて「巌屋寺」としたのが始まりとされています。その後、花山法皇によって西国三十三観音の全てがここにあるとして、一番の那智寺、三十三番の谷汲寺の一字ずつを採って「那谷寺(なたでら)」と改名しています。 奇岩が織りなす遊仙峡に堂宇が配された寺院建築は、菟橋神社で紹介した寺院建築の名工の山上善右衛門。 寺院や神社の紹介が多い僕ですが、加賀で是非観て欲しい寺院はと聞かれれば、金沢ではなく最高の景観と建築を有する小松の那谷寺だと思っています。 この那谷寺の奥の院と伝承されているのが、今回の「那殿観音」になります。正式名は「赤瀬那殿観世音菩薩」 一説には那谷寺の発祥地ともされています。 白山開創の泰澄上人が白山から下山後、持仏であった黄金仏の観世音菩薩像をこの巌谷に納めたのが始まりとされています。 昭和40年代に赤倉林道が出来るまでは、那谷寺からは真直ぐには徒歩でしか来れず、赤瀬からの参道が一般人の唯一の参道でした。現在も狭い林道で冬季はほとんど通行止めです。おかげでとはいってはなんですが、僕も数年に一度くらいしかこの辺りには来ていませんでした。 赤瀬の村落から林道というか参道を進むと、西国三十三か寺を模した石仏が道…

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苔の里 ~ 荒俣峡

先日、ブログ友達のgoさんが日用町の苔の里をUPしていました。 goさんのブログ goさんは僕と生活圏が同じなので、僕の行く場所やgoさんが行かれる場所は、お互いに7割方は解る場所であり、違った視点で新鮮な感覚を知ったりなるほどと思うことがしばしばです。 まあ、goさんが得意な登山や渓流や海釣りは、ぶきっちょで運動不足の体力不足な僕の不得意分野で羨ましいかぎりが多いんですが。。 ところが、同じ生活圏でちょっと足を延ばしても大概の場所は知っているはずなんですが、「え~~@@こんな所があったの@@」と驚かされる時があります。今回の苔の里もそんな場所です。苔の里とは全く知りませんでした。 実際、訪れて観ると、少なくとも3.4回は通っていたはずの道路なのに、何も気づかずに通り過ぎていたんですねえ。。人家も少なく日用町の道路は田舎の割に拡幅されて広いんで、気持ち良く飛ばしていたんですかね~~~ goさんのブログを観て、あまりの美しさに近いうちに行ってやろうと思っていたんですが、そういう時に限ってなかなか近くに行く機会がなかったんですねえ。。 そして、ついにこの日、嫁さんは仕事で不在でしたが、暇そうな顔をしていた娘を連れだして、二人でドライブがてら苔の里を観に出かけました goさんのブログの予備知識のおかげで、駐車場に無事到着 詳しい説明はgoさ…

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秋常山古墳 菜の花畑&麦畑

以前紹介した北陸自動車道の徳光SA側のコスモス畑&菜の花畑が無くなってしまったために、大きな菜の花畑が無くなってしまいました。コスモス畑は小規模ながら金沢の東の山間地などの名所はありましたが、菜の花畑はこれと云った名所がありませんでした。 昨年からなんですが、能美市秋常の田圃2~3面を利用して菜の花畑が作られるようになりました。地元では今年度は菜の花祭りが開催されるようになり注目されつつあります。 地元松任の菜の花の名所が無くなって残念に思っていた僕も、関心と期待度満々 松任からだと手取フィッシュランドを経由すれば、意外に近い距離 菜の花祭りの翌週ですが、菜の花畑を観に行ってきました。場所は能美市の能美丘陵地にある能美古墳群の中でも、北陸最大の前方後円墳・秋常山古墳1号墳の北側の麓の田園地帯です。 田圃2.3面というとコジンマリとした印象を持つと思いますが、そこは加賀平野のど真ん中、古代からの穀倉地帯ですから一面の大きさも広く、思ったよりも広大な面積です。 訪れたのが、夕方で少し暗い感じに見えますが、菜の花の黄色の絨毯が広がって美しい風景が広がります。丈が伸びない品種のようで、圧倒するような華やかさはありませんが、眼前に広がる菜の花の絨毯は久しぶりに観る風景です。自然の多い田園地ですから、鷺なんかも見かけられます。 秋常山古墳…

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菟橋神社(うはしじんじゃ)

お旅祭りの橋北側の祭礼を司る菟橋(うはし)神社にも参拝してきました。この神社もよく前を通っていながら、素通りしてしまっていた神社でした。初めて境内に入りましたがなかなか立派な社殿でした。 菟橋神社の社歴によれば、創建は慶雲元年(702年)以前となっています。しかし、慶雲元年は704年、702年なら大宝2年になります。ただ、以前にも書いたことがありますが有力神社を初めて書き記した神社の本籍帳とも云える「延喜式内神名帳」に「加賀国能美郡八座 莵橋神社」と記されており、古くから存在したことは確かです。ちなみに延喜式内神名帳は延長5年(927年)に記されたものです。 菟橋神社は名前から、当初は加賀国府が置かれた能美郡菟橋郷(現在の小松市小野町、古府町)の古府台地の周辺に平安初期にはあったと推定されています。その後、地名の漢字が変遷を重ねて最終的に得橋郷(読みは同じです)、桃山期の丹羽氏の前の村上義明の領主時代に小松城近くに移転したとなっていますが、その頃は得橋神社となっていたそうです。 ちなみに加賀国が成立し加賀国府が置かれたのは弘仁14年(823年)越前から分離したものです。当時の加賀国は加賀郡・石川郡・能美郡・江沼郡によって構成されていました。 北陸を越の国と古来呼んでいたのに、福井=越前、富山=越中、新潟=越後となるのに、どうして石川だけが能登・加賀なのか疑問を持つ人が多いのですが、元は石川福井は越前だったんです。ついでながら、能登は養老3年(718年)に分離独立…

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お旅祭り 曳山子供歌舞伎

芦城公園を後にして、せっかくお祭りに来たということで、久しぶりに子供歌舞伎の曳山を観に行くことに 僕と嫁さんは何度か街中で観たことはあるんですが、娘は初めての体験。見たことがある僕と嫁さんも曳山の八基勢揃いは初めての観覧体験。 お旅祭りは5月上中旬の三日間(金土日)に開催されていますが、 祭事の始まりについて、、、、寛永16年(1639年)三代藩主・前田利常が家督を息子・光高に譲り隠居。隠居城として小松城、隠居領20数万石で移り城下町を整備しました。慶安4年(1651年)菟橋神社(うはしじんじゃ)と本折日吉神社(もとおりひえじんじゃ)の神輿が小松城内に参じて祭礼を行ったのが「お旅祭り」の始まりと云われています。 前田利常は小松在城18年で亡くなり、小松城は加賀藩に戻されて支城として城代が置かれましたが、小松を城下町として発展させた利常の功績を慕う市民によって長くこの祭礼は続いています。3日間の祭礼の最終日(本折日枝神社は土日)には両神社の神輿が繰り出され、小松中心街を練り歩きます。 お旅祭りは小松の中心街の祭りとして、重機のコマツ(小松製作所)の公開展示や試乗体験、町家での催事販売、商店街での歌舞伎市などが行われています。また曳山が1.2台くらい年間展示されている曳山会館みよっさでもイベントが行われています。旧城下町の20町が隔年交代で10頭の獅子舞が演じられており、こちらは主に男の子がメインになっています。 ただ何といっても歌舞伎の町と呼ばれる小松ではGW5/4.5に…

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