加賀騒動

更新頻度が少なく、ご訪問も多くなく、皆さんにはご迷惑をおかけしています。 機会を観て、整理がてらUPしようと思ったものの、途中書きになってそのままのものも。。今回の加賀騒動にしても歴史の陰に埋もれた人が多いので、なかなか機会や画像がなくて、。。ただ相変わらず年末年始にだらだら書いたので、まとまりなく長くなってしまいました。知ってる人は知っている、名前や事件の名は知っていても、中身まではの人も多いと思います。たまたま書き始めた時は映画「武士の献立」が公開されて、作中の舟木伝内の墓が特定された時期でもありました。映画に関しては加賀騒動と加賀藩の料理頭の話を絡めたものですが、作者が思うほど加賀騒動の内容を理解している人が多くなく、知らずに見ると何のことやらになっただろうな。。上戸彩が久しぶりの映画主演で頑張っていましたが、ちょっと展開が早すぎて空回りという感じでした。。加賀騒動のあらましを知るには良作品と思います。 2013.12.11 椿原天満宮(椿原山砦跡) から 脇参道の稲荷社について・・・(本文から抜粋) 椿原天満宮の社域には石段とは別にもう一本の脇参道があります。 こちらは稲荷神社があるのですが、この稲荷神社は月読社と稲荷社を合祀したものです。実はこちらは加賀騒動で大槻伝蔵と密通の末、自分の息子を殿様にしようと図ったとされる6代藩主・吉徳の側室・真如院(稲荷社)と息子・勢ノ佐(利和・月読社)を祀ったものだそうです。そういえば、この辺りは加賀騒動で犯人とされた真如院の墓があ…

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粟津白山神社

大王寺の本堂を左手に進むと、祈りの小径の入り口になる粟津白山神社の長い石段が現れます。 粟津温泉街を見下ろす山上にあり、一の鳥居から粟津温泉の町の広がりが観られます。大王寺が拝殿とすれば、白山神社の位置は神殿、奥の院といった位置になります。そのためか加賀の国守や、加賀藩から小松に隠居領として入部した前田利常が参拝した記録が残されています。 一の鳥居を潜ったすぐ脇に、綺麗な由来碑がありましたので転記を。。綺麗だったので新しいものだと思ったんですが昭和60年(1985年)のものでした。後ろには同時期に寄進された珠玉を抱えた獅子像。さすが小松・加賀の神社ですねえ。。現代九谷の代表的なモチーフです。珠玉は加賀手毬になることが多いのですが、有力氏子や九谷焼の工房のある加賀・小松の神社ではよく見かけます。けして嫌いなモチーフではないですが、僕にはお金持ちの床の間に置かれた置物が連想されてしまいます。う~~む、貧乏人のひがみ眼ですかね。。 白山神社由来碑 湯の町を眺望するみどり深き山上に鎮座まします白山神社は、奈良時代より粟津保の総社であり、保内の人々によって厚く崇敬されてきた。 粟津保はもと粟津上保、粟津下保に分かれていたが、南北朝以降は合して粟津郷となった。 当社はむかし白山比咩神社と共に伊弉諾命(いざなぎのみこと)・伊弉〇命(いざなみのみこと)・菊理比咩命(くくりひめのみこと)の三柱を祭ると称せられ、また粟津白山宮と号し、養老二年(718年)僧泰澄の温泉発見の古事に因み…

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養老山 大王寺

祈りの小径からの終点が粟津白山神社と大王寺になります。 さてどちらから書こうかと迷いつつ、どちらも由来や縁起を読めば、泰澄上人の開湯から始まりますし、元は一体の寺院だったと思われます。まあ、祠が先か寺院が先かという余地はありますが、地形は山裾に張り付くように敷地が重なっていますから、共存していたと思われます。 西国三十三カ所 第一番 如意輪観世音菩薩 大王寺・白山神社の中間点 泰澄上人坐像の前にあります  祈りの小径の始点で考えれば、、やはり大王寺からになると思うのでそちらから。。大王寺はのとやの脇を通って80段の石段を登ったところにあります。 大王寺の縁起を撮影して、後で転写・参考にと思ったんですが、見事なピンボケで判読不能状態。。まずは大王寺のHPからご住職のご案内を転写でお許しを。。 養老山 大王寺 HP 当寺は約1300年前の養老二年(718年)に泰澄大師(泰澄神融禅師)によって開かれた「高野山真言宗」の寺院です。 泰澄大師は、聖域として禁則の地であった霊峰白山を白山神(白山妙理大権現)に導かれて開山された高僧です。 白山の山頂で修行中の泰澄大師の元に再び白山神が十一面観世音菩薩のお姿で現れ、「この白山のふもとから山川を越えて五、六里行ったところに粟津という村があり、そこには薬師如来の慈悲による霊験あらたかな温泉がある。しかしながら、まだ、だれ一人として地中深くに隠れたその霊泉のことを知らぬ。お前は、ご苦労ではあるが山を下りて粟…

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旧養老公園 祈りの小径

おっしょべ公園から山の方に登ると長い散策路になります。別名・祈りの小径。 前ブログでも書きましたが、本来はのとやの側道から登った所にある粟津の守護寺・大王寺からが順路になりますが、今回はおっしょべ公園から逆に進むことにしました。ただ、ちょっと後悔したのは、最初の三叉路までの登り坂が結構きついんですよね。日ごろの運動不足がこんなところに出てしまいます。 祈りの小径には西国三十三観音が道伝いに配されています。落ち葉の中の石仏は少し寒そうですが、なかなか良い雰囲気で静かな山道を石仏を眺めながら進むことができます。案内板には総延長630メートルになっていますが、側道とかもありますから実質的には倍以上はあると思います。起伏があるので運動靴が良いですねえ。   画像はおちょぼ滝 手前が29番・馬頭観世音菩薩坐像 奥は不動明王像 おっしょべ公園から最初の登りでクランクの曲がり角の広場にあるのが、おちょぼ滝 。残念ながら、水は流れていませんでしたが、流れた後がありますから雪解けの春先頃には滝の流れも観られるかも。。 広場には日露戦役の慰霊碑が。。山陰に建っています。日露戦役では金沢の第九師団は乃木希典の第三軍の主力で旅順攻略、奉天会戦で多くの犠牲者が出ています。石川・福井には日露戦役の慰霊碑が多く各地にあります。 急勾配の登りに、やっぱり順路通りにするべきだったと後悔しながらも三叉路に、右に登る道が泰澄上人像や岳山への登山道のあるところ、ますます厳しい登り坂になります。ヒイコラ言い…

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能登国総社

以前も書いていますが北陸道の国名は越の国と云い、分割された国名は若狭(嶺南)、越前(福井嶺北)、加賀、能登、越中、越後、佐渡となります。若狭は北陸道ですが、京都の外海として畿内に含まれることが多く、佐渡は離島ですから、越前・越中・越後を北陸道とすることが多くなります。三国に分立したのは天武末期から持統天皇の時代と云われています。 元は越前・越中・越後の三国でしたが、国域や国境も何度か変遷しています。越前の最大域は嶺北に能登・加賀を含めた領域、越中は新潟の上中越を含んだ領域という時代もありました。 養老2年(718年)、越前国から四郡(羽咋(はくい)郡・能登郡(鹿島(かしま)郡)・鳳至(ふげし)郡・珠洲(すず)郡)を分離して能登国が誕生しています。天平13年(741年)一旦、越中国に併合していますが、天平宝宇元年(757年)に改めて独立して能登国が再誕生しています。能登が越中時代、国司で赴任したのが28歳の大伴家持(746~749年)で、家持はこの赴任期間に223首の和歌を作っています。 能登巡行の際にも幾つか読んでいます。 (万葉集から) ※之乎路(しおじ、志雄路)から 直越えくれば 羽咋(はくい)の海 朝凪したり 舟梶もがも ※妹に逢はず 久しくなりぬ 饒石川(にぎしかわ、仁岸川) 清き瀬ごとに 水占はへてな ※珠洲(すず)の海に 朝開きして 漕ぎ来れば 長浜の浦に 月照りにけり ※香島)(かしま、鹿島)より 熊木をさして 漕ぐ舟の 梶取る間なく 都し思ほゆ ※とぶさ(鳥…

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月照寺 玉泉寺

以前ご紹介した加賀八家・前田対馬守家の菩提寺・玉龍寺。金沢に多くの寺院が林立する寺町に隣接する野町にあり、周囲に多くの寺院が林立します。加賀藩三代・前田利常を養育した前田長種を祖にしています。 尾張時代を遡ればこの前田対馬守家は、加賀前田家の本家筋に当たります。本家から二・三代前に分家した荒子前田家の前田利家が織田信長の北陸方面軍の与力として出征し、能登に地盤を固め賤ケ岳後の金沢入城によって能登・加賀半国を領有して地歩を固め始めた時まで、前田本家(当時は前田与十郎家)の前田長定・長種親子は尾張に残って、下之一色城を本城として本貫の地・海東郡(現名古屋市中川区・津島市・あま市・蟹江町周辺)に寄っていました。。最盛期には四城(前田・荒子・蟹江・下之一色)を持っていましたが、前田城・荒子城は廃城となっており、蟹江城は長島攻めの基地として滝川一益の支配下となり城代待遇、後に織田信雄の持ち城となり織田信雄傘下となっていました。 天正12年(1584年)豊臣秀吉が織田信雄・徳川家康連合軍と戦った小牧・長久手の合戦の開戦前、織田信雄方だった前田長定に秀吉の内意を受けた滝川一益の誘いに乗って、蟹江城を攻め落とし秀吉の来援を待ちます。ところが脅威を感じた織田信雄・徳川家康の大軍で逆に完全包囲を受け、秀吉の来援も間に合わず落城。この落城で前田長定は捕縛、一族・妻子と共に斬首。本城・下之一色城を守っていた前田長種は降伏開城して、前田利家を頼って能登に単身落ち延びています。前田利家は本家の御曹司・長種を迎え入…

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実性院③ 大聖寺藩主墓所

実性院の左脇の裏山に続く参道を登ると、大聖寺藩主の墓所があります。この墓所も前回紹介していますので、詳しくはこちらをどうぞ ⇒ 山ノ下寺院群② 実性院 (H27.11.3)  藩主墓所に登る参道沿いには、家臣団の墓地があります。実性院の真裏に当たる山上の位置にあるのですが、時代ごとに墓石の形態は変わりますが、山上に近づくごとに墓標が大きくなっていきます。特に最後の石段前の脇道、実性院の本堂の上に当たる位置には、藩主墓と同形態の墓があります。大きさも側室・子族並みの大きさがあり身分の高さが窺えますが、碑文が摩耗していて判読できませんでした。。 大聖寺藩主墓所 梅芳院の五輪塔 空・風・火・水・地が鮮明に彫られています。梅芳院は後述していますが、7代利物(としたね)の側室、9代利之(としこれ)の生母 前ブログでも書きましたが、大聖寺藩主の墓は石垣の土台の上に五輪塔を重ねたものです。石垣の中はどうなっているかは解りませんが、江沼神社の利治を主祭神ににする神殿の様に南加賀の神社の神殿も石垣造が多く、石垣の形態が似ています。五輪塔は元々は仏教のストゥーパ・五重塔から変形したものと云われますが、この形態は日本特有のものです。大きくは名前の通り、空(輪)・風(輪)・火(輪)・水(輪)・地(輪)の五行を表していると云われます。発案者は空海とも云われていますが、古くから宗派を超えて広まっています。 藩主墓所入り口の灯篭土台 上部が無くなっています。 ちなみに加賀本藩の野田山墓所…

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以仁王と北陸宮

富山県の最東部・朝日町の朝日ICから国道8号線を新潟方向に進むと城山を貫く笹川・城山の二本のトンネルがあり、抜けると左手に翡翠がとれる別名・翡翠海岸と呼ばれる宮崎海岸の海岸線が観られ、それまでの暗く狭い道がいきなり開けたような穏やかな平地に変わります。この平地帯は東端の境川で越中・越後の国境になります。この境川の地は国境の緩衝帯であり、国境の係争地でもありました。江戸期の加賀藩の境関が出来るまでは越中側の国境警備・防御は、この城山の山頂にあった宮崎城が果たしていました。 散らした画像は、笹川郷の総氏神の笹川諏訪神社です。寿永元年(1182年)源義仲が諏訪大社の大祝(おおはふり)・金刺盛澄に銘じて勧請して建立・創立した神社です。全国にも広がる諏訪神社の中で創立者・創立年が明確なのは笹川諏訪神社が唯一だそうです。この地で源義仲が烏帽子親となって元服式が行われ、正式に北陸宮という名が誕生した地です。 この宮崎城を築いたのは地元の豪族・宮崎長康ですが、城としての防御機能を持たせるようになった最初の事由が、朝日将軍・源義仲がこの城山の裏側に御所を造営して以仁王の第一王子・北陸宮を庇護し、その防御の役割として城山の山頂に築城を命じたのが始まりと云われています。今回はこの北陸宮の出自と父親の以仁王について。。。名前は「以仁王の令旨」として平家打倒の旗印としてよく知られていますが、どんな人と云われると意外に知らない方が多いですからね。。 治承4年(1180年)5月、以仁王は打倒平氏の令旨…

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旧山岸家住宅

山の民の里とされる白山麓ですが、戦国の混乱は牛首村にも及んでおり、白山平泉寺と越前・加賀一向一揆、更に再侵攻した織田方の柴田勝家軍の間で揺れ動いています。まず時代は越前朝倉家滅亡の頃に遡ります。 ついでに散りばめた画像は林西寺の側の食堂・「みのすけ」さんで食べたお昼の食事で「温そば定食」+100円の大盛で1180円。白山麓のじわもの料理(地産地消)^O^ 祖父と同じ名前で釣られてはいっちゃいましたが、古くから観光事業に尽力している老舗食堂。味も素朴で美味しいお薦め品。文章とは合わないですがご勘弁^^ お隣の越前・勝山の地名の由来ですが・・・織田信長軍が一乗谷を滅ぼして朝倉義景を自害に追い込んで引き上げた後、越前の統治は恭順した朝倉景鏡(あさくらかげあきら、朝倉家滅亡後は土橋信鏡、)に本領安堵と共に一応任せた形をとりました。ところが、部下の相克から土一揆が発生。更にこれに一向宗が加わって一向一揆に変貌します。いつしか一揆衆の標的は景鏡に移っていきます。 元々、朝倉家と一向宗には長い抗争と和平の繰り返しが過去にはあったのですが、そうした朝倉家への恨み辛みの上に、更に織田家に朝倉家及び越前を売った景鏡を標的にするのは自明の理でした。 全盛期の朝倉家ならともかく単なる代官的力しかない景鏡に全面対決する力はなく、一族を率いて逃げ込んだのが白山平泉寺でした。当然ながら越前一向宗は景鏡の引き渡しを要求しますが平泉寺はこれを拒否。平泉寺VS越前一向衆という戦いにまで発展したので…

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前島密記念館

少しずつですが、バタバタしながらもブログを書き進めていたんですが、先日お客さんチで契約計上をPCで進めて完了した途端、液晶が不良になってピンクとグリーンの世界になってしまいました。PCがないと仕事が全く進まなくなる僕としては、慌てて買いなおす羽目に陥ってしまいました。その後は仕事関係ソフトのインストールや計算ソフトのデータ移行、そもそもウィンドウズ10は初めてで何がなにやらチンプンカンプン。。すっかり嵌まり込んでいます。それにしても、今年は異常なくらい電化製品が壊れて買い替える羽目になってます。。洗濯機・冷蔵庫・オーブントースター・テレビ・電子レンジのコードが断線・娘のアイパッドにスマフォにイヤフォン、CSのリモコンを嫁さんが洗濯機に水没、そしてついには自分のノートPC。。毎月何か壊したり故障したりで超出費。。これでおしまいと思ったら3日前には風呂の湯沸かしが不能で交換修理、久しぶりの日帰り温泉しちゃいました。。。もうお祓いしかないかも 先日、嫁さんの実家のある上越まで行ってきました。。行く日は途中で小雨が降ったりでちょっと心配でしたが、大降りの雨は初日の夜だけでのんびりできたし、久しぶりの義母や兄弟とあえて、ウキウキしてる嫁さんや娘を家において、のんびりと近場を巡ることも出来ました。 僕が初めて上越市に訪れたのは25.6歳の時ですから、もう随分時が流れたものです。 上越市は昭和46年(1971年)に直江津市と高田市が合併し…

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仏御前の里②

仏御前の生まれ故郷を強く主張する地は北陸には2か所あります。福井県大野市仏原及び栃沢(栃沢は現在は九頭竜湖の底です。)。国道158号線で和泉村に向かう途中にあります。ここには落差100mの三段滝の「仏御前の滝」があり、仏御前が髪を洗っていたという伝承があります。福井県内には、仏御前だけでなく祇王・妓女・刀自の過ごした寺と供養塔があったそうです(現・福井市三郎丸)。 そして、もう一つが石川県小松市原町になります。一般にはこちらが有力とされています。 小松市でも東端にあたり、先に進むと中の峠、三坂峠を越えると一向一揆最後の拠点・鳥越城・二曲城の鳥越を抜けて白山禅定道を経由、白峰越えで福井の勝山・大野へと抜けられます。 京からの帰り道は大野・勝山を経て、禅定道の途中・木滑(きなめり)の地で子供を生み落し、しばらく民家で静養、原村に戻ったとされています。しかし残念ながら生まれた子は男子でしたがわずか2週間程で夭逝しています。日数的には原村に到着後に亡くなったとも、木滑の民家でとも云われはっきりしません。ところで、仏御前出産の伝承地はもう一か所あって、尾小屋経由で西尾の手前にもあります。こちらは大倉岳スキー場に向かう道ですが、平安期は人一人がやっとの峻険な山岳路で、臨月の仏御前が歩くのは無理だと思われます(尾小屋二ツ屋地蔵尊)。 2012.09.01撮影 尾小屋トンネル南口 尾小屋二ツ屋地蔵尊 木滑での仏御前の出産地と伝わる木滑神社には、祠に安産石が祀られています。旅路の途…

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仏御前の里①

平家物語は、作者は信濃前司行長(信濃入道、下野前司・藤原行長)が生仏(しょうぶつ)という東国武士出身の盲目の僧に教授して語らせたのが始まりというのが有力視されています。琵琶法師が各地を巡って口承で伝承してきた語り本、語り本を読み物として加筆・付加した読み本があるそうですが、十二巻(覚一が付加した灌頂巻を含めると十三巻)で約200曲があります。 琵琶法師という語り部が伝えた曲をベースにしているために、読み本も口語に近い原文で読みやすく、歴史的には平家を極端に蔑むことを差し引けば、古文の入門書としての価値もあると思います。是非、一度は読んで欲しい古典です。 平家物語の巻第一の五・六曲目にある「祇王」は、軍記物の原本に平清盛の悪行を示すものとして後付けされたものとか言われますが、なかなかの文脈で興味深いものがあります。 奥嵯峨の祇王寺には竹林や吉野窓に惹かれて多くの方が訪れているようです。ところが寺院の名称にもなっている主人公の祇王、更にはもう一人の主人公・仏御前、祇王の妹・妓女、祇王・妓女姉妹の母・刀自の平家物語の全文を読んだ人は少ないと思います。 原文や現代文の書籍を転写すると問題がありそうなんで、ちょっと自己流で原文を現代文にして「祇王」の段を紹介することに。。。                               祇     王 入道相国(平清盛)が天下を掌握すると、世上のやっかみや誹りの声も無視して、余人の理解できない行動ばかりに走りました。例えば・・・…

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井波彫刻の里

庄川水記念公園を後にして、家路につこうと思ったんですが、せっかく庄川まで来たんだからということで、お隣の井波町にも立ち寄ることにしました。 庄川町が轆轤(ろくろ)の里なら、井波は彫刻の里になります。井波の欄間といえば超一級品ですが、その他にも獅子頭、全国の寺社仏閣の彫刻など広く出回っていて、各名所のどこかに井波彫刻が施されています。 獅子頭は特に加賀・越中では各部落・村に一体あるのが当たり前ですが、僕の故郷の獅子頭も井波の職人が作製した物でした。また越中では天神信仰が盛んで、端午の節句には天神様の掛け軸を飾る家が多いのですが、井波木彫の天神像も良く見かけます。 井波彫刻が発展したのは井波瑞泉寺に由来すると云われています。瑞泉寺の山門と本堂は北陸では最大規模と云われています。梵鐘は昭和の作ですが、これまた北陸最大級です。宝物殿の展示も素晴らしいし、聖徳太子絵図の絵解きをする太子伝会(7月末の10日間)、10月10日の連休の町アートの庭園解放は狙い目ですが、機会があったら必見のお寺です。 瑞泉寺は明徳元年(1390年)、浄土真宗五代法主・綽如(しょうにょ)上人によって開基建立されたそうです。中国からの難解な国書を読解した褒賞に、後小松天皇に勅許所として瑞泉寺の建立許可が下り、歓進状を書く料紙が下されています。綽如はこの料紙に歓進状をしたため有縁に送っています。この歓進状は瑞泉寺にあり明治に国宝指定(現在は国重文)を受けています。 北陸の浄土真宗は戦国期の加賀一向宗の印象が強く、八代・…

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中村神社拝殿 (旧金沢城二の丸舞楽殿・旧卯辰山招魂社拝殿)

今年の春に金沢城の玉泉院丸が復元公開されました。次の復元は玉泉院丸と金谷御殿の間の堀を繋いだ鼠橋や鼠多門ということで計画が進んでいるそうです。そうなると、金沢城と尾山神社が繋がることになります。 近年、金沢城の復元計画が進められています。それに合わせて調査や発掘も進められており、今月には本丸南側に庭園があったことが確認されたところです。しかも寛永年間の火災の瓦礫が積み上げられていて、年代も特定されたそうです。 金沢市や石川県では百年後の国宝を目指しているそうですが、金沢城内の建物が無くなったのは明治14年(1881年)の陸軍歩兵第七連隊が基地を置いた際、それも火の不始末による焼失でかえすがえすも残念な出来事になっています。金沢城内の石垣を残して、江戸期の建物は石川門・三十間長屋・鶴丸倉庫くらいしか残っていません。 石垣に関しては石垣の博物館と云えるほど、多種多様な石組みや技法がありますが、やはり建物がないというのは寂しいものです。 明治期に金沢城が焼失したわけですが、それ以前に移築によって焼失を免れた遺構が幾つかあります。尾山神社の裏口にある東神門は二の丸御殿唐門 として使用されていたものです。また以前紹介しましたが尾崎神社は本殿、中門、透塀、拝殿・幣殿は元々は北の丸に東照権現としてあった物です。金沢城内にあった建物としては尾崎神社は現存する最古の遺構になります。 他には玉泉院丸太鼓塀も城外に移されたそうですが、こちらはどこにあるのか復現地に戻したのかは不勉強で僕にはわかりません…

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佐奇神社(さきじんじゃ)

富山との県境の稜線にある奈良岳(二又川)や大門山(倉谷川)の稜線を源流にして、金沢市街を流れる犀川は、途中幾つかの支流や用水路を配したり、幾つかの支流を合流して、普正寺町と金石の河口から日本海に注いでいます。金沢市民の貴重な水として利用され、文学にも多く取上げられて石川県内では一番有名な川ともいえます。 犀川は辰巳用水が代表するように、金沢市内を巡るように水が供給され、兼六園の湖や噴水もこの水が美しい景観を演出しています。また本流も浅野川が泉鏡花が浅野川を女川と評し、それに対比するように男川と呼ばれています。更には室生犀星や国府犀東といった中心街に育った文学者たちにも大きな影響を与えています。 今はあまり観られなくなりましたが友禅流しの風情や、河岸広場の桜など金沢市民の憩いや伝統にも大きく貢献しています。金沢市民の多くが犀川と浅野川に慣れ親しんでいるように観光客の人達も犀川の流れに眼を休めさせています。 河口には金沢の外港となり銭屋五兵衛を代表とする宮腰湊(現・金石港)が、北前船の本拠として機能していました。同じく大野川を河口(大野湊・金沢港)として河北潟を経由して金沢にたどり着く浅野川・森下川(もりもとがわ)と共に、金沢と日本海を繋ぐ重要な海運としての重要行路にもなっていました。 犀川という川名を持つ川は全国にも点在しています。有名なものでは長野県にある犀川。頼山陽の漢詩で読まれた「鞭声粛々夜河を渡る(べんせいしゅくしゅくよるかわをわたる)。。。」川中島合戦の様子に語られる犀…

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赤瀬那殿観音

赤瀬から牛ヶ首峠のダム湖に沿った道を採らずに、赤瀬の里で鳥居を潜って山中に向かいます。 鳥居の前に大きな案内板がありますが、この道は那殿観音への参道になっています。 以前にもご紹介していますが、加賀には那谷寺という寺院があります。白山開創の泰澄上人が千手観音像を納めて「巌屋寺」としたのが始まりとされています。その後、花山法皇によって西国三十三観音の全てがここにあるとして、一番の那智寺、三十三番の谷汲寺の一字ずつを採って「那谷寺(なたでら)」と改名しています。 奇岩が織りなす遊仙峡に堂宇が配された寺院建築は、菟橋神社で紹介した寺院建築の名工の山上善右衛門。 寺院や神社の紹介が多い僕ですが、加賀で是非観て欲しい寺院はと聞かれれば、金沢ではなく最高の景観と建築を有する小松の那谷寺だと思っています。 この那谷寺の奥の院と伝承されているのが、今回の「那殿観音」になります。正式名は「赤瀬那殿観世音菩薩」 一説には那谷寺の発祥地ともされています。 白山開創の泰澄上人が白山から下山後、持仏であった黄金仏の観世音菩薩像をこの巌谷に納めたのが始まりとされています。 昭和40年代に赤倉林道が出来るまでは、那谷寺からは真直ぐには徒歩でしか来れず、赤瀬からの参道が一般人の唯一の参道でした。現在も狭い林道で冬季はほとんど通行止めです。おかげでとはいってはなんですが、僕も数年に一度くらいしかこの辺りには来ていませんでした。 赤瀬の村落から林道というか参道を進むと、西国三十三か寺を模した石仏が道…

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奥卯辰山県民公園 ~ 金沢仏舎利塔

5月下旬、毎年この時季に鈴見台のお客さんの所に来るんですが、今年もやってまいりました。 相変わらずの商品改定と体調不良を言い訳にして、予定を大幅に遅れてしまっていました。あまりに長引いて、言い訳の根拠が薄らいでるような、一種の嫌々病かもしれません、とにかくどこかで発散するしかないですね。 で、またまた恒例のように奥卯辰山に立ち寄ってきました。例年通りですと、時季が早すぎてバラや菖蒲が咲き始めでマバラなのですが、今回は訪問が遅れたのと、花の開花が早くてちょうど良かったかもしれません。 僕の訪れた2週後ですがgoさんが訪れていたようです。詳しい説明なんかや画像は、理屈っぽく、携帯画像の多い僕より綺麗なんで合わせて観て下さい^^; goさん「奥卯辰山県民公園へ」 奥卯辰山県民公園には薔薇のベルギー庭園がありまして、大振りな花を咲かせています。時季がうまく合ったのか、今年は咲き揃った薔薇が観られました。毎回、咲初めだったり、完全に盛りを過ぎていたりで、まともに咲き揃っているのは始めて観ました。天気も良くてバッチリでした。 ベルギー庭園はベルギー政府から贈呈されたものです。金沢とベルギーのなれ初めは昭和45年(1970年)大阪万博になります。お祭り広場で各国の伝統祭事やパフォーマンスが行われていたんですが、その際に金沢の百万石祭り行列とベルギーブリュッセルのオメガングが同日のイベントで一緒になって、意気投合したのが始まりです。      オメガング・・・14世紀ブリ…

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瓶割坂③ 雨宝院

前回の神明宮の境内を遊び場にしていた室生犀星が幼少・少年期を過ごしたのが「雨宝院」です。正式名は「千日山 雨宝院」。真言宗の寺院です。 創建は天平7年(737年)。北陸の寺社仏閣・神社には必ずといって良いくらい顔や名前が出てくる泰澄上人。この雨宝院も縁起によれば、泰澄が大日如来を本尊として秘法道場として精舎を建てたのが始まりとされています。 中世になって神仏習合が主流になると、大日如来=天照大神となって天照の十六歳像が本尊に加えられています。現在もこの像は本堂内に安置されており、院内を見学すると観られます。 同じ天照大神を信奉する神明宮とは親交が深かったと云われ、室生犀星が境内を遊び場に出来たのも寺院と神社の親交が深かったためではないかと云われています。 長い年月に荒廃衰退していたようですが、安土桃山期の文禄2年(1593年)、大和出身の修験僧・雄勢が伊勢神宮での千日参籠・修業を修めてこの地に来訪、再興を果たして現在に至っているそうです。 雄勢は参籠末期に天啓を受けてこの地にやって来たそうですが、その際に金毘羅十一面観音、三種の神器、白狐二匹を供奉して来たと云われ、現在にも伝えられ本堂内に安置されています。 現在でも千日回峰や千日参籠の達成はニュースになるほどの快挙ですが、当時は尚更に成就者には尊敬と崇敬が集められていました。雄勢も地元から「千日和尚」と呼ばれ尊敬と崇敬を集めたようです。雨宝院の山号もこの千日和尚から来ているそうですが、雨宝院のある千日町もこの名から来て…

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瓶割坂(かめわりざか)① 大蓮寺(だいれんじ)

国道157号線を野町広小路から犀川大橋に向かうなだらかな坂道があります。この坂は別名「瓶割り坂」と云います。古くから北国街道の主要道で、尾山(金沢市街)に入る入口になっていたようです。 瓶割坂の名の由来ですが、奥州逃避行中の源義経一向がこの坂に差し掛かった際、同行していた義経の妻が産気づき、慌てた一行が瓶に入れていた衣服を取り出そうとして、大事な瓶を割ってしまった所から来ていると云われています。 余談ですが30年近く前、転勤で新潟に移った際、国道8号線沿いの米山IC近くの峠越えの道路沿い(たしか米山トンネルを抜けてすぐだったかな)にある胞姫(よなひめ)神社に立ち寄ったんですが、地元では安産の神様として信心されているんですが、ここにも同じ逸話が伝わっていて驚いた記憶があります。ちなみに柏崎の上輪の峠の坂道は漢字違いの亀割坂と云うんだそうです。 この瓶割坂は幹線道路の一部で観光客も犀川沿いに行きますし、寺町や片町に向かうために通り過ぎる人が多いんですが、江戸期から重要視された寺社があります。入口が狭くて通り過ぎることが多いんですが、一度くらいは中に入ってほしい寺と神社があります。それが「大蓮寺」「神明宮」「雨宝院」 と。云うわけで今回は3部作になります。たぶん。。。。 まずは「大蓮寺」 「宝池山 大蓮寺」は浄土宗の寺院で、開山は天正11年(1583年)に前田利家の金沢入城に伴って、荒子七人衆の一人・小塚淡路守秀正が七尾の西光寺の広誉怒白上人を勧請して創建したのが始まりです。…

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傅泉寺(でんせんじ、大野弁吉墓所) ~ 大野日吉神社(大野弁吉居宅跡)

金石・大野地区の有名人と云えば、以前何度かUPした銭屋五兵衛と大野弁吉(中村屋弁吉。 銭屋五兵衛は海の百万石・海の豪商と呼ばれ、河北潟の干拓事業による一家破綻など、波瀾万丈の生涯を送った人物です。前に幾つか書いていますんで興味のある方はこちらをどうぞ ⇒ 銭屋五兵衛記念館 銭五の館 本龍寺・銭屋五兵衛の墓所 大野弁吉も一度書いています ⇒ 金沢大野からくり記念館 概ねの経歴などは「金沢大野からくり記念館」で書いてありますので、お読みいただければ幸いです。 からくり儀右衛門こと東芝の創始者の田中久重と並び称されますが、対照的な生き方をしたからくり職人として知られた人物です。羽子板職人の子として京都に生まれ、30歳で指物師・中村屋の娘・うたと結婚して婿入りしています。その後すぐに、妻の故郷である石川郡大野村(現・金沢市大野)に移っています。 清貧を旨として、製作・研究にその生涯を費やしています。 その製作は本業の指物師としての家具・根付・神棚・祠の他、獅子頭・山車は現在にも伝えられています。祭礼の県内の獅子頭が20頭、美川のおかえり祭りの山車などが知られています。この製作の合間には、エレキテル・色ガラス、火薬の製法・大砲・色ガラス製法・細工・写真機・湿版写真、更には鶴型模型飛行機の製作、医学分野では梅毒研究・医薬品開発と他分野にまで及んでいます。 発明家として藩内外に知られる存在でしたが、地位名声・金銭への執着がないというより敬遠した帰来が強く、加賀藩からの登用にも謝辞、高峰…

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芭蕉の渡し

石川の大河であり急流として知られる手取川。石川県の名の元にもなったと云われる川です。 河口を中心に加賀の扇状地を構成し、遠く海流によっては自動車が入れたり、走れる内灘海岸や千里浜海岸の砂を作るなど、石川の自然環境に大きな影響を与える大河です。過去には何度も氾濫を起こしており、それが扇状地を構成したわけです。 現在は上流の砂防ダムや氾濫防御の土手の役割を成す河岸道路によって、昭和9年の大氾濫以来大きな氾濫は起こっていません。しかし、砂防ダムにより石や砂の流出が減少したため、千里浜海岸の渚ドライブウェイの幅が年々減少するという問題が深刻になっています。 江戸時代、奥の細道の道中、芭蕉一行は金沢を早朝に発ち、野々市、松任を経由して小松へと向かっています。当然ながらこの手取川を芭蕉一行も渡っています。奥の細道には木呂場(ころば)から粟生宿(あお)に至って手取川を渡ったとなっており、曽良日記に小松到着の時刻(午後4時頃)の記載があり、粟生から手取川を渡ったのは日差しのきつい昼ごろと推定されています。 ちなみに芭蕉一行は芭蕉・曽良の二人に、多太神社で紹介した北枝、同じく小松まで同道した竹意の四人でした。竹意については詳しいことが解っていません。ただ、小松で投宿した近江屋は竹意の紹介だと云いますから小松の人だったようです。 旧北国街道は現在の県道157号線になり、現在は手取川大橋で手取川を渡って手取フィッシュランドに至るようになっています。その距離約500mですが、当時というより明治以…

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浅野川大橋詰めの火の見櫓

前回の記事内で火の見櫓に触れた際に、この浅野川大橋詰めの火の見櫓の画像が無かったので、市街に仕事があったついでに写真を撮って来たのが今回の「浅野川大橋詰めの火の見櫓」です。ただし、陽が暮れかかった時間帯で、大通ということでフラッシュは焚かなかったんで暗い画像になってしまいました。 浅野川大橋は文禄3年(1594年)、前田利家が河北・越中と金沢を結ぶ重要道路と云える北国街道を分断する浅野川に架けた橋が始まりとされています。 大正11年(1922年)にコンクリート造り、三連アーチの美しいフォルムに架け替えられたのが、現在の浅野川大橋になります。昭和63年(1988年)、車線拡幅、照明・高覧などの大改修が加えられて現在の姿になっています。この改修工事で架橋当時の姿に戻り、浅野川沿いの東山茶屋街や主計町(かずえまち)の茶屋街など金沢観光のメッカを繋ぐ橋になっています。平成12年(2000年)に犀川大橋と共に、国有形文化財に指定されています。 僕が小学生の頃、津幡から金沢に来るときは、大概は汽車を利用することが多かったんですが。。 3年生の時にダンプと格闘して負けて頭部強打で約1か月入院したことがあったんですが、退院後に病院の指示で精密検査のために週に1.2度でしたが、1.2か月ほど母親に連れられて大学病院に通わされました。 当時は家の近くに金沢直通のバス停があったのでバスで通っていました。すぐに車酔いする僕にとってはバスは苦痛の何物でもなかったんですが、おかげで夏休みを含む約3か月の休学…

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多太神社

小松市街にありながら大きな本殿と参道を合わせ持ち、社域には大きな木々と三社の摂社を抱えているのが「多太神社」です。創建は当社縁起から武烈天皇5年(503年)。祭神は衝桙等乎而留比古命(つきほことおるひこ、仁徳天皇、)。八幡三所大神(応神天皇、仁功皇后、比咩大神(宗像三女伸))他多数 元々は仁徳天皇(仁徳大皇)が主祭神だったようです。(多太の名は、出雲風土記の命名(みことな)の現れる地・多太郷から来ていると思われるため)つまり、古くから知られる延喜式内社になるわけです。式内社については、以前触れたことがあるので、こちらをどうぞ ⇒ 式内社(上柏野 楢本神社の欅) 平安初期に八幡宮を合祀して多太八幡宮と称していました。更に江戸期には能美郡の総社とされていました。この小松・能美では由緒ある神社の筆頭になります。 延喜式内社として知られる神社ですが、その名を更に高めたのが斉藤実盛の兜鎧が奉納されていることにあります。 斉藤実盛に関しては以前に2記事をUPしています。是非お読みください。              実盛塚・篠原古戦場        首洗池 斉藤実盛の篠原の戦・首洗池は「源平盛衰記」「平家物語」の悲話となっています。また、実盛塚での遊行上人との出逢いと成仏は世阿弥によって物語となり、能、謡曲「実盛」・浄瑠璃「実盛物語」となって受け継がれています。 斉藤実盛は天永2年(1111年)越前国南井郷(現・鯖江市南井町)に河合助房として生まれ、13歳で武蔵国長井庄(現・熊谷市妻…

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小松城址

小松城は江戸時代を通じて加賀の国に金沢城の支城として存続していた城です。 御存じのように江戸時代は一国一城令によって、加賀藩は金沢城を本城として、小松城も廃城になっていたのですが、加賀藩三代藩主・前田利常の隠居城として幕府から特別許可が下りて再興したものです。 小松城の最初の築城は通説では、天正4年(1576年)一向一揆衆の有力武将・若林長門守によるものとされています。ただ、明智軍記や小松軍記の記述にある朝倉義景・明智光秀の問答や記述からはそれ以前に小松の名が出ており、明智光秀が朝倉氏に係ったのは1560年代とされていますから、それ以前から小松に城もしくは砦、寺(北陸の本願寺の寺は城郭を兼ねた造りが多かったですから)があったと思われます。 ちなみに若林長門守は、越前朝倉氏が滅亡して(天正元年)織田軍の勢力圏になった後、土一揆の蜂起で一向宗の再占領になった天正2年に本願寺から越前・加賀に派遣された人物です。雑賀衆の一門と云われています。その後、織田信長の越前再侵攻(天正3年)にも前線に出ており、その後は小松城、鶴来の舟岡城の主将として転戦、最後は鳥越城に入るなど抵抗戦を主導した人物の一人です。 鳥越城攻略にに手間取った柴田勝家の謀略によって、松任城で鳥越城首脳が騙し討ちで殺害された際に命を落としています。なお、松任城で討たれた首脳や武将の内、数名の首が安土に送られ晒されていますが、若林長門守はその内の1名です。 前田利常が再興する以前の小松城に関しては、詳しい図…

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尾﨑神社

黒門前緑地と同じ並びの西側にあるのが「尾﨑神社」 塀垣や社殿が朱色に塗られていて、古風で落ち着いた神社が多い金沢の中でも異色な神社です。 寛永20年(1643年)、4代藩主・前田光高によって金沢城北の丸に建てられたものです。元々は金沢城内の北の丸は現在の尾﨑神社の裏面に当たる場所になります。 創建時は「東照三所大権現社・神護寺」と命名されていましたが、明治の神仏分離で現在の「尾﨑神社」となっています。明治8年(1875年)陸軍第七連隊が入場して金沢城が陸軍省用地になると、明治11年に現在地に移設遷座されています。 東照大権現社の名の通り、幕府からの許可を取り徳川家康(東照権現)を祀ったもので、日光東照宮から分霊を受けてを創建したものです。当時の幕府の大工頭・木原木工允を棟梁として呼び、金沢の大工・宮大工が施工。もちろん、金箔・塗装など材料は金沢産が多く使われており、象嵌や金具などの飾り細工は京都・金沢の名人・職人が集められたと云われます。加賀工芸は国内でも特筆されるものですが、この神社建築が始まりと云っても過言ではありません。ちなみに金箔は金沢が昔から突出しており、本場の日光東照宮の金箔は金沢産です。 全国各地に東照宮はありますが、東照宮建築としては本殿と拝殿を分離させるなど最初期のものとされています。また、北の丸の発掘調査から石瓦が発掘され、他に建物があったことが確認されています。 御存じのように、明治14年(1881年)陸軍金沢第七連隊の火の不始末で金沢城は三十間長屋、…

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黒門前緑地

金沢城の北西の出入口となる黒門。江戸期以前は西丁口と呼ばれていました。 金沢城の正門は尾坂口の大手門ですが、金沢御堂時代や佐久間盛政の居城時代はこの西丁口が正門となっていました。加賀藩時代には改修と共に尾坂口に正門が移っています。 この黒門の下通りにあるのが「黒門前緑地」 黒門前緑地は平成7年(1995年)までは、地方検察庁検事正官舎の敷地となっていました。 平成13年に官舎の一部と屋敷を囲んでいた漆喰土塀を保全するために公園化したものです。その際に、高峰譲吉の旧宅の一部を移築しています。 この黒門前緑地には江戸初期には、豪姫の住居があった場所になります。 豪姫は前田利家と芳春院(於松)の間の四女として誕生していますが、幼少期に子のなかった羽柴(豊臣)秀吉・寧々夫妻の養女となっています。秀吉夫妻に溺愛され15歳で宇喜多秀家に嫁ぎ二男二女をもうけています。ちなみに最後の女の子は豪姫が金沢に戻ってから生まれた子で、関ヶ原戦後に逃亡中の秀家と密会した時の子と云われています。 金沢に戻ってからは化粧料として1500石を受けており、前田家内ではそれなりの尊重と敬意を払われていたようです。また、敬虔なキリシタン信徒としても知られており、当然ながら再嫁の話は幾つか出たようですが、すべて拒否したと伝わっています。 キリシタン関係では、加賀藩には高山右近の影響でキリシタン武士が多くいました。これらの武士達からは洗礼名マリアということもあり、シンボル的存在になっていたようです。 宇喜多家…

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花山神社 菩提町

小松市に岩山を中心にした遊仙峡と呼ばれる寺院庭園を巡ることができる那谷寺(なたでら)があります。北陸の寺院でも四季の景観は随一と云われています。 寺伝に依れば、開創は白山信仰により「越の大徳」と呼ばれた泰澄上人で、岩窟に千手観音を治めたのが始まりと云われ、当初は「自生山 岩屋寺」と名付けられており白山修験者の拠りどころとなっていました。 寛和2年(986年)花山法皇が行幸した際に、法皇が「私が求めている観音霊場三十三カ所はすべてこの山にある」といって、西国三十三カ所霊場の第一番・那智山と第三十三番・谷汲山の一字ずつを取って「那谷寺」と命名し自ら中興の祖となったと云われています。 この那谷寺の東方の山を越えたところに菩提町という村落があります。ここには古くから花山法皇に関する伝承が伝わっています。なんと、法皇は晩年をここで過ごして亡くなったというものです。 まずは花山法皇について・・・ 第63代・冷泉天皇の第一皇子として生まれ、生後11か月で立太子、17歳で第65代天皇となっています。 一部乱心の質はありましたが、荘園整理令、貨幣流通の活性化など画期的な政策を行おうとしますが、わずか2年の在位で出家退位しています。これには藤原北家の藤原兼家の陰謀策略によると云われています。退位後は熊野・比叡山に修行し、摂津・中山寺(宝塚市)で伝説の宝印を探し出し、三十三霊場を巡って法力を得たと云われています。同じ摂津・東光山(三田市)に院政生活を送ったと云われています。41歳で花山院(現・京…

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浮御堂

大原から途中峠越えで懐かしの滋賀県に。。守山市の国道477号線沿いに住んでいたので、琵琶湖大橋に来るとホッとする部分があります。琵琶湖大橋交差点にスーパーいずみやとヤマダ電機のある場所に当時はびわ湖タワーの遊園地がありましたねえ。。当時、びわ湖タワーは経営不振で寂しい雰囲気でしたが、娘が小学校の低学年ということで良く遊びに行っていました。その時にはびわ湖タワー自体はバンジーになっていましたが、世界最大の観覧車「イーゴス108」があって、1.2度だけど娘と乗った時の眺めは良い思い出として残っています。(嫁さんは高所恐怖症で観覧車は断固拒否、でもバンジーとコースターは乗ってたなあ) びわ湖タワーは、石川に戻ってしばらくして閉園のニュースを聞きました。イーゴスも数年前に解体されてベトナムに送られたと聞いています。ちょっと寂しいですね。 この琵琶湖大橋の側でもう一つ観損ねていて心残りの場所がありました。 守山にいた頃に1.2度行こうとしたんですが、入り組んだ場所と時間的に混雑する道で断念してたんです。 それが近江八景のひとつ「堅田落雁」として知られる「浮御堂」でした。 近江八景は 以前のブログの中で触れたことがありますが、日本の八景の中でも最古に近い選定になるものです。また、八景の名所が完全とは言えないまでも場所や名所が残る希少なものです。 近江八景はこの堅田落雁の浮御堂の他はといえば。。。 石山秋月・・・石山寺   ・・・紫式部が源氏物語の着想を得た場所として知られていま…

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律川 ~ 後鳥羽・順徳大原陵

大原と云えば、やはり観光のメインになるのが三千院ですが、観光の場合には大原駐車場から三千院道と呼ばれる参道、呂川伝いの茶屋・お土産屋さんが並ぶ道を行くのがオーソドックスなんですが、今回は律川伝いに登ることにしました。意外に知られていませんが、三千院や勝林院・実光院・法泉院などに行くならこの道が一番の近道なんですよ。そのかわり途中には茶屋もお土産屋もなにもありません。当然、すれ違う人も少なく大原の山里的な雰囲気を感じられます。 大原(魚山)の地は、仏典に節をつけた仏教音楽の一つで声明の発祥の地と云われています。大原の声明は最澄が伝えた天台声明ですが、平安末期には来迎院・勝林院は大原流魚山声明の道場として知られていました。この声明は三種・五音・七声・十二律で構成されているそうですが、三種(呂曲・律曲・中曲)の呂曲と律曲の名からそれぞれに付けられたのが大原に流れる二つの川(呂川・律川)の名になっています。「ろれつが回らない」という言葉もここから来ています。 律川沿いの道は観光道ではないので、それほど整備されていませんが、その分静かで途中には大原・京野菜の栽培畑も見られます。また律川の流れで夏場でも癒されます。 登って行くと最初に出会う神社は「服部神社」・・・この神社がこの辺りの産土神で地元の人たちに親しまれていて、「ハットリさん」と親しまれていると案内板に書かれていました。そういえば、滋賀・京都・大阪では、お寺や神社を「・・・さん付け」で呼ぶのをよく聞きましたねえ。石川にも山代温泉の産土神…

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吉崎御坊跡

義母と義兄が2泊3日の滞在で帰る日、白山ICまで送った後、嫁さんと二人でドライブすることに 二人が行ったのが吉崎御坊跡。 長年、吉崎御坊の前は何度も通っておきながら、今まで一度も御坊跡地に立ったことがなかったんです。 あいにくの雨ふりでしたが、二人でそぞろ歩きをしてきました。 それにしても、我が家の嫁さんは雨女 家族や二人で出かけると必ず雨や雪が降ります。。ところがそこは晴れ男を自認する僕 車で走ってる間は雨雪が降っていますが、降りると雨雪がやむんですよ。うまくできてます。 ところが今回は車を停めても、降りても降りやまず。。 嫁さんが元気だったのか、僕が弱っていたのか。。 吉崎御坊は浄土真宗本願寺派の中興の祖・蓮如上人が北陸布教・教生拡大の拠点として創建したことで知られています。 元来、御坊というのは、坊さん(僧侶)や火葬従事者に対する尊称の意味と寺院に対する尊称もあります。もちろん、吉崎御坊の御坊は後者の意味になります。ただ、御坊制度は江戸期からの物で、その前はどう呼んでいたかははっきりしません。尾山御坊が金沢御堂…

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